2023年9月28日木曜日

【阿波の神社を行く!】柿本人麻呂・清少納言・男狭磯まで登場!遠の朝廷(とおのみかど)を想う「人丸神社」(鳴門市里浦町) - 妄想の阿波古代史

【阿波の神社を行く!】柿本人麻呂・清少納言・男狭磯まで登場!遠の朝廷(とおのみかど)を想う「人丸神社」(鳴門市里浦町) - 妄想の阿波古代史

【阿波の神社を行く!】柿本人麻呂・清少納言・男狭磯まで登場!遠の朝廷(とおのみかど)を想う「人丸神社」(鳴門市里浦町)

阿波の神社を行く!

2022.02.27

徳島県鳴門市里浦町に十二神社があります。十二神社には、なんと日本書紀に登場する伝説の猟師男狭磯の屋敷跡があります。また、十二神社の西側には、飛地境内社として人丸神社(ひとまるじんじゃ)があり、奈良時代の歌聖柿本人麻呂が祀られています。さらに、十二神社の東側には、枕草子で有名な清少納言の墓まであるのです。

ちゃぼたつ

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鳴門市里浦町といえば、さつまいも畑が一面に広がる海沿いの町。そこに、日本書紀の男狭磯、万葉集の柿本人麻呂、枕草子の清少納言ですと!これは、捜査せねばなりませぬ。

柿本人麻呂を祀る里蜑人丸神社

里蜑(さとあま)人丸神社

この地にある里蜑人丸神社は、島根県益田市の柿本神社、兵庫県明石市の人丸神社とともに柿本人麻呂を祀る日本三社の一つとして数えられています。全国に柿本人麻呂を祀る神社はたくさんあります。なぜ里蜑人丸神社が日本三社の一つに数えられているのでしょうか?

徳島県神社誌によると、柿本人麻呂がこの地の風光を愛してしばらく足をとどめたという伝説により、永久1114年に藤原顕季らが祀ったと伝えられています。

また、1118年に藤原顕季が始めたとされる「人丸影供(ひとまろえいぐ)」という柿本人麻呂を祀って歌を捧げる祭典の財源は、里浦荘からまかなわれています。

ちゃぼたつ

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なるほど!柿本人麻呂がこの地を訪れた縁から、人丸神社ができたんだ。

万葉集の柿本人麻呂の歌に

大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

という歌があります。一般的には、柿本人麻呂が筑紫国へ下るときに詠まれた歌とされています。遠の朝廷(とおのみかど)は太宰府政庁、島門(しまと)は明石海峡だと言われています。「遠く離れた太宰府政庁へと通じる明石海峡をみると神代を思い出す。」というような意味になると思われます。

ちゃぼたつ

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明石海峡を見て神代を思い出すとは何だか変だ。遠の朝廷とは、遠くの朝廷という意味ではなく、「いにしえの朝廷」と解釈すれば、神代を思い出すのも納得できる。柿本人麻呂が鳴門海峡を訪れていたとすれば、「島門」は、明石海峡ではなく、鳴門海峡のことではないのか?そうすれば、この和歌の意味は、「いにしえの朝廷へと続く鳴門海峡を見ると神代の昔を思い出す」となる。柿本人麻呂は、神代の昔、鳴門海峡のその先にあった「いにしえの朝廷」の場所を知っていたのではないか?

【妄想の阿波古代史】いざ天照大神が眠る神の山へ!気延山(徳島市)

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清少納言の墓と伝えられる天塚

天塚堂(あまづかどう)

天塚堂には、縁あって里浦で晩年を過ごした清少納言の墓碑があるといわれています。清少納言の父である清原元輔は、里浦の領主をしていた時代がありました。清少納言は、正暦4年(993年)28歳の時に、一条天皇の中宮定子に仕えます。そして、長保2年(1000年)、清少納言35歳の時に、皇后定子が死亡します。定子の死後、流浪の旅に出た清少納言が里浦に流れ着いたという伝承があります。

天塚堂の裏にある清少納言の像

鳴門市商工観光課が立てた説明板には、

伝説によれば都落ちした清少納言は地元の漁師にはずかしめを受け、それを苦にして海へ身を投じたといわれている。その供養のために「あま塚」を建てたもので・・・

と書かれています。

ちゃぼたつ

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清少納言の晩年は、よくわかっていないために、全国各地に清少納言伝説が残っている。清少納言の墓といわれるところは、全国に6か所もあるのだ。父の清原元輔が里浦の領主をしていたのも怪しい。清少納言には、橘則長と小馬命婦の2人の子がいた。橘則長は、越中守になっているし、小馬命婦にいたっては、一条天皇の皇后に仕えている。2人ともそれなりの地位を得ているということは、母の清少納言が流浪のたびに出て悲惨な生活をしていたとはちょっと考えにくい。

海人の男狭磯の屋敷跡

人丸神社と天塚の中間に位置する十二神社には、第19代允恭天皇が淡路で狩りをしたときに、海底の大鮑を引き上げた海人の男狭磯伝説が残っています。

十二神社

徳島県神社誌によると、十二神社の祭神は、応神天皇、土御門天皇、菅原道真、萱野姫命、大己貴命、丹生都姫命、水波女命他となっています。そもそもは、仁和3年(887年)に豊前宇佐八幡より勧請の古社であると伝えられています。明治4年に、天満神社、事代神社(2社)、荒城神社、野槌神社、水神社および境内社の高良神社、照尾神社、奈須神社を合併して12神社と改称しています。

十二神社の境内には、海人の男狭磯の屋敷にあった蜑井(あまのい)と呼ばれる井戸の跡が残っています。

蜑井

第19代允恭天皇の14年(425年)9月、天皇は淡路において狩猟をおこなわれたが、少しも獲物がなかったので占なわしめたところ、赤石の海底にある真珠を採って島神に祭るならば獲物を得さすであろうというのであった。ところが海の深さが60尋(109m)に余りだれも海底に至るものがなかった。ただひとり阿波国長邑の蜑夫男狭磯が海底に至り大あわびを獲て浮かび出てきたが浮かび出るとともに息が絶えた。この大あわびを割ってみると桃の種ほどもある真珠があったのでこれを島神に祭ったところたくさんの獲物があった。天皇は、男狭磯の死をあわれみ墓をつくって厚く葬らせたもうたということが「日本書紀」にみえている。長邑は今の里浦で、この付近が蜑屋敷でありこの古井戸が蜑井であると伝えられている。

ちゃぼたつ

ちゃぼたつ

正直1600年前からある井戸には見えないが・・・。修復しながら残されてきたのだろうか?

さらに、天保5年(1834年)に板野郡撫養林崎の近藤利兵衛とういう人物が、この蜑井がわからなくなることを憂いて建てた蜑井碑(あまいのひ)もあります。

蜑井碑(あまいのひ)

蜑井碑の近くには、蜑の男狭磯の墓がありました。

ちゃぼたつ

ちゃぼたつ

うーん。男狭磯の墓まであるとは・・・。これが允恭天皇がつくらせた男狭磯の墓なのか?

まとめ

ちゃぼたつ

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今回の調査をもとに推理してみると・・・。

1808年に描かれた1808年に描かれた阿波名所図絵会には、海岸から参道が続く現在よりもかなり大きい社殿の人麻呂社や清少納言の塚、男狭磯伝説の蜑屋敷が描かれている。人麻呂社の位置が現在の位置関係と違うような気がするのだが・・・。

たくさんの人が描かれていることから、人麻呂社も清少納言の塚も男狭磯の蜑屋敷も観光地として賑わっていたのかもしれない。真偽はともかく、多くの人が伝説を信じて訪れていたのだろう。私もその一人である。そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。

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