2024年11月13日水曜日

サッカレーの娘と格言「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」とマイモニデス

マイモニデスは「種子の書」『ミシュネ・トーラー(注解書)』でこう書いている。


《慈善には8つの段階がある。 段階を追うごとにより優れた慈善となり、 最高段階におい
ては、貧困に陥ったイスラエル人の手を取り、贈り物を与えたり、貸付をしたり、協働者
としたり、仕事を見つけたりすることにより、他人に物乞いをする必要のないように自立
させる。関連する聖書の一節、「彼を助け、寄留者または旅人のようにして、 あなたと共に
生きながらえさせなければならない」 (レビ記 25 章 35 節)とは、 彼を助け、物乞いに陥
らないようにさせるということである。》
(「ユダヤ慈善研究」田中利光)

魚を与えるのではなく釣り方を教えろ、という諺の起源はよくわかっていないが、この諺の持つ自立を促す慈善活動の思想的背景において、マイモニデスこそ最重要人物だと断言できる。


マイモニデス (Maimonides, Moses 1138-1204) 

https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/blog-post_13.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/5002662924493836871

https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/blog-post_19.html


LITTLE SCHOLARS. 1860 小さな学者たち

https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/blog-post_97.html


Give me a fish and I will eat today; teach me to fish and I will eat all my life.

人に魚を与えれば、一日の糧となる。人に魚を捕ることを教えれば、一生食べていくことができる

参照:

格言「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」の語源が「老子」説はウソ(1/2) | ねほり.com

魚を与えるのではなく釣り方を教えろ、という諺の最初の英語圏での使用者はサッカレーの娘のリッチーの書いた『ダイモンド夫人』(1885)という小説だという。

《"He certainly doesn't practise his precepts, but I suppose the patron meant that if you give a man a fish he is hungry again in an hour; if you teach him to catch a fish you do him a good turn."

彼は全く彼の教えを実践していませんが、あなたが男に魚を与えると、彼が1時間後に再び空腹になることを意味します。あなたが彼に魚を捕まえるように教えるのであれば、親切な行いでしょう。》


https://play.google.com/store/books/details/Anne_Thackeray_Ritchie_Miss_Dymond?id=024YAQAAIAAJ


実はこの諺、というよりは教訓の出所に関してはリッチーのデビュー作が重要であるかも知れないと思う。

《リッチーが22歳になると,サッカレーは彼女に「お前に相応しい題目が見つかったぞ」と言って本格的な執筆活動を開始させる。そうしてリッチーが書いたのが,イースト・エンド・オブ・ロンドンのスピタルフィールズ(Spitalfields)にある貧民学校(ragged school)や,ユダヤ人の慈善学校(charity school)における教育について記したエッセイで,デビュー作の「小さな学習者たち」("Little Scholars,"1860)である。》

(「サッカレーの娘としての恩恵と呪縛」矢次綾)

具体的には、リッチーの1860年の匿名でのデビュー作「小さな学習者たち」("Little Scholars,"1860)にはこうある。



しかし、この学校の主な目的は、自助努力の大切さを教え、素直な自立心を身につけさせることです」
(原文 "But the chief aim of the school is to teach them to help themselves, and to inculcate an honest self-dependence and independence." )
p,.555





これはリッチーがユダヤ人による子供用慈善学校を見学した際の教師の言葉である。
そしてこれは推察するにマイモニデスによる慈善の8段階の最上位を踏襲した言葉と思われる。

マイモニデスは「種子の書」『ミシュネ・トーラー』でこう書いている。


《慈善には8つの段階がある。 段階を追うごとにより優れた慈善となり、 最高段階におい
ては、貧困に陥ったイスラエル人の手を取り、贈り物を与えたり、貸付をしたり、協働者
としたり、仕事を見つけたりすることにより、他人に物乞いをする必要のないように自立
させる。関連する聖書の一節、「彼を助け、寄留者または旅人のようにして、 あなたと共に
生きながらえさせなければならない」 (レビ記 25 章 35 節)とは、 彼を助け、物乞いに陥
らないようにさせるということである。》
(「ユダヤ慈善研究」田中利光)


ユダヤ慈善研究 単行本 – 2014/11/19 


The Code of Maimonides (Mishneh Torah): Book 7, The Book of Agriculture (The Yale Judaica Series) ハードカバー – 1979/9/10
英語版 Isaac Klein (翻訳)

レビ記の引用は強引だとして疑問視する向きもあるだろうが、聖書でも最終的には被援護者が故郷へ帰ることを想定しているので、自立を目的とした慈善のススメと読めなくもない。

リッチーに話を戻すと、

《リッチーが22歳になると,サッカレーは彼女に「お前に相応しい題目が見つかったぞ」と言って本格的な執筆活動を開始させる。そうしてリッチーが書いたのが,イースト・エンド・オブ・ロンドンのスピタルフィールズ(Spitalfields)にある貧民学校(ragged school)や,ユダヤ人の慈善学校(charity school)における教育について記したエッセイで,デビュー作の「小さな学習者たち」("Little Scholars,"1860)である。》

(「サッカレーの娘としての恩恵と呪縛」矢次綾)

ということらしい。

(「小さな学者達」収録)


Delphi Complete Works of Anne Thackeray Ritchie (Illustrated) (English Edition) Kindle版 

https://www.amazon.co.jp/Complete-Thackeray-Ritchie-Illustrated-English-ebook/dp/B09LZ47NNM


結論としては中世のマイモニデスの教え(慈善の8段階「種子の書」『ミシュネ・トーラー』)をユダヤ人慈善学校でリッチーが聞き、周知の諺として小説に書いたという可能性があるということだ。
ちなみにサッカレーの娘への教育のあり方をも含んだ諺とも捉えられる。

中国起源説は諺(「授人以魚,不如授人以漁」)として存在するのは確かでも具体的なテキストとして断定できない。

参考:

そのあたりに関してはやはり以下のサイト詳しい。

格言「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」の語源が「老子」説はウソ(1/2) | ねほり.com

(淮南子、管子説などが検証されたサイト)


イギリスの作家の小説が起源説

では、海外で支持されている起源は一体何か?

   

それは、イギリスの作家、アン・イザベラ・サッカレー・リッチー氏の1885年の小説「ダイモンド夫人」。

この中で、この「ことわざ」が使われているのが最初だとwiktionaryやWikipediaに記載がある。

"The oldest English-language use of the proverb has been found in Anne Isabella Thackeray Ritchie's (1837–1919) novel, Mrs. Dymond (1885), in a slightly different form."

英語の文献で最初に見られるのは、Anne Isabella Thackeray Ritchie's (1837–1919) 著『Mrs. Dymond』(1885)のなかの以下の記述。

give a man a fish and you feed him for a day; teach a man to fish and you feed him for a lifetime - Wiktionary, the free dictionary

   

で具体的な文章は次の通り。

   

"He certainly doesn't practise his precepts, but I suppose the patron meant that if you give a man a fish he is hungry again in an hour; if you teach him to catch a fish you do him a good turn."

彼は全く彼の教えを実践していませんが、あなたが男に魚を与えると、彼が1時間後に再び空腹になることを意味します。あなたが彼に魚を捕まえるように教えるのであれば、親切な行いでしょう。

日本のWikipediaでも次のような記載がある。小説内の文と違うけど。

彼女の1885年の小説、ダイモンド夫人には、「男に魚を与えれば、あなたは彼に1日餌をやる。男に魚を教えれば、あなたは彼に一生餌をやる」ということわざの最も初期の英語の使用が含まれています。





#22x


book3#6

1:07:00
  1. 1885, Mrs. Dymond by Miss Thackeray (Mrs. Richmond Ritchie) aka Anne Isabella Ritchie, Quote Page 342, Published by Smith, Elder, & Co., London. (Google Books Full View) link ↩︎

サッカレーの娘としての恩恵と呪縛矢次綾

Thackeray

Anne Thackeray Ritchie. Munnelly, Lindsay Marie.

"Little Scholars,"1860

https://play.google.com/books/reader?id=drkCAAAAIAAJ&pg=GBS.PA549&hl=ja

https://play.google.com/books/reader?id=drkCAAAAIAAJ&pg=GBS.PA1&hl=ja

https://books.google.co.jp/books?id=drkCAAAAIAAJ&pg=PP23&dq=Little+Scholars+The+Cornhill+Magazine%E3%80%801860&hl=ja&newbks=1&newbks_redir=0&sa=X&ved=2ahUKEwjjuI2khdeJAxUhoa8BHRl3BgoQ6AF6BAgIEAI#v=onepage&q=Little%20Scholars%20The%20Cornhill%20Magazine%E3%80%801860&f=false

矢次綾
PDF
  1. https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp>record>files
にある貧民学校(ragged school)や,ユダヤ人の慈善学校(charity school)に. おける教育について記したエッセイで,デビュー作の「小さな学習者たち」. ( Little

リッチーが22歳になると,サッカレーは彼女に「お前に相応しい題目が見つかったぞ」と言って本格的な執筆活動を開始させる。そうしてリッチーが書いたのが,イースト・エンド・オブ・ロンドンのスピタルフィールズ(Spitalfields)にある貧民学校(ragged school)や,ユダヤ人の慈善学校(charity school)における教育について記したエッセイで,デビュー作の「小さな学習者たち」("Little Scholars,"1860)である。


続けてリッチーは,生活難に喘ぐ人々について執筆したエッセイ「困窮者と独身者」("Toilers and Spinsters,"1861)を発表する。以上二編のエッセイは『コーンヒル誌』に掲載されたが,同誌上のその他の作品と同様に,匿名で掲載された。しかしながら,サッカレーがリッチーのデビュー作出版から3日も経たないうちにデイヴィソン(Davison)という友人に,「『コーンヒル誌』の5月号を読んで欲しい。うちのぽちゃぽちゃのアニー(my dear old fat Anny)の『小さな学習者たち』が載っているから」と書簡で知らせるなどしたために,作品の匿名性はすぐに失われたようである(Gérin119)。なお,サッカレー自身やディケンズを始めとした当時の大物小説家たちの多くが小説を書く前段階として,スケッチ風のエッセイを書いていたこと,初期の小説には,そのようなエッセイの集積としての要素を見出せることを考慮するなら,9)サッカレーが娘の文筆家としてのキャリアを小説ではなくエッセイから開始させた背景には,小説家として踏むべき段階を娘に順調にたどらせたいという彼の親心があった可能性が高いと言えよう。そのような父のバックアップを受け,リッチーは1862年9月から翌年の1月にかけて,初の長編小説『エリザベスの物語』を同誌に連載して好評を博し,文筆家として着実に歩を進めていくのである。文筆業はリッチー自身が志したことだと推測できるが,そうだとしても,彼女が父の敷いたレールを歩かされていたことに変わりはないだろう。既述したように,リッチーは父への反発心を公然と表現していないようだが,自立心旺盛で自我の強いリッチーが,父を敬愛し,有名作家の娘として自分が多大な恩恵を受けていることを理解していたとしても,父にただ従っていたとは考えにくい。リッチーが強い自立心を持っていた証拠として,例えば,サッカレーが…

レビ記
25:35

 35 もしあなたの同胞が落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、044彼を045あなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい。 36 彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。 37 彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利益を得てはならない。 38 わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。  39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。 40 彼はあなたのもとでは雇い人か居留者のようでなければならず、ヨベルの年まであなたのもとで仕える。 

41 こうして彼とその子らはあなたのもとから出て行き、自分の一族のもと、自分の先祖の所有地に帰る。 42 彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない。 43 あなたは彼を酷使してはならない。あなたの神を恐れよ。 44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から来た者であり、彼らの中から男女の奴隷を買い取ることができる。 45 あるいは、あなたがたのところに在住している居留者たちの子どもの中からも、または、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者からも買い取ることができる。彼らはあなたがたの所有とすることができる。 46 あなたがたは彼らを、あなたがたの後の子孫に046ゆずりとして与え、永遠に所有として受け継がせ、奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの同胞であるイスラエルの子らは、互いに酷使し合ってはならない。  47 もし、あなたのところに047在住している寄留者の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたのところに在住している寄留者に、あるいはその寄留者の氏族の子孫に身を売ったときは、 48 身を売った後でも、その人には買い戻される権利がある。彼の兄弟の一人が彼を買い戻すことができる。 49 または、その人のおじや、おじの息子が買い戻すこともできる。または、一族の048近親者の一人が買い戻すこともできる。あるいは、もし暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すこともできる。 50 買い主とともに、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算する。身代金は、その年数に応じて、雇い人の場合の期間にしたがって決める。 51 もしまだ多くの年数が残っているなら、その年数に応じて、自分が買われた金額のうちから買い戻し金となる分を払う。 52 ヨベルの年までわずかの年数しか残っていなくても、彼はそのように計算し、その年数に応じて買い戻し金となる分を払う。 53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で酷使されてはならない。 

54 たとえ、これらの方法によって買い戻されなかった場合でも、ヨベルの年には、その子らと一緒に出て行くことができる。  55 イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。


サッカレーの娘としての恩恵と呪縛
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  1. https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp>record>files
にある貧民学校(ragged school)や,ユダヤ人の慈善学校(charity school)に. おける教育について記したエッセイで,デビュー作の「小さな学習者たち」. ( Little

ページ
... Little Scholars . " Cornhill Magazine 1 ( May 1860 ) , 549-59 . ( Toilers and Spinsters . ) "

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Anne Thackeray Ritchie, ‎Lillian F. Shankman, ‎Abigail Burnham Bloom · 1994
次の書籍のコンテンツと一致: – 359 ページ
... Little Scholars . " Cornhill Magazine 1 ( May 1860 ) , 549-59 . ( Toilers and Spinsters . ) " How I Quitted Naples . " Cornhill Magazine 2 ( Aug. 1860 ) , 192–210 . " Toilers and Spinsters . " Cornhill Magazine 3 ( March 1861 ) , 318–31 ...




I say farewell to the kind, smiling mistress; Mary Anne is still busy among her irons; I hear the mangle click as I pass, and the wooden door opens to let me out. In another old house, standing in a deserted old square near the City, there is a school which interested me as much as any of those I have come across a school for little Jewish boys and girls. We find a tranquil roomy old house with light windows, looking out into the quiet square with its ancient garden; a carved staircase; a little hall paved with black and white mosaic, whence two doors lead respectively to the Boys' and Girls' schools. Presently a little girl unlocks one of these doors, and runs up before us into the schoolroom-a long well-lighted room full of other little girls busy at their desks: little Hebrew maidens with Oriental faces, who look up at us as we come in. This is always rather an alarming moment; but Dr., who knows the children, comes kindly to our help, and begins to tell us about the school. 


親切で微笑む女主人に別れを告げると、メアリー・アンはまだ忙しそうにアイロンをかけていた。私が通り過ぎると、マングルのカチカチという音が聞こえ、木製のドアが開いて私を外に出してくれた。シティ近くのさびれた広場にある別の古い家には、ユダヤ人の少年少女のための学校があった。古い庭園のある静かな広場に面した、明るい窓のある落ち着いた広々とした古い家、彫刻の施された階段、白と黒のモザイクが敷き詰められた小さなホール、そこからそれぞれ少年学校と少女学校へと続く2つの扉がある。長く明るい部屋には、机に向かって忙しそうにしている他の少女たちがたくさんいる。東洋人の顔をした小さなヘブライ人の乙女たちは、私たちが入ってくると見上げる。しかし、子供たちをよく知る博士が親切に私たちを助けてくれ、学校について話し始めた。


"It is an experiment," he says, "and one which has answered admirably well. Any children are admitted, Christians as well as Jews; and none come without paying something every week, twopence or threepence, as they can afford, for many of them belong to the very poorest of the Jewish community. They receive a very high class of educa- tion." (When I presently see what they are doing, and hear the questions they can answer, I begin to feel a very great respect for these little bits of girls in pinafores, and for the people who are experimenting on them.) "But the chief aim of the school is to teach them to help themselves, and to inculcate an honest self-dependence and independence." And indeed, as I look at them, I cannot but be struck with a certain air of respectability and up- rightness among these little creatures, as they sit there, so self-possessed, keen-eyed, well-mannered. "Could you give them a parsing lesson?" the doctor asks the schoolmistress, who shakes her head, and says it is their day for arithmetic, and she may not interrupt the order of their studies; but that they may answer any questions the doctor likes to put to them.


「これは実験的な試みである。ユダヤ教徒だけでなくキリスト教徒でも、どんな子供でも入学が許可されている。彼らは非常に質の高い教育を受けている。(彼女たちがやっていることを目の当たりにし、彼女たちが答えることのできる質問を耳にすると、私はピナフォアを着たこの小さな少女たちと、彼女たちを実験台にしている人々に、とても大きな尊敬の念を抱くようになる)。「しかし、この学校の主な目的は、自助努力の大切さを教え、素直な自立心を身につけさせることです」。そして実際、彼らを見ていると、そこに座っている小さな生き物たちが、とても落ち着いていて、目が鋭く、行儀がよく、立派で、正々堂々としていることに驚かざるを得ない。「この子たちに算数の授業をしていただけませんか」と医者が女教師に尋ねると、女教師は首を横に振り、今日は算数の日だから勉強の順番を邪魔することはできないが、医者が好きな質問には何でも答えてよい、と言った。


ユダヤ慈善研究. 2013年3月. 首都大学東京大学院人文科学研究科. 田中利光. Page 2. 凡例. 1.本研究で用いるテクストは、巻末の参考文献に掲げる「Iテクスト」によって ...


ユダヤ慈善研究
田中利光



ユダヤ慈善研究

みやこ鳥
https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp › record › files

みやこ鳥
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タナカトシミツ 著 · 2013 — マイモニデス(Maimonides)はラテン語表記であり、ヘブライ語では1r泊珊1コ詞帥 ... ユダヤ慈善の基本理念はツェダカ』(叩刺である。ツェダカーの語義はr 義 ...
243 ページ

学位論文博士 (社会福祉学)
ユダヤ慈善研究
2013年3月
首都大学東京大学院人文科学研究科
田中利光

《…この分野でアルファスィの業績を更にしのいでいるのがマイモニデス (Maimonides,
Moses 11351204) である。 彼は哲学者でありユダヤ民族の精神的な牽引者でもあった。
彼の業績のひとつに、タルムードを含む法規類を主題別に分類、再編した『ミシュネ・ト
ーラー(A)』(「第二のトーラー」の意) がある。 その書の中に「慈善の8段階」
が記されている。 また、 ラビではないが詩人であり倫理に関する著作を残しているアル・
ナカワは『光の燭台 Menorat ha-Ma'or)』 の中で、 「9種類の慈善」について
記している。そこで次に、彼らの慈善の段階区分と種類をみることにする。

3.2 マイモニデスの 「慈善の8段階」
マイモニデス (Maimonides) はラテン語表記であり、 ヘブライ語では 7
25

ーシェ・ベン・マイモーン (マイモンの息子モーシェ)と表記する。 タルムード学者で数
学者、天文学者であったラビ・マイモンを父として、スペインのコルドバに生まれた。1148
年から58年まで、イスラムのムワッヒド派の迫害を逃れスペイン南部と北アフリカを流
転し、1159 年にモロッコのフェズに定住した。 さらにのちにフェズでの迫害を逃れパレス
ティナを経由してエジプトのカイロ旧市街のフスタートに定住した。 1171年に医師として
開業する傍ら、フスタートのユダヤ共同体のラビに就任した。 1178年に聖書とタルムード
にある律法や慣習等のすべてを体系化し、過去のユダヤ教賢者たちの解釈で矛盾している
部分を自らの責任でひとつに決定して著した『ミシュネ・トーラー (77)』を完成
させた。彼はこの頃よりエジプト全土のユダヤ教徒の精神的指導者となっていった。 1190
年には、信仰から離れた敬虔な知識人のための啓蒙書である『迷える者の手引き (Dalalāt
al-Hairin)』8) を完成させた。 これはアリストテレス哲学とユダヤ教神学を融和させるこ
とを目的としたものでもあった。
マイモニデスは 『ミシュネ・トーラー』で、慈善を8つの段階に区分している。『ミシ
ュネ・トーラー』 は 14 書から構成されており9) 慈善の8段階が記された箇所は、
750 セフェル・ゼライーム(種子の書)のロッコファヒルコット・マテノット・ア
ニイム(貧困者への施しの規定)の第10章の7節から14節にある。 その具体的な内容は
次のとおりである (Maimonides / Klein 1979:91-2)。 なお、この箇所で用いられてい
る聖書の引用句については、マイモニデスの引用句は BHS にある同節の文言と異なって
いるため、邦訳に新共同訳を充てることなく、マイモニデスの文言に従って訳出している。》


《マイモニデスによる「貧困者への施しの規定」第10章7-14節

慈善の戒律について、他のどの前向きな戒律よりも、 注意深く行うことが我々の義務で
ある。「わたしは彼がのちの子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義を行わせるために
彼を知った(選んだ) のである」 (創世記 18 章 19節)とあるように、 我らの父アブラハ
ムの子孫として、慈善を行うことが正しい人間としてのしるしである。 慈善を行わずして
イスラエルの王座は樹立されず、真の信仰は確立されない。 これは 「あなたは義をもって
堅く立ち、虐げから遠ざかって恐れることはない。 また恐怖から遠ざかる。 それはあなた
に近づくことはないからである」 ( イザヤ書54 章 14-5節)と書かれている通りである。
また、「シオンは裁きをもって贖われ、そのうちの悔い改める者は正義をもって贖われる」
(イザヤ書 1章 27節) とあるように、 イスラエルを救うには慈善を行うほかないのであ
る。》

以下田中26頁~より

《慈善には8つの段階がある。 段階を追うごとにより優れた慈善となり、 最高段階におい
ては、貧困に陥ったイスラエル人の手を取り、贈り物を与えたり、貸付をしたり、協働者
としたり、仕事を見つけたりすることにより、他人に物乞いをする必要のないように自立
させる。関連する聖書の一節、「彼を助け、寄留者または旅人のようにして、 あなたと共に
生きながらえさせなければならない」 (レビ記 25 章 35 節)とは、 彼を助け、物乞いに陥
らないようにさせるということである。


この1つ下の段階では、誰に施しを与えるのか、 誰から施しを受けたのか分からない状
態で貧困者に施しをする。 この行為が宗教的な義務の遂行そのものであり、かつて神殿に
は秘密の部屋があった。そこで秘密のうちに施しを与えることができ、また同様に、善き
貧しい家族はそこで秘密のうちに生活の助けを受けることができた。この施しに最も近い
行為として、慈善基金への直接的寄付が挙げられる。しかし、テラディオンの息子ハナニ
ココハナニア・ベン・ティラディオン)のような信頼できる賢者が適正に
管理していることが確かでない限り、 直接寄付すべきではない。
さらに1つ下の段階では、与える側は誰に与えるか知っているが、貧困者は誰からの施
しか知らない状態で行われる。これは最も偉大な賢者が行うように密かに手配し、貧困者
の戸に金銭を差し入れる行為である。 これは慈善の義務を負う者が然るべき行動を起こし
ていない場合、適切且つ好ましい方法である。
さらに1つ下の段階では、貧困者は誰から施しを受けているか知っているが、与える側
は受け取る側を知らない。 最も偉大な賢者が行うように、 亜麻布の敷布に包んだ金銭を肩
越しにぶら下げて、後をついて来る貧困者が恥を感じることなくそれを受け取ることがで
きるようにすることである。
さらに1つ下の段階では、貧困者が施しを乞う前に施しを与える。
さらに1つ下の段階では、貧困者から施しを乞われてから施しを与える。
さらに1つ下の段階では、貧困者にとって必要な額を下回る施しではあるが、しかし親
切な態度で与える。
さらに1つ下の段階では、しかめっ面で施しを与える。
以上がマイモニデスによる 「慈善の8段階」 であるが、 これは現代においてもアメリカ・
ラビ中央協議会 (The Central Conference of American Rabbis) が編集・出版している
The Union Prayerbook for Jewish Worship(『ユダヤ教礼拝合同祈禱書』)の中にも、慈
善の観念として継承されている。 マイモニデスが示した段階は、最上の段階から最低の段
階の順に並べられていたが、『ユダヤ教礼拝合同祈祷書』 では、最低の段階から最上の段階
の順に並べられている。 また、祈禱書のほうではマイモニデスの記述を要約し説明的な文
言になっているところが若干異なっている点である。 祈禱書にあるマイモニデスの「慈善
の8段階」は次のとおりである (The Central Conference of American Rabbis 1946 : 117
- 8).
『ユダヤ教礼拝合同祈禱書』より、マイモニデスの「慈善の8段階」
慈善の義務は8段階に分かれている。 1段階目且つ最小限の慈善は、進んで行わない、
27

あるいは後悔するような慈善である。 物品の寄付であり、心からの寄付ではない。
2段階目は、喜んで与えるが、受け取る側の貧苦に釣り合わない慈善である。
3段階目は、喜んで適正な額を与えるが、乞われるまで与えない慈善である。
4 段階目は、喜んで適正な額を、さらに乞われる前に与えるが、直接貧困者に手渡すた
め、その人に恥辱的な感情を与えてしまう。
5段階目は、施しを受ける貧困者が施しを与える側を知っているが、 施しを与える側は
施しを受け取る側を知らない慈善である。 我々の先祖のやり方で例を挙げると、 外套の裾
に金を結わえ付け、貧困者が人目につかずにそれを受け取れるようにする方法である。
6段階目は、高尚な行為であり、 施しを与える側が受け取る側を知っているが、受け取
る側は与える側を知らない慈善である。 我々の先祖のやり方で例を挙げると、 自分たちの
正体や名前が知られないように気を配りながら、 慈善的な恵みを貧困者の住居に運び込む
方法である。
7段階目は、称賛に値する行為である。 施しを与える側は自ら救った者について知らず、
また救われた側も施しを与えた側の名前を知らない慈善である。 これは、まだ神殿が存在
していた時代に、 慈善心のある先人によって行われていた。 神殿には沈黙の部屋があり、
そこには善意の心から出た善き贈り物が秘密のうちに置かれ、貧困者は秘密のうちにそれ
を受け取ることができた。

最後に、 8段階目で最も称賛に値するのは、 貧困を防ぎ慈善の必要をなくす行為である。
例えば、贈り物を与えたり、 貸付をしたり、商いを教えたり、仕事を与えたりすることで
貧困に陥った同胞を助け、真っ当な手段で生活費を稼げるようにする。 そして物乞いをす
るような劣悪な状況に追い込まれないようにする。これは聖書で次のように示されている。
「あなたの兄弟が落ちぶれ、暮らしていけない時は、 彼を助け、寄留者または旅人のよう
にして、あなたと共に生きながらえさせなければならない」。これが最高段階であり、善意
の黄金の梯子における頂点である。

このように、マイモニデスの慈善の観念を表す「慈善の 8段階」 は、 現代においても、
文言の配置が逆転し内容に若干の変更が加えられ簡素化してはいるが、 大方そのままの形
で受け継がれている。マイモニデスの「慈善の8段階」 自体は、 慈善に関するタルムード
の記述を総合的且つ簡潔に分類した結果、 そのような表現になっているものであり、した
がって、少なくとも古代のユダヤ慈善の観念の一端はマイモニデスを経て現代に継承され
てきたといえる。》


《ミシュナ(y)、 タルムード (71) 等を指している。
今日のユダヤ教ソーシャルワークにつながるユダヤ慈善も、価値の根源はそれら宗教文
書にあるといえる。 トーラーは前 1000 - 961年頃に編纂された。 その後ユダヤ教賢者たち
によってロ伝で継承されてきた十戒に基づく無数の法規であるハラハー(ホコファ)をまとめ
たミシュナが後3世紀初頭頃に編纂され、さらにミシュナの体系的、弁証論的分析と補足
の集成であるタルムードがその後数世紀にわたって編纂され、それらの言説が慈善の価値
を形成するに至っている。
ユダヤ慈善の基本理念はツェダカー (77) である。 ツェダカーの語義は「"義"ある
いは"正義"」であるが、「憐れみ」や「慈愛」の意味も内包されていた。 それが転じて、
のちにユダヤ社会の中で、 義(あるいは愛)の表白手段としての「施し」(alms giving)
の用語として用いられるようになった。
1190 年にマイモニデスは、タルムードにある律法や慣習等のすべてを体系化し、過去の
ユダヤ教賢者たちの解釈で矛盾している部分を自らの責任でひとつに決定して著した『ミ
シュネ・トーラー』を完成させた。その中の一書『セフェル・ゼライーム(種子の書)』の
「ヒルコット・マテノット・アニイム(貧困者への施しの規定)」の第 10 章で、彼は慈善
形態を最低位の慈善から最高位の慈善まで8つの段階に区別した。それはのちに、アメリ
カ・ラビ中央協議会が編集・出版している『ユダヤ教礼拝合同祈祷書』 の中にも、慈善の
観念として継承されている。マイモニデスの 「慈善の8段階」 は、 先の 3.2 (マイモニデ
スの「慈善の8段階」)で見たとおりである。 その中でとくに最高段階の慈善 (貧困を防
慈善の必要をなくす行為) は、 防貧の対策を強調するものであり、その1つ下の慈善の
段階(施しを与える側は自ら救った者について知らず、 また救われた側も施しを与えた側
を知らない慈善)は、顔の見えない相手との連帯を強調している。マイモニデスの慈善の
観念は、慈善に関するタルムードの記述を彼が総合的且つ簡潔に分類した結果として導き
出されたものである。 したがって少なくとも古代のユダヤ慈善の観念の一端はマイモニデ
スを経て近代、 現代へと継承されてきたといえる。
4.2 価値をめぐる葛藤
本項に入る前に、 先ず価値 (英 value 独 wert、 仏 valeur)とは何かをみておこう。
価値とは、主体のもつ欲求や目的の実現に役立つ性質のことをいい、 広義には「善い」と
いわれる性質のことである。これに対し「悪い」 といわれる性質に反価値があり、一般に
はこれら価値と反価値を併せて「価値」と呼んでいる。それは本質的に選択されたもので
あり、ソーシャルワーカーの視点でみるならば、 人間関係における行動に直接影響を及ぼ
す点に特徴を持っている。 価値の選択には個人の好き嫌いなどの欲求や関心を満たすもの
と、個人の好き嫌いに関わりなく一般的に「善い」 として実現すべきもの、つまり客観的
32》

参考文献:
The Code of Maimonides (Mishneh Torah): Book 7, The Book of Agriculture (The Yale Judaica Series) ハードカバー – 1979/9/10

英語版 Isaac Klein (翻訳)



追記:

《 ヘブライ語には「tzedakah(ツェダカ)」という言葉があり、「行って当然の行為・正義」という意味で使われています。


また、ツェダカの最終目的は、助けた相手を自立させる事にあるといいます。 「魚を与えるのでなく、魚の釣り方を教える」という慈善行為こそが、相手にとって本当の助けになると信じているのです。》

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Tzedakah (Hebrewצְדָקָה ṣədāqā[ts(e)daˈka]) is a Hebrew word meaning "righteousness", but commonly used to signify charity.
https://en.wikipedia.org/wiki/Tzedakah

田中利光pdf:









ユダヤ慈善研究. 2013年3月. 首都大学東京大学院人文科学研究科. 田中利光. Page 2. 凡例. 1.本研究で用いるテクストは、巻末の参考文献に掲げる「Iテクスト」によって ...


ユダヤ慈善研究
田中利光



ユダヤ慈善研究

みやこ鳥
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タナカトシミツ 著 · 2013 — マイモニデス(Maimonides)はラテン語表記であり、ヘブライ語では1r泊珊1コ詞帥 ... ユダヤ慈善の基本理念はツェダカ』(叩刺である。ツェダカーの語義はr 義 ...
243 ページ

学位論文博士 (社会福祉学)
ユダヤ慈善研究
2013年3月
首都大学東京大学院人文科学研究科
田中利光


中世のラビ文学の重要な人物として、サアディア・ベン・ ヨセフ・ガオン (Saadia ben
Joseph Gaon 882 - 942, 「ガオン」は学塾の学頭の尊称)、ソロモン・ベン・イサーク
(Solomon ben Isaac 1040-1105, 通称 Rashi ラシ) がいる。 彼らは著名な注解者として
知られており、 とくにラシは『メラヒームロック(列王記)』 を除く全聖書と一部の篇を除
くタルムードの注解を行っている。 ラシの弟子にメイル ・ ベン・サムエル (Meir ben Samuel
1160 頃 - 1135頃)と、 メイルの3人の息子サムエル・ベン・メイル (Samuel ben Meir 1085
頃-1160,通称 Rashbam ラシュバム)、ヤコブ・ベン・メイル (Jacob ben Meir 1100
頃-1171,通称 Rabbenu Tam ラベヌウ・タム)、 イサーク・ベン・メイル (Isaac ben Meir
生没年不明)がいる。 彼らはラシのタルムード注解に追加 (第1201回 トサフォート)を書い
たことから、トサフィスト (Tosafist) の名で知られている。
サアディア・ガオン、ソロモン・ベン・イサーク (ラシ)に次ぐ著名な注解者として
イブン・エズラ (Ibn Ezra, Abraham 1089-1164)がいる。彼は聖書の注解を行った。
他に著名な注解者として、キムヒ(Kimhi, Joseph 1105-1170)と、彼の二人の息子ダビ
デ (Kimhi, David 1160 頃-1235 頃, 通称 Radak ラダック)とモーセ (Kimhi, Moses ?
- 1190 頃)、モーセ ・ ベン・ナフマン (Moses ben Nahman 11941270, 通称 Nahmanides
ナフマニデス)らがいる。
中世のラビ文学の範疇で、難解な議論の集大成であるタルムードを簡潔に分類した人物
がいる。早期の作品にはアルファスィ (Alfasi, Isaac ben Jacob 10131103, 通称 Rif リ
フ)の『ハラハーの書 d Sefer ha - Halakhot) 』 がある 7)。 彼は主題別の分類
はしなかったが、 焦点が外れたものを削除し簡潔な形に編成した。 アルファスィのこの書
は二つのことが意図されている。 そのひとつは、タルムードからハラハー資料のみを取り
出し、手近な参考書として包括的な要約を供給できるようにすることであり、もうひとつ
は、タルムードの縮図を準備することによって学習を容易にすることである。
この分野でアルファスィの業績を更にしのいでいるのがマイモニデス (Maimonides,
Moses 11351204) である。 彼は哲学者でありユダヤ民族の精神的な牽引者でもあった。
彼の業績のひとつに、タルムードを含む法規類を主題別に分類、再編した『ミシュネ・ト
ーラー(A)』(「第二のトーラー」の意) がある。 その書の中に「慈善の8段階」
が記されている。 また、 ラビではないが詩人であり倫理に関する著作を残しているアル・
ナカワは『光の燭台 Menorat ha-Ma'or)』 の中で、 「9種類の慈善」について
記している。そこで次に、彼らの慈善の段階区分と種類をみることにする。
3.2 マイモニデスの 「慈善の8段階」
マイモニデス (Maimonides) はラテン語表記であり、 ヘブライ語では 7
25

ーシェ・ベン・マイモーン (マイモンの息子モーシェ)と表記する。 タルムード学者で数
学者、天文学者であったラビ・マイモンを父として、スペインのコルドバに生まれた。1148
年から58年まで、イスラムのムワッヒド派の迫害を逃れスペイン南部と北アフリカを流
転し、1159 年にモロッコのフェズに定住した。 さらにのちにフェズでの迫害を逃れパレス
ティナを経由してエジプトのカイロ旧市街のフスタートに定住した。 1171年に医師として
開業する傍ら、フスタートのユダヤ共同体のラビに就任した。 1178年に聖書とタルムード
にある律法や慣習等のすべてを体系化し、過去のユダヤ教賢者たちの解釈で矛盾している
部分を自らの責任でひとつに決定して著した『ミシュネ・トーラー (77)』を完成
させた。彼はこの頃よりエジプト全土のユダヤ教徒の精神的指導者となっていった。 1190
年には、信仰から離れた敬虔な知識人のための啓蒙書である『迷える者の手引き (Dalalāt
al-Hairin)』8) を完成させた。 これはアリストテレス哲学とユダヤ教神学を融和させるこ
とを目的としたものでもあった。
マイモニデスは 『ミシュネ・トーラー』で、慈善を8つの段階に区分している。『ミシ
ュネ・トーラー』 は 14 書から構成されており9) 慈善の8段階が記された箇所は、
750 セフェル・ゼライーム(種子の書)のロッコファヒルコット・マテノット・ア
ニイム(貧困者への施しの規定)の第10章の7節から14節にある。 その具体的な内容は
次のとおりである (Maimonides / Klein 1979:91-2)。 なお、この箇所で用いられてい
る聖書の引用句については、マイモニデスの引用句は BHS にある同節の文言と異なって
いるため、邦訳に新共同訳を充てることなく、マイモニデスの文言に従って訳出している。

The Code of Maimonides (Mishneh Torah): Book 7, The Book of Agriculture (The Yale Judaica Series) ハードカバー – 1979/9/10
英語版 Isaac Klein (翻訳)

マイモニデスによる「貧困者への施しの規定」第10章7-14節
慈善の戒律について、他のどの前向きな戒律よりも、 注意深く行うことが我々の義務で
ある。「わたしは彼がのちの子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義を行わせるために
彼を知った(選んだ) のである」 (創世記 18 章 19節)とあるように、 我らの父アブラハ
ムの子孫として、慈善を行うことが正しい人間としてのしるしである。 慈善を行わずして
イスラエルの王座は樹立されず、真の信仰は確立されない。 これは 「あなたは義をもって
堅く立ち、虐げから遠ざかって恐れることはない。 また恐怖から遠ざかる。 それはあなた
に近づくことはないからである」 ( イザヤ書54 章 14-5節)と書かれている通りである。
また、「シオンは裁きをもって贖われ、そのうちの悔い改める者は正義をもって贖われる」
(イザヤ書 1章 27節) とあるように、 イスラエルを救うには慈善を行うほかないのであ
る。


慈善には8つの段階がある。 段階を追うごとにより優れた慈善となり、 最高段階におい
ては、貧困に陥ったイスラエル人の手を取り、贈り物を与えたり、貸付をしたり、協働者
としたり、仕事を見つけたりすることにより、他人に物乞いをする必要のないように自立
させる。関連する聖書の一節、「彼を助け、寄留者または旅人のようにして、 あなたと共に
26

生きながらえさせなければならない」 (レビ記 25 章 35 節)とは、 彼を助け、物乞いに陥
らないようにさせるということである。


この1つ下の段階では、誰に施しを与えるのか、 誰から施しを受けたのか分からない状
態で貧困者に施しをする。 この行為が宗教的な義務の遂行そのものであり、かつて神殿に
は秘密の部屋があった。そこで秘密のうちに施しを与えることができ、また同様に、善き
貧しい家族はそこで秘密のうちに生活の助けを受けることができた。この施しに最も近い
行為として、慈善基金への直接的寄付が挙げられる。しかし、テラディオンの息子ハナニ
ココハナニア・ベン・ティラディオン)のような信頼できる賢者が適正に
管理していることが確かでない限り、 直接寄付すべきではない。
さらに1つ下の段階では、与える側は誰に与えるか知っているが、貧困者は誰からの施
しか知らない状態で行われる。これは最も偉大な賢者が行うように密かに手配し、貧困者
の戸に金銭を差し入れる行為である。 これは慈善の義務を負う者が然るべき行動を起こし
ていない場合、適切且つ好ましい方法である。
さらに1つ下の段階では、貧困者は誰から施しを受けているか知っているが、与える側
は受け取る側を知らない。 最も偉大な賢者が行うように、 亜麻布の敷布に包んだ金銭を肩
越しにぶら下げて、後をついて来る貧困者が恥を感じることなくそれを受け取ることがで
きるようにすることである。
さらに1つ下の段階では、貧困者が施しを乞う前に施しを与える。
さらに1つ下の段階では、貧困者から施しを乞われてから施しを与える。
さらに1つ下の段階では、貧困者にとって必要な額を下回る施しではあるが、しかし親
切な態度で与える。
さらに1つ下の段階では、しかめっ面で施しを与える。
以上がマイモニデスによる 「慈善の8段階」 であるが、 これは現代においてもアメリカ・
ラビ中央協議会 (The Central Conference of American Rabbis) が編集・出版している
The Union Prayerbook for Jewish Worship(『ユダヤ教礼拝合同祈禱書』)の中にも、慈
善の観念として継承されている。 マイモニデスが示した段階は、最上の段階から最低の段
階の順に並べられていたが、『ユダヤ教礼拝合同祈祷書』 では、最低の段階から最上の段階
の順に並べられている。 また、祈禱書のほうではマイモニデスの記述を要約し説明的な文
言になっているところが若干異なっている点である。 祈禱書にあるマイモニデスの「慈善
の8段階」は次のとおりである (The Central Conference of American Rabbis 1946 : 117
- 8).
『ユダヤ教礼拝合同祈禱書』より、マイモニデスの「慈善の8段階」
慈善の義務は8段階に分かれている。 1段階目且つ最小限の慈善は、進んで行わない、
27

あるいは後悔するような慈善である。 物品の寄付であり、心からの寄付ではない。
2段階目は、喜んで与えるが、受け取る側の貧苦に釣り合わない慈善である。
3段階目は、喜んで適正な額を与えるが、乞われるまで与えない慈善である。
4 段階目は、喜んで適正な額を、さらに乞われる前に与えるが、直接貧困者に手渡すた
め、その人に恥辱的な感情を与えてしまう。
5段階目は、施しを受ける貧困者が施しを与える側を知っているが、 施しを与える側は
施しを受け取る側を知らない慈善である。 我々の先祖のやり方で例を挙げると、 外套の裾
に金を結わえ付け、貧困者が人目につかずにそれを受け取れるようにする方法である。
6段階目は、高尚な行為であり、 施しを与える側が受け取る側を知っているが、受け取
る側は与える側を知らない慈善である。 我々の先祖のやり方で例を挙げると、 自分たちの
正体や名前が知られないように気を配りながら、 慈善的な恵みを貧困者の住居に運び込む
方法である。
7段階目は、称賛に値する行為である。 施しを与える側は自ら救った者について知らず、
また救われた側も施しを与えた側の名前を知らない慈善である。 これは、まだ神殿が存在
していた時代に、 慈善心のある先人によって行われていた。 神殿には沈黙の部屋があり、
そこには善意の心から出た善き贈り物が秘密のうちに置かれ、貧困者は秘密のうちにそれ
を受け取ることができた。

最後に、 8段階目で最も称賛に値するのは、 貧困を防ぎ慈善の必要をなくす行為である。
例えば、贈り物を与えたり、 貸付をしたり、商いを教えたり、仕事を与えたりすることで
貧困に陥った同胞を助け、真っ当な手段で生活費を稼げるようにする。 そして物乞いをす
るような劣悪な状況に追い込まれないようにする。これは聖書で次のように示されている。
「あなたの兄弟が落ちぶれ、暮らしていけない時は、 彼を助け、寄留者または旅人のよう
にして、あなたと共に生きながらえさせなければならない」。これが最高段階であり、善意
の黄金の梯子における頂点である。

このように、マイモニデスの慈善の観念を表す「慈善の 8段階」 は、 現代においても、
文言の配置が逆転し内容に若干の変更が加えられ簡素化してはいるが、 大方そのままの形
で受け継がれている。マイモニデスの「慈善の8段階」 自体は、 慈善に関するタルムード
の記述を総合的且つ簡潔に分類した結果、 そのような表現になっているものであり、した
がって、少なくとも古代のユダヤ慈善の観念の一端はマイモニデスを経て現代に継承され
てきたといえる。
3.3 アル・ナカワの「9種類の慈善」
マイモニデスは慈善を8段階に区分しているが、 アル・ナカワ (Al Nakawa, Israel ?
28


ミシュナ(y)、 タルムード (71) 等を指している。
今日のユダヤ教ソーシャルワークにつながるユダヤ慈善も、価値の根源はそれら宗教文
書にあるといえる。 トーラーは前 1000 - 961年頃に編纂された。 その後ユダヤ教賢者たち
によってロ伝で継承されてきた十戒に基づく無数の法規であるハラハー(ホコファ)をまとめ
たミシュナが後3世紀初頭頃に編纂され、さらにミシュナの体系的、弁証論的分析と補足
の集成であるタルムードがその後数世紀にわたって編纂され、それらの言説が慈善の価値
を形成するに至っている。
ユダヤ慈善の基本理念はツェダカー (77) である。 ツェダカーの語義は「"義"ある
いは"正義"」であるが、「憐れみ」や「慈愛」の意味も内包されていた。 それが転じて、
のちにユダヤ社会の中で、 義(あるいは愛)の表白手段としての「施し」(alms giving)
の用語として用いられるようになった。
1190 年にマイモニデスは、タルムードにある律法や慣習等のすべてを体系化し、過去の
ユダヤ教賢者たちの解釈で矛盾している部分を自らの責任でひとつに決定して著した『ミ
シュネ・トーラー』を完成させた。その中の一書『セフェル・ゼライーム(種子の書)』の
「ヒルコット・マテノット・アニイム(貧困者への施しの規定)」の第 10 章で、彼は慈善
形態を最低位の慈善から最高位の慈善まで8つの段階に区別した。それはのちに、アメリ
カ・ラビ中央協議会が編集・出版している『ユダヤ教礼拝合同祈祷書』 の中にも、慈善の
観念として継承されている。マイモニデスの 「慈善の8段階」 は、 先の 3.2 (マイモニデ
スの「慈善の8段階」)で見たとおりである。 その中でとくに最高段階の慈善 (貧困を防
慈善の必要をなくす行為) は、 防貧の対策を強調するものであり、その1つ下の慈善の
段階(施しを与える側は自ら救った者について知らず、 また救われた側も施しを与えた側
を知らない慈善)は、顔の見えない相手との連帯を強調している。マイモニデスの慈善の
観念は、慈善に関するタルムードの記述を彼が総合的且つ簡潔に分類した結果として導き
出されたものである。 したがって少なくとも古代のユダヤ慈善の観念の一端はマイモニデ
スを経て近代、 現代へと継承されてきたといえる。
4.2 価値をめぐる葛藤
本項に入る前に、 先ず価値 (英 value 独 wert、 仏 valeur)とは何かをみておこう。
価値とは、主体のもつ欲求や目的の実現に役立つ性質のことをいい、 広義には「善い」と
いわれる性質のことである。これに対し「悪い」 といわれる性質に反価値があり、一般に
はこれら価値と反価値を併せて「価値」と呼んでいる。それは本質的に選択されたもので
あり、ソーシャルワーカーの視点でみるならば、 人間関係における行動に直接影響を及ぼ
す点に特徴を持っている。 価値の選択には個人の好き嫌いなどの欲求や関心を満たすもの
と、個人の好き嫌いに関わりなく一般的に「善い」 として実現すべきもの、つまり客観的
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The Code of Maimonides (Mishneh Torah): Book 7, The Book of Agriculture (The Yale Judaica Series) ハードカバー – 1979/9/10
英語版 Isaac Klein (翻訳)

田中利光:

申命記
6:25 私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」
24: 13 日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は自分の上着を着て寝て、あなたを祝福するであろう。また、そのことはあなたの神、主の前であなたの義となる。


イザヤ
1:27 シオンは公正によって贖われ、 その町の立ち返る者は義によって贖われる。

28:17 わたしは公正を測り縄とし、 義を重りとする。 雹はまやかしの避け所を一掃し、 水は隠れ家を押し流す。










参考:
私が読んだおすすめの本 昼も夜も彷徨え マイモニデス物語 著者 中村小夜さん 
:コメント


Handbook to Life in the Medieval World, 3-Volume Set - Madeleine Pelner Cosman, Linda Gale Jones - Google ブックス

https://books.google.com/books/about/Handbook_to_Life_in_the_Medieval_World_3.html?hl=ja&id=-Jf5t1vFw1QC マイモニデスの 4 種類の証拠


MAIMONIDES' FOUR TYPES OF EVIDENCE 
Maimonides faithfully created for his royal highness the requested dietary regimen, repeat- ing the advice of Galen and other physicians while citing sources to reinforce his argument. Classical authority, contemporary medieval physicians' excellence and errors with their own patients, and Maimonides' own clinical experience with other asthmatic patients are important testimonies buttressing his sugges- tions to his patient. Maimonides' final authority adduced for the efficacy of his ideas was he, as physician and as man. Just as he spoke fondly of his own delights in one single meal per day and bedtime chicken soup, he also quoted personal experience on resting after a soothing daily bath. Water did wonders both for Maimonides' digestion and for his speedy relaxation into sleep. DIET AS LIFE PATTERN For Maimonides, diet meant a scheme for liv- ing, a pattern for life. In fact, the original mean- ing of the Greek word diet is "life pattern." A disease not cured can be creatively endured. Healthful foods and wines stimulated asthmat- ics' endurance. Meats, fowl, fish, vegetables, fruits, and nuts were health restoratives. Favored medical ingredients graced a pot of chicken soup. Maimonides wasted nothing and turned everything to moral purpose. A healthy body was necessary vessel for a healthy soul. Medi- cine therefore indirectly served ethics and religion. Food as medicine indirectly con- trolled the soul. Maimonides' medical nutri- tional concepts were closely allied with philosophical responsibility. Nothing comes from mere nothing, nihil ex nihilo. Nothing is without effect. Even the cleverest scholars might be ignorant of particular causes and specific influences. But they exist and one day will be understood. This stimulated nutri- tional responsibility. Every nutrient's good or bad effects and sequelae are observable or hid- den, immediate or delayed. No food or drink is without physiological effect. Since food helps or hinders health, vigilance in eating and drinking was every intelligent cit- izen's responsibility. The learned knew the sci- entific theory behind practical culinary strictures. The folk knew nutritional rhymes ("An apple a day keeps the doctor away," from the medieval hygiene poems of Salerno) and traditional kitchen wisdom. Nutritional respon- sibility was also related to the doctrine of natu- ral correlative, the rational appreciation of thoughtful human intervention in maintaining health and curing disease. Hygiene and medi- cine must balance nature. The human body's natural defenses were as important to healing as the natural history of disease processes. Those in turn affected and were influenced by the "natural" conjunction between the individ- ual patient's physiology and psychology. Good diet helped the sick body heal. Alone, science was insufficient. Noble, but not divine, science required the natural corre- late. Nevertheless, Platina, the wise 15th-cen- tury Venetian composer of a hygiene cookery, correctly claimed that if a hero in time of war merited commendation for saving a life, so much more so in time of peace a bold writer merited public reward for a culinary regimen that enhanced health and prevented death. While the war hero saved one, the culinary hero providing life patterns saved all people who courageously declared dominion over their own gullets, thereby saving themselves. The war hero gave a man a fish to save his life. The culinary hero taught starving men to fish to feed themselves to live well until natural death. ders.




マイモニデスの 4 種類の証拠 
マイモニデスは、ガレノスや他の医師のアドバイスを繰り返しながら、自分の主張を補強する資料を引用し、王の要望どおりの食事療法を忠実に作り上げました。古典的な権威、同時代の中世の医師たちの患者に対する優秀さと失敗、そしてマイモニデス自身の他の喘息患者との臨床経験は、患者に対する彼の提案を補強する重要な証言です。マイモニデスが自分の考えの有効性について最終的に引用した権威は、医師として、そして人間として彼自身でした。彼は、1 日 1 食と就寝前のチキンスープの喜びを懐かしそうに語ったのと同じように、毎日入浴して心地よく休むことについての個人的な経験も引用しています。水は、マイモニデスの消化と、眠りに素早く入るのに驚異的な効果をもたらしました。 生活パターンとしての食事 マイモニデスにとって、食事は生活の計画、生活のパターンを意味していました。実際、ギリシャ語の「食事」の本来の意味は「生活パターン」です。治癒しない病気は、創造的に耐えることができます。健康に良い食べ物やワインは、喘息患者の忍耐力を刺激しました。肉、鳥、魚、野菜、果物、ナッツは健康を回復させるものでした。好まれた薬用成分は、チキンスープの鍋を美しく飾りました。マイモニデスは何も無駄にせず、すべてを道徳的目的に変えました。健康な体は、健康な魂に必要な器でした。したがって、医学は間接的に倫理と宗教に役立ちました。薬としての食べ物は、間接的に魂を制御しました。マイモニデスの医学的栄養概念は、哲学的責任と密接に結びついていました。何ものも無から生じるものではなく、無から無が生じるものです。効果のないものは何もないのです。最も賢い学者でさえ、特定の原因や特定の影響について知らないかもしれません。しかし、それらは存在し、いつか理解されるでしょう。これが栄養上の責任を刺激しました。栄養素のよい影響や悪い影響、そして後遺症は、目に見えるか隠れているか、すぐに現れるか遅れて現れるかである。生理学的効果のない食べ物や飲み物はない。食べ物は健康に役立ったり妨げたりするので、飲食に注意することはすべての賢明な市民の責任である。知識人は、実用的な料理の規制の背後にある科学的理論を知っていた。庶民は、栄養に関する韻文(「1日1個のリンゴで医者いらず」はサレルノの中世衛生詩から)や伝統的な台所の知恵を知っていた。栄養に関する責任は、健康を維持し病気を治すための思慮深い人間の介入に対する合理的な評価である自然相関の教義にも関連していた。衛生と医学は自然とのバランスを取らなければならない。人体の自然防御は、病気の過程の自然史と同じくらい治癒にとって重要であった。それらは、個々の患者の生理と心理学の「自然な」結合に影響され、またその影響を受けた。良い食事は病気の体を治すのに役立ちました。科学だけでは不十分でした。高貴ではありますが、神聖ではありません。科学には自然に対応するものが必要でした。しかし、15 世紀の賢明なベネチアの衛生料理の作者であるプラティナは、戦時中の英雄が命を救って称賛に値するのであれば、平時においては、健康を増進し死を防ぐ料理法で大胆な作家が公の賞賛を受けるに値する、と正しく主張しました。戦争の英雄が 1 人の命を救った一方で、生活様式を提供した料理の英雄は、勇敢にも自分の食道を支配すると宣言し、それによって自らを救ったすべての人々を救いました。戦争の英雄は、ある男の命を救うために魚を与えました。料理の英雄は、飢えた人々に魚を釣って、自然死するまで元気に生きるための食料を教えました。


栄養に関する責任は、無から無へ、無から無へ。効果のないものは何もない。どんなに賢い学者でも、特定の原因や特定の影響については知らないかもしれない。しかし、それらは存在し、いつかは理解されるだろう。これが栄養に関する責任を刺激した。すべての栄養素の良い影響や悪い影響、および結果が、観察可能であったり隠れていたり、即時であったり遅れて現れたりする。生理学的効果のない食べ物や飲み物はない。食べ物は健康に役立ったり妨げたりするので、飲食に注意することはすべての賢明な市民の責任だった。学者は、実用的な料理の規制の背後にある科学的理論を知っていた。庶民は、栄養に関する韻文(「1日1個のリンゴで医者いらず」はサレルノの中世衛生詩から)や伝統的な台所の知恵を知っていた。栄養に関する責任は、健康の維持と病気の治療における思慮深い人間の介入に対する合理的な評価である自然相関の教義にも関連していた。衛生と医療は自然とのバランスを取らなければならない。人体の自然防御は、病気の過程の自然史と同じくらい治癒にとって重要だった。これらの防御は、個々の患者の生理と心理の「自然な」結合に影響を及ぼし、またその影響を受けた。良い食事は病気の体を治癒させた。科学だけでは不十分だった。崇高ではあるが神聖ではない科学には、自然に対応するものが必要だった。しかし、衛生料理を考案した15世紀の賢明なベネチア人プラティナは、戦時中の英雄が命を救ったことで称賛に値するのであれば、平時においては、健康を増進し死を防ぐ料理法を考案した大胆な作家は、公の賞賛に値する、と正しく主張した。戦争の英雄は一人の命を救ったが、生活様式を提供した料理の英雄は、勇敢にも自分の食道を支配すると宣言し、それによって自らを救ったすべての人々を救った。戦争の英雄は、ある男に命を救うために魚を与えた。料理界の英雄は、飢えた人々に魚の釣りを教え、自然死するまで元気に生きるための食料を調達した。

 "He certainly doesn't practise bis precepts, but I suppose the patron meant that if you give a man a fish he is hungry again in an hour; if you teach him to catch a fish you do him a good turn. But these very elementary principles are apt to clash with the leisure of the cultivated classes. Will Mr. Bagginal now produce his ticket the result of favor and the unjust subdivision of spiritual enjoy. ments?" said Du Parc with a smile. Mr. Bagginal stared at Max for a mo- ment. Max stared back. Du Parc had a quiet, confident manner, which did not, however, always put people at their ease. He actually seemed to feel his own right to exist and to speak. Mr. Bagginal's order was produced, and the veterans unlocked the gates and ad- mitted these wanderers into deeper and sweeter glades and beauties. They skirt. ed the avenues, advancing by the stately green arcades, walking under the chest- nut-trees in flower, climbing from one ivy-bound terrace to another - from stone flight to stone flight, from avenue to ave- nue again, and so onward through the glorious spring into greener and yet greener places. The larks were singing overhead, nightingales and thrushes were answering from end to end with notes so sweet, so loud, so mellow that all these human beings, with one accord, ceased talking to listen to the sweet, pertinacious Imelody. After a time they found them- selves coming out into an open place where a lake lay glistening in the spring. "There is a terrace somewhere near this," said Mr. Bagginal. "Who knows the way to it?" And Du Parc went to inquire of some women with flowers in their hands, who stood smiling, and point- ing out the road. One certainly gets a capital panorama of Paris here," says Tempy breathlessly, ascending the steps of the terrace, and talking in her loud, cordial voice to Mr. Bagginal. "I should like to sketch it, but I'm not good at sketching. Jo could do it, couldn't you, Jo?" "Would you also like to see me stand on my head on the dome of the Inva- lides?" said Jo gravely. "What do you mean, you silly boy?" said Tempy. "You sketch beautifully;



 「彼は確かに彼の教えを実践していないが、パトロンが言いたかったのは、魚を一匹与えると、その人は一時間後にはまたお腹が空くということ、魚の捕まえ方を教えるとその人に親切にすること、ということだろう。しかし、こうした非常に基本的な原則は、教養ある階級の余暇と衝突しがちだ。バギナル氏は、恩恵と精神的な楽しみの不当な分割の結果である切符を今からお出しになるだろうか?」とデュ・パルクは微笑みながら言った。バギナル氏はしばらくマックスを見つめた。マックスも見つめ返した。デュ・パルクは静かで自信に満ちた態度だったが、それは必ずしも人々を安心させるものではなかった。彼は実際に、存在し、話す権利を自分自身に感じているようだった。バギナル氏の命令が通され、ベテランたちは門の鍵を開け、これらの放浪者たちを、より深く、より甘美な空き地と美へと招き入れた。彼らは、堂々とした緑のアーケードを通り、花を咲かせた栗の木の下を歩きながら、ツタに覆われたテラスから次のテラスへ、石段から石段へ、大通りから大通りへ、そして輝かしい春を抜けて、さらに緑が深まる場所へと進んでいく。頭上ではヒバリが歌い、ナイチンゲールやツグミが端から端まで、とても甘く、とても大きく、とても穏やかな声で応えていたので、この人たちは皆、一斉に話を止めて、甘くしつこいイメロディーに耳を傾けた。しばらくして、彼らは春に輝く湖のある開けた場所に出ていた。「この近くにテラスがあるよ」とバギナル氏が言った。「そこへの道を知っている人はいるか?」デュ・パルクは、手に花を持った女性たちに尋ねに行った。女性たちは微笑みながら立っていて、道を指差していた。 「ここからは確かにパリの素晴らしいパノラマが見渡せます」とテンピーは息を切らしながら言い、テラスの階段を上り、バギナル氏に大声で心のこもった声で話しかけた。「スケッチしてみたいけど、スケッチは得意じゃないの。ジョーならできるわよ、ジョー?」「アンヴァリッドのドームの上で私が逆立ちするのも見たい?」とジョーは重々しく言った。「どういうことなの、このバカな子?」とテンピーは言った。「あなたのスケッチは美しいわね。






THE WORKS
OF
MISS THACKERAY
VOLUME X.
MRS DYMOND
LONDON
SMITH, ELDER, & CO., 15 WATERLOO PLACE
1890



MRS. DYMOND. 339  
CHAPTER XXII. ST. CLOUD BEFORE THE STORM. Amidst th' Hesperian garden, on whose banks, Bcdewed with nectar and celestial songs, Eternal roses grow and hyacinth, And fruits of golden rind, on whose faire tree, The scaly harvest-dragon ever keeps His unenchanted eye.-COMUS. 'I WISH my mother had come with us,' said Susy, as the steamer stopped at the landing-place of St. Cloud, just where the public place and the barracks and the terraces all meet, while beyond these slate roofs and balustrades, the tufted green and lilac, and silver and gold of the lovely hanging gardens rise, and the white walls and win- dows of the palace. A flag was flying, for the court was there, the Emperor, the Empress, the young Prince Im- perial, and their attendants, and indeed as they landed, the soldiers were presenting arms to some smart open carriages, which were rolling by with glittering outriders, a flashing of harness, a waving of plumes, a click of arms; it was a pretty, brilliant sight. • Shall we dine first, or walk first?' said Mr. Bagginal gaily. M. du Parc, you know the place better than I do.' 340 MRS. DYMOND. Du Parc hesitated. "If ces dames are not afraid of a long walk,' said Du Parc, we might stroll back through the woods to Sèvres; and I can recommend that little restaurant you were look- ing at just now for your dinner,' he said, finishing his sentence to Susanna herself. Susy agreed at once. She was in childish spirits, and behaving like a child, thought Tempy severely, somewhat in Mrs. Bolsover's frame of mind. Jo stared at Susanna, he too did not know her; he too liked her best in her old subdued condition, though he was glad to see her happy. There was a pretty little girl in a village night-cap on board, about little Phraisie's age, and as the steamer started, Susy stood looking after the child, and think- ing of her own with some natural maternal solicitude; then she turned and found Max as usual waiting by her side and watching her with something the same expres- sion as that with which she had looked at the departing child. 'I should like to have made a sketch of that child,' he said, a little confused at being surprised. 'No wonder women are pious,' he added, "when they have pretty bam- binos of their own to worship. I should think for you, madame, the difficulty must be, not to believe, but to keep rational in your convictions.' Then Max moved on again and joined the others, for he had seen, though Susy did not notice it, a somewhat gloomy exchange of looks pass between Tempy and her brother as they stood waiting on the slope above. It was a general holiday of sunshine, lilacs, lime-trees; dazzling, blossoming flowers on every slope and terrace. The steep sides were heaped with colour; the wrought- iron railings were overhung with garlands, with ivy and laburnum and sweet flowering bushes pushing through the bars. Whitsuntide had come with an exquisite burst. All these French people, natural lovers of beauty and sun- shine, were out basking in the flood of sudden happiness. At the gate of the great court stood a girl, with a half- penitent, half-laughing face; she had stolen some over- hanging branches of lilac and May blossom, and had been called sternly to account by one of the old veterans in uniform and metal buttons, guardian angels of this earthly paradise. The girl, undaunted by the buttons, looked up with merry, entreating eyes, the brave old veteran, unconquered in a hundred fights, seemed hard put to it now, for all his stripes and gold braid. Just overhead from a second terrace, bordered by scrolled iron rails and ivy creepers, hung an anxious audience of girls, also provided with the plunder of spring, and wondering what their own chance of escape would be. She will come over him,' said Mr. Bagginal laughing. 'Look, he is yielding.' Max shrugged his shoulders in an irritating way. "Why do you look so angry?' said Susy. She will get as a veniality what is her natural right,' said Max. "That is how morality is taught in our schools.' But if you think everybody else has a natural right to pick everything there will be only broken stalks for you and me,' says Mr. Bagginal with his usual drawl. 'I don't know about you,' said Max laughing, ‘I myself have long ago made up my mind to broken stalks,' and as he spoke he flung a little spray of lilac he had picked over the railings of the terrace. M. Caron should be here,' said Jo. "What is it he was saying in the studio last night, that an equal sub- division of material was an absurdity-that all gifts should be spiritual . . . and capable of infinite division?" 'I don't suppose even Caron could tell you the differ- ence between material and spiritual,' said Max, shrugging his shoulders. 

He certainly doesn't practise his pre- cepts, but I suppose the Patron meant that if you give a man a fish he is hungry again in an hour. If you teach him to catch a fish you do him a good turn. But these very elementary principles are apt to clash with the leisure of the cultivated classes. Will Mr. Bagginal now produce his ticket-the result of favour and the unjust subdivision of spiritual enjoyments?' said Du Parc, with a smile. Mr. Bagginal stared at Max for a moment. Max stared back. Du Parc had a quiet, confident manner, which did not, however, always put people at their ease. Mr. Bagginal's order was produced, and the veterans unlocked the gates and admitted these wanderers into deeper and sweeter glades and beauties. They skirted the avenues, advancing by the stately green arcades, walking under the chestnut-trees in flower, climbing from one ivy-bound terrace to another-from stone flight to stone flight, from avenue to avenue again, and so onward through the glorious spring into greener and yet greener places. The larks were singing overhead, nightingales and thrushes were answering from end to end with notes so sweet, so loud, so mellow that all these human beings, with one accord, ceased talking to listen to the sweet per- tinacious melody. After a time they found themselves. coming out into an open place where a lake lay glistening in the spring. There is a terrace somewhere near this,' said Mr. Bagginal. Who knows the way to it?' And Du Pare went to inquire of some women with flowers in their hands, who stood smiling, and pointing out the road. 'One certainly gets a capital panorama of Paris here,' says Tempy, breathlessly, and ascending the steps of the terrace, and talking in her loud, cordial voice to Mr. Bagginal. 'I should like to sketch it, but I'm not good at sketching! Jo could do it, couldn't you, Jo?' Would you also like to see me stand on my head on the dome of the Invalides?' said Jo gravely. What do you mean, you silly boy?' said Tempy. "You sketch beautifully; doesn't he, Monsieur du Parc?' But Max didn't answer. He had not yet reached the others, and stood leaning against the lower end of the stone parapet by Mrs. Dymond, and looking out at the wondrous circle of hills. Susy lingered for an instant, she had almost forgotten that such happiness was possible -such a moment, such a spring-tide; the whole air was full of a wonderful perfume, the very branches of the trees all seemed to be singing and flinging their incense upon the air. As Mrs. Dymond stood, flushed and motionless, a new sense of the universal community of life reached her, was it her sorrow that died away in the flame of the sunshine? Her black gown turned to purple in the light. Suddenly she seemed to know that she was young, that she belonged to the world in which she was breathing, to now, not only to the past; that the present claimed her, that the past was past. "Come up this way. Come! come!' cries Jo, looking back, and in a sort of dream Susanna moved on, still followed by Du Parc. At their feet spreads Paris in its sober robe of white, with its thousand domes and roofs and spires, pale, shining and beautiful, delicately outlined and shaded; while the hills lie like a charm enclosing all, and the silver turns of the river are flowing on into the very heart of the great city, as though to wash away every shadow and stain from its stones. There are some things can scarcely be remembered, much less written down; among these is the quality of moments which come to us now and again, the complexity and multiplication of happiness and beauty which can give these life. "And what about dinner?' says Mr. Bagginal. How does one get away from here?' "There should be a path somewhere through this wood,' says Max, looking about him. He found the way presently, along the shade and the sunshine under the trees, past a sunny glen where some milk-white goats, like creatures out of an idyll, were disporting themselves. Pan was perhaps hidden among the bushes or Acteon was sleeping among the ivy. The little wood led down hill to iron gates. ー345


ダイモンド夫人
 339 第 22 章 
嵐の前のセントクラウド 
ヘスペリアの庭園の真ん中、その岸辺は、蜜と天国の歌で濡れ、永遠のバラとヒヤシンスが育ち、黄金の皮の果実が美しい木に、うろこのある収穫のドラゴンがいつも魔法をかけられずに目を留めている。-コマス。「お母さんが一緒に来てくれたらよかったのに」とスージーが言った。ちょうど公共の場と兵舎とテラスがすべて出会うセントクラウドの船着場に蒸気船が停まったとき。スレート屋根と欄干の向こうには、美しい空中庭園の房状の緑とライラック、銀と金、そして宮殿の白い壁と窓がそびえ立っていた。旗がはためいていた。皇帝、皇后、若き皇太子、そして従者たちといった宮廷の人々がそこにいたからである。そして彼らが上陸すると、兵士たちが、きらびやかな斥候を乗せて通り過ぎる、何台かのおしゃれなオープンカーに武器を捧げていた。馬具がひらめき、羽飾りが揺れ、武器がカチカチと鳴っていた。それは美しく、華やかな光景だった。
 「まず食事をしましょうか、それともまずは歩きましょうか」とバギナル氏が陽気に言った。「デュ・パルクさん、あなたの方が私よりもこの場所をよくご存じですから」 
デュ・パルクはためらった。 「もしこのお嬢さんたちが長い散歩を怖がらないなら」とデュ・パルクは言った。森を抜けてセーヴルまでぶらぶら歩いて帰ろう。それから、君が今見ていたあの小さなレストランを夕食にお勧めしよう」と彼はスザンナ本人に言い終えながら言った。スージーはすぐに同意した。彼女は子供っぽい気分で、子供のように振舞っている、とテンピーは厳しく思ったが、ボルソバー夫人の心境と少し似ている。ジョーはスザンナをじっと見た。彼も彼女のことを知らなかった。彼も、彼女が昔の落ち着いた様子の時が一番好きだったが、彼女が幸せそうにしているのを見てうれしかった。船には村のナイトキャップをかぶったかわいらしい女の子が乗っていた。小さなプレージーと同じくらいの年頃で、汽船が動き出すと、スージーはその子の面倒を見ながら、母親らしい自然な心配りで自分のことを考えていた。それから振り返ると、いつものようにマックスがそばで待っていて、去っていく子供を見たときと同じ表情で彼女を見ているのに気づいた。 「あの子のスケッチを描いておけばよかった」と彼は驚きに少し困惑しながら言った。
「女性が信心深いのも無理はない」と彼は付け加えた。「自分のかわいい赤ちゃんを崇拝しているのだから。あなたにとって難しいのは、信じることではなく、自分の信念を理性的に保っておくことだと思いますよ」それからマックスは再び歩き出して他の人たちと合流した。スージーは気づかなかったが、テンピーと彼女の弟が上の斜面で待っている間に、やや陰気な表情を交わしているのをマックスは見ていたからだ。それは太陽の光、ライラック、菩提樹の一般的な休日で、あらゆる斜面やテラスにはまばゆいばかりの花が咲いていた。急斜面は色彩にあふれ、錬鉄の手すりには花輪がかけられ、ツタやキバナノキ、そして可憐な花の茂みが柵の間から伸びていた。聖霊降臨祭が、見事な勢いでやって来た。美と太陽の輝きを愛するフランス人たちは皆、突然の幸福の洪水に浸っていた。広い中庭の門のところに、半ば後悔し、半ば笑っている顔をした少女が立っていた。彼女は、垂れ下がったライラックとメイブロッサムの枝を盗んだのだが、制服と金属ボタンを身に着けた、この地上の楽園の守護天使である老兵の一人に、厳しく責任を問われたのだった。少女はボタンにひるむことなく、陽気で懇願するような目で見上げていた。百戦錬磨の勇敢な老兵は、縞模様と金の編み紐にもかかわらず、今や苦戦しているようだった。渦巻き模様の鉄の柵とツタのつるで縁取られた二つ目のテラスのすぐ上には、やはり春の戦利品を手に入れた少女たちの不安げな聴衆がいて、自分たちが逃げられる見込みはあるのかと悩んでいた。「彼女は彼を倒すだろう」とバギナル氏は笑いながら言った。 「ほら、彼は譲歩している」マックスはイライラしながら肩をすくめた。「どうしてそんなに怒っているの?」とスージーが言った。

「彼女は当然の権利を、おごりとして受け取るだろう」とマックスが言った。「それが学校で教えられる道徳だ」。「でも、もし他のみんながすべてを摘む当然の権利を持っていると思っているなら、あなたと私には折れた茎しか残らないだろう」とバギナル氏はいつもの口調で言った。「君はどうか知らないが」とマックスは笑いながら言った。「私自身はずっと前から折れた茎にしようと決めている」そう言うと、摘んだライラックの小枝をテラスの柵に投げつけた。
 「カロン氏がここにいるはずだ」とジョーが言った。「昨晩スタジオで彼が言っていたのは、物質を平等に細分化するのは馬鹿げている、すべての贈り物は精神的なものでなければならない、そして無限に分割できるべきだ、というのは何だったんだ?」
 「カロンでさえ、物質と精神の違いは説明できないと思うよ」マックスは肩をすくめて言った。
342

彼は確かに教えを実践していないが、パトロンが言いたかったのは、魚を一匹与えると、その人は一時間後にはまたお腹が空くということだろう。魚の捕まえ方を教えれば、その人に恩恵を与えることになる。しかし、こうした非常に基本的な原則は、教養ある階級の余暇と衝突しがちだ。バギナル氏は、好意と精神的な楽しみの不当な分割の結果である切符を、さあお出しいただけますか?」とデュ・パルクは微笑みながら言った。バギナル氏はマックスをしばらく見つめた。マックスも見つめ返した。デュ・パルクは静かで自信に満ちた態度だったが、それがいつも人々を安心させるわけではない。バギナル氏の命令が通され、ベテランたちは門の鍵を開け、これらの放浪者たちを、より深く、より甘美な空き地と美へと招き入れた。彼らは並木道を回り込み、堂々とした緑のアーケードを通り過ぎ、花を咲かせた栗の木の下を歩き、ツタに覆われたテラスから次のテラスへと登り、石段から石段へ、並木道からまた並木道へと、輝かしい春を通り抜けて、さらにさらに緑豊かな場所へと進んでいった。頭上ではヒバリが歌い、ナイチンゲールやツグミが端から端まで、とても甘く、とても大きく、とても柔らかな音で応えていたので、この人たちは皆、一斉に話を止めて、その甘くしつこいメロディーに耳を傾けた。しばらくして、彼らは自分が、春にキラキラと光る湖のある開けた場所に出ていることに気づいた。「この近くのどこかにテラスがあるよ」とバギナル氏が言った。そこへの道を知っている人はいるか?」そこでデュ・パレは、手に花を持った女性たちに尋ねに行った。女性たちは微笑みながら、道を指差していた。「ここからはパリの素晴らしいパノラマが眺められるわ」とテンピーは息を切らしながら言い、テラスの階段を上り、バギナル氏に大きな心のこもった声で話した。「スケッチをしたいけれど、スケッチは得意じゃないの!ジョーならできるわ。あなたはできないの、ジョー?」 「アンヴァリッドのドームの上で私が逆立ちするのを見たいですか?」とジョーは重々しく言った。「どういうことですか、この愚かな少年?」とテンピーは言った。「あなたのスケッチは美しいですね、そう思いませんか、ムッシュ・デュ・パルク?」しかしマックスは答えなかった。まだ他の人たちのもとにたどり着いておらず、ダイモンド夫人のそばの石造りの欄干の下端に寄りかかって、素晴らしい丘の輪を眺めていた。スージーは一瞬立ち止まった。彼女は、このような幸福があり得ることをほとんど忘れていた。このような瞬間、このような春の潮。空気全体が素晴らしい香りで満たされ、木々の枝さえも歌い、空中に香を放っているようだった。ダイモンド夫人が顔を赤らめて動かずに立っていると、生命の普遍的な共同体という新しい感覚が彼女に伝わった。太陽の光の炎の中で消え去ったのは彼女の悲しみだったのだろうか?彼女の黒いガウンは光の中で紫色に変わった。突然彼女は、自分が若いこと、自分が呼吸している世界、過去だけでなく今に属していること、現在が彼女を支配していること、過去は過ぎ去ったことを知ったようだった。「こっちへ来なさい。さあ!さあ!」ジョーは振り返りながら叫ぶ。夢のような気分でスザンナは進み、デュ・パルクもそれに続いた。彼らの足元には、パリの地味な白のローブが広がっている。何千ものドームや屋根や尖塔が、淡く、輝いて美しく、繊細な輪郭と陰影を帯びている。丘は魔法のようにすべてを包み込み、銀色の川の流れは、まるで石からすべての影と汚れを洗い流すかのように、大都市の中心部へと流れ込んでいる。思い出すことも、ましてや書き留めることもほとんどできないものがある。その中には、時折訪れる瞬間の質、それらに命を与える幸福と美の複雑さと増殖がある。「夕食はどうするんだ」とバギナル氏が言う。ここからどうやって逃げるんだい」「この森のどこかに道があるはずだ」とマックスはあたりを見回しながら言う。彼はやがて道を見つけた。木陰と日差しに沿って、牧歌的な風景から抜け出たような乳白色のヤギたちがいる日当たりの良い谷を通り過ぎた。みんなは遊んでいた。パンは茂みの中に隠れていたかもしれないし、アクテオンはツタの間に眠っていたかもしれない。小さな森は丘を下って鉄の門へと続いていた。
ー345





Maimonides's 4 Brilliant Quotes for Intellectual Enlightenment #quotes #... https://youtube.com/shorts/KQtHYDcFCkQ?si=SnwHYol_DrFk2DAs @YouTubeより






☆☆☆
終章…

 モーセはそれから五年間、以前からの構想期間も加えると、およそ十年を費やしてユダヤ法典の編纂に集中した。 『第二トーラー』と名づけられたヘブライ語の書物が世に出たのは、モーセが四十歳の時である。全十四巻になる壮大な書は、時のユダヤ社会に驚嘆と賞賛をもって迎えられた。  モーセはタルムードにおさめられているすべての事例を検証しなおし、矛盾する解釈は自らの判断で統一し、独自の区分で主題別に分類して、整然とした法典に組み上げた。たとえるなら、何百年分もの先人の知恵が無尽蔵に張り巡らされた書物の迷宮に、たった一人で踏み入り、すべての本に目を通して目録をつけ、項目ごとに再構築して、検索システムを作りあげたようなものだった。  鬱蒼とした樹海は、大地から天に向かってそびえ立つ、巨大な宇宙樹に姿を変えた。  この書物があれば、誰もが知りたい箇所に自力でたどり着ける。もし、ラビの判決が間違っていたら、誰でもその誤りを指摘できるようになる。いまやタルムードは、一部のラビや学者だけの占有物ではなく、すべての人が手にし、日常の中で使える道具として、人生を導く羅針盤に変わろうとしていた。それこそ、モーセが願っていたことだった。  だが、伝統的なラビたちは、黙っているわけにはいかなかった。『第二トーラー』だと? まさに、律法に次ぐ聖典だと言わんばかりの書名ではないか。過去何百年も受け継いできたタルムードが不要になるとでも言いたいのか? 批判したのは律法学院の学院長や、伝統的な権威を守ろうとするラビたちだった。この書を万人が手にすれば、自分たちのありがたみが薄れてしまう、というのが本音だったかもしれない。  しかもモーセは、今までの──いや、今日の学者でも、まずしないはずのことをした。あらゆる出典を省略したのである。この言葉はタルムードのどの篇のどの項に載っており、その発言をしたのはどこの誰で、それに関する議論は……等々、典拠や伝承の系譜をすべて省いた。それは、学者には必要かもしれないが、一般の人々にとっては難解で煩わしい。法の内容そのものではなく、発言したラビの権威によって、正しいか否か判断されるのは愚かしいことでもある。必要なのは明晰な最終決定だけである、というのがモーセの姿勢だった。


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