2021年9月1日水曜日

探偵小説と叙述トリック

参考:

ポー お前が犯人だ

https://ja.wikipedia.org/wiki/お前が犯人だ


スミルノ博士の日記

https://freeassociations2020.blogspot.com/2021/05/wikipedia.html?m=1



番(つがい) ダフネ・デュ・モーリア


https://iitomo2010.blogspot.com/2021/04/blog.html?m=1

古畑任三郎

https://iitomo2010.blogspot.com/2021/03/wikipedia.html


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探偵小説と叙述トリック ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか? - ミステリの構造論まで深く掘り下げた論考 - シミルボン

ミステリの構造論まで深く掘り下げた論考

 本作は、『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』というサブタイトルがつけられていることからもお分かりのとおり、著者が『ミステリ・マガジン』に同タイトルで連載していたミステリ論の91回から120回までをまとめたものに加筆修正した作品になります(1回から30回までは『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』として、31回から60回までは『探偵小説と20世紀精神』、61回から90回までは『探偵小説と記号的人物』としてそれぞれまとめられています)。

 本作では、著者が『第三の波』と呼ぶ本格推理小説の一つの区切りの起点となったとする辻本行人作『十角館の殺人』が叙述トリックであること、そもそも我が国の本格推理小説の『第一の波』の起点であった江戸川乱歩作『二銭銅貨』もやはり叙述トリックを用いていたことを指摘し、叙述トリックに焦点を当てて論考した作品になっています。

 まず、はじめに叙述トリックとはどういうものを指しているかについて確認しておきましょう。
 ミステリにおける通常のトリックは、作中の犯人が探偵に向けて仕掛けるトリックです。
 作品の外にいる読者は、作品のテキストを通じてそれを読み、その謎を解こうとするわけです。
 もちろん、犯人が探偵に向けて仕掛けるトリックというのは、とりもなおさず、やはり作品外にいる(つまりメタな存在である)作者が、作中の犯人を通じて探偵に仕掛けているわけですが、それはさらに探偵を通じて作品外にいる読者に向けられているとも言えます。

 これに対して、叙述トリックと呼ばれるものは、作品外の作者が、やはり作品外の読者に向けて、作品のテキストを通して直接仕掛けているトリックと言う事ができます。
著者がいうところの『第三の波』では、このようなメタな叙述トリックが用いられている例が大変多いというのですね。

 このような叙述トリックを巡り、著者の論考はミステリの文体、作品構造にまで及んでいきます。

〇 一人称ミステリの場合
 ミステリが一人称で書かれている場合、そこに書かれていることは語り手の視点で書かれていることになり、あくまでも語り手の主観を通して見た(感じた)事柄という意味合いを持ちます。
 ですから、語り手が誤解しているのであれば、それは誤解したままがテキストに著されることになります。

 例えば、ホームズものは、語り手であるワトソンの一人称で書かれていますので、そこに書かれていることはあくまでもワトソンが見て、知って、感じたことになるわけで、客観的真実と必ずしも合致はしていませんし、また、探偵であるホームズが考えていることでもありません。
 ですから、読者は、いくらワトソンがこの事件の真相はこうであろうと書いていても、それが探偵であるホームズが解き明かした真相を聞いて書いているのでない限り、ワトソンの考えに過ぎないということを承知の上で読んでいるわけで、ワトソンが言っているだけでは真偽は不明と判断するわけです。

 叙述トリックの傑作とも言える、クリスティの『アクロイド殺し』も途中まではやはり一人称で書かれています。
 この作品、フェアかアンフェアかで論争を呼んでいるわけですが、二階堂黎人はアンフェアを主張します。
 その理由を簡単に言ってしまうと、『アクロイド』はいきなり『私』の一人称で書かれているため、それはあくまでも語り手(実はこの部分は手記なので書き手と言うべきでしょうか)が好き勝手に書いているに過ぎず、その内容が真であるという保障を与えられていない。
 従って、そこに書かれていることを基にして推理しようにも真偽が確定していない以上推理のしようが無く、そのような手掛かりで犯人を当てろと言われてもアンフェアであるということになるでしょう。

 著者は二階堂とは異なる立場を取り、二階堂に反論しています。
 二階堂の論で行けば、『私』の一人称の部分の冒頭に、作者が登場して、「以下の一人称の部分に嘘は無い」とでも『枠囲い』をすれば真であることの保障が与えられるからフェアであるということになるが、結局、そのような『枠囲い』を与えたところで同じ事であると言うのです。
 というのは、『アクロイド』の解決編はやはり『私』の一人称で語られ、そこで作者が(『私』を通じて仕掛けた)叙述トリックが明かされ、それが真相であるとされるわけであるが、その解決編も一人称で書かれている以上、やはり真であるという保障は与えられないではないかというわけです。

 加えて、一人称ミステリの場合であっても、三人称のところで述べる『語り落とし』は使えるわけで(それもアンフェアであるというのなら別ですが)、いくら書いてあることに嘘はないと保障しても無駄であるとも言えます。

 そもそも、ミステリというものは、叙述トリックを使っていなくても、作者は問題編では全ての事実をテキストに書いているわけではありません。
 多かれ少なかれ『語り落とし』をしているわけで(そうでなければ謎は生じませんから)、『語り落とし』というものはミステリにつきものだとも言えるのではないでしょうか。

〇 三人称ミステリの場合
 三人称で書かれている場合、その書き手は神の視点を持った者(作者)であるため、その部分に書かれていることは真であるという作者と読者との暗黙の了解があるというのが近代小説の前提です。
 そこに嘘が書かれていたのでは作品が成立しないというわけですね。
 しかし、もちろん、三人称で書かれた作品であっても叙述トリックは成立します。
 それは、積極的に嘘をついてはいないが、重要な部分を『語り落とし』することは可能であり、また、『語り落とし』によって引き起こそうとしている読者の誤解を助長する策略的な記述もまた使うことができるから。

 ちょっと寄り道になりますが、さらに言えば、三人称ミステリの場合、さらにこのような問題もあると指摘します。
 作中で探偵が入手した証拠以外の証拠が無いという保障が作中にはないではないか。
 もしかしたら探偵が入手した証拠を覆すような他の証拠が存在しているかもしれず、そのような証拠は存在しないとは作中では保障されていないではないかというわけです。
 この問題を回避しようとしたのがクイーンであり、『読者への挑戦』を挟むことにより、作者(神)の視点から、「ここまでで全ての証拠は出そろった」と保障を与えることによりこの問題を回避したというわけです。

 しかし、実はさらに『後期クイーン的問題』と呼ばれる問題があると指摘されていることはご承知のとおり(これはクイーン作の『ギリシャ棺の謎』がきっかけで論じられた問題です)。
 なるほど確かに読者への挑戦により、証拠が出そろったということは保障されたかもしれない。
 しかし、その証拠が犯人によって偽造された証拠ではないという保障はどこにあるのか?と。
 『ギリシャ棺』ではエラリーはまさに犯人が偽造した証拠により誤った推理をしてしまう場面が描かれます。
 そういうことがあり得るということを意識させた作品でもあるわけですね。
 であるならば、『読者への挑戦』で出そろったと保障が与えられた証拠の中にだって、やはり犯人によって偽造された証拠が含まれているかもしれないじゃないかというわけです。

 じゃあ、『読者への挑戦』で、「出そろった証拠は全て本物である」ということも保障すれば良いのでしょうか?
 でも、出そろった証拠からAという作中人物が犯人であるということは理論的に推理できるかもしれないが、そのAは別のB(もっと言えばさらにその背後にいるC、D……と無限に続きうる連鎖)という人物に操られていたという可能性を読者に提示された証拠からどうして排除できるのか?と。
 一体、『読者への挑戦』でどこまでの保障を与えなければならないということになるのでしょうかね?

 そして、これらの問題は、実は、作者による保障がどこまで及ぶのか、そもそもそれは必要なのかという叙述トリックとも根っこを同じくする問題に逢着することになるわけですね。

 本書では、このようにミステリの構造にまで立ち入って叙述トリックについて論考されており、大変深い内容になっています。
 まあ、普通にミステリを楽しんでいる読者の多くは、そこまで神経を使ってテキストを読んではおらず、素直に読んで結末に驚くことができれば十分満足するとは思うのですが、実はこういう問題があるのだということ、そしてミステリを書く側はそこまで考えて書いているのだということを考えさせられる好著だと思います。

 かなり論理的で込み入った議論が展開されていますので、読んでいて頭が痛くなるという方もいらっしゃるかもしれませんが、ミステリを深く極めてみたいという方にはお勧めの一冊です。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E8%AA%9E%E3%82%8A%E6%89%8B

信頼できない語り手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、信用できない語り手、英語Unreliable narrator)は、小説映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手ナレーター語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者観客を惑わせたりミスリードしたりするものである[1]。 

目次

  • 1 概要
  • 2 定義と理論的アプローチ
  • 3 信頼できない語り手の例
    • 3.1 読者を騙す語り手
    • 3.2 精神に問題のある語り手
    • 3.3 子供の語り手
    • 3.4 記憶のあいまいな語り手
    • 3.5 複数の信頼できない語り手
    • 3.6 三人称の信頼できない語り手
  • 4 脚注
  • 5 参考文献
  • 6 現実世界において
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

概要

この用語はアメリカの文芸評論家ウェイン・ブース(Wayne C. Booth)の1961年の著書『フィクションの修辞学』[1][2]The Rhetoric of Fiction)の中で初めて紹介され、語り手に関する議論において「一人称の語り手は信頼できない語り手である」との論が張られた。 

信頼できない語り手の現れる語りは、普通一人称小説(ジュネットの言う「等質物語世界的」)であるが、三人称小説(同じく「異質物語世界的」)の語り手も、限られた視点からの情報を語ることなどによって信頼できない語り手となることがある[3]。読者が語り手を信頼できなくなる理由は、語り手の心の不安定さや精神疾患、強い偏見、自己欺瞞、記憶のあいまいさ、酩酊、知識の欠如、出来事の全てを知り得ない限られた視点、その他語り手が観客や読者を騙そうとする企みや、劇中劇妄想などで複雑に入り組んだ視点になっているなどがある。 

語り手の信頼度には、『白鯨』の信頼の置けそうなイシュメールから、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手たち、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』におけるハンバート教授まで大きな幅があるが、全ての語り手は一人称小説であれ三人称小説であれ、知識や知覚の限界があることから信頼できないともいえる。 

語り手の陥っている状態は、物語の開始と同時にすぐ明らかになることもある。例えば、語り手の話す内容が最初から誤っていることが読者にも分かるようになっていたり、錯覚や精神病などである。この手法は物語をよりドラマチックにするため、劇中で明かされることが多いが、語り手の信頼できるか否かが最後まで明らかにされず、謎が残されたままの場合もある。 

定義と理論的アプローチ

ウェイン・ブースは「信頼できない語り」に対して読者に焦点を置いた研究方法を公式化した初期の批評家であった。信頼できる語り手と信頼できない語り手を区別するのに、語り手の語りが社会の一般的な規範や価値観に準拠しているか、違反しているかどうかを根拠にしようとした。彼は、「語り手が作品内の規範(それはいわば、暗黙の著者英語版[4]の持つ規範でもある)に対し、代弁していたり従っていたりするときは、語り手のことを信頼できると呼び、そうでない場合は信頼できないと呼んできた」と書いている[2]。ピーター・J・ラビノウィッツ(Peter J. Rabinowitz)はブースによる定義を、個人的意見に必然的に左右される規範や倫理といった物語外部の事実によりかかりすぎると評している。ラビノウィッツは、信頼できない語り手に対する研究方法を次のように修正している。 

信頼できない語り手というものがある(ブースを参照せよ)。信頼できない語り手は、しかしながら、単に「真実を言わない」語り手のことではない(フィクションの語り手が文字通りの真実を語ることなどあるだろうか?)。信頼できない語り手はうそを語ったり、情報を隠したり、物語の読者に関して判断を誤る人物であるというよりは、その述べることが、現実世界や著者の聞き手のもつ基準にとってではなく、語り手自身の物語の聞き手の基準にとって正しくないことを言う人物である。……言葉を替えると、すべてのフィクションの語り手は現実の模倣という点で誤っている。しかし本当のことを言う人の模倣である場合もあるし、うそをつく人の模倣である場合もある。[5]

ラビノウィッツの論の主な焦点はフィクションの中の言説の地位であり、事実性ではない。彼はあらゆる文学作品の受け手の役をする読者を4つに分類し、フィクション内の真実についての問題を論じている。 

  1. 実際の読者(Actual audience, 本を読む、肉体を持つ現実世界の人々)
  2. 著者の読者(Authorial audience, 現実世界の著者が書くテクストの宛先である、架空の読者)
  3. 物語の読者(Narrative audience, 詳しい知識を所有する、模造された読者。物語内の「語り手」に対する、物語内の「聞き手」)
  4. 理想の物語の読者(Ideal narrative audience, 語り手の言うことを受け入れてくれる、批判的でない読者)

ラビノウィッツは、「小説の本来の解読において、紹介される出来事は同時に「真実」であり「非真実」であると必ず扱われる。この二重性を理解する方法はたくさんあるが、それが生み出す四種類の読者を分析することを提案したい」と述べている[5]。同様に、タマル・ヤコビ(Tamar Yacobi)は語り手が信頼できないかどうかを決める五つの基準のモデル(統合のメカニズム)を提案している[6]。アンスガー・ニュニング(Ansgar Nünning)は、暗黙の著者の置いた仕掛けに依存したり、信頼できない語りについてのテキスト中心の分析をしたりする代わりに、語りの信頼できなさはフレーム理論(frame theory)の文脈や読者の認知戦略の文脈から新たに概念化できるという根拠を示している[7]。信頼できない語りは、この観点からみれば読者がテキストに意味を持たせようという戦略、つまり語り手の叙述の不一致点を調和させようという戦略になる。ニュニングは個人の意見に左右される価値判断に依存して信頼性を判断することを効果的に排除している。 

信頼できない語り手の例

信頼できない語り手を分類する試みには、ウィリアム・リガン(William Riggan)による1981年の研究がある。これは信頼の低い語りのなかでももっとも一般的な一人称視点の語り手に焦点を当てたものである[8]。彼は次のような分類を行った。 

悪党(Pícaro)
誇張や自慢の激しい語り手である。古代ローマの劇作家プラウトゥスの喜劇『ほらふき兵士英語版』や、近代の例としては『モル・フランダーズ』、『阿呆物語』、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』などが挙げられている。
狂人(Madman)
自我が不安に陥るのを防ぐために感情を抑圧したり、軽い解離離人症に陥ったりするなど、防衛機制を働かせているだけの語り手もいれば、統合失調症偏執病に陥るなど重度のパーソナリティ障害に陥っている語り手もある。自己疎外に陥っているフランツ・カフカの小説の語り手や、タフでシニカルな語りをすることで自分の感情を隠そうとするノワール小説ハードボイルドの語り手も含まれる。
道化(Clown)
自分の語りを真剣に受け止めず、対話や真実といったものを意識的にもてあそび、読者の期待を翻弄する語り手である。『トリストラム・シャンディ』の語り手が例に挙げられる。
世間知らず(Naïf)
ものごとの認知が未熟な語り手や、ものごとの認知に限界のある視点に立つ語り手などである。『ハックルベリー・フィンの冒険』や『ライ麦畑でつかまえて』の語り手が例に挙げられる。
嘘つき(Liar)
健全な認知力をもつ成熟した人物だが、過去の不穏当な行動や信用に傷をつけるような行動をあいまいにするため、わざと自分自身のことを事実を曲げて語るような語り手である。フォード・マドックス・フォードの『かくも悲しい話を… 情熱と受難の物語英語版』が例として挙げられる。

読者を騙す語り手

読者や他の登場人物を騙そうとする人物は、信頼できない語り手である。 

アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』は、探偵と行動を共にする語り手の書いた手記という形式になっているが、実は語り手が犯人だったというトリックが成り立っている。語り手は「嘘は書かなかった」と作中で弁明しているが、殺人を犯した決定的な瞬間は曖昧に書いている。こうしたトリック(叙述トリック)は、発表当時に一部からアンフェアだと批判されたが、現在ではよく利用されている。 

日本では横溝正史の『蝶々殺人事件』『夜歩く』、高木彬光の『能面殺人事件』、栗本薫の『ぼくらの時代』などで「語り手(事件の記述者)=犯人」という形式を採用している。 

1995年の映画『ユージュアル・サスペクツ』では、警察に尋問される容疑者が「信頼できない語り手」となっている。容疑者は、カイザー・ソゼと呼ばれる謎の犯罪者の事件の詳細を語るが、映画の最後で、それらが即興ででっちあげたものであり、カイザー・ソゼの正体は彼自身であったことが示唆されて終わる。 

シャーロック・ホームズシリーズ』の主な語り手であるジョン・H・ワトスンは誠実な人物として描かれるが、事件の描写についての正確性をシャーロック・ホームズから疑問視される事がある(ただし、ホームズ自身がミスリードしている場合もある)。 

ジーン・ウルフの『ケルベロス第五の首』では、異星人というSFの設定を用いて、正体を隠そうとする語り手を登場させている。 

精神に問題のある語り手

知的障害や精神疾患のある語り手は、健常者とは違う表現をするため、結果的に「信頼できない語り手」になることがある。 

ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手の中には、知的障害を抱える人物が登場する。 

映画メメント』では、語り手は前向性健忘のため記憶を10分以上保てなくなっており、過去の出来事や自分の動機が何だったか、信頼できる方法で語ることが困難な状態である。またカットバックが多用されているため、何が真実なのか不明のままになっている。小説版では章の時系列が曖昧な構成になっている。 

夢野久作の『ドグラ・マグラ』では、本人の自覚しない理由で、精神病院に入院している人物が主人公となっている。「自分が犯したかもしれない犯罪」を解決しようと努力する話であるが、「その物語自体が、発作による偽の記憶であるかもしれない」ことが示唆されている。 

江戸川乱歩の『孤島の鬼』の中盤に登場する日記では、生まれた直後から土蔵に閉じ込められて育てられた少女が書き手であり、一般知識の大きな欠落と別の異常環境要因が歪な記述となって現れており、「どうしてあの人には顔がひとつしかないの」といった文が登場する。 

H・P・ラヴクラフトによる『クトゥルフ神話』では、恐怖に晒されて正気を失った一人称の語り手を起用することが多く、これらの語り手を信頼できなくすることで謎を謎のまま残している。また語り手が自分の見た出来事を超自然的に解釈することを堅く拒み通すものの、最後に恐ろしいものに直面したことを認めざるを得なくなる、という手法をしばしば使っている(『ピックマンのモデル』など)。 

映画『ジョーカー』では、主人公のアーサー・フレックの視点で物語が進むが、途中で、アーサーが体験したはずの出来事の一部が妄想であったことが明らかになる。また、物語終盤は精神病院に収容されたアーサーの場面となり、ますます事実と妄想の境界線が曖昧になったまま終わる。 

子供の語り手

子供が語り手となる物語では、経験不足や判断力不足のため、「信頼できない語り手」になることがある。 

1884年の『ハックルベリー・フィンの冒険』では、主人公ハックは未熟なためもあり、登場する人物達に対する判断は、実際以上に寛大なものになっている。ハックが作者の「マーク・トウェインさん」をとがめる場面もあり、作中人物と現実の作者が交錯している(「第四の壁」を破る例でもある)。逆に、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドは、周りの人物達を酷評しがちである。 

記憶のあいまいな語り手

精神疾患というほどでもないが、事故直後のショックや物忘れ、思い出したくない過去があるなど、あいまいな記憶を持つ人物が語り手になっている場合も、信頼できない語り手となることがある。 

イギリスの小説家カズオ・イシグロは『日の名残り』などで、自分の人生や価値観を危うくするような過去の記憶から逃げている等、記憶を操作していたり記憶があいまいだったりする一人称の語り手を登場させ、最後には語り手が記憶と事実のずれに直面せざるを得なくなるような物語を多く書いている。 

志駕晃の小説『ちょっと一杯のはずだったのに』では、主人公は、著しい酩酊のために、酩酊時の記憶が当人自身にも残っておらず殺人の有力容疑者となってしまう。しかも密室であったために、酩酊状態で密室を構築したのではないか、とまで疑われるが、当人は確信をもって否認できず、読者も、主人公が犯人かどうかわからないまま進行する。 

複数の信頼できない語り手

複数いる語り手たちが私利私欲、個人的な偏見、恣意的な記憶のために全員信頼できないという作品もある。 

映画『羅生門』や、その原作である芥川龍之介の『藪の中』では、ある武士の死について複数の人物が検非違使に証言をするが、各人の語る証言は詳細が異なり、それぞれが矛盾する内容になっている。『藪の中』が下敷きにしたアンブローズ・ビアスの『月光の道』もほぼ同様である。『羅生門』は海外でも高く評価され、各証人の発言が矛盾する事態を指す「羅生門効果」という用語も生まれた。 

男女間の立場についての食い違いはモチーフとして広く取り上げられ、『ヒー・セッド シー・セッド 彼の言い分 彼女の言い分』や『グリース』などでは、男性側と女性側とで自分たちの関係についての言い分が完全に食い違う。またさだまさしの歌う『検察側の証人』では、ある破局に対し全く異なる主張をする3人の語り手が、1・2・3番を歌う形を採っている。 

湊かなえの小説『告白』では、登場人物達は作中で行われた事象を全て把握しているわけではなく、殺人事件の実情を被害者の母親である主人公は「主犯はともかく、直接手を下したもう一人の犯人には殺意はなかった」と思っていたのに対し、事件を行ったもうひとりの犯人は「殺意を持って殺した」としているといった錯誤がいくつもある。 

同人ゲーム『ひぐらしのなく頃に』では、シリーズ化された作品ごとに主人公が異なる。主人公たちは「雛見沢症候群」という精神疾患を発病して非常に猜疑心の強い状態となっており、次第に妄想と現実が曖昧になり発狂状態となって殺人を行い、遺書のような手記を残して死亡する。 

三人称の信頼できない語り手

一人称の登場人物ではなく、ある登場人物に焦点を当てる一元視点の三人称小説(異質物語世界的)の語り手が、視点の限界から一種の信頼できない語り手と似た効果を生むとシュタンツェルは指摘する。また、物語を見回す全知の三人称の語り手も、重要な出来事を省略することによって読者や観客を騙す場合がある。 

アンブローズ・ビアスの短編小説『オウル・クリーク橋の出来事』はその古い例で、語り手が述べるある男の物語は途中からすべて空想だったことが明らかになる。 

脚注

  1. a b Frey, James N. (1931). How to Write a Damn Good Novel, II: Advanced Techniques for Dramatic Storytelling (1st ed.). New York: St. Martin's Press. p. 107. ISBN 978-0-312-10478-8 2013年4月20日閲覧。
  2. a b Booth, Wayne C. (1961). The Rhetoric of Fiction. Univ. of Chicago Press. pp. 158–159
  3.  Unreliable Third Person Narration? The Case of Katherine MansfieldJournal of Literary Semantics, Vol. 46, Issue 1, April 2017
  4.  実際の著者とは異なる、読者がテキストから想像して形成した著者のイメージ
  5. a b Rabinowitz, Peter J.: Truth in Fiction: A Reexamination of Audiences. In: Critical Inquiry. Nr. 1, 1977, S. 121–141.
  6.  "Living Handbook of Narratology". 2013年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月1日閲覧。
  7.  Nünning, Ansgar: But why will you say that I am mad?: On the Theory, History, and Signals of Unreliable Narration in British Fiction. In: Arbeiten zu Anglistik und Amerikanistik. Nr. 22, 1997, S. 83–105.
  8.  Riggan, William (1981). Pícaros, Madmen, Naīfs, and Clowns: The Unreliable First-person Narrator. Univ. of Oklahoma Press: Norman. ISBN 978-0806117140

参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2010年9月
  • ウェイン・C. ブース(1961年)『フィクションの修辞学』米本弘一・服部典之・渡辺克昭訳(1991年)、水声社 ISBN 4-89176-247-0
  • F. シュタンツェル(1979年)『物語の構造:〈語り〉の理論とテクスト分析』 前田彰一訳(1989年)、岩波書店 ISBN 4-00-002279-2
  • ジェラール・ジュネット(1972年)『物語のディスクール:方法論の試み』、花輪光・和泉涼一訳(1985年)、水声社 ISBN 4-89176-150-4

現実世界において

1974年に起きた甲山事件は、証人が、まさに信頼できない語り手であり、証言の信頼性をめぐって、裁判は異例の展開をたどっている。 

関連項目

外部リンク

ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。
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面白い叙述トリックまとめ

Aug 9, 2012

最近「叙述トリック」を使ったミステリー小説にハマってます。

叙述トリック
ミステリ小説において、文章上の仕掛けによって読者のミスリードを誘う手法。具体的には、登場人物の性別や国籍、事件の発生した時間や場所などを示す記述を意図的に伏せることで、読者の先入観を利用し、誤った解釈を与えることで、読後の衝撃をもたらすテクニックのこと。
叙述トリックとは – はてなキーワードより

ここ1ヶ月で叙述ミステリー小説を10冊くらい読んでいてマイブームまっただ中なのですが、
そんななか見つけた、
2chで見つけた叙述トリックコピペ:哲学ニュースnwk
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4097193.html

という記事が面白かったので、いくつか紹介します。

授業中

授業中、僕はぼんやり外の景色を眺めるのが好きだった。
帰ったら何して遊ぼうかとか、どこか遠くに行きたいとか、
いろんなことを思いながら、窓の外ばかり見てた。 

午後の授業なんかだと、ついつい寝ちゃうこともある。
隣の女子校で体育をやってたりすると、それはもう大変
何も考えられずに食い入るように見ちゃう。 

はちきれそうな太もも、のびやかな肢体、見てるだけで鼓動が高鳴った。
あのコがいいとかこのコもいいとか、もう授業中だってことなんか
完全に忘れてずっと見てた。楽しかった。
でもそんなことしてると、いつも必ず邪魔が入るんだ。 

「先生、授業してください」 

生徒目線のように思わせるミスリードですね、先入観を上手く利用してます。

お菓子

185 名前:iPhone774G [sage] :2011/02/08(火) 01:38:45 ID:DaJYsS4W0
105円以内で一番満足出来るお菓子 

1 名前:びぷます 投稿日:2007/12/15(土) 16:57:41.75 ID:HPIO0w/rO
50円+50円等の組み合わせでもおk
俺はウエハース 

2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日:2007/12/15(土) 16:58:26.07 ID:jz6X144K0
うまい棒*10
俺は人間 

これを叙述トリックというとちょっと違う気もしますが、
「俺は人間」という1行のせいで、その前の書き込みの人がウエハースにしか見えなくなる不思議です。

玩具

掃除の最中に玩具箱を見つけてしまったのが間違いだった。
掃除をそっちのけで玩具箱をひっくり返し、既に五時間以上遊んでしまっている。 

初代ファミコンでロックマン2をクリアしたばかりの俺は電源を落としたものの、
新しく見つけた思い出の品を手にとっては
「そういえば、当時は5面だけクリアが出来なかったんだよなぁ」などと、懐かしんでいる。
当時のブームに乗じたパチものも多かったけど、俺のはバンダイナムコグループの正規品。 

友達と1面だけのクリアスピードを競いあうタイムアタックに挑戦したりもした思い出の品だ。
今ならクリアできるだろうか? と思い立ち、最後に一度だけ遊んでみる。
動作に不安があったけど、長いこと放置していたわりには問題なく動く。
1面ずつ順に攻略していくことにした。
1面は難なくクリアできた。2面も少しは戸惑ったけどクリア。 

3面をクリアする頃には昔の勘を取り戻し。
4面をクリアして、ようやく当時の自分が5面だけクリアが出来なかった理由に気付いた。
正確には今の自分でも5面だけクリアは出来ない。そもそもそういう仕様なのだ、コレは。
だって、5面をクリアすると、同時に6面も揃っちゃうんだもの。 

ルービックキューブというオチ。
ファミコンの電源は切った、という記述があるため、
ファミコンじゃないということに気付ける余地があるのがにくい。

プロポーズ

俺、子供んときに近所の子にプロポーズしたことあるんだけど
そのネタで小学校で「あいつが私にwぷぷぷ」って6年馬鹿にされ、
中学校で3年馬鹿にされ、高校でも3年馬鹿にされ
未だに夕食の時に馬鹿にされる

すごくほっこりしますね。最後の一行で幸せいっぱいになります。

いかがでしたでしょうか。
このような叙述トリックが好きな方は、ぜひ叙述ミステリーを読んでみてください。

個人的に好きな作品は、葉桜の季節に君を想うということ、イニシエーション・ラブ、ロートレック荘事件、砂漠、十角館の殺人です。
特に、最近読んだ「葉桜の季節に君を想うということ」「イニシエーション・ラブ」のふたつは衝撃だった。
気持よく騙される快感がたまりません。是非!

白坂翔

白坂翔

東京のWEB制作会社の代表をしています。デザイナー兼ディレクター。
JELLY JELLY CAFEというお店のオーナーでもあります。MORE



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