(59) ヴァレリーは『資本論』についてこう書いている。《昨晩、読み返したよ(少しばかり)、『資
本論』をね!! ぼくはあれを読んだ数少ない人間の一人だ。ジョレス[当時代表的な社会主義者]
自身はーー(読んでいないように見える)。(中略)『資本論』はといえば、この分厚い本(book)
にはきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これは
かなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと街学的であ
ったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる
際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、か
なりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに
結局をいえば、対象は同じなんだから!》(一九一八年五月一一日、ジッド宛書簡)(山田広昭訳)
(A. Gide-P. Valery, Correspondence 1890–1942, Gallimard, 1955, pp. 472–3)
トラクリ文庫489頁
17. Paul Valery, "Reflections on Art," in Paul Valery, Aesthetics, trans. Ralph Manheim (New York: Pantheon, 1964), pp. 142-143.
18. Valery wrote on Capital: "Hier soir relu ... (tin pen) Das Kapital. Je suis tin des rares hommes qui l'aient In. 11 parait que Jaures lui-meme ... "Quant an Kapital, ce gros book contient des choses tres remarquables. II n'y a qu'a les y trouver. C'est d'un orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses
orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses sont epatantes. Je veux dire que la maniere de saisir les choses resemble a cell dontj'use assez souvent, etje puis assez souvent traduire son langage dans le mien. L'objet ne fait rien, et an fond cest le meme!" (A. Gide-P. Valery, Correspondence 1890-1942 [Paris: Gallimard, 1955], pp. 472-473)
"Last night, I read Capital a little. I am one of the few who actually read it. It seems that even Jaures himself [has not read it] ....
"Speaking of Capital, this big book includes quite remarkable things. All we have to do is find them. This is a product of tremendous confidence. Often insufficient in terms of scholastic rigor and pedantic for no reason, but certain analyses are brilliant. liant. I want to say that the method of grasping things resembles the one I use quite often, and in many cases I can translate his language into mine. The object does not matter, and ultimately it is the same!"
18. Valery wrote on Capital: "Hier soir relu ... (tin pen) Das Kapital. Je suis tin des rares hommes qui l'aient In. 11 parait que Jaures lui-meme ... "Quant an Kapital, ce gros book contient des choses tres remarquables. II n'y a qu'a les y trouver. C'est d'un orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses
orgueil assez epais. Souvent tres insuffisant comme rigueur, on tres pedant pour des prunes, mail certaines analyses sont epatantes. Je veux dire que la maniere de saisir les choses resemble a cell dontj'use assez souvent, etje puis assez souvent traduire son langage dans le mien. L'objet ne fait rien, et an fond cest le meme!" (A. Gide-P. Valery, Correspondence 1890-1942 [Paris: Gallimard, 1955], pp. 472-473)
"Last night, I read Capital a little. I am one of the few who actually read it. It seems that even Jaures himself [has not read it] ....
"Speaking of Capital, this big book includes quite remarkable things. All we have to do is find them. This is a product of tremendous confidence. Often insufficient in terms of scholastic rigor and pedantic for no reason, but certain analyses are brilliant. liant. I want to say that the method of grasping things resembles the one I use quite often, and in many cases I can translate his language into mine. The object does not matter, and ultimately it is the same!"
ヴァレリーの資本論評を柄谷は山田広昭★訳から引用していた。
★
可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル (日本語) 単行本 – 2020/9/18
山田広昭 (著)
単行本
¥3,740
権力なき共生はいかに可能か。マルセル・モースに端を発し、ポランニーを経由して、柄谷行人の交換様式論にいたる流れを追い、マルクス、ワルラスらの理論的探求、グレーバー、J・C・スコットらの実践的展望を援用しつつ、贈与のモラルを内包した交換様式の実現に来たるべき社会の構成原理を見出す。モースをアナキズムの文脈へと置きなおし、『贈与論』のアクチュアルな可能性をも明らかにして変革への道筋を描く、渾身の書下し。
山田広昭 (著)
単行本
¥3,740
権力なき共生はいかに可能か。マルセル・モースに端を発し、ポランニーを経由して、柄谷行人の交換様式論にいたる流れを追い、マルクス、ワルラスらの理論的探求、グレーバー、J・C・スコットらの実践的展望を援用しつつ、贈与のモラルを内包した交換様式の実現に来たるべき社会の構成原理を見出す。モースをアナキズムの文脈へと置きなおし、『贈与論』のアクチュアルな可能性をも明らかにして変革への道筋を描く、渾身の書下し。
著者について
山田広昭
東京大学大学院総合文化研究科教授(言語情報科学専攻)
著書に、『現代言語論』(立川健二との共著、1990年)、『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』(2001年、以上、新曜社)、『文学批評への招待』(丹治愛との共編著、放送大学教育振興会、2018年)など。訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)ほか。
発売日 : 2020/9/18
単行本 : 272ページ
ISBN-10 : 4900997773
ISBN-13 : 978-4900997776
出版社 : インスクリプト (2020/9/18)
商品の寸法 : 19.5 x 13.5 x 2.4 cm
https://www.amazon.co.jp/dp/4900997773/
山田広昭
東京大学大学院総合文化研究科教授(言語情報科学専攻)
著書に、『現代言語論』(立川健二との共著、1990年)、『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』(2001年、以上、新曜社)、『文学批評への招待』(丹治愛との共編著、放送大学教育振興会、2018年)など。訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)ほか。
発売日 : 2020/9/18
単行本 : 272ページ
ISBN-10 : 4900997773
ISBN-13 : 978-4900997776
出版社 : インスクリプト (2020/9/18)
商品の寸法 : 19.5 x 13.5 x 2.4 cm
https://www.amazon.co.jp/dp/4900997773/
356〜8頁
http://polariscope.blogspot.com/2008/12/blog-post_03.html
ポール・ヴァレリーの資本論
柄谷行人が著書「トランスクリティーク」のなかでマルクスの価値形態を論じている箇所に、ポール・ヴァレリーの芸術論を引用している。マルクスが価値というものを複数の体系の間の不透過性としてみたように、芸術的価値の問題を「社会的交換の不透過性」から考えたということである。孫引きになってしまうが面白いのでその後半部分を引用しておこうと思う。
きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用 ―作者からはじまって製造された物体に終わる変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用― が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。
みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という3つの項を登場させて命題をお立てになる。―しかし、この3つの項を統合するような観察の機会は、決してみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(中略)
…私のたどりつく点というのはこうです。―芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域〔作者と作品、作品と観察者〕の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして、作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(中略)
…芸術家と他者(読者)このふたりの内部でそれぞれ何が起こったのか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不滲透性の要素の介在が是非とも必要なのです。…
(ヴァレリー「芸術についての考察」清水徹訳、「全集」第5巻、筑摩書房、柄谷行人「トランスクリティーク」岩波書店からの孫引き)
柄谷によればヴァレリーはこのような視点を「資本論」からえたということである。社会に向けて発言し、コミュニケーションをはかろうとする作品が数多い現代美術の世界において、もう一度問い直される必要があることのように思う。
ラベル: ART, BOOK, QUOTE
ポール・ヴァレリーの資本論
柄谷行人が著書「トランスクリティーク」のなかでマルクスの価値形態を論じている箇所に、ポール・ヴァレリーの芸術論を引用している。マルクスが価値というものを複数の体系の間の不透過性としてみたように、芸術的価値の問題を「社会的交換の不透過性」から考えたということである。孫引きになってしまうが面白いのでその後半部分を引用しておこうと思う。
きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用 ―作者からはじまって製造された物体に終わる変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用― が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。
みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という3つの項を登場させて命題をお立てになる。―しかし、この3つの項を統合するような観察の機会は、決してみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(中略)
…私のたどりつく点というのはこうです。―芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域〔作者と作品、作品と観察者〕の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして、作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(中略)
…芸術家と他者(読者)このふたりの内部でそれぞれ何が起こったのか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不滲透性の要素の介在が是非とも必要なのです。…
(ヴァレリー「芸術についての考察」清水徹訳、「全集」第5巻、筑摩書房、柄谷行人「トランスクリティーク」岩波書店からの孫引き)
柄谷によればヴァレリーはこのような視点を「資本論」からえたということである。社会に向けて発言し、コミュニケーションをはかろうとする作品が数多い現代美術の世界において、もう一度問い直される必要があることのように思う。
ラベル: ART, BOOK, QUOTE
0 件のコメント:
コメントを投稿