2020年9月27日日曜日

可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル 山田広昭 2020/9

  1. 山田広昭『可能なるアナキズム』

    マルセル・モース(Marcel Mauss、1872 - 1950
     https://nam-students.blogspot.com/2019/03/marcel-mauss-1872-1950-httpnam-students.html
    ソレル 1847~1922
      http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/vs.html

    NAMs出版プロジェクト: プルードンと集合力
     http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_2.html

    ドーナツ経済学


    スピノザの「マルチチュード」とプルードン:(&マルクスと神学政治論)


    《…宇野(=マルクス)とポランニーの洞察は、柄谷行人の『世界史の構造』によって、モースの贈与体系の分析と結び合わされた上で、文字通り世界史的な、かつ(これが主たるポイントであるが)来たるべき社会を見通すようなパースペクティヴを与えられることになった。 

    柄谷の独創は、下部構造論(経済決定論)の再評価を、ポランニーがまさに経済決定論を批判するために提出した原理、すなわち彼が「本来的に経済とは無縁の」行動原理とみなした「互酬」と「再分配」とを、「(商品)交換」と並ぶ交換様式(経済的下部構造)として位置づけ直すことによって行ったことにある。》

  2. 山田広昭『可能なるアナキズム』#11交換様式D
  3. 169〜171頁


  4. https://inscript.co.jp/b1/978-4-900997-77-6

    可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル | 山田広昭 |本 | 通販 | Amazon

    https://www.amazon.co.jp/可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル-山田広昭/dp/4900997773

    説明
    内容紹介
    権力なき共生はいかに可能か。マルセル・モースに端を発し、ポランニーを経由して、柄谷行人の交換様式論にいたる流れを追い、マルクス、ワルラスらの理論的探求、グレーバー、J・C・スコットらの実践的展望を援用しつつ、贈与のモラルを内包した交換様式の実現に来たるべき社会の構成原理を見出す。モースをアナキズムの文脈へと置きなおし、『贈与論』のアクチュアルな可能性をも明らかにして変革への道筋を描く、渾身の書下し。
    著者について
    山田広昭 
    東京大学大学院総合文化研究科教授(言語情報科学専攻) 
    著書に、『現代言語論』(立川健二との共著、1990年)、『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』(2001年、以上、新曜社)、『文学批評への招待』(丹治愛との共編著、放送大学教育振興会、2018年)など。訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)ほか。 


  5. 書評:
    全13章。
    帯は「孤立を求めて連帯を恐れず」。
    (ホッブズは国家に頼ったが)モースにとって贈与は戦争抑止効果を持つ(71頁)。
    柄谷の影響もあり政治というより交換について考察される。
    モースのソレル、ボルシェビキズム批判が興味深い。
    モースを今日に生かす運動も紹介される。
    ワルラスへの影響も言及されるがプルードンはそこまで論じられない。
    著者の本領はシャルル・ジッド紹介など文学関連だろう。
    かつて著者はヴァレリーの資本論評の翻訳で注目されたようにマルクスへの言及がより目立つ。
    とりわけマルクスの貴金属貨幣(観)への疑義、というより技術的な貨幣論は重要な今後の課題とされる(#13:225頁)。
    クラストル、ドゥルーズ、グレーバー、フェリックス・マーティンも言及される。
    読みやすいので一般向けだが(あとがきから読むべし)専門研究書的な踏み込んだ著者による論考も読んでみたい。

    追記:

    信用貨幣論はマルクス陣営の課題だ。再生産表式のカレツキによる発展が欠かせないものとしてあった(鍋島直樹が紹介している)。
    なお再生産表式はプルードンへの批判から生まれた。
    唯物論的商品へのこだわりがマルクス陣営に足枷となった。



  6. マルクスは信用貨幣論も視野に入れている。
  7. あくまで恐慌論の裏返しではあるが。
  8. 岩波文庫7
  9. 重金主義(モネタルジュステム)は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金を嫌う The Scotch hate gold.」。紙券としては、諸商品が貨幣として存在することは、一つの単に社会的な存在(ダーザイン)である。聖列に加わらしめるものは、信仰である。商品の内在的霊魂としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自己自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての、個々の生産担当者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義は、重金主義の基礎から解放されない。》3-35-2

    宇野、熊野が引用した部分。

  10. #11
169〜171

上述したような宇野(=マルクス)とポランニーの洞察は、柄谷行人の「世界史の構造」に

よって、モースの贈与体系の分析と結び合わされた上で、文字通り世界史的な、かつ(これが主

たるポイントであるが)来たるべき社会を見通すようなパースペクティヴを与えられることに

なった。 柄谷は、社会の形態を「交換様式」という視点から見ることの重要性を強調しつつ、自

著の狙いを次のように述べている。


マルクス主義者は国家やネーションをイデオロギー的上部構造とみなしてきた。しかし、国…


柄谷は同時に、歴史を見る際に経済決定論的な見方を維持することの重要性を強調している。

上記引用が明らかにしているように、マルクス主義に対する従来の批判は、主として上部構造の

相対的自律性を言うことで、あるいは結局同じことだが、上部構造の「重層的(多元的)決定」

(アルチュセール)を言うことでなれてきたからである。柄谷の独創は、下部構造論(経済決

定論)の再評価を、ポランニー がまさに経済決定論を批判するために提出した原理、すなわち彼

が「本来的 に経済とは無縁の」行動原理とみなした「互酬」と「再分配」とを、「(商品)交換」

と並ぶ交換様式(経済的下部構造)として位置づけ直すことによって行ったことにある。

繰り返すが、ポランニーは資本主義社会以前のとのような社会も経済的領域の社会的領域から

の離床を知らないと主張した。そうした社会では私たちが経済活動とみなすものは、共同体の活

動全体の中に埋め込まれていて、そこでは、経済的構造と政治的構造を区別すること自体が不可

能である。しかし、このような不可分性、一体性は何がそうした一体的構造の基底にあるのかと

いう間いを排除しない。ポランニーが、互酬、再分配、交換を実体経済の「統合形態」と呼んで

いることがそれを示している。「人間と自然環境および社会環境との間の代謝interchange」とし

ての実体的経済を抜きにしては、人間の生存は不可能であり、結果としてとのような社会形態も

存在しえないがゆえに、実体経済のこれらの「統合形態」こそが社会形態の基礎となる。その意

味で言えば、ボランニーの経済人類学は実質的には下部構造論(経済決定論)なのである


ーーーー


山田広昭はヴァレリーの資本論評を邦訳紹介し(『三点確保』)、柄谷行人はそれを参照している。


(59) ヴァレリーは『資本論』についてこう書いている。《昨晩、読み返したよ(少しばかり)、『資

本論』をね!! ぼくはあれを読んだ数少ない人間の一人だ。ジョレス[当時代表的な社会主義者]

自身はーー(読んでいないように見える)。(中略)『資本論』はといえば、この分厚い本(book)

にはきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これは

かなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であ

ったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる

際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、か

なりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに

結局をいえば、対象は同じなんだから!》(一九一八年五月一一日、ジッド宛書簡)(山田広昭訳)

(A. Gide-P. Valery, Correspondence 1890–1942, Gallimard, 1955, pp. 472–3)

トラクリ文庫489頁より


17. Paul Valery, "Reflections on Art," in Paul Valery, Aesthetics, trans. Ralph Manheim (New York: Pantheon, 1964), pp. 142-143. 

18. Valery wrote on Capital: "Hier soir relu ... (tin pen) Das Kapital. Je suis tin des rares hommes qui l'aient In. 11 parait que Jaures lui-meme ... "Quant an Kapital, ce gros book contient des choses tres remarquables. II n'y a qu'a les y trouver. C'est d'un orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses
orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses sont epatantes. Je veux dire que la maniere de saisir les choses resemble a cell dontj'use assez souvent, etje puis assez souvent traduire son langage dans le mien. L'objet ne fait rien, et an fond cest le meme!" (A. Gide-P. Valery, Correspondence 1890-1942 [Paris: Gallimard, 1955], pp. 472-473)

"Last night, I read Capital a little. I am one of the few who actually read it. It seems that even Jaures himself [has not read it] .... 
"Speaking of Capital, this big book includes quite remarkable things. All we have to do is find them. This is a product of tremendous confidence. Often insufficient in terms of scholastic rigor and pedantic for no reason, but certain analyses are brilliant. liant. I want to say that the method of grasping things resembles the one I use quite often, and in many cases I can translate his language into mine. The object does not matter, and ultimately it is the same!"




ヴァレリーの資本論評を柄谷は山田広昭★訳から引用していた。

可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル (日本語) 単行本 – 2020/9/18
山田広昭 (著)
単行本 
¥3,740 

権力なき共生はいかに可能か。マルセル・モースに端を発し、ポランニーを経由して、柄谷行人の交換様式論にいたる流れを追い、マルクス、ワルラスらの理論的探求、グレーバー、J・C・スコットらの実践的展望を援用しつつ、贈与のモラルを内包した交換様式の実現に来たるべき社会の構成原理を見出す。モースをアナキズムの文脈へと置きなおし、『贈与論』のアクチュアルな可能性をも明らかにして変革への道筋を描く、渾身の書下し。

著者について
山田広昭
東京大学大学院総合文化研究科教授(言語情報科学専攻)
著書に、『現代言語論』(立川健二との共著、1990年)、『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』(2001年、以上、新曜社)、『文学批評への招待』(丹治愛との共編著、放送大学教育振興会、2018年)など。訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)ほか。

発売日 : 2020/9/18
単行本 : 272ページ
ISBN-10 : 4900997773
ISBN-13 : 978-4900997776
出版社 : インスクリプト (2020/9/18)
商品の寸法 : 19.5 x 13.5 x 2.4 cm

https://www.amazon.co.jp/dp/4900997773/



356〜8頁
http://polariscope.blogspot.com/2008/12/blog-post_03.html
ポール・ヴァレリーの資本論
柄谷行人が著書「トランスクリティーク」のなかでマルクスの価値形態を論じている箇所に、ポール・ヴァレリーの芸術論を引用している。マルクスが価値というものを複数の体系の間の不透過性としてみたように、芸術的価値の問題を「社会的交換の不透過性」から考えたということである。孫引きになってしまうが面白いのでその後半部分を引用しておこうと思う。

 きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用 ―作者からはじまって製造された物体に終わる変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用― が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。

 みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という3つの項を登場させて命題をお立てになる。―しかし、この3つの項を統合するような観察の機会は、決してみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(中略)

 …私のたどりつく点というのはこうです。―芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域〔作者と作品、作品と観察者〕の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして、作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(中略)

 …芸術家と他者(読者)このふたりの内部でそれぞれ何が起こったのか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不滲透性の要素の介在が是非とも必要なのです。…

(ヴァレリー「芸術についての考察」清水徹訳、「全集」第5巻、筑摩書房、柄谷行人「トランスクリティーク」岩波書店からの孫引き)

柄谷によればヴァレリーはこのような視点を「資本論」からえたということである。社会に向けて発言し、コミュニケーションをはかろうとする作品が数多い現代美術の世界において、もう一度問い直される必要があることのように思う。
ラベル: ART, BOOK, QUOTE



津島陽子『マルクスとプルードン』1979,247頁より
《サドラー…『人口法則』(一八三〇年)…「結合しない個人の生産を超過する結合した個人の生産の剰余」(ebd.S. 116.) →p.83》

ch5
p.83
Combined labour produces results which individual exertion could never accomplish. 

Thomas Sadler ; The Law of Population : etc. London 1830.
https://www.amazon.co.jp/law-population-superfecundity-developing-principle-ebook/dp/B07H6J7H8W

津島陽子((マルクスとプルードン』1979年247頁)指摘のプルードンに先行する集合力理論=サドラーの対マルサス反論。
ただし、プルードンには''外観"としての階級意識があった。
それが合成の誤謬を免れさせる要因となった。
ケアリの社会形態を並存させた反マルサスも重要。




柄谷行人 in 1987 雨月の使者
https://youtu.be/D8Go9s5SGpo

2011 9 11 新宿アルタ前 柄谷行人 演説
https://youtu.be/ylWQlrHQ4Gk

先月逝去したグレーバーを柄谷行人は昔(オキュパイ運動の頃)、友人と呼んでいたが
どの程度親しかったのか?

David Graeber: what the government doesn't want you to know about debt – video
2015
https://youtu.be/LxJW7hl8oqM

しかし回顧的になる余裕もなく事態は進む

【キリスト教学者など】菅首相が学術会議の任命を拒否した6人はこんな人 安保法制、特定秘密保護法、辺野古などで政府に異論
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1601562426/
https://www.tokyo-np.co.jp/article/59092

☆☆
スピノザの「マルチチュード」とプルードン:(&マルクスと神学政治論)

以下、スピノザ神学・政治論下光文社文庫20:06より

しつこいようだが、国とは人間を理性的存在から野獣や自動人形におとしめるためにあるので
はない。むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼
らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために
争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある。だとすると、《国というものは、実は
自由のためにあるのである。》

《》内をマルクスが抜き書き(鷲田小彌太☆『スピノザの方へ』161頁参照)

マルクスの『神学・政治論』研究の理論射程
http://chikyuza.net/archives/59516
参照:
内田弘「スピノザの大衆像とマルクス」『専修経済学論集』第34巻第3号、2000年3月

マルクスはつぎの文に注目し抜粋する(MEGA,IV/1,S.240)。
「人間は、安全にかつ立派に生活するために、必然的に一者に(necessario in unum)結合しなけれ
ばならなかった。しかもその結合によって人間たちは、各人が万物にたいして自然から与えられ
た権利を共同して所有する(collectives habeo)ようになった。またその権利がもはや各人の
能力と欲望によってではなく、万人の力と意志によって決定されるようになったのである」…

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた

「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
(会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。 

エチカ4:73
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p73
 定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に
従って生活する国家においていっそう自由である。

鷲田小彌太は相米慎二の講演を企画した。

3 件のコメント:

  1. 目次


    一章 マルセル・モースとは誰か

    二章 贈与のモラル

    三章 国家と個人

    四章 無力な首長と国家なき社会

    五章 「ハウ」と戦争

    六章 利潤なき市場経済

    七章 労働力商品と剰余価値

    八章 贈与と負債

    九章 理論と倫理

    一〇章 モースと社会主義生産様式から交換様式へ

    一一章 交換様式D

    一二章 ネーション

    一三章 可能なるアナキズム



    あとがき
    索引

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  2. 本書はあとがきを先に読んでほしい。そして最後に再び読み返してほしい。
    そこで開陳された著者の左翼運動の実体験における負い目が、再び読む際には交換様式AからDへの移行として感じ取れるだろう。

    返信削除
  3. 139
    負債礼賛


    借りの哲学 (atプラス叢書06) (日本語) 単行本 – 2014/2/27
    ナタリー・サルトゥー=ラジュ (著), 國分功一郎(解説) (その他), 高野優 (翻訳), 小林重裕 (翻訳)
    私たちの持っているもので、人から借りていないものがあるだろうか?

    「借り」を軸に『聖書』『ヴェニスの商人』『贈与論』などのテクストを読みなおし、「借り」の積極的価値を考察する。資本主義再考の基本文献、待望の翻訳。

    解説=國分功一郎
    借りという概念への注目それ自体も興味深いものだが、より興味深いのは本書がこの概念を積極的な意味で評価しようと試みている点である。借りはしばしば否定的な意味で受け止められる。借りは人に返済の義務を負わせ、義務は人を縛る、と。しかし、借りこそはよりよい社会を作り上げるための基礎になるのではないか、というのが本書の問題提起にほかならない。(解説より)

    ▼目次▼
    はじめに――《負債》から《借り》へ
    借りたものを返せないと奴隷になる
    《負債》と資本主義
    《借り》と資本主義
    《借り》の概念を復活させる
    《借り》を肯定的に捉える
    《贈与》と《借り》の関係
    臓器提供の話
    自分には《借り》があると思うことの効用

    第1章 交換、贈与、借り
    『ヴェニスの商人――人間関係が持つ複雑性』
    《贈与》と《負債》が同一の軌跡をたどるとき
    《本当の贈与》とは何か?
    キリスト教における《負い目の論理》――ニーチェの考え
    原始経済における《負債》の理論――モースとニーチェ
    モースの『贈与論』
    《贈与交換》を取り入れた社会
    ニーチェの『道徳の系譜』
    《贈与》と《交換》と《借り》の関係
    家族における《貸し借り》を共同体が引き受ける
    貨幣経済をもとにした資本主義――「《等価交換》―《負債》」のシステム
    金融市場を通じた《負債》の増大
    《借り》を大切にする社会
    《借り》のシステムと政府の役割

    第2章 《借り》から始まる人生
    タラントのたとえ話
    神から与えられた才能は世の中に返さなければならない
    《借り》と支配
    ブドウ園の労働者のたとえ
    《生まれながらの借り》
    《義務》は物質的な《負債》から生まれた――ニーチェの考え
    物質的な《負債》は《義務》から生まれた――バンヴェニストの考え
    負債の神学――マラムーの考え
    同時代に生きている人々に対する《借り》
    家族における《借り》
    母と子の関係
    ソロモン王の裁判
    父と子の関係
    サンタクロースの贈り物
    家族における《貸し借り》の問題
    《借り》と《罪悪感》
    ナチスの罪と《罪悪感》
    人間は罪を犯しやすい
    《返すことのできない借り》――メランコリーと強迫神経症の場合
    《象徴的な返済》と《想像的な返済》
    《借り》と《責任》
    レヴィナスにおける道徳的責任
    《他者に対する責任》と《生まれながらの借り》のちがい
    《借り》は《責任》の大きさを限定する
    《借りの免除》――「赦し」の問題
    どうしても赦すことのできない《罪》をどうするか?
    「正義」と「赦し」――ニーチェの考え
    「赦し」の実体――慈悲の心と感謝の気持ち
    スピノザにおける感謝の気持ち
    キリストの愛
    現代における《借り》とその免除

    第3章 《借り》を拒否する人々
    ドン・ジュアン――《借り》を拒否する人生
    《借り》を認めない
    自分としか契約を結ばない男
    肥大した自己愛
    《借り》から逃走する
    空虚な内面
    個人主義と《借り》の否認
    「革命」と「自由」の矛盾した関係
    仮面の個人主義
    《借り》から逃げることの悲劇
    薬物嗜癖と《返すことのできない借り》
    現代人と騎士の石像
    ドン・ジュアンの末裔たち――自律した人間(セルフ・メイドマン)から機会主義者(オポルチュニスト)へ
    自律した人間(セルフ・メイドマン)――《借り》を認めない人々
    全能感という幻想
    機会主義者(オポルチュニスト)――《借り》から逃走する人々
    人間の部品化
    逃走者の自由
    人間は《借り》から逃げつづけることはできない

    おわりに――《借り》の復権
    《借り》の負の側面
    《借り》の正の側面
    《返さなくてもよい借り》
    新しい自分を目指す
    解説
    借りに満ちた世界、そして……


    内容(「BOOK」データベースより)
    私たちの持っているもので人から借りていないものがあるだろうか?「借り」を軸に『聖書』『ヴェニスの商人』『贈与論』などのテクストを読みなおし、「借り」の積極的価値を考察する。資本主義再考の基本文献、待望の翻訳。
    著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
    サルトゥー=ラジュ,ナタリー
    哲学専攻。2007年から「エチュード」誌の副編集長を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
    登録情報
    発売日 : 2014/2/27
    単行本 : 232ページ
    ISBN-10 : 4778313933
    ISBN-13 : 978-4778313937
    出版社 : 太田出版 (2014/2/27)

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