坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 - シェイブテイル日記2http://shavetail2.hateblo.jp/entry/20140408
《坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 2014-04-08
世界の金融史上、デフレはどうやって脱却できたかはこのブログの大きなテーマのひとつです。 今回は明治維新前後に活躍した三岡八郎(由利公正)を取り上げたいと思います。…》★
原文
越行の記
十月廿八日福井ニ達ス奏者役
伴圭三郎来ル御書を相渡ス
直柔が役名を問ふ、海援隊惣
官を以てことふ
同夜
三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々
を言上仕り其うへ御論拝承仕度
およそ明白なる国論を海外迠も
不聞を恐るゝことニ御座候。扨此
度こそ私共も御国論拝承仕り度
心願在之候。村巳曰ク老主人出京
も来月二日ニ取定めたり、事
多端なれバ御目にかゝり不申。然ニ
前條御尋の如きハ拙者より
申上候。されバ老主人出京後彼
是手順もあるべけれども将軍
家政権を御帰しとなれバ将
軍職も共に御帰し不被成ては
とても御反正と申ても天下の人
心折合不申と国論こゝに
同廿九日
在之候云々、此夜奏者伴
圭三郎来り御答書を受
取ル
■丗日
朔日朝、三岡八郎及松平
源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
村巳に頼置しニ三八儀は
先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会
かたくさしとめられたり。故ニ政府の論儀ニより
君側中老役松平源をさしそへたり。
其故にや三八が来りし時、松平源を目
して、私しハ悪党故君側より番人が
参りました、といへバ
松平源も共に笑ふ 夫より近時京
師の勢前後不残談論ス
此談至り尽シタリ
深ク御案可被下 三八曰ク将軍家信
反
ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て
天下に示さゝる近年来幕
府失策のミ其末言葉を以
する事ハ天下の人皆不信さ
るなり云々是より金銭国用
の事を論ズ曽而春嶽侯
惣裁職たりし時三八自ラ幕
府勘定局の帳面をしらべしに
幕の金の内つらハ唯銀座
局斗りなりとて気の毒がり居
候御聞置可被成候惣じて金
銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人な
かるべし
十一月五日京師ニ帰ル福岡
参政に越老侯の御答書を渡ス
右大よふ申上候謹言
直柔
後藤先生
近日中根雪江は越老侯
の御供村田巳三郎ハ国本のこる家
老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝
http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20140412c01.html#cnum02
越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。
三十日(朔日を訂正)朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。
十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生
近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝
-
解説
慶応三年(一八六七)一〇月一五日に土佐藩の建白を基に、大政奉還が成立した。仕掛け人である龍馬と後藤象二郎は、その後の新政府のあり方を検討しており、その中で、越前福井藩の前藩主である松平春嶽の上京は必須と考えていた。本来土佐藩参政(実質、政治を司っている重役)である後藤本人が越前へ行くべきところだが、後藤は前土佐藩主・山内容堂に報告する必要があり、土佐へ帰るため、越前へは龍馬を代わりに派遣する。容堂と春嶽は親友で、幕府や日本の今後の展望に共通する考えを持っていた。また、薩摩・長州の武力倒幕論を押さえるためにも、容堂と春嶽の足並みを揃えた力が必要であった。そのため、龍馬と後藤はそれぞれに現状を説明しに行ったのだ。さらに、龍馬は以前から福井藩士三岡八郎(のちの由利公正)が財務に明るいことを知っており、新政府の財政担当として引き出すことを考えていた。
龍馬の越前行きは、同行する岡本健三郎という土佐藩役人に出した同年一〇月二四日付け龍馬書簡(現存)で確認できる。同日、後藤から預かった書簡を持って、越前へ岡本と共に出発する。龍馬が預かった書簡は、容堂が春嶽に宛てた書簡で、八月二五日に書かれたもの。大政奉還前、上京する後藤に、いずれ春嶽への面会が必要になると思って持たせていたもので、それを龍馬が持って行ったことになる。(『山内家史料 幕末維新 第七編』)
龍馬と岡本は、二八日に越前へ到着。越前での行動は、これまで龍馬や土佐藩側の記録が無く、福井藩の資料や、三岡の回顧録でのみ知ることができていた。しかし、最も詳しかった三岡の回顧録は、維新後時間を置いて語ったものだったので、正確かどうかは分からなかった。この文書は、三岡の談話を裏付けるもので、龍馬のリアルタイムの記述なので、大変価値が高い。
龍馬と岡本は、一一月三日に越前を離れ、五日に帰京したことは、土佐藩重役の神山郡廉の日記で確認できる。後藤は龍馬の帰京を待たず、一一月三日に京を離れ、六日に土佐へ帰り着いていた。
龍馬の越前行きは、後藤からの依頼であるため、後藤に対して復命の義務がある。また、春嶽と容堂の足並みを揃える意味からも報告の必要があった。そのため、本書簡は、後藤への復命書のようなもので、見え消しがあることや日付がないことから、草稿と考えられる。おそらく清書したものを土佐へ郵送したのだろうが、その文書は現在確認されていない。
原文、現代語訳、解説
『高知県立 坂本龍馬記念館』三浦夏樹主任学芸員
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
歴史的に大切なことが書かれている、坂本龍馬最後の手紙は、
大政奉還が終わったあと、龍馬は福井を訪ねていき、
今後の日本がどう進むべきか、お金が無い新政府をどうすべきかという部分を
相談していた内容になっていました。
宛先は土佐藩の重役、後藤象二郎へ「後藤先生」となっています。
世紀の大発見、その内容とは、
「越行の記」と書かれているその書簡は、慶応3年の10月末から11月初め、
大政奉還の直後、越前福井に八郎に会いに行く話です。
新しい日本を作ることに翻弄していた龍馬、薩長同盟が成立したキーマンだった。
その後土佐藩を動かし、朝廷に返上するよう幕府に働きかけた。
慶応3年10月14日、大政奉還。そのわずか10日後、龍馬は福井へ。
手紙はその内容が綴られていたのです。
—————————————-
十月二十八日福井に達す
役名を問ふ
我海援隊惣官を似てことふ
—————————————-
福井藩士に役名を問われた龍馬が、海援隊総官と名乗ったこととなります。
龍馬の使命は、土佐藩 山内容堂の手紙を、福井藩 松平春嶽に手渡すこと。
しかし、龍馬の思いはこれだけではない。新しい新政府の財政担当者を探すこと。
—————————————-
三十日朝 三岡八郎及び
立会人の者来る
—————————————-
この時に龍馬が会ったのは、三岡八郎だった。
福井藩で財政改革を成し遂げた人、どうしても新政府の財政を頼まないといけない。
「生生しい越前行の資料となります」
経済に詳しい三岡八郎が龍馬に言った言葉が、手紙に記されていました。
—————————————-
最近幕府は失策のみであり
その上無策である
このままでは人心の
不振を招くのみである
—————————————-
二人は新政府の財政に関して論じたようです。
最後に後藤象二郎にこう書いた。
—————————————-
金銀物産のことを
論じ候にはこれ三八を置いて
他に人なかるべし
—————————————-
新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。
日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、
倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、
龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」
NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。
日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、
倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、
龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」
取材中に龍馬直筆の手紙発見!はしゃぐ「突撃!アッとホーム」公式
龍馬直筆の手紙の草稿見つかる
幕末の志士、坂本龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣、後藤象二郎宛てに書いたとみられる手紙の草稿が東京都内の民家で保管されていたことが分かりました。
龍馬が新政府で重要な財政担当の適任者を選び出すいきさつが書かれていて、専門家は「全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ」と話しています。
これは、東京都内の男性が30年以上前に骨とう品売り場で購入したのを自宅で保管していたもので、NHKの番組の取材過程で見つかりました。
複数の専門家が鑑定したところ、筆跡や内容から坂本龍馬の直筆とみて間違いないと判断しました。
鑑定によりますと、龍馬が慶応3年、1867年の11月15日に京都で暗殺される1週間ほど前に土佐藩の重臣、後藤象二郎に送った手紙の草稿だということです。
この中で龍馬は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」の直後、新政府の財政担当の候補だった福井藩の藩士、三岡八郎に会いに行き、後藤にその結果を報告しています。
三岡八郎は、福井藩の財政再建で手腕を振るった人物で、後に由利公正と名を改め、五箇条の御誓文の起草者としても知られ、明治新政府では初期のころに金融や財政に携わりました。
手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれています。
そのうえで、龍馬は新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に進言しています。
「大政奉還」の直後に、龍馬が三岡と面会したという記録は残っていましたが、龍馬がそのいきさつを書いたとみられる手紙の草稿が見つかったのは初めてです。
鑑定者の1人、京都国立博物館の宮川禎一企画室長は「これまで全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ。新政府を作るにあたって、財政の重要性を理解していた龍馬の思想や考えを知るうえでも貴重な資料だ」と話しています。
手紙には生々しいやり取りも
今回発見された手紙の草稿は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」が成立したあとに、坂本龍馬が新政府の財政運営をどうするか、構想を練っていたことを裏付けるものとして、専門家が注目しています。
慶応3年10月15日(1868年11月10日)、土佐藩の建白書に基づき、大政奉還が実現すると、龍馬は土佐藩の重臣、後藤象二郎の命を受け、北陸の福井藩に向かいました。
新政府の財政担当者として、福井藩の財政再建で活躍した三岡八郎、後の由利公正と会うためです。
このとき、三岡は福井藩内部の対立に巻き込まれ、謹慎処分を受けていたので、面会するためには主君である福井藩主・松平春嶽の許しが必要でした。
龍馬は松平春嶽とは面識があり、三岡とも親しかったため、使者として選ばれ、急いで福井藩を訪れたのです。
手紙の草稿によりますと、龍馬は松平春嶽には面会することはできなかったものの、藩士の立ち会いのもと、三岡八郎と会うことができ、三岡が「私は悪党なので、番人が一緒に来ました」と冗談を言うと、立会人もそれを聞いて笑ったというエピソードが書かれています。
龍馬と三岡はその場で政治情勢について話し合ったということで、手紙には松平春嶽が江戸幕府の「政事総裁職」という要職にあったときに、部下の三岡が幕府の財政について帳面を基に調べたと書かれています。
三岡は藩札という紙幣を独自に発行するなどして福井藩の財政再建に腕を振るったことで知られていて、手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれています。
この手紙の草稿は、文面にある日付から龍馬が福井から京都に帰った11月5日以降に書かれたものとみられ、手紙の最後で、龍馬は新政府の財政を任せられる人材は三岡をおいてほかにはいないと、後藤象二郎に進言しています。
龍馬はその直後、11月15日に暗殺されましたが、三岡八郎は新政府最初の紙幣、「太政官札」の発行や、現在の国債に当たる「会計基立金(もとだてきん)」の募集などの財政政策に携わりました。
こうしたいきさつは、三岡の回顧談にも記されていますが、今回、会談の直後に龍馬がしたためた生々しいやり取りが初めて見つかり、今後の龍馬研究にも役立つと注目されています。
「龍馬の直筆」決め手は独特の筆跡
見つかった手紙の草稿が龍馬の直筆であると鑑定された決め手の1つとされたのが、龍馬独特の筆跡です。
例えば、京都国立博物館に所蔵されている龍馬が妻の「おりょう」に宛てた手紙の筆跡と比較すると、「後藤」、「此」などの文字の書き方の癖が一致しているということです。
また、書かれていた龍馬の実名「直柔」(なおなり)の署名も、龍馬が新政府の政治綱領を書き記した書、「新政府綱領八策」などに書かれた署名と一致しているということです。
また、龍馬は手紙を書く際、紙の上下にあまり余白を作らず、上から下まで使いきるように文字を書く癖があり、今回見つかったものもこの癖がよく現れていました。
さらに、書かれていた内容の具体性も判断の決め手とされました。
龍馬の手紙として発見されるものには偽物もありますが、こうした偽物は内容を「例の件」などとぼかし、ごく短い手紙の一部を装ったものが多いということです。
しかし、今回は龍馬と三岡八郎の具体的なやり取りが生々しくつづられ、偽造したものとは考えにくいということです。
龍馬に関する歴史資料の研究に詳しい京都国立博物館の宮川禎一企画室長は、「文字は第一印象で龍馬に間違いないと思いました。細部を比べても問題ありませんし、全体の印象から見ても龍馬の真筆であることは疑いようがないものです」と話しています。
この手紙の草稿は、NHKの番組の取材で明らかになったもので、詳しい過程はNHK総合テレビ、12日夜8時からの「突撃!アッとホーム」でお伝えします。
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幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。書簡の全文は以下の通り。
【封筒には龍馬の偽名が記されている】
<坂本龍馬 暗殺5日前の書簡見つかる>
一筆啓上仕候、此度越前老侯
御上京相被成候段 千万の兵を得たる
心中に御座候、先生ニも諸事
御尽力御察申上候、然るに先頃御直ニ
申上置キ三岡八郎兄の御上京
御出仕の一件ハ急を用する事に存候得ハ、
何卒早々御裁可あるへく奉願候、三岡
兄の御上京が一日先に相成候得ハ
新国家の御家計御成立が一日先に
相成候と奉存候、唯此所一向ニ御尽力
奉願候
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
中根先生
左右
追白 今日永井玄蕃頭方ニ罷出候得とも
御面会相不叶候、談したき天下の
議論数々在之候ニテ明日又罷出候所存ニ
御座候得ハ
大兄御同行相叶候ハヽ実ニ大幸の事ニ奉存候
再拝
(封紙)
越前御藩邸
中根雪江様 才谷楳太郎
御直披
(封紙に付いた朱書の付箋)
「坂本先生遭難直前之書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
2017 暗殺5日前、龍馬の手紙 「新国家」の文字、初確認:朝日新聞デジタル
暗殺5日前、龍馬の手紙 「新国家」の文字、初確認
https://www.asahi.com/sp/articles/ASK1C416WK1CPLPB003.html?ref=amp_login&_gl=1*z2jtny*_ga*YW1wLWRKVkZVbjdLSjJzZjRLVmtRRGQyZDBySUl3WXdiN2J1YXhJcG4taElnY2tqUkhLXzF6UTJlSzItaUtsdDR3ZXY.
坂本龍馬(1836~67)が暗殺される直前に書いた手紙が新たに見つかった。高知県などが13日発表した。福井藩の重役に旧知の藩士を新政府に出仕させるよう求め、一日先になれば「新国家の御家計(財政)御成立」が一日先になるとせかす内容。専門家は「『新国家』の言葉は龍馬のほかの手紙でも見たことがなく、最後まで新政府の樹立に専心したことがわかる重要な資料」と話す。
3月4日に開館する高知県立高知城歴史博物館(高知市)で展示する。県内の文化施設などが同日から始める観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」のPR会社「isana(イサナ)」(東京都中央区)が昨年8月、外部から購入。「全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙」などの著書がある京都国立博物館の宮川(みやかわ)禎一・上席研究員ら複数の研究者が、筆跡や内容から「真筆」と判断した。研究者の間でも存在は知られていなかったという。
手紙は縦16・3センチ、横92・5センチで、宛先は福井藩重役で京都滞在中だった中根雪江(1807~77)。藩内の政争で謹慎中だった藩士の三岡(みつおか)八郎(1829~1909、後に由利公正と改名)について、「(新政府への)出仕は急を要する。早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります」(現代語訳)と記している。日付は慶応3(1867)年の11月10日で、龍馬は5日後の15日に暗殺された。
三岡は藩の財政改革を進めた経…
20170113
坂本龍馬:「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/286000c?fm=mnm
写真特集へ
坂本龍馬
「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見
毎日新聞2017年1月13日 13時00分(最終更新 1月13日 20時25分)
高知県
新たに見つかった坂本龍馬の書簡。当時としては珍しい「新国家」という表現が使われている=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時34分、竹内紀臣撮影
幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、同藩士の新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】
【写真特集】新たに見つかった坂本龍馬の書状
<今回見つかった坂本龍馬の書簡全文>
福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願
書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。
大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。
三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。
龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。
書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。
考え色濃く
三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話 「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出て
坂本龍馬:暗殺5日前の書簡全文 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/288000c
関連ニュースはこちら
坂本龍馬
暗殺5日前の書簡全文
毎日新聞2017年1月13日 13時01分(最終更新 1月13日 13時53分)
新たに見つかった坂本龍馬の封書と書状=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時25分、竹内紀臣撮影
幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。書簡の全文は以下の通り。
一筆啓上仕候、
此度越前老侯
御上京相被成候段
千万の兵を得たる
心中に御座候、
先生ニも諸事
御尽力御察申上候、
然るに先頃御直ニ
申上置キ三岡
八郎兄の御上京
御出仕の一件ハ急を
用する事に存候得ハ、
何卒早々御裁可
あるへく奉願候、三岡
兄の御上京が一日
先に相成候得ハ
新国家の御家
計御成立が一日先に
相成候と奉存候、
唯此所一向ニ御尽力
奉願候
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
中根先生
左右
追白 今日永井玄蕃
頭方ニ罷出候得とも
御面会相不叶候、
談したき天下の
議論数々在之候ニテ
明日又罷出候所存ニ
御座候得ハ
大兄御同行相叶候ハヽ
実ニ大幸の事ニ奉存候
再拝
(封紙)
越前御藩邸
中根雪江様 才谷楳太郎
御直披
(封紙に付いた朱書の付箋)
「坂本先生遭難直前之
書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
。。。
全文 現代語風
一筆啓上差し上げる
このたび越前の老候(松平春嶽候)が
御上京なられたことは
千万の兵を得たような
心持でございます。
先生(中根雪江)にも諸事
ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら先頃直接
申し上げておきました三岡
八郎兄の御上京、
御出仕の一件は急を
要する事と思っておりますので、
何卒早々に(越前藩の)御裁可
が下りますよう願い奉ります。三岡
兄の御上京が一日
先になったならば
新国家の御家計(財政)の
御成立が一日先に
なってしまうと考えられます。
唯、ここの所にひたすらご尽力
をお願いいたします。
(まことに恐れながら謹んで言います)
十一月十日 龍馬
中根先生
左右
追白 今日永井玄藩
頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですが
御面会は叶いませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の
議論が数々在りますので
明日また訪ねたいと考えている
ところですので
大兄も御同行が叶いますならば
実に大幸に存じます。
再拝
(封紙)
越前御藩邸
中根雪江様 才谷楳太郎
御直披
(封紙に朱書付箋あり)
「坂本先生遭難直前之
書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
全文 現代語風
一筆啓上差し上げる このたび越前の老候(松平春嶽候)が 御上京なられたことは 千万の兵を得たような 心持でございます。 先生(中根雪江)にも諸事 ご尽力くださったこととお察し申し上げます。 しかしながら先頃直接 申し上げておきました三岡 八郎兄の御上京、 御出仕の一件は急を 要する事と思っておりますので、 何卒早々に(越前藩の)御裁可 が下りますよう願い奉ります。三岡 兄の御上京が一日 先になったならば 新国家の御家計(財政)の 御成立が一日先に なってしまうと考えられます。 唯、ここの所にひたすらご尽力 をお願いいたします。
(まことに恐れながら謹んで言います) 十一月十日 龍馬 中根先生 左右
追白
今日永井玄藩 頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですが 御面会は叶いませんでした。 (永井殿と)談じたい天下の 議論が数々在りますので 明日また訪ねたいと考えている ところですので 大兄も御同行が叶いますならば 実に大幸に存じます。
再拝 (封紙) 越前御藩邸 中根雪江様 才谷楳太郎 御直披
(封紙に朱書付箋あり) 「坂本先生遭難直前之 書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
坂本龍馬 「暗殺される5日前に書いた手紙」を京都国立博物館・宮川禎一上席研究員が解説
文中には、今まで発見された龍馬の手紙で初めて「新国家」という言葉が使われているほか、新政府を支える人材の人事に尽力していたことを示すものとなっている。坂本龍馬の研究を行っている京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は、「坂本龍馬の活動を示すものとして貴重であり、最後まで新政府樹立(新国家の建設)に専心していた様子をよく示すものである」と、その価値の重要性を説く。
この手紙は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。
縦16センチ、横93センチほどの細長い和紙に毛筆で字が記された新発見の手紙の全文と現代語風訳。読みは、佛教大学非常勤講師・高田祐介氏による。
[画像]
全文 現代語風
一筆啓上仕候 一筆啓上差し上げる
此度越前老候 このたび越前の老候(松平春嶽候)が
御上京相被成候段 御上京なられたことは
千万の兵を得たる 千万の兵を得たような
心中に御座候、 心持でございます。
先生ニも諸事 先生(中根雪江)にも諸事
御尽力御察申上候 ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
然るに先頃御直ニ しかしながら先頃直接
申上置キ三岡 申し上げておきました三岡
八郎兄の御上京 八郎兄の御上京、
御出仕の一件ハ急を 御出仕の一件は急を
用する事に存候得ハ 要する事と思っておりますので、
何卒早々御裁可 何卒早々に(越前藩の)御裁可
あるべく奉願候、三岡 が下りますよう願い奉ります。三岡
兄の御上京が一日 兄の御上京が一日
先に相成り候得ハ 先になったならば
新国家の御家 新国家の御家計(財政)の
計御成立が一日先に 御成立が一日先に
相成候と奉存候、 なってしまうと考えられます。
唯此所一向ニ御尽力 唯、ここの所にひたすらご尽力
奉願候 をお願いいたします。
誠恐謹言 (まことに恐れながら謹んで言います)
十一月十日 龍馬
中根先生 中根先生
左右 左右
追白 今日永井玄藩 追白 今日永井玄藩
頭方ニ罷出候得とも 頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですが
御面会相不叶候、 御面会は叶いませんでした。
談したき天下の (永井殿と)談じたい天下の
議論数々在之候ニテ 議論が数々在りますので
明日又罷出候所存ニ 明日また訪ねたいと考えている
御座候得ハ ところですので
大兄御同行相叶候ハゝ 大兄も御同行が叶いますならば
実二大幸の事ニ奉存候 実に大幸に存じます。
再拝 再拝
(封紙)
越前御藩邸
中根雪江様 才谷楳太郎
御直披
(封紙に朱書付箋あり)
「坂本先生遭難直前之
書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
【京都国立博物館 学芸部 上席研究員 宮川禎一 手紙のポイント】
1.今回の書状真筆と鑑定したポイント
・書状の内容が、龍馬の前後の活動に照らし合わせて整合性が認められる。
・書状の文字が、これまでの龍馬直筆の書状と照らし合わせた結果、龍馬のものと判断できる。(※編注:特に「越行の記」から、この文脈を書けるのは間違いなく龍馬である。)
・筆跡・内容ともに疑わしい要素は全くない。
・佛教大学 青山忠正教授、福井市立郷土歴史博物館 角鹿尚計館長、高知県立坂本龍馬記念館 三浦夏樹学芸員など複数の歴史研究者が実物と写真を見ているが、全員そろって真筆と認めている(異論はない)。
2.書状に関する基本情報
・書状は折り畳まれて、封紙に入った形で見つかった。オリジナルの(ウブな)まま。
・封紙に「坂本先生遭難直前之 書状に而他見ヲ憚ルモノ也」の朱書付箋あり、この付箋をいつだれが書いたのかは不明・要見当。
・封紙の名は「才谷楳太郎」。書状内は「龍馬」。(※編注:龍馬は、「梅」に「楳」の字を使っていた)
・龍馬は京都を10月24日に発って福井に向かった。28日に福井到着。福井で三岡八郎と長時間話をしたあと、11月3日に福井を発ち、5日に京都へ戻ってきたところ。(その直後に三岡を新政府に推薦する「越行の記」を京都で書いた)
・松平春嶽は11月2日に福井を発ち、11月8日に京都に到着。中根雪江は遅れて11月5日に福井を出立、8日頃入京か。
・内容は上京したばかりの中根雪江に「春嶽候の上京に中根が尽力してくれたお礼を述べるとともに越前藩士三岡八郎の新政府出仕について重ねて懇願するもの」。
・内容は3年前に出現して話題となった「越行の記」の続きとすることができる。
・「越行の記」とこの新出書簡をみると龍馬はすでに福井で中根雪江に会っていたはず。
・新国家の建設に財政担当者として三岡八郎が適任なので越前藩内の手続きを進めて、ぜひ出してほしいと強調している。
・「新国家」という言葉がつかわれていることがとても重要。龍馬の他の手紙では見たことがない。 用語用法の成立についての検証は必要だが、その概念は素直に「新国家」としてもよさそう。
・「三岡兄の上京が一日遅れれば、新国家の御家計(財政)の成立は一日遅れる」、との表現が面白い。
・龍馬は11月はじめに福井で会った中根雪江に三岡八郎の新政府出仕を直接申し込んだらしいが、その際の中根の返事ははかばかしくなかったことを推察させる。なので、上京直後の中根に再度、三岡の上京を越前藩として許可するようにこの手紙で頼んでいる。(中根に手紙を出すことは春嶽に出すのと同じ意味であろう)
・文末に近いところで、明日(11月11日)に幕臣永井玄蕃(永井尚志)に面会する予定たせという話は、龍馬の次の日の林謙三宛ての手紙に「永井に面会した」と書いてあるので、時間的にもきちんと符合する。
・この書簡が150年も出てこなかった理由は、封紙に付箋があり、そこに朱書で「坂本龍馬先生遭難直前の書状にて他見を憚るものなり」とあるからであろう。明治時代のいつかの段階でこの手紙は人に見せてはいけない、との判断がなされていた(誰がいつ付箋にそう書いたかは不明・要検討)
・三岡八郎の京都到着はこの1ヶ月も先の12月半ばのことであり、この間のタイムラグには様々な理由があったと思われるが、越前藩内に三岡八郎の新政府出仕に反対するもの(中根も含まれるか)の存在が推察されるために「他見を憚る」可能性が考えられる。(特に三岡八郎に知られるのは良くないはず)
・越前藩の松平春嶽の上京は土佐藩の山内容堂・後藤象二郎や龍馬らの推進する大政奉還建白書に基づく公議政体論推進派には大きな追い風になったため「千万の兵を得た心持ち」と書いたのであろう。
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3.今回の書状における歴史的価値
・三岡八郎を高く評価し、新政府に出仕させるため粘り強く根回しをしていたことがわかる手紙。
・龍馬は死の直前まで「新国家」の建設、とくに財政問題の解決に邁進していたことをよく示している(もちろん龍馬に死ぬつもりは全くないが、日々、身の危険は感じていたはず)。
・龍馬と越前藩とのかかわりに関する研究が一層進展するはず。
・また、越前藩重役で松平春嶽側近の「中根雪江」という人物の歴史的役割がより明らかになってくるはず。
・今後の幕末史研究・坂本龍馬研究の進展が期待できる重要な資料。
5.これまで発見された他の坂本龍馬の書状・資料との違い
・全くのウブな状態で発見されたこと(書状の多くは保存のため巻子や軸装されている)
・龍馬の越前福井行きの目的がはっきりと書かれていること。
・「越行の記」では京都帰着後に三岡八郎を新政府に推薦しているが、新政府からの召状だけでは動かないとみて、改めて越前藩重役の中根に藩内手続きを懇願する内容。龍馬の目的とそれを達成しようとする行動力の大きさが改めてわかる。
・「越行の記」の文末には「追日、中根雪江は越老候の御供、村田巳三郎ハ国にのこる、家老ハ可なりのもの出るとのこと、再拝々」とあり、福井で中根に会ったことを推察させるとともに今回の書簡では「然るに先頃御直ニ申上置キ三岡八郎兄の御上京出仕の一件ハ~」とあることからも龍馬は福井で三岡八郎と丸一日話し合ったふと、中根雪江に面会して三岡八郎の京都出仕を懇願したらしいことが分かる。すなわちこの手紙は「越行の記」の続きであり、並べると意味がより一層よくわかる(ちなみに「越行の記」は2月5日まで長崎市歴史文化博物館の「没後150年 坂本龍馬」で展示中)。
【京都国立博物館 学芸部 上席研究員 宮川禎一 解説】
慶応三年十月十四日の徳川慶喜による朝廷への大政奉還を受けて、坂本龍馬や後藤象二郎、海援隊関係者らは朝廷中心の新政府樹立に向けた活動を活発におこなっていた。坂本龍馬は新政府になんら財源がないことを憂いて、旧知の越前藩士三岡八郎を新政府の財政担当者として出仕させるために、十月末から十一月初旬に福井を訪ねて、藩の罰で幽閉中の三岡八郎に面会し、新政府の財政のあり方を詳しく聞いた。このことは近年発見された「越行の記」に詳しい。
この新出の書簡は京都の越前藩邸に居る越前藩重役の中根雪江(ゆきえ・せっこう)にあてた龍馬直筆のもので封紙まで当時のまま残っているところも貴重である。日付は慶応三年「十一月十日」である。(越前藩前藩主の松平春嶽は十一月二日に福井を出立し、十一月八日に京都到着で、中根も同時期に上京した。龍馬の方は十一月三日に福井を発ち五日に京都到着)この手紙は近江屋で龍馬が暗殺される五日前に書かれたものである。内容は越前藩重役の中根雪江に春嶽候上京に関して尽力したことへのお礼と三岡八郎の新政府への出仕を一日でも早くするようにとの懇願である。
徳川親藩である越前藩の松平春嶽が朝廷の召しに応じて大政奉還後の京都に入ったことは公議政体論派からは歓迎すべきことであり、龍馬が「千万の兵を得た心持」とかくことはうなずける。その春嶽上京に関して中根雪江が「ご尽力」したことに龍馬は感謝を述べている。
(※宮川氏の補足解説:10月の「大政奉還」から12月9日の「王政復古の大号令・小御所会議」までの間、朝廷から全国の諸藩に「大名は京都に集合せよ」という呼びかけに対して、“まだどうなるかわからない、混沌とした京都に行っていいのか悪いのか”と、諸藩は日和見をしていた状況。春嶽候は行く気持ちがあったが、重役たちはまだ行かないほうがいいと、福井藩の中でも割れていた。そんな中、春嶽公の上京の話をまとめたのが、中根雪江。新政府側にとって諸藩の支持が得られるかどうかは大きな問題だった。そんな中、世間から見ても“幕末の四賢侯” の一人といわれる名君の誉れ高い、あの春嶽公が京都に行くということは、(新政府への)支持の現れなので、(新政府側にとっては非常に)ありがたいこと)
その一方、龍馬が福井で三岡に面会後、中根雪江にも面会し、三岡八郎の新政府出仕を直接懇願したのだが、どうやら色よい返事はもらえなかったらしい。そこで上京してきた中根に改めて「先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の御上京、御出仕の一件」を重ねて懇願しその「御尽力」を要請している。
「越行の記」にあるように龍馬は十一月五日の帰郷後、新政府上層部に三岡八郎を新政府に出仕させるように強く推薦していた。その結果、岩倉具視ら新政府首脳から越前藩へ出仕を求める連絡(最初は十一月六日に召状が出ている)が何度も出るのであるが、藩内の事情のためかなかなかその話は進まなかった(三岡は文久三年以来藩の罪人として長期幽閉中であった)。実際に三岡が京都に来たのはこの一月あまり後の十二月半ばのことになった(龍馬の死後のこと)。このタイムラグの存在が越前藩の内部事情(三岡を出すことに反対する勢力[中根を含む]も大きかったらしいそれで出仕の命令が三岡に伝わるのがかなり遅れた)を推察させるために後日誰かが「他見を憚るものなり」と朱書付箋をつけたものと考えられる。それが百五十年もの間この手紙が世に出なかった要因であろう。
手紙文中に「新国家」という単語が出てくるのがまことに重要である。坂本龍馬の活動を示すものとして貴重であり、最後まで新政府樹立(新国家の建設)に専心していた様子をよく示すもの(もちろん龍馬は殺されるなどとは思っていなかったが)である。
追白の部分に『永井玄蕃頭』の前が出てくるが、幕府内では開明派であり大政奉還を推進していたこの永井尚志に「明日」面会する話は、慶応三年十一月十一日の林謙三宛龍馬書簡に「今朝、永井玄蕃方へ参り、いろいろと議論いたしました」という文面に符合するものである。また中根と永井は旧知の間であるので、それを知っていた龍馬が中根を永井の屋敷に訪ねる際に同行を求めたのであろう。
龍馬の新出書簡として歴史的価値がきわめて高いものといえる。この書簡に関しては今後も研究の進展が期待される。
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坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 - シェイブテイル日記2http://shavetail2.hateblo.jp/entry/20140408
《坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 2014-04-08
世界の金融史上、デフレはどうやって脱却できたかはこのブログの大きなテーマのひとつです。 今回は明治維新前後に活躍した三岡八郎(由利公正)を取り上げたいと思います。…》
坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策
2014-04-08
世界の金融史上、デフレはどうやって脱却できたかはこのブログの大きなテーマのひとつです。 今回は明治維新前後に活躍した三岡八郎(由利公正)を取り上げたいと思います。
f:id:shavetail1:20140408100417j:image:w240:right 昨夜のNHKニュース9で、坂本龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣、後藤象二郎宛てに書いたとみられる手紙の草稿が見つかったと報じられています。
この手紙の中で、龍馬は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」の直後、新政府の財政担当の候補だった福井藩の藩士、三岡八郎に会いに行き、後藤にその結果を報告しました。
三岡八郎は、福井藩の財政再建で手腕を振るった人物で、後に由利公正と名を改め、五箇条の御誓文の起草者としても知られ、明治新政府では初期のころに金融や財政に携わりました。
三岡八郎(由利公正)が実際にどのような財政政策を採ったのか、成書にはあまり記載がないように思いますが、丹羽春喜・日本経済再生政策提言フォーラム会長(大阪学院大学経済学部名誉教授)により、その業績は詳しく紹介されています。
「太政官札」発行の断行こそが明治維新成功の鍵であった
維新の財政支出の94%をまかなった!
私(注:丹羽春喜氏)は、十年も前から、現在のわが国の財政・経済危機を克服するためには、いわば明治維新のさいの「太政官札」(不換政府紙幣)発行の故知にならい、「国(政府)の貨幣発行特権」の直接的あるいは間接的な大規模発動を断行し、それにより事実上無尽蔵な国家財政財源を確保して、わが国を亡国の悲境より救えと提言してきた。
しかし、この私の提言(ないしノーベル賞受賞者スティグリッツ教授の同様な提言など)への反論という含意で、「太政官札」とそれに続く「民部省札」および「新紙幣」など明治維新時の一連の不換政府紙幣の発行を、維新史の一大汚点だと決め付け、「太政官札の轍を踏むな!」と叫ぶ議論も、かなり声高に行なわれている。
「太政官札」の発行を失敗ないし汚点であったとする明治維新史の見かたは、総じて、左翼陣営の歴史家たちのステレオタイプな姿勢である。しかし、坂本竜馬と三岡八郎(由利公正)の夜を徹しての協議(慶応3年10月末)で基本方針が定められ、慶応4年(明治元年)2月から実施されはじめた「太政官札」の発行は、客観的に見れば、明治維新を成功させた決定打として役立った施策であったのである。
王政復古(維新政府樹立)の大号令が発せられた慶応3年末から戊辰戦争が終わった直後の明治2年の9月までの期間をとって見てみると、維新政府は、戊辰戦争の戦費をも含めて5129万円の財政支出を行なっているのであるが、そのうちの実に94パーセントの4800万円が「太政官札」という不換政府紙幣発行の造幣益でまかなわれている(『明治前期財政経済資料集成』第4巻、48〜61頁)。当時の維新政府は、まだ基盤が脆弱で、威令も十分には行なわれておらず、租税を組織的に徴収する力も弱く、まさに、累卵の上に立つような危ない状況にあった。したがって、戊辰戦役の戦費支出をも含む巨額の財政支出の94パーセントもをまかなった「太政官札」発行による造幣益が、もしも無かったとしたならば、維新政府は存続しえなかったにちがいない。すなわち、「太政官札」の発行を断行しえたことこそが、維新の大業を成功させた決定的な要因であったと、考えねばならないのである。
太政官札インフレなどは無かった
「太政官札」の発行開始から2年後には小額紙幣として「民部省札」の発行もはじまったが、これも不換政府紙幣であった。明治5年からは、「太政官札」と「民部省札」は、印刷をいっそう巧緻なものとした「新紙幣」とよばれた紙幣に取り替えられたが、これも兌換紙幣(一定レートで金貨・銀貨への交換を公約している紙幣)ではなく、不換紙幣としての政府紙幣であった点では、なんら変わりはなかった。
もちろん、維新政府の基盤が固まり、税収が増えるにつれて、毎年の財政支出が政府紙幣の発券による造幣益に依存する程度は徐々に下がっていったのであるが、それでも、たとえば明治5年になっても、財政支出が政府紙幣の造幣益に依存していた割合は、いぜんとして30パーセントにおよんでいた。しかも、これほどにも巨額の不換政府紙幣が発行され、その造幣益を財源として、文明開化のためのインフラストラクチャー整備や防衛力充実のための巨額の財政支出と諸産業への政府融資が大々的になされ、さらには、廃藩置県にともなう旧藩の藩札等債務の償還なども少なからぬ額で行なわれたにもかかわらず、当時のわが国の国内物価は西南戦争が勃発した明治10年ごろまでは、基本的には安定していたのである。
明治元年の物価水準が、その前年の慶応3年の物価水準に比べて10パーセントも下がったあと、さすがに戊辰戦役の影響をもろに受けた明治2年には物価の上昇がある程度は生じたが、それ以降はわが国の物価はむしろ下がり気味となり、明治4年ごろになると、物価水準は明治元年の物価水準とほぼ同じところに落ち着き、そして、明治10年の物価水準になると、それは明治元年のそれよりも8パーセント低く、慶応3年の物価水準と比べると18パーセントも低くなっていた(山本有造『両から円へ』、12頁参照)。なお、その後の西南戦争の戦費支出に起因する物価上昇は、明治11年ごろから生じたことであった。
当時は、国内で流通していた不換政府紙幣と対外決済用の銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)との交換比率である「銀紙比率」の相場が、毎日たっていたのであり、これが現在の「為替レート」に該当しているわけであるが、この「銀紙比率」も、明治10年まではむしろ安定的であった。この時期で国内紙幣の銀貨に対する交換価値が最安値になったのは──すなわち、現在の感覚で言えば最も「円安」になったのは──明治7年のことであるが、そのときの「銀紙比率」でさえも1.038にすぎなかった。すなわち、わずかに3.8パーセントの相対的な「円安」であっただけであり、不換政府紙幣の価値暴落といった状況とは、全くほど遠かった。だからこそ、上記のごとく、わが国の国内物価は安定していたのである。
まさにケインズ経済学のセオリーどおり
要するに、「太政官札インフレ」などというものは無かったのである。ということは、明治初年のころには、徳川幕府倒壊による先行き不安から経済活動の萎縮が生じ(江戸の街が灯の消えたようにさびれた)、マクロ的な生産能力の遊休、つまり、デフレ・ギャップが巨大に発生していたということを物語っている。すなわち、不換政府紙幣の大量発行を財源としてなされた文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要支出の大幅な増大に対応して、そのような遊休生産能力が稼動しはじめ、諸種の物資や商品の供給も順調に増えることができたからこそ、物価は安定していたのである。
まさに、ケインズ経済学のセオリーどおりのプロセスが妥当していたということである。 驚くべきことに、由利公正は、ケインズ理論が体系化される七十年も前に、このようなプロセスを見通していたらしいのである。故村松剛氏の名著『醒めた炎』でも、「太政官札」発行による由利公正の財政政策が、まさに、そのように意義づけられているのである(同書、下巻、283〜286頁)。
『カレント』誌、平成17年2月号所収
NHKの報道によれば、見つかった手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれていたとか。
そのうえで、龍馬は新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に進言した、とのことです。
マクロ経済学など知る由もない三岡八郎が、財政の大半を税収でもなく、国債でもなく、ましてや金塊でもない、「国家信用」(その実体は国内生産力)にのみ裏付けられた政府紙幣で幕末・明治初期の財政を賄った事実はもっと知られても良いでしょう。
また、現代日本での金融・財政政策、つまり金融政策は銀行へのマネー積み上げ、財政政策は消費税5%増税などの緊縮財政という組み合わせと、坂本龍馬に発掘された人材、三岡八郎が明治維新の大変革を支える財政をまかなうと同時に、当時の通貨不足によるデフレも抑制したことを比較すると、現代日本が早期にデフレ脱却をするために、現在の経済政策をどちらに転換すべきかの示唆も見えてくるように思います。
龍馬FAQ|高知県立坂本龍馬記念館
返信削除https://ryoma-kinenkan.jp/feat/faq/
龍馬という名前は一見すると「りゅうま」と読んでしまいます。坂本龍馬の場合、なぜ「りょうま」と読むことがわかったのですか。
慶応3年1月20日の姪・春猪宛の手紙の文末に「正月 廿日夜 りよふより 春猪様」と書かれてあります。「りよふ」は今の仮名遣いでは「りょう」と書くので、「りょうま」となります。
591 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2021/09/19(日) 21:12:43.77 ID:ZiYluyJZ
返信削除明治元年、新政府が会計官由利公正の建議によって太政官札を発行し、諸藩に貸し付けた。
松平春嶽の右腕であった由利公正は、坂本龍馬の推薦で岩倉具視により、新政府の会計官に任命されていた。
この太政官札発行の主目的は、新政府の戊辰戦争遂行の戦費調達であった。
太政官札は、新政府の信用に基づいて発行された政府紙幣(不換紙幣)であり、「通用期限は13年間」との期限を定めていた。
しかしながら、政府の信用が未だ強固では無く、実際のマーケットでは、太政官札100両を以て金貨80両から40両に交換された。
同じことを大戦期に行った有名な経済学者がいる。
イギリスのJ.M.ケインズである。ケインズもイギリス政府の会計官として、政府の信用に基づいて政府紙幣(不換紙幣)を発行した。
由利公正、J.M.ケインズが発行した政府紙幣(不換紙幣)は、原則として、額面以下で正貨と交換することを禁止し、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたものであった。
つまり、武力を背景に、諸藩に貸付金として貸し付けて回収し、また、諸民には、租税として回収することで、紙幣の最終需要を担保したのである。
財政とは、政府の信用に基づいて「作るもの」であり、市井によって「作られるもの」ではない。
銀行の発達によって、通貨発行は、マーケットに自由化され、負債と負債の交換によって金融資産が無限に増えていくようになった。
それにより、市井によって「作られるもの」と錯覚するようになったのである。
負債の発行主体は、今も昔も「政府」と「銀行」であって、政府紙幣と現代の特例公債に「何の変わりもなく、全く同質のもの」である。
坂本龍馬の伝説はウソだらけだった!「幕末の英雄」は大間違いで教科書から消されそう!?
返信削除https://youtu.be/HoZVMenYLms?si=WE1D9gmfxF4Yw_aT
近年発見された龍馬が死の5日前に書いた手紙
一筆啓上仕候、此度越前老侯
御上京相被成候段 千万の兵を得たる
心中に御座候、先生ニも諸事
御尽力御察申上候、然るに先頃御直ニ
申上置キ三岡八郎兄の御上京
御出仕の一件ハ急を用する事に存候得ハ、
何卒早々御裁可あるへく奉願候、三岡
兄の御上京が一日先に相成候得ハ
新国家の御家計御成立が一日先に
相成候と奉存候、唯此所一向ニ御尽力
奉願候
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
…
「新国家」の財政担当者の選定を龍馬は急を要すると考えていた。
こうした事実は政治革命ではなく社会革命を龍馬が思考していたということだ。
西郷や龍馬を暗殺した松平容保などにはこうした視角がない。
小松帯刀や小栗が再評価されるべきだとは思うが、大正デモクラシーにつながる部分を龍馬は持っていた。
近年発見された龍馬が死の5日前に書いた手紙
返信削除一筆啓上仕候、此度越前老侯
御上京相被成候段 千万の兵を得たる
心中に御座候、先生ニも諸事
御尽力御察申上候、然るに先頃御直ニ
申上置キ三岡八郎兄の御上京
御出仕の一件ハ急を用する事に存候得ハ、
何卒早々御裁可あるへく奉願候、三岡
兄の御上京が一日先に相成候得ハ
新国家の御家計御成立が一日先に
相成候と奉存候、唯此所一向ニ御尽力
奉願候
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
…
(略)
現代語訳:
一筆啓上差し上げる
このたび越前の老候(松平春嶽候)が
御上京なられたことは
千万の兵を得たような
心持でございます。
先生(中根雪江)にも諸事
ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら先頃直接
申し上げておきました三岡
八郎兄の御上京、
御出仕の一件は急を
要する事と思っておりますので、
何卒早々に(越前藩の)御裁可
が下りますよう願い奉ります。三岡
兄の御上京が一日
先になったならば
新国家の御家計(財政)の
御成立が一日先に
なってしまうと考えられます。
唯、ここの所にひたすらご尽力
をお願いいたします。
(まことに恐れながら謹んで言います)
十一月十日 龍馬
…
「新国家」の財政担当者の選定を龍馬は急を要すると考えていた。
こうした事実は政治革命ではなく社会革命を龍馬が志向していたということだ。
龍馬を暗殺した松平容保などにはこうした視角がない。
小松帯刀や小栗が再評価されるべきだとは思うが、大正デモクラシーにつながる部分を龍馬は持っていた。