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参考:
力と交換様式:索引(作業中)
レーマー(トーマス・),402(『ヤバい神』),414(『-』)ヤバい神: 不都合な記事による旧約聖書入門 単行本 – 2022/3/25
旧約聖書には、神が横暴で残酷で好戦的だという印象を与える記述が少なくない。アブラハムに愛息イサクを捧げよと命じるなんて、たとえ試みだとしても、あんまりではないか。そんな箇所をどう解釈すべきなのか? 多くの人が疑問を抱くテキストを旧約聖書学の第一人者が取り上げ、それらの表現の意味と理由を考察し、神の真の「人柄」に迫った、目からウロコの異色の書。
Dieu obscur : Cruauté, sexe et violence dans l'Ancien Testament ペーパーバック – 2009/11/26
フランス語版 Thomas Romer (著)
ベスト1000レビュアー
「ヤバい」とはどういう意味なのか。本書の原題はフランス語で DIEU OBSCUR である。ぼくはフランス語は知らないが、DIEU は「神」で、OBSCURは「暗い、薄暗い、 分かりにくい、難解な、曖昧(あいまい)な,漠然とした,おぼろげな」というような意味のようだ。
本書では、神が残忍、好戦的、復讐者、暴力的と思われるような聖書箇所についての著者の解釈が述べられている。そのような聖書箇所は、神を分かりにくく、難解で、曖昧にする、と言えなくはないだろう。すると、原題の意味は、「理解しにくい神」というほどの意味ではなかろうか。
他方、「ヤバい」とは、どういう意味だろう。いくつかの聖書箇所からの印象のように、神が暴力的だったら、「問題だ」ということだろうか。神の立場があぶない、人間から神として信じてもらえない、ということだろうか。
「ヤバい」とカタカナ交じりになっていることを見ると、若者の用法に準じているのだろうか。若者は「やばい」を「おいしい、すごい、かっこいい、びっくり、すてき、まずい、
残念、かっこ悪い、都合が悪い、気持ちが悪い、似合っていない」といった意味で使うようだ。
旧約聖書のヨシュア記にはこのような個所がある。「彼らがイスラエルの前から逃れ・・・・主は天から大きな石を降らせた‥‥多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人びとが剣で殺した者よりも多かった」(10:11)。
この個所について、本書の筆者はこうコメントしている。「アッシリアをモデルに用いて征服を描くことで、ヨシュア記1~12章の書き手たちはヤハウェの好戦的なイメージを強調した。それは、イスラエルの敵すべてを拒絶することをためらわない神のイメージである。そのような強調は残念なことであると言わねばならない。だが、このような神のイメージは記された時の歴史的文脈に即して理解する必要がある‥‥ヨシヤ王時代の書き手が目的としていたのは、ヤハウェがアッシリアの守護神‥‥よりも強いということを示すことであった。他の人々にはカナンを占領する権利がないとヨシュア記が主張するとき、この主張は同時に、そして、専ら、アッシリア人に向けられる」(p.133)。
つまり、ヨシュア記にはヤハウェがカナン占領のために先住民を殺すという記事があるが、それは、神が実際にそうしたということではなく、自分たちを抑圧したアッシリアへの抵抗心を示しているというのである。
しかし、著者はこれにはデメリットがあったと述べる。「このメッセージを展開するには、ヤハウェを‥‥残忍で好戦的な神として描くという代償が伴った」(p.134)。
そして、ヨシュア記のこのような個所に思想的に反対する個所が旧約聖書にはあると著者は言う。「歴代誌が行った改訂において、〔カナンの〕地への軍事的な征服に関する記述はすべて削除されている!‥‥歴代誌上・下が示しているのは土着のイスラエルである。彼らは元々その土地に住んでおり、従ってカナンにどのように定住したのかを説明するために戦争神を持ち出す必要はない。同様に、歴代誌家たちは列王記に出てくる戦争のイメージを変容させている。王たちは典礼の指導者になり、戦争は典礼で行われる行進になる」(p.138)。
「好戦的な神を描いた個所は、明らかにより暴力的でないかたちへと捕囚期に改訂された。このような改訂作業は、聖書に基づいて人間が戦争と征服を是認することを不可能にしたはずである」(p.141)。
「ユダヤ教にとって聖書の中心をなすトーラーには、ヨシュア記とその暴力的な征服物語は意図的に含まれていないのだ」(同)。
「ユダヤ教は五書を「オープンエンド」にし、征服物語を二次的なに格下げすることを選んだのである」(p.142)。
「族長物語には近隣の民に対面した際に平穏な、平和主義的とさえ言えるアプローチが見られる」(p.146)。
これらを読むと、旧約聖書の好戦的な神観を隠蔽しているように思えるかもしれないが、著者はこのようにも記している。「不幸なことに、実際にはそのようにはならなかった。ヨシュア記はアメリカ先住民の根絶を、南アメリカでの白人入植者の優位性を、そしてその他の不正義を正当化するために用いられた。聖書テクストのこのような誤用に対する唯一の武器は、テクストそれ自体の真剣な探求である」(p.141)。
つまり、聖書の中には、神を好戦的に描く箇所もあるが、それを克服しようとする個所もある、けれども、神を好戦的に描いた個所が現代にいたるまで侵略の正当化にたびたび用いられている、ということだろう。
さて、もう一度、「ヤバい」神に込められた意味に戻ってみよう。いくつかの聖書箇所を見ると、聖書の神は「不都合」にも思えるが、全体を通して見ると、「すごい、かっこいい」ようにも思えるということだろうか。いや、OBSCUR には、そこまでの意味はないかな。しかし、「理解しがたい神」は、「不都合に見える神」でも、あるいは、「じつは人間の理解を超えたすばらしい神」でもあるかもしれない。これも、また、ぼくには、OBSCURだ。
本書では、神が残忍、好戦的、復讐者、暴力的と思われるような聖書箇所についての著者の解釈が述べられている。そのような聖書箇所は、神を分かりにくく、難解で、曖昧にする、と言えなくはないだろう。すると、原題の意味は、「理解しにくい神」というほどの意味ではなかろうか。
他方、「ヤバい」とは、どういう意味だろう。いくつかの聖書箇所からの印象のように、神が暴力的だったら、「問題だ」ということだろうか。神の立場があぶない、人間から神として信じてもらえない、ということだろうか。
「ヤバい」とカタカナ交じりになっていることを見ると、若者の用法に準じているのだろうか。若者は「やばい」を「おいしい、すごい、かっこいい、びっくり、すてき、まずい、
残念、かっこ悪い、都合が悪い、気持ちが悪い、似合っていない」といった意味で使うようだ。
旧約聖書のヨシュア記にはこのような個所がある。「彼らがイスラエルの前から逃れ・・・・主は天から大きな石を降らせた‥‥多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人びとが剣で殺した者よりも多かった」(10:11)。
この個所について、本書の筆者はこうコメントしている。「アッシリアをモデルに用いて征服を描くことで、ヨシュア記1~12章の書き手たちはヤハウェの好戦的なイメージを強調した。それは、イスラエルの敵すべてを拒絶することをためらわない神のイメージである。そのような強調は残念なことであると言わねばならない。だが、このような神のイメージは記された時の歴史的文脈に即して理解する必要がある‥‥ヨシヤ王時代の書き手が目的としていたのは、ヤハウェがアッシリアの守護神‥‥よりも強いということを示すことであった。他の人々にはカナンを占領する権利がないとヨシュア記が主張するとき、この主張は同時に、そして、専ら、アッシリア人に向けられる」(p.133)。
つまり、ヨシュア記にはヤハウェがカナン占領のために先住民を殺すという記事があるが、それは、神が実際にそうしたということではなく、自分たちを抑圧したアッシリアへの抵抗心を示しているというのである。
しかし、著者はこれにはデメリットがあったと述べる。「このメッセージを展開するには、ヤハウェを‥‥残忍で好戦的な神として描くという代償が伴った」(p.134)。
そして、ヨシュア記のこのような個所に思想的に反対する個所が旧約聖書にはあると著者は言う。「歴代誌が行った改訂において、〔カナンの〕地への軍事的な征服に関する記述はすべて削除されている!‥‥歴代誌上・下が示しているのは土着のイスラエルである。彼らは元々その土地に住んでおり、従ってカナンにどのように定住したのかを説明するために戦争神を持ち出す必要はない。同様に、歴代誌家たちは列王記に出てくる戦争のイメージを変容させている。王たちは典礼の指導者になり、戦争は典礼で行われる行進になる」(p.138)。
「好戦的な神を描いた個所は、明らかにより暴力的でないかたちへと捕囚期に改訂された。このような改訂作業は、聖書に基づいて人間が戦争と征服を是認することを不可能にしたはずである」(p.141)。
「ユダヤ教にとって聖書の中心をなすトーラーには、ヨシュア記とその暴力的な征服物語は意図的に含まれていないのだ」(同)。
「ユダヤ教は五書を「オープンエンド」にし、征服物語を二次的なに格下げすることを選んだのである」(p.142)。
「族長物語には近隣の民に対面した際に平穏な、平和主義的とさえ言えるアプローチが見られる」(p.146)。
これらを読むと、旧約聖書の好戦的な神観を隠蔽しているように思えるかもしれないが、著者はこのようにも記している。「不幸なことに、実際にはそのようにはならなかった。ヨシュア記はアメリカ先住民の根絶を、南アメリカでの白人入植者の優位性を、そしてその他の不正義を正当化するために用いられた。聖書テクストのこのような誤用に対する唯一の武器は、テクストそれ自体の真剣な探求である」(p.141)。
つまり、聖書の中には、神を好戦的に描く箇所もあるが、それを克服しようとする個所もある、けれども、神を好戦的に描いた個所が現代にいたるまで侵略の正当化にたびたび用いられている、ということだろう。
さて、もう一度、「ヤバい」神に込められた意味に戻ってみよう。いくつかの聖書箇所を見ると、聖書の神は「不都合」にも思えるが、全体を通して見ると、「すごい、かっこいい」ようにも思えるということだろうか。いや、OBSCUR には、そこまでの意味はないかな。しかし、「理解しがたい神」は、「不都合に見える神」でも、あるいは、「じつは人間の理解を超えたすばらしい神」でもあるかもしれない。これも、また、ぼくには、OBSCURだ。
2022年7月1日に日本でレビュー済み
著者は旧約学の大御所トーマス・レーマーで、センセーショナルな邦題とは違って内容はきわめて真面目な批判的旧約学のエッセーである。(原題は直訳すると「ダークな神」という感じか)。若干の事前知識は必要だが、気軽に読める分量だと思う。目新しい情報はないけれども、近年の考古学的知見も含めて、リベラルな学説が良くまとまっている。(近刊の「100語でわかる旧約聖書」はとても面白かった)。
ただ、結論から言えばこの本は(本書のテーマも関係して)あくまで「護教論」である。もちろん本書は、ちまたにあふれるファンダメンタルな護教論ではないし、本書内でも保守的な護教論の危険性が繰り返し警告されている。それでも、この本の「護教性」に違和感を感じるのは、私が無信心な人間であるからなのだろうと思う。むしろ著者は牧師でもあるわけで、このような「護教論」も当然だとも言える。著者のスタンスである「聖書の理解しがたい聖句を歴史学的なアプローチで解釈する」という姿勢は非常に重要なものだが、その適用はファンダメンタリストとは違った形の「護教論」であり、神を免罪する試みに感じる。(聖書は批判できても、神を批判するのは信者としては難しいのは分かる)。私は(本書最後でも論じられている)「神義論」や、「信仰と聖書学が両立するのか」というテーマに興味を持っているのだが、この点でも今作からは十分な答えが得られなかった気がする。これも私の読解の問題かもしれないが、本書では「最先端の学問」と「神への敬虔な信仰」が同居しているので、逆に違和感を覚えたのかもしれない。私個人としては、学問的に明らかにされる旧約聖書の多様性そのものが面白いと思うし、人間の本質を突く言葉、醜さや(現代からみて)狂信的・差別的な発想も含めてそのまま(「ヤバい」まま)受け入れるべきではないかと思う。
若干切り口は違うけれども、日本の聖書考古学者長谷川修一氏の「旧約聖書<戦い>の書物」もお勧めしたい。もっとも、彼はあくまでオリエント考古学者であり、神学者ではないという違いはあるので著作のスタイルは違うけれど、数年前の長谷川氏とレーマー氏の対談を見る限りでは、両者の考えには近いものが多いようなので、こちらも一読をお勧めしたい。
最後に、訳者の白田浩一氏に対しては拍手を送りたい。キリスト教関係の訳本は難解で、かえって原書以上にわかりにくいものすらある。白田氏はクリスチャンではあるようだが、お仕事が編集者ということもあり、本書の日本語が大変読みやすかった。訳者の今後の活動にも期待したい。(出版記念ライブは非常に面白かった)。
いろいろと勝手な感想を書いたが、お勧めしたい1冊ではある。
ただ、結論から言えばこの本は(本書のテーマも関係して)あくまで「護教論」である。もちろん本書は、ちまたにあふれるファンダメンタルな護教論ではないし、本書内でも保守的な護教論の危険性が繰り返し警告されている。それでも、この本の「護教性」に違和感を感じるのは、私が無信心な人間であるからなのだろうと思う。むしろ著者は牧師でもあるわけで、このような「護教論」も当然だとも言える。著者のスタンスである「聖書の理解しがたい聖句を歴史学的なアプローチで解釈する」という姿勢は非常に重要なものだが、その適用はファンダメンタリストとは違った形の「護教論」であり、神を免罪する試みに感じる。(聖書は批判できても、神を批判するのは信者としては難しいのは分かる)。私は(本書最後でも論じられている)「神義論」や、「信仰と聖書学が両立するのか」というテーマに興味を持っているのだが、この点でも今作からは十分な答えが得られなかった気がする。これも私の読解の問題かもしれないが、本書では「最先端の学問」と「神への敬虔な信仰」が同居しているので、逆に違和感を覚えたのかもしれない。私個人としては、学問的に明らかにされる旧約聖書の多様性そのものが面白いと思うし、人間の本質を突く言葉、醜さや(現代からみて)狂信的・差別的な発想も含めてそのまま(「ヤバい」まま)受け入れるべきではないかと思う。
若干切り口は違うけれども、日本の聖書考古学者長谷川修一氏の「旧約聖書<戦い>の書物」もお勧めしたい。もっとも、彼はあくまでオリエント考古学者であり、神学者ではないという違いはあるので著作のスタイルは違うけれど、数年前の長谷川氏とレーマー氏の対談を見る限りでは、両者の考えには近いものが多いようなので、こちらも一読をお勧めしたい。
最後に、訳者の白田浩一氏に対しては拍手を送りたい。キリスト教関係の訳本は難解で、かえって原書以上にわかりにくいものすらある。白田氏はクリスチャンではあるようだが、お仕事が編集者ということもあり、本書の日本語が大変読みやすかった。訳者の今後の活動にも期待したい。(出版記念ライブは非常に面白かった)。
いろいろと勝手な感想を書いたが、お勧めしたい1冊ではある。
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