こうして123便の垂直尾翼を破壊脱落させたのは、自衛隊の無人標的機であるのはほぼ間違いないと判断できるが、自衛隊は123便の墜落後、標的機が衝突した可能性について聞かれて、「標的機を発射できる船は、今、呉港にいるので、事故原因は標的機ではない」と言い訳した。これは、物理的、技術的に衝突の可能性を否定する証言ではなく、護衛艦のアリバイを示すことで自分は無実だと表明しようとするという発言である。だが、逆に言えば、相模湾近海に護衛艦さえいれば標的機が発射されて衝突に至った可能性があることを暗に示す言葉だとも言える、と小田氏は述べる。
そして、実は事故当日、納入前の護衛艦「まつゆき」が相模湾付近で活動中であったことがわかっているのである。それは中曽根康弘総理大臣のもとで、軍事力の増強と能力アップのために発注された新式の護衛艦である。
その未納入護衛艦「まつゆき」が8月12日当日、相模湾で試運転と新型標的機の発射テストを行っていたことが分かっている。その際に何らかのトラブルにより、標的機が123便の尾翼部に激突した可能性がきわめて高い。それが新型標的機の欠陥によるものか、誘導装置の誤作動なのか、あるいは使用された標的機が何らかの理由で暴走したのか、それとも日航機の飛行時間が予想より遅れていた(日航機は定刻より12分遅れで出発していた)ことによるものなのか。いくつかの要因が考えられるが、いずれにせよ標的機が123便の機体最後尾付近に激突し、垂直尾翼とAPU(補助動力装置)を脱落させたのはほぼ間違いない、といえる。
http://okukundonadona.g2.xrea.com/nonfic/eien1.html
小田周二『永遠に許されざる者』
前編
本書は、1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故の遺族である小田周二氏の五冊目の著書で、いわば集大成ともいえるものである。副題は「日航123便ミサイル撃墜事件及び乗客殺戮隠蔽事件の全貌解明報告」
まず、以下に本書の末尾に書かれている著者の略歴並びに日航機墜落事故との関連、そしてこれまでの著作についてご紹介させていただく。
著者略歴
小田周二(おだしゅうじ)
1937年 | 奈良県生まれ。大阪大学工学部応用化学科化学工学修士課程。 プラスチック製造メーカーで研究、技術開発、製造、工務、品質管理等に従事。横浜市金沢区に在住。 |
・ | 日航機事故遺族 |
・ | 日航123便撃墜事件 1985.8.12 |
犠牲者名 次男小田浩二(15歳)、長女小田陽子(12歳)、中上岑子(37歳)、中上義哉(12歳)、中上佳代子(10歳)の5名 | |
・ | 日本の空の安全を願う会 主宰 |
・ | 8.12連絡会「日航123便墜落事故調査 分科会」会長 |
・ | 日本航空は加害責任を公私に認めたが、事故状況、事故原因についての技術会議を開催中(2013年から)。 |
・ | 公開質問状 9通提出。趣旨に合わない回答と言い訳のみ。 |
・ | 2017年「日航は加害者でなく、支払った金はお見舞金だ」と告白した。日本航空安全推進本部 権藤常務(福田、小副川、上谷、松本氏) ⇒(児玉、中野部長)⇒(山西、中野部長)「人事異動」 |
・ | コロナ禍で会議中断のため、TV質問と回答で事故原因究明中。 |
・ | 2017.10「加害者でない」と回答。 |
・ | 2016年4、6月 隔壁破壊説の矛盾についての質問と其の事故原因を提起した「公開質問状」を提出したが、一切回答がなかった。 |
・ | 前橋地検の不起訴判断で「航空局は無罪だ」と回答。 |
・ | 31周年慰霊式で航空局総務課長と面談。「責任はない」「加害者でない」と。 |
・ | 32周年慰霊式で航空局安全部長と議論「質問状は受理」「回答を行う」 |
・ | 33周年慰霊式で航空局安全部長と議論「質問状は受理」「回答を行う」 |
・ | 34周年慰霊式で航空局安全部長と質疑「質問状は受理」「回答を行う」 |
・ | 航空局、2020.1(公開質問状)の回答と(面談議論)実施を回答 |
著作 発刊日
・ | 出版本「日航機墜落事故 真実と真相」小田周二著 2015.3発刊 |
・ | 出版本「日航123便は何故墜落したのか」小田周二著 2015.12.12発刊 |
・ | 公開質問状「運輸安全委員会宛」小田周二著 2016.4.12発刊 |
・ | 出版本「日航機事故報告書は真っ赤な嘘である」小田周二著 2016.5.12 |
・ | 告訴状「前橋地方検察庁宛」小田周二著 2016.11.12 |
・ | 上申書「前橋地方検察長宛」小田周二著 2017.1.27 |
・ | 公開質問状「国交省、航空局宛」小田周二著 2017.2.25 |
・ | 告訴状2「前橋地方検察庁宛」小田周二著 2017.12.12 |
・ | 出版本「524人の命乞い」小田周二著 2017.8.12 |
・ | 出版本「永遠に許されざる者」小田周二著 2021.7 |
はじめに
筆者は、これまで日航123便墜落事故に関する著作としては、主として青山透子氏のものを中心に取り上げてきた。それは青山氏が、元日航の客室乗務員としてかつての同僚たちはもちろんのこと全ての亡くなられた搭乗者への強い鎮魂の想いを持ち、かつまた研究者として客観的で冷静な視点でこの事故を捉えようとしてきたからである。
もちろん、今回取り上げた小田周二氏の本書にも、遺族としての強い鎮魂の想いが貫かれているばかりでなく、この事故を引き起こした加害者への激しい怒りにも溢れている。ただ、本書には青山氏の著書に比べれば、多少「推測」の部分が見られることも確かである。そのために小田氏の著作は、ややもすれば「創作」扱いを受けてしまう虞れがあることも否めないであろう。
しかし、その「推測」も状況証拠を積み重ねてなされているので、決して「憶測」ではない。この日航123便墜落事故では多くの「事実」が未だに闇の彼方に葬られ、「真実」が捻じ曲げられてしまっている。その「真実」を明らかにするためには、事実に基づく証拠、すなわちエビデンスを積み上げていくしかないが、しかし、ここに大きな壁が立ち塞がっているのだ。つまり、日航123便墜落事故の「真実」を隠蔽しようとする国家権力の壁である。
いまだに、最も重要なボイスレコーダーもフライトレコーダーも全面開示がなされていないし、また伊豆半島の沖合の海底160メートルに沈む垂直尾翼の残骸の一部とAPU(補助動力装置)の引き上げも行われていない。またすでに荼毘に付され合葬された身元不明者の遺骨は御巣鷹の尾根に設けられた埋葬墓に納められ、「開かずの扉」によって永遠の眠りにつかされている。
これらは、国家権力の手にかかればどうにでもできる話であるが、遺族の方々の力だけではどうにもならない。また、これらの重要証拠ばかりでなく、諸々の文書・通信記録などもほぼ全て不開示とされている。事故の真相を知りたいという遺族の方々の切実な想いに対して、政府・日航本社の応対はあまりにも理不尽極まりないものである。
著者の小田氏は、そうした理不尽な対応にもめげずに、諦めることなく日航123便墜落事故の「真相究明」にその生涯を傾けてきた方である。そして、闇の彼方に葬られた「事実」を明るみに出そうとする小田氏の努力によって、次第にその「事実」の輪郭が闇の中から少しずつ浮かび上げって来たのではないかとも思われる。
まもなく事故から40年が過ぎようとしている。遺族の方々も含めて直接の関係者の多くがすでに亡くなられてしまっているなか、ますます事実を明らかにすることは困難になりつつあるが、国を動かすためには何よりも世論の力が大きいことは言うまでもない。どうぞ、皆さんにもぜひ本書をご一読いただき、日航123便墜落事故の「真相究明」への重い扉を皆さんの力で開けていただければと願っている。
本書では、これまで筆者が紹介して来た青山氏の著作の中に書かれていることは、なるべく重複しないように心がけ、小田氏の調査によって浮かび上がって来たことを主に紹介していきたいと思う。
本書は、第一部~第三部で構成されており、それぞれ第一部(1~7章)第二部(8~12章)第三部(13~17章)となっている。
本題に入る前に、小田氏は、無辜の国民の命を奪った「中曽根総理」「自衛隊」こそ「永遠に許されざる者」である断言したうえで、次のように述べている。
1985.8.12に起きた日航123便墜落事故は自衛隊による日航123便乗客乗員の残虐非道の殺害殺戮車件であり、それは冷酷残虐な権力者の自己保身のために行われたものである。そしてそれに加担し、日航123便を、ミサイルで撃墜した自衛隊はもとより、捜索・救助を装って上野村に入り村民の救助活動を妨害し、捜索救助の不作為によって生存者を見殺しにした自衛隊・群馬県警、さらには嘘の「隔壁破壊説」を捏造して、35年間も遺族を騙してきた運輸省(当時)航空局、そして、事故の真実を知っていながら、「加害者」だと自称して「補償交渉」を行い、それも35年間にわたって遺族を騙してきた日本航空、これらはすべて、永遠に許されざる者である。
こう述べたうえで、その対象としてあらためて以下を挙げている。
許されざる者: | 政府権力者、自衛隊、群馬県警、運輸省(国土交通省)航空局、日航、ボーイング社、前橋地検、35年間の政府権力者、自民党総裁!! |
さて、小田氏は本書において、なぜ彼らが「許されざる者」であるのかを詳しく述べているので、以下に順次見ていこう。
まず、この日航123便墜落事故がどのように起こったのかを本書に基づき確認しておきたい。
日航123便墜落事故の概要
1985年8月12日、18時12分、日本航空・羽田発大阪行きの123便、すなわち日航123便が東京の羽田空港を離陸した。定刻の12分遅れでの出発で、約1時間後には大阪空港に着陸することになっていた。
123便で用いられていたのは「ジャンボ機」として知られるボーイング747型機。機体番号はJA8119で、1974年1月に製造された機体だった。全長70.5m、全幅59.6m、全高19.3m、重量は250トン超。巨大な機体は、528もの客席を備える。
当日、この123便には合計509名の乗客が登場していた。普段から羽田一大阪便は東西を結ぶビジネス便として利用され、夕方に羽田を発つ123便には東京方面での出張を終えて関西方面に戻る多くのサラリーマンが乗り込む。それに加えてこの日、8月12日は夏休み、お盆休みの最中ということもあり、東京ディズニーランドやつくば科学博覧会などの観光を楽しんだ家族連れ、あるいは親戚が乗り合わせての利用も多かった。
123便のコックピットで操縦を担ったのは、高濱雅己・機長(49歳)、佐々木祐・副操縦士(39歳)、福田博・航空機閑士(46歳)の3名である。高濱機長は操縦教官、福田機関士は技術教官を務める優秀なベテランであり、佐々木副操縦士も機長昇格を間近に控えていた。この日は機長昇格のテストを兼ねて佐々木副操縦士が操縦桿を握り、傍らでそれを高濱機長が補佐した。さらに同機には男性のチーフ・パーサー、7名の女性アシスタント・パーサー、4名のスチュワーデス(現在は客室乗務員と呼ばれる)の12名が乗り組んでいたから、日航の乗員は合計15名だった。
こうして509名の乗客と15名の乗務員、合わせて524名の命が18時12分に羽田を飛び立ったのである。
予定されていた飛行ルートによると、同機は離陸後に千葉県館山の東方上空に達し、そこから南下して静岡県焼津市の上空を経て西へ。さらに紀伊半島上空に達したところで右旋回して北上し、大阪空港へと向かう予定だった。
だが、同機が大阪空港上空に姿を現すことはなかった。
18時24分に機体に何らかの異変が生じたことを東京管制に伝えてきた123便は、救難を意味する「スコーク77」を発信。この時、同機は伊豆半島南部の東岸、相模湾上空を飛行中だった。その後、機長らは何らかの異常によって自機が昇降舵や方向舵を操作するのに必要な油圧機能を喪失していることを知る。
だが、同機は「羽田に引き返す」と東京管制に伝えた後、通常の飛行ルートを大きく外れて内陸に向けて北上しながらも、約32分間にもわたって飛行を続ける。詳しくは後に述べるが、524名を乗せた123便は富士山北側上空をかすめ、山梨県の大月市上空で360度以上の旋回飛行後に米軍横田基地飛行場への着陸を目指し、その後、長野県川上村のレタス畑の不時着行動の後、機首を秩父山系へと向ける。ほどなく123便は、群馬県と長野県、埼玉県の県境が接する山岳地帯に分け入っていく。1,500mを超える急峻な山々が連なる一帯である。
18時56分、その山岳地帯を飛んでいた123便の機影がレーダーから姿を消した。同機が群馬県上野村高天原山の尾根、通称「御巣鷹の尾根」南東側に墜落していることが公式に明らかになるのは、それからじつに10時間も経た13日早朝のことだった。
その後、13日の10時45分ごろから相次いで4名の乗客生存者が発見され救出されたものの、残り520名が死亡。一度に失われた人命の多さという点だけ取っても、123便墜落事故は1985年当時も2020年8月時点でも史上最悪の航空機事故であり続けている。
運輸省事故調査委員会の「事故調査報告書」の事故原因
事故調査委員会が事故から約2年後の1987年6月19日に発表した「事故報告書」によれば日航123便墜落事故の事故原因は、おおよそ以下のようなものである。
ボーイング社の隔壁部の修理ミスにより、機体後部の圧力隔壁が長年の金属疲労により劣化した。亀裂が成長し、ある時点で一気に隔壁が破壊されて機内空気が流出し、噴出した空気が垂直尾翼とAPUを破壊し、同時に操縦に不可欠の油圧配管を断絶破壊した。垂直尾翼の破壊とトルクボックスが損傷したために方向舵は脱落し、4系統の操縦系油圧配管も全て破断した。
以上のような機体後部の破壊によって、方向舵、昇降舵による操縦能力や水平安定板(=水平尾翼)のトリム変更機能が失われ、ほとんどの操縦機能が失われた。機体の姿勢や方向の維持、上昇、降下、旋回等の操縦が極度に困難になり、激しいフゴイド運動(旅客機などの固定翼機において、進行方向に対して縦方向に生じる機体の揺れのこと)、ダッチロール運動(飛行中の航空機が何かの拍子に横滑りをしたときの傾きを解消する方向へのローリングモーメントが発生し、勢いあまって反対側に傾くという揺り返しが生じる。それがまたさらなる揺り返しを生み、横滑りが連続する不安定な飛行状態のこと)が生じた。その抑制は難しく、不安定な状態での飛行の継続はできたが、機長の意図通りに飛行させるのは困難で、安全に着陸、着水させることは不可能であった。
以上が報告書の事故原因の概要である。
「事故調査報告書」の嘘-「圧力隔壁の破壊」が原因ではない
これまでも多くの航空関係者や識者から指摘されてきたように、「圧力隔壁の破損」が事故原因であるとする上記の報告書の説には多くの疑問が突きつけられている。日航自身も事故から1週間後の8月19日に河野整備部長が「垂直尾翼は外部の力で折れ破壊した」と述べていたのである。
もし、「圧力隔壁の破損」によって機内の空気が短時間に大量に機内後部の垂直尾翼下に流れ混んで垂直尾翼とAPUを吹き飛ばしたというのならば、当然のことながら機内では急減圧が起こり、酸欠や気温の急激な低下、そして機内の荷物や乗客・乗員をも吹き服飛ばされる可能性がきわめて高いはずだが、それがほとんど起きていないのである。
垂直尾翼の脱落等の衝撃で機内の酸素マスクが下りてきている様子が乗客の小川哲氏の撮った写真に残されている。(以下の写真参照)
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