2021年5月16日日曜日

スミルノ博士の日記(一) エス・アー・ドウーゼ作 鳥井零水訳

スミルノ博士の日記(一) エス・アー・ドウーゼ作 鳥井零水訳

スミルノ博士の日記

瑞典 エス・アー・ドウーゼ作 鳥井零水訳

第一章 はしがき

 レオ・カリングはその夜極めて不機嫌であつた。さも疲れたといふ風に、消えかゝつた爐の灯をばんやり(※1)凝視(みつめ)て居て、私が何を話しかけても碌に返答もしなかつた。
 丁度六週間の休暇を得たから、私はエムトランドに旅行して、彼(かの)地に滞在中、この有名な私立探偵の取り扱つた面白い事件を一冊の書物に纏めたいと思つたので、何か話させようと焦心(あせ)つても、彼はいつまでも黙つて居た。
『一たいどうしたんだ』私はたうとう口を切つた。『何か不愉快なことでも出来たのかね?』
『いや決して。何故?』
『いつもの君ぢやないからさ。どこか悪いのか?』
『どこも』
『ぢや、過労だ。その様子では当分休養して一切の事件を一先づ中絶した方がいゝ。』
『さうだね』と彼は漸く口を開いた。『犯罪の解決といふ仕事は随分神経を(つか)らすものだからね、弁護士を止めて探偵になつた事を今更後悔することも折々だよ。』
『けれど、君の冒険好きな性質は、平静な職業には同然(ぜんゝゝ)(※2)向かない。』
『冒険もいゝがあまり多過ぎるとね。』と彼は嘆息した。『一週間前に、面倒な事件を済して、コーペンハーゲンから帰ると、四つも新事件が待つて居るといふ始末さ。そのうちまだ二つは解決しない。』
『どうだね、そのうち一つでもよいから話して貰へぬだらうか?』
『いや、それはいかぬ。君も知つての通り、僕はどんな親しい友にも解決するまでは事件を語らぬといふ主義だから。それに今晩はひどく疲れて居るしね、まあ、明日にでも。』
『困つたね、実は明日から一月ばかり山へ行つて、君の鮮かな探偵振りを書いて見たいと思ふんだ。』
『それは恐縮だね。』
『だから手紙でも日記でもいゝから貸して貰へぬだらうか。』
『日記といへば――』とカリングは急に椅子に起き上つて、『うむ、面白いのがある。』
 彼は立ち上つて傍(そば)の書類箪笥を開け、暫くその中を掻き廻して居たが、軈て、黒い蝋布製の表紙をした一冊の書物を取り出して、
『この中には、ある犯罪の色々な段階が委しく書かれてある。僕はこの事件の始めから終(しまひ)まで警察と一しよに働いたが、この事件の特色は犯人がたえず警察の目の前に居たのに、それがわからなかつた所にある。僕は捜索の結果、犯人が誰だか、すぐ解つたが、証拠を充分集めるために、それを発表しなかつたのだ。そこで僕は従来まだ用ひたことのない方法を応用したのだ。が、まあ委細は日記を見て貰ふことにしよう。この日記はワルテル・スミルノ博士が書いたもので、博士はもう故人となつたから、発表しても差支なからうと思ふ。』
『スミルノ博士といへば、あの有名な細菌学者かね』
『さうだ。同時に瑞典(スエーデン)第一の法医学者さ。非常に鋭い頭脳の所有者で、先づ天才だね。然し博士は自身の選んだ学問に徹底することの出来なかつた人だ。無論名声は高かつたけれど。この事件で博士は検事のザンデルゾンから、偶然屍体検査を依頼され、事件の抑もの始(はじめ)から解決さるゝまでの博士の印象と観察とがこの中に洩(もれ)なく書かれてある。僕と博士とはこの事件では深い関係があり、一時博士に助力を仰いだこともある。博士が僕の人物に就て書いて居る所は君には面白いと思ふ。始め博士は随分思ひ切つた批評を下して居る。君は僕をよく知つて居るので恐らくその部分を読んで微笑するだらう。ところが最後に僕が愈(いよゝゝ)事件を解決した時、博士も僕が大法螺吹きでないことを知つて、筆の調子が急に変つて来て居る。
 其処で、君がこの日記を読んで、全部を公にすることは無論僕に異存はないが、無理に小説的色彩を附けることは不賛成だよ、たゞありの儘を忠実に、適当な言葉で書いてほしいと思ふ。
 読めばわかるが、この殺人事件は去年の始めに起つたので、スミルノ博士はその前一年ばかり止めて居た日記をまた附け始めたのだ。ずつと以前の部分に二三ヶ所糊で貼り合せてある所があるのは、博士が婚約をしたとき、過去を抹殺するためで、僕は注意して離して見たがよく読めない。それから僕が所々棒を引いて置いた名前はこの事件に関係の深い人々だから書き落さぬやうにしてくれたまへ。』
 私は友の好意を深謝し、旅先に落ちつくや否や、この日記を読み始めた。
 二三ヶ所短縮したり、又便宜上章に分けたりした外は日記を其儘書き写して、茲に公にする。
 日記の終りにレオ・カリングの附記がある。これは事件の真相を一層明瞭にするから、やはり書き添へて置くことにした。

◆場所 瑞典ストツクホルム市
◆人物
ワルテル・スミルノ 法医学者
ヘレナ・ズンドハーゲン 博士と婚約したる女
ザンデルゾン 検事
レオ・カリング 私立探偵
アスタ・ヅール 女優被害者
フアビアン・ボルス (※3)博士の知人
スチナ・ボルス ボルスの妻
グリムマー 刑事
ローランド 刑事

第二章 糊で貼り合はされた部分

 一九一二年一月二十六日
………………………………………
 フアビアン・ボルスは悪漢である。
 長(なが)の年月(としつき)彼は自分を親友と呼び、自分も今が今までそれを信じて疑はなかつた。
 ところが今や彼の化(ばけ)の皮は剥れた。彼の口にした友情は、妄語と虚偽に外ならなかつた。
 ……………………………………………………………………………………
 彼は自分とアスタ・ヅールとの仲に突然横槍を入れたのだ。現場(げんじやう)を見つけられたとき、顔を紅くさへしないのみか、自分に悪口(あくこう)をもついた。恥知らずの畜生めがと罵つてやつても、たゞ笑つて居るのみであつた。
 ……………………………………………………………………………………
 おのれボルスめ忘れるな…………………………………………………………

 一九一四年 七月■日
 賢くなることは自分にとつて至難である。が、今は一人前の男になり世間からは相当に尊敬され、医者仲間でも、まあ錚々たる一人に数へられて居る。
 然し自分は婦人に対してはどうも臆病で、婦人の前では、小学児童のやうにはにかまずには居られない。
 今日自分はスチナ・フエルゼンと相携へて野外に出た。鳥は樹々に囀り、日は空に美はしく輝いて居た。
 今日はあの事(※4)を是非打明けようと思つて居たのであるが、どうしても出来なかつた。熱烈な恋を告白し、『自分の妻になつてくれないか』といふ言葉が口の先で躍つて居たのに、それが悶へて口の先から出なかつた。
 話はそれからそれと尽きなかつた。冗談もいひ笑ひもした。けれど巫山戯てくればくる程益(ますゝゝ)心を打ち明け兼ねた。
 恐らくあまり日が輝いて居た為であらう――
 いつも感ずることだが、日が輝いて居ると、ことに女と連立つて居るとき、自分は随分臆病になる。日光は自分の感情に抑制的に作用して自分を小胆にして了ふ。
 之に反して夕暮(ゆふぐれ)か月夜か(また)(※5)は電燈の下では婦人に向つても偽らざる自己を示すことが出来、たとひ相手が若くて熱情があつても、少しも心を乱すことなく、思ひ切つたことが言へる。
 生憎スチナは昼中(はくちう)(※6)の散歩が好きなので夕方まで待つことが出来ない。
 彼女の家(うち)の入口で正に別れんとしたとき、自分は思ひ切つて『試験』をやつて見た。
『スチナ、お前は可愛い。』かういつたとき自分は顔の熱(ほて)るを覚えた。
 彼女の答へは冷かであつた。
『何を仰しやる。そして「お前」などといふ言葉はもう止して下さい。』
『え?』自分は驚いて尋ねた。『だつて今迄さう言つて来たでないか。』
『えゝ、けれどそれももうお終ひです、来週私は…………結婚しますから…………』
『結婚?』と自分は叫んだ。
『さうです。もう私も結婚していゝ年でせう。ね、先生』
『そ、さうだ』自分は面喰(めんくら)つた。『が、唐突(だしぬけ)にそんなこと、夢にも僕は…………』
『事実はさうなんです』と彼女は快活に言つた。『お互に親しく暮しましたから、何もかも申上げませう、先生は――』
『それはあんまり非道い。』
 彼女は仕方がないといふ様子をして肩を聳(そびやか)した。
『では誰と結婚するのだ。』と自分は詰(なじ)つた。
『工学士のボルスさん。』
『フアビアン・ボルス』自分は叫んだ『それは嘘だ!』
『どうしてゞす』と彼女は乙女らしい口調で問ひ返した。『お互に気の合つた仲です。明後日には世間に発表する手筈です。』
『そりやいかん』と自分はきつぱり言つた。『この縁談は取り消しなさい。悪い事は言はん。』
『何と仰しやる――あなたはどうかなすつた。』
『どうもせぬ。ボルスのやうな男はお止しなさいと忠告してあげるのだ。一生の不幸だ。いかん、いかん。』
『先生』と彼女は改まつた調子で言つた。『あなたには私の自由意思を左右なさる権利はない筈です。フアビアンは立派な紳士で、私を心から愛してくれます。』
『フアビアン・ボルスは悪漢だ』と自分も声を大きくした『是非僕のいふことを御聞きなさい。僕……』
 そのとき既にスチナは自分に背を向けて居た。次の瞬間扉(ドア)は音を立てゝ閉つた。
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 自分は絶望の極(きよく)本心を失つて、何事でもし兼ねまじき気持になつた。かゝる時人は平気で自殺するのであらう。  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………
 フアビアン・ボルスはこれで二度自分の邪魔をしたのだ。本当に覚えて居るがいゝ。  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………

 一九一四年十二月五日
 今スチナの結婚式から帰つた所だ。
 フアビアンに対する憎悪の念をどうして抑制し得たか、又式の間、内心は騒擾して居たに拘らず、どうして表向き平静を装ふことが出来たか、今でもわからない。
 花婿は例の如き傲慢な口調で喋々(てふゝゝ)語つた。花嫁はいつになく静かに、元気が無ささうで、一度も頬笑まなかつた。顔色も余程蒼ざめ、彼女がかゝる様子をしたことは嘗て無かつた。
 恐らくは、後悔し始めたのだらうか。
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 自分に結婚式参列を勧めたのはスチナである。厭ではあつたが、スチナの言ふ通り、『旧き友誼のため』に承諾し、剰(あまつさ)へフアビアンに対する今迄の敵意を水に流し、彼等と交際することを約した。
 彼女は自分が今もなほ彼女を愛して居ることは少しも知らない。これは自分以外には誰も知る者はなく、自分の永久の秘密である。
 自分が孤独で、誰も自分の内心を忖度するもののないのは幸福である、自分が如何なる過去の追憶に耽り、如何なる思案を抱き、如何なる未来の夢を夢み、如何なる問題を醸しつゝあるかは自分以外に知るものは無い。
 自分は『自己』と共に生き、学問研究に従事し、自分の神経の強さ、筋肉の固さ、自分の思考力の鋭さを試すことを以て満足する。
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 婚礼の際自分の介添の女となつたのは美はしい乙女であつた。――今迄知つた女とはまるで違つた型(タイプ)の女――名をヘレナ(・)(※7)ズンドハーゲンといひ、大変な金持ださうだ。
 食後ボルス夫人――もはやかう言はねばならぬ――が自分に囁いた。『スミルノ先生、ヘレナはあなたに向きますよ。近づきにおなりなさい――』
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 一九一五年一月十八日
 万事休した。
 呪ふべき戦争は自分をどん底に突き落した。夏に投機をやつて、自分の財産の二倍の株式を買つて借金までした。
 その株式を今半値に売らねばならなくなつた。――懐中無一文。
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 一九一五年二月二十日
 ヘレナ・ズンドハーゲンと自分は婚約した。
 彼女の金を目当にのみ婚約したのではない。彼女は慥に自分に適して居り、又この野猫を馴らすのは愉快でもあるからである。
 ヘレナは普通の娘とは変つて居る。この点が自分の心を惹いた。彼女は思想ではち切れ(※8)さうになつて居る。あの若さで、あのやうな定見と、それに就ての確乎たる論拠を持つて居る女はまだ見たことがない。
 自分は如何にも真面目に取り繕つて、遂に彼女の心を奪つた。
 で、過去は一切忘れねばならぬ。その為自分はこの日記の頁を糊で貼り合せよう。
 若し後にこの頁を開いて読む人があらば、その人は何と自分を批評するか――自己のものとなり得ない女を愛し、その女のためには命を捨てることをも辞しないで、而も他の女と婚約した――自分を。
 が、この理由は自分にもよくわからない。――
 たゞ一つ自分にわかつて居る理由は、自分が貧乏には堪へ得ないことである。金が欲しい。沢山の金が。――これが万事を決行せしめたのだ。
 が、自分はヘレナを幸福にし得ると思つて居る。――けれど。

第三章 警官第三一七号

 一九一六年二月十三日(日曜日の朝)
 昨夜は一睡もしなかつた。迚も眠れさうにない。
 綿のやうに疲れて了つた。身体ばかりではなく、頭脳も同様、自分が偶然に出逢つたこの驚くべき謎に就ての考(かんがへ)で過労した。而もこの過労した頭の中へ昨夜経験した事件が、繰返しゝゝゝ(※9)突きかけて来る。
 この白熱した思考を冷し、自分がかゝり合せた悲劇の光景の惨憺たる記憶を柔(やはら)ぐる為に久しく怠つて居た日記を取出して事の顛末を記して見ようと思ふ。
 殆んど一年間、自分はこの日記を匿(しま)つて置いた。婚約の日に書いたきり、誰にも見せなかつた。
 貼り合はされた部分は今無声の言葉を以て自分に過去を語つて居る。開いて読むことが出来ぬから内容を悉く暗誦することは出来ぬが、記憶は顕然(まざまざ)と脳裡に甦る。
 彼――自分の生涯に二度妨害を加えた彼に就ての記録はよく覚えて居る。ある一人の女性のことも書いた。――いや二三人の女に就ても――
 これから書かうとすることが不思議にもそれ等の女に関係があるのだ――強ひて忘れて了はうとつとめたそれ等の女に。かくて古い傷からまた残酷にも紅い血が明るみへ迸り出たのだ。若き日の愚かさや、色々の作り苦労や、誠の悩みが。――
 再び古い日記に向ふことは、自分の神経を興奮せしめる。この日記は自分にとりて、何事も隠さずに心の底を打明け得る親友のやうに思はれる。
 然し乍ら、今自分が書かうとする――昨夜から今朝にかけての事件は、非常に多角的で何から書き始めてよいかに迷はざるを得ない。子供らしい、巫山戯たつぷりな場面から、立所(たちどころ)に自分は血腥き悲劇の場面に突き込まれたのである。
 翻へつて自分は昨夜の事件が悉く夢であつてほしいとも思つて見る。かやうな出来事はこの静粛なストツクホルムには滅多にあることではなく、実際この都にかゝる犯罪は珍らしい。天才的な名探偵の全力を要するといふやうな六ヶ敷い犯罪はまだ今迄あまり聞いたことがないのである。
 兎に角、抑もの始めから書きかけて見よう。  第三一七号の警官と自分との喧嘩はもとゝゝ(※10)冗談である。少し悪戯が過ぎるかも知れぬが少くとも深い悪気があつてしたのではない。
 ほろ酔機嫌で少し邪魔をした位のことで、どの警官も三一七号のやうに振舞ふかどうかは自分は知らない。まだかうした経験が無いから。が、少くともこの警官は、仮面舞踏会から帰りがけの男の上機嫌に対して、あまりに思ひ遣りが少いといはねばならぬ。
 何が彼の気に障つたのか、よくわからない。彼がクングス街(まち)とドロツトニング街(まち)の角に、ヒンデンブルグ将軍の立像のやうに直立して居たとき、自分が彼の傍に行く前に、黒絹のマスクを懸けたのが悪かつたかもしれぬ。或は、消えた葉巻(シガー)に点火するため、いきなりマツチを要求したのが原因かもしれぬ。
 何れにしても自分の振舞が少しく気障であつたに違ひない。自分は、警官がそんな事位に侮辱を感ずるものとは夢にも思はなかつた。恐らく、殊に夜分にはいつもかうなんであらう、それとも二月の寒い夜風が、少しく彼を苛立たせて居たのかもしれない。
 功一級の鉄十字章を持つて居る人のやうな手附きで、彼は壊れかゝつた汚ないマツチ箱を貸してくれた。警官はたしかにマツチが一ぱい入つて居たと主張したけれども、ホンの二三本しか入つて居なかつたことは事実である。が、彼は自分が泥酔して居たから、わかる筈がないと言つた。
 今から言へば警官がマツチを貸してくれなかつた方がよかつたかもしれぬ。たうとう昨夜は葉巻(シガー)に火をつけず了ひだつたから。それは兎に角警官の差出した箱を受け損なつたと見えマツチが二三本手から辷り落ち、風に吹かれて飛散した。
 自分は直ちに詫びた。他人に済まぬことをしたとき自分は必ず詫びる。が、警官には何の効能(きゝめ)もなかつた。彼は呶鳴つた。風を呶鳴るのが当然なのに、自分を呶鳴つた。
 そこで自分は宥める積りで葉巻(シガー)を一本進呈しようとした。ところが自分が差出すなり、彼の鉄拳に出逢つて、ケースは地上のマツチ箱と同居して了つた。
 自分は不都合だと思つた。ケースが落ちる瞬間、ケースの空であることに気は附いたが、兎に角ケースは自分のものである。自分はいつもこんな軽率なことはしないのだが、この時は中をも見ずに差出して了つた。
『ケースを拾つて下さい。』と出来るだけ叮嚀に言つた。
 彼は聞えぬ振をして、『早く家へ帰つて寝たまへ、君は酔つて居る。』と言つた。
『ケースを拾つて下さい。』出来る限り、従順(おとな)しく、も一度言つた。
『いけない』彼は怒つて答へた(。)(※11)『自分で拾ひたまへ、警官にからかふといふ法はない。』
 自分は決して殴る積りではなく、単に警官の帽子を落して、ケースの仲間入りをさしてやらうとしたのだが、どうしたはずみ(※12)か、自分の手は力一杯、警官をひつ叩(ぱた)いた。そのため彼はどたりと打(うち)たふれた。
 はつと思ふ間に警笛が鳴り、二人の警官が、突如自分の前に現はれた。次で自動車も駆けつけ、否応なしに自分は警察に連れられて来た。
 三一七号は直ちに署長に向つて驚くべき報告をした。顔を紅くし乍ら、小説家も羨ましがるやうな想像を混へて、その夜の奇禍を逐一述べ立てた。
 マツチ箱と、空のケースは交番に近づいて人殺しをする為の詭計で、マスクを持つて居るのは始めから、奸(たく)まれた仕事の証拠であると断言した。
 警官が詩的口調で段々報告して行くにつれ、自分はマスクを懸けた暗殺者で、其の行為が、偶然にも通り合せた二人の警官によつて阻止せられたといふことになつた。然し報告があまり巧みで、自分は反駁することが出来なくなつて了つた。この調子で十人の人殺しをしたと論告せられても、迚も抗弁は出来さうにない。
 三一七号がその絵画的報告を終つたとき、自分は賞讃の辞を述べずに居られなかつた。
『感心々々』と自分は言つた。『久しくかやうな大演説は聞かなかつた。願はくばもう一度今の演説が聞かしてほしいですな。こんな愉快な思(おもひ)をしたことは此頃中無かつたから。』
 この言葉は警官の雄弁を賞讃したものとは取られずに、却つて警官を侮辱したものと取られた。三一七号は猛犬のやうに呶鳴つた。署長は軽蔑した口調で『酔つて居るんだ』と言つた。
『僕は警察を尊敬して、反抗は致しません。』と叮嚀に会釈して言つた。
『君の名は?』署長の声は怒気を帯びた。
『ワルテル・スミルノといひます。医師です。一八八三年十月一日ストツクホルムで生れ、未婚です。世間に相当の信用を博し、嘗て処罰せられたことはありません。』
『では今回が始めてだね。』と署長は嘲笑的に言つた。
『御明察に恐入ります。』と自分は謙遜して答へた。
『もう沢山だよ』と署長は拳で机をしたゝか叩いた。『で、君は今の報告を承認するか?』
『僕の承認が何かの役に立ちますか?』
『何の役にも立たぬが、承認すれば有罪になる。』
『では申します、三一七号殿の驚くべき想像力と雄弁とを確かに承認します。』
『君はそれで抗弁したつもりか?』
『どう致しまして。』
『では君は警官を殴りた (※13)した事を認めるか。』
『警官を立退かせてケースを拾ふためにはどうしてもさうするより外なかつたのです。それ……』
『余計なことを言はなくてもよい』と我を忘れて署長は叫んだ。『君は巡警中の警官に暴行を加へたのだ。』
『巡警といふ言葉は承認出来ませぬ。三一七号は巡警中ではなかつたのです。塀に凭れて立つて居たので、始め広告の絵かと思ひました。』
 克己といふことは何人にも至難である。署長も警官もそれが出来なかつた。自分が、かう言つた後暫く二人は口々に自分の性格を罵り、且自分を常習犯にして了つた。急に署長が我に帰ると喋舌(しやべ)つて居るのは彼のみではないことに気附いて、拳を以て机を叩きざま、警官を黙らせた。
『訊問して居るのは君ではない。』と彼は威丈高に叫んでから、自分の方に向き直つて、
『それで警官をたふしたことは認めるね?』
『そのことは反抗致しません。』と自分は答へた。
『が、それは当然の行為で、ケースを……』
 これ以上自分は言葉を継ぎ得なかつた。自分を此処へ来さしめた原動力の一部とも見るべきケースは、警官に何だか不快な気持を与へるやうに思へたので、自分は急に口を噤んだ。それから署長は関係のない事まで根掘り葉掘り聞き出し、警官に逢ふ迄の昨夜の行動をも尋ねかけた。
 署長の知りたがつたのは自分が何故マスクを懸けて居たかといふことである。彼は自分がたしかに仮面会へ行つたのだらうと言つた。そして、舞踏会の模様をしきりに聞きたい様子であつた。
 けれど自分は彼の好意を充してやる訳には行かなかつた。自分が『ナチオナール』に行つたことは打明けられない。自分は婚約中であるから、かやうなことは秘密にして置きたかつた。
 その上自分は舞踏会では人に知れないやうにたゞ傍観して居たのみであるし、ことに偶然思ひもかけぬ女性――それは嘗て自分と関係のあつた女優のアスタ・ヅール――が来て居たから。
 マスクを懸けて居たので、アスタは自分を知らなかつた。それにアスタはたえず相手の男に夢中になつて居たから。――その男とは誰あらうフアビアン・ボルスだ。
 アスタとフアビアン!
 フアビアンが結婚してからまだやつと一年だ。それだのに、はやフアビアンの道楽がまた始まつたのである。
 が、何も不思議なことはない。この事あるは前からわかつて居て、スチナに忠告さへして置いたのだ。彼女はその時自分の言葉が耳に入らなかつた。きつと後悔するであらう。『身から出た錆』とでもいふべきであらうか。
 アスタにかゝつてはフアビアンは人形同然である。彼女は相変らずその凄い手腕を発揮して居るのだらう。自分が何処に傷もなく彼女の毒牙を逃れ得たのは幸福だ。フアビアンは今に髪の毛まで(むし)(※14)り取られて了ふに違ひない。
 然しどうかして彼が無事ならむことを欲する。スチナのやうな女を苦しめるのは堪へ難い。
 が、これは茲で書くべき事項ではないからこれ位にして置かう。で、自分はどんなに質問せられても実を言はなかつた。仮面舞踏会へ行つたことは全然否定した。
 署長も終(つい)に致し方なしと見て質問を打切り、黙つて聞取書(きゝとりがき)に目を通し、結末だけを大声で読み上げた。
『以上、訊問の結果、被告は警官第三一七号に其の勤務中暴行を加へたることを認定せり。』
 署長は何か自分が抗弁するかと思つて一寸休んだ。自分はもう先刻から少からず退屈を感じて、早く家へ帰りたかつたから、
『すると科料はいくらです』と、おとなしく尋ねて財布を取出した。
『否々(いやゝゝ)、さう易々とは片附かぬよ』と署長は言つた。警官は傍で嘲笑した。
『さうですか、けれど、もう三時十五分過ぎですから、帰らして下さつてもよいでせう』
 署長は肩を聳(そびや)かした。警官はからゝゝ(※15)と笑つた。
『何時だか始めて君にわかつたのだね』と署長は答へた。
『では何時に警官に逢つたか知つて居るかね』
 自分は訊問がもう済んだものと心得て居たのでこの質問は余計なことに思はれた。自分が警官に逢つた時間を何の必要があつてきくのだらう? 自分は黙つて居た。
『聞えぬのか』署長は呶鳴つた。『何時だつた(※16)言ひたまへ』
『それは警官に聞いて下さい』と用心して答へた。今迄よく新聞で読んで知つて居るが、間違つたことをいふとすぐ官憲を偽ると来るから。
 警官は暫く考へて居て、自分が騒動を始めたのは、検挙せらるる前凡そ十五分で、警察署に連れられて来たのが二時四十分、途中が凡そ五分かゝるだらうと言つた。
 それ故自分が警官に話しかけたのが午前二時二十分といふことになつた。
 前にも書いたやうに三一七号は報告を大袈裟にする驚くべき才能を持つて居る。署長にもまた其の才能が伝染したと見え二人して、も一度聞取書(きゝとりがき)を読み直し、色々書き加へたり又更に質問したりした。
 自分は幾度も欠伸したが気附かれなかつた。そして遂に放免されたのは午前四時頃であつた。
 やれゝゝ(※17)と思つて署の閾を跨いだ。あの塩梅では拘留されるものと思つて居たから、放免と聞いてホツとした。
 兎に角自分は新らしい経験をした。冗談もいゝ加減にして置かねばならぬものだと思つた。相手が警官だつたのは返す返すも失策だつた。お蔭で折角『ナチオナール』で得た快い気分をすつかり破壊して了つた。
 考へて見るとこの悪戯も笑つて居る訳には行かぬ。この事が洩れて、許嫁の耳に入つたら、どうであらう? それにまた世間の口は随分うるさいものだから。
 一両日中に多分自分は呼出しを受ける。それが遂には新聞に載ることになる――
 これは取り返しのつかぬことをしたと思つた。で、其の瞬間、再び戻つて両氏に逢ひ、この事を内密に取り計つてくれるやう歎願しようと決心した。
 ところが運命といふものは妙なもので、これが図らずも自分を殺人事件の渦の中に投げこんだ。
 丁度自分が踵を返した時、一台の自動車が署の前で止つた。下りて出たのは警官と夜警と今一人おづゝゝ(※18)した婦人とである。婦人は足が地につかぬものの如く、さも悲しさうに唸(うめ)くのであつた。
『どうか放して下さい』と彼女は声を絞つた。『後生ですから放して下さい。私がしたのではありません、私がしたのではありません』
 声には覚えがある。矢庭に駆けつけて自分は角燈の光で婦人の顔を見た。
 外ならぬスチナ・ボルスである。暫く自分は呆然として佇んだ。次の瞬間これや捨てゝは置けぬと思つた。自分は両手で警官を遮つた。
『何かの間違でせう』と自分は言つた『この人は――』
『邪魔しないでくれたまへ』と警官はきつぱり言つた『警察の妨害になるから』
 スチナは直ちに自分の声を知つて、希望の光は涙の頬に輝いた。彼女は二人の手から脱(のが)れて自分の方に来ようとしたが、無体に遮られて了つた。
『一体どうしたんです?』と自分は尋ねた。
『おゝ先生、とんだ間違ひです』と彼女は叫んだ『どうか救つて下さい、どうか助けて下さい』かういふなり彼女は失神した。
『僕は医者です』自分は熱心に言つた。『警察を妨害する心は毛頭ありませんが、どうかこの婦人の介抱をさせて下さい』
 警官は点頭(うなづ)いた。『よろしい。では一緒に検事局へ来てくれたまへ』
『検事局?』と自分は叫んだ『一たい何事が出来たのです?』
『人殺しだ』と警官は言つた。『この婦人が犯人らしいのだ』
『そりや嘘だ』と自分は言つた。『ボルス工学士夫人が人殺しをするなんて、そりや間違ひだ。一たい殺されたのは誰です』
『アスタ・ヅールといふ女優で、今晩自宅で射殺されたのだ』

第四章 偶然

 アスタ・ヅールが殺された!
 つい今しがた『ナチオナール』で見たばかりだ。彼女はいつになく快活にはしやいで、フアビアン・ボルスを擒にすべく、手練手管を尽して居た。彼女の遣り口を誰よりもよく知つて居る自分には彼女の目的が那辺にあるかもわかつて居た。結婚した男を骨抜きにするのはアスタの何よりの誇りで、又滅多に失敗はしなかつた。
 ところが今や彼女は死んだ。真夜中自宅で殺されたのだ。そしてフアビアンの若い細君が殺人の嫌疑を受けて引つぱられて来て居る。
 実に容易ならぬ事件だ。
 然し一たい彼女の良人は何処に居るか。今晩アスタの踊り相手をしたフアビアンは何処に居るか。彼は今晩細君の行為に魂消て居るのであらうか、細君が嫉妬のあまりに――
 いや、決してそんな事はない。スチナ・ボルスはそんな女ではない。柔和な、温順な彼女だ。どんなことがあつても嫉妬の挙句かゝることを仕出かす女ではない。
 が、兎に角悲劇は演ぜられ、その渦の中にどうした拍子かボルス夫人が巻き込まれて来た。然し今その理由を彼此憶測しても無駄である。警官は自分の質問に答へてくれない。辛抱して暫く待たう。
 気絶した彼女は、検事の室のソーフアの上に寝かされた。自分は直ちに人工呼吸を行つた。
 その折、自分は次の室の談話を洩れ聞いた。それに依ると、犯行の現場(げんぢやう)は今、検事が臨検中であつて、軈て検事のザンデルゾンが帰つて来たら、ボルス夫人の訊問を始める手筈だといふことである。
 事件がザンデルゾンの手に渡つたのは好都合である。自分は知己であるし、以前二三度面倒な事件を手伝つてやつたこともあるから、訊問の際立合はせてくれるに違ひない。それにスチナには介抱人が要る。
 スチナが正気附くまでには相当の時間を要した。大きい黒い眼をしばたゝいて、あたりをキヨロゝゝゝ(※19)見まはし、除々(じよゝゝ)(※20)に記憶を喚び起しつゝ、怪訝さうに自分の顔をぢつと眺め入つた姿は決して忘れることが出来ない。自分は涙ぐんだ。
『しづかにゝゝゝゝ(※21)、』自分は囁いた。『一たいどうしてこんなことになつたのかのこらず聞かせて下さい。及ぶ限り尽力しますから』
 返答もせず、歎息(ためいき)もせず、彼女は暫しぼんやりとして居た。
 自分は元来、用のない出来事には深入(ふかいり)しない主義である。けれど今は自分の知つた婦人が災難に出逢つたのだ。自分は医者としてまた友人として自分の義務を尽さねばならぬと思つた。
『どうしてこんなことになつたか聞かせて下さい』と今一度自分は言つた。『あなたは何故かやうな所に来ましたか、人殺しがあつたやうですが、それとは関係ありますまい?』
 彼女は身顫ひした。
『あゝ怖い』彼女は吐息した『フアビアンを――探しに行つたのです――あの人の所へ』くやしさうに彼女はかういつた。
『電話をかけたら、声がしたもんで』
『誰の? フアビアンの声が?』
『えゝ、フアビアンの』
『ぢや、あなたはあの殺された女優の家へ電話をかけたのですね』と自分は驚いて言つた『真夜中に?』
『えゝ』と聞えぬ位の声。
『で、御主人がその電話口へ出たのですか。本当に?』
『本当に、始め一口返事しましたがすぐ黙つて了ひました。私の声がわかつたのでせう』
『可哀想に』と自分は口の中で言つたが、彼女はそれを聞いた。
『本当に思ひがけなかつたです、まだ結婚して間もないのに――』
『だから、僕が忠告したのです』
『でもその時は信じませんでした。世間でいふ程に男は油断のならぬものでないと思つて居ました。それにフアビアンに限つてはと思つたのが、こんな――』彼女は両手で顔を蔽つた。
『これには訳があるのでせう』自分は彼女を慰めた。『結婚した男が蓮葉(はすつぱ)女を訪ねるなんて、きつと何か特別の訳があるに違ひない。』
 彼女は頭を振つた。
『だつて一しよに御飯を食べたのですもの』
『どうしてそれがわかりましたか』
『私は行つて見たんですもの。』
『え? この夜中に?』
『えゝ、あの――あの女の所へ出かけて行きました。そしたらもうフアビアンは居ませんで、女が台所に――血まみれになつて――』
『そりや』
『本当に屹驚(びつくり)(※22)しました。夢中で駆け下りて表で大声を出したと見えます。夜警と警官が来ました。それから私が何と言つてもきゝません、私が殺したのだといひます。』
 この最後の言葉は聞えぬ位小さかつた。
『警察のやり方はいつも馬鹿げて居ますよ』と自分は力を罩(こ)めて言つた。『虫さへ殺さぬあなたが、人殺しするなどと誰が思ふもんですか。まあ僕に任せなさい。きつと嫌疑を晴らして上げるから。』
 この時次の室にザンデルゾンの声がした。
『自動車ですぐこの番地に行つてくれたまへ、電話をかけても返事がない。在宅だつたら否応なしに連れて来たまへ。逃さぬやうに。何も言はないで。抵抗したら捕縛する。いゝかね』
『理由は?』と今一人の声。
『ズール嬢殺人の嫌疑だ。時に、君が連れて来たといふ女は誰だ』とザンデルゾンの声。
『まだ名前を聞きませぬ。失神して話が出来なかつたのです。丁度此処の入口で医者らしい紳士が来合せましたが、知り合ひらしく、ボルス夫人と呼んで居ました』
 検事が入つて来たので自分は立つて迎へた。
『あゝスミルノ博士、あなたでしたか』といつて手を差出した。『こりやいゝ都合だ。が、あなたはこの事件とは関係ないでせうな』
『えゝ勿論』と自分は少しく慌てゝ答へた『一寸訳があつて此処へ来合せた時にボルス夫人が運ばれて来たのでね、知合であるし、気絶されて居た様子なので、お手伝ひしたやうな次第で。やつと今正気に戻られた所です』
『さうでしたか』と小声になつて、自分をさし招き『私の察した通りですな、――やはり嫉妬の結果ですよ。あなたはよほどの御近づきですか』
『よく知つて居ます、誓つて言ふが、あの人は犯人ではないよ、人殺しなぞ出来る女ではない』
『でせうか? けれど柔(やさ)しい婦人でも嫉妬といふ奴にはね、今迄にも度々かういふ例はあります』
『所で、すぐ訊問を始めますか』と自分は訊いた。
『えゝ、起きられるやうでしたら、何でもほとぼり(※23)のさめぬ内にしないとね。あなたも居て下さいますか』
『喜んで、居ませう、是非共さうしたいと思つて居た。』
 自分は平素大小凡ての犯罪に興味を感じた。父は自分が医者にならずに探偵になつた方がよかつたとさへ言つた。然し自分の職業も、探偵と同じやうに屡(しばゝゝ)犯罪を取り扱ふので、今迄法医学者として幾度も鑑定を命ぜられ、其の都度、自慢ではないが、世間の賞讃を博した。
 今回の犯罪は、単に法医学者として興味を感ずるのみではない。嘗て自分と関係の深かつた婦人が当の悲劇の犠牲者であり、加之(そのうへ)自分と最も親しかつた婦人が其の犯行の嫌疑者であるのだ。
 アスタ・ヅールは嘗て記した如く、自分の過去の生涯中、重要な役目を演じた。彼女は自分を束縛し操縦した。そして自分を手玉に取つて正に自分の生命をも破壊し去らむとした。実をいへば自分は二ヶ年間アスタの情人であつたのである。
 彼女と知り合になつた頃は自分も全く坊ちやんであつた。金はあるし、学業も首尾よく進むし、真に人生の喜びを感じて居た頃である。アスタは美しく挑撥的であつた。愚かな自分は遂に末始終を誓ふ仲となつて了つた。そして彼女によつて青春の夢に描いた人生の幸福を実現し得ると思ひ込んだ。
 はつ(※24)と我に帰つて、彼女の正体を見届けた時はもう既に遅かつた。自分は彼女の玩具(おもちや)とせられて居たのである。単なる補欠として選ばれて居たのである。愈(いよゝゝ)ある日彼女が他の男を拵へて居るのを知つて手を引いたとき、自分はしたゝか自分の財産を吸ひ取られて居た。
 これも今は昔語りである。数ふればはやそれから四年の歳月(としつき)は流れた。
 彼女の乱行、彼女の貪慾、彼女の詭計は実に止まる所を知らなかつた。が、今その骸は冷えた。彼女は非業の死を遂げたのである。熱血は決して自分の血管に湧かぬ。もう彼女は再び男を誘惑しないのである。
 人はよく吾人の生涯及び運命を左右する神意の存在を口にする。神意は決して偶然といふことを許さぬともいふ。自分はそれを理解することも信ずることも出来なかつたが、今アスタ・ヅールの無惨の死を見ると、やはり神意を認めざるを得ない。彼女は正(まさ)(※25)当然の罰を受けたのだ。同様にフアビアン・ボルスも其の罪を償つて然るべきだと思ふ。自分には彼が無罪であるといふよりも、どうもこの殺人に深い関係があるとしか思はれぬ。少くともこの騒動は当分の間彼の乱行を慎ましむるであらう。そしてこの運命の凄い叱責によつて、彼は善人になるであらう。彼は投機の際いつも運が好くて、拝金宗の猛烈なる信者となり、従つてその道徳観念は漸次摩滅して行つた。
 かく、フアビアンが神意によつて手を焼いたのはあたりまへ(※26)だとしても、あの美(うるは)しい夫人を不幸に突き落したのはどうしても気まぐれの偶然としか考へられない。殺人の行はれた現場に足を入れるなどとは、何といふ不幸な偶然であらう。彼女の代りに彼女の良人が拘引されて来たといふなら、自分は少しも驚かない。彼は人殺(ひとごろし)(くら)ゐはやりかねない男だ。ボルスはどんなことでもする男だと自分は断言する。
 自分は元来復讐を好むといふ性質(たち)ではないが、日記の手前、正直な所を言ふと、あの密会にこの怖るべき結末の来たのは聊か気味がいゝ。たとひ電話でとはいへ、細君に現場を見つけられたといふことは、あまりいゝ気持もしまい。
 こゝで自分は、この血腥い芝居の序幕といふべき部分を書いて置く必要がある。
 フアビアンとアスタとが仮面舞踏会で顔を合せた抑もの始めを自分は偶然目撃した。フアビアンは最初マスクを懸けずにたゞ一人隅の方に立つて、極めて冷かに、仮面の人々を眺めて居た。
 折しも空色の仮装服(ドミノ)を着た婦人が舞踏室に入つて来た。そして彼を見つけるなり、軽い驚きの声を発した。ところが、彼女が彼の方へ近づいて行かうとしたとき、マスクを懸けた背(せい)の高い男が彼女に話しかけた。自分はすぐ間近に居たので、彼等の会話の一伍(ぶ)一什を聞くことが出来た。
『アスタ(※27)今晩は』とその男は一寸わからぬ位のフインランド訛りで言つた。『何故さうせかせかして居るんだ?』
『あゝ、あんた?』と少し興奮して彼女は答へた。自分はその声で直ちにそれがアスタ・ヅールであることを知つた。『何の御用?』
『わかつて居るぢやないか』
『今は忙(せは)しいから駄目よ、お友達が待つてるわよ』
あれ(※28)がまだ片附いてないぢやないか』と例の訛りで言つたが、少し脅迫めいた調子を帯びて居た。『ちやんと約束したぢや――ないか』
『もう沢山よ、今晩は遊びに来てるのよ』
『遊びもいゝが、証文を返してくれなくちや』と男は言つた。『あまり延々(のびゝゝ)になつたから』
『本当にうるさいわね、また今度――』
『お前の「今度」はもう聞きあいた。逃口上(のがれこうじやう)は駄目だよ』
 彼女は怒つた。マスクの下から眼の色の輝くのが見えた。
『此処を何処だと思つてらつしやる』と彼女はぢれつたさうに足踏みした。『愚図々々言ふならもう換さしてあげないわよ』
 男は残念さうに振向いた。もう少しで自分に突き当りさうであつた。自分は男が『覚えて居るがいゝ』とつぶやいたのを聞いた。
 この小さい序幕も、今から考へて見ると、その数時間後に起つた殺人の悲劇に何だか深い関係のあるやうにも思はれる。
 それからその夜、自分はアスタとフアビアンとを幾度も傍で観察した。勿論彼等は自分に気がつかなかつた。フアビアンはマスクを懸けたが、自分はよく知つて居た。彼等は笑ひ、巫山戯て、かゝる悲劇に至らうなどとは、夢にも知らぬ様子であつた。
 一たい、この悲劇でフアビアンはどんな役目を勤めたゞらう。夫人の言つたことに自分は毛頭疑(うたがひ)を挿(さしはさ)まない。アスタ(・)(※29)ヅールは夫人が訪ねる前に(※30)、既に殺されて居たのだ。
 探偵はこの出発点から捜索の歩を進めて行くべきであるが、果してそれが出来るであらうか?
 検事ザンデルゾンは既にこの犯罪の動機を嫉妬と見て了つた。がそれはあまりに当然で、誰しも考へて見ることなのである。女が嫉妬のあまり良人の情婦を殺すてふことは度々あることである。なる程スチナにも犯罪の動機を求められぬことはないとして、彼女の良人には果して求め得られぬであらうか。
 彼女から電話がかゝつて、密会を見つけられたとき彼は一たいどうしたか。勿論逃げなければならぬと考へたゞらう。どうせ男らしう其の行為を弁明することの出来ない人間だから、三十六計逃ぐるに如かずと決心したに違ひない。
 若しさうとしたら、アスタは黙つては居まい。そこで二人の間に争闘が起つたと考へ得るではないか。その結果――殺人といふ恐ろしい幕が演ぜられたと結論してはどんなものか。
 自分がかう考(かんがへ)をめぐらして居るとき、突然先刻(せんこく)自分を訊問した署長が這入つて来た。
『おや』と少し生意気な語調で彼はいつた。『君は今度は此処へ廻されたかね』
 ザンデルゾンは驚いて尋ねた。『何だね、一たい。』
『いや実は先刻(せんこく)、一寸したことで署長さんにお目にかゝつたんですよ』と自分は笑ひ乍ら言つた。
 ザンデルゾンは何のことか聞きたい様子をした。が署長は例の通り話し上手の男だ、どんなことを言ひ出すかもしれぬと思つたから、先廻りして自分はかういつた。
『全くつまらぬ事でしてね、警官にマツチを貸して貰はうと思つたんだよ、ところが二言三言いつた挙句到頭此処へ引つ張られて来たといふ訳で。その理由はその――ね、その』
『勤務中の警官に暴行を加へたといふ廉で――』と署長は苦い顔をして言ひ足した。
『それから?』と自分は促した。『あなたは聞取書(きゝとりがき)を持つて居る筈だ。』
『は、もう酔が覚めたと見える』彼は検事に向つて弁解するやうに言つた。
『あれからまだ三十分と経たないでせう』と自分は笑ひ乍ら言つた。『警官は僕を泥酔して居るといふのですがね。検事君は僕が酔つて居ないことを保証して下さるだらう?』
 ザンデルゾンは点頭(うなづ)いた。
『まあ宜しい、それはそれとして』と彼は言つた。そして署長の形の如き報告を待ち遠しさうに聞いて居た。
 ボルス夫人は何もかも聞いて居た。それ故自分は第三一七号とのかゝり合ひから此処へ来た始末を語つた。
『男といふものはどうしてさうなんでせう』
 と彼女は嘆息した。『なぜもつと慎めないのかしら。ヘレナが聞いたらどうすると思ひになる』
『そりや大変です』と自分は言つた『たゞでは置きますまい。あなた話してはいけませんよ、きつと』
『私はいゝが、新聞にでも出たら――』
『それは大丈夫、出ないやうにしますから』
『きのふもヘレナから手紙が来ましてね』とボルス夫人はいつた。『近い内お訪ねすると書いてありましたが、こんなことが出来てしまつて――』
 ヘレナ・ズンドハーゲンは幼時(をさないとき)母親を失つた。父親もまた二三ヶ月前自動車の災難で死んだ。それ故父の喪のすむ迄自分達の結婚を延したのである。彼女は富豪の家に育つたのであるが早く母に離れたので、何でも手づから始末するといふ習慣になつて居たため外の娘達よりも遙かにませ(※31)て居る。人は彼女をすれて(※32)居るといふ。自分もまだよく彼女の性質を確め尽さないから、旁(かたゞゝ)、結婚を延したのであるが彼女のさうした性質は恐らく、百万長者であるといふ意識から来て居るらしい。男に対しては寧ろ臆病の方で、あまり男性に対して多くの尊敬を持つて居ない。といふのは大酒飲みで遊び好きの叔父の死ぬまで、その傍に居たからである。それで彼女は、純潔な男でなくては良人とせぬと、決心し、この主張はどこまでも通してやまないのである。
 が、自分はそれを真面目には取つて居らぬ。誰が女性の真面目を信ずるであらう。そこで自分はヘレナの手を取つて、若し自分(※33)彼女の条件を充すとしたら、結婚の承諾をして呉れるかときいたら、えゝといふから、自分はホンの子供心の心配だと思つて、今迄嘗て女に近よつたことはないと誓つたのである。だから若し今この殺人事件から、自分に嘗て恋人があつたことがわかりでもしやうものなら、彼女は立どころに破約するに違ひない、自分はそれをよく知つて居る。
『僕からヘレナにもう暫らく訪問を見合すやうに書きませう』と自分は夫人に言つた。
『あなたの嫌疑は間もなく晴れます。こんな災難に出逢つたのは全く不幸な偶然ですなあ』
 自分は全くさう思ふのだ。偶然といふものが今回の事件には誠に深い関係を持つて居る。若し自分が偶然三一七号の警官に逢はなかつたら、この殺人事件に頭を突込まなくて済んだのだ。又この悲劇の第一幕、――而もその抑もの序曲では自分とアスタ・ヅールとが出て来る――ともいふべき仮面舞踏会に行つたのも全く偶然ではないか。
 かくの如く、見物人のない悲劇の第二幕は殺人を結末として閉ぢたのである。
 第三幕はまだ始まらぬ。恐らくまだ役割が定まらぬのであらう。それにしても第三幕に於ても果してまたこの偶然が顔を出すであらうか

第五章 訊問

 署長が出て行くなり、検事ザンデルゾンはボルス夫人に向つて言つた。
『ではこれから訊問を始めます。その儘にして在(い)らして宜しい。』
 彼は机の前に腰を下した。
『お名前は?』
『スチナ・ボルスといひます』
『フアビアン・ボルス工学士の夫人(おくさん)ですね』
『はあ』
『お年は』
『一八九二年五月三日に生れました』
『では、今迄の経過を一応聞いて下さい。』
 かういつて彼は夜警をさし招いた。夜警は委細を物語つた。彼がレゲリングス街(まち)からグスターフ・アドルフ市場(マルクト)に差しかかると、突然レストマーケル街(まち)の角の家から一人の婦人が飛び出して来た。まるで失神したやうに、かん高い悲鳴をあげた。最初誰かに追はれて来たものと思つて、救ひのために駆けつけると、婦人は彼に抱きついて、『血が』、『人殺しが』とうめいた。丁度警官が街の角に来合せたので、急を告げ、それから二人して色々尋ねたが、彼女は何も言はず、ま (※34)動きもしなかつた。誰だか、また何処から出て来たのかさつぱりわからない。
 夜警と警官とは家の中に入り、警官は婦人と階下に待つて居て、夜警だけが階段を登つた。丁度三階のアスタ・ヅールの住居(すまゐ)の入口の扉(ドア)が開いて居て、誰も居さうにない。ベルを幾度鳴らしても返事が無いから、たうとう中へ入つて行くと、電燈はあかるく輝いて、食堂には二人分の食事の残りがその儘になつて居た。隣りの居間の中央にテーブルが置いてあり、珈琲茶碗とコツプが二つ宛(づつ)と火酒(シヤルトレース)の瓶が一本置いてある。茶碗もコツプもまだ使つてなかつたが、つい今し方まで誰か煙草を吸つて居たと見えて室内に煙の香(にほひ)がし、灰皿には灰があつた。
 寝室は暗く、誰も居なかつた。空色の仮装服(ドミノ)と同じ色のマスクとが寝台の上に乱雑に投げられてあつた。
 其処で夜警は奥の物置の方へ行つた。すると台所の扉(ドア)が開いて居た。と見ると、石床の上に女が仰向きに斃れて居る。彼は驚いた。女は仮装服(ドミノ)と同じ色の舞踏服を着て、胸には紅い石竹の花束を附けて居た。
 近寄つて見ると、左の胸から血が流れ、血は床の上にも丸く溜つて居た。心臓をやられたものの如く、其の部分の着物に小さな穴が開いて居た。
 夜警は急いで駆け下り、警官に事の次第を告げた。婦人は再び唸り始め、『放してくれゝゝゝゝゝ(※35)』と言つた。が、二人は無理に婦人を階上に連れて来た。すると婦人は甚しくおびえて、物が言へなくなり、身体はぶるゝゝ(※36)顫ひ出して間もなく警官の腕に抱かれて気絶した。取りあへず冷水によつてやつと意識は恢復したが、どうしてもはつきりした返事をすることが出来ない。そこで已むを得ず婦人を警察に連れて来たのである。
 警官は夜警の陳述の間違ないことを語つた。彼は婦人と階上に来るなり、階段の上から下までよく採(さが)して見たが、誰も、また何も、見附からなかつた。
 愈(いよゝゝ)人殺しがあつたとわかるなり(※37)彼は直ちに電話で刑事に委細を告げた。暫くするとグリムマーとローランドの二人が来て、現場の捜索を始めた。
 そこで警官は刑事達の乗つて来た自動車で夜警の力を藉りて婦人を検事局に運んで来たのである。
 両人(ふたり)の陳述が終(おわる)と、ザンデルゾンはボルス夫人に向つて言つた。
『今お聞きになつた通り、間違はありませぬか?』
『え、そ――その通りでせう』と彼女は声顫はせて言つた『私は、な、何も存じません。まるで夢のやうです』かういつてから遽(にわか)に悲しさうな声になつて『決して私のしたことではありません、ね、私のしたことゝ思ひになりますか?』
『今の所、何とも思ひません』と刑事(※38)は言つた。『が、現にあなたはあすこに居たのですから、疑(うたがひ)のかゝるのも無理と思つてはいけません』
 彼女は身顫ひした。
『たとひ手は下さなかつたとしても何か関係があると思はれますから』と検事は附言した。
『夫人が家の中から走り出したのは何時だつたかね?』彼は夜警の方に向いて尋ねた。
『それは存じません。が、警官と二人で引き返したとき時計を見たら三時十六分でした』
『どういふ訳で、夜中にあなたはズール嬢の家に居たのですか』検事は、鋭く夫人を見て言つた『お知り合ひなのですか』
『いえ、昨晩までは見たこともない人です』
『はつきり、訳を話して下さい』
『良人(たく)は昨日お友達と一しよに出て行きました。御承知かもしれませぬが、只今重大な事に携つて居りますので、今晩は帰宅(かへり)が遅くなると申しましたが、私は起きて待つて居りました。面白い小説を読んで居ましたから少しも退屈しませぬでした。が、二時になつてもまだ帰りませぬから、もう寝ようとして居ますところへ電話がかゝりました。フアビアンからだと思つて出ますと、まるで知らぬ人の声で『ボルスの奥さんですか』といひます。で、返事をしますと、『御主人が今、たち(※39)のよくない女の家に居ますから知らせてあげます』といふのです『今晩御主人はね、「ナチオナール」の舞踏会で、淫売と一しよに踊りましたよ。今はその女の家で、差向ひで食事をして居るところです。どうです、お楽しみぢやありませぬか』
 びつくりして暫らく物が言へませんでした。身体中顫へて、よく立つて居られたと思ふ位でした。
『あ、もしゝゝ(※40)』と同じ人の声で『うそ(※41)だと思ひになるなら、証拠を見せてあげませう。女はレゲリングス街(まち)六十七番地でアスタ・ヅールといふんです。電話もありますよ』かう言つて切つて了ひました。
 始めは腹が立ちました。これは何かフアビアンと私との仲を割かうとする悪戯だと思ひました。そんな口車に乗るものかと思ひました。
 申すまでもありませんが、女は良人を信じ良人に便(たよ)つて居りますから、面と向つてかういふことを聞かされると、本当にびつくりしますものの、やはりこれはくだらない悪戯だと強ひて打やつて置く気になるものでございます。
 で、私も始(はじめ)はさう考へて、『そんなことはない、そんな筈はない。フアビアンに限つてはそんな訳はない。一しよになつてまだ二年になるかならぬし、それに私をよく愛してもくれる。これは良人(たく)の敵が腹いせにこんな作り事をしたに違ひない』とかう決めて了ひました。
 で、床に入つて何もかも忘れようとしましたが、やはりどうも解せぬ所もあるやうに思はれて来ました。若しかしたら。若しかしたら、どうでせう。
 それに、今の人がおしまひに言つたこと『うそだと思ひになるなら、証拠を見せてあげませう、女はレゲリングス街(まち)六十七番でアスタ・ヅールといふんです、電話もありますよ』この言葉が耳の底にはつきり残つて居りました。
 アスタ・ヅール。今迄聞いたこともない名。電話もあるとのこと。かけて見よう。先方へわからぬやうに。さうだ。
 かう思つて電話帳を見ました。名前もあるし、番地もその通りでした。
 どう言つてかけたらいゝかしら、たゞボルス工学士に出て貰つて下さいとさへいへば、若し良人(たく)が居たら、多分出るだらうと思ひました。が、ヅール嬢はまだ起きて居るのかしら、良人(たく)のことを聞いたら困りはしないかしら。
 本当にどうしてよいか迷ひました。受話器を持つて見たり、また寝台(ベツト)の上に帰つて見たりしましたが、しまひにはどうしてもヂツとして居られなくなつて、たうとうかけて、了ひました。」
 かういつて夫人は口を噤み、両手で顔を蔽つた。
『で』検事はいつた、『通じましたか』
『はい』と俯向いたまゝさゝやいた。
『ね、何もかも打明けて下さい』と検事は親切に言つた。『その方があなたの為ですから』
 如何にこの訊問が彼女を苦しめるかはよく推察し得たが、自分は黙つて聞いて居た。その恐ろしい経験と、二回の気絶とは、話が続けられぬ位彼女を弱らせたのである。
『相手の声で』と彼女は言(ご)を続けた。『私はぎよつ(※42)としました。「もしゝゝ(※43)、どなた』といつたのは正(まさ)しく良人(たく)の声でした。とわかると我を忘れて、「まあ、あなた?」といつて了ひました。」彼女は再び口を噤んだ。
『それから』検事は言つた、『先方では何といひました』
『何も申しません、何度『もしゝゝ(※44)』といつても、もう何の音もしません。二度も呼出しをかけても返答がありませんでした』
『御主人の声に間違ありませぬでしたか』
『それはたしかです。良人(たく)の声は間違へません』
『それからどうしました。』
『本当にまごついて、胸の中はかきむしられるやうに思ひました。電話の告げ口が嘘でなかつたのですもの、良人(たく)は私をにくい淫売と見かへたのですもの』
『だから女は罰を受けました』検事は言つた。『それにしては少し重過ぎる罰でしたが』
『あゝ、御免なさい』夫人は言つた。『たゞ私がそのとき思つたことを申しあけた(※45)だけです。暫く私は我を忘れて室(へや)の中を駆けまはりました。
 それからどうしたか自分でもわかりませんでしたが、気がついて見ると、帽子と外套を持つて街の上に出て居ります。証拠(※46)をつきとめるために出かけたのだとわかりました。』
 ここで深い嘆息を洩して、彼女は言葉を継いだ。『それに、良人(たく)(まよ)(※47)つて居るのはどんな女だか見たいとも思ひまして』
『真直に女の家に行きましたか』と検事は、忙しく筆(ペン)を走らせ乍ら言つた。
『はあ、大急ぎで裏通りを走りました。自動車をと思つても、お金を持つて居ませぬでしたから』
『知らぬ人から電話のかゝつたのは何時だつたか御存じでせうか』
『はい、それはよく存じて居ます。』熱心に彼女は言つた。『フアビアンがこんなに遅く電話をかけるとはと思つて時計を見ましたから。それは二時五分前でした。』
『それから、あなたがヅール嬢に電話をかけたのは?』
『二時十五分過ぎです』
『よろしい。これで時間の手がかりは得られたが、かうと、それからあなたが出かけた時間は覚えて居ますか』
『いゝえ、けれど大扉(おほど)を閉(た)てた時、どこかの大時計が打つたやうに思ひます、三時だつたのでせう』
『お住居(すまひ)はストランドフエーグの七番地?』
『はあ』
『裏通りを来たと仰しやる?』
『はあ、リツデレ街(まち)と、レストマカーレ街(まち)を通りました。』
『それから、どうしました』
『六十七番地の大扉(おほど)は開いて居ました。上へあがると入口の扉(ドア)も細目に開いて居ましたから、これはいゝ塩梅だと思ひました、不意に驚かしてやらうと、ぬき足で入つて行きました。どんな様子かと思つて、そのとき身体はふるへました。
 ところが誰もゐません。良人(たく)の蔭さへ見えません。食事の跡がありました。珈琲茶碗が出て居ましたが、手がつけてありません。電話機も見えました。これだなと思ひました。良人(たく)は無論私の声がわかつたのでせう。が、どうかして女に――私の愛を奪つた女に一目逢ひたい。逢つて話したい。子まである中を、ようも――』
『逢ひましたか』
『はあ、が女は死んで居ました。台所で殺されて。――血まみれになつて仰向けに』
 彼女はおびえたが、検事は顔の色さへ変へなかつた。
『あゝ怖い。迚もあの態(さま)は忘れられません』
『で、驚いて駆け出したのですか』
『はあ、ほんとにびつくりしました。思はず駆け下りて、外へ出るなり夜警と警官に止められました。』
『よく話してくれました』と検事は言つた。
『今はもうこれ位にしておきませう。お疲れでもあるし。』
 彼は自動車屋に電話をかけるやう命じた。それから再び、自分と小声で話して居た夫人に向つて言つた。
『御主人はピストルをお持ちでせうか』
『はあ』と彼女は驚いていつた『ブラウニングと連発のと二挺持つて居ます』
『どこかへしまつてあるのですか、それとも――』
『連発の方は壁にかけてあります。ブラウニングは弾丸(たま)がこめて、机の抽斗に入れて錠が下してあります』
『鍵はいつも御主人がお持ちですか』
『はあ、どうしてそんなことを――』
『あゝ、いえ、一寸』
 彼はまた筆(ペン)を取つて少しく書き加へた。そして、ポケツトから金の巻煙草入れを出して、
『これに見覚えはありませぬか?』
『それは良人(たく)のです、』と力をこめて言つた。『どこにありましたか?』
『ズール嬢の台所の、物置きの扉(ドア)のそばに』
『だ、台所に。あの殺された人のそばに?』
『さうです。それに食堂の珈琲皿の上にはこの『ウエストミンスター』(巻煙草の名)の吸ひ残りがありました。尤も、ケースには御主人の名が彫つてありますから、あなたにお訊きする迄もなく、お届けしようと思つて居ました。』
『まあ』スチナは喘いだ『ではフアビアンが――まさか――何といふ――そんなことは決して――』
『今御主人をお呼びしてあるから、これから一緒に現場へ行つて頂かうと思つて居ます』かう言つてからザンデルゾンは自分の方に向いて、
『あなたもどうか一緒に来て、臨検してくれませぬか?』
 自分は一寸躊躇した。疲労したからといふ理由ばかりではなく、これといふ特別な興味も無いからである。恐らく死体検査をするのだらうが、こんなことにならうとは、四年前には夢にも思はなかつた。
 が、それが何故厭だ。運命は自分を此場へ連れて来たのではないか。その上この事件は中々面白いではないか。
『お伴しよう』と自分は答へた。『どうせ事の序だから』
『検事さん』とこの時ボルス夫人は声を顫はせて言つた、『私が申し上げたことをお疑ひではないでせうね』
『あゝ、それは今はつきりとは申しあげられません』と叮嚀に彼は言つた。『今までの陳述には別に疑はしい所はありませんでした。尤も――何といふか――少し不思議な所もないではありませぬが』
『何と仰しやる。どういふ所が?』
『いえ、その知らぬ人からの電話のかゝつたといふやうな。で、あなたはそれが誰だかわかりませぬか』
『いゝえ、まるで知らぬ人でした。さうですね。少しフインランド訛りのある言葉でしたが、心当りはありません』
『そりや面白い』ザンデルゾンは考へた。『御主人のお友達にはさういふ人はありませぬか』
『はあ』
『もうこれ位に致しませう』と検事は言つた。
『お帰宅(かへり)になつて宜しいが、いつでも呼出しに応ずることの出来るやう、在宅して頂きたい』
『わかりました』と彼女は心配さうに答へた。『もう一度お尋ねしますが、良人(たく)と私とを犯人の嫌疑者としておいでになるのでせうか?』
『それはお答へ出来ません』
『何だか、恐ろしい目に逢ひさうです』と悲しさうに言つた。『もとより良人(たく)も私同様潔白なことは疑ませぬが、どうして之れを証拠立てたらいいかしら。上手な探偵でも――さうだ、雇つてもかまはないでせうね』
『それはお自由ですが、探偵でも事実は蔽ひ隠せませぬ』
『私は有名な私立探偵のレオ・カリングさんを知つています(』)(※48)と躊躇しつゝ言つた。『あの人に願つて見ませう――』
『無論かまひません、カリングは立派な探偵です。が、この事件はそんなに六ヶ敷いこともないやうです』と検事は答へた。
 この時警官が入つて来てボルス工学士が控室に来て居る旨を囁いた。
 検事は夫人を裏口の扉(ドア)から帰して、一人の刑事に、従(つ)いていつて、見張番をして居るやう命令した。
 フアビアン・ボルスが連れられて来た。(増刊「探偵小説傑作集」につゞく)

(※1)(※2)(※3)原文ママ。
(※4)原文圏点。
(※5)(※6)原文ママ。
(※7)原文中黒なし。
(※8)原文圏点。
(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文句読点なし。
(※12)原文圏点。
(※13)原文一文字空白。
(※14)手偏に「毟」。
(※15)原文の踊り字は「く」。
(※16)原文ママ。
(※17)(※18)(※19)原文の踊り字は「く」。
(※20)原文ママ。
(※21)原文の踊り字は「く」。
(※22)原文ママ。
(※23)(※24)原文圏点。
(※25)原文ママ。
(※26)原文圏点。
(※27)原文ママ。
(※28)原文圏点。
(※29)原文中黒なし。
(※30)(※31)(※32)原文圏点。
(※33)原文ママ。
(※34)原文一文字空白。
(※35)(※36)原文の踊り字は「く」。
(※37)句読点原文ママ。
(※38)原文ママ。文脈からして「検事」が正しい。
(※39)原文圏点。
(※40)原文の踊り字は「く」。
(※41)(※42)原文圏点。
(※43)(※44)原文の踊り字は「く」。
(※45)原文ママ。
(※46)原文圏点。
(※47)原文ママ。
(※48)原文閉じ括弧なし。

底本:『新青年』大正12年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細:翻訳編 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2017年4月14日 最終更新:2017年4月14日)

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