深 ま る 謎 ~ 日航123便 35年目の夏 ~
小 田 周 二 さ ん の 書 か れ た
『524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎』
(文芸社、2017年)
を 読 み ま し た 。
ひとことで言えば、わたしの知らないことばかりで…、特に墜落原因については、これまで耳にしていた〈圧力隔壁破壊説〉が実はちがうのではないかと、わたしには思われて来て、心中は複雑です(注)。
(注) この本に書かれていること、筆者の小田さんの推理が正しければ、それはとんでもないことが、あの日に起きていたということになるからです。
わたし自身が整理する意味もあって、日航123便に関することを時系列に沿って、以下にかんたんにまとめてみました(かっこ書きのページ数は『524人の命乞い』のページを表します)。
【1】 1985年8月12日18時12分 日航123便(大阪行き、高濱雅巳機長)、羽田空港を離陸。同日 18時24分頃 相模湾上空飛行時に尾翼付近で破壊音。
その11秒後に、高濱機長は緊急信号(スコーク77)を発信(注)。
(注)一般の人には、なじみのない用語だと思います。…でも、これは飛行機が「何者かに要撃された」という内容の緊急信号なのです…。それはさておき、この「スコーク77」を近くを飛んでいた米軍の輸送機も受信しました。⇒ 【3】参照。
【2】 同日、「航空自衛隊の基地司令官(当時)」からある男性のもとへ「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機が民間機を追尾するために発進した」という内容の電話が入る。(P51)(注)
(注)「標的機」とは自衛隊がミサイル訓練の際に使用する小型の無人ジェット機のこと。茨城県の百里基地からF4戦闘機2機が飛び立った時刻を、小田さんは「おそらく18時30分前後」と推定しています。(P55)「123便を追う小型機=戦闘機の姿は、山梨県大月市をはじめ様々な場所で地上から目撃されている」(P56)
参考 ⇒ コチラ (動画:1分23秒)
【3】 1985年8月12日18時30分頃、静岡県上空を飛んでいた米軍輸送機は、123便の発する「スコーク77」を受信。同機に乗っていた通信担当のM・アントヌッチ中尉は、その後、123便と米軍横田基地とのやりとりを傍受し、横田基地が123便に対して「着陸許可」を与えたのを知る。(P 67)
「彼が傍受したことからは、一つの重大な事実が浮かび上がってくる。高濱機長たちは油圧装置の機能を失った123便の機体を懸命に手動操縦しながら、横田基地への緊急着陸を目指していたのだった」(P 67)
【4】 同日 18時46分16秒 高濱機長「このままでお願いします」
同日 18時46分21秒 高濱機長「このままでお願いします」
※ 「このままでお願いします」に対する小田さんの推理
「CVR(コックピットボイスレコーダー)に残された二度の『このままでお願いします』という機長の声。ここでも不思議なことに、二度の懇願はまるで独り言のように宙に浮いた形で記録され、それに見合う相手の言葉を見つけることができない。
コックピット内の副操縦士や機関士とは今の今まで着陸に向けて歯切れよく会話していたのだから、懇願は彼らに向かっての言葉ではない。英語で交信しなければならない横田管制に向かって発した言葉でないのも明らかなことだ」(P 80)
【5】 同日18時56分 日航123便 墜落
『524人の命乞い』には「航空機の胴体から煙を噴きながら」「埼玉方面から飛んで来た飛行機が赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して…」「飛行機は北東の方向へ炎を上げて飛んで行った」といった当時の新聞報道が引用されており(P120)、小田さんは、あることを指摘しています。
「墜落の結果として爆炎が上がるよりも前の段階の目撃談、つまり墜落する前の段階から123便がすでに火や煙を噴いて飛んでいたという証言が多いのだ。(中略)123便は墜落する前の時点で、機体から火や煙を噴いていたのだ」(P 121)
その指摘の後で「飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが飛んでいくのが見えた」という読売新聞(1985年8月13日付)に載った目撃情報から、小田さんは次のようなことを述べています ―― 飛行機を流れ星のようなものが追いかけ、そのあとに飛行機が炎や煙を噴きながら墜落したのなら、突き止めなければならないのは、その〈流れ星のようなもの〉の正体である、と。
【6】 8月12日19時ごろ、アントヌッチ中尉は米軍横田基地から日航123便がレーダーから消えたこと、さらに中尉の乗る輸送機によって日航123便を捜索ができないか、(横田基地から)連絡を受けます。輸送機は「19時15分に墜落から20分後には早くも煙の上がる墜落現場を発見した。墜落現場上空で高度を下げた中尉らの目には、山の斜面の森林が燃えているのがはっきり見えた」(P 149)
※ アントヌッチ中尉の乗った米軍ヘリは、日航123便が墜落した「わずか20分後」(P 154)に現場に到着します。そして、まさに救援活動を始めようとした時、ヘリは横田基地から帰還を命じられます。日本政府による、米軍への退去要請(P 154)があったからでした。
【7】 日航123便の機影がレーダーから消えて1分後の8月12日 18時57分 、航空自衛隊峯岡山基地(千葉県)が上層部に機影消失を報告、百里基地から発進した救難捜索機MU2Sが「20時30分に墜落現場に到着したとされる」(P 139)
「やがて真っ暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃって、一生懸命手を振りました。『助けて』『だれか来て』と声を出したと思います。ああ、帰っていく」
(P146:吉岡忍『墜落の夏―日航123便事故全記録』から引用された落合由美さんの証言 )
【8】8月12日20時頃、日航で技術者、整備士から成る「先遣隊」(P 175)が編成され、14日、まだ遺体の収容作業が続けられている最中に、機体残骸の選別・回収作業がおこなわれた。
【9】 8月12日20時半ぐらいからテレビ各局はニュース特番に内容を切りかえ始める。
「21時の 時点で長野県警は、墜落場所が群馬県だと判断する」(P139)
ところが…21時39分、NHKが墜落現場に関して長野県にある御座山(おぐらさん)中腹で「煙発見」という報道を始める。(P 140)
【10】 8月12日夜(22時頃)、日航123便の墜落が確実になった段階で、羽田のホテルに設けられた日本航空対策本部には乗客らの家族が詰めかけ「目の前にいる日航の社員や役員たちに詰め寄る声は荒く、会場は騒然として殺気立った雰囲気に包まれた」(P 127)
「墜落したらしい時刻からすでに3時間が過ぎても日航が一向に墜落場所さえ明らかにしないことで、家族たちの苛立ちは頂点に達していた」(P 127)
そんな中で、家族らの怒気に気圧(けお)される形で、日航役員とおぼしき男性が、顔を紅潮させながら、次のように発言する(P 128)、
「うちの機は北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ!今はそれしかわからん!」
【11】 8月13日未明、群馬県上野村の消防団等のメンバーは、御巣鷹山の「スゲノ沢」の捜索を進言するが、群馬県警から「待った」がかかる。結局13日の朝4時半に消防団メンバーが「スゲノ沢」を目指して出発。(P 160)
「群馬県警の制止を振り切って出かけた彼らは、それから数時間後、問題の群馬県警ではなく長野県警が派遣したレスキュー隊員とともに川上慶子さんを発見している。この人々の自主的な救援活動がなければ、生存者の発見はさらに遅れたかもしれない。
こうして群馬県警が上野村に置いた現地対策本部は、土地の人間ならではの知識と直感で墜落現場の位置を特定していた地元の猟友会や消防団の救助活動にブレーキをかける役回りを夜通し演じ続けた。まるでそれは、いち早く現場上空から要員を降下させようとしていた米軍を追い払った日本政府の縮小コピーのようだ」(P 160)
※「スゲノ沢」は、まさにどんぴしゃりで日航123便の墜落した場所でした…、つまり、そのスゲノ沢に群馬県警は消防団等を行かせることを渋っていた…ということ。なぜか…。この時点で、中曽根総理(当時)らは、日航機の正確な墜落場所を知っていたからではないでしょうか。
【12】 8月13日 朝4時55分(墜落から10時間が経過)
日航123便の墜落現場が、群馬県の御巣鷹の尾根であると報じられる。(P 141)
【13】 8月13日午前7時頃に墜落現場に到着した大学教授が、「夜が明けているのに墜落現場で捜索救助が行われていないこと」(P 170)を後に手記に記す。同時に、その午前中に「南側のスゲノ沢急斜面で、自衛隊のヘリが何かを吊り上げている」ことを目撃(注:生存者4名のヘリ搬送は午後になってから)。
※ 『524人の命乞い』には、8月12日21時30分過ぎから自衛隊100名ほどが御巣鷹山に登り始めたという記述があります(P 166)。また、角田四郎著『疑惑』(1993)には、13日午前4時にオフロードバイクで現場近くを通りかかった男性が、やはり100名ほどの自衛隊員を目撃していることが書かれているそうです。(P 168)
【14】 8月13日9時30分、自衛隊習志野空挺団73名が墜落現場に降下、それと前後して上野村消防団、長野県警レスキュー部隊(2名)なども陸路で現場に到着。午前11時(P 17)ぐらいに生存者4名が相次いで発見される。
「習志野空挺団指揮官は到着早々に『目下、生存者なし』と報告し、一帯の捜索活動も不十分な段階で早くも『乗客乗員全員死亡、救助打ち切り、遺体収容』を命令したという。残骸と他の遺体に埋もれている落合さんに気づき、『まだ、生きている人がいるぞ』と叫んだ長野県警レスキュー隊員や上野村消防団の活動がなければ、4名の生還さえ危うかったかもしれない」(P 161~162)
【15】 その一方で、相模湾に沈んだ垂直尾翼は、今も海中に沈んだまま…。
↑ ド ウ シ テ ???
「相模湾海底に沈んだ垂直尾翼やAPU(補助動力装置)の残骸は『圧力隔壁破壊説』が正しいかどうかを検証するのに不可欠なものだが、政府はその捜索・回収をいち早くとりやめてしまった」(P 22)
【16】 8月13日14時頃、病院に収容された落合由美さんに対して日航の役員2人が「見舞い」と称して事情聴取(P 173)。その「メモ(のちに「第1回目の落合証言」と呼ばれる)」が公表されるが、「その内容には実際に落合さんが病室で語ったこととは異なる中身が含まれていた」(P 174)
【17】 8月16日、運輸省航空事故調査委員会のメンバーが「空気噴出説」、のちの「圧力隔壁破壊説」となる考え方を唱え始める。(P 177) 17日には123便が過去に起こした「尻もち事故」が報道される。
「(前略)生存者の聞き取り調査もしないうちから事件のシナリオが断言された事実は、調査がある予断を持って動きはじめていたことの表れであり、それがマスコミに意図的にリークされることで国民の事件への理解も早い時期から情報誘導されていたことを意味する」(P178)
【18】 1995年8月、米軍を退職していたアントヌッチ元中尉は「1985年8月12日」に自分が傍受した日航123便と米軍横田基地とのやりとりや、そのあとのことについてアメリカの新聞や空軍機関紙に発表。(P 153)
「この記事の内容は日本のテレビなどでも報じられ、国民の間に大きな驚きが広がった。それまでの長い間、墜落現場がわかって救出活動が始まったのは墜落翌日13日の午前5時になってからだと言われていた。ところが米軍が事故のわずか20分後に墜落現場にかけつけていたばかりか、救助要員が現場に降下しはじめていたのだという。そんなことがあったということを、自衛隊や運輸省(当時)、事故調はひとことも国民に伝えてはいなかったではないか。
〈世界中、どこの軍隊でも不可能だった。〉〈自衛隊が米軍の救援の申し出を断ったという報道はデマ。〉〈米軍が行動しても自衛隊以上の行動はできなかった。〉
アントヌッチ証言はこれら自衛隊幹部の開き直りこそがデマであり、当時の国民全体が自衛隊に欺かれていたことを10年という歳月を経て明らかにしたのだ。
もはや隠しきれなくなったということなのだろう。中曽根康弘氏はテレビ番組の中で問われると『米軍アントヌッチ氏の救出活動は知っている』と事実を認めるしかなかったが、すでにかれは退任した後。ここでも彼は何の責任を問われることはなかった」(P 154)
【19】 1999年11月、 運輸省(現国交省)は
「総量1160㎏もの墜落事件関連の資料や証拠類を破棄した」(P 22)
「海底の残骸捜索をいち早く打ち切ったことと合わせて考えれば、政府のこの姿勢は、人々が事件の真相に近づくことを恐れてのものだと思われても仕方ないだろう」(P 23)
【20】 2013年、小田さんはアントヌッチ元中尉の証言について日航に問い合わせ。
「墜落の惨劇からずっと後になってからのこと。2013年に私は、墜落事件から10年後の1995年に明らかになったアントヌッチ証言についての見解を日航に尋ねている。墜落直後、現場上空で始まっていた米軍の早期捜索救助活動が日本側からの要請で中断させられた。その経緯を日航から見た時、何が言えるだろうかと考えたのだ。
米軍関係者は日航の大切な乗客とかけがえのない社員の命を救おうとしていた。それを中断させた日本の政府・自衛隊の対応は、524人の乗客乗員の命を預かった日航として、到底容認できるものではないと考えるのが自然だ。アントヌッチ証言で事実が明らかになった以上、日航は日本政府に抗議し、その責任を追及すべき立場にあるのではないか。
これに対し、日航が寄せた回答は以下のようなものだ。
( 日航の回答: 略 )
アントヌッチ証言にせよ政府・自衛隊の対応にせよ、事故から28年間を経て多くの判断材料が出てきているにもかかわらずコメントはしない。早期の救助活動で救われた命があったかもしれないとまで言いながら、30年前の事故調の報告書が早期救助は無理だったと言っているから日航としての見解は述べない。こう言ってのける日航側の文面は、恐ろしいほどに思考停止した内容だった。
早期救助で助かる命があったかもしれないと、日航も感じはするという。そう感じているのなら、どうして情報がないからコメントできないなどという思考停止に陥るのだろう。情報がないのなら、その情報の開示を政府・自衛隊に要求することこそ日航の務めではないのか。どうして自分たちの乗客と社員を助けようという活動を日本政府は中断させたのか、その経緯を明らかにしてほしい。そのように求めるのが、命を預かる企業のあるべき姿だろう。
また、日航は事故調査報告書を引き合いに出し、早期救助活動の可否は検証・解析できないとしている。だが、報告書は米軍の救助活動の事実そのものが隠され、自衛隊が『世界中どこの軍隊にもそんなことはできなかった』と豪語するのを真に受けて作られた代物だ。その自衛隊の言い分の嘘が明らかになった以上、報告書をよりどころにするのは無意味だ。日航としてはむしろ事故調に、新たに暴露された事実に基づく再検証や再解析を遺族に代わって求めるべきではないか」(P 214)
「垂直尾翼や油圧装置を失ってもなお、123便は手動で操縦可能だったのであり、機長は横田基地に着陸しようとしていた。その着陸が実現していれば、多くの乗客乗員は助かっていた。生還できたのではないかという推測を科学的に否定できる論証を、私はいまだに読んだことも聞いたこともない。本書で述べてきたように、この31年間、嫌というほど見聞きさせられてきたのは証言の数々から目をそむけ、検証に必要な材料をひたすら隠し、説明責任を果たさず、あまつさえ99年には事故資料を廃棄するという暴挙に出る政府の姿勢ばかりだ」(P229)
う~~~ん…
どうでしょう…、こうして事実を並べてみると、
わからないことだらけ…、謎だらけです。
いま わたしは【1】~【20】まで時系列に沿って ざっと事実を整理しましたが、上の【1】~【20】は、そのまま【疑問1】~【疑問20】と書き換えられるようにも思います。
『524人の命乞い』にも、「事故調の『圧力隔壁破壊説』に疑問を抱いたのは、検察ばかりではない。航空関係者や有識者の中にも、事故調のシナリオに疑問の声を上げた人は当初から多かった」(P 21)に続けて、筆者の小田さんは、根本的な疑問を次のように列挙しています。
圧力隔壁破壊で垂直尾翼を吹き飛ばすほどの空気の噴出があったのなら、なぜ客室内には風も吹かず、紙切れ1枚として外に吸いだされなかったのか。
機内の空気が外に噴出したというのなら、パイロットたちはどうして酸素マスクをつけなかったのか。
操縦不能になったという機体が、なぜ32分間も飛び続けることができたのか。
事故調は墜落現場の特定が異常に遅れた事情について分析を加えていないではないか。 (以上、疑問4点 P 21~22)
そ う な の で す … 、
考えれば、考えるほど…日航123便の墜落は…「事故」だったのか、あるいは 何らかの「事件」だったのか、とわたしには疑問が次々と浮かんできます。
わたしにとっては、とっても重い内容の1冊でした。
( 続 く ⇒ コチラ )
〔 参 考 〕
◆ 横 田 空 域 の 話 (2020年4月4日ブログ)
◆ 「巨悪を眠らせない」:検察の正体(2020年5月17日ブログ)
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