2022年8月3日水曜日

安倍宗任と安倍晋三 2006

安倍宗任と安倍晋三

安倍宗任と安倍晋三


古沢 襄



安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。山口県と岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。

それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。

そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。

裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。

さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称するものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。

それが平家物語になるとガラリと変わる。その剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とある。平家は西国の水軍と密接な関係があった。松浦党はまさしく水軍で、後に博多湾に来襲した蒙古の軍船と壮絶な戦いを演じて、勇名を轟かせた。

また宗任の墓がある筑前国宗像郡大嶋は、水軍の根拠地となっている。この松浦党は壇ノ浦の海戦で平家方についた。だが、源氏との恩顧も忘れていない。平家物語は「源義家の請によりて、宗任を松浦に下して領地を給う」としている。

安倍貞任は猪突猛進型の武将だったが、宗任は知略に優れた名将といわれた。安倍一族を滅ぼした源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受けている。そして頼義の領地・伊予国に連れてきた。配流とは名ばかりで、間もなく松浦の領地を与えた。

さて安倍家が松浦姓を名乗らずに安倍の本姓を名乗ってきたのは何故であろうか。安倍家は山口県大津郡油谷町の名門で、晋太郎の父親は安倍寛、戦前の衆院議員である。晋太郎は自らを安倍宗任と末裔といったが、その根拠はいわなかった。

私は宗任の長男が祖となった松浦党の系譜ではなく、水軍の根拠地・大嶋に残った三男の末裔でないかと思っている。それなら安倍の本姓を名乗ってきたことの説明がつく。安倍家には、その言い伝えが残ったのであろう。


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