浅田彰クロストーク '88
ません。
大切なのは、技術に、したが
って事故に、あえて身を晒すこ
とです。事故は死に代わって現
代の地平となり、限界となっ
た。それに面と向かわなければ
ならない。 私は事故の彼岸があ
ると信じますが、それにはまず
面と向かうことが必要なので
す。
哲学は依然として技術や事故
から目をそらせている。ところ
が、私にいわせれば、新しい技
術の思考こそ、現在もっとも重
要な戦略ポイントなのです。たとえば、最近のハイデガーに関
する論争でも、結局は技術の問
題に帰着するのではないだろう
か。 ハイデガーがナチズムとつ
ながっていたという事実を今さ ら「発見」して騒ぎたてるだけ
なら、ばかげた話
でしかない。そん
なことは昔からだ
れでも知ってい
た。
その背後には、
しかし、西洋哲学の伝統の中で
最後に技術について思考した哲
学者に対する批判があり、そ
からは新しい技術の思考が生ま
れねばならないのです。ここに
はなされるべきことが限りなく
あります。
浅田 ハイデガーは、彼が形
而上学の完成者とみなすニーチェ を乗り越えようとして、ニー
チェの「超人」をいわばヘーゲ
ルの「主人」の延長上に位置づ
けている。それは、一分の隙も
なく身を固めて死の脅威に立ち
向かう強者であり、ハイデガー
のニーチェ講義においては、鋼
鉄の戦争機械とマン・マシン・
システムを成した金髪の野獣と
いう姿をとるわけです。これは
おそらく武装SS (親衛隊)に
近いイメージであり、ハイデガー自身はそれよりもSA(突撃
隊)のほうに近いということな
のかもしれない。
もっとまじめにいえば、テク
ノロジーを駆使して存在者の全
体を支配するのではなく、牧場
にあって存在の呼び声に耳を澄
ますのだというわけですね。問
題は、しかし、このニーチェ解
釈そのものが正当かどうかとい
うことです。
ヴィリリオ それにもっとも
激しく対立するのが、ドゥルー
ズのニーチェ解釈だと思う。ド
ゥルーズにおける「超人」と
は、つまるところ、限界リミットに面と
向かう者なのです。
浅田 もっとも極端に曝され
た者ともいえますね。そしてとりわけ偶然=事故アクシデントに。
ヴィリリオ そう、それは過剰露出された者なのです。
浅田 それは自己を防衛し他
者を攻撃する強者とはほど遠
い。むしろ、あらゆるウイルス
の攻撃に曝されたAIDS患者
のようなものというのは極
端としても、開かれたインタフ
ェースの集積、ドゥルーズのいう 「超襞」のようなものなんで
すね。だから、ニーチェの「超
人」は、ヘーゲルの、そしてお
そらくハイデガーの見方からす
ると、この上なく弱い弱いか
らこそ、しかし、それは「超人」
なのです。
ヴィリリオ 深く同意しま
す。いずれにせよ、大切なのは
テクノロジーの恐るべき限界に
面と向かって考え続けることで
す。それは魅惑的なゲームでも
ある。勇気ではなく、おさえが
たい好奇心が、私の目をテクノ ロジーというメデューサに向け
させるのです。その邪眼から、
私は決して目をはなす
ことがないでしょう。
1988.11.4
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