2022年2月2日水曜日

秦氏と京都太秦の関係 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

秦氏と京都太秦の関係 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

秦氏と京都太秦の関係

渡来系一族の秦氏とは?

平安初期、優れた地理感と卓越した土木技術のノウハウをもって桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの協力と理解を得て、平安京の遷都を実現させました。その壮大なプロジェクトを推進するために、大きな貢献を成し遂げたのが秦氏です。当時、朝廷の政権において強い影響力を有していた秦氏は、平安京の造営にあたり、多くの私財を献上しました。秦氏は平安京への遷都に不可欠な大内裏を含む土地を提供した、陰の立役者だったのです。

秦氏の政治力や財力、国政に関する働きについては、教科書にもほとんど触れられていないことから、いまだにあまりよく知られていません。しかしながら、秦氏の実態を調べていくうちに、この渡来系の集団こそ、天皇家に繋がる王系一族の流れを汲む生粋の民族であり、日本文化の礎を築いた渡来系一族であることがわかってきました。神道信仰の土台を構築し、日本の宗教文化の礎を築いたアジア大陸からの渡来者として、秦氏はその名を日本史に刻んでいたのです。

日本の歴史に大きく貢献した秦氏

始皇帝(三才図会より)
始皇帝(三才図会より)
アジア大陸から朝鮮半島を経て渡来してきた秦氏の歴史は、少なくとも八幡神として称えられた応神天皇と神功皇后の時代となる3世紀前後まで遡ります。「新撰氏姓録」によると、秦氏は朝鮮半島の百済を経由して渡来した氏族であり、秦の始皇帝の末裔にあたる融通王とよばれた弓月君が中心的な存在でした。そして融通王の父である功満王(こうまんおう)は、一世代前の仲哀天皇の時代、先行して日本列島を訪れ、秦一族の祖となったことが記録されています。また、「日本書紀」においても、応神14年に功満王の息子である融通王が朝鮮半島を経由し、百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。

その後、秦氏は雄略天皇の時代(5世紀)には、秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模の存在として公に知られるようになり、一大勢力に成長したのです。当時の日本の総人口から考えても、秦氏の存在は際立っていました。

秦氏が大陸より携えてきた文化は、その当時、比類なき高度なものであったと考えられます。だからこそ、一族が大陸で培ってきたノウハウと財力を活かして、すぐに灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手することができました。特に今日の京都界隈、西山、北山、東山の山麓に囲まれた山背国と呼ばれる地域の開発と発展は、秦氏の存在なくして考えることはできないほど、大規模なスケールを有していました。秦氏はその後も継続して、八幡神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に建立したのです。

また、秦氏は養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や和紙などさまざまな文化・芸術に関する教養も大陸から日本にもたらし、飛鳥文化の発展における中心的な役割を担いました。秦という名前から、機織り(はたおり)という言葉が生まれたとも言われています。さらに政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝らの絶大なる経済力を背景に、多くの寺院が建立されました。その結果、いつしか朝廷に対して強い影響力を持つようになり、平安京さえも短期間で造営する原動力となったのです。

素性の知れない秦氏に関する疑問の数々

古代日本史における中心的存在として、これまで秦氏がさほど話題に上らなかった理由は、おそらく、そのルーツが渡来人であり、その出自が不透明であったからではないでしょうか。日本に渡来する以前、秦氏はアジア大陸においても寄留者・異邦人という立場で、長い年月をかけて大陸を移動し続け、東アジア各地において多大なる政治・文化的な貢献を果たしてきました。しかしながら自らのアイデンティティーを明かすことなく、アジアの古代史において、あくまで裏方に徹してきたことから、その出自はあまり知られることがなかったようです。よって東アジア史において、秦氏の存在は多くの謎に包まれてきました。例えば、中国史書には秦氏の祖先は始皇帝であるという記述が散見され、ユダヤルーツの可能性も以前から囁かれていますが、多くの謎が残されたままです。

秦氏に関する素朴な疑問を幾つか考えてみました。まず、数万人規模の集団が大陸から日本列島に移住してきたにも関わらず、故郷が明らかでないのはおかしなことです。少なくとも本来ならば、その旅の経路や人口の変動、文献による記録などから、どこから到来した民族であるかがわかるはずです。

シルクロードのルート (1世紀ごろ)
シルクロードのルート (1世紀ごろ)
また古代の日本社会においては経済の基礎インフラがほとんど構築されておらず、物資そのものが不足していたこともあり、短期間で蓄財することは到底不可能でした。そのような時代、秦氏は莫大な資材を携えて日本に渡来していたのです。よって、秦氏は大陸で財を成した有力者であり、その富と技術を携えながら、大勢の民を伴って渡来してきたことがわかります。秦氏は大陸通であるが故に、610年に新羅からの使者を迎えるにあたっては、その重要な接待の役目を朝廷から授かり、歴然とした有力者として認知されながら政権運営に携わってきました。

では、彼らの高度な文化は一体どこで培われ、その政治力や経済力の原点はどこに由来していたのでしょうか? さらに、秦氏と関係の深い神社仏閣に残る習慣には、景教の影響を受けたと思われる事例が散見されることから、秦氏はユダヤ系の景教徒ではないかと長年、囁かれてきていますが、本当なのでしょうか? 何故、秦氏がシルクロードの東の終点である日本に到来し、最終的にそこを生涯の拠点として、末永く国家形成のために尽力したのでしょうか。

これらの疑問を解決するため、今一度、秦氏が関与した神社の創設や、地名などの名称、言葉の由来とルーツに注視しながら日本文化と秦氏の関わりを見直し、秦氏の出自を明らかにしていきます。

秦氏のルーツに潜むイスラエルの影

秦氏の拠点となる平安京に建立された古代の神社 (赤枠は平安京の想定位置) 引用元: Wikipedia秦氏の拠点となる平安京に建立された古代の神社
(赤枠は平安京の想定位置) 引用元: Wikipedia
京都周辺には秦氏の氏寺である広隆寺をはじめ、大覚寺仁和寺木嶋神社大酒神社など、秦氏が創建に関わった神社が多数あります。秦河勝によって建立された太秦の広隆寺は、正面門前より広い境内へと向かう参道の緩やかな勾配と、美しい建造物、そして背景に広がる山々の景色との調和が実に見事です。仁和寺や大覚寺なども同様に、境内周辺の情緒溢れる穏やかな空間、きめ細かいデザインが際立つ各種建築物の高度な技巧など、共通の美的感覚を見出すことができ、優れた建築技術に感嘆しないではいられません。また仁和寺と大覚寺では今日、参拝者が自由に素足で巡ることができる回廊が存在し、散歩中に目にする美しい風景に絶句しながら、歴史の重みを十二分に感じとることができます。大陸文化とは一線を画す日本独自の繊細で几帳面な建築美学がいつしか日本列島で芽生えていたのです。その背景には秦氏の存在がありました。

古代日本における秦氏の力は計り知れません。太秦村誌には、「欽明天皇の頃、戸籍に載する秦氏の総数七〇五三戸に及ぶより見れば、その勢力の侮るべからざることを知るべし」と記されています。当時、秦氏の戸数はすでに140郷余り存在しました。欽明天皇より15代後の元正天皇の御代でも国内全体の郷数は4012に過ぎず、秦氏の勢力については想像に難くありません。

蚕の社に祀られた秦氏の作、三柱鳥居(1831年再建)
蚕の社に祀られた秦氏の作、三柱鳥居(1831年再建)
事実、秦氏の手が及んでいない神社仏閣を探すほうが難しいほど、秦氏は京都太秦を中心として全国各地に神社を建立し続け、一族の影響力を拡大していました。そして秦氏は大陸新文化を鼓吹し、商業、農業、酒醸造などにも貢献し、日本文化の礎を築く原動力となったのです。その結果、政治力に限らず、国内経済の実権も握るようになりました。その実態は京都府葛野郡史概要からも垣間見ることができます。

「伊勢に至り商業に従ひしことあれば利殖の道に長け、他日、秦氏の富饒を招来する因を講へしなるべし。特に大蔵省に召されしを見ても秦氏の富との関係、はなるべからざる由来を窺ふべし。秦氏は實に新しき文化と共に巨富の所有者なり。」

これら秦氏の経済力と神を祀る宗教的背景は、秦氏が秦の始皇帝の末裔であることの証とも考えられます。また、後述のとおり秦氏に関連する名称はヘブライ語でその言葉の意味を解読することができることから、秦氏がユダヤ王族系の財閥であった可能性も見えてきます。そのような前提が無ければ、これだけの利殖の道に長けた富豪が、突如として日本の歴史に登場することを想定することは難しくなります。

大酒神社 拝殿
大酒神社 拝殿
ところが、それほどまでに古代日本社会において、秦氏が日本文化の基礎を築き上げる中心的役割を果たしたことが明らかであるにも関わらず、歴史の教科書には「大陸から新しい文化を携えて日本の文化に貢献した渡来人」程度の記述しかないようです。何故、きちんとした説明がないのでしょうか。日本書紀などの古文書には、秦氏が「百済より帰化けり」と明記されているため、日本文化に貢献した中心的な存在として秦氏を公認してしまうと、日本人のルーツが百済からの帰化人であると解されてしまうことを怖れたのでしょうか。

確かに秦氏の多くは百済を経由して渡来したと考えられるため、百済系渡来人と思われがちですが、実際には百済で一時的に寄留していた「異邦人」に過ぎなかったようです。そして秦氏のルーツをさらに遡ると、秦の始皇帝の子孫である可能性を秘めているだけでなく、弓月君の出自である西アジア地域にも繋がり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を継ぐ一族に辿り着く可能性さえも見えてくるのです。そのルーツの繋がりは、秦氏が建立した寺社を検証することによって、明らかにされます。

秦氏が建立した大秦景教のお寺、広隆寺

伏見稲荷大社
伏見稲荷大社
秦氏は八幡神社や稲荷神社をはじめ、広隆寺など、多くの寺社の建立に長年関わってきたことが知られています。647年に秦河勝が没した際には、赤穂の坂越(兵庫県)に大避神社が創建され、その霊は大避大神として天照皇大神と共に祀られました。また、稲荷神社の発祥の地は京都の伏見稲荷大社ですが、その由来書には、秦伊呂具が創建したと記載されています。日本各地に1万社以上あると言われている八幡宮は、そのおおもとである大分の宇佐八幡神宮も、秦氏である辛島氏が創建者です。さらに京都の松尾大社や四国の金刀比羅宮など、多くの神社の創建に秦氏が関わった形跡が残されています。

広隆寺 楼門
広隆寺 楼門
秦氏の本拠地の1つが今日の京都近郊、山城国葛野郡の嵯峨野です。そこには秦河勝が聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、自らの氏寺として建立した広隆寺があります。京都最古の寺として603年に建立された広隆寺は、元来、蜂岡寺(はちおかでら)と呼ばれていました。その後、幾度となく移転を繰り返しながら平安初期、現在の地に落ち着き、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになりました。

広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派のキリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、唐は公認したのです。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語פרסי(pharsi、ファシィ) 、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。その例にもれず、日本では同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。

宇佐八幡神宮 南中楼門
宇佐八幡神宮 南中楼門
その「波斯経寺」を語源として、広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」が、その当て字として生まれたようです。その経緯を探ってみると、そこにも西アジアの強い影響を見出すことができます。まず、ペルシャに由来する景教のお寺の意味につながる「波斯」は、「ファシィ」「ハシ」と読むことから「蜂」の文字が当てられたと考えられます。また、「経」は「宗教の聖典」を意味することから、「経」はヘブライ語で「律法」を意味するחוק(kohk、ホッ(ク)、コック)と解されたようです。すると2つの言葉を合わせた「波斯経」の読みは、「ファシホック」「ハシオク」となり、その発音に当てた漢字が「蜂岡」となります。その結果、日本語では「波斯経寺」は「蜂岡寺」となり、「はちおか寺」と呼ばれるようになったと想定されます。

金刀比羅宮本宮
金刀比羅宮本宮
その後、651年にはササン朝が滅び、イスラム共同体にとって代わったことを機に、745年には教団の名前が「大秦景教」と改められました。そして景教寺院の呼び名自体も、それ以降は「大秦寺」に改称されたのです。当時、中国よりも西に位置する帝国は大秦国と呼ばれており、歴史的にはローマ帝国をも意味しました。そして景教の基となるキリスト教は既にローマ帝国において国教とされていたことから、ローマのキリスト教という意味を込めて、公には「大秦景教」と呼ばれるようになりました。

その歴史的流れを汲んで、景教のルーツを持つ広隆寺の従来の名称、「波斯経寺」「蜂岡寺」は、「大秦寺」に改名されることとなりました。それは単に大秦景教と大秦寺という名前が、景教に結び付くローマの宗教、キリスト教の信仰ルーツに関連しているだけでなく、広隆寺そのものの背景に、当時アジア大陸に広まりつつあった景教がしっかりと根付いていたことを意味します。

中国ではネストリウス派の布教が公には5世紀後半頃から景教として広まり始めました。しかしながら布教活動は公認される以前からも各地で積極的に進められていたことから、景教の寺院である波斯経寺が、中国での公認より先だって日本の地で建立され、蜂岡寺と呼ばれるようになったとしても、決して不思議ではありません。島国である日本は、諸外国の影響を受けづらい環境にありました。そして宗教的対立の要因となる分派や民族間の問題がその当時、さほどなかったという国家の事情も相重なり、新規に寺院を建立しやすかったことが、当時、中国よりも先に「波斯経寺」の日本版である「蜂岡寺」が早期に建立され、認知されるようになった要因と想定されます。

太秦がウズマサと呼ばれた所以

秦氏が建立した広隆寺のルーツが景教であるもう1つの理由が、広隆寺が建立された場所の地名である「太秦」の文字と、その読みに秘められています。「太秦」は「ローマ国教」であるキリスト教を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられます。しかし何故、「太秦」の漢字を称号として「ウズマサ」と呼ぶようになり、それを秦氏自らの本拠地の地名として用い、重要視したのでしょうか。

日本書紀や新撰姓氏録によると、「太秦」の由来は、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたことによると記録されています。また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。しかし、「うつもりまさ」という姓名が選ばれた理由は明記されていません。

「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に漢字を当てたものと想定することにより、その言葉の意味が明確になるだけでなく、秦氏を中心とする一族の宗教的背景が見えてきます。「ウツァ・モリッ・マシャ」をヘブライ語で読むと、「処刑された救い主」の意味となります。これは単なる偶然の一致ではなく、秦氏に相応しい名称として意図的に草案されたものであることがわかります。

まずהוצא(hutsa、フゥツァ) が、「(命を)取られる」「取り上げる」という意味のヘブライ語であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえהוצא לה הורג(hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ) 「処刑された」の意を持つ言葉の中にも見られます。次にמוריש(morish、モリッ) ですが、この言葉は「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。またמשיח(mashiakh、マシァ) は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。

すると、「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)の意味はヘブライ語で、「処刑され、財産を他に与えたメシア」、つまり「自らの命を他に捧げて処刑された救い主」という意味になることがわかります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのでしょう。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」、すなわち、キリストを意味する言葉だったのです。

秦氏の氏神である大辟大明神と太秦の関係

秦氏を祀る神社としては、大辟大明神と秦河勝を祀る兵庫県赤穂市の大避神社も有名です。太秦に建立された広隆寺そばに秦氏は大酒神社も造営したことから、広隆寺から分散して赤穂市へと遷座した際に、その神社は大避(大酒)神社と呼ばれるようになったのです。そこでも太秦と同様に、秦氏の氏神である大辟大明神(大避大神)の名称にイスラエルの神に関する痕跡を見出すことができます。

景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略して「大辟(オオサケ)」と書くことも可能であり、大辟大明神の「大辟」はダビデ王を意味すると考えられます。そのダビデ王の神、大辟大明神が秦氏の氏神として、秦河勝と共に大避神社にて祀られているのです。

ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。すると、秦氏の氏神であるダビデ王、大辟大明神の意味は、「極刑」の神となります。果たしてそのような際どい名前の神が存在するのでしょうか。その答えが秦氏の本拠地である「太秦」という言葉のルーツに秘められています。

「太秦」は中国語ではキリスト教を指し、その言葉を「うずまさ」と発音してヘブライ語で理解すると、「処刑された救い主」を意味します。すると「太秦」と「大辟」の意味がつながります。

そこで祀られているのは大辟大明神、つまりダビデ王の神です。その神とは「極刑に処された神」を意味していたことから「大辟」という言葉が厳選され、「大辟大明神」と呼ばれたのです。その名称の意味は、秦氏の本拠地で祀る太秦と同じです。「太秦」はヘブライ語で「処刑された救い主」と理解できることから、「大辟大明神」の意味ときれいに結び付きます。「太秦」はキリストの神を象徴し、キリストは極刑に処されたことから、それを象徴する名称として「大辟大明神」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

どうやら、秦氏が景教の信望者としてイエス・キリストを信仰していたという推測は間違いではなさそうです。秦氏の氏神はダビデ王の神であり、「極刑に処された救い主」であることの証が、太秦と大辟大明神という言葉に秘められていたのです。「ウズマサ」とは、「処刑されたイエス・キリスト」を指し、そのメシア、救い主こそダビデ王が仰ぎ見ていた神だったのです。この秦氏の氏神である「救い主」が日本に土着することを願い、「大辟大明神」や「ウズマサ」など、誰も抵抗を持たない風変わりな名前を、秦氏は厳選したのではないかと考えられます。

遠いアジア大陸から日本列島に渡来し、大和の国という新しい国家の繁栄に大きく貢献した秦氏一族は、その新天地において神を祀る神社を数多く建立しました。そして国家の繁栄を願い求め、神の祝福にあずかるため、神社や土地の名称にも秦氏の英知を結集して神の存在を刻み込み、歴史にその名を残したのです。

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