2021年10月7日木曜日

西洋事情初編 福沢諭吉著作集 eBook : 福沢諭吉, 平山 洋: Japanese Books

西洋事情初編 福沢諭吉著作集 eBook : 福沢諭吉, 平山 洋: Japanese Books https://www.amazon.co.jp/-/en/福沢諭吉-ebook/dp/B00DLK6UDC/ref=sr_1_3?dchild=1&keywords=西洋事情&qid=1633582639&s=digital-text&sr=1-3

収税法
〇西洋各国は工作貿易を以て国を立るの風にて、その収税の法、日本、支那等の制度に異なり。今こゝに英国の税法を挙て一例を示す。港運上 歳入第一の高なり。この内酒類、烟草の運上、最も重し。千八百五十二年、港運上の高、三千一百十七万「ポント」余なるに、運上所役人の給料并に不時の褒美等、諸雑費を合せて六十五万「ポント」に足らず。収税の法の簡便なること推て知るべし。国内産物並に官許の運上 国内の産物より尽く運上を取るには非らず。又物に由て運上の軽重あり。有税品の大略は、酒類、麹、烟草、紙、石鹸、蝋燭、石炭、材木、硝子等なり。例えば麦酒百樽凡七斗入を醸すものは一「ポント」十一「シルリング」の運上を納め、千樽以下を醸すものは二「ポント」二「シルリング」、四万樽以上を醸すものは七十八「ポント」十五「シルリング」を納む。


飛脚印 西洋諸国にて飛脚の権は全く政府に属し、商人に飛脚屋なるものなし。故に外国へ文通する者は勿論、国内にても私に書翰を送るを得ず。必ず政府の飛脚印を用ゆ。その法政府にて飛脚印と名る印紙を作り、定価を以て之を売る。諸人之を買い、書翰を送るときは、路の遠近、書翰の軽重に従い、夫々の印紙を上封の端に張て飛脚屋に投ずれば直に先方へ達す。この飛脚屋と称するものは所謂飛脚印を売る政府の飛脚場には非らず。大抵市中一町毎に箱を戸外に出せる家あり。この箱に書翰を投じ、漸く集れば同時に之を諸方へ送る。但しこの飛脚屋は政府の飛脚場に属する者にて、書翰を送る賃銭は政府より取るなり。〇印紙の大さは大抵七、八分許、その価に従て色を分てり。現今世界中の飛脚印、凡そ二千四百種ありと云う。各国互に飛脚の条約を結て双方の便を為す。例えば仏蘭西より英国へ書翰を送る者は、仏にて価八「シューズ」の印紙を用ゆ。仏の飛脚場より竜動の港まで之を送り、仏の政府へは四「シューズ」を取り、竜動港より英国の諸方へ届る為め英の政府にて二「シューズ」を取る。合て六「シューズ」なり。印紙の元価八「シューズ」より六「シューズ」を引き、残り二「シューズ」、これを運送の賃銭雑費とす。故に仏英の間に文通すれば飛脚賃四分の三は両国政府の利潤となるなり。「シューズ」は仏蘭西貨幣の名、附録に出す。

国 債

○西洋各国、貧富同じからずと雖ども、太平のときは歳入歳出大抵相平均するを常とす。若し戦争に由て非常の費あるときは、国内に令を下し、政府より手形を出して国人の金を借ることあり。之を国債と名く。但し令を下すと雖ども、富商大賈には必ず金を出さしむるとの趣意には非らず。唯人々の意に任せ、出すことを好まざる者は捨て問わず、又他国の人にても金を出さんと云う者あれば拒まずして之を借る。凡そ西洋諸国の政府に国債あらざるものなし。英国にては古来の国債次第に増加し、千八百六十二年に至てその高八億九千四百万「ポント」となれり。この利息を一年三分の割合として、二千六百八十二万「ポント」なり。国債の利息は大抵三分より三分半を通常とす。四分以上の利息は甚稀なり。政府は毎年この利息を払うのみにて、元金を返すは甚稀なり。金を出したる者も、政府の手形を所持して毎年三分の利息を得れば、恰も現金に異なることなきを以て、強て元金を返すことを求めず。故にこの手形は国中にて互に売買し、現金の代用となすこと紙幣に同じ。然れどもその国の政体、貧富、又利息の高下に由て、手形の価、各国同じからず。政府より年々必ず利息を払い、時としては元金をも返すときは、手形の相場自から貴し。政府貧にして固より元金を返さず、年々の利息をも十分に払うこと能わざるか、又は利を払い元金を返すとも、その国の政法屡変革し、昔しより国債全く崩れたることある国にては、手形の価自から低し。左に二、三例を挙ぐ。但しこの相場は去る文久壬戌の年、夏の新聞紙に出るものなり。







堀井論考 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshuppan/40/0/40_99/_pdf 


3. 1. 1  巻頭の口絵巻頭口絵の内容について,二つの書籍を検討してみよう.『西洋事情』初編の第一冊の巻頭には,口絵が一丁ある.そのうち表半丁は,上部に「蒸汽/済人/電気/伝信」(蒸気は人を助け,電気は信を伝う)の文字を掲げ,中央に,北極をやや上部寄りに表わした地球の北半球図を画き,その周図を鎖で取り巻き,電柱16本を立て,これに電線を架し,その電線の上を洋服姿の飛脚が右へ向って走る姿を描き,地球図の上の方には,右に洋風の尖塔の屋根の群を示し,左に山脈の上に浮かぶ気球をあしらい,下にトンネルから出る汽車と波涛を進む汽船の図を配している.これは,まさに初編巻之一「備考」で触れられている内容を図で示したものであるといえる.口絵の裏半丁は,上部に「四海一家五族兄弟」の文字を掲げ,世界の五人種の顔を描き,これに地球儀と望遠鏡と洋書とコンパスと巻紙の図を配している.
つづいて,『増補和解  西洋事情』に目を移そう.その上巻の巻頭には口絵が二丁ある.最初の口絵には,「蒸気済人力/書籍広智識」(蒸気は人力を助け,書籍は知識を広める)と掲げ,「右事物起原(西洋書名)中之語」と添えられている.その下には,「欧羅巴州略図」が載せられている.次の口絵には,見開きで,人種の説明図があり,「世界万生/溯源一系」と掲げられ,カウカシュス人種(西洋人)(正系甲),蒙古人種(正系乙),アフリカ人種(正系丙),アメリカ人種(別系丁),マレイス人種(別系戊)の絵と説明がなされている.絵師「春翠茂苹」の名前が記されている.三つ目の図版は,蒸気船が大きく描かれている.「目録」には「蒸気船」と「蒸気車」の解説が挙げられていないが,これは,黒田が,これらを「蒸気機関」の下位項目と位置付けて解説をつけなかったのか,また口絵で取り上げることによって解説を省いたのか,というところだと推察できる.







日本にない西洋の事物を紹介するのであるから、福沢は新たに訳語を作り、その訳語に長々と説明を加えるなどして、読者の理解を助けるために苦心した。たとえば、フリードム又はリバアティの語に「自主任意」「自由」などの訳語を与え、ポステージ・スタンプを「飛脚印」と訳し、ライトを「通義」としたが、それだけでは自由権利の何たるかを知らない読者には想像のしようもないので、それぞれ数項を費やして説明している。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa/a02/3

西洋事情. 初編. 一

Seiyo jijo

初編三冊、外編三冊、二編四冊より成り、それぞれ慶応二年、同三年、明治三年の刊記がある。
福沢の著訳者としての名声を一時に海内に轟かしたもので、最も広く世に行なわれ、影響力の甚だ強かった著訳書の一つである。
初編三冊の構成は巻之一に「備考」と題して政治のあり方、税法、国債、紙幣、商事会社、外国交際、兵制、文学技術、学校、新聞紙その他二十数項目を設けて西洋文明の新事物の紹介を試み、巻之二と巻之三とにアメリカ合衆国、オランダ、イギリスの項を設けてその歴史、政治、軍備、財政をそれぞれ紹介した。
最初は二編三冊にロシヤ、フランス、ポルトガル、ゼルマン総論、プロシャの各国を説くつもりであったが、初編三冊を出してから少し考えが変り、西洋の社会事情一般を知らしめなくては、各国を説いても理解しにくいであろうと配慮から、チェンバーズ
の経済書(Chambers,Educational Course, Political Economy for use in schools, and for private instruction)の一部を主とし、他の諸書を撮訳して、外編三冊を著わし、その後で最初の計画に従って二編にロシヤ以下の国々を書こうとしたが、フランスの部分が長くなって二冊分を占めることになり、ポルトガル以下を説くことができなくなったので二編を四冊とし、更に続いて三編を書くつもりであったらしいが、遂に三編は書かれずに、初編三冊、外編三冊、二編四冊、計十冊で終わったのである。
日本にない西洋の事物を紹介するのであるから、福沢は新たに訳語を作り、その訳語に長々と説明を加えるなどして、読者の理解を助けるために苦心した。たとえば、フリードム又はリバアティの語に「自主任意」「自由」などの訳語を与え、ポステージ・スタンプを「飛脚印」と訳し、ライトを「通義」としたが、それだけでは自由権利の何たるかを知らない読者には想像のしようもないので、それぞれ数項を費やして説明している。
初編三冊は網目模様の地紋の濃藍色表紙、左肩に「西洋事情一.(二、三) 」の文字を子持罫で囲んだ題箋を貼ってあるが、初版本には題箋に「初編」の文字はない。見返しは黄色の半紙または白色の厚雁皮紙を用い、匡郭は子持罫、その中に簡単な飾り罫の枠を施し、「福沢諭吉纂輯/ 西洋事情/慶応二年丙寅初冬尚古堂発兌」と三行に記してある。のちには「福沢諭吉纂輯」の文字の下の方に「慶応義塾蔵版之印」の朱印の押捺してあるものが出ているが、これは明治元年春以降の発売本と見なければならぬ。
口絵一丁は白色の厚雁皮紙または洋紙を使い、匡郭は飾り罫、表半丁は上部に「蒸汽済人電気伝信」の文字を掲げ、中央に、北極をやゝ上部寄りに表わした地球の北半球図を画き、その周図を鎖で取り巻き、電柱十六本を立て、これに電線を架し、その電線の上を洋服姿の飛脚が右へ向って走る姿を描き、地球図の上の方には、右に洋風の尖塔の屋根の群を示し、左に山脈の上に飛揚する軽気球をあしらい、最下端にト駅トンネルを出る汽車と波濤を渡る汽船の図とを配している。
口絵の裏半丁は、表と同様の飾り罫の中に上部に「四海一家五族兄弟」の文字を掲げ、世界の五人種の顔を描き、これに地球儀と望遠鏡と洋書とコンパスと巻紙との図を配している。この口絵は墨と薄墨と青灰色との三度刷りである。
本文は、巻之一が目録四丁、本文五十六丁、巻之二が本文五十一丁、巻之三が本文五十丁、その第五十丁裏に「福沢氏蔵梓/西洋事情初編三冊刻成/同二集三集近刻/ 華英通語全一冊刻成」と記してある。版によっては右下隅に「福沢氏図書記」と刻した長方形の朱印が押してあるものもある。巻之三のウラ表紙の見返しに、この書の取扱書店名が列記してある。「京都出雲寺文次郎/大阪伊丹屋善兵衛/ 尾陽永楽屋東四郎/東都出雲寺万次郎/岡田屋嘉七」とある。版によっては最後の岡田屋嘉七の名の下に「尚古堂記」と刻んだ方形朱印の押してあるものもある。巻之一の表紙見返しに記してある「尚古堂発兌」とあるその尚古堂が、芝神明前にあった書物問屋岡田屋嘉七である。
外編三冊の体裁は初編と変りはない。題箋には「外編」の文字が記されている。見返しは黄色の和紙に初編と同じ体裁で「福沢諭吉纂輯/西洋事情外編/慶応三年丁卯季冬 尚古堂発兌」とある。巻之一が題言三丁、目録二丁、本文五十二丁、巻之二が本文五十四丁、巻之三が本文五十三丁、最後に一丁、「慶応義塾蔵梓」の見出しの下に「慶応義塾蔵版之印」と刻した長方形の黒印が押してあり、福沢諭吉と小幡篤次郎との著訳書目が掲げてあり、最後に「不許偽版」の四宇が大書してある。この書目の中にも「西洋事情」の二集三集が近刻される旨の予告が出ている。巻末に取扱書店名が列記してあるが、勢州津の篠田伊十郎と東都の内野屋弥平治との名が、初編の連名に追加されている。
この外編は、表紙見返しに「慶応三年丁卯季冬」と印刷してあるが、実際に製本発売されたのは慶応四年(明治元年)五月から八月までの間であったようである。慶応三年に脱稿し版木の彫刻も大部分できたのであるが、初編の発売部数の多いのに目をつけた奸商が盛んに偽版を出したので、この外編も出せば直ぐに偽版を作られることを慮り、出版を躊躇していたのである。慶応義塾という名称のできたのは、慶応四年四月のことであるから、右に述べた奥附の「慶応義塾蔵梓」の文字や「慶応義塾蔵版之印」などから推しても、この書が福沢の塾が築地鉄砲洲から芝の新銭座に移転した後に刊行されたことが明らかである。またその蔵梓目録の中に、明治元年九月刊(改元は九月八日) の「窮理図解」三冊の名を掲げ「脱稿近刻」と予告してあるのを見ても、この外編の刊行が夏秋の頃であったことが推定できる。
二編四冊の体裁も初編外編と全く同じで、題箋は「西洋事情二編 一(二、三、四)」となっており、見返しは外編と同様、黄色の和紙に「福沢諭吉纂輯/ 西洋事情二編/明治三年庚午初冬 尚古堂発兌」とあり、右下隅に「慶応義塾蔵版之印」という長方形の朱印が押してある。巻之一が例言六丁、目録二丁、本文五十六丁、巻之二が本文五十二丁、巻之三が本文五十丁、巻之四が本文三十七丁、蔵版目録二丁である。巻之四本文の終りに「明治三庚午年十月/官許/禁偽版 慶応義塾蔵版/岡田屋嘉七売弘」と記し、「官許」の二字を大書している。外編巻末の「不許偽版」の大書と共に、福沢がいかに偽版に苦しめられたかを物語るものである。事実、巻之四巻末の慶応義塾蔵版目録の書名の下に、「上方に偽版三四様ありて方今も偽本を売買せり」「これも偽版二三様あり」「例の如く偽本版山」「この書も偽版の噂あり他の例に従へば実説ならん」などと記している。
以上各編とも、見返しと同一の版木で刷った外包みの紙鞘に包まれて発売された。もとより偽版が横行するくらいであったから、著者自身も何回か版木を改めたと見え、口絵の描線などには微妙な相違が見られるが、恐らくそれらは初刷の冠せ彫りであったろうと想像せられる。
はっきり版下から書き換えた改版は、初編では明治三年の再版、明治六年の三版、外編では明治五年の再版、明治六年の三版、二編では明治六年の再版を数えることができる。
初編の再版本は、体裁は初版と同じで、題箋も「西洋事情 再刻一(二、三)」とあって、やはり「初編」の文字は記されていない。見返しは黄色の和紙を用い初版の「慶応二年丙寅初冬」の刊年が「明治三年庚午再刻」と改まっている。口絵も本文も初版本の体裁と同様で、巻之三第五十丁裏の刊記とも見るべきものが「明治二己巳年十二月再刻/官許/ 禁偽版」と改まっている。初版本にはその次に取扱書店名の列記があるが、再版本ではこれがなくなって、その代りに慶応義塾蔵版目録が一丁加わり、大体初版の二編巻之四巻末の蔵版目録と同じであるが、この方が少しく後に彫刻されたものと見えて、新たに追加された書名も見える。思うに明治三年初版の二編の出版と共に再刻して、初編、外編、二編と揃えて発売されたものであろう。二編初版の巻末目録にこの初編の再刻が記されてある。
外編の再版本も体裁は初版と全く同じで、題箋も見返しもすべて初版と同様であるが、その刊年だけが「慶応三年丁卯季冬」を「明治五年壬申再刻」と改められている。巻之三の巻末の蔵梓目録も初版本のまま少しも変更を加えていない。
明治六年三月に「西洋事情」全十巻が一揃いに新版となった。すなわち初編の三版、外編の三版、二編の再版である。この新版の特徴の第一は、従来の刊本と表紙の異なる点である。従来は網目模様の地紋の濃藍色表紙であったが、新版の表紙には、白と黒との斜め縞に「慶応義塾蔵版」の六字を散らし書きに白字で出した図柄の全面に銀粉掃きつけの用紙を使っている。題箋は「西洋事情 初編一再刻」というように、この新版で初めて「初編」の文字を表わしている。しかも実は第三版であるのに題箋だけは「再版」と記してあるのも注意を要する。外編と二編との題箋には「再刻」の文字はない。
見返しは再版本と同様に黄色の和紙を用い、文字の配列も同様であるが、「尚古堂発兌」の代りに「慶応義塾出版局」と改められ、その文字に冠せて「慶応義塾蔵版之印」の長方形朱印が押してある。しかも刊年は、初編は「明治三年庚午再刻」、外編は「明治五年壬申再刻」、二編は「明治三年庚午初冬」と、初編、外編は再刻の年を、三編は初版の年を掲げ、初編と外編とには左下隅に「明治六年三月再々刻」、二編には「明治六年三月再刻」と記している。各編ともに奥附も蔵版日録もない。これらがこの新版の特徴で、思うに十冊全揃いとして発売せられたものであろう。
以上の各版は、いずれも土佐半紙を用いたものであるが、初編に限り雁皮紙に印刷して三冊分を一冊に合綴した、いわゆる薄葉刷りと称すべき異本がある。これには二種類あって、一は一九・七×一四cm、他は一八・四×一三・三cmと、大小二様の仕上げになっている。いずれも半紙判より少しく小さい。
右のうち大きい方は、無地濃藍色の紙を表紙とし、見返しは紅唐紙。初版と全く同じ記載であるが、匡郭は一六×一一・一cmで、初版とほぼ同大であるが、版木は別のものを使っている。口絵、本文も初版とは版木を異にし、やゝ寸がつまっている。巻末の奥附も初版と同じ体裁である。
小型本は絹表紙で、茶、青、濃緑など、さまざまの色を使っている。見返しはいづれも黄色の和紙で、半紙判、薄葉大型本、いずれも西洋事情の洋のツクリが「芋」になっているのに、この薄葉小型本に限り「羊」になっているのが著しい特徴で、刊年が「慶応四年戊辰初夏」と改められ、「尚古堂発兌」の文字が削られ、また巻末の刊記もない。口絵、本文とも、全体の版木は、初版本とも前記薄葉大型本とも異なるものである。思うに薄葉大型本が出たあとで作られた偽版であろうか。大型小型いずれにも薄葉刷りには題箋が貼られていない。
前記薄葉大型本も、半紙判初版本とは異なる版木が使われているところを見ると、薄葉のために特に新版を起したとは思われないので、果してこれも真版かどうかは俄かに断定はできないのであるが、われわれの所見の版本の真偽如何は別として、確かに薄葉に印刷した版本の出たことは、この頃の福沢書翰によって立証することができる。
福沢は文久二年の暮にヨーロッパ旅行から帰って、その見聞を基礎とし欧米の諸書を参照してこの書を著わしたというのであるが、「西洋事情」初編の刊行の慶応二年の冬までに、満四年に近い歳月が経過している。後年の健筆から考えて余りに長すぎる。もちろん原稿の整理、資料の調査に時日を要したことは察せられるが、それだけではなくて、文久三年から元治慶応にかけての、国内の撰夷論全盛の風潮に、本書の出版を躇躇せしめる事情があったであろうことは、十分に推察できる。その間に福沢は草稿のままこれを人に示したことはあるらしく、初版の刊行以前に福沢に「西洋事情」の著のあることに言及した文献もあり、又初編の第一冊の原形かと思われる写本なども伝わっている。
最後に「西洋事情」の偽版についても言及しておかねばならない。
「西洋事情」の真版そのままを模して作られた偽版は、もちろんあったに違いなく、前記の薄葉刷りもその一種かと思われるし、又木版でなく活字版で刷り立てられたものも管見に入っているが、真版を冠せ彫りにした偽版は容易に見分け難く、しかも内容的には真版と何等異なるところはないので、しばらくこれを別にして、内容の異なる偽版だけについて述べれば、今日までに知られているものに「増補和解西洋事情」四冊、「西洋事情次篇」二冊、「西洋各国事情」六冊の三種がある。しかもそのそれぞれに異版がある。
「増補和解西洋事情」四冊は、福沢諭吉原輯、黒田行次郎校正、「慶応四年戊辰夏宦許」と称するもので、上、中、下、附録の四冊から成り、上、中、下の三冊が真版の初編三冊に相当し、附録は黒田が新たに増補したものである。口絵も真版と異なり、本文はほぼ同じであるが、文字を変更した部分もあり、難かしい熟語に振仮名と意味とを書き加え、西暦の年に日本暦年を傍記している。第四冊の附録は、黒田が福沢の著書の欠を補うと称して新たに書きおろしたもので、黒田は江州膳所の藩士で、緒方塾では福沢の先輩に当る当時屈指の洋学者であるから、著作権の観念のなかった時代のこととて、黒田としては福沢の遺漏を補ってやろうとの見識をもって、京都の書肆の依頼に応じたものであろう。この書には別に薄葉刷り一冊ものがある。
「西洋事情次篇」二冊は、実は後に記す福沢の著書「西洋旅案内」の本文をそっくりそのまま翻刻し、単に題名だけを「西洋事情次篇」と名づけて偽版したもので、「西洋事情」の真版と同じ大きさと、それより小型のものと二種類あり、「西洋事情次篇 乾(坤)」の題箋、「福沢諭吉著/西洋事情次篇/慶応四年戊辰仲春 附録万国商法」と記した見返しを附し、本文は「旅案内」の刷り本の冠せ彫りと覚しく、書体も全く同一で、版心の文字を「西洋事情」と改め、内題を「西洋事情次編」とし、巻之上の巻末に「西洋事情といへる書に」と真版にあるのを「西洋事情前編三冊書に」と訂正してあるところなどが顕著な相違である。小型本も右の大型本と全く同一の版木で刷ったもので、仕上がり寸法を縮めただけに過ぎない。見返しは大型本と同じものと、書名を「西洋事情次篇」から原名の「西洋旅案内」に戻したもの、題箋をも「西洋旅案内 上(下)」と改めたもの、本文第一丁の内題だけを「西洋事情次篇巻の上 一名旅案内」と改めたものなどいろいろの版本がある。察するに偽版の取締りが厳しくなるにつれて、次第に此処彼処と少しづつ改めて、追窮の目を遁れようとしたものであろう。
「西洋各国事情」六冊は、小型本で、見返しには「浪華二書房」となっているが、奥附により大阪の小島屋伴兵衛と藤屋宗兵衛とが発行元であることがわかる。慶応四年初秋の上梓となっている。内容は全然福沢とは無関係の弘化二年刊「西洋人撰述訳本」雲峰閣蔵梓と称する「万国輿地図説」の古版木を利用して刷り立て「福沢先生著西洋各国事情」と著者名と書名とを偽って出版した、甚だタチの悪い詐欺出版である。この原本の著者は明かでないが、全部で十二冊から成っているものを、六冊に編成し直し、毎巻巻頭巻尾の題名を改め、挿絵の二、三を省略し、順序を少しばかり違えたほかは、完全に原本の古版木をそのまま使って刷り立てたものである。


飯田論考

西洋事情

西洋事情
Things Western
Things Western 2021-07 ac (1).jpg
作者福沢諭吉
言語日本語
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西洋事情』(せいようじじょう)は、福沢諭吉幕末から明治にかけて著した書物。当時の欧米の状況を紹介したもの。初編3冊、外編3冊、2編4冊の10冊からなる。 

目次

  • 1 経緯
  • 2 内容
  • 3 単行本
  • 4 脚注
  • 5 関連項目
  • 6 外部リンク

経緯

福沢諭吉江戸幕府の命により1860年万延元年)にアメリカに渡り、1862年文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年慶応2年)に初編3冊を刊行した。翌年の1867年(慶応3年)再びアメリカへ渡り、その後1868年明治元年)に外編3冊を、1870年(明治3年)2編4冊を刊行している。 

『西洋事情』の偽版がでたために、福沢は慶応4年4月10日(新暦5月10日)の『中外新聞』に広告をだし、版権著作権)の観念を強調した[1]。 

内容

その内容は政治制度、国債紙幣会社外交軍事科学技術学校図書館新聞文庫病院博物館蒸気機関、電信機、ガス燈などに及び、それぞれについて個別に紹介している。 

例えば政治については政体が君主政、貴族政、共和政の三種類の政体に区別され、イギリスではこれらの政体を組み合わせていると記している。さらに文明国の六つの要訣について列挙しており、それは法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、技術文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済することであると論じる。また外交についても、通商や婚姻によって君主間の関係を構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されるという外交の制度が紹介される。このように、当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。 

単行本

脚注

  1.  『福沢諭吉全集 21』岩波書店

関連項目

外部リンク

ウィキクォートに福沢諭吉に関する引用句集があります。
近代デジタルライブラリー

書信館(ポストオフィシー・郵便)制度創設の提案
http://tozenzi.cside.com/yubin-seido.html

書信館(ポストオフィシー郵便)制度創設の提案
Proposal to establish a post-office mail system

   
前島密(幕臣時代)
▲ Hisoka Maejima (photographed during the shogunate period)

 明治三年になって大藏大輔大隈重信は、近代的な統一国家建設には新聞や書簡など情報の伝達が大事と考え、前島密を駅逓権正に任じて研究にあたらせた。前島は英国に渡って郵便制度を学ぶと、明治四年「新式郵便」と名づけた郵便制度を発足させ、郵便を官業に統一し、郵便切手や、郵便ポスト、全国均一料金制など、日本の近代的な郵便制度創設に尽くした。

 
 In the third year of Meiji, Shigenobu Okuma
a key figure in the Meiji government, believed that the transmission of information, such as newspapers and letters, was important for the construction of a modern unified nation, and appointed Hisoka Maejima to study the matter. Maejima traveled to England to learn about the postal system, and in 1871, he established a postal system called the "New Style Postal Service," which unified the postal service into a government business and helped establish Japan's modern postal system, including postage stamps, mailboxes, and a nationwide uniform rate system. 

 

       前島密と小栗上野介

 小栗上野介が日本初の株式会社兵庫商社の設立建議書に盛りこんだ書信館(ポストオフィシー)がそのまま設立されていれば、いまごろは郵便局と云わず「書信局」と呼んでいただろう。その小栗の構想と前島の「新式郵便」に関連があるのだろうか。

 たとえば、日本の近代化にとって、正確・迅速な情報や書簡の伝達が大事と考える小栗に、新聞発行の建議で担当予定者に挙げられた福沢諭吉は、

 「西洋諸国では飛脚の権限は政府に属し、民間では扱わない。政府が飛脚印という印刷を作り、定価でこれを売る。大きさは七八分、その価格によって色が違う。」
              (福沢諭吉『西洋事情』慶応二年)
 

      Hisoka Maejima and Kozukenosuke Oguri
If the post office that Kozukenosuke Oguri
 included in his proposal to establish Japan's first joint-stock company, Hyogo Shosha, had been established as it was, it would have been called a "書信局 shoshinkyoku" (letter telegram office) instead of "郵便局 yubinkyoku" (post office). I wonder if there is any connection between Oguri's concept and Maejima's "modern postal system."

For example, Yukichi Fukuzawa, who was named as one of the persons to be in charge of a proposal to publish a newspaper, told Oguri who believed that accurate and prompt communication of information and letters was important for the modernization of Japan, 
"In Western countries, the authority of the courier belongs to the government, not to the private sector, and the government makes a printing called a 'hikyaku-in (stamp)' seal and sells it at a fixed price. The sizes are 7-bu to 8-bu (21~24 mm), and the color varies according to the price." ("Things Western" by Yukichi Fukuzawa, Keio 2).
 
        飛脚 から 郵便夫
                        
 From Courier to Postman  

と報告し、小栗の盟友栗本鋤雲も幕末に派遣されたフランスで郵便制度についての見聞を、

 「あらかじめ、店で鈐印けんいん(切手)を買っておく。それは三十六枚に区切られ、それぞれ人物像が描かれている。人に書簡を送る時は、宛名住所を書いてこの鈐印紙(切手)を一片貼り、託せば必ず相手に間違いなく届く。届ける賃金などはみな鈐印紙(切手)の値段の中に含まれているから、きわめて簡便な方法である。」   (栗本鋤雲『暁窓追録補』明治二年) *鈐印・・・割り印のこと、「鈐印紙」で切手の意味となる

と報告している。

 渋沢栄一前島密は、ともに維新後徳川家が新しい駿河藩となったのに随って静岡に移り、江戸から移る旧幕臣の生活安定に、ともに苦心していた熟知のあいだであることを指摘した「維新前夜雑記」は、続けて前島の「郵便創業談」をひいて、

 「斯業(郵便)の知識を洋行した人に聞いたらわかるだろうと思って帰国した人に尋ねたが、こういうことに気付いた人はなく、渋沢栄一君だけは、一枚の仏国郵便切手を持っていて、これを状袋に貼ると云うことを話してくれた」とその苦心を紹介している。             
           (即是観生『維新前夜雑記』名古屋郵便時報 昭和三十年四月)

 これらを総合して推測すると、前島の構想の原点には、小栗の提案や福沢、栗本、渋沢ら旧幕臣系列の報告が反映していて、

 「明治三年六月十七日英国に出張を命ぜられ、じっさいに郵便事業を見る便利を得て、大いに知識を得た。」 (前島密『郵便創業談』

その結果としての、近代郵便制度の確立であったといえよう。

 ついでに言えば栗本鋤雲は、明治五年に前島の発案で矢野文雄(龍渓)、犬養毅、尾崎行雄らを擁して、明治の代表的新聞といわれた「郵便報知新聞」が発刊された時、主筆として招かれ、健筆を振るっている。

 Joun Kurimoto, an ally of Oguri, also reported on his observations of the postal system in France where he was sent at the end of the Edo period as follows: "Buy stamps at a store in advance. It is divided into thirty-six sheets, each of which has an image of a person on it. When you send a letter to someone, write down the name and address, put a piece of this paper (stamp) on it and entrust it to a postman, and it will surely reach the person addressed. It is a very easy way, since the cost of delivering the letter is included in the price of the stamp." ("Gyosou-Tsuiroku-Ho" by Joun Kurimoto, dated 1872).

Both Eiichi Shibusawa and Hisoka Maejima were well acquainted with each other, having moved to Shizuoka after the Tokugawa family became the new Suruga domain after the Meiji Restoration, and both were struggling to stabilize their lives as former shogunal retainers moving from Edo. Mejima's "Ishin Zenya Zakki" (Miscellaneous Notes on the Eve of the Restoration), which pointed out this fact, goes on to introduce their struggles by referring to his "Story of founding the Postal Service," as follows:

"I thought it would be helpful to ask someone who had gone abroad about this (postal) knowledge, so I asked people who had returned to Japan, but no one had noticed this, and only Eiichi Shibusawa told me that he had a sheet of French postage stamps that he would put on envelopes."
("Ishin Zenya Zakki" by 
Sokuzekan, Nagoya Postal Times, April 1955)

The origin of Maejima's plan was based on Oguri's proposal and the reports of Fukuzawa, Kurimoto, Shibusawa and other former shogunate officials.

"On June 17, 1876 or Meiji 3, I was ordered to go to England on a business trip, where I had opportunies of seeing the postal service in action and gained a great deal of knowledge.
("Story of founding the Postal Service" by Hisoka Maejima)

As a result of this, the establishment of the modern postal system can be said to have been achieved.

Incidentally, in 1872, Maejima, on his own initiative and with the help of Fumio Yano (Ryukei), Tsuyoshi Inukai, Yukio Ozaki and others, published the "Yubin Hochi Shinbun," which is said to be one of the most representative newspapers of the Meiji era and, at that time, Joun Kurimoto was invited to be the chief editor of the newspaper, and he did a good job.
                前島密が媒酌 小栗クニ・貞雄結婚

              
                    ▲小栗クニ と小栗貞雄  Kuni Oguri and Sadao Oguri 
 
  こうしてみると、明治20年に前島密が大隈重信夫妻の依頼を受け、小栗家の存続を願い、小栗上野介の遺児クニと矢野貞雄(作家矢野龍渓の弟)の媒酌の労を喜んでとったことは、容易に想像出来ることである。

  In 1887 or Meiji 20, at the request of Okuma Shigenobu and his wife, Hisoka Maejima took on the task of mediating between Kozukenosuke Oguri's orphaned daughter Kuni and Sadao Yano (Ryukei Yano's younger brother), and in this way, it is easy to imagine that Maejima was willing to do so in the hope that the Oguri family would survive.

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