カント
アンチノミー
0:01 純粋理性のアンチノミー
先験的理念の第一の自己矛盾
0:23 先験的理念の第二の自己矛盾
0:43 先験的理念の第三の自己矛盾
1:13 証明
4:31 先験的理念の第四の自己矛盾
4:56 実践理性のアンチノミー
8:04 趣味のアンチノミーの提示
0:01 第一の自己矛盾
0:17 反対命題
0:40 第二の自己矛盾
1:00 反対命題
1:21 第三の自己矛盾 証明
4:52 反対命題 証明
8:26 第四の自己矛盾
8:50 反対命題
9:15 実践理性のアンチノミー
12:30 趣味のアンチノミー
12:50 反対命題
https://youtu.be/P8niaIaOB2E 改訂版
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第一の自己矛盾<量>
正命題 |
世界は時間的な始まりをもち、 |
また空間的にも限界を持つ。 |
反対命題
世界は時間的な始まりをもたないし、
また空間的にも限界をもたない、
即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。
純粋理性のアンチノミー 先験的理念第二の自己矛盾<質>
正命題 |
世界においては、合成された実体は |
すべて単純な部分から成っている、 |
また世界には単純なものか、 |
さもなければ単純なものから成る |
合成物しか実在しない。 |
反対命題
世界におけるいかなる合成物も
単純な部分から成るものではない、
また世界には、
およそ単純なものはまったく実在しない。
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第三の自己矛盾<関係>
正命題 |
自然法則に従う原因性は、 |
世界の現象がすべてそれから |
導来せられ得る唯一の原因性ではない。|
現象を説明するためには、 |
そのほかになお自由による |
原因性をも想定する必要がある。 |
およそ原因性には、自然法則に従う原因性 だけしかない、と想定してみよう。すると生 起する一切のものは、それよりも前にある状 態、つまりこの生起するものが規則に従って 必然的に継起せねばならぬ直前の状態を前提 することになる。ところがこの生起するもの よりも前にあるかかる状態そのものが、やは り生起した何か或もの(この何か或るもの は、以前には存在しなかったのだから、やは り時間において生成したものである)でなけ っと存在し続けてきたとしたら、それから生 じる結果も初めて生じたものではなくて、や はりずっと存在し続けていたということにな るからである。それだから何か或るものは原 因の原因性、即ち原因がそこではたらいてい る状態であるところの原因性によって生起し たのであるが、この原因性はまたそれ自身生 起した或るものであり、この生起した或るも のは更にまた自然法則に従ってそれよりも前 の状態と原因性とを前提する。するとこ の状態はいま述べたのとまったく同様に、 そ れよりも前の状態を前提するという工合に、 どこまでも遡っていくわけである。それだか らもし一切のものが自然法則に従ってのみ生 起するとしたら、いつでも下位の始まり、即 ち比較的な始まりがあるだけで、最上位の始 まり、即ち第一の始まりというものは決して あり得ない。すると順次に原因から原因へと 題る原因の側における系列の完全性はまった く存しないことになる。しかし自然法則の主 旨は、ア・プリオリに十分に規定された原則[柄谷は原因と朗読]がなければ何ものも生起しない、ということ である。それだから一切の原因性は自然法則 に従ってのみ可能であるという命題は、この 命題の無制限な普通性を主張すると、自己矛 盾に陥いることになる。故に自然法則の原因 性は、唯一の原因性として想定せられ得るも のではない。
そうすると自然法則とは異なる別の原因性 が想起されねばならない。かかる原因性は、 る原因によって、必然的自然法則に従って規 定されることがない、〜〜換言すればかかる 原因性は原因の絶対的自発性であり、自然法 則に従って進行する現象の系列をみずから始 めるところのものである。従ってそれは先験 的自由であり、これがなければ自然の経過に おいてすら現象の相続的継起の系列は、原因 の側において決して完結することがないので ある。
反対命題
およそ自由というものは存しない、
世界における一切のものは
自然法則によってのみ生起する。
先験的意味における自由なるものが存在す ると仮定してみよう。自由は、世界の出来事 を生起せしめる特殊な種類の原因性であって、 或る状態とこの状態から生じる結果の系列と の絶対的な始まりを設定する能力である。す るとかかる自発性によって、一つの系列が絶 対的な始まりを持つばかりでなく、この系列 を生ぜしめるようににかかる自発性そのものを 規定することもまた絶対的な始まりをもつわ けである、〜〜換言すれば、自由というこの 原因性は絶対的な始まりを持ち、こうして生 起するところの作用よりも前には、この作用 を恒常不変な法則に従って規定するようなも のは何もないということにになる。しかし作用 が始まるということは、 まだ作用していない 原因の状態を前提する。 また作用の力学的な 第一の始まりは、この同じ原因よりも前にあ る状態とまったく因果的結合をもたないよう な状態~~換言すれば、それよりも前にある 状態からは決して生じてこないような状態を 前提している。故に先験的自由なるものは因 果律に反する。また作用原因の継時的状態を このように結合することは、経験の統一を不可能にするものである。それだからかかる結 合は、いかなる経験においても見出されない、 従ってまた内容のない空虚な思性物にすぎな いということになる。
それだから我々が世界の出来事の関連と秩 序とを求めねばならないとすれば、我々はこれを自然のうちに求めるよりほかはない。自 然法則から自由になること(自然法則にかかわりのないことx)は、確かに強制からの解放ではあるが、しかしそれはまた一切の規則の 手引きからの解放〔規則の手引きを放棄することx〕でもある。とはいえ我々は、自然法則に代って自由の法則が世界経過の原因性のなかへ導入されるなどと言うわけにはいかない、 もし自由が法則によって規定されるならば、 それはもはや自由ではなくて、それ自身自然 にほかならないからである。それだから自然 と先験的自由との差別は、けっきょく合法則性と無法則性との整別に帰する。合法則性は、 なるほど出来事の出所を絶えず遡及していくという困苦を悟性に課しはする、出来事の原 因性は常に条件付きだからである。しかし合法則性はその償いとして、経験の完全な合法 則的統一を与えることを約束する。これに反して自由という幻影は、なるほど究明を事とする悟性に、原因の系列の停止を約束する、 自由は悟性を無条件的〔絶対的x〕原因性、即ちみずから作用を開始する原因性に達せしめる からである。しかしかかる無条件的原因性そのものは盲目的であるから、規則の手引きの 糸~~つまりそれを辿ってのみ完全に関連する経験が可能になるところの手引きの糸を切 断してしまうのである。
光文社版は以下、
純粋理性の二律背反
超越論的な理念の第三の抗争
定立命題
自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。現象を説明するためには、自由[意志]に基づいた因果関係についても想定する必要がある。
証明
516背理法による証明
因果関係としては、自然法則にしたがった因果関係しかないと想定してみよう。その場合には、生起するすべてのものは、その前にある状態を前提とすること、そしてこの生起するものは特定の規則にしたがって、その前の状態から必然的に継起しなければならないと想定することになる。ところでこの[〈あるもの〉が]生起する前の状態というものも、その前に生起したあるものでなければならない。これはそれまでなかったのだから、時間のうちで生起したのでなければならないのである。というのは、この〈あるもの〉がずっと存在しつづけていたとすると、その結果も初めて発生したものではなく、ずっと存在しつづけていたものにちがいないからである。だから〈あるもの〉は原因によって発生するのであるが、その原因にも因果関係が働いているのであり、その因果関係もまた生起するものであるから、この〈生起するもの〉も自然法則に基づいて、その前の状態との因果関係を前提とするのであり、さらにこの前の状態もそれ以前の状態を前提とするのであり、こうしてずっと溯りつづけることになる。
このようにすべてのものがたんなる自然法則だけによって生起すると考えると、決して第一の始まりというものに到達することがなく、つねにある原因に従属した始まりしかないことになる。その場合には原因から、その原因を引き起こした原因へと溯る系列が完結することはありえないことになる。しかし自然法則が意味することは、アプリオリに十分に規定された原因がなければ、何ものも生起することがないということである。だからすべての因果関係は自然法則にしたがわなければ不可能であるという命題は、[すべての因果関係を主張することで]無制限に普遍的な命題でありながら、[アプリオリな原因を示さないことで、普遍的な命題ではないという]自己矛盾に陥っている。こうして、自然法則にしたがった因果関係だけが唯一の因果関係と想定することはできないのである。
517超越論的な自由の証明
このように、自然法則とは異なる因果関係を探す必要があるのであり、これはあるものを生起させるが、その生起の原因がその前にある原因によって、しかも必然的な自然法則にしたがって規定されるのではないような因果関係である。すなわちこれは原因の絶対的な自発性であり、自然法則にしたがって進行する現象の系列をみずから開始する因果関係である。これは超越論的な自由であり、このような自由を想定しないかぎり、自然の推移においてすら、現象にみられる継起的な進行の系列が、原因の側において完結することはないのである。
反定立命題
自由[意志]というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則だけによって生起する。
証明
518超越論的な自由の逆説
超越論的な意味での自由が存在すると想定してみよう。自由というのは、世界のさまざまな出来事が生起することのできる特別な種類の因果関係であり、ある状態を絶対的に開始させ、そのことで、その状態から生じる結果の系列を絶対的に開始させる能力である。ここでこの自発性によってもたらされるのは、一つの系列の絶対的な端緒だけではない。この系列を始めさせる自発性そのものの規定、すなわち因果関係そのものが絶対的に始まるのである。そうだとすると、この生起する作用を、ある一定の法則によって規定するようなものが、それ以前にはまったくないということになる。しかし開始する作用があるということは、まだ作用していない原因のある状態が前提とされる。そして作用の力学的な第一の端緒が前提しているのは、この同じ原因によって先行する状態とは、因果関係においてまったく結びつきのない状態、すなわち先行する状態の結果として発生することがありえない状態である。だから超越論的な自由というものは、因果の法則に反するものである。作用する原因をこのように継起的な状態として結びつけたとすると、そこからは経験の統一が生まれることはない。こうした結びつきはいかなる経験においてもみいだすことができないものであり、内容のない空虚な思考の産物にすぎないのである。
519自然と超越論的な自由の違い
このように、わたしたちが世界の出来事の結びつきと秩序を求めるならば、それは自然のうちにみいだすしかないのである。自然法則から自由であることは、すなわち自然法則に依存しないということは、たしかに強制から解放されることであるが、すべての規則という導きの糸から解放されることでもある。というのは、自然法則の代わりに自由の法則が、世界の[出来事の]経過の因果関係のうちに導入されると主張することはできないからである。もしも自由が法則によって規定されるのであれば、それはもはや自由ではなく、[法則によって規定される]自然そのものにほかならないからである。
だから自然と超越論的な自由の違いは、法則にしたがっているか、法則にしたがっていないかの違いである。自然は人間の知性にたいして、出来事の発生した事由を、原因の系列においてどこまでも溯ってゆくという困難な課題を与えるが(それは出来事における因果関係はつねに条件づけられたものだからであるが)、その埋め合わせとして、経験を法則にしたがった形ですべて統一することを人間に約束してくれるのである。これにたいして自由という幻影は、[原因を]探求しつづける知性に、原因の系列を溯る作業をあるところで停止できることを約束する。自由は知性に、みずから作用を開始する無条件的な因果関係というものが存在することを示すからである。しかしこうした無条件的な因果関係は、それ自体が盲目なものであり、経験をあまねく結びつけてくれるはずのさまざまな規則という唯一の〈導きの糸〉を断ち切ってしまうのである。
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第四の自己矛盾<様相>
正命題 |
世界には、 |
世界の部分としてかさもなければ |
世界の原因として、 |
絶対に必然的な存在者であるような |
何か或るものが実在する。 |
反対命題
およそ絶対に必然的な
存在者などというものは、
世界のうちにも世界のそとにも、
世界の原因として
実在するものではない。
https://nam-students.blogspot.com/2019/04/blog-post_90.html?m=1
一 実践理性のアンチノミー
我々にとって実践的な最高善換言すれば[言い換えれば]、我々の意志によって実現され得る最高善においては、徳と幸福とが必然的に結合していると考えられるから、純粋実践理性がその一方を想定し得るとすれば、他方もまた必ず最高善に属せねばならない。ところでこの結合は(一般に、いかなる結合もそうであるが)分析的であるか、さもなければ綜合的であるか、そのいずれかである。しかしここで問題にしている結合が、分析的であり得ないことは、つい今しがた述べた通りである。するとこの結合は綜合的であり、しかも原因と結果との必然的連結と考えられねばならない、この結合は、実践的善に換言すれば[言い換えれば]、行為によって可能になるような善に関係するからである。
すると幸福を得ようとする欲望が、徳の格律に向かわしめる動因でなければならないか、
それとも徳の格律が幸福の作用原因でなければならないか、二つのうちのいずれかである。
第一の命題は、絶対的に不可能である、(分析論で証明した通りx)意志の規定根拠を、幸福を求める意志の要求のなかに置くような格律は、決して道徳的ではなく、また徳を確立し得るものではないからである。
しかし第二の命題もまた不可能である、この世界における原因と結果との実践的連結は、単に意志を規定することから生じた結果としては、意志の道徳的心意に従っているのではなくて、すべて自然法則の知識と、この知識を意志の意図を達成するために使用する自然的能力とに向けられているからである。
それだからこの世界では、幸福と徳との必然的な、また最高善を形成するに十分であるような連結は、たとえ道徳的法則をいくら几帳面に遵奉[?]したところで、とうてい期待できることではない。ところが最高善は、このような連結をその概念のうちに含んでいるのであるから、最高善の促進は我々の意志のア・プリオリな必然的目的であり、またこのことは道徳的法則と不可分離的に関連しているのであるから、第一の命題の不可能は、また第二の命題の虚偽をも証明するものでなければならない。そこでもし最高善が、実践的法則に従うのでは〔その実現が〕不可能であるというのなら、最高善の促進を命令するような道徳的法則もまた空想の所産であって、虚構された空しい目的を追求することになり、従ってまたそれ自体が虚偽でなければならない。
趣味のアンチノミーの提示
趣味の原理に関しては次のようなアンチノミーが提示される。
正命題:趣味判断は、概念に基づくものではない。もしそうだとしたら、趣味判断は論議せられうることになるからである。
反対命題:趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、判断が相違するにもかかわらず、我々はその判断について論議できなくなるからである。
______________________
(一)正命題。趣味判断は、概念に基づくものではない、もしそうだとしたら趣味判断は論議され得る(証明によって決定され得る)ことになるからである。
(二)反対命題。趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと判断が相違するにも拘らず我々はその判断について論争できなくなる(他の人達が我々の判断に必然的に同意することを要求できなくなる)からである。(『判断力批判』上、篠田英雄訳、岩波文庫)上312
ネーションと美学31頁
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さもなければ、それはたんに個人的な適意(快適)にすぎないからである。カントはそのことをつ(一)正命題。趣味判断は、概念に基づくものではない、もしそうだとしたら趣味判断は論議され得る(証明によって決定され得る)ことになるからで
第56節 趣味のアンチノミーの提示 310-312、232-234 1.
正命題:趣味判断は、概念に基づくものではない。というのも、さもなければ、趣味判断について論議するdisputieren(=証明によって決定する)ことができることになるから。2.
反対命題:趣味判断は、概念に基づくものである。というのも、さもなければ、判断が相違するにもかかわらず、趣味判断について論争するstreiten(=この判断について他人と必然的に一致することを要求する)ことができなくなるから。
http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/1000p/dat/050929a.pdf
趣味のアンチノミー
正命題 趣味判断は概念に基づくものではない、もしそうであれば趣味判断は証明によって決定され得るからである
反対命題 趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、その判断が相違したとき、その判断についてわれわれは論議することができなくなる(われわれの判断に他の人々が同意することを要求できなくなる)からである
(第56節)
「(一)定立:趣味判断は概念に基づかない。なぜなら、もしも基づくとするならば、趣味判断について論議でき る(証明によって決定できる)ことになってしまうからである。
(二)反定立:趣味判断は概念に基づく。なぜなら、もしも基づかないとするならば、趣味判断 が異なっているにもかかわらず、趣味判断について論争する(他のひとびとがこの判断に必然的に同意することを要求する)ことすらできなくなってしまうから である」(第56節)
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1059/kotoba.html
趣味のアンチノミー
正命題 趣味判断は概念に基づくものではない、もしそうであれば趣味判断は証明によって決定され得るからである
反対命題 趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、その判断が相違したとき、その判断についてわれわれは論議することができなくなる(われわれの判断に他の人々が同意することを要求できなくなる)からである
(第56節)
判断力のアンチノミー
正命題 物質的な物の産出は、すべて単なる機械的法則に従ってのみ可能である ×
反対命題 物質的な物の産出のなかには単なる機械的法則に従うのでは不可能なものがある×
しかしこれは『純粋理性批判』の第三アンチノミーの言い換えにすぎない。つまりこれは、いまだ与えられていない概念―原理を、あらかじめ与え られた客観的原理と取り違える誤謬によって発生したアンチノミーにすぎないとカントは退ける。反省的判断力において生じるのは、正しくは、
正命題 物質的な物とその形式との産出は、すべて単なる機械的法則に従ってのみ可能であると判定されなければならない◯
反対命題 物質的自然における所産のなかには、単なる機械的法則に従ってのみ可能であると判定され得ないものがある◯
(第70節)
http://correlative.org/publishing/jyunbi.html
http://tetsugakusya2.blog38.fc2.com/?mode=m&no=18
____
0:01 第一の自己矛盾 0:17 反対命題 0:40 第二の自己矛盾 1:00 反対命題 1:21 第三の自己矛盾 証明 4:52 反対命題 証明 8:26 第四の自己矛盾 8:50 反対命題 9:15 実践理性のアンチノミー 12:30 趣味のアンチノミー 12:50 反対命題
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第一の自己矛盾<量> 正命題 | 世界は時間的な始まりをもち、 | また空間的にも限界を持つ。 | 反対命題 世界は時間的な始まりをもたないし、 また空間的にも限界をもたない、 即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。 先験的理念第二の自己矛盾<質> 正命題 | 世界においては、合成された実体は | すべて単純な部分から成っている、 | また世界には単純なものか、 | さもなければ単純なものから成る | 合成物しか実在しない。 | 反対命題 世界におけるいかなる合成物も 単純な部分から成るものではない、 また世界には、 およそ単純なものはまったく実在しない。 先験的理念の第三の自己矛盾<関係> 正命題 | 自然法則に従う原因性は、 | 世界の現象がすべてそれから | 導来せられ得る唯一の原因性ではない。| 現象を説明するためには、 | そのほかになお自由による | 原因性をも想定する必要がある。 | 反対命題 およそ自由というものは存しない、 世界における一切のものは 自然法則によってのみ生起する。 証明 … 先験的理念の第四の自己矛盾<様相> 正命題 | 世界には、 | 世界の部分としてかさもなければ | 世界の原因として、 | 絶対に必然的な存在者であるような | 何か或るものが実在する。 | 反対命題 およそ絶対に必然的な 存在者などというものは、 世界のうちにも世界のそとにも、 世界の原因として 実在するものではない。 実践理性のアンチノミー 我々にとって実践的な最高善換言すれば[言い換えれば]、我々の意志によって実現され得る最高善においては、徳と幸福とが必然的に結合していると考えられるから、純粋実践理性がその一方を想定し得るとすれば、他方もまた必ず最高善に属せねばならない。ところでこの結合は(一般に、いかなる結合もそうであるが)分析的であるか、さもなければ綜合的であるか、そのいずれかである。しかしここで問題にしている結合が、分析的であり得ないことは、つい今しがた述べた通りである。するとこの結合は綜合的であり、しかも原因と結果との必然的連結と考えられねばならない、この結合は、実践的善に換言すれば[言い換えれば]、行為によって可能になるような善に関係するからである。 すると幸福を得ようとする欲望が、徳の格律に向かわしめる動因でなければならないか、 それとも徳の格律が幸福の作用原因でなければならないか、二つのうちのいずれかである。 第一の命題は、絶対的に不可能である、(分析論で証明した通りx)意志の規定根拠を、幸福を求める意志の要求のなかに置くような格律は、決して道徳的ではなく、また徳を確立し得るものではないからである。
しかし第二の命題もまた不可能である、この世界における原因と結果との実践的連結は、単に意志を規定することから生じた結果としては、意志の道徳的心意に従っているのではなくて、すべて自然法則の知識と、この知識を意志の意図を達成するために使用する自然的能力とに向けられているからである。 それだからこの世界では、幸福と徳との必然的な、また最高善を形成するに十分であるような連結は、たとえ道徳的法則をいくら几帳面に遵奉[?]したところで、とうてい期待できることではない。ところが最高善は、このような連結をその概念のうちに含んでいるのであるから、最高善の促進は我々の意志のア・プリオリな必然的目的であり、またこのことは道徳的法則と不可分離的に関連しているのであるから、第一の命題の不可能は、また第二の命題の虚偽をも証明するものでなければならない。そこでもし最高善が、実践的法則に従うのでは〔その実現が〕不可能であるというのなら、最高善の促進を命令するような道徳的法則もまた空想の所産であって、虚構された空しい目的を追求することになり、従ってまたそれ自体が虚偽でなければならない。
趣味のアンチノミーの提示
趣味の原理に関しては次のようなアンチノミーが提示される。
正命題:趣味判断は、概念に基づくものではない。もしそうだとしたら、趣味判断は論議せられ得ることになるからである。
反対命題:趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、判断が相違するにもかかわらず、我々はその判断について論議できなくなるからである。
Grenzverhältnisse : Kant und das "Regulative Prinzip" in ... "als sie auf die Ersetzung der »konstitutiven Prinzipien« Kants durch die »regulativen.
regulatives Prinzip 原理
Konstitutiv/Regulativ
統整的理念(regulative Idee)と構成的理念(konstitutive Idee)
統整的(regulative)←→構成的(constructive)
カントを読んでいたら「統制(control)」とは書かない
世界共和国へ
カントの見たフランス革命
カントが『永遠平和のために』を書いたのは、一七八九年のフランス革命以後の情勢においてです。つまり、それはカントが、集権的な国家によって平等を性急に実現しようとするジャコバン主義的な恐怖政治を見たあとです。カントは直接にそれについて言及していない。そのため、ヘーゲルによるカントの批判、つまり、カントの主観的道徳論あるいは理性主義はロベスピエールのような恐怖政治を必然的にはらむというような批判が行き渡っています。むろん、そうではない。カントは、国家権力をにぎって強行する革命に反対したのです。
カントは、フランス革命が性急な「外的革命」として、その誤を修正するのに数世紀もかかるようなものであったと批判すると同時に、それが無限に遠く離れた未来であるにせよ、この地上に実現されるであろう「神の国」(世界共和国)への第一歩となったことを評価したのです。この二つの観点が重要だと思います。それは、カントの言い方でいえば、統整的理念と構成的理念の区別厳密には、理性の統整的使用と理性の構成的使用にかかわる問題です。
統整的理念と構成的理念
わかりやすくいうと、理性を構成的に使用するとは、ジャコバン主義者(ロベスピエール)が典型的であるように、理性にもとづいて社会を暴力的に作り変えるような場合を意味します。それに対して、理性を統整的に使用するとは、無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような場合を意味するのです。たとえば、カントがいう「世界共和国」は、それに向かって人々が漸進するような統整的理念です。
カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そのような仮象の批判です。その一つとして「自己」があります。同一であるような自己とは仮象です。ヒュームがいうように、同一の自己は存在しない。たとえば、昨日の私は、今の私ではない。それらが同じ一つの私であるかのようにみなすことは仮象である。しかし、そのような仮象は生きていくために必要です。今の私は昨日の私と関係がないということでは、他人との関係が成り立たないだけでなく、自分自身も崩壊してしまう。だから、同一の自己が仮象であるとしても、それは取りのぞくことができないような仮象なのです。
現状批判としての統整的理念
歴史の目的ということも同様です。もちろん、それは仮象です。ただ、われわれが生きていくために不可欠な超越論的仮象なのです。カントがいう歴史の理念とは、そのようなものです。だから、カントがいう理念を、歴史に意味や目的などない、そんなものは仮象だということによって斥けることなどできません。一般に、ひとが否定する理念とは、「構成的理念」のことです。歴史の意味を笑するポストモダニストの多くは、かつて「構成的理念」を信じたマルクス・レーニン主義者であり、そのような理念に傷ついて、シニシズムやニヒリズムに逃げ込んだのです。
しかし、社会主義は幻想だ、「大きな物語」にすぎないといったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすみません。現実に一九八〇年以後、世界資本主義の中心部でポストモダンな知識人が理念を笑している間に、周辺部や底辺部では宗教的原理主義が広がった。少なくとも、そこには、資本主義と国家を超えようとする志向と実践が存在するからです。もちろん、それは「神の国」を実現するどころか、聖職者=教会国家の支配に帰着するほかありません。したがって、統整的理念と構成的理念の区別が必要なのです。統整的理念は、決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづけます。
カントの「あたかも~かのように」「統整的原理」について | 飢餓祭のブログ
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/naturalleaf2006/entry-11957331061.html
前回の「霊魂不滅観の諸類型」における説明について「かのように」の擬制について書いたが、そもそも「かのように」という考え方について述べたのはカントである。カントは「統整的原理」という概念を提起し、この原理に「あたかも~かのように」という意味をもたせた。この概念は、原語で書けば、regulatives Prinzipと書く。原義どおりに解釈すれば、「調節(調整)的、制御的な原理」で、これがなぜ「あたかも~かのように」という原理となるのか。中島義道氏の『純粋異性批判』(講談社、2013.12.10)の中で中島氏は書いている。(()は読者のために私が付したもの、もちろんドイツ語は除く。また(神?)も中島氏が付したもの。)
「カントは、後の『判断力批判』において、物理神学的証明ときわめて似た議論を再開し、「超自然的なもの(das Ubersinnliche)」に対する「崇高(erhaben)」の感情として神というものの存在を位置づけている。われわれ理性的人間は、他の地上の動物たちと異なり、崇高の感情を持つ。それは、大自然を前にしての恐れと慄(おのの)きのように対象に対する恐怖であるとともに、それによってはいささかも侵害されない理性的存在者としての自分に対する快感である。まさに、パスカルが言うように、人間は、確かに葦のように儚(はかな)い者であるが、同時にそれを自覚している点で偉大なのである。
すなわち、物理神学的証明そのものは誤謬なのだが、超自然的なものに対する崇高の感情だけは、真実の感情なのである。ということは、崇高とは現に存在する超自然的なもの(神?)に対する感情という意味には限定されず、超自然的なものという「理念」に対する感情として(理解したとしても)同じように成り立つということである。
『判断力批判』においては、(カントは)物理神学的証明に対する技巧的批判の代わりに、われわれは確かに自然(というもの)に調和を感ずるが、それが直ちに超自然的なもの自体の存在を証明する(動かぬ証拠だと強弁する)のではなく、超感性的なものという理念に対する崇高の感情として現に存在するというしっかりした地点を確保している。しかも、この意味で超感性的なものは、われわれの認識に役立っているのだ。(というのは)宇宙を眺めても、物質の細部を分け入っても、人体を探求しても、あまりに調和的で、このすべてが偶然による(産物)とは考えにくい。このすべてはあたかも人間とは比較を絶した知性者(神?)が創造したとみなすほうがうまく説明できる。その意味で、「あたかも~かのように」に留(とど)まる限り、「自然を創造した神」という理念は自然科学の認識を進歩させる積極的な役割を担っているのである。
こうした「あたかも~かのように」をカントは「統整的原理(regulatives Prinzip)」と呼ぶ。これは、カントの数々の卓越した概念装置の中でも、白眉だと思われる。」(中島義道『純粋異性批判』講談社、2013.12.10、p.128)
カントは「物理神学的証明」そのものは誤謬であるとした。この物理神学的証明とはデジタル大辞泉の解説では 「目的論的証明」と同義であり、「神の存在証明の一つ。自然界に見いだされる合目的性から、そのような世界を創造した最高の知恵者としての神が存在しなければならないとするもの。」と説明されている。中島氏はふれていないが、「このすべてはあたかも人間とは比較を絶した知性者(神?)が創造したとみなす」ことについて、「あたかも~かのように」に留(とど)まる限り、「自然を創造した神」という理念は自然科学の認識を進歩させる積極的な役割を担っている」だけでなく、無意味かつ有害な「狂信」を排除するためにもなくてはならない原理であるということだ。神というものの存在については「統整的原理」によって抑制された「理念」として、あるいは仮説的説明原理として捉えることが肝要なのであって、決して「実在論的」に捉えてはならないとカントは戒めているのである。しかし、中島氏も書いたように、この世には、極めて不幸なことであるが、「狂信」(もっとマイルドに言えば、「信仰」、「確信」)的な人々が多いのである。なぜこうした「二分割思考」(善悪、白黒、敵味方と二分割に分けてしまう思考法)が蔓延するのかといえば、「人間は、とかく物事をAかAでないか」という単純化してみたがる」(中島同書p.129)し、そのほうが、簡単で、楽だからだ。(これを思考的怠惰という。)
そこで、カントの「統整的原理」が重要となる。
「(AともAでないとも断定できない)中間のもの」は漠然と持ってきてもわかりにくい。「その「中間のもの」の厳密なあり方こそ問題」なのだと中島氏は書く。「
『統整的原理』とは、ある法則や規則が物理法則のように観察と厳密な推論によって成り立っているわけではないが、それを想定すること矛盾はなく(=物理法則と抵触せず)、しかもそれを想定することによって、物理法則では説明できないレベルにおける自然のさまざまな面が解明できる、という利点を持っている。『発見的原理(heuristisches Prinzip)』と言い換えてもいい。
すなわち神の存在は証明できないが、だからといって神をわれわれの自然研究から完全に抹殺してしまうのではなく、『あたかも神がいるかのように』想定して、自然研究を進めることは矛盾していないどころか、極めて合理的(理性的)態度なのである。だが、おうおうにして、われわれ人間はこの微妙な段階に踏みとどまらずに、『あたかも存在するかのように』から『存在する』へと跳躍してしまう。この跳躍を越権行為として警告し、権利を主張できる領域に引き戻すこと、これが(カントの)『批判』なのである。」(中島同書p.130)
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統整←→構成
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