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(4)哲学的理解(第1部68章-88章)
68章と69章には、哲学者の描く神が記述されている。彼は68章で、哲学者の描く神とは、「知性 (al-'aql) であり、知性的に認識するもの[主体](al-'āqil) であり、さらに知性的に認識されるもの[客体] (al-ma'qūl)であって、それら三つの様相が、多性のない一つの意味を持つ」と述べている。この記述に関して、彼は次のように解説する。神は一であり、一切付加され得るものではなく、また、神の命は神の本質そのものであるために、生ける神によってとは言われても、神の命によってとは言われない。人は可能態として知性的に認識する主体であるが、可能であることと現実にそうであることとは同じではなく、他方、知性と形相の関係において、形相とは現実化した知性であるため、知性と知性的に認識された形相は別個のものではない。なぜなら、現実化した知性とは、知性的に認識されたもので、知性の働きはその本質と同一で、知性の本質とは理解のことだからである。
次の69章で、彼は、哲学者が神を第一原因と呼ぶ点について論じている。彼らが神を第一原因、もしくは不動の動者と呼ぶのは、すべての事物には原因、すなわち、アリストテレスが言うところの質料、形相、始動因、目的因の四原因が存しているからであるが、神は始動因であり、形相であり、かつ目的でもあると考えられることから、始動因、形相、目的因は同一のものとして捉えられると、彼は指摘している。
68~69頁
サッカレーの娘と格言とマイモニデス
Maimonides's 4 Brilliant Quotes for Intellectual Enlightenment #quotes #... https://youtube.com/shorts/KQtHYDcFCkQ?si=SnwHYol_DrFk2DAs @YouTubeより
スピノザ
神学政治論
第七章
…
[二十]マイモニデスにはこれとまったく違った見解があった。彼の考えるところでは、たしかに聖書はそれぞれの箇所で違う意味、時には反対の意味すら持ちうるし、わたしたちはそうした箇所の真意について確信を得られないように見える。しかしそれはわたしたちが解釈の仕方を知らないからであり、こちらの解釈次第では、そこには理性にそぐわないことや反することは何一つ含まれなくなるはずだという。つまり、もし文字通りの意味に取れば理性に反すると分かったら、いくら文字通りの意味が明らかであっても、その箇所を違う意味に解釈すべきだとマイモニデスは主張するのである。このことは『迷えるものの導き』第二部二十五章でもはっきりと述べられている。マイモニデスの言い分はこうだ。
「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。 わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」
31 『迷えるものの導き』は元々アラビア語で書かれた著作だが、既にマイモニデスの存命中(十三世紀初頭)にイブン・ティボン(Samuel ibn Tibbon:一一六〇~一二三〇)という人物の手で最初のヘブライ語訳が作られている(『迷えるものの導き(モレー・ネヴヒム)』という西欧で知られた呼び名も、このヘブライ語訳に付けられた題名に由来する)。スピノザはこのイブン・ティボンのヘブライ語訳を所持していた。原文ではラテン語訳文とイブン・ティボンのヘブライ語訳文が併記されており、ラテン語訳文中の( )の語句はスピノザが付加した説明である。
32 マイモニデスの引用からここまでの文章は、議論が凝縮されていて非常に分かりにくい。多少の意訳では対応しきれないため、訳者の解釈に従い、随所で文意を補っておく。
33 いずれも本章九節の話題の続きである。
以上がマイモニデスの言葉である(31)。わたしが先ほど述べたことは、以上の言葉から明らかに帰結する。つまり、もしマイモニデスにとって、世界が永遠であることが理性的に見て明らかだったなら、彼は間違いなく聖書を曲げて説明し、結局はこのことを聖書も説いているかのように見せようとしただろう。それだけではない。たとえ聖書が至る所で明白に反対のことを主張していても、彼は直ちに、聖書は[本当は]世界が永遠であることを説こうとしていたのだと確信したことだろう。ということは、マイモニデスはたとえ聖書の真意が[文字通りには]明白な場合でも、それが真理にかなっているかどうか疑わしい限りは、あるいは真理にかなっていることが彼自身[の理性]にとって明白でない限りは、その真意を確信できないことになる。つまり[聖書に説かれている]ものごとが真理にかなっているかどうか不確かな限りは、わたしたちはそれが理性にかなっているか反しているか分からず、したがってまた、文字通りの意味が本当か間違いかも分からないことになる。
仮にこうした主張が当たっていたら、わたしは否応なく、わたしたちが聖書を解釈するには自然の光とは別の何かが必要だと認めざるをえなかったろう。聖書各巻に見られるほとんどすべてのことは、(既に示したように)自然の光によって知られる原則からは導き出せないからである。その場合、自然の光ではそれらが真理を語っているかどうか見極められないのだから、わたしたちは聖書の真意や考えについても分からないし、分かろうとすれば当然別の光を必要とすることになったろう。さらに、もしこの主張が当たっていたら、ふつうは[自然の光による]証明など解さない、というか証明などに関わっていられない民衆は、聖書の内容については哲学者たちの示す権威や証言を丸呑みすることしかできないはずだ。だとすると彼らは、哲学者たちが聖書解釈を絶対に誤らないと決めてかかることを迫られる。しかしこれは哲学者たちを新しい教権、新しい司祭あるいは新しい法王とするようなものであり、民衆には敬われるよりも笑い飛ばされるのが関の山だろう。
わたしたちの方法でも、ヘブライ語の知識は必須である。そして[今の]民衆は、やはりヘブライ語の習得などに関わってはいられない。しかしだからといって、今述べたのと同じような反論がわたしたちに向けられることはありえない。というのも、かつて預言者や使徒たちも民衆に向けて教えを説いたりものを書いたりしたわけだが、当時のユダヤ人その他の民衆は預言者や使徒たちの言語が分かっていたし、またこの言語によって預言者たちの考えをつかんでいたからである。もちろん当時の民衆にも、預言者たちがそうしたことを説いた[合理的な]根拠まで分かっていたわけではない。ところがマイモニデスの主張によれば、預言者たちの考えをつかむにはそのような根拠まで知らなければならないというのである。 このように、民衆が解釈者[=哲学者]たちの言いなりで満足するしかないという[先ほどの]結論は、わたしたちの方法からは必ずしも導かれない。わたしがここで念頭に置く民衆とは、預言者や使徒たちの言語を知っていた民衆のことだからだ。これに対し[そのような結論を回避しようとするなら]、マイモニデスは[単にヘブライ語を知っているだけでなく]ものごとの原因を理解でき、またものごとの真意をその原因にさかのぼって特定できるような民衆を[想定しなければならないはずだが、明らかにそのような民衆を]想定していない。
また、たとえ今の[=ヘブライ語を知らない]民衆に話を移しても、わたしたちの方法の優位は動かない。わたしたちが既に示したように、救いを得るために必要な教えは、たとえその[合理的な]根拠までは分からなくても、どのような言語でも簡単に理解できることばかりだからだ。それらはそれほどまでに、誰にでも共通する当たり前のことなのである。だから今の民衆も、[ヘブライ語を知らないからといって]解釈者たちの言いなりで我慢しなくてよいことになる。彼らはむしろ、[聖書の説く教えを]自ら理解することによって安心できるのである。そしてその他の点については、学がある人もない人も、置かれた境遇に大差はない(32)のだ。
[二十一]しかしマイモニデスの主張に立ち返って、さらに詳しく検討してみよう。まずこの主張では、預言者たちは何事についても意見が一致していて、しかも全員が哲学者であり神学者であったと想定されている。預言者たちは真理に基づいて結論を引き出したことにされているからだ。しかしこれが誤りであることは既に第二章で示しておいた。 さらにこの主張では、聖書の意味を聖書そのものによって確定することが不可能だと想定されている。真理が聖書によって確定されることはないからだ(そもそも聖書は何一つ証明していないし、何を語るにせよそれを基本原則や第一原因にさかのぼって説くことはないのだから)。したがってマイモニデスの主張によると、聖書の真意を聖書そのものによって確定することも、聖書そのものから得ようとすることもできなくなる。しかしこれも誤りであることは、本章で明らかにした通りである。既に理論と実例のどちらでも示したように、聖書の意味は当の聖書だけによって確定できるし、聖書だけから得ることができる。これは聖書が自然の光によって知られることを語っている箇所でも変わらない。 さらにこの主張では、わたしたちはあらかじめ持っている考えに合わせて聖書の言葉を説明し、ねじ曲げ、いくら文字通りの意味が明らかではっきりしていても否定し、別のどのような意味に読み変えても構わないと想定されている。既にこのこと自体、わたしたちが本章その他で論証してきたことに真っ向から矛盾しているのだが、それをひとまず問わないとしても、このようなお墨付きを与えるのがやり過ぎであり無謀であることは誰の目にも明らかだろう。ここまでやりたい放題を認めておいて、一体どういう成果が得られるだろうか。間違いなく、得られるものは何一つない。聖書の大部分はそもそも論証のしようがないものごとで占められていて、それらを今述べたような仕方で探究することなど不可能だし、またこれらに今述べたような基準に従って説明や解釈を付けることも不可能なのだ。一方わたしたちの方法に従うなら、こうした類のことを数多く解明できるし、[たとえ最終的な解明が難しい場合でも]手堅く論じることができる。このことは既に、理論と実例に即して示しておいた。また、これも既に示したように、その本来的な性質からして分かりやすい事柄ならば、その意味は文章の前後関係からだけでも簡単に読み取れる。 そういうわけで、この[マイモニデスの]方法には何の利点もない。しかもこの方法は、民衆がまじめに聖書を読みさえすれば得られるような確信であれ、また誰もがもう一つの[つまりわたしたちの]方法に従えば得られるような確信であれ、およそ聖書の真意についてのありとあらゆる確信をひとびとから残らず取り上げてしまう。だからこそ、このマイモニデスの主張は有害無益で馬鹿げており、わたしたちはこれを受け入れるわけにはいかないのである。 [二十二]さらにパリサイ人たちの伝統についていえば、既に述べたように、これには筋が通っていない。また[歴代の]ローマ法王たちの権威なるものは、[信用するには]もっとはっきりした証拠が必要である(33)。まさしくこの理由から、わたしは法王の権威を認めない。実際、もし法王たちが彼らの権威を、かつてユダヤ人の大祭司たちがそうしたのと同じくらい確かに、聖書そのものに基づいて示すことができたならば、たとえ彼らの中に異端者や不届き者がいてもわたしは動じなかったろう。かつてヘブライ人の大祭司たちの中にも、異端者や不届き者はいたからである。彼らはいかがわしい手口で大祭司の地位に就いたけれども、それにもかかわらず、法を解釈する至高の権力が彼らの下にあることは聖書の指図から明らかだった。これは『申命記』第十七章十一~十二節や第三十三章十節や『マラキ書』第二章八節を参照してほしい。ところがローマ法王たちはそのような証拠を示してくれないのだから、わたしたちにとって彼らの権威はきわめて疑わしいものでしかない。 ヘブライ人の大祭司の例に惑わされて、普遍的宗教[としてのキリスト教]にも法王が必要だと思い込む人が出ないように、ここで注意しておくべきことがある。そもそもモーセの律法は[ユダヤ人の]国の公の法だった。だからこそ、これを守るためには必然的に、何らかの公の権威が求められたのである。もし誰もが好き勝手に公の法を解釈する自由を持っていたら、どんな国でも存続できず、むしろこれによって直ちに解体されてしまうからだ。その時には公の法は[ひとそれぞれの]私の法となってしまう。 ところが宗教は事情がまったく違う。宗教で重要なのは外的な行いよりもむしろ純朴で誠実な心を持つことなのだから、宗教はどのような公の法にも権威にも支配されない。どんなに法で命じても、どんな公の権威を立てても、ひとびとの心に純朴さや誠実さを注ぎ込むことはできないからだ。暴力や法律で強制されて幸福になれる人間はただの一人もいない。ひとが幸福になるために必要なものは、道徳をわきまえた親切な忠告であり、よい教育であり、そして何よりもまず、自分自身の自由な判断なのである。 こういうわけで、ひとはそれぞれ、ものごと(これには宗教のことも含まれる)を自由に考える至高の権利を持っている。そしてこの権利を放棄できる人がいるなどとは到底考えられない。ということは、宗教について自由に判断する至高の権利や権威も、ひいては宗教を自分に納得のいくように説明し解釈する権利や権威も、やはり各人が持っているのである。法を解釈する至高の権威や、公のものごとについての最終的な判断が政府に委ねられるのは、これらが公の法の一部だからに他ならない。これと同じ理由から、宗教上のことを説明したり判断したりする至高の権威は、ひとそれぞれに委ねられる。それはつまり、これが各人の権利の一部だからである。したがって、ヘブライ人の大祭司に国の法を解釈する権威があったからといって、ローマ法王に[キリスト教という]宗教を解釈する権威があると結論するのは全くの筋違いというものだろう。そのような前提でいくと、むしろ反対に、宗教の解釈権はもっぱらひとそれぞれに委ねられていると結論する方が無理がないからである。 ここからも、わたしたちの方法こそ聖書解釈の最善の方法であることが分かる。もし聖書解釈の至高の権威が各人に委ねられるなら、その解釈の基準は超自然の光でも外部の権威でもなく、誰にでも共通の自然の光によるしかないからだ。またその基準は、最高に頭の切れる哲学者でないと扱いきれないほど難しいものではなく、ひとびとの誰もが当然持っているはずの気質や能力に見合ったものでなければならない。既に示した通り、そうした基準にはわたしたちの方法こそがふさわしい。わたしたちの方法も現在いくつかの困難を抱えているが、それらは既に見たように[過去の]ひとびとの怠慢に由来するものであり、方法そのものの性質に由来するものではないからである。
第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について [一]哲学と神学を切り離して考えられない人たちは、よく言い争っている。聖書が理性に奉仕するべきか、それとも反対に理性が聖書に奉仕するべきか、つまり聖書の主張を理性に従わせるべきか、それとも理性を聖書に従わせるべきか、というのである。そして理性の確かさを認めない懐疑論者たちは後者に味方し、[理性を万能視する]独断論者たちは前者に味方する。しかし既に述べてきたことから明らかなように、どちらの側も完全に誤っている。どちらの考えに従っても、理性か聖書のどちらかを必ず台無しにしてしまうからである。 これまで示してきたように、聖書は哲学的な事柄ではなく、ただ道徳心だけを教えている。聖書に含まれるすべての内容は、民衆の理解力や先入見に合わせられていたのである。だから聖書を理性に従わせようとすれば、その人は間違いなく預言者たちに、彼らが夢にも考えていなかったようなことを大量に背負い込ませて、彼らの言いたかったことを誤って理解することになるだろう。反対に理性や哲学を神学の下働きにしようとすれば、その人は昔の民衆の偏見にすぎないことを神聖な事柄として認めるよう求められ、偏見に心を奪われ目をくらまされてしまうだろう。ということは、どちらにしても正気を失うことになる。後者は理性なしに狂い、前者は理性とともに狂うのである。 [二]パリサイ人たちの中で、聖書を理性に従わせるべきだとはっきり唱えた最初の人物はマイモニデスだった(この人の主張は第七章で取り上げ、たくさんの論拠を挙げて反論しておいた)。マイモニデスという著作家は、たしかにパリサイ人たちの間では大きな権威を持っている。ところが彼らの大部分は、この問題に関してはマイモニデスに従わず、むしろイェフダ・アルパカル(1)とかいう律法学者の主張に従った。こちらはマイモニデスの陥った誤りを避けようとして、それと正反対の誤りに陥った人物である。つまりこの人は、理性こそ聖書に仕えるべきであり、徹底的にその支配下に置かれるべきだと主張したのだ(2)。したがって彼によると、聖書の中のどの箇所も、文字通りに理解すれば理性に反するというだけの理由で比喩的に説明してはならないという。比喩的な説明が許されるのは、ただ聖書そのものに反する箇所、つまり聖書のはっきり説いている信仰箇条に反する箇所に限られるというのである。
マイモニデス2
CHAPTER XXV We do not reject the Eternity of the Universe, because certain passages in Scripture confirm the Creation; for such passages are not more numerous than those in which God is represented as a corporeal being; nor is it impossible or difficult to find for them a suitable interpretation. We might have explained them in the same manner as we did in respect to the Incorporeality of God. We should perhaps have had an easier task in showing that the Scriptural passages referred to are in harmony with the theory of the Eternity of the Universe if we accepted the latter, than we had in explaining the anthropomorphisms in the Bible when we rejected the idea that God is corporeal. For two reasons, however, we have not done so, and have not accepted the Eternity of the Universe. First, the Incorporeality of God has been demonstrated by proof; those passages in the Bible, which in their literal sense contain statements that can be refuted by proof, must and can be interpreted otherwise. But the Eternity of the Universe has not been proved; a mere argument in favour of a certain theory is not sufficient reason for rejecting the literal meaning of a Biblical text, and explaining it figuratively, when the opposite theory can be supported by an equally good argument. Secondly, our belief in the Incorporeality of God is not contrary to any of the fundamental principles of our religion; it is not contrary to the words of any prophet. Only ignorant people believe that it is contrary to the teaching of Scripture; but we have shown that this is not the case; on the contrary, Scripture teaches the Incorporeality of God. If we were to accept the Eternity of the Universe as taught by Aristotle, that everything in the Universe is the result of fixed laws, that Nature does not change, and that there is nothing supernatural, we should necessarily be in opposition to the foundation of our religion, we should disbelieve all miracles and signs, and certainly reject all hopes and fears derived from Scripture, unless the miracles are also explained figuratively. The Allegorists amongst the Mohammedans have done this, and have thereby arrived at absurd conclusions. If, however, we accepted the Eternity of the Universe in accordance with the second of the theories which we have expounded above (ch. xxiii.), and assumed, with Plato, that the heavens are likewise transient, we should not be in opposition to the fundamental principles of our religion; this theory would not imply the rejection of miracles, but, on the contrary, would admit them as possible. The Scriptural text might have been explained accordingly, and many expressions might have been found in the Bible and in other writings that would confirm and support this theory. But there is no necessity for this expedient, so long as the theory has not been proved. As there is no proof sufficient to convince us, this theory need not be taken into consideration, nor the other one; we take the text of the Bible literally, and say that it teaches us a truth which we cannot prove; and the miracles are evidence for the correctness of our view. Accepting the Creation, we find that miracles are possible, that Revelation is possible, and that every difficulty in this question is removed. We might be asked, Why has God inspired a certain person and not another? why has He revealed the Law to one particular nation, and at one particular time? why has He commanded this, and forbidden that? why has He shown through a prophet certain particular miracles? what is the object of these laws? and why has He not made the commandments and the prohibitions part of our nature, if it was His object that we should live in accordance with them? We answer to all these questions: He willed it so; or, His wisdom decided so. Just as He created the world according to His will, at a certain time, in a certain form, and as we do not understand why His will or His wisdom decided upon that peculiar form, and upon that peculiar time, so we do not know why His will or wisdom determined any of the things mentioned in the preceding questions. But if we assume that the Universe has the present form as the result of fixed laws, there is occasion for the above questions; and these could only be answered in an objectionable way, implying denial and rejection of the Biblical texts, the correctness of which no intelligent person doubts. Owing to the absence of all proof, we reject the theory of the Eternity of the Universe; and it is for this very reason that the noblest minds spent and will spend their days in research. For if the Creation had been demonstrated by proof, even if only according to the Platonic hypothesis, all arguments of the philosophers against us would be of no avail. If, on the other hand, Aristotle had a proof for his theory, the whole teaching of Scripture would be rejected, and we should be forced to other opinions. I have thus shown that all depends on this question. Note it. CHAPTER XXVI
「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。 わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」
第 25 章 我々は、聖書のある箇所が創造を確証しているからといって、宇宙の永遠性を否定するのではない。なぜなら、そのような箇所は、神が肉体を持った存在として表現されている箇所より多くはなく、また、それらに適切な解釈を見つけることが不可能でも困難でもないからである。我々は、神の無形性に関して行ったのと同じ方法でそれらを説明できたかもしれない。我々が後者を受け入れたならば、言及された聖書の箇所が宇宙の永遠性の理論と調和していることを示すことは、神が肉体を持っているという考えを拒否したときに聖書の擬人化を説明することよりも容易だったであろう。しかし、2 つの理由から、我々はそうせず、宇宙の永遠性を受け入れなかった。第一に、神の無形性は証拠によって実証されている。文字通りの意味では証拠によって反駁できる記述を含む聖書の箇所は、別の方法で解釈しなければならないし、またそうすることができる。しかし、宇宙の永遠性は証明されていません。特定の理論を支持するだけの議論は、聖書のテキストの文字通りの意味を拒否し、比喩的に説明する十分な理由にはなりません。反対の理論が同様に優れた議論によって裏付けられる場合です。第二に、神の無形性に対する私たちの信念は、私たちの宗教のどの基本原則にも反していません。どの預言者の言葉にも反していません。無知な人々だけが、それが聖書の教えに反すると信じていますが、私たちはそうではないことを示しました。それどころか、聖書は神の無形性を教えています。もし、アリストテレスが説いた宇宙の永遠性、つまり宇宙のすべては不変の法則の結果であり、自然は変化せず、超自然的なものは何もないという理論を受け入れるなら、私たちは必然的に私たちの宗教の根幹に反することになるので、
すべての奇跡や兆候を信じず、聖書から得られるすべての希望や恐れを、奇跡が比喩的にも説明されていない限り、拒絶することになる。イスラム教徒の中の寓話主義者たちはこれを行い、それによって不合理な結論に達した。しかし、もし私たちが上で説明した理論の2番目(第23章)に従って宇宙の永遠性を受け入れ、プラトンと共に天も同様に儚いと仮定するなら、私たちは私たちの宗教の根本原理に反することはない。この理論は奇跡を拒絶することを意味するのではなく、逆に奇跡が起こり得ることを認めることになる。聖書のテキストはそれに応じて説明されたかもしれないし、聖書や他の文献の中にこの理論を確認し支持する多くの表現が見つかっているかもしれない。しかし、理論が証明されていない限り、この手段は必要ない。私たちを納得させるのに十分な証拠がないので、この理論を考慮する必要はない。あるいは、他のいずれでもない。我々は聖書の本文を文字通りに受け取り、聖書は証明できない真実を教えているのだと言う。そして奇跡は我々の見解の正しさの証拠だと言う。創造を受け入れると、奇跡は可能であり、啓示は可能であり、この問題のあらゆる困難は取り除かれることが分かる。我々はこう尋ねられるかもしれない。「なぜ神はある人に霊感を与え、別の人には与えなかったのか?なぜ神はある特定の国民に、ある特定の時期に律法を明らかにしたのか?なぜ神はこれを命じ、あれを禁じたのか?なぜ神は預言者を通して特定の奇跡を示したのか?これらの律法の目的は何なのか?そして、我々がそれらに従って生きることが神の目的であるなら、なぜ神は戒めや禁止事項を我々の性質の一部にしなかったのか?」我々はこれらの質問すべてにこう答える。「神がそのように望んだ、あるいは神の知恵がそう決めたのだ。」神がその意志に従って、ある時、ある形で世界を創造したのと同じように、神の意志や知恵がなぜその特別な形、その特別な時を決めたのか私たちにはわからないのと同じように、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決めたのかもわかりません。しかし、宇宙が固定された法則の結果として現在の形になっていると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、反論的な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証明によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、哲学者たちが私たちに対して主張するすべての議論は役に立たないからです。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章
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