気延山と矢野神山と天照大神
気延山(きのべやま)は、徳島県徳島市国府町と名西郡石井町にある標高212.3mの山です。以前は八倉比売神社が山頂にありましたが、現在は気延山南麓の杉尾山に移されております。
八倉比売神社の社伝には、天照大神の葬儀の執行場面が記述されております。この社伝の原本は行方不明になっていますが、写し(抜粋)は残っており、私は以前に八倉比売神社の岩野宮司さんからいただいております。
この杉尾山こそ、古代、「矢野神山」(やののかみやま 住所:徳島市国府町矢野)と呼ばれたご神体山なのです。
この山は古代から多くの古歌で詠まれております。
例えば歌聖と呼ばれる柿本人麻呂はこの山を慕って、和歌を残しております。
妻隠る 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散巻惜しも
その他、前太政大臣(今の総理大臣)、右大臣、大納言など、当時の朝廷の重臣たち、そうそうたるメンバーが矢野神山を慕って和歌を残しているのです。
阿波が単なる一地方にすぎないのであれば、都から海を隔てた遠隔地である阿波にある小さな山を、歌聖と呼ばれた柿本人麻呂その他多くの重臣たちが慕って和歌に詠むでしょうか? でもここに自分たちの先祖、天照大神が眠っているのであれば話は別でしょう。
そもそも官幣大社かつ名神大社(国の一大事のときに朝廷から勅使を使わせて祈祷する重要な神社)が根拠なく、社伝に天照大神の葬儀の執行場面を記述するなど危険極まりないことです。
またこの気延山がただならぬ場所です。山の頂上に前方後円墳と円墳の跡があると言われております。
この前方後円墳は中国の国史、「魏志倭人伝」に邪馬台国の女王卑弥呼の墓の様子として、周囲が百余歩とある記述に合致する大きさであり、また高さが不明と書いてあるのにも符合するのです。墓の大きさがわかるのに高さが不明とはおかしな話ですが、山そのものの上に古墳が作られていれば、どこまでが山でどこからが古墳か線引きができず、高さ不明となるのです。
さらに卑弥呼の墓が前方後円墳なら、この後に全国の豪族が大和朝廷に組み込まれるにつれて前方後円墳が広まったことが腑に落ちます。卑弥呼=天照大神(私見では、天照大神は男性神の時代と女性神の時代が存在したのではないかと最近は思います。つまり天照大御神は職名であったとも考えられます。)であれば、それを思慕してやまぬ有力豪族がこれを真似する一種の流行が起こっても不思議ではないからです。
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