2020年8月26日水曜日

緒方洪庵、長与専斎、後藤新平

 

ヘルメットおじさん
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英雄たちの選択。
緒方洪庵の牛痘を使った天然痘治療
明治期のコレラ対策に当たり自治衛生の仕組みを作った内務省衛生局長の
長与専斎
日清戦争帰還兵の検疫事業責任者で
後藤新平の奮闘を見る。 https://t.co/wYk9qpxsE2

2020/08/23 17:04:34Twitter for iPhone



「衛生国家への挑戦〜3人の先覚者たち〜」

日本人は感染症とどう闘ってきたのか?幕末から明治へ、日本人の衛生意識の向上に尽力した緒方洪庵、長与専斎、後藤新平。3人の遺産は、今にどう受け継がれたのか。 新型コロナウイルスに揺れる日本。日本人は世界規模の感染症とどう闘ってきたのか?第1回は、日本人の衛生意識の向上に尽力した3人の先覚者に着目する。幕末、天然痘の治療に革命を起こした緒方洪庵。その洪庵に学び、明治時代、コレラ撲滅の陣頭指揮をとった内務省初代衛生局長・長与専斎。日清戦争後、大陸帰還兵の大規模な検疫を成功させ、世界に日本の衛生力の高さを示した後藤新平。彼らは現代の危機に何を語りかけるのか?



適塾
https://ja.wikipedia.org/wiki/適塾
適塾(てきじゅく)は、蘭学者医者として知られる緒方洪庵江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/緒方洪庵

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日1810年8月13日) - 文久3年6月10日1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士足守藩士)、医師蘭学者である。大坂に適塾大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

惟章(これあき)または(あきら)、公裁を洪庵の他に適々斎華陰と称する。

略年譜編集

  • 文化7年(1810年)7月14日、豊後国豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩(現在の岡山市北部)士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる[2]。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。
  • 文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂へ出る。
  • 文政9年(1826年)7月、に中天游私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
  • 天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。
  • 天保7年(1836年)、長崎へ遊学し、出島オランダ人医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。
  • 天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
  • 弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。
  • 嘉永2年11月7日1849年12月21日)、その6日前に京都に赴き、出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
  • 嘉永3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
  • 安政5年4月24日1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした
  • 万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。
  • 文久2年(1862年)、伊東玄朴らの推挙を受けた幕府の西洋医学所頭取としての出仕要請を、一度は健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要請により、奥医師西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。
  • 文久3年6月11日1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市北区同心1丁目龍海寺東京都文京区向丘2丁目高林寺
  • 明治42年(1909年)6月8日、贈従四位

人物編集

  • 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。
  • 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。
  • 洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎長与専斎佐野常民高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。
  • 日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5~6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布[3]するなど、日本医学の近代化に努めた。
  • 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している[4]。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。
  • 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三緒方四郎が、預けられた加賀大聖寺藩渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。
  • 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している[5]。原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
  • 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
  • 福澤諭吉が適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。
  • 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。
  • 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。」という悲痛な作品を残している。
  • 江戸での洪庵は将軍徳川家茂侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。
  • 適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。
  • 人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。

ただし、洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(住友史料館主席研究員海原亮の見解)[3]



https://ja.wikipedia.org/wiki/長與專齋

長與 專齋新字体長与 専斎、ながよせんさい、天保9年8月28日1838年10月16日) - 明治35年(1902年9月8日)は、日本医師医学者官僚本姓藤原氏、号は松香、は秉継。

略歴編集

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

大村藩藩校である五教館長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。


明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として欧米に渡り、ドイツオランダの医学および衛生行政を視察した。

明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。

明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった[1]

1886年(明治19年)4月27日、元老院議官1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[2]。明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。


『医制』
衛生概念のはじめ
統計

船場 (大阪市)

船場(せんば)は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。

概要

範囲

船場の範囲は、以下の河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)、南北約2km、東西約1kmの四角形の地域である。

東端 - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)
西端 - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)
南端 - 長堀川 (長堀通1964年埋立)
北端 - 土佐堀川

江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもある。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接する。現在ではまれであるが、上町を東船場、下船場を西船場とみなして、船場を中船場と称することもある。

船場の語源については、牧村史陽編 『大阪ことば事典』 講談社、1979年、385-386頁に以下の説が挙げられている。

  • しばしば戦争があった場所で、「戦場」と呼ばれた。
  • 大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた。
  • 砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、これが転訛して「センバ」となった。
  • 古代は船着き場であって、着船場の「着」の字を省いて「船場」となった[1]

現在の町名

(北から南の順)

歴史

1583年豊臣秀吉によって大坂城の築城および大坂城下の開発が開始された。豊臣初期の大坂城下の中心は、大坂城以前にあった旧石山寺内・港湾都市である港の渡辺津 (渡辺津以前は難波津住吉津が存在した) ・玉造といった上町で、また、大川を挟んで上町の北に位置する中島寺内の開発も1585年から開始された。上町の西に位置する船場の開発はこの時期はまだ萌芽的なものであったが、1598年から始まった大坂城三の丸の造営により、城内となった渡辺・玉造の地に居た町人の移転先として船場の開発が本格化する。大坂の陣後、松平忠明による復興の際に島之内と下船場の開発が本格化し、さらに渡辺・玉造の地へ再度町人地が置かれることとなった。また、淀屋常安による中之島の開発も始まり、幕府直轄地となる1619年頃には、城下とは別の町とみなされていた旧中島寺内を天満として大坂城下に取り込み、以降の大坂城下は船場を中心に展開されるようになった。

町名の変遷

明治以前

明治初頭には137町(うち東西方向の町:126町、南北方向の町:11町)あった。

東西方向の町 (北から南の順)

  • 大川町・過書町(かしょまち)・北浜2丁目・北浜1丁目
  • 梶木町
  • 尼崎町2丁目・尼崎町1丁目・今橋2丁目・今橋1丁目
  • 大豆葉町(まめのはちょう)・四軒町(しけんちょう)・上人町(しょうにんまち)・高麗橋3丁目・高麗橋2丁目・高麗橋1丁目
  • 呉服町・伏見町・本天満町(もとてんまちょう)・本靱町(もとうつぼちょう)
  • 古手町(ふるてまち)・道修町5丁目・道修町4丁目・道修町3丁目・道修町2丁目・道修町1丁目
  • 亀井町・善左衛門町・平野町3丁目・平野町2丁目・平野町1丁目
  • 津村北之町・淡路町切町(あわじまちきれちょう)・中船場町・北鍋屋町・淡路町2丁目・淡路町1丁目
  • 津村西之町・津村中之町・津村東之町・三郎右衛門町・南鍋屋町・百貫町(ひゃっかんちょう)・瓦町2丁目・瓦町1丁目
  • 津村南之町・御堂前町・升屋町(ますやちょう)・備後町5丁目・備後町4丁目・備後町3丁目・備後町2丁目・備後町1丁目
  • 浄覚町・安土町3丁目・安土町2丁目・上魚屋町・安土町1丁目
  • 本町5丁目・本町4丁目・本町3丁目・本町2丁目・本町1丁目
  • 南本町5丁目・南本町4丁目・南本町3丁目・南本町2丁目・南本町1丁目下半・南本町1丁目上半
  • 雛屋町・唐物町4丁目・唐物町3丁目下半・唐物町3丁目上半・唐物町2丁目下半・唐物町2丁目上半・唐物町1丁目
  • 北久太郎町5丁目・北久太郎町4丁目・北久太郎町3丁目・北久太郎町2丁目・北久太郎町1丁目
  • 南久太郎町6丁目・南久太郎町5丁目・南久太郎町4丁目・南久太郎町3丁目・南久太郎町2丁目・南久太郎町1丁目
  • 源左衛門町・伝馬町・北久宝寺町4丁目・北久宝寺町3丁目・北久宝寺町2丁目・北久宝寺町1丁目
  • 南久宝寺町5丁目・南久宝寺町4丁目・南久宝寺町3丁目・南久宝寺町2丁目・南久宝寺町1丁目
  • 博労町・茨木町・金田町・金沢町
  • 初瀬町(はつせちょう)・浄国寺町・順慶町5丁目・順慶町4丁目・順慶町3丁目・順慶町2丁目・順慶町1丁目
  • 北勘四郎町・安堂寺町5丁目・安堂寺町4丁目・安堂寺町3丁目・安堂寺町2丁目下半・安堂寺町2丁目上半・安堂寺町1丁目
  • 南勘四郎町・車町(くるままち)・塩町4丁目・塩町3丁目・塩町2丁目・塩町1丁目
  • 長堀平右衛門町(西横堀川以東・長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町

南北方向の町 (東から西の順)

  • 北久宝寺町5丁目
  • 上難波町
  • 北渡辺町・南渡辺町
  • 七郎右衛門町1丁目・七郎右衛門町2丁目・浜町・長浜町・椹木町(さわらぎちょう)・西笹町・五幸町(ごこうまち)

明治

1872年(明治5年)の町名改編で109町(うち東西方向の町:98町、南北方向の町:11町)となった。

  • 大川町
  • 北浜(5~1丁目)
  • 今橋(5~1丁目)
  • 高麗橋(5~1丁目)
  • 伏見町(5~1丁目)
  • 道修町(5~1丁目)
  • 平野町(5~1丁目)
  • 淡路町(5~1丁目)
  • 瓦町(5~1丁目)
  • 備後町(5~1丁目)
  • 安土町(4~1丁目)
  • 本町(4~1丁目)
  • 南本町(4~1丁目)
  • 唐物町(4~1丁目)
  • 北久太郎町(4~1丁目)
  • 南久太郎町(4~1丁目)
  • 北久宝寺町(4~1丁目)
  • 南久宝寺町(4~1丁目)
  • 博労町(4~1丁目)
  • 順慶町通(4~1丁目)
  • 安堂寺橋通(4~1丁目)
  • 塩町通(4~1丁目)
  • 末吉橋通(4~1丁目)

南北方向の町 (東から西の順)

  • 上難波北之町・上難波南之町
  • 北渡辺町・南渡辺町
  • 横堀(1~7丁目)

大正

1914年大正3年)の町名改編で上難波北之町・上難波南之町が北久宝寺町5丁目・南久宝寺町5丁目・博労町5丁目となり、全110町(うち東西方向の町:101町、南北方向の町:9町)となった。

昭和

1930年昭和5年)の町名改編で北渡辺町・南渡辺町が本町5丁目・南本町5丁目・唐物町5丁目・北久太郎町5丁目・渡辺町となり、全113町(うち東西方向の町:105町、南北方向の町:8町)となった。

1970年(昭和45年)の町名改編で唐物町(5~1丁目)・北久太郎町(5~1丁目)の各一部が船場中央(5~1丁目)となり、全123町(うち東西方向の町:115町、南北方向の町:8町)となった。

1982年(昭和57年)の町名改編で順慶町通(4~1丁目)・安堂寺橋通(4~1丁目)・塩町通(4~1丁目)・末吉橋通(4~1丁目)・横堀7丁目が南船場(4~1丁目)となり、全111町(うち東西方向の町:103町、南北方向の町:7町)となった。

平成

1989年平成元年)の町名改編で大川町を北浜に編入、唐物町を南本町に編入、北久太郎町・南久太郎町を久太郎町として統合、南北方向の横堀(1~6丁目)・渡辺町を東西方向の各町に編入の上、安土町を除いて4~1丁目に再編し(安土町のみ3~1丁目に再編)、全71町(うち東西方向の町:71町、南北方向の町:なし)となった。

現代の船場

繊維問屋や商社、証券会社、銀行の集中により、過密が問題となり、問屋街の郊外移転などが行われていた(例えば繊維問屋街の一部が箕面市大阪船場繊維卸商団地、愛称「COM ART HILL」へ)。

現在、いまだに過密であることに変わりはないが、かつての活気が船場からは失われつつある。一方、地元も様々な運動を開始し、他の地域との協力・交流もはじめている。例えば、2005年3月26日には綿業会館(国の重要文化財、中央区備後町2-5-8)で、四団体共同で船場フォーラムが行われた。四団体とは、銀座まちづくり会議(東京)、横濱まちづくり倶楽部(横浜)、都心界隈まちづくりネット(京都)、せんばGENKIの会(大阪)である。

交通

関連項目

引用・参考文献

  1.  牧村史陽は船着き場だったことに由来するとの説を妥当としている
  2.  「船場」ブランド復活へ 地下鉄・本町駅などの副名称に”. MSN産経ニュース (2011年9月30日). 2012年2月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年10月1日閲覧。


https://ja.wikipedia.org/wiki/後藤新平

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日1857年7月24日) - 昭和4年(1929年4月13日)は、日本医師官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵


内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島宇品港似島似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。


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