参考:
宇野正美
■いまから100年ほど前、関東大震災の翌年に、
聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
https://ameblo.jp/happy-runes/entry-12367037094.html
内村鑑三(うちむらかんぞう)が『日本の天職』(1924年)という小論を発表している。
■『日本の天職』の冒頭。聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
https://ameblo.jp/happy-runes/entry-12367037094.html
日本の天職&日本人イスラエル説/日本の精神性が世界を感化する … 内村鑑三の小論より
■いまから100年ほど前、関東大震災の翌年に、
この小論の言葉づかいは古いが(大正時代の文語)、内容はぜんぜん古くない。
むしろ今の時代の日本にこそ当てはまる内容だと思うから、
ひとりでも多くの人に知ってほしい。
そこで今回は、『日本の天職』の要所を抜粋しながら、
・日本の天職とは何か? (=日本がこの世界で果たすべき役割)
・内村鑑三って誰? (=不敬事件の人、キリスト教の無教会主義を創った人)
・百年前の日本人イスラエル説の内容
というあたりについて、私の感想やら雑談やらを。
■まずおおざっぱな概要を。
・『日本の天職』のメインテーマは、
「神が造られたこの世界に対し、日本国はどのような貢献ができるか」。
神は一人ひとりに独自の天職を与えているのと同じく、
世界各地の国、民族、文化という集団にも、それぞれにふさわしい役割を与えているはず。
という発想がベースになっている。
・「天職」は「神が各人に与えた役割」。
天職はあくまで、神が人に与えるもの。
英語でいえば calling ……天職は「神からの呼びかけ、calling」であって、
「私はこれが好きだからこれを天職にする」と人間が自分で決めるものではない。
神からの呼びかけ(calling)に対し、応答するか否かの選択権は人間側にある。
・「天職」という言葉をさらりと使う内村鑑三は、キリスト信者である。
「少年よ大志を抱け」で有名な札幌農学校でキリスト教徒になり、首席で卒業。
卒業後も大志を失うことなく、青年時代のアメリカ放浪経験などを経て、
「日本在住の世界市民(コスモポリタン)」という自覚をもって生きていた国際教養人。
・『日本の天職』の末尾には「日本人イスラエル説」のかんたんな解説も載っている。
日本人イスラエル説(日ユ同祖論)が、すでに百年前に知られていたことにビックリ。
しかも内村鑑三ほどの人が、それを肯定的に受け入れていたことにもビックリ。
日ユ同祖論は、トンデモ説の類といっしょくたにされてしまう分野ではあるけれど、
鑑三先生が是とするなら、私も日ユ同祖論や聖書について堂々と書いてみようと思った。
ということで、私は今年からこういう内容のブログを書き始めたのだ。
(私は鑑三先生のファン)
***************************
■『日本の天職』の冒頭。
聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
聖句引用の後に、本文がこう始まる。
(ブログ画面で読みやすくするため、適宜改行しています)
日本の天職は何か。
日本は特に何をもって神に仕うべきか。
世界は日本より何を期待するか。
日本は人類の進歩に何を貢献すべきか。
これ日本人各自にとりて切要なる問題であるはもちろん、
世界各国の識者が今日まで知らんと欲して努め、
また今なお解答を求めつつある大問題である。
国に天職あるは人に使命あると同様である。
エジプトとバビロンとは世界に最初の物質的文明を供し、
フェニキアは商業をもって太古時代の文化を助け、
ギリシアは美術、文芸、哲学を生み、
そしてユダヤは、今日に至るもいまだ廃れざる宗教を与えた。
国に特産あるがごとくに、民に特種の才能がある。
世界人類は各国の産物才能の貢献によって進歩し、
その究極の目的に達するのである。
……人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭である。
我らは天職を語る時に、神に対する職分を語るのである。
・「国に特産あるごとくに、民に特種の才能がある。」
たしかそうだと思える。
十把一絡げに、「日本人は皆こういう性格だ」などと決めつけることはできないけれど、
国民性というものはたしかにある。
内村鑑三は、それぞれの国民に与えられた特性を活かすことが、
神に仕えることであり、世界全体の進歩につながると考えている。
神から与えられた特性を自国の発展だけのために用いるのはNG、
その特性をもって世界に貢献するのが祭(マツリ/政)だというわけ。
これは、一個人にもまったく同じことがあてはまると思う。
自分に与えられた才能・特技・特性を、自分の幸せと楽しみのために用いるのはNG。
各人の才能は、自分の想いを実現するために使うのではなく、
いま自分が生かされている世界に貢献するために用いるのが◎。
(この意味で、キリスト教は自己実現を否定する。)
・「人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭りである。」
この部分は、ちょっとわかりづらいかもしれないが、重要な所。
「人類に奉仕する」というのは、いわゆるヒューマニズムで、道徳的には良いことに見える。
しかし内村鑑三およびキリスト教的には、ヒューマニズムはNG。
「人類に奉仕する」のではなく、「神に奉仕する」のが正解。
神への奉仕の一環として、各種人道支援がある。
なによりも神が第一。
だからマザーテレサも、彼女の人道的活動について、
「これは社会福祉事業ではなく、キリストにお仕えするものです」と語っている。
神抜きのヒューマニズムは自分も相手も滅ぼしてしまう。
たとえば「相手が笑顔になることをしたい」を本気で実践すると、
相手の笑顔を最終目標としてしまっているために、
いつも相手の機嫌と顔色をみて、相手の意向をなんでも叶える下僕にならざるをえない。
そして相手のエゴは肥大して、手のつけられないワガママモンスターと化してしまう。
良かれと思って始めたことが、自分にも相手の魂にもマイナスになってしまう。
↑これは私自身のアホくさい実体験でもある。
どうか、このブログを見てくれている人は、私と同じ轍を踏まないでほしい。
「人類に奉仕するのではなく、神に奉仕する」と意識することは、
健全な人間関係をつくるためにも欠かせない大前提だと思う。
神が第一。人はその後。宗教はオプション。
■『日本の天職』では、日本の特色は何であるか、いくつか例をあげながらの考察が続く。
日本の特産物は……戦争か、商業・工業か、美術・工芸・文学か……
ここで知っておきたいのは、この小論が書かれた当時の時代背景。
内村鑑三は、明治維新の7年前(1861年)に生まれている。
1868年(明治元年) 明治維新
1994年(明治27年) 日清戦争 → 日本勝利
1904年(明治37年) 日露戦争 → 日本勝利
1914年(大正3年) 第一次世界大戦 → 日本勝利
1923年(大正12年) 関東大震災
1924年(大正13年) 小論『日本の天職』発表
という流れの中で、内村鑑三は日本の行く末を案じて、
『日本の天職』を記したのではないかと思う。
明治維新後、10年おきの3つの大戦で日本は勝利をおさめた。
戦争では負け知らずだった。
世界の列強国とも対等にやっていけるという自信と傲慢さは、
内村鑑三いわく「明治大正は日本の生意気時代」。
日本は世界の覇権を握る「武の国」であるという主張もあったようだ。
武士という職業は消えたが、武士道はなお生きているというイメージか。
内村鑑三は、武士道の高尚な精神性には好意的だったが、
日本の天職は「戦争」ではないと断言している。
3つの大戦に勝利して調子づいていた日本を、首都東京を、関東大震災が襲う。
きっと内村鑑三は、日本の思い上がりを戒める神からのメッセージと感じただろうと思う。
彼は関東大震災の一か月後に、
『末日の模型――新日本建設の絶好の機会』という論文を発表している。
それから1年後に『日本の天職』も発表されている。
しかしその後の日本は、日本の天職を戦争だとはき違えたのか、
朝鮮・満州に進出し、太平洋戦争に突入し、
ボロボロに叩かれて敗戦を迎えることになる……
■日本の天職は「戦争」ではないし、「商業・工業・美術・文学」でもないと内村鑑三はいう。
その理由は。
日本人の天才に驚くべき者がある。
ただ悲しむべきは独創性の欠乏である。
日本人は新たに思想を起こし得ない。
彼らは改良家であって独創家ではない。
天然を描くには巧みであるが、進んで大胆に天然の秘密を探り出す能に乏しい。
鑑三先生、なんとすばらしい観察眼!
日本人は改良は得意だが、独創的な発想には乏しい。
「みんな同じ」であることを第一とするから、独創家は叩かれて潰されてしまう。
内村鑑三の「不敬事件」も、まさに同調圧力につぶされた結果だといえる。
不敬事件……1891年、内村鑑三が学校の教員だった時、
教育勅語に記された明治天皇の署名に最敬礼をしなかったというだけの理由で、
教育界とマスコミから激しく非難され、ついに教職を辞した事件。
署名に最敬礼するって発想がキモイよね。
でも、当時の日本はそういうことがまかりとおる時代だったんだね。
内村鑑三はキリスト教徒だけど、天皇も人間として尊敬していた。
しかし天皇は神じゃないし、天皇の署名はなおさら神ではない。
だから最敬礼はせず、軽く頭を下げる程度にした。
それが天皇への不敬事件として社会問題になってしまうという。
しかもこの不敬事件に対応していた精神的ストレスで、
内村鑑三の奥さんが病気になって亡くなってしまう。
奥さんの名は「かず」!
かずさん(本名は加寿子)は素晴らしい人だったに違いない。
■「みんながやっているんだからオマエもやれ」と横並びを強要する文化は、
今の日本にも根強く生きているよね。
悲しいことに、これが日本の特色の一つなんだなあ……
日本には独創性がないのはよくわかった。
それでは、日本の天職とは何なのか。
いよいよ結論部に入っていく。
日本人は特別にいかなる民であるか。
私は答えて言う、宗教の民であると。
かく言いて、私は私の田に水を引き入れんとするのではない。
日本の歴史と日本人の性質を考えて見て、かく言わざるを得ないのである。
内村鑑三は、学生時代の親友たちと共に、「二つのJに仕える」と誓っている。
二つのJ…… JAPAN と JESUS。
日本と神(ジーザス・クライスト=イエスキリスト)に仕える。
それが内村鑑三のいう「宗教の民」ということかと思う。
だから彼が「宗教の民」というのは、宗教団体への所属とはまったく関係ない。
「宗教団体に所属する民」ではなく、
「神を知り、神を信じ、神に仕える民」という意味で「宗教の民」といっている。
なにより内村鑑三自身がキリスト教団体を嫌って、
「キリスト教の無教会主義」を旗揚げしてしまったぐらいなのだ。
彼は青年時代を過ごした札幌の地で、
キリスト教の外国人宣教師どうしの縄張り争いに巻きこまれ、苦労している。
どうも、異なる教派間で信徒の奪い合いがあったようである。
その後も彼は、外国人宣教師と衝突して職を辞したり、
アメリカの神学校に入学するも、そこで教えられている内容の霊性の無さに失望したり、
日本人のキリスト教組織とも折り合いが悪かった……妥協できない人だったのだろう。
内村鑑三は、自身のキリスト信者としてのありかたをこう述べている。
余はキリストと聖書とを信ずる者ではあるが、
しかし、いずれの教会または教派に属する者ではない。
余を支配するに、法王もなければ、監督も牧師も何もない。
従って余は何びとより伝道の許可を得たる事もなければ、
また信者を作りたればとてこれを収容するための教会を持たない。
余の伝道なるものは単に教理伝播にとどまって、
人のこれを受くると受けざるとについては余は全く無頓着なる者である。
現に今日に至るまで、余はかつて一人の信者に洗礼を授けしことなく、
また一人の弟子の余に支持する者はない。
――1901年12月 『余の従事しつつある社会改良事業』
内村鑑三はキリスト教団体に所属していないのだから、
キリスト教団体から付与される修了証、免状、資格証の類はもっていないのである。
内村鑑三は神様直属のフリーランス伝道者といったところかな。
しかし彼は無免許(笑)とはいえ、自宅での聖書研究会は盛況だったようで、
会員には小山内薫、志賀直哉といった大御所の名も。
今の日本でも、フリーランスで聖書を語れる人が増えてくれればいいのにと思う。
宗教は嫌だが聖書やイエスには興味がある、という人の需要は少なくないだろうに。
■『日本の天職』の結論部をさらに読み進めてみよう。
日本今日の仏教は腐敗せる迷信であると西洋のキリスト教徒らは言う。
されども腐敗せる点においては西洋のキリスト教も異ならない。
そして腐敗せる仏教界に誠実なる真の信者の潜んでいることは、
西洋のキリスト教界におけると同じである。
内村鑑三は青年時代にアメリカを放浪し、人種差別で嫌な思いをしている。
キリスト教国であるはずのアメリカに失望した経験をもとに、
「西洋のキリスト教界も腐敗している」と論じているのだろう。
日本の仏教界に多くの尊むべき信者があった。
……法然、日蓮、道元ら、いずれの宗教にありても偉大なる宗教家である。
また神道においても、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)らは、
西洋に多く見る信仰的愛国者の秀でたる者であって、国の誇り、民族のほまれである。
内村鑑三はキリスト一筋だったが、だからといって他の宗教を排斥したりはしなかった。
宗教にかかわりなく、真の神を求めて仕える霊性をもつ人を尊敬した。
内村鑑三は、「宗教の教えに詳しい人」ではなく、
「宗教の教えどおりに生きている人=信仰者」を重視していたのだと思う。
だからキリスト教者ではなくても、神道の国学者である本居宣長、平田篤胤のことを、
「国の誇り、民族のほまれ」と称賛している。
彼らはいずれも、私がここに唱うるがごとくに、
日本国の天職の道義をもってする万国指導にあるを唱えた。
彼らが日本を神国ととなえたのはこの意味においてである。
そしてその聖(きよ)き理想を言い表したものが平賀源内の有名なる一首である。
さしのぼる朝日の本の光より 高麗唐土(こまもろこし)も春を知るらん
この聖望たる、これを国自慢としてしりぞけてはならない。
こはイスラエルの民のいだきし望みであって、
日本人たるものは何人もこの高き理想をいだくべきである。
武をもって、シナ朝鮮を征服するのではない。
またアジア大陸をわが勢力範囲に置かんと欲するのでない。
日本にのぼる道の光をもって、世界の暗を照らさんと欲するのである。
これよりも高きまた聖き愛国的志望はない。
日本が「日出づる国」であるのは、単にユーラシア東端に位置するというのみならず、
霊的な徳の光をもって諸国を照らし感化してゆくためだという。
この意味で日本は神国なのだ。
しかしここで興味深いのは、
内村鑑三が日本の近未来を見てきたかのような預言的警告を発していること。
「武をもって、中国・朝鮮を征服するのではない」
→ 彼が没した翌年(1931年)に満州事変 → 日中戦争へ。
「アジア大陸を勢力範囲に置くのでもない」
→ 1940年に「大東亜共栄圏」が提唱され、太平洋戦争へ突入。
聖書時代の預言者と同じく、
残念ながら、内村鑑三の警告は偉い人には届かなかったようだ……
■日本は武力によってではなく、霊的な光をもって世界を照らす。
これは聖書の民=イスラエルの民(ユダヤ人)の望みでもあったということで、
内村鑑三は旧約聖書イザヤ書60章1,2節を引用している。
(聖書の文語訳はわかりづらいので、新共同訳を引用します)
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
まことに「暗きは全地を覆い、闇はもろもろの民を覆う」とは世界今日の状態である。
それから、ドイツ、スイス、イギリス、アメリカのキリスト教事情&批判が、
かんたんに述べられている。
これらのキリスト教国批判で私が気になったのは、この個所。
……英国人は教会を捨てる時に、たいていは信仰を捨てる。
これはたぶん英国人だけのことではないだろう。
キリスト教が浸透している地域ならどこでも、教会制度に嫌気がさした人々は、
教会を捨てる時に、信仰も神も聖書もいっしょに捨ててしまうのではなかろうか。
私ならそうしてしまうと思う。
しかし、教会と信仰を捨てたからといって、真の神への思慕が消えてしまうわけではない。
だからイギリスで心霊主義が盛んになり、
それが現在のスピリチュアリズムにつながっているのだと思う。
神は好きだが、宗教が嫌いという人は、スピリチュアリズムを選ぶしかない。
私もそうだった。
神様の話をしたい人はたくさんいるし、神様の真相を知りたい人もたくさんいる。
そういう人の受け皿としてのスピリチュアリズムは今後も衰えないと思う。
一方で、内村鑑三の立ち上げた無教会主義も、
現代人の実情によくマッチした在り方だと思う。
「イエスキリストや聖書、神様には興味があるが、宗教は嫌いだ。
かといって心霊主義やスピリチュアリズムも肌に合わない」
そういう人は、無教会主義のキリスト教徒として、
日々に聖書を読み、神様との個人的交わりを深めるのがいいと思う。
なにしろ無教会だから、誰に認可してもらう必要もない(笑)
神様に対してそう宣言するだけでいい。
神様はそういう人を放置しないで、しかるべき人や情報に導いてくれるはずだ。
■で、キリスト教国であるはずの欧米諸国では、
真のキリスト教は育たないと、内村鑑三は結論づけている。
そこで、日本の出番である。
全生涯を金もうけ事業のために費やせし者が、老年に近づいて、
実業界を去って精神界に入らん事を願うと同じく、
今や人類全体が憧憬(あこがれ)の目を純信仰に注ぐに至った。
誰かこれを供する者ぞ。
日本人ではあるまいか。
仏教がインドにおいて亡びし後に、日本においてこれを保存し、
儒教がシナにおいて衰えし後に、日本においてこれを闡明(せんめい)せし日本人が、
今回はまた欧米諸国において捨てられしキリスト教を、
日本において保存し、闡明し、復興して、
再びこれをその新しきかたちにおいて世界に伝播するのではあるまいか。
日本は神国であり、日本人は精神的民族であるとは、自称自賛の言ではない。
恥を知り名を重んずる点において日本人は世界第一である。
我らは自分に多くの欠点あるに省みて、神のこのたまものを看過してはならない。
日本人が信義に鋭敏なるは、これ精神界において神と人とに尽くさんためではあるまいか。
ここが『日本の天職』のクライマックスであり、結論かと思う。
日本人は精神性に優れた民族であるゆえ、信義に鋭敏であり、
アジア大陸で興って滅びた仏教と儒教をよく保存してきた。
そしてこれからは、生気の抜けた欧米のキリスト教を霊的に復興する。
キリスト教にこびりついている欧米文化の垢やら人間制度を除去して、
本来イエスが意図したであろう形のキリスト教を、あらためて世界に伝えてゆくのだろう……
私も何度か思ったことがある。
たしかに、仏教、儒教は、その本家ではあまり相手にされず、日本で花開いた感がある。
だったら、キリスト教についても、同じことが起こってもおかしくはないと。
無教会主義はその第一歩のように思う。
■内村鑑三はさらに続けて、詩編110編3節を熱く解説している。
あなたの民は進んであなたを迎える。
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
「あなた」はキリストであり、「曙の胎」とは日本国のこと……という、
日ユ同祖論そのものな説明がしばらく展開されるが、
ちょっとマニアック過ぎるので割愛させていただく。
ともかく詩編110編の結論としてはこう。
キリストは日本人の信仰の奉仕を受くる特権を有したもう。
彼の栄光は我らの名誉である。
我らは感謝して彼の召命(めし)に応ずべきである。
召命(めし)というのが、神からのcalling、天職のこと。
天職は神から任じられるものであって、人間が自分で好きなものを選ぶのではない。
■『日本の天職』の最後はこう結ばれている。
この時期、関東大震災があり、アメリカでは日本からの移民を制限する排日移民法が成立。
そうした時代背景があっての結びである。
大震災に次いで友邦米国の排斥起こり、わが国の万事非ならざるはなき状態である。
しかしながら悲境はすべて我らの肉とこの世にかかわる状態である。
誰か知らん、日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある事を。
国としての存在を失った後の今日、
イスラエルの子孫はその宗教と信仰とをもって世界の最大勢力である。
多くの人類学者によって、
イスラエルの血をまじえたる民なりと称せらるる日本人の世界的勢力もまた、
亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事であると思う。
神が今、日本国をむち打ちたまいつつあるは、この準備のためではあるまいか。
『日本の天職』はここで完結。
内村鑑三は『日本の天職』を記した6年後、1930年に亡くなった。
だから彼は、日本と世界がどんどん悪い方向へと向かっていくのを見ずにすんだ。
内村鑑三が没した翌年、1931年に満州事変が起こり……
日本の国際連盟脱退、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争、第二次世界大戦……
1933年にはドイツでヒトラー内閣成立、ナチスのユダヤ人迫害がはじまる。
こういう歴史の流れをみると、内村鑑三が『日本の天職』の結びで記している内容は、
神からの預言としても読めてしまう……
「日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある」
「亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事」
鑑三先生、慧眼です。
たしかにその後の日本は原爆投下で悲境の極に達したし、
亡国とまでは至らざるも、第二次世界大戦の敗戦によって国際的地位は没落した。
その後、目覚ましい復興と高度成長期を経て……バブル崩壊、阪神淡路大震災、
東日本大震災を、神からのウェイクアップコールと感じた人もあると思う。
日本でスピリチュアルブームが起こったのは、バブル崩壊後だよね。
経済的ないきづまりをきっかけに、物質的豊かさを求める生き方から、
精神的豊かさを求める方向にシフトし始めたわけでしょ?
今こそ、『日本の天職』の内容が日の目をみるべき時期じゃないかと、私は思っている。
宗教とは関係なしに、神からのコールを感じている人に読まれてほしいなあ。
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
この「付録」からわかることは、日本人イスラエル説をとなえたのは日本人ではないということ。
日本人とは無関係の、欧米の人類学者やキリスト教徒がそこに気がついたらしいこと。
日本のキリスト教の歴史は浅いし、「ユダヤ人」との交流もなかったのだから、
明治大正時代の日本人は、自分たちがユダヤ人なるどこかの外国人と似ているなどとは、
まったく考えたこともなかっただろうね。
一例として、京都の市中を歩いている一般人がユダヤ人に似ていたという話が出ている。
私は個人的に、「京都の市中」というロケーションが気になった。
京都の市中といえば……京都御所に……賀茂氏と秦氏の本拠……
ああ、やっぱり彼らの祖先はユダヤ人なのかもしれないなあ。
しかしまさか内村鑑三の著作で、日ユ同祖論に出くわすとは思っていなかった。
すでに100年前に、しかも外国人がそれを指摘していたのであれば、
日ユ同祖論の信ぴょう性が少しアップ?
けれども内村鑑三が日本人イスラエル説をもちだしたのは、
日本人の肉体DNAがユダヤ人とつながっていることを強調するためではないと思う。
神への熱心さにおいて、ユダヤ人と日本人には相通ずるものがあることを言いたかったのだろう。
「付録」の最後は、西洋のキリスト教への皮肉で結ばれている。
西洋の神学校で学んだ宣教師よりも、
キリストのキの字も知らない一般日本人の方が宗教的であると。
日本人は古代ユダヤ人の霊的DNAを受け継ぐ「霊的イスラエル人」として、
この世界で神国としての役割を果たすべきだと、内村鑑三は言いたかったのだと思う。
政治、宗教団体、なにかの人道支援機関などによって国際貢献するのではなく、
個人レベルで神と共にある生き方をすることが大事。
そうして日本の精神レベルの平均値を上げることが、
日本の天職を果たすことにつながる。
自分の夢を叶えてハッピー☆というレベルで一生を楽しく幸せに生きたとしても、
内村鑑三のいうような日本の天職は果たせないと思う。
神と自分との関係において、神を第一とする生き方を選ぶか否かなんだろうなあ。
内村鑑三のいうことが全部ぜったいに正しいとは思わないが、
彼の著述内容は、私にはめっちゃツボで、響くことが多い。
100年前の日本に内村鑑三という人をおいてくださった神に感謝。
内村鑑三(うちむらかんぞう)が『日本の天職』(1924年)という小論を発表している。
この小論の言葉づかいは古いが(大正時代の文語)、内容はぜんぜん古くない。
むしろ今の時代の日本にこそ当てはまる内容だと思うから、
ひとりでも多くの人に知ってほしい。
そこで今回は、『日本の天職』の要所を抜粋しながら、
・日本の天職とは何か? (=日本がこの世界で果たすべき役割)
・内村鑑三って誰? (=不敬事件の人、キリスト教の無教会主義を創った人)
・百年前の日本人イスラエル説の内容
というあたりについて、私の感想やら雑談やらを。
■まずおおざっぱな概要を。
・『日本の天職』のメインテーマは、
「神が造られたこの世界に対し、日本国はどのような貢献ができるか」。
神は一人ひとりに独自の天職を与えているのと同じく、
世界各地の国、民族、文化という集団にも、それぞれにふさわしい役割を与えているはず。
という発想がベースになっている。
・「天職」は「神が各人に与えた役割」。
天職はあくまで、神が人に与えるもの。
英語でいえば calling ……天職は「神からの呼びかけ、calling」であって、
「私はこれが好きだからこれを天職にする」と人間が自分で決めるものではない。
神からの呼びかけ(calling)に対し、応答するか否かの選択権は人間側にある。
・「天職」という言葉をさらりと使う内村鑑三は、キリスト信者である。
「少年よ大志を抱け」で有名な札幌農学校でキリスト教徒になり、首席で卒業。
卒業後も大志を失うことなく、青年時代のアメリカ放浪経験などを経て、
「日本在住の世界市民(コスモポリタン)」という自覚をもって生きていた国際教養人。
・『日本の天職』の末尾には「日本人イスラエル説」のかんたんな解説も載っている。
日本人イスラエル説(日ユ同祖論)が、すでに百年前に知られていたことにビックリ。
しかも内村鑑三ほどの人が、それを肯定的に受け入れていたことにもビックリ。
日ユ同祖論は、トンデモ説の類といっしょくたにされてしまう分野ではあるけれど、
鑑三先生が是とするなら、私も日ユ同祖論や聖書について堂々と書いてみようと思った。
ということで、私は今年からこういう内容のブログを書き始めたのだ。
(私は鑑三先生のファン)
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■『日本の天職』の冒頭。
聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
聖句引用の後に、本文がこう始まる。
(ブログ画面で読みやすくするため、適宜改行しています)
日本の天職は何か。
日本は特に何をもって神に仕うべきか。
世界は日本より何を期待するか。
日本は人類の進歩に何を貢献すべきか。
これ日本人各自にとりて切要なる問題であるはもちろん、
世界各国の識者が今日まで知らんと欲して努め、
また今なお解答を求めつつある大問題である。
国に天職あるは人に使命あると同様である。
エジプトとバビロンとは世界に最初の物質的文明を供し、
フェニキアは商業をもって太古時代の文化を助け、
ギリシアは美術、文芸、哲学を生み、
そしてユダヤは、今日に至るもいまだ廃れざる宗教を与えた。
国に特産あるがごとくに、民に特種の才能がある。
世界人類は各国の産物才能の貢献によって進歩し、
その究極の目的に達するのである。
……人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭である。
我らは天職を語る時に、神に対する職分を語るのである。
・「国に特産あるごとくに、民に特種の才能がある。」
たしかそうだと思える。
十把一絡げに、「日本人は皆こういう性格だ」などと決めつけることはできないけれど、
国民性というものはたしかにある。
内村鑑三は、それぞれの国民に与えられた特性を活かすことが、
神に仕えることであり、世界全体の進歩につながると考えている。
神から与えられた特性を自国の発展だけのために用いるのはNG、
その特性をもって世界に貢献するのが祭(マツリ/政)だというわけ。
これは、一個人にもまったく同じことがあてはまると思う。
自分に与えられた才能・特技・特性を、自分の幸せと楽しみのために用いるのはNG。
各人の才能は、自分の想いを実現するために使うのではなく、
いま自分が生かされている世界に貢献するために用いるのが◎。
(この意味で、キリスト教は自己実現を否定する。)
・「人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭りである。」
この部分は、ちょっとわかりづらいかもしれないが、重要な所。
「人類に奉仕する」というのは、いわゆるヒューマニズムで、道徳的には良いことに見える。
しかし内村鑑三およびキリスト教的には、ヒューマニズムはNG。
「人類に奉仕する」のではなく、「神に奉仕する」のが正解。
神への奉仕の一環として、各種人道支援がある。
なによりも神が第一。
だからマザーテレサも、彼女の人道的活動について、
「これは社会福祉事業ではなく、キリストにお仕えするものです」と語っている。
神抜きのヒューマニズムは自分も相手も滅ぼしてしまう。
たとえば「相手が笑顔になることをしたい」を本気で実践すると、
相手の笑顔を最終目標としてしまっているために、
いつも相手の機嫌と顔色をみて、相手の意向をなんでも叶える下僕にならざるをえない。
そして相手のエゴは肥大して、手のつけられないワガママモンスターと化してしまう。
良かれと思って始めたことが、自分にも相手の魂にもマイナスになってしまう。
↑これは私自身のアホくさい実体験でもある。
どうか、このブログを見てくれている人は、私と同じ轍を踏まないでほしい。
「人類に奉仕するのではなく、神に奉仕する」と意識することは、
健全な人間関係をつくるためにも欠かせない大前提だと思う。
神が第一。人はその後。宗教はオプション。
■『日本の天職』では、日本の特色は何であるか、いくつか例をあげながらの考察が続く。
日本の特産物は……戦争か、商業・工業か、美術・工芸・文学か……
ここで知っておきたいのは、この小論が書かれた当時の時代背景。
内村鑑三は、明治維新の7年前(1861年)に生まれている。
1868年(明治元年) 明治維新
1994年(明治27年) 日清戦争 → 日本勝利
1904年(明治37年) 日露戦争 → 日本勝利
1914年(大正3年) 第一次世界大戦 → 日本勝利
1923年(大正12年) 関東大震災
1924年(大正13年) 小論『日本の天職』発表
という流れの中で、内村鑑三は日本の行く末を案じて、
『日本の天職』を記したのではないかと思う。
明治維新後、10年おきの3つの大戦で日本は勝利をおさめた。
戦争では負け知らずだった。
世界の列強国とも対等にやっていけるという自信と傲慢さは、
内村鑑三いわく「明治大正は日本の生意気時代」。
日本は世界の覇権を握る「武の国」であるという主張もあったようだ。
武士という職業は消えたが、武士道はなお生きているというイメージか。
内村鑑三は、武士道の高尚な精神性には好意的だったが、
日本の天職は「戦争」ではないと断言している。
3つの大戦に勝利して調子づいていた日本を、首都東京を、関東大震災が襲う。
きっと内村鑑三は、日本の思い上がりを戒める神からのメッセージと感じただろうと思う。
彼は関東大震災の一か月後に、
『末日の模型――新日本建設の絶好の機会』という論文を発表している。
それから1年後に『日本の天職』も発表されている。
しかしその後の日本は、日本の天職を戦争だとはき違えたのか、
朝鮮・満州に進出し、太平洋戦争に突入し、
ボロボロに叩かれて敗戦を迎えることになる……
■日本の天職は「戦争」ではないし、「商業・工業・美術・文学」でもないと内村鑑三はいう。
その理由は。
日本人の天才に驚くべき者がある。
ただ悲しむべきは独創性の欠乏である。
日本人は新たに思想を起こし得ない。
彼らは改良家であって独創家ではない。
天然を描くには巧みであるが、進んで大胆に天然の秘密を探り出す能に乏しい。
鑑三先生、なんとすばらしい観察眼!
日本人は改良は得意だが、独創的な発想には乏しい。
「みんな同じ」であることを第一とするから、独創家は叩かれて潰されてしまう。
内村鑑三の「不敬事件」も、まさに同調圧力につぶされた結果だといえる。
不敬事件……1891年、内村鑑三が学校の教員だった時、
教育勅語に記された明治天皇の署名に最敬礼をしなかったというだけの理由で、
教育界とマスコミから激しく非難され、ついに教職を辞した事件。
署名に最敬礼するって発想がキモイよね。
でも、当時の日本はそういうことがまかりとおる時代だったんだね。
内村鑑三はキリスト教徒だけど、天皇も人間として尊敬していた。
しかし天皇は神じゃないし、天皇の署名はなおさら神ではない。
だから最敬礼はせず、軽く頭を下げる程度にした。
それが天皇への不敬事件として社会問題になってしまうという。
しかもこの不敬事件に対応していた精神的ストレスで、
内村鑑三の奥さんが病気になって亡くなってしまう。
奥さんの名は「かず」!
かずさん(本名は加寿子)は素晴らしい人だったに違いない。
■「みんながやっているんだからオマエもやれ」と横並びを強要する文化は、
今の日本にも根強く生きているよね。
悲しいことに、これが日本の特色の一つなんだなあ……
日本には独創性がないのはよくわかった。
それでは、日本の天職とは何なのか。
いよいよ結論部に入っていく。
日本人は特別にいかなる民であるか。
私は答えて言う、宗教の民であると。
かく言いて、私は私の田に水を引き入れんとするのではない。
日本の歴史と日本人の性質を考えて見て、かく言わざるを得ないのである。
内村鑑三は、学生時代の親友たちと共に、「二つのJに仕える」と誓っている。
二つのJ…… JAPAN と JESUS。
日本と神(ジーザス・クライスト=イエスキリスト)に仕える。
それが内村鑑三のいう「宗教の民」ということかと思う。
だから彼が「宗教の民」というのは、宗教団体への所属とはまったく関係ない。
「宗教団体に所属する民」ではなく、
「神を知り、神を信じ、神に仕える民」という意味で「宗教の民」といっている。
なにより内村鑑三自身がキリスト教団体を嫌って、
「キリスト教の無教会主義」を旗揚げしてしまったぐらいなのだ。
彼は青年時代を過ごした札幌の地で、
キリスト教の外国人宣教師どうしの縄張り争いに巻きこまれ、苦労している。
どうも、異なる教派間で信徒の奪い合いがあったようである。
その後も彼は、外国人宣教師と衝突して職を辞したり、
アメリカの神学校に入学するも、そこで教えられている内容の霊性の無さに失望したり、
日本人のキリスト教組織とも折り合いが悪かった……妥協できない人だったのだろう。
内村鑑三は、自身のキリスト信者としてのありかたをこう述べている。
余はキリストと聖書とを信ずる者ではあるが、
しかし、いずれの教会または教派に属する者ではない。
余を支配するに、法王もなければ、監督も牧師も何もない。
従って余は何びとより伝道の許可を得たる事もなければ、
また信者を作りたればとてこれを収容するための教会を持たない。
余の伝道なるものは単に教理伝播にとどまって、
人のこれを受くると受けざるとについては余は全く無頓着なる者である。
現に今日に至るまで、余はかつて一人の信者に洗礼を授けしことなく、
また一人の弟子の余に支持する者はない。
――1901年12月 『余の従事しつつある社会改良事業』
内村鑑三はキリスト教団体に所属していないのだから、
キリスト教団体から付与される修了証、免状、資格証の類はもっていないのである。
内村鑑三は神様直属のフリーランス伝道者といったところかな。
しかし彼は無免許(笑)とはいえ、自宅での聖書研究会は盛況だったようで、
会員には小山内薫、志賀直哉といった大御所の名も。
今の日本でも、フリーランスで聖書を語れる人が増えてくれればいいのにと思う。
宗教は嫌だが聖書やイエスには興味がある、という人の需要は少なくないだろうに。
■『日本の天職』の結論部をさらに読み進めてみよう。
日本今日の仏教は腐敗せる迷信であると西洋のキリスト教徒らは言う。
されども腐敗せる点においては西洋のキリスト教も異ならない。
そして腐敗せる仏教界に誠実なる真の信者の潜んでいることは、
西洋のキリスト教界におけると同じである。
内村鑑三は青年時代にアメリカを放浪し、人種差別で嫌な思いをしている。
キリスト教国であるはずのアメリカに失望した経験をもとに、
「西洋のキリスト教界も腐敗している」と論じているのだろう。
日本の仏教界に多くの尊むべき信者があった。
……法然、日蓮、道元ら、いずれの宗教にありても偉大なる宗教家である。
また神道においても、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)らは、
西洋に多く見る信仰的愛国者の秀でたる者であって、国の誇り、民族のほまれである。
内村鑑三はキリスト一筋だったが、だからといって他の宗教を排斥したりはしなかった。
宗教にかかわりなく、真の神を求めて仕える霊性をもつ人を尊敬した。
内村鑑三は、「宗教の教えに詳しい人」ではなく、
「宗教の教えどおりに生きている人=信仰者」を重視していたのだと思う。
だからキリスト教者ではなくても、神道の国学者である本居宣長、平田篤胤のことを、
「国の誇り、民族のほまれ」と称賛している。
彼らはいずれも、私がここに唱うるがごとくに、
日本国の天職の道義をもってする万国指導にあるを唱えた。
彼らが日本を神国ととなえたのはこの意味においてである。
そしてその聖(きよ)き理想を言い表したものが平賀源内の有名なる一首である。
さしのぼる朝日の本の光より 高麗唐土(こまもろこし)も春を知るらん
この聖望たる、これを国自慢としてしりぞけてはならない。
こはイスラエルの民のいだきし望みであって、
日本人たるものは何人もこの高き理想をいだくべきである。
武をもって、シナ朝鮮を征服するのではない。
またアジア大陸をわが勢力範囲に置かんと欲するのでない。
日本にのぼる道の光をもって、世界の暗を照らさんと欲するのである。
これよりも高きまた聖き愛国的志望はない。
日本が「日出づる国」であるのは、単にユーラシア東端に位置するというのみならず、
霊的な徳の光をもって諸国を照らし感化してゆくためだという。
この意味で日本は神国なのだ。
しかしここで興味深いのは、
内村鑑三が日本の近未来を見てきたかのような預言的警告を発していること。
「武をもって、中国・朝鮮を征服するのではない」
→ 彼が没した翌年(1931年)に満州事変 → 日中戦争へ。
「アジア大陸を勢力範囲に置くのでもない」
→ 1940年に「大東亜共栄圏」が提唱され、太平洋戦争へ突入。
聖書時代の預言者と同じく、
残念ながら、内村鑑三の警告は偉い人には届かなかったようだ……
■日本は武力によってではなく、霊的な光をもって世界を照らす。
これは聖書の民=イスラエルの民(ユダヤ人)の望みでもあったということで、
内村鑑三は旧約聖書イザヤ書60章1,2節を引用している。
(聖書の文語訳はわかりづらいので、新共同訳を引用します)
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
まことに「暗きは全地を覆い、闇はもろもろの民を覆う」とは世界今日の状態である。
それから、ドイツ、スイス、イギリス、アメリカのキリスト教事情&批判が、
かんたんに述べられている。
これらのキリスト教国批判で私が気になったのは、この個所。
……英国人は教会を捨てる時に、たいていは信仰を捨てる。
これはたぶん英国人だけのことではないだろう。
キリスト教が浸透している地域ならどこでも、教会制度に嫌気がさした人々は、
教会を捨てる時に、信仰も神も聖書もいっしょに捨ててしまうのではなかろうか。
私ならそうしてしまうと思う。
しかし、教会と信仰を捨てたからといって、真の神への思慕が消えてしまうわけではない。
だからイギリスで心霊主義が盛んになり、
それが現在のスピリチュアリズムにつながっているのだと思う。
神は好きだが、宗教が嫌いという人は、スピリチュアリズムを選ぶしかない。
私もそうだった。
神様の話をしたい人はたくさんいるし、神様の真相を知りたい人もたくさんいる。
そういう人の受け皿としてのスピリチュアリズムは今後も衰えないと思う。
一方で、内村鑑三の立ち上げた無教会主義も、
現代人の実情によくマッチした在り方だと思う。
「イエスキリストや聖書、神様には興味があるが、宗教は嫌いだ。
かといって心霊主義やスピリチュアリズムも肌に合わない」
そういう人は、無教会主義のキリスト教徒として、
日々に聖書を読み、神様との個人的交わりを深めるのがいいと思う。
なにしろ無教会だから、誰に認可してもらう必要もない(笑)
神様に対してそう宣言するだけでいい。
神様はそういう人を放置しないで、しかるべき人や情報に導いてくれるはずだ。
■で、キリスト教国であるはずの欧米諸国では、
真のキリスト教は育たないと、内村鑑三は結論づけている。
そこで、日本の出番である。
全生涯を金もうけ事業のために費やせし者が、老年に近づいて、
実業界を去って精神界に入らん事を願うと同じく、
今や人類全体が憧憬(あこがれ)の目を純信仰に注ぐに至った。
誰かこれを供する者ぞ。
日本人ではあるまいか。
仏教がインドにおいて亡びし後に、日本においてこれを保存し、
儒教がシナにおいて衰えし後に、日本においてこれを闡明(せんめい)せし日本人が、
今回はまた欧米諸国において捨てられしキリスト教を、
日本において保存し、闡明し、復興して、
再びこれをその新しきかたちにおいて世界に伝播するのではあるまいか。
日本は神国であり、日本人は精神的民族であるとは、自称自賛の言ではない。
恥を知り名を重んずる点において日本人は世界第一である。
我らは自分に多くの欠点あるに省みて、神のこのたまものを看過してはならない。
日本人が信義に鋭敏なるは、これ精神界において神と人とに尽くさんためではあるまいか。
ここが『日本の天職』のクライマックスであり、結論かと思う。
日本人は精神性に優れた民族であるゆえ、信義に鋭敏であり、
アジア大陸で興って滅びた仏教と儒教をよく保存してきた。
そしてこれからは、生気の抜けた欧米のキリスト教を霊的に復興する。
キリスト教にこびりついている欧米文化の垢やら人間制度を除去して、
本来イエスが意図したであろう形のキリスト教を、あらためて世界に伝えてゆくのだろう……
私も何度か思ったことがある。
たしかに、仏教、儒教は、その本家ではあまり相手にされず、日本で花開いた感がある。
だったら、キリスト教についても、同じことが起こってもおかしくはないと。
無教会主義はその第一歩のように思う。
■内村鑑三はさらに続けて、詩編110編3節を熱く解説している。
あなたの民は進んであなたを迎える。
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
「あなた」はキリストであり、「曙の胎」とは日本国のこと……という、
日ユ同祖論そのものな説明がしばらく展開されるが、
ちょっとマニアック過ぎるので割愛させていただく。
ともかく詩編110編の結論としてはこう。
キリストは日本人の信仰の奉仕を受くる特権を有したもう。
彼の栄光は我らの名誉である。
我らは感謝して彼の召命(めし)に応ずべきである。
召命(めし)というのが、神からのcalling、天職のこと。
天職は神から任じられるものであって、人間が自分で好きなものを選ぶのではない。
■『日本の天職』の最後はこう結ばれている。
この時期、関東大震災があり、アメリカでは日本からの移民を制限する排日移民法が成立。
そうした時代背景があっての結びである。
大震災に次いで友邦米国の排斥起こり、わが国の万事非ならざるはなき状態である。
しかしながら悲境はすべて我らの肉とこの世にかかわる状態である。
誰か知らん、日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある事を。
国としての存在を失った後の今日、
イスラエルの子孫はその宗教と信仰とをもって世界の最大勢力である。
多くの人類学者によって、
イスラエルの血をまじえたる民なりと称せらるる日本人の世界的勢力もまた、
亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事であると思う。
神が今、日本国をむち打ちたまいつつあるは、この準備のためではあるまいか。
『日本の天職』はここで完結。
内村鑑三は『日本の天職』を記した6年後、1930年に亡くなった。
だから彼は、日本と世界がどんどん悪い方向へと向かっていくのを見ずにすんだ。
内村鑑三が没した翌年、1931年に満州事変が起こり……
日本の国際連盟脱退、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争、第二次世界大戦……
1933年にはドイツでヒトラー内閣成立、ナチスのユダヤ人迫害がはじまる。
こういう歴史の流れをみると、内村鑑三が『日本の天職』の結びで記している内容は、
神からの預言としても読めてしまう……
「日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある」
「亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事」
鑑三先生、慧眼です。
たしかにその後の日本は原爆投下で悲境の極に達したし、
亡国とまでは至らざるも、第二次世界大戦の敗戦によって国際的地位は没落した。
その後、目覚ましい復興と高度成長期を経て……バブル崩壊、阪神淡路大震災、
東日本大震災を、神からのウェイクアップコールと感じた人もあると思う。
日本でスピリチュアルブームが起こったのは、バブル崩壊後だよね。
経済的ないきづまりをきっかけに、物質的豊かさを求める生き方から、
精神的豊かさを求める方向にシフトし始めたわけでしょ?
今こそ、『日本の天職』の内容が日の目をみるべき時期じゃないかと、私は思っている。
宗教とは関係なしに、神からのコールを感じている人に読まれてほしいなあ。
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
この「付録」からわかることは、日本人イスラエル説をとなえたのは日本人ではないということ。
日本人とは無関係の、欧米の人類学者やキリスト教徒がそこに気がついたらしいこと。
日本のキリスト教の歴史は浅いし、「ユダヤ人」との交流もなかったのだから、
明治大正時代の日本人は、自分たちがユダヤ人なるどこかの外国人と似ているなどとは、
まったく考えたこともなかっただろうね。
一例として、京都の市中を歩いている一般人がユダヤ人に似ていたという話が出ている。
私は個人的に、「京都の市中」というロケーションが気になった。
京都の市中といえば……京都御所に……賀茂氏と秦氏の本拠……
ああ、やっぱり彼らの祖先はユダヤ人なのかもしれないなあ。
しかしまさか内村鑑三の著作で、日ユ同祖論に出くわすとは思っていなかった。
すでに100年前に、しかも外国人がそれを指摘していたのであれば、
日ユ同祖論の信ぴょう性が少しアップ?
けれども内村鑑三が日本人イスラエル説をもちだしたのは、
日本人の肉体DNAがユダヤ人とつながっていることを強調するためではないと思う。
神への熱心さにおいて、ユダヤ人と日本人には相通ずるものがあることを言いたかったのだろう。
「付録」の最後は、西洋のキリスト教への皮肉で結ばれている。
西洋の神学校で学んだ宣教師よりも、
キリストのキの字も知らない一般日本人の方が宗教的であると。
日本人は古代ユダヤ人の霊的DNAを受け継ぐ「霊的イスラエル人」として、
この世界で神国としての役割を果たすべきだと、内村鑑三は言いたかったのだと思う。
政治、宗教団体、なにかの人道支援機関などによって国際貢献するのではなく、
個人レベルで神と共にある生き方をすることが大事。
そうして日本の精神レベルの平均値を上げることが、
日本の天職を果たすことにつながる。
自分の夢を叶えてハッピー☆というレベルで一生を楽しく幸せに生きたとしても、
内村鑑三のいうような日本の天職は果たせないと思う。
神と自分との関係において、神を第一とする生き方を選ぶか否かなんだろうなあ。
内村鑑三のいうことが全部ぜったいに正しいとは思わないが、
彼の著述内容は、私にはめっちゃツボで、響くことが多い。
100年前の日本に内村鑑三という人をおいてくださった神に感謝。
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
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以下追記 2022年12月16日***************************
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