2023年2月4日土曜日

弘法大師の誕生と歴史 | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

弘法大師の誕生と歴史 | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

康応元年(一三八九) 重文 東寺蔵

弘法大師行状記

弘法大師行状記(一) 弘法大師・空海と稲荷大明神の出会いを描く同種の絵巻の中でも、本絵巻は宗教的に

もっとも整備されたもの。 大師が修行中に出会った不思議な老翁は、 稲穂の束を肩にかつぎ、 2人の女性と

2人の子供を作って東寺を訪れる(以下3点とも、巻8、第3段 「稲荷来影」)。




弘法大師行状記 (二) 大師は席をしつらえて一行を招き入れ、五穀や珍味を並べて歓待する。


弘法大師行状記 (三) 老翁は、実は稲荷大明神が影現した仮の姿であった。 大師は都の巽(東南の方角に

良い地を見つけ、 大明神を鎮座あらしめんと山上へ誘う。






元応元年(一三九) 重文 白鶴美術館蔵

高野大師行状図画


弘法大師の伝記を表す絵巻の中でも、本絵巻は保存状態が良好で画面の損傷が少なく、 完本に近い状態のも

のとしては、現存最古の作品。 巻1第1紙には、 外題と同書の作者・絵師の名前などを記した筆者目録が残

されている(巻5 第2段 「稲荷契約」)。


全6巻からなるが、 巻1だけは原本が焼失したため、 天保1 (1840) に狩野晴川院養信が自らの模写本を

もとに門人たちに写させ、寄進したものである。 この模写は巻2以降と比較しても遜色無く、かなり忠実な

ものであったとみられる(巻5 第8段 「稲荷契約事」。



鎌倉時代後期 重文 高野山地藏院蔵

高野大師行状図画

今乃花堂 成大師佑竹




24御入定(ごにゅうじょう)

ごにゅうじょうの絵

お大師さまは、六十二歳の承和二年(835年)三月二十一日、寅の刻を御入定のときと決め、のちのちのことを弟子たちにのべつくされました。御入定 の一週間前から御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印 を結び、弥勒菩薩の三昧に入られました。

御入定から五十日目に、お弟子たちはお大師さま御自身がお定めになった、奥之院の霊窟にその御定身を納められました。

お大師さまは、天長九年(832年)の万灯・万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。つまり、 「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられました。

しごうほうさんの絵

お大師さまが御入定されてから八十三年後の延喜十八年(918年)、寛平法皇(かんぴょうほうおう)は、醍醐天皇に「お大師さまに大師号を賜りたい」と願い出られ、さらに観賢僧正(かんげんそうじょう)も上表されましたが、勅許されませんでした。

延喜二十一年(921年)十月二十一日の夜、天皇の夢枕にお大師さまがお立ちになり、「吾が衣弊くちはてり、願わくは宸恵(しんけい)を賜らんことを請う」といわれました。すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。

そこで、桧皮色の御衣を賜ると同時に、「弘法大師」という諡号(おくりな)を賜りました。十月二十七日、勅使少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前(ごびょうぜん)にて、詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われました。

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