フリードリヒ・キットラー
1943年6月12日にザクセン州のロホリッツ(英語: Rochlitz)にて、ギムナジウム教師の父ギュスターフ・アドルフ・キットラーとその妻の間に生まれる[1]。1958年に一家で西ドイツに亡命し、1958年から1963年の間バーデン=ヴュルテンベルク州ラール(英語: Lahr)のギムナジウムに通う[2]。1963年から1972年のあいだ、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(フライブルク大学)で、ドイツ文学(特にロマン主義文学)や哲学を学ぶ[2]。この頃フランスのポスト構造主義(ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ)に影響を受ける[2]。
1976年にコンラート・フェルディナント・マイヤーについての論文『夢と語り――コンラート・フェルディナント・マイヤーのコミュニケーション状況の分析』で博士号を取得する[2]。同論文は1977年に単著として刊行される。1976年から1986年の間、フライブルク大学でドイツ文学研究室の助手を務める[2]。
1984年にフライブルク大学へ提出された『書き取りシステム1800・1900』で教授資格を取得する[2]。同論文は1985年に書籍として刊行される。アメリカのカリフォルニア大学バークレー校(1982年-1983年)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(1982年-1983年)、スタンフォード大学(1982年-1983年)、スイスのバーゼル大学(1986年)で客員助教・客員教授に就く[2]。
1986年に『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を刊行する。1986年から1990年の期間、カッセル大学を拠点として行われた、ドイツ研究振興協会(DFG)の「文学とメディア分析」プロジェクトに参加する[2]。1987年にはルール大学ボーフムで現代ドイツ文学の教授に着任する[2]。
1993年にフンボルト大学ベルリンに美学・メディア史の教授として着任する[3]。同年、メディア理論研究への貢献について、カールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)から「ジーメンス・メディアアート賞」を授与される[4]。1996年にはイエール大学、1997年にはコロンビア大学にて客員教授を務める[2]。
2001年からフンボルト大学ベルリンのヘルマン・フォン・ヘルムホルツ文化研究所(ドイツ語: Hermann von Helmholtz-Zentrum für Kulturtechnik)の副所長を務める。また、同研究所を拠点に進められたドイツ研究振興協会(DFG)の研究プロジェクト「像、書、数(Bild Schrift Zahl)」に参加する[2]。
2011年10月18日にベルリンにて68歳で没する[5]。墓はベルリンのドロテーエンシュタット墓地に置かれている。
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