2023年9月11日月曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 「木国の大屋毘古神」まとめ

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 「木国の大屋毘古神」まとめ

「木国の大屋毘古神」まとめ

木の国の大屋比古神(木国の大屋毘古神)についての質問をいただき、一応の回答はしたつもりなんですが、念のため取りまとめておきます。

大屋毘古神(おおやびこのかみ)は、同名の二柱の神がおりまして
家宅六神の一。『古事記』において国産みを終えた後、神産みの最初に大事忍男神が産まれた後にイザナギとイザナミの子として産まれた六神
石土毘古神
石巣比売神
大戸日別神
天之吹男神
大屋毘古神
風木津別之忍男神
の大禍津日神と同神とされる「大屋毘古神」。

と、これも古事記において八十神に迫害された大穴牟遅(おおなむじの)神を,木国にて木の股をくぐらせて,須佐能男命のいる根の堅州国へ逃がした「大屋毘古神」です。

今回は後者、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」について知っている事を洗いざらい吐け(笑)とのお達しだったのです(笑笑笑)。

確認しておきますが、前者「イザナギとイザナミの子」としての「大屋毘古神」と大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は同名ですが別神です。
というのも、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は「先代旧事本紀」によれば、素戔嗚尊(スサノオ)の御子である五十猛神(イソタケル)と同神であるからなのです。前者ならば、まだ素戔嗚尊は産まれておらず、時期が違います。
画像は国史大系七巻より。

まず「大屋毘古神」=「五十猛神」であることが確認できます。

ところで(笑)
徳島県吉野川市山川町村雲に「天村雲神社」という神社がございまして、その御祭神は「天村雲命 伊自波夜比賣命」となっております。
この「天村雲命」は別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼ばれ、射立の神のことです。
『海部系図』にも、始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り天村雲命を生む。彦火明命の孫にあたる天村雲命の亦名を天五十楯天香語山命と云う。
とあり
「天村雲命」=「天五多底命」となります。

また「天村雲神社」鎮座する、山川町は元、忌部郷と射立郷の二郷からなっており(『和名抄』 によれば、阿波国麻植郡 「射立郷(伊多知)」)現在の山川町にあるの地名「湯立」は「射立郷」からの転訛なのです。
という理由で御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれているのです。

で、五十猛命の別名はと言えば「伊太祁曾神(いたきそのかみ)」もしくは
「射楯神(いたてのかみ)」ですよね。
だから
「五十猛命」=「 射立神( 射楯神)」

お〜、やっと繋がったか(汗)

結論(笑)

「大屋毘古神」=「五十猛神」=「天村雲命(天五多底命)」=「 射立神(射楯神)」

付け加えるならば「天村雲命」の名の付く「式内社」は全国で、この「天村雲神社」一社のみ。
更に付け加えるならば伊勢神道の「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)には

「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
とあり「天村雲命」の出自がこの山川町の「天村雲神社」である事を示しています。

もっと付け加えるならば「天村雲命」の別名を「「天二上命」また「小橋命」と言いますが、山崎村「天村雲神社」のすぐ傍に「小橋」という地名があり、「阿波國族風土記」麻植郡の部で確認する事ができます。


ついでのついでに付け加えるならば、高天原を追放された素戔嗚尊と五十猛命はともに新羅曽尸茂梨に天降っておりますが

日本書紀 第八段一書(四)
一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。

鳴門市の土佐泊浦には「個人的に」五十猛命が新羅に旅立った時の出発港の地であったと考える
「新羅神社」祭神「五十猛命」
が鎮座ましましております。

というところでいかがでしょうか?
(誰に言ってるんだ)

なお、前回の記事「予告編「伏見稲荷の元社は?」はどうした?とか聞かない事。
ね。

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