2023年10月2日月曜日

霜月騒動 (1)安達氏の興隆 : 鶴見寺尾図逍遥

霜月騒動 (1)安達氏の興隆 : 鶴見寺尾図逍遥
霜月騒動 (1)安達氏の興隆 : 鶴見寺尾図逍遥
https://jmpostjp.exblog.jp/8233914/

霜月騒動 (1)安達氏の興隆

 中国大陸で宋王朝(960年-南遷・1127年-1279年)が終焉を迎えようとしていたとき(→【全真教と元の免税特権】)、鎌倉では北条氏による得宗専制体制が確立されようとしていた(→【蘭渓道隆】・【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】・【「亀谷」(3)亀谷殿】)。
 そして源頼朝に仕えて以来、幕府創設に活躍してきた安達氏(→【安達氏~祖父「景盛」・父「義景」・子「泰盛」】・【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)も、執権職についた北条経頼・時頼・貞時の外戚として幕政に深く関与し、泰盛のときには北条氏と勢力を二分するまでになっていた。
 しかしこの安達氏も、その最盛期を迎えた泰盛(1231年-1285年)のとき、内管領(得宗家の家令)・平頼綱の讒言により、一族が討伐されることになる。弘安八年(1285年)十一月に起こった、この鎌倉幕府の内紛は、「霜月騒動」・「秋田城介の乱」・「弘安合戦」などと呼ばれている。
 
 安達氏の興亡については、金沢文庫(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】)主任学芸員であった福島金治 (ふくしまかねはる)氏の著書 「安達泰盛と鎌倉幕府(有隣新書)」に詳しい。
 安達氏の祖は、泰盛の曾祖父にあたる安達盛長(もりなが)という人である。 盛長は、頼朝の流人時代(→【「亀谷」(2)乙姫の墓】)からの側近で、頼朝が挙兵する直前に、頼朝が陸奥国の「外ヶ浜」と西国の「鬼海ヶ島」を踏んで南に歩を進める夢をみたという(この夢は頼朝の全国統一の兆候とされた。→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)。また頼朝挙兵の際には、相模の武士や千葉常胤などを味方につけるべく奔走し、 鎌倉殿成立後は、鎌倉の甘縄(あまなわ→【万葉時代の「かまくら~可麻久良】)に邸宅を構えて「甘縄神明宮」を管理し、さらに上野国奉行人や三河国守護を務めた。
 
 盛長の嫡男・景盛(かげもり)は、北条政子や第3代将軍・源実朝(→【「亀谷」(2)乙姫の墓】)の信頼を受け、秋田城介(あきたじょうのすけ:令外官の一つ。780年に秋田城の責任者を置き、やがて出羽介の兼任となる。980年以降は平兼忠の子孫が世襲し、鎌倉時代には安達氏、室町期には安東氏が世襲した。)に任官された。1221年の「承久の乱」では、政子の演説を代読し、「打倒京方」を御家人に訴えている。
 実朝の死後は、1219年に出家して蓮生と名乗り(→【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】・【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】・【同じ顔ぶれ】)、高野山に入って、実朝らの供養のため政子が後援した「金剛三昧院(→【検非違使(2)祖父「定綱」・父「信綱」・息子「泰綱」の場合】)」を管理したが、宝治元年(1247年)、突如鎌倉に下って、三浦氏に迎合する息子・義景を叱責すると、北条時頼と共謀して三浦泰村一族500余名を討伐した(「宝治合戦」→【「亀谷」(5)町屋】・【神奈川の浦島太郎伝説】)。

 景盛の嫡男・義景(よしかげ)は、北条泰時・経時・時頼の三代の執権に仕えた。評定衆の一人として重用され(→【「亀谷」(7)二条/飛鳥井/教定の亭】)、時頼主催の私的会議「寄合(よりあい)」のメンバーにもなっている(深秘沙汰→【「亀谷」(3)亀谷殿】)。
 また、娘を北条時頼の嫡男・時宗(第八代執権)に嫁がせたほか(堀内殿→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)、長井・武藤・二階堂氏らとも姻戚関係を結んで所領を拡大するなど、有力御家人・得宗の双方と緊密な縁を結んだ。
  義景生涯の重事には、仁治3年(1241年)に四条天皇の継嗣問題が起こった際、六波羅探題の北条重時(→【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】・【寺と地図(10)飯嶋】)と連携して、後嵯峨天皇(宗尊親王の父。→【「亀谷」(6)宗尊親王の御所】)の擁立に尽力したことがあげられる。これにより幕府の朝廷への干渉が一段とすすむことになる。
 屋敷は、甘縄邸のほか、鶴見にも別荘(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)があった。
 
 義景邸には、義景の没後、嫡男・泰盛(やすもり)によって「無量寿院(阿弥陀堂)」が建立され、1265年には、ここで泰盛が父・義景の第十三年忌を修している(「吾妻鏡」 文永二年六月大三日 己巳 日中夕立 故秋田城介義景十三年之佛事也 於無量壽院 自朔日至今日 或十種供養 或一切經供養也 而今迎正日 供養多寳塔一基 導師若宮別當僧正隆辨 布施 被物十重 太刀一 南廷五 砂金卅兩 錢百貫文 伊勢入道行願 武藤少卿入道心蓮 信濃判官入道行一 以下數輩 爲結縁 詣其場 説法最中 降雨如車軸 于時山上所構之聽聞所屋顛倒 諸人希有而迯去 其中男女二人 自山嶺落路之北 半死半生 云云 )。(このときの導師は、「若宮別當僧正の隆辨」で、被物や太刀、銀塊や砂金や銭など多くの布施を得たことがわかる。→【聖福寺殿~鶴岡八幡宮別当・隆弁】さらにこの日、二階堂行綱・武藤少卿・二階堂行忠らと結縁を結ぶが、その説法の最中にどしゃぶりの雨となり、山上に構えた聴聞所が倒壊、中にいた男女二人が尾根から道の北に落ちて瀕死の状態となった、とも記される。)
 また元寇の頃には、弘法大師伝来の舎利があれば蒙古に勝てるという平安時代の言い伝えを信じた泰盛が、これを室生寺の石窟の中にみつけて入手し、この「無量寿院」に安置している(→「有燐」第407号「座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来」)。


*参考文献:「安達泰盛と鎌倉幕府」 福島金治著 (有隣新書)
*参考資料:「有燐」第407号「座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来」

0 件のコメント:

コメントを投稿