2021年12月11日土曜日

神聖ローマフランス国王ルイ 9 世 Rome - paint of holy king of France Louis IX from San Liugi church





Rome - paint of holy king of France Louis IX from San Liugi church and chapel








神聖ローマフランス国王ルイ 9 世



Rome - paint of holy king of France Louis IX from San Liugi church

https://www.istockphoto.com/jp/ストックフォト/神聖ローマフランス国王ルイ-9-世-gm177363374-20510941


 
 
Khoa Vu
⁦‪@KhoaVuUmn‬⁩
Economist: To the best of our knowledge, this is the first study to consider the effect of X on...

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2021/12/11 4:51
 
 


  • 聖ルイの礼拝堂(Cappella di San Luigi)<br />この教会が奉る聖ルイ(フランス王ルイ9世)の礼拝堂。フランスの守護聖人でもあります。

    聖ルイの礼拝堂(Cappella di San Luigi)
    この教会が奉る聖ルイ(フランス王ルイ9世)の礼拝堂。フランスの守護聖人でもあります。

  • 礼拝堂の祭壇画は”栄光の聖ルイ”です。作者は分からないのですが、明るいタッチで色彩の美しい絵です。王の威厳を前面に押し出さず、穏かな表情で親しみを感じさせる姿だなぁと感じます。

    礼拝堂の祭壇画は”栄光の聖ルイ”です。作者は分からないのですが、明るいタッチで色彩の美しい絵です。王の威厳を前面に押し出さず、穏かな表情で親しみを感じさせる姿だなぁと感じます。


    https://en.wikipedia.org/wiki/Plautilla_Bricci



    Plautilla Bricci

    From Wikipedia, the free encyclopedia
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    Plautilla Bricci (Italian pronunciation: [plauˈtilla ˈbrittʃi]; or Plautilla Brizio; 1616-1705) was a 17th-century Roman architect, painter and sculptor; she was the only female architect of her day.[1][2][3] Her most famous work is Villa Benedetti (Villa il Vascello) near the Porta San Pancrazio, Rome.[4] She also designed the third chapel on the left aisle in the Church of San Luigi dei Francesi, Rome, dedicated to St. Louis, having also painted the altarpiece in this chapel.[5] [6]


    プラウティラ・ブリッチ

    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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    プラウティラ・ブリッチ(Plautilla Bricci、イタリア語発音。プラウティラ・ブリッチ(イタリア語発音:[plauˈtilla ˈbrittʃi]; or Plautilla Brizio; 1616-1705)は、17世紀のローマの建築家、画家、彫刻家で、当時唯一の女性建築家だった[1][2][3]。 [また、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェスチー教会の聖ルイに捧げられた左側通路の第3礼拝堂を設計し、この礼拝堂の祭壇画も描いている[5][6]。



    目次

    1 幼少期と芸術教育

    2 経歴

    3 後半生と死

    4 遺産

    5 参考文献

    幼少期と芸術的訓練[編集]

    サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の近くに店を構えていた父ジョヴァンニは、画家であり音楽家でもあったため、彼女に手ほどきをした[1][4][7]。 また、父の友人であるカヴァリエ・ダルピーノからも手ほどきを受けた[1]。 また、マリア・エウフラシア・デッラ・クローチェからも手ほどきを受けたが、彼は後にサン・ジュゼッペ・ア・カーポ・アッレ・カーチェの修道院のためのキリスト降誕の絵を共同で描いた人物である[1][7]。 [彼女がどのようにして建築家になったのかはわかっていませんが、女性芸術家を擁護し、建築教育に関心を持っていたカシアノ・ダル・ポッツォの軌道上で指導を受けたのかもしれません[1]。 彼女の兄バジリオは画家であり建築家でした[4]。


    経歴[編集]

    ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェスチー教会の祭壇画とサン・ルイージ礼拝堂の写真

    サン・ルイージ礼拝堂(ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会

    1631年には《ヨセフとポティファルの妻》(1991年にロンドンで売却)を描いている[7]。1644年、プラウティラは教皇の甥であるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿のために、《聖フランチェスコと天使》と《花の静物》の2点を制作した。 [また、同年、ジャコモ・アルバーノ・ギブシオのために2枚の扉を描いている[1]。 アントニオ・デッリ・エフェッティのためにキャビネットを描いている(現在は失われている)[1]。 [1660年、ローマのカンポ・マルツィオにあるサンタ・マリア教会のために「聖母の誕生」の祭壇画を描く[1]。 1661年、マザリン枢機卿の墓のために、マザリンの秘書であったエルピディオ・ベネデッティ(画家のマリア・エウフラシア・デラ・クローチェの弟)のために、はかない葬儀用の建造物をデザインする[1]。 このプロジェクトでは、特に優れた2枚の図面が残っている[1]。


    1663年から1668年にかけて、プラウティラはエルピディオのためにベネデッティ荘を設計・監督し、「ヴィラ・イル・ヴァセーロ」(現在はほとんど破壊されている)と呼ばれた[1]。 エルピディオは、ローマには他にないようなヴィラを建てたいと考え、プラウティラを雇ったのかもしれない[4]。 プラウティラは弟のバジリオに手伝ってもらった[4]。 建築は、ロジア、曲面の壁、精巧なスタッコなどを用いた珍しいものだった。 [4] プラウティラは、ピエトロ・ダ・コルトーナ、フランチェスコ・アレグリーニ、ジョヴァンニ・フランチェスコ・グリマルディらと一緒に、ヴィラ内のデザイン、ギャラリーの「フェリシタス・ピュピュタス」の寓意画、礼拝堂の「聖母被昇天」の祭壇画を描いた。 [4][7]ヴィラは船に似ていることからヴィラ・イル・ヴァスケロという愛称で呼ばれていた[4]。 エルピディオが1664年にフランスを訪れてフランスの建築に影響を受けたこともあり、何度か計画が変更された[4]。 彼は1664年にジャン・ロレンツォ・ベルニーニにブリッチの計画の修正を依頼した[4]。


    1670年から1680年にかけて、プラウティラはローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェスチー教会にあるサン・ルイージ礼拝堂の設計と建設を監督するとともに、礼拝堂の祭壇画を描き、レリーフや彫刻を彫った[1][3]。 [1675年には、ポッジョ・ミルテート村のために洗礼者聖ヨハネが描かれた行列用の旗を製作した[1]。 また、地元のカレッジのために漆喰の浮き彫りをデザインした[1]。 1686年には、ラウロのサン・サルバトーレの美術展に絵を出品した[1]。


    後半生と死[編集]

    1677年、プラウティラは兄とともにエルピディオ・ベネデッティから与えられた家に移り住んだ[1]。 1692年に兄が亡くなると、トラステヴェレのサンタ・マルゲリータ修道院に移り、1705年に亡くなった。彼女はトラステヴェレのサンタ・マリアで兄の隣に埋葬されている[1]。


    遺産[編集]

    フィリッポ・バルディヌッチは、現代芸術家の伝記の中で彼女の技術を賞賛している[1]。 アントニオ・デッリ・エフェッティは、『Studiolo di pittura nella Galleria della Ricchezza』の中で彼のキャビネットを紹介しており、ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリの『Nota delli Musei』にも登場している。 [1]エルピディオは、1677年にマッテオ・メイヤーというペンネームで出版された『Villa benedetta discritta』という本の中で、自分の別荘の設計について述べている[4][3]。 この本の中で、エルピディオはバジリオが設計したと主張しているが、建築契約書や図面を見ると、プラウティラが主な建築家であることがわかる[3][7]。


    Plautilla Bricci


    https://www.theartpostblog.com/en/life-works-plautilla-bricci-painter-architect/

      

    One of her most beautiful works, however, is the altarpiece depicting ‘St Louis IX of France between History and Faith’ painted by Plautilla for the chapel of St Louis (1676-1680) in the Church of the French, entirely designed by the architect for Abbot Benedetti, next to the Contarelli chapel, where the works of Caravaggio are to be found.

    しかし、彼女の最も美しい作品の1つは、フランス教会のセントルイス礼拝堂(1676-1680)のためにプラウティラが描いた「歴史と信仰の間のフランスのセントルイス9世」を描いた祭壇画で、完全に建築家によって設計されました。カラヴァッジョの作品が展示されているコンタレッリ礼拝堂の隣にあるアボットベネデッティのために。

    Plautilla Bricci、San Luigi IX di Francia tra la Storia e la Fede、1676-1680 – olio su tela、321 x 164cm。ローマ、サンルイジデイフランチェージ
    。。



    https://www.bonculture.it/femmes/storie/plautilla-bricci-larchitettrice-della-villa-del-vascello/


    [以下ではないらしい]

ドメニキーノ
Domenichino
Dominique zampieri bm 116.jpg
生誕1581年10月21日
イタリア,ボローニャ
死没1641年4月15日
イタリア,ナポリ
運動・動向ボローニャ派
『ヴェローナの聖ピエトロの受難』

ドメニキーノ(il Domenichino)ことドメニコ・ザンピエーリ(Domenico Zampieri, 1581年10月21日 - 1641年4月15日)は盛期バロックのイタリアの画家。ボローニャ派(Bolognese School)もしくはカラッチ派に属する。


サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会
San Luigi dei Francesi (イタリア語)
Saint Louis des Français (フランス語)

898年、サラセン人がファルファ修道院を焼いたため、避難民の一部がローマに移住した[4]。ローマに移り住んだ修道士らは修道院長 Ratfredus(934年 - 936年)が修道院を再建しても戻らなかった。10世紀末には、ファルファ修道院はローマに教会や住居や風車やブドウ畑を所有するようになっていた。神聖ローマ皇帝オットー3世は998年、3つの教会(サンタ・マリア、サン・ベネデット、サン・サルヴァトーレ)の所有を確認している[5]。1480年、ファルファ修道院が資産をメディチ家に引き渡したとき、サンタ・マリア教会を聖ルイ教会に改称した。枢機卿ジュリオ・デ・メディチは1518年、フランス人コミュニティのための教会の建設を Jean de Chenevière に委任した[6]。1527年のローマ略奪で建設は一時中断したが、1589年にドメニコ・フォンターナが完成させた。内装は1749年から1756年にかけて Antoine Dérizet が改装している。


https://en.wikipedia.org/wiki/San_Luigi_dei_Francesi


en:

Ospizio San Luigi dei Francesi[edit]

Adjacent to the church is the late-Baroque Ospizio San Luigi dei Francesi. It was built in 1709–1716 as a place to stay for the French religious community and pilgrims without resources.[14] Its porch has a bust of Christ whose face is traditionally identified as Cesare Borgia's. The interior houses a gallery with portraits of the French kings and a notable Music Hall.

2021年12月7日火曜日

算数の説明から論文執筆まで!記事内で「数式」が使えるようになりました|note公式|note

算数の説明から論文執筆まで!記事内で「数式」が使えるようになりました|note公式|note

算数の説明から論文執筆まで!記事内で「数式」が使えるようになりました

見出し画像

noteで数式を表現できるようになりました!

数学が好きなみなさんはもちろん、

  • 先生による算数・数学の解説

  • 経済学や金融、マーケティングの理論の解説

  • 論文の執筆

などの用途にも利用できます。

noteでは、あらゆる表現ができるように機能追加をつづけており、今回の数式表現もそのひとつです。

例えば、このように数式の解説ができます。
note上で算数の授業もできるようになるかも?

\frac{1}{2} + \frac{1}{3}
= \frac{3}{6} + \frac{2}{6}
= \frac{5}{6}

入力画面では数式がどう見えるのかプレビュー表示を、他のサービスでもつかわれている「TeX記法」という一般的な手法で数式を書くことができます。

数式記法の使い方

noteでは、「インライン数式」と「ディスプレイ数式」の2種類の数式記法を利用できます。数式の表現には、TeX記法を採用しています。

① インライン数式

  1. 数式にしたい箇所を$${}$$ (全て半角)で囲みます。

  2. その間の部分がインラインでの数式として表示されます。

[表示例]
「インライン数式です。y = x^2 のような形で行の途中の一部分を数式表示にすることができます。」

[入力例]

エディタ上で入力している内容

インライン数式が使えるのは、以下の箇所です。
(見出し・コードブロック・引用の中では利用できません)

  • 通常の文章の行

  • リンクの文字

  • 太字の文字

② ディスプレイ数式

  1. 下記のように数式にしたい段落の先頭と末尾の行に「$$」(半角ドル記号2つ)を入力します

  2. その間の行に数式を入力します。

  3. その段落が数式として表示されます。

[表示例]

y = (x + 1)^2 \\ = x^2 + 2x + 1

[入力例]

エディタ上で入力している内容

プレビュー機能について

新エディタを利用して数式を書く場合、プレビューを利用することができます(数式自体は現在のエディタでも表示できますが、編集中のプレビューは表示されないため、下書き機能などを利用してご確認ください)。

プレビューを利用するには、インライン数式 / ディスプレイ数式ともに、開始記号と終了記号の間(図の赤囲みの部分)にカーソルを移動させるとプレビューが表示されます。

利用できるTeX記法について

下記URLにある記法を利用することができます。

ただし以下の制約があります。

  • セキュリティの観点から、HTML機能は無効化されているため使用することができません。

  • 一部のenvironment(equation/align/gather/alignat/CD)はインライン数式では利用することができません。

詳しくは、ヘルプページをご覧ください。

参考にしたご意見

今回も、クリエイターのみなさんからのツイートやnoteを見ながら、実施の判断や仕様検討の参考にさせていただきました。いつもありがとうございます!

ハッシュタグ #noteで数式 でnoteやツイートを投稿いただけると、note公式ページや公式SNSなどで紹介する可能性があります。


noteでは「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする。」をミッションに機能開発をしています。今回の数式表現につづき、あらゆる表現方法をカバーできるよう今後もみなさんのご意見・ご要望を受けてカイゼン事項を検討しています。

引き続き、創作活動がしやすい環境づくりを進めていきますので、ぜひご意見をお聞かせください。

機能に関するカイゼン・ご要望は noteフィードバック から。
その他のお問い合わせは リクエスト送信フォーム からお願いします。

※ noteは日々カイゼンを行っており、今後のカイゼンによっては、ページデザインが変わる可能性があります。そのため、今回おしらせした新機能の最新版については、ヘルプページをご確認ください。

▶ 数式記法の使い方

2021年12月6日月曜日

必要なのは信頼と透明性 デジタル先進国フィンランドから学ぶ、公共サービスの在り方

必要なのは信頼と透明性 デジタル先進国フィンランドから学ぶ、公共サービスの在り方

必要なのは信頼と透明性 デジタル先進国フィンランドから学ぶ、公共サービスの在り方

2021.12.2

社会

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必要なのは信頼と透明性 デジタル先進国フィンランドから学ぶ、公共サービスの在り方

写真:内山さつき

フィンランドは、ヨーロッパでもデジタル化が進んでいる国だ。EUが発表する「デジタル経済・社会指数」(DESI)でも常に上位に位置。例えば、フィンランドの個人識別番号(社会保障番号)はあらゆる行政サービスとひも付き、利用者から信頼と評価を得ている。早晩、どの国もデジタル化は避けられないが、日本をはじめ事情があってなかなか進められずにいる国も少なくない。先を行くフィンランドでは、どのようなことがデジタル化され、どんな社会を目指しているのか、駐日フィンランド大使館参事官のレーッタ・プロンタカネンさんにお話を伺った。

フィンランド大使館 報道・文化担当参事官

レーッタ・プロンタカネン れーった・ぷろんたかねん

フィンランド南部のハメーンリンナ生まれ。戦争研究の修士号を取得後、長年、危機管理や平和構築の報道や広報に携わる。2020年10月より現職。来日前は、ヘルシンキのフィンランド外務省コミュニケーション部にて、西欧とアジア全体を担当。コーヒー、読書、美術館巡り、サイクリングを愛し、サッカーと乗馬は長年の趣味。

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Kelaカード、個人IDひとつであらゆる公共サービスを

「フィンランドの個人識別番号(個人ID)は、もともとは1960年代に年金受給者に年金を支給するためのサービスを改善するために作られたものなんです。受給者たちが、年金をもらうために長い列を作ることがたびたび問題になっていて、また支給する際、マッティ・ヴィルタネン(フィンランドではよくある名前)のような同姓同名によるミスなどが起こらないようにという理由などもあり、国民一人ひとりを識別できるIDナンバーを付けるということをしたわけです」(駐日フィンランド大使館参事官 レーッタ・プロンタカネンさん、以下同)

フィンランドの個人IDは生年月日から始まり、以降続く11桁の記号を含む英数字の羅列になっている。例えば、1900年代に生まれた人は、生年月日の後ろにハイフン「-」、2000年代に生まれた人は、アルファベットのAがつく。3ケタの数字が続いた後、数字かアルファベットがつく。

番号を記したカードは、「Kela(ケラ)カード」と呼ばれ、病院や薬局で処方薬をもらう際などに提示する。また、その番号は自分の誕生日から始まるため、「利用者にとっても覚えやすい」とレーッタさんは語る。

「さまざまな行政サービスと結合していたこの個人IDを使い、あらゆるオンラインサービスを受けられるようになったのは10年ほど前からになります。これを使ってオンラインで何ができるか、私がフィンランドから日本に引っ越ししたときのこと、フィンランドに一時帰国したときのことを例にお話しましょう。

まず、住民登録センターにこのIDでアクセスし、住所の変更ができます。そこに、この住所を郵便局に通知してもよいかという項目があるので、それをチェックすると、郵便転送手続きも完了です。税金に関することや、新しいパスポートの取得もこの個人IDを使ってオンラインでできました。これらの引っ越しに伴う手続きでは、一度も紙で提出したりすることはありませんでした。また、フィンランドに一時帰国したときも、この番号を使って、PCR検査の予約や陰性証明の取得をしたり、図書館から借りる電子書籍の予約やダウンロードを行いました」

Kela(ケラ)カード

フィンランドの社会保険庁が発行する健康保険を受けるためのカード。住民登録に基づいて割り当てられた社会保障番号ごとに発行される。外国人でも、1年以上住み続けるか、フィンランドで雇用され一定の給与があるなど条件が揃えば申請することができる。医療費や疾病手当の給付のほか、あらゆる公共サービスと連動し、出生時の育児パッケージから育児支援、住宅家賃補助、失業・退職手当、年金等がこれによって給付される。1963年に初めて発行された。

一つの個人IDでさまざまな行政手続きができるのは効率的で、公共サービスを受けるハードルもぐっと下がりそうだ。日本のマイナンバーカードはまだ日常的に使うレベルには達しておらず、現在の行政手続きの煩雑さや申請の手間を考えると、フィンランドのこの制度はなんとも羨ましい限り。しかし、生年月日から始まる、覚えることができる程度の番号では他人に悪用されたりすることはないのだろうか。

「そうですね、その危険性が無いとは言えないかもしれません。もちろん、不正ができないようなシステムや決まりは必要ですが、これは現在とてもうまく機能しているシステムで、それを差し置いても導入するメリットのほうが大きかったのです。フィンランドでは信頼がとても大切にされています。国民は政府を信頼していますし、社会を良くしていくためには互いが信頼し合うことが前提なのです。

例えば、ヘルシンキを旅したことがある人はご存知かもしれませんが、電車には改札がなく、トラム(路面電車)でも基本的に切符を確認していません。その方が利用者の利便性が上がるからです。確かに中には切符を買わずに乗ってしまう人もいるかもしれませんね。けれど、そういう限られた一部の人たちを排除するために改善ができず、その他大勢の人たちの利益が損なわれることの方が、デメリットが大きいと私たちは考えているんですよ」

ヘルシンキ名物「トラム」は市民の足。乗降時のチケットのチェックは基本的に無い。

すべての人にとって使いやすくなければならない

昨今、ビジネスシーンで取り上げられることが多いDX(デジタルトランスフォーメーション)は、デジタル技術によってビジネスモデルを変革することを指す際に使われるが、そもそもは「デジタル技術を進化、浸透させることで、人々の生活をより良いものへと変革すること」と定義されている。フィンランドのデジタル化はまさにこのDXの思想に基づいて行われているといえる。

「私たちにとってデジタル化とは、社会やサービスをより良いものにするためにあるもので、まずは利用者に"これは便利だ"と思う経験をしてもらうことを大切にしています。それが利用の継続につながっていくからです。フィンランドでは、ほかにもさまざまな面でデジタル化が進んでいて、それはきっと旅行者でも実感できるのではないかと思います。例えばトラムのチケットも今は基本オンライン決済で、トラム内では現金を使ってチケットを買うことはできません」

日本でも近年急速にデジタル化が進んではいるものの、公共交通機関で現金が使えなくなると、さすがに戸惑う人々も出てきそうだ。フィンランドでは、デジタル化の過渡期にそうした問題はなかったのだろうか。

「こういうサービスは、使いやすい設計が大事です。PCを持っておらず、触れたことがないような人でも、普及率の高いスマホを持っていれば苦にならず利用できるようにする。私の母も高齢ですが、スマホを使って、自分で電車のチケットを取っています。

フィンランドでは、公共サービスは高齢者だけでなく、ハンディキャップのある人、あらゆる人にとってわかりやすく、すべての人が使えるものでなければいけないと定められていて、細心の注意を払って作られているんです。これは、ユーザーの側でなく、システムを開発する側の責任だと私たちは考えています」

フィンランド政府は、こうしたサービスの利便性について、利用者のフィードバックを積極的に取り入れているという。サイトのグラフィックを含め、利用者にとって使いやすいものにするため、調査グループを作り、試行錯誤を繰り返す。それでも使い方がわからない人には、デジタル面でのサポートをするスタッフを用意している。

「使いづらければ直していかなくてはいけません。デジタル化のためのデジタル化ではなく、利便性、安全性が改善されていくことが大切なのです。一度作ったものでも、より良いものに更新していく必要があります。確かに、デジタル化において、年齢は一つのハードルになるかもしれませんね。人口約550万人のフィンランドも日本と同じく高齢化社会で、両国の人口比率はよく似ています」

先を見据えたデジタル教育

かねてからフィンランド国民は、コンピュータスキルが高いということも指摘されているが、フィンランドでは1984年から、中学校で選択科目としてコンピュータスキルを学ぶ授業が始まっている。

「これは、コンピュータに関する一般的な知識を学ぶもので、同時にあらゆる情報に対して批判的に見る力を養うメディアリテラシーを含む授業でした。DX、AIというと、難しく感じるかもしれませんが、決して謎めいたものではない。自分がコードを書けなくても、利用する際にどういうものかを理解することは重要です。

フィンランドの社会では、"透明性"もまた大切な要素です。例えば、税金がどのように使われているかということは、国は責任を持ってわかりやすく、クリアに情報提供しなければなりません。それと同じように、デジタル化を進めるのであれば、それがどういうものであるかを国民に提供する必要があります」

2018年、フィンランド政府は、AIの基礎知識や考え方について無料で学べるオンラインコース「Elements of AI」を開設した。そして、当時EU議長国であったフィンランドは、その務めを終える際、EU市民への贈りものとして、このコースをEUの公式使用言語すべてに対応できるようにして提供したのだった。

「Elements of AI」ホームページより

開発は、ヘルシンキ大学とフィンランドのIT企業リアクターが手がけた。英語、フィンランド語、スウェーデン語など多言語に対応しており、誰でも、どこからでも受講可能だ(※日本語には現在非対応)。それ以前も国内でAIに関する基礎教育を無料提供するなど、フィンランドはデジタルリテラシーを高める取り組みを続けてきた。

「フィンランド国内でも、まだまだ課題はあります。現在うまく機能しているシステムがあっても、常に先のことを考え、何をしたらよりよいものができるかという姿勢を持つことが大切です。1960年代に始まったこの個人IDのシステムが先見性のあるものであったように、未来を見据えた取り組みが必要ですね」

情報への信頼、医療情報アーカイブ「Kanta」

最後に、医療にまつわるフィンランドの画期的なシステムをご紹介したい。フィンランドでは、医療情報アーカイブ「Kanta(カンタ)」というシステムがあり、病院や薬局などの医療機関が電子カルテの情報共有をできるようにネットワーク化されている。診察履歴、診断結果、処方箋のデータなどが一元化され、医療従事者と患者本人が相互にアクセスできる。必要であれば、患者が自身の情報をプリントすることも可能だ。

「難しい病名や薬の名前などの記憶は曖昧になってしまいがちなので、新しく病院にかかるときなど、正確な情報を自分でも常に確認できることは良いことですよね。

もちろんこれは、重大な個人情報なので、アクセスするためには本人の強力な承認が必要になります。このデータベースに何を記載して、何を記載しないかも自分で選ぶことができるんですよ」

「自分の情報は自分自身のもの」。フィンランドにおいてデジタル化が進んだ背景には、 国民が"自分の情報は守られている"という安心感を持てたことがありそうだ。そしてその安心感は、レーッタさんが繰り返し語った、国と社会への信頼、そして透明性という2つの大切な要素に支えられている。

なぜ若き女性首相は誕生し得たか フィンランドの女性の政治参画の秘密

なぜ若き女性首相は誕生し得たか フィンランドの女性の政治参画の秘密

なぜ若き女性首相は誕生し得たか フィンランドの女性の政治参画の秘密

2021.11.25

政治

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なぜ若き女性首相は誕生し得たか フィンランドの女性の政治参画の秘密

写真:ロイター/アフロ

北欧は男女平等が進んでいる社会だとよく言われるが、フィンランドの政界では国会議員の女性割合が5割に近い。象徴的なのは世界最年少の34歳で首相となったサンナ・マリン氏の存在だ。また、隣国スウェーデンにも初の女性首相マグダレナ・アンデション氏が誕生したばかり(※)。フィンランドで女性の政治参画を促した背景には何があったのか、東海大学で北欧社会について研究する柴山由理子さんに伺った。

※就任間もなく、議会に予算案を否決されたとによって連立政権が解消されたことを受けいったん辞任を表明

東海大学 文化社会学部 北欧学科 講師

柴山 由理子 しばやま ゆりこ

比較政治学、フィンランド地域研究を専門とする。早稲田大学社会科学研究科博士後期課程を満期退学。フィンランドのデザイン企業Golla Oyの Vice President of Sales and Marketingを経て、現職に就く。

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連立政権5党の党首は全員女性

2019年、34歳で首相に就任し、世界を驚かせたフィンランドのサンナ・マリン首相。彼女が率いる内閣は、2021年12月で発足2年を迎える。日本では、首相の34歳という若さのみならず、発足当時の内閣閣僚19人中、12人が女性だったことも話題になった(現在は女性11人、男性8人)。連立政権5党の党首は全員女性で、マリン首相を含む4人は当時35歳以下だった。

左から、法務大臣のアンナ・マヤ・ヘンリクソン氏(スウェーデン語系国民党)、教育大臣のリー・アンダーソン氏(左派連合)、首相のサンナ・マリン氏、内務大臣のマリア・オヒサロ氏(緑の党)、科学・文化大臣のアンニカ・サーリッコ氏(中央党) 写真:フィンランド政府

一方、日本はというと、2021年3月に世界経済フォーラムが発表した「ジェンダーギャップ指数」で、世界156カ国のうち120位という結果(フィンランドはアイスランドに次いで世界第2位)。特に政治参画、経済参画の分野での数値が低く、政治参画では147位、アジア太平洋地域の中でも下から3番目だった。

2021年10月4日に発足した第1次岸田内閣では、閣僚20人のうち女性は3人、平均年齢は岸田首相を含め61.8歳だった。女性閣僚の少なさは岸田政権に限ったことではなく、衆参ともに女性議員自体が少ない。

※衆院選2021の候補者は1051人。政党内の男女候補者数をできる限り均等にするよう求める法律施行後、初の衆議院選挙となったが、女性の候補者は186人で、全体の17.7%にとどまり、当選者は45人で全体の(9・7%)となった。

フィンランドの政治体制

フィンランドは共和制、議会は一院制。国家元首は大統領で外交を担い軍の指揮を執る。任期は6年。政府のトップである首相は内閣を組織し内政を担う。任期は4年。近年、議院内閣制への制度改革が進み権限も内閣に移行している。

いかにして若き女性首相は誕生したか

「2019年4月に4年に一度の国政選挙が実施されて社会民主党が久しぶりに勝利を収め、社民党のアンッティ・リンネ氏が率いる5党連立政権が成立しました。それまでは、伝統的に農業従事者を支持基盤とし、地方に強い中央党が政権を握り、国民連合党や真のフィンランド人党と連立を組んでいましたが、これによってフィンランドの政治は中道右派から中道左派へと舵を切ったことになります。ただ、与党だった中央党も組閣ではそのまま内閣に残りました。

2019年11月、アンッティ・リンネ首相が郵政関連事業の混乱の責任を取り辞任したため、副党首だったサンナ・マリン氏が首相候補に躍り出ます。マリン氏は、2019年の選挙対策を担っており、リンネ首相が病気で休養していたときには、副党首を務めていたこともあったので、ここで首相候補になったことは自然な流れだったと言えると思います」(柴山さん)

若き首相が誕生したことについては、フィンランド国内ではどのように受け止められたのだろう。

「フィンランド国内でも2つの意味で好意的に受け止められていたと思います。一つは、フィンランドの政治に新しい風が吹き込むという期待感。もう一つは、この内閣誕生のニュースは世界中のメディアに取り上げられたので、北欧の小国が海外から注目されることを誇らしく思う気持ちです。

個人的にも新鮮だという感覚がありましたし、当然だというよりは、驚きを持ったと思います。というのは、サンナ・マリン首相には、これといった強力な後ろ盾がいたわけではなく、党内の実力者の誰かが目をかけていたという話も聞いたことがありません。ヘルシンキの有力紙『ヘルシンギン・サノマット』の政治記者に、マリン首相の人柄を訊ねたことがあるのですが、そのときも『群れずに自立している人』と答えていたのが印象的でした」

内閣発足から2年が経とうとしているが、現政権への評価はどうか。

「マリン首相人気に支えられていると言ってもいいかもしれませんね。現政権のコロナ対策への評価は高く、2021年6月に行われた、通常は与党に厳しい地方議会選挙でも、マリン首相率いる社民党の得票率は変わりませんでした。ちょうどその頃、官邸での朝食費を公費で支払ったなどのスキャンダルも出ましたが、キリッと受け答えて大きな問題にはならなかったようです」

フィンランドでは地方政治家は兼業が当たり前

2021年6月の地方選挙では、立候補者は全人口550万人中3万5627人で、その約4割が女性だった。興味深いのは立候補者の内訳が、教師や学生、バスの運転手、郵便局の職員、自営業などの一般市民だということだ。

「フィンランドの地方政治においては、政治家はほとんどが兼業です。たいていは自分の仕事がほかにあって、自分たちの住んでいる地域をより良くしたいから政治に参加しているのです。政治家の報酬は高くありません。会議手当が主で、自治体の規模によっても額は違いますが、1回3千円〜3万円くらいまでで、決して大きな額ではありません」

フィンランドの自治体の政治は、市民生活とかなり近いところにあるようだ。それは議会の規模も関係している。

「規模感も小さいですからね。人口によって最低の議員数が決められているのですが、地方議会でいうと、一番議席数が多いのは、人口65万人のヘルシンキで85議席、都市の大きな自治体だと60人〜70人、中規模の都市だと40人〜50人の議員数で、最小議席数は13人です。中規模都市だと、大学の一クラスの人数とほぼ同じくらいですね」

ちなみに日本で議員数が最も少ない自治体は鳥取県の35人、最も多いのは東京都の124人だ。

マリン首相も、大学在学中に南西部の都市タンペレの市議会議長などを務め、そのキャリアを地方政治から始めた。この一般市民の政治への参加のしやすさが、確かに女性の政治参画につながっているとは言えそうだ。しかし、その歴史は、他国とは少し事情が異なっているという。

「フィンランドの女性参政の歴史には、何か大きな変革があったわけではないんです。例えば、ノルウェーでは各政党がクオータ制(※)を導入し、スウェーデンではほとんどの政党が比例代表の候補者名簿において男女候補者交互方式を自主的に採用した結果、女性議員の割合がぐっと増えています。

北欧諸国にはそうした、女性の政治参画が画期的に進められた"ある起点"があるのですが、フィンランドにはそういったきっかけはなく、徐々に伸びているといった感じなんですね」

※クオータ制:議会における男女間格差を是正することを目的に、候補者の一定数を女性に割り当てること

1917年に当時のロシアから独立したフィンランドは、1906年に独立機運の高まりのなかで議会改革を行い、翌1907年に初の議会選挙を行った。その際に男性も女性も共に参政権を得ている。

「1907年の選挙では、比例代表制の200議席一院制で、これは現在も変わっていませんが、1907年の時点ですでに19人女性政治家が当選しています。そこから、戦後までは20人〜30人で推移していて、60年代以降、35人〜60人前後と増えていったという感じですね。60年代以降順調に伸びているのは、女性の労働参加が進んでいったためと、ちょうどその頃になされた福祉国家建設の担い手が女性政治家だったということもあるでしょう」

女性政治家の福祉国家建設への寄与

1960年代から行われた福祉国家の建設には、中央党の家族政策と、各党の女性議員の増加が大きな役割を果たしていると柴山さんは指摘する。

長年スウェーデン、ロシアの支配下にあったフィンランドは、もともと富裕層が少なく、独立自営の農民が多数で格差があまりなかった。長らく農村社会が続いたため、農民を支持基盤とする中央党の勢力が大きかった。また、領土をめぐって歴史的に緊張関係にある隣国ソ連(ロシア)への警戒心があり、他の北欧諸国では福祉国家建設への大きな役割を果たした社民党がそこまで支持を伸ばさなかったことが特徴的だという。

「1960年代~1970年代中頃までの間、フィンランドでは福祉国家が形作られていきますが、それは中央党と社会民主党の拮抗のなかでなされていったものです。都市に支持基盤のある社民党は、所得に応じてサービスを受けられるような政策を推しましたが、これは主な賃金労働者である"男性"に有利とも取られかねません。一方、中央党は、すべての人々にサービスを充実させたい一律給付の方向性を打ち出し、そこで活躍したのが女性の議員たちでした」

加えて、農村社会の次に訪れた工業社会の時代が短かったこともフィンランド独自の社会背景として挙げられるという。

「フィンランドでは、1960年代に第2次産業が第1次産業を上回るのですが、そのほぼ同時期からITなど第3次産業が強くなっていきます。工業社会では、男性が外で働き、女性が家を守るといった男女分業を強める傾向があり、日本やスウェーデンではそうした社会構造がうまくいっていた時期もありました。でもフィンランドの場合は、工業社会が長続きせず、すぐにポスト工業社会に移行したことで、そうした構造に縛られずにすんだのかもしれません」

そして、ポスト工業社会に移行するなかでなされたのが、福祉国家の建設だった。社会進出した女性たちが福祉、教育、医療の現場に入っていき、こうした女性たちの声が政治に反映されて、福祉産業が公共サービスとして整えられていく。保育、教育、医療が家庭から切り離されたことによって、女性たちはより安心して社会で働くことができるようになっていった。

「女性たちの声が政治に反映された実感があり、女性の候補者が増え、投票率も増え、政治家も増えるという好循環があったのでしょう。でも、当時のフィンランドは、第二次大戦の敗戦国として高額の賠償金もあり、決して余裕のある社会ではありませんでした。共産圏にはならずには済みましたが、領土の一部を失いましたし、とにかく女性を含め納税者が必要だったというのもあるのです」

女性政治家に求められるもの

2007年以降、フィンランドの女性議員の比率は4割以上を維持し、現在では国会議員の約47%が女性だが、まだまだ課題もあるという。

「1960、70年代に医療や教育の分野で女性議員が果たした役割が大きかったので、福祉政策にかかわる教育、社会保健大臣に女性が多いです。反対に、場合によっては国際社会での対外的な交渉を求められる外務大臣、防衛大臣は、男性が多い。大臣ポストに性別役割分担の傾向が存在しています。こうした偏りへの指摘は国内からもあり、問題意識は持っているようです」

それでも女性大臣が実績よりもアイコン的に起用される日本の現状からすると、格段に進歩的な課題ではある。

「今の社会政策の主な担い手は、家族政策などを推してきた中央党党首アンニカ・サーリッコ氏と、家族問題・社会サービス大臣は社民党のクリスタ・キウル氏、どちらも30代後半〜40代の実力ある女性たちですよ」

そんな頼もしい女性たちが活躍するフィンランドには、かつて国民から「ムーミンママ」と呼ばれ、親しまれた女性大統領がいた。2000年〜12年の2期を務めた、フィンランド初の女性大統領、社民党のタルヤ・ハロネン氏だ。

フィンランド初の女性大統領(在任2000年3月1日~2012年3月1日)を務めたタルヤ・ハロネン氏(中央) 写真:フィンランド政府

「ハロネン氏は、フィンランドのつらい時代を知っている、堅実な政治家というイメージ。その安定感、安心感が『ムーミンママ』という愛称を生んだのでしょう。ジェンダーに対しては中立的でしたが、ハロネン氏が長く大統領を務めたことが、後進の女性政治家を育てる素地となったことは間違いありません」

それに対して現首相のマリン氏は、あらゆる意味で新しい時代の政治家であるといえそうだ。

「マリン氏も同じく社民党ですが、ハロネン氏がドイツのメルケル元首相のようなお母さん、安心感、といったイメージであるのに対し、マリン氏は新しい価値観で現れたモダンな政治家。彼女自身がレインボーファミリー(同性カップルの家庭)に生まれ育ったという背景もあります。メディアの使い方もうまいですし、自らもインスタグラムを駆使したりして、発信力がある。若者にも人気です」

女性政治家が体現するイメージ、求められるものもまた変わりつつあるということか。発足からまもなく2年が経つマリン内閣。雇用問題の解消やバイオ、循環型経済などの新産業への転換を打ち出しながら、精力的に課題に取り組んでいる。そんなマリン氏らフィンランドの女性議員たちの姿を、私たちの国はただ眩しく眺めているだけでなく、せめて追いかけているという実感ぐらいは持ちたいものだ。

2021年12月4日土曜日

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