日航機墜落事故・自衛隊関与説の著者「科学的証拠で論証している」
12日に発生から40年となる日本航空機123便墜落事故の原因について、自衛隊の関与の可能性を主張している元日航客室乗務員でノンフィクション作家、青山透子氏が産経新聞の取材に応じた。青山氏には事故を題材にした著書が複数ある。産経ニュースが5月1日に青山氏の主張に反論する自衛隊OBらによるシンポジウムなどを報じた際、青山氏は後日取材に応じる意向を示していた。
《青山氏の著書は、123便が相模湾(神奈川県沖)上空中、垂直尾翼がミサイルによって誤射された可能性を指摘する。当時、同湾で護衛艦「まつゆき」がミサイルの実験中だったとして関与を示唆する》
──まつゆきが墜落に関与したのか
「分からない。あくまでも仮説の一つだ」「乗客が機内から外を撮影した風景写真に丸い点のようなものが写り込んでいた。分析すれば、オレンジ色の飛翔体であることが判明した。ミサイルか標的機か、糸の切れたタコみたいにぶつかったのではないか。墜落直前に子供たちが『赤い飛行物体』を見たと証言している」
──まつゆきは事故当時、石川島播磨重工業(現IHI)の所有船舶で、民間人も乗り込んでいたが
「(民間人も含めて)口封じは生半可なものではなかったようだ」
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《著書は123便が異変を生じた直後、F4戦闘機2機が即座に追尾し、午後6時56分の墜落を確認したとする。自衛隊の公式発表では、2機のF4が茨城県の航空自衛隊百里基地から飛び立った時間は123便の墜落直後だ》
──墜落直前にF4が追尾したという公式記録はない
「記録と目撃証言は別だ。私が発掘した昭和60年10月号の『上毛警友』(群馬県警本部発行)には、陸上自衛隊第12偵察隊(群馬県榛東村・相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記として『午後6時40分頃、実家(吾妻郡東村₌現・東吾妻町)の上空を航空自衛隊のファントム(₌F4)2機が低空飛行していった』と記されている。遺族の情報開示裁判でも証拠採用された」
「子供の証言も過去の飛行機事故をめぐる裁判で採用されている。60年9月30日発行の同県上野村立上野小学校の事故に関する文集には『大きい飛行機と小さいジェット飛行機2機』を目撃したと書いている。こういう子は中学校にも何人もいた。当時の校長に平成26年6月にインタビューしたが、F4と思われるものが飛行する音を聞いていた。追尾の記録が存在しないから『ない』ということにはならない」
──著書は墜落直前に123便の機長が、追尾する2機のF4と連絡を取り合った可能性を指摘している
「空自が開示しないと分からないと、著書に書いている」
──シンポジウムではF4と民間機が直接交信できないと主張されている
「ウソだ。ならば、民間航空機に領空侵犯された場合、自衛隊機はどう呼びかけるのか。昭和58年の大韓航空機撃墜事件でソ連軍が民間機と交信した記録もある。それを傍受したのは自衛隊だ。シンポに参加した自衛隊OBに知識がなく、不都合なところがカットされて主張されている」
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《著書は、墜落現場で「ガソリンとタールの混ざったような臭い」と感じたという消防団員の証言を紹介。「証拠隠滅」のために自衛隊員が火炎放射器で乗客の遺体やミサイルの痕跡を焼却した可能性を主張する》
「機体の残骸も大学で調べた。ベンゼンや硫黄、クロロフォルムまで入っていた。これらは火炎放射器の燃料に含まれる。科学的思考からすれば、湿度70%超の夏の山にほうり出された遺体が完全に炭化するわけがない。カバンやぬいぐるみはそのままの形で残ったが遺体には二度焼きした痕跡も確認された。他の航空機事故の遺体も調べたが、空に面した方は焦げていても、地面に面した方は生焼きだった」
──自衛隊OBは、火炎放射器を取り出す手続きは簡単ではないと話している
「一方的な意見だ。それをチェックする人はいない。群馬県警察医も『ジェット燃料であんなにも炭化するのかね』と言っている。当時、燃料を作る作業は最低1時間で使用可能だという論文もあった」
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《著書は、自衛隊員は事故現場で機長の遺体を真っ先に発見し、目印のため棒で突き刺し、ヘリコプターの移動中、不都合なものを取り除くため制服などを外したと示唆する》
──事故当時、現場指揮に当たった岡部俊哉元陸上幕僚長は「現地は多くの数の人が作業していた。機長の制服を身に着けた遺体が発見されれば、マスコミの写真に写っている」と話す
「真っ赤なウソだ。遺体収容をめぐっては、陸自ヘリコプターによる輸送中、機長の制服をはぎ取った可能性は否定できないと書いている。マスコミや警察がいたという『現地』とは別だ」
──機長の遺体は事故から半月後の8月29日に発見された
「当局の発表で新聞はそう書く。ただ、独自に入手した群馬県の検視資料には機長の遺体は14日に収容されたと記されていた。さらに、看護師は追悼文集に『14日に機長の遺体を検視した』と書いていた。看護師本人にも話を聞いたが、看護師は当時、新聞記者にそう証言したが、もみ消されたという。新聞報道は誰かに何かを配慮したとしか思えない」
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《著書では事故直後、自衛隊のヘリが山頂でサーチライトを照らしながら、何かを上げたり下げたり、作業していたという上野村の子供たちの目撃証言を挙げて、事故直後に事故現場に入った自衛隊員について「人命よりも優先させた何かがあったのならば」と推測している》
──大型のサーチライトは配備されていなかったようだ
「それは彼らの言い分でしょう」「昭和60年12月に自衛隊内で公式発表された事故原因を疑問視する人たちがグループを結成し、私もインタビューしている。事故当日の午後6時40分に出動が発令されたが、エンジンを切らされ、結局、朝まで待たされていた。彼らは出動ができなかったことに憤りを感じている」
──シンポを主催した「JAL123便事故究明の会」と対話する考えは
「応じない。知識に差がある。教授に対して小学生が対等に話せるわけがない」「自衛隊内部の人はトップクラスも含めて私にメールをくれる。岡部氏のような意見は恣意(しい)的なので聞く必要はない」
──自民党の佐藤正久参院議員(当時)は青山氏の著書が「全国学校図書館協議会選定図書」に選ばれていたことを国会で問題視した
「私がこれだけのものを書いているのは科学的証拠に基づいてきちんと論証しているからだ。選定図書にふさわしくないといわれたことで、本当だったら佐藤氏を訴えたいところだ」
──乗客の遺族が日航に事故機のボイスレコーダー(操縦室音声記録装置)などのデータの開示を求めた訴訟で最高裁は上告を棄却した。
「和解したから聞かせる必要ないという不当判決だった。しかし、文字で公表されているボイスレコーダーには、機長の発言も含め事故発生直後の3分12秒の空白がある。さらに遺族は、平成25年になって事故調が公表した相模湾上空で垂直尾翼に外から11トンの力が加わり破壊されたことや、機体残骸が海底に沈められたまま放置されていることへの再調査の必要性も訴えた」
「いずれにしろ全てボイスレコーダーを出せば、岡部さんの主張も佐藤の主張も私たちの主張もクリアになる」(聞き手 奥原慎平)
自衛隊関与説は「全くのデマ」 「JAL123便事故究明の会」会長の岡部俊哉元陸幕長
事故当時、現場で生存者捜索に当たった自衛隊OBらでつくる「JAL123便事故究明の会」会長の岡部俊哉元陸上幕僚長は、陸自第1空挺団の小隊長として生存者の救助、ヘリポートの造成などの指揮を執った。岡部氏が7月28日に国会内で開かれた同会シンポジウムで語った内容は以下の通り。
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──123便の墜落直後、自衛隊が秘密裏に現場に駆け付け、火炎放射器で遺体を含めて証拠隠滅したと指摘されることについて
「放射器は全体で31キロの重さ。棒状に火炎を放射するもので、面を焼き払うには大量の燃料を要する。証拠隠滅するための面積は『3・3ヘクタール』と書かれているが、燃料はドラム缶にして16、17缶必要だ。資器材を秘密裏に準備し、搬入、焼却、撤収は不可能だ」
──機長の遺体発見は8月29日ではなく「14日」との説や、自衛隊員が目印のため棒で突き刺した上、ヘリコプターの移動中に制服などを外したという指摘がある
「全くのデマ。遺体は警察の検証が終わった後にわれわれに上がってくる。制服を着た機長がいれば分かる。自衛隊の部隊、マスコミ、消防、ものすごい数の人がいた。密室でやることはあり得ない。ヘリの中も(遺体が)びっちりで足の踏み場もない状態だった」
──会を立ち上げたのは
「子供たちが読む図書館の選定図書に、デタラメな本がノンフィクションとして選定されていると知ったからだ。自衛隊を取り巻く安全保障環境が厳しい中にあって、これでいいのか。(放置したら)子供たちが誤った認識を持ってしまいかねないと危惧している」
日本航空機墜落事故
昭和60年8月12日、羽田発伊丹行き日航機123便(ボーイング747型機)が、群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」と呼ばれる山に墜落し、乗客乗員520人が犠牲になった単独機として世界最悪の航空機事故。運輸省事故調査委員会は、後部圧力隔壁の不適切な修理によって隔壁が破裂し、それが操縦系統の損壊を招いたと結論付けた。
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