2021年5月19日水曜日

キープ 泉靖一 『インカ帝国』 1959 岩波新書

キープ

キープ

 インカ文明には文字が無く、数字を記録するキープ(結縄)が使われた。これはインカ帝国で発明されたものと思われる。キープの基本的構造は長さ約1mのやや太い主紐に、百本またはそれ以下の細い紐が直角にとりつけられ、それらの細い紐には彩色が施されてたり、途中からさらにひもがつけられている。この細い紐に結び目をつくることによって数を記録し、色分けした紐の種類で数の性質を分類するしくみであった。数は結び方によって示し、なにも結ばない0から、結び目の数で数値をあらわした。桁数は結び目から主紐までの距離によってさだめられている。インカ帝国ではキープの作製と解読の専門家、キープ・カマヨを養成し、都のクスコでは貴族の子弟の学校でキープの解読法を教えていた。<泉靖一『インカ帝国』1959 岩波新書 p.226>

飛脚(チャスキ)による伝達

 インカ帝国では、広大な帝国領に、都クスコを中心として道路網が建設された。この王道はできるだけ直線で作られ、つねに清掃されていた。この道を使って走り、王の命令を伝えた飛脚はチャスキといわれ、彼らは王の命令が記録されたキープを携え、ものすごい早さで王道を駆け抜けたという。その秘密は、疲労回復材として「コカの木」の葉を噛むことだった。コカには精神を高揚させ、疲労を忘れさせる興奮剤の効果があったのだ。コカはやがてヨーロッパにもたらされ、麻薬コカインに精製され、(販売当初の)コカコーラに含まれ、世界的な大ヒット飲料となっている。

旧世界の文明圏にあって、新世界でうまれなかったものには鉄、車などがある。その他、牛・馬・羊などの家畜、サトウキビ・コーヒーなどの作物、黒人奴隷はヨーロッパ人によって持ち込まれた。

 新大陸の現在のメキシコを中心としたアステカ文明や、現在のペルーを中心として栄えていたアンデス文明などの文明は、高度な社会組織・国家形態を形成していた。しかし、1492年にコロンブスアメリカ大陸に到達して、大航海時代が始まった頃には、当時ヨーロッパ文明のもとで一般化していた、牛・馬・羊という三種類の家畜とともに、鉄器・車輪・火薬などの人造物は存在しなかった。

インディオの農耕文明

 新大陸の先住民であるインディオは、トウモロコシジャガイモサツマイモ・落花生・南瓜(カボチャ)・数種の豆・トマト・トウガラシ・タバコなど、旧大陸には無い植物を栽培した。
(引用)しかし農具は、堀棒・踏み鋤・鍬の程度で、牛馬のような大型家畜を使用する犂類は知らなかった。一方灌漑の工事は精巧をきわめたが、家畜類は貧弱で、ヤーマ、アルパカ、ワナコのような駱駝科の動物と、七面鳥、鵞鳥、アジア系統の犬を飼育したに過ぎない。・・・・紡織、染色の技術は旧大陸のそれと変わらないが、土器をつくる場合、ろくろやうわぐすりを使用しなかった。金属器は、銅・青銅器をつくったが、を知らなかった。そのほか、ガラス、車、弦楽器、アーチ、円天井などはついに発明されなかった。<泉靖一『インカ帝国』1959 岩波新書 p.8>

ヨーロッパからもたらされたもの

 コロンブスの新大陸到達に始まり、まずスペイン人が西インド諸島に入植し、さらに南北アメリカ大陸の内陸に進出していくことによって、ヨーロッパ人の"文明"が持ち込まれることとなった。それは、牛・馬・羊などの家畜であり、鉄器・車などの道具、鉄砲・火薬などの武器であった。ラテンアメリカに入植したスペイン人やブラジルに入植したポルトガル人はサトウキビコーヒーなどを持ち込み、農園を経営するようになった。  インディオはこれらの農園での苛酷な労働によって急速に人口を減少させたが、彼らの人口減少のもう一つの原因はスペイン人が持ち込んだインフルエンザや天然痘、ペストと言った感染症によるものであった。またインディオ人口が減少したため、それに代わる労働力として導入されたのがアフリカからの黒人奴隷であった。

アメリカ大陸原産の栽培植物。大航海時代にヨーロッパにもたらされ、北ヨーロッパでは主食とされるようになった。

 ジャガイモは、トウモロコシトマトタバコトウガラシなどとともにアメリカ大陸原産の農作物の一つで、南米大陸のアンデス高地を原産地とするナス科の植物。その塊茎がが食用となる。中央アンデスの高地に自生していたものを長期にわたって栽培種に作り替えた。野生のジャガイモは苦みが強く毒性を持つが、アンデスの人々は独自の方法で毒抜きした乾燥ジャガイモ(チューニョ)を保存用食物とするようになった。ジャガイモの栽培化は紀元前5000年頃と考えられており、麦類や米が作られなかったアメリカ大陸で文明を生み出す重要な農作物となった。ジャガイモは大航海時代以来、ヨーロッパを通じて世界中で栽培されるようになり、寒冷に強いこと、収穫率がよいことなどから、現在は小麦、トウモロコシ、米に次いで栽培面積が世界4位となっている。特にヨーロッパでは18世紀の戦争と飢饉がくり返される中でジャガイモの重要性が増し、最も重要な農作物のひとつとなっている。

アンデス文明とジャガイモ

 アンデス文明の都市文明を産みだし、支えていたのはトウモロコシであったというのが従来の定説であった。増大した都市人口を支えるだけの食糧備蓄ができるのは、穀物かトウモロコシであるというのが一般的な理解となっている(教科書にもそのような説明がされており、南北のアメリカ文明を支えたものの第一にトウモロコシがあげられている)。しかし、最近ではアンデス高地の文明を支えたのはジャガイモであるとの説も出されている。この説ではアンデスの高冷地での栽培に適したものはジャガイモであり、さらにアンデスではジャガイモを乾燥させた「チューニョ」として保存されていることも知られ、食糧備蓄が可能であることから、ジャガイモによって文明化をもたらすことができたとしている。また、インカ帝国においても、主食はジャガイモであり、トウモロコシは儀礼用の酒の原料とされていたと考えられている。

戦争と飢饉でヨーロッパに普及したジャガイモ

 南米大陸のインカ帝国を征服(1532年)したスペイン人によってジャガイモがまずスペインにもたらされた(その正確な時期はわからない)。16世紀末まではフランス、ドイツに広がった。ドイツでは、悲惨な戦争と飢饉が続いた三十年戦争(1618~1648年)の時期にジャガイモ栽培がひろがった。ヨーロッパ北部の主作物は小麦やライ麦であったが、これらの穀物は収量が少なく飢饉が頻発していた。そのためヨーロッパ各国は戦争をくり返し、敵の麦畑を踏み荒らしたり、貯蔵庫の麦を略奪した。ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、畑を貯蔵庫がわりにして必要なときに収穫できたので、戦争の被害が比較的少なかった。そのためヨーロッパでは戦争がくり返されるたびにジャガイモ栽培が普及していく。戦争によるジャガイモの普及の発端となったのが1680年代のルイ14世によるベルギー占領の時であった。ドイツではスペイン継承戦争(1701~14年)の時にジャガイモが重要な作物になった。さらに、七年戦争(1756~63)のときにジャガイモが東方に伝わり、プロイセンやポーランドに広がった。スウェーデン軍もこの時プロイセンに出兵してジャガイモを持ち帰ったので、ジャガイモ戦争といっており、ジャガイモはこの国の主食とされるようになる。また、ナポレオン戦争(1795~1814年)によってロシアにまで拡大した。

Episode フリードリヒ大王とジャガイモ

 18世紀のプロイセンのフリードリヒ大王はジャガイモ栽培を農民に強制し、飢饉から人々を救ったとされている。家畜の餌とされていたジャガイモを人間が食べるようになった。生涯を戦争に明け暮れたフリードリヒ大王の最後の戦争が、1778年のバイエルン継承戦争(バイエルン王位をめぐる、オーストリアのヨーゼフ2世との戦争)では、オーストリア軍との間で、互いに敵国のジャガイモ畑を荒らしあったので「ジャガイモ戦争」と言われている(戦闘がヒマで兵士がジャガイモ栽培に精を出したためだとも言われている)。

Episode フランスのパルマンティエとジャガイモ

 七年戦争でドイツの捕虜となったフランスの農学者パルマンティエは、ジャガイモを食事に与えられたことをヒントに、フランスに帰国した後、ルイ16世の庇護のもとジャガイモ栽培の普及に努めた。彼はジャガイモが貴重な作物だと言うことを農民にわからせるため、ジャガイモ畑に見張りをつけて、夜になると見張りを立ち退かせてわざとジャガイモを盗ませるようにしたという。ただしこの話の真相は明らかではない。しかし彼によってジャガイモに対する偏見が打破され、フランスでジャガイモが普及するきっかけとなったことは確かで、彼の功績をたたえて、パリの地下鉄にはパルマンティエ駅があり、そこには彼が農民にジャガイモを手渡している像がある。<山本紀夫『ジャガイモのきた道』2008 岩波新書 p.67-68>

アイルランドのジャガイモ飢饉

 イギリスでは始めは有毒で危険な作物であるとか、聖書に書かれていないから「悪魔の植物」だ、などといわれて普及しなかった。広がったのは遅れて19世紀中ごろであった。それでもフィッシュ・アンド・チップスが庶民の食べ物として定着した。隣のアイルランドでは風土に適していたからか、17世紀からジャガイモが取り入れられ、18世紀には主食とされるようになった。ところが、1845年から始まったジャガイモ疫病の大流行によってジャガイモ飢饉といわれる大飢饉に陥った。飢饉は1851年まで続き、食糧不足と体力不足からチフス、赤痢、コレラなどが流行し、約100万人が犠牲となった。犠牲が大きくなった原因はアイルランドの食料がジャガイモだけに依存していたこと、緊急食料輸入が穀物法で制限されてできなかったことなどがあげられる。大飢饉に直面したアイルランドの人々はアメリカ大陸などに移民として逃れていくこととなる。<以上、山本紀夫『ジャガイモのきた道』2008 岩波新書 による> 

アメリカ大陸原産の栽培植物。スペインを経てヨーロッパに伝えられ、はじめは鑑賞用であったが、18世紀からイタリアでパスタ料理に使われるようになり、広がった。

 トマトはナス科の植物で、ジャガイモなどと同じ南米のアンデス高地が原産。アンデス高地からメキシコ高原に伝えられてアステカ族の栽培作物となった。現代は世界中に広がっているが、アメリカ大陸原産の農作物の一つで、新大陸からヨーロッパにもたらされた。コロンブスの新大陸発見の時にはまだ知られていなかったようで、ヨーロッパにもたらされた時期やルートは正確にはわからないが、ヨーロッパでは始めは食用ではなく、赤い実を鑑賞する植物とされ、やがて薬用とされるようになった。 → トウガラシ

南イタリアからヨーロッパで広がる

 17世紀以降、温暖で露地栽培が可能なイタリアで本格的に栽培されるようになり、シチリア島のその最大の産地となった。当初は毒性があると思われて、主に観賞用の植物として栽培されていたが、18世紀の末にはナポリでパスタと組み合わせて食べられるようになった。パスタやピザにトマトが用いられるのが一般化するのは19世紀中ごろのことである。アメリカにはイタリア移民がトマトの食文化を移植した。1876年にハインツがトマト・ケチャップを売り出し食材として広がった。アメリカ原産のトマトが、300年あまりを隔て、違った料理法として戻ってきたわけである。<宮崎正勝『モノの世界史』2002 原書房 p.165-168 などによる>

Episode トマトソース発祥の地 ナポリ

 新大陸からスペインに伝えられたトマトは、15世紀からスペイン領だった南イタリアのナポリでも知られるようになった。1554年に1隻のスペイン船がナポリに入港したとき、他の物品と共にトマトの種子が含まれていたと言われている。しかし、初めは他の毒性のある植物に似ていたのですぐには食用とはされず、17世紀にはその鮮やかな色彩を鑑賞するために庭やバルコニーで栽培されるようになった。中には勇敢にも味わってみようとして「金のリンゴ」と言った人もいたが、なぜか普及しなかった。
 17世紀の末になって、ナポリのラティーニという、高位聖職者や貴族に仕えた両人がレシピ「スペイン風トマトソース」を編み出した。それによると「完熟したトマトを炭火の上で焙り、丁寧に皮を取り、ナイフで細切れにする、そして刻んだ玉葱、胡椒、イブキジャコウソウあるいはピーマンなどを混ぜて風味をつけ、塩、油、酢で味を調える」というもんで、これがイタリア料理で大成功を収め、現在のようなパスタにトマトソースという組合せが確立した。18世紀にはトマトソース以外にもトマトの料理法を開発した料理人が次々と現れ、パスタとトマトはしっかり結びついて、ナポリはイタリアにおけるパスタ業の中心となった。<池上俊一『パスタでたどるイタリア史』2011 岩波ジュニア新書 p.84>  

トウモロコシ、ジャガイモなど世界の主要な農作物の中でアメリカ大陸原産の種が多数ある。サツマイモ、トウガラシ、トマト、タバコなども南米原産で現在は世界中で栽培されている。

 大航海時代の1492年、コロンブスアメリカ大陸に到達してから、いわゆるユーラシア旧大陸とアメリカ新大陸の間に交流が始まった。それはヨーロッパ諸国による征服と植民地化という一方的なものであって、スペインを初めとする絶対王政下の諸国に巨大な富をもたらすとともに、新大陸側はその搾取にさらされ、文明の破壊と人口減少という負の側面が大きかった。
 同時にこの新たな交流は、さまざまなモノの交流を伴うこととなった。その中で、それまでの旧大陸では知られていなかった栽培植物がもたらされ、新たな食糧源として利用されるようになった。その代表的なものに、ジャガイモトウモロコシサツマイモトマトトウガラシ、カボチャ、落花生などの農作物、タバココカ、カカオなどの薬草、嗜好品の原料となった植物である。

トウモロコシとジャガイモ

 アメリカ大陸原産の農作物の中では特にトウモロコシ、ジャガイモなどはインディオの生活を支え、彼らが生み出した文明の基盤となっていた。それが大航海時代に ヨーロッパにもたらされ、さらにその植民地となったアフリカやアジアの地域に広がり、現代の世界において、欠くことのできない食料源となっている。
 トウモロコシは紀元前1500年ごろメソアメリカ文明以来、メキシコで栽培され、アステカ文明を支えていた。しかし、アステカ王国1521年にスペインのコルテスによって滅ぼされた。ジャガイモはアンデス高地(現在のペルー)が原産地で、高地の山岳地帯で早くから栽培されの人々の生活を支えアンデス文明を成立させていた。彼らはこれらの作物栽培を基盤として階層社会を形成し、1200年ごろにインカ文明が形成され、15世紀ごろにインカ帝国が最盛期を迎えた。しかし、16世紀に始まったスペイン人のアメリカ大陸内陸への侵攻のなかでピサロによって征服され、1533年に滅亡した。こうしてスペインの植民地となったラテンアメリカからは、金・銀などの資源とともに、ジャガイモとトウモロコシなどの植物の栽培がスペインを通じてヨーロッパにもたらされることとなった。

コカとゴム

 またインディオの生活の中で自然に用いられていたタバコやコカは、医薬品や嗜好品としてもヨーロッパで使われるようになり、特にタバコは嗜好品として世界中に広がったが、現在は健康への悪影響が問題になっている。コカは本来のインカ文明においては神事に欠かせない神聖なもので、飛脚(チャスキ)館が元気を取り戻す活性剤として用いられていたが、ヨーロッパに伝えられるとその陶酔を催す力が始めは麻酔剤として利用されるようになった。しかし中毒性があるところから次第に覚醒剤(麻薬)コカインの原料として悪用されるようになった。
 ゴムは食物ではないが、やはりアメリカ大陸(西インド諸島)が原産で、コロンブスが二度目の航海の時の1493年に、西インド諸島エスパニョーラ島(現在のハイチ)でヨーロッパ人として初めてインディオがゴムのボールで遊んでいるのを見た。ゴムの木の樹液からできるラテックスは様々な用途に利用されることが明らかとなり、原産地の一つブラジルからスリランカやマレー半島にもたらされ、イギリス植民地経営の重要産物とされた。そして20世紀の初め、自動車の大量生産が始まると共にタイヤの原料として急速に需要が高まった。

新大陸に持ち込まれたもの

 コロンブス以前の新大陸を含む地球の西半球には、旧大陸で知られていなかった多くの動植物が独自の進化を遂げていた。そのうち、ジャガイモやトウモロコシなど栽培作物がが人間の手によってヨーロッパにもたらされた。同時に新大陸文明にないものとして牛・馬・羊という家畜とともに鉄器・車輪・火薬などの人工物が、新大陸に持ち込まれることとなった。新大陸で知られていなかった栽培作物で、ヨーロッパ人が持ち込んだものには、小麦(メソポタミア原産か)とサトウキビ(東南アジア原産か)、コーヒー(エチオピア原産か)などがある。

「コロンブス交換」

 これら大航海時代の新大陸(西半球)と旧大陸(東半球)のモノの移動は、コロンブスの新大陸到達をきっかけに始まったところから「コロンブス交換」といわれている。それは単にものの交換ではなく、双方の世界における自然界の生態系を変化させ、人間界の社会・文明に強い影響を与え、世界史を大きく塗り替えることとなった。
感染症の広がり この「コロンブス交換」には、文明の交換にとどまらず、人の移動によって感染症が双方の世界に広がったことが含まれている。旧世界からはインフルエンザや天然痘、14~16世紀に猛威をふるっていたペストが新大陸にもたらされた。これらスペイン人によってもたらされた感染症は免疫のなかったインディオの多くの命を奪った。その一方、梅毒は新大陸だけの感染症であったが、このときヨーロッパに持ち込まれ、大航海時代の船乗りによって世界各地に拡散したと考えられている。
 「コロンブス交換」は、決して等価交換であったのではなく、ヨーロッパ人による植民地化の過程で起こったことであり、征服の代償としてヨーロッパ側が支払った犠牲は多くはない。それよりも、ヨーロッパ文明が圧倒的な力でおよぼされ、キリスト教化とスペイン語・ポルトガル語によって新大陸の精神文化が絶滅したことが厳然たる事実である。また16世紀から本格化するヨーロッパ諸国の黒人奴隷貿易によってアフリカから黒人の大量移動があったことも考えれば、「コロンブス交換」という言葉は皮肉な言い方であることが判る。

アンデス高地で栽培される植物で麻酔作用があり、インカ帝国では祭祀などで用いられていた。スペイン統治下でインディオに強制労働を強いる際に用いられ、麻薬コカインの原料ともされている。

 トウモロコシジャガイモ、あるいは、トマトなどと同じくアメリカ大陸原産の農作物の一であるが、強い麻酔作用があるので用途は特殊なものであった。 インディオは、コカの葉を固めたものを噛むことによって、疲労を回復させたり、気力を持ち直すために用いていた。
 特に、インカ帝国時代のインカ文明では、宗教儀式で用いられていたほかにも、帝国内の道路網で通信伝達の役割を担っていたチャスキ(飛脚)も途中でコカの葉を噛んで走力を回復したという。しかし、コカの葉の使用はチャスキが使用する以外は、宗教的儀式と医療目的以外で一般に使用することは禁止されていた。

スペイン入植者のコカ悪用

 15世紀末に始まったスペイン人のアメリカ大陸征服活動によって、1533年にインカ帝国が滅亡すると、スペイン人支配者はコカの特性に着目した。カトリック宣教師は先住民に異教の儀式に使われるコカを禁止したが、入植者はインディオに対する強制労働を過酷な条件のもとで実施するに際し、彼らがコカに救いを求めることを知り、コカを栽培してインディオに売りつけ、暴利を貪るようになった。これによって多くのインディオは中毒に陥り、苛酷な労働に耐えられず多くが命を落とす結果となった。ポトシ銀山で銀の採掘が始まると老若男女をとわず鉱山で働いたが、スペイン人は彼らにコカの葉を与え、それまでコカの葉を使うことはほとんどなかった民衆が、コカの葉の虜になってしまった。1920年代には銀の生産は50%に伸びたが、その一方で先住民の鉱夫が推定で50万人が死亡している。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 p.70-75「コカノキ」>
インディオの銀とコカ 麻薬性のある「コカの葉」の生産と商業化はインディオが確保していた銀を、彼らから引き剥がすためであったとも言われる。コカの消費は植民地時代、インカによって統制されていた時代に比べて40~50倍にまで拡大したといわれているが、植民地当局が異教の儀礼との関連性や健康的な配慮からしばしば禁制の対象としたにもかかわらず、「必要悪」コカの葉は蔓延していった。1565年当時、クスコのスペイン人市民のうち3分の2がコカの取り引きにかかわっていたともいわれる。ある役人はコカはインディオから彼らの銀を引き離す磁石であるといっている。<網野徹哉他『ラテンアメリカ文明の興亡』世界の歴史18 1997 中央公論社 p.137-138>

麻薬コカイン

 コカの木はアンデス山地で自生する灌木で、その葉を噛むと脳内に濃度の高いドーパミンが分泌され、陶酔作用に陥る。インディオの間では2000年も前からその効力が知られており、コカの木は霊力があるものとして崇拝されていた。スペイン人によってヨーロッパにも知られるようになると広く用いられるようになり、19世紀のアメリカ南部ではプランテーション経営者は黒人奴隷の食事にコカをまぜて与えて苦役から解放される幻想を与えた。1855年にはコカからアルカロイドが分離され、3年後にはコカインと名付けられ、麻酔薬や鎮痛剤として用いられるようになった。ウィーンの精神分析医フロイトもコカインを研究し、自らも常用した。しかし次第に中毒性があることが問題視され、フロイトも友人がコカインの過剰摂取で鬱病の発作を起こして死んだことからコカインを断ったという。一旦麻薬として出回り始めたコカインは、現在も闇社会で流通し、毎年のように死亡者を出している。ナチスドイツのゲーリングもコカイン中毒者だった。<ビル・ローズ『同上書』 p.70-75>
コカ戦争  アメリカで麻薬として密売されていたコカインはボリビアの農村で栽培されるコカを原料とし、ボリビアの軍事政権がアメリカのギャングと手を結び、その資金源として密輸していた。しかしその蔓延に手を焼いたアメリカは、1990年代に米軍のヘリコプターを派遣してコカ畑を焼き払うという強硬策に出た。時のボリビア政府は親米政策をとっていたが、このことに農民が反発して反米運動が激化し、モラレス左派政権が生まれるきっかけとなった。これはコカ戦争と言われた。現在は、コカはマテ茶の原料として栽培されている。

Episode コカとコーラが合体

 1886年、アトランタの薬剤師ジョン=ペンバートンはコカの葉を赤ワインに6ヶ月浸して売り出し、爆発的に売れた。しかし、アトランタでアルコールが禁止されたため、ノンアルコール飲料をつくろうと考えた。そのころアフリカ原産のコーラナッツが知られるようになった。コーラナッツ kola nut はアフリカのナイジェリアでヨルバ族が宗教儀式の時に用いていたもので、コーラの木の実にアルカロイドであるカフェインが約2%含まれ、他に強心作用などもあるものだった。コーラエキスを使った飲料はノンアルコールドリンクとして紅茶やコーヒーと拮抗する可能性があった。
 ペンバートンはコカの木の葉のエキスとコーラナッツから抽出したカフェインを含むノンアルコール飲料を作り、コカ・コーラ(Coca Cola)を売り出した。ペンバートンは商才はなかったらしく、そのレシピはまもなくエイサ=チャンドラーという実業家に売却され、チャンドラーの手で世界で最も有名なブランドとなり、世界最大の飲料メーカーに成長した。発売当初に含まれていたコカインの成分は現在では含まれていないが、コカインよりも欲求を抑えにくい成分、つまり砂糖が加えられている。<ビル・ローズ『同上書』 p.73-74>

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