Judith Butler's Bodies That Matter
ジュディス・バトラー
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は、「聖母被昇天 [Assumption of Virgin]」のように、手の届かない領城へと引き上げられることなのである。もし
ジェンダーがセックスの引き受ける=身に帯びる社会的意味であるとすれば、そのときせックスは、付加的属性と
して社会的意味を獲得するのではなく、むしろ、それが引き受ける=身に帯びる社会的意味に取っで代かられるの
である。セックスは、そうした社会的意味を引き受ける=身に帯びる過程で放棄され、ジェンダーが、セックスと
の継続的対立関係における一項としてではなく、「セックス」を吸収しそれに取って代わる項として現れる。「セッ
クス」とは、ジェンダーへと完全に実体化する徴しであり、あるいは、唯物論の観点からすれば、完全な脱実体化
を構成するものなのである。
セックス/ジェンダーの区別が ラディカルな言語構築主義の考え方と結び付くと、問題はさらに深刻になる。な
ぜなら、ジェンダーに先立つものとして指示される「セックス」はそれ自体、言語に先立つもの、構築に先立つも
のとして言語内部に現れる仮定、構築物になってしまうからだ。しかし、構築に先立つものとして措定されたこの
セックスは、そうした措定にょって、そうした措定そのものの効果、すなわち構築物の構築物となる。もしジェン
ダーがセックスの社会的構築物であり、また、その構築物による以外にこの「セックス」に接近することができな
いとすれば、そのとき、セックスはジェンダーに吸収されてしまうだけでなく、「セックス」は虚 構のようなもの
フィクション〜〜恐らくは、直接接近できない前言語的な場所に遡及的に設定される幻想〜〜になってしまうように思われる。
。しかし、「セックス」が完全に姿を消すと主張することは、また、「セックス」が真実のものを超え、それに対立
する虚構だと主張すること、「セックス」が現実のものを超え、それに対立する幻想だと主張することは、正当な
のだろうか。あるいは、もし「セックス」が虚構であるとすれば、それは、私たちが生きるために必要な虚構であ
り、それなしには生そのものが思考不可能であるような虚構である、という仕方でこれらの対立そのものが再考さ
れねばならないのだろうか。また、もし「セックス」が幻想であるとすれば、それは恐らく、文化的理解可能性の
問題=物質となる身体
「セックス」の言説的境界について
2021年5月18日初版第1刷発行
著者 ジュディス。バト ラー
監 訳佐藤嘉幸
発行者 大野 真
発行所 以 文社
トラクリ
On the subject of the Kantian turn, I cannot ignore another example that has appeared recently-without even mentioning Kant-in the context of contemporary theory: Judith Butler's Bodies That Matter (New York: Routledge, 1993). In her previous work, Gender Trouble (New York: Routledge, 1990), Butler had emphasized the precedence of gender as a social, cultural category over sex as a biological category. There it became necessary to cast doubt on the sexual difference considered to be a biological given. But this, in turn, risks being idealistic: "If gender is a social construction of sex, and if there is no access to this `sex' except by means of its construction, then it appears not only that sex is absorbed by gender, but that `sex' becomes something like a fiction, perhaps a fantasy, retroactively installed at a prelinguistic site to which there is no direct access" (Bodies That Matter; p. 5). Because there is something in sex (apropos the body) that cannot be dealt with by simply shifting categories, Butler turns from a linguistic idealism to a `materialism'. In other words, she reintroduces sex (qua body) as an exteriority that gender (qua category) cannot absorb. In so doing, it is certainly not that Butler returns simply to a biological body (qua senses) insofar as she discovers the biological body itself to be a construct of the body (qua sensuous form)-which nonetheless always appears to social categories as a given. In other words, Butler adapts a position that criticizes both idealist and empiricist concepts, calling it `materialism'. The crux here is that this materialism could not be attained if not for critique as transposition-the transcritique.
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