2022年2月12日土曜日

2017 古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典、 淡路菰江[あわじこもえ]古代イスラエル遺跡奉賛会


freeassociations: 2017 古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典、 淡路菰江[あわじこもえ]古代イスラエル遺跡奉賛会


善入寺島 徳島県

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https://twitter.com/tiikituukahana/status/1638472318384234496?s=61&t=Hha_5ivddLvwiwj2B7KeQA


ユダヤと淡路島関連動画


淡路島にユ◯◯教の遺跡が!? 茂木誠

https://youtu.be/KmpVKIVc0kA


CCJ大阪】古代ユダヤと日本人” 淡路島 シオンの山【第一章✡️古代イスラエル遺跡編】

https://youtu.be/LT74kT_XO40

裏側


【驚愕の淡路ユダヤ伝説】淡路島に眠る古代イスラエル遺跡を調査!2700年前の物だとされるダビデの指輪と、ヘブライ文字が刻まれた丸石を大公開!魚谷...

キューテレビ

https://youtu.be/TwhHg23n0vA


実録ソロモン伝説 剣山の秘宝3

https://youtu.be/RSFAib-O-PQ?t=2m30s

《淡路島で出土した石にヘブライ語で「聖なる山」 と書いていた》


【驚愕の淡路ユダヤ伝説】淡路島に眠る古代イスラエル遺跡を調査!2700年前の物だとされるダビデの指輪と、ヘブライ文字が刻まれた丸石を大公開!魚谷...

cueテレビ

https://youtu.be/TwhHg23n0vA



【CCJ大阪】”古代ユダヤと日本人” 淡路島 シオンの山【第一章✡️古代イスラエル遺跡編】

2021







改訂版:
再改訂版:




ユダヤと淡路島関連動画

淡路島にユ◯◯教の遺跡が!? 茂木誠
https://youtu.be/KmpVKIVc0kA

【CCJ大阪】”古代ユダヤと日本人” 淡路島 シオンの山【第一章✡️古代イスラエル遺跡編】
https://youtu.be/LT74kT_XO40
裏側

【驚愕の淡路ユダヤ伝説】淡路島に眠る古代イスラエル遺跡を調査!2700年前の物だとされるダビデの指輪と、ヘブライ文字が刻まれた丸石を大公開!魚谷...
キューテレビ
https://youtu.be/TwhHg23n0vA

実録ソロモン伝説 剣山の秘宝3
https://youtu.be/RSFAib-O-PQ?t=2m30s
《淡路島で出土した石にヘブライ語で「聖なる山」 と書いていた》

ムー2017年8月号、淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(+ナフタリ族の指輪)、ヘブライ文字が書かれた石)

番外
こちらは引用していないがより詳しい上級者向け

失われた十支族・淡路島のイスラエルの遺跡
平津豊2020年6月28日講演会
https://youtu.be/VDdNheOEZ60


元イスラエル大使が語る神国日本

https://www.amazon.co.jp/dp/4802400470/  

ムー20178月号

https://www.amazon.co.jp/dp/B0734KPWGW/



さらに
元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO: 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは Kindle版 
エリ・コーヘン  (著)   形式: Kindle版
2018

JEWISH MIGRATION TO AWAJI JAPAN Part One 2017淡路ユダヤ

トーラーの金具!!
。。。

日本学とイスラエル―淡路の神秘とエル・エロヘ・イスラエル (1972年) (人間新書〈10〉) 新書 – 古書, 1972/1/1 

淡路の神秘ヱル、ヱロヘ、イスラヱル 単行本 – 2016/10/28 

淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎 MUTube(ムー チューブ) 2017年8月号 #3 

淡路島にユ◯◯教の遺跡が!? 茂木誠




徳島県美馬郡つるぎ町の剣山中腹、白地山地蔵寺住職の粟飯原興禅(あいはらこうぜん?)さんに連絡を取るといいかも知れません。


実録ソロモン伝説 剣山の秘宝3

https://youtu.be/RSFAib-O-PQ?t=2m30s

《淡路島で出土した石にヘブライ語で「聖なる山」 と書いていた》


書かれた文字は諸説あるようです。


参考:

元イスラエル大使が語る神国日本

https://www.amazon.co.jp/dp/4802400470/  

ムー20178月号

https://www.amazon.co.jp/dp/B0734KPWGW/


ちなみに比嘉愛未さんの写真集『本心』が該当ホテルの新館で撮影されていました。

ユダヤとは無関係な写真集ですが、プロデュースした方が淡路島出身らしいです。


https://higamanami2010.blogspot.com/2022/02/news_20.html




淡路島に残るイスラエルの足跡 イスラエル遺跡について詳しく説明
http://mysteryspot.org/report/awaji-israel/awaji-israel.htm
新聞資料が充実

昭和27年の淡路島の騒動

それは、ある男の不可解な急死によって始まった。
その男の名は森重吉氏、淡路島洲本の小路谷(オロダニ)で四州園という旅館を営業していた。彼は、旅館の湯殿を建てようとして整地していたところ、遺跡としか思えないものを掘り出してしまったのだ。その夜、うめき声をあげながら急死した。昭和9年9月、享年47歳であった。遺跡と急死の因果関係はわからないが、さらに、一逮夜の日、室戸台風が襲来し、旅館まで大被害を受けたのである。
近所の人々は、岬神の祟りであると恐れ、その遺跡を埋め戻してしまったのである。

この遺跡が脚光を浴びるのは、昭和27年まで待たなければならなかった。
白山義高氏は、この遺跡がイスラエル人の遺跡であるとの自説を発表し、その話を聞いて、昭和27年10月14日に、再び発掘されることになった。それも米軍に同行していたイスラエルのローゼン大司教や日本イスラエル協会長小林孝一らが立会う大規模なものであった。

 【昭和27年10月13日神戸新聞】

その時の新聞記事を以下に転記する。(氏名、月日などの事実の誤りが見られるが、あえて原文そのまま転記した。)

神戸新聞 昭和27年10月13日
日本人にもユダヤ人の血?
淡路で遺跡を発見
内藤博士らが調査

 世界の流民といわれるユダヤ人の祖先が大古の日本に渡来したというナゾの学説はこれまでしばしば流布されて来たが、それを裏づける考古学上の確証はなかった
ところがこんど淡路島にその遺跡があると淡路古文化解放協会会長白山義高氏が発表して以来果然学界でも注目するところとなり、外務省嘱託内藤智秀博士らが淡路島におもむき調査、発掘を行なうことになった
 一行は元米第八軍専属T・ローゼン大司教、日本イスラエル協会長小林孝一、同理事長鶴見憲、同常務理事横尾守仲の各氏のほか鶴見裕輔氏らで、十三日午後三時洲本着、また内藤博士は十六日着ただちに大掛りな調査に乗り出すが、十四日はまず午前十時から遺跡があるといわれる洲本市郊外菰江海岸旅館四州園(経営者森重吉氏)内で発掘式典を執行、午後は日本イスラエル協会員による座談会夜は洲本市第二小学校で講演会や映画会(イスラエル建国史)などが催され、注目の発掘は十五日午前九時からいよいよ発見者白山氏のクワ入れによって行われる
 現場は四州園内の中央部にある突出した平地にあり、すぐ下に大阪湾が開ける景勝の地で、現在は小さな立石がありその下にイスラエル人の遺したとみられる石ヅカが眠っているといわれる、約二十五年前に同旅館の先代重吉氏が湯殿を建てるため整地したところ、地下一メートルくらいのところに一メートル四方にわたって石がV字型に置かれ、天井にはフタがしてあって内部には二寸か三寸ほどの石が入れてあるのを発見したもので、当時の目撃者の一人である森アサさん(70)=洲本市外通六=は「むつかしいことは分らないが、入ったときは石の室の中にまだ小さな石が八個入っていた、しかしどういうわけかその日に元気な重吉さんがポックリ死んでしまったのでたたりがあるというのですぐ埋めてしまったのをはっきり覚えています」と語っている
現在同島で調査している伊勢古事記研究会長武智時三郎氏の話によるとイスラエル人が日本に来たことは間違いなく、とくに①日本民族史上からいって淡路が一番古い土地といわれる、淡路の先住民族はアイヌ人といわれるが、アイヌ人は言語的にいってイスラエル人に通ずる②現場の菰江(コモエ)という地名はヘブライ語では「碑の上の菰」という意味で石ヅカの存在と符号する―などをあげている、発見者の白山氏らは「いまから三千年くらい前にダヴィデ(旧訳聖書に出てくる人物、新訳ではキリストの祖先だという)の縁者とみられるものがある意図をもってここに構造物を置いて行ったのではないか」という推理を導き出しており、こんどの発掘によってそれを実証づけることになったものである
 しかし日本の学界ではこれに対し①この推理を否定する材料はいまのところ何もないが、時代考証は伝承によっているので学問的実証とはならない②イスラエル人が日本に渡来したということになると大和民族論を訂正するばかりではなく、国体や皇室にも影響がある―という二点を理由にしてこれまであまり積極的な動きはみせていないが、この発見についての興味と学問的な認識はもっているといわれ、白山氏は「そこに微妙な点があるのでイスラエル協会やアメリカのアインシュタイン博士らユダヤ人の多くが関係しているニューヨーク文化センターの協力によってあくまで純粋な学問的体系を一応立ててみたいと思っている、なお現在イスラエル共和国に照会中の同国内における碑文(古代文字)の解読文を入手すればこの発見はさらに裏づけの要素を深めることになるだろう」と語っている
 とまれこの発掘によってイスラエル人の遺跡と確認されるものが発見されれば、日本の有史以前にイスラエル人の一部が淡路に渡って来たということになり一躍世界の興味の的となるとともに、日本の伝説〃神代時代の天孫民族〃なるものがユダヤ人の祖先と同一民族?ということも考えられ、ナゾを秘めた十五日からの調査の成行が注目されるわけである


 【昭和27年10月14日発掘式典の様子】  【最前列左より2人目、湊宇吉(一族最長老)】
淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱルより

日ユ同祖論

ここで、日ユ同祖論、つまりイスラエルの失われた十部族が日本にたどり着いたという説について簡単に説明しておく。

紀元前17世紀頃、アブラハムによってメソポタミヤからカナンの地を目指したイスラエルの一族は、ヤコブの時代にエジプトの奴隷となったが、紀元前13世紀頃モーゼによって連れ出され、ダビデ王の時に(紀元前1000年頃)、統一イスラエル国家をつくる。
ソロモン王の下に繁栄したが、王の死後(紀元前930年頃)にサマリアを首都とした北王国イスラエルとエルサレムを首都とした南王国ユダに分裂する。
ヤコブには、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの12人の息子がおり、その子孫がイスラエルの十二部族である(後に司祭のレビ族は、領土を持たなかったので、ヨセフ族がエフライム族とマナセ族の二つに分かれた)。

ルベン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、エフライム、マナセの十部族が属した北王国イスラエルは、紀元前722年にアッシリアによって人々は捕囚され連れさられた。
一方、ユダ、ベニヤミン、レビ族からなる南王国のユダも、紀元前586年にバビロニアに捕囚されたが、アケメネス朝ペルシアによって解放されイスラエルに帰還した。その後、紆余曲折の末、70年にローマ帝国に征服され、離散生活を余儀なくされた。
1948年、南王国のユダの民族によって、現在のイスラエル国が誕生したが、北王国イスラエルの部族は戻らず、どこに行ったかわからなくなってしまった。それが「失われた十部族」である。

イスラエル民族にとって、十二部族が全て揃ってエルサレムに統一国家をつくることが悲願であり神に約束されたことなのだ。そのためイスラエルでは、「アミシャーブ」という専門の機関まで作って、失われたイスラエル十部族を真剣に探しているのである。
日本の風習や神道と古代イスラエルの数々の共通点から、その十部族が日本にたどり着いた可能性は高く、近々、イスラエル国が発表するという噂まである。

その失われた十部族と思われるのが、徐福である。
徐福は、紀元前三世紀に、日本に渡来する。
『史記』の「秦始皇本紀」によると、斉の徐市(ジョフツ)=徐福は、秦の始皇帝が不老不死の仙薬を探していることを知ると、紀元前219年に巡幸してきた始皇帝に、「海中に蓬莱、方丈、瀛州という名の三神山あり、仙人がこれに居る。斎戒と童男女を得てこれを求めたい」と願い出た。徐福は、童男女と東の海に出かけたが何も得ることはなく帰国した。
『史記』の「淮南衡山列伝」には、その後、徐福は、紀元前210年に再度巡幸してきた始皇帝に対し、「私は海の中で大神に会った。大神に寿命を延ばす薬を探していると言うと、始皇帝の礼が薄いという理由で薬を見ることはできても取ることはできないと言われ、私は東南の蓬莱山に連れて行かれた。海神は、良家の童男女と百の道具を持ってくれば叶うと言っている」と再度の航海を願い出た。始皇帝はこれを許し、徐福は、童男女三千人と五穀の種と百種の道具を船に乗せて航海に出た。しかし、徐福は、平原と広沢のある所を得て王になり、とどまって帰ってこなかった、と記録されている。
『史記』は、この事件のあったわずか120年後に書かれた公式文書とも言える書物であり、記述の信憑性は高い。また、日本各地に徐福に関する伝承が残されていることから、徐福が三千人とともに日本に到着していた可能性は高い。徐福は漢民族ではなく羌族であり、アミシャーブは、羌族はイスラエル文化を持っていると報告している。私は、この徐福一行も失われた十部族の一部ではないかと考えている。
当時の三千人というのは非常に大きな勢力であり、少なくとも日本に一つの国を形成したことは想像に難くないが、なぜか『日本書記』『古事記』には、徐福渡来に関する記述がない。それは、徐福渡来が日本にとってあまりにも大きな出来事であり、日本という国の骨格を形成するものであったため隠されたと推測する。

さらに、三世紀には、失われた十部族と思われる弓月の君が渡来する。
秦の始皇帝三世孫、孝武王の後裔である融通王こと弓月の君は、『日本書紀』によれば、応神天皇14年(283年)2月、百済から来朝して天皇に、「百二十県の民を率いて帰化したいが、新羅人に邪魔されている」と上奏した。天皇は葛城襲津彦(カツラギノソツビコ)を使わしたが三年経過しても帰らなかった。応神天皇16年(285年)8月、平群木莵宿禰(ヘグリノツクノスクネ)と的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)が精鋭を率いて加羅に派遣され、弓月の君が民を率いて渡来した。
この民が秦氏である。秦氏が日本に養蚕、農耕、造酒、土木技術などを伝え、五世紀末には山背国に一大勢力を築くことや、秦氏の遺業や遺構にキリスト教の影響が見られることは、今更いうまでもない。
拙著ホームページ「秦氏を追って」参照

弓月国は、現在のカザフスタンのバルハシ湖の南にあり、景教(ネストリウス派)であったと考えられている。この弓月の君の一行は、失われた十部族の一部が旅の途中で、キリスト教の影響を受け、日本にたどり着いた人達だと考えられる。

淡路島古茂江(菰江)のイスラエルの遺跡


さて、この遺跡について書かれている唯一の本が昭和28年に出版された『淡路の神秘 エル・エロヘ・イスラエル』 (淡路古文化開放協會編 解説者武智時三郎、発行人白山義高)である。昭和47年に再編され『日本学とイスラエル』(著者武智時三郎、発行者思金鴻秀)として思金書房から出版された。さらに平成12年に成錦堂から改訂版が発行されたが、現在は品切れ中である。

内容は、武智時三郎が言霊学と数秘術を用いて、日本とイスラエルの宗教を比較したものであるが、非常に難解で私が解説できるようなものではない。
ここでは、イスラエルの遺跡の解説部分だけ引用させていただく。


問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは
 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、四州園内の小磯とよばれる景勝地の海面に突出した盤岩の岬に秘められた問題の古代淡路文化遺跡の實相が、遂に多人數立會いの許に確認されました。 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる火と水との作用で製作した女の陰所(ホド)の彫像でありました。今から三十年程前に一度發掘したことがあつて、この預期せぬ工作物を發見したことがあるが、祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。其の當時の目撃者の談話を綜合しますと、埋没されていたV字型に置かれた二枚の板石といふのは、この女陰部を、かくした覆であると共に、陰所の名を表はす呪文的象形と考へられます。二度目の發掘であつたが為にV字型の施設を、古人の意圖として觀ることは出來なかつたが、第一回の發掘時にはV字型の樋の上に、幾つかの玉石が置いてあり、その上に石蓋を置き、これを▽の象形にして、土中に埋没し、其の上にバベの樹を紀念に植え後代に遺した上代人の意圖が窺はれます
といふのが、淡路古文化開放協會の發掘報告の一節であります。
武智時三郎:淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル、淡路古文化開放協會編、(1953)14-15 より


ーーー

第三章 イスラエルと日本の不思議な絆 二七〇〇年前、淡路島にユダヤ人が来ていた
  二〇一七(平成二九)年五月一四日、私は淡路島に赴きました。
  目的は、淡路島で行われる「古代ユダヤ遺跡発掘六五周年の記念式典と祭典」に出席するためでした。
  またこの日は、一九四八(昭和二三)年にイスラエルが再建国されてから六九年目にあたる、イスラエルの建国記念日でもありました。  
 おそらく読者の皆様は、「淡路菰江古代ユダヤ遺跡」についてご存知ではないと思います。そこで、少しその解説をしておきましょう。
  紀元前七二二年に、北イスラエル王国が、そしてさらに紀元前五八六年には、南ユダ王国が滅亡し、ユダヤ人は「イスラエル国歌」に歌われるように、「東の果て」を目指して大きな民族移動を始めたのです。  
 そうした中で、古代イスラエルの人々が、葦船の船団に乗船して日本にも渡ってきたという伝説が、淡路島にあるのです。 
 もちろん、確定した史実ではありません。しかし、そうした伝説によれば、葦船の大船団は、沖縄、九州から淡路島を目指し、その一部は九州を北上し山口県に至り、また別な一団は、京都の丹後半島に至ったといいます。  
 そして、淡路島に至った一団は、自分たちが日本に到達したという碑を残しました。それが「淡路菰江古代ユダヤ遺跡」であるとされているのです。
 
   大本教の出口王仁三郎が遺跡調査を指示  
 この遺跡の発掘に一役かったのが、大本教の出口王仁三郎でした。王仁三郎は、かねてからユダヤと日本の関係について言及していました。
  そして一九三五(昭和一〇)年、王仁三郎は白山義高氏に、遺跡の調査・発掘を託したのです。 
 王仁三郎から指示を受けた白山氏は、同年、淡路島の古代ユダヤ遺跡の調査に乗り出しました。そして、終戦の前年の一九四四(昭和一九)年、白山氏は、「聖書に啓示されている合図の旗」と題する二〇ページの勧告書をまとめています。この勧告書は、日本政府の情報局総裁を経由して、米英ユダヤ教徒に送られました。
  発掘を依頼した王仁三郎は、一九四八(昭和二三)年の一月一九日に死去しましたが、奇遇にも、その年の五月一四日に、イスラエルは建国を果たしたのでした。  
 終戦から七年を経た一九五二(昭和二七)年一〇月一四日、先ほどの白山氏の勧告書に応じて、日本の占領にあたっていた連合国軍総司令部(GHQ)が、その調査を実施したのです。  
 そして、GHQの従軍聖職者だったユダヤ教の大司教T・ローゼン師が、調査団長として、淡路島にやってきました。  
 同日、現在は「ホテル淡路夢泉景」となっている場所にあった、当時の「四州園」で、日本の国旗・日の丸とイスラエル国旗を交叉して掲揚し、神道の玉串奉奠の祭祀を行ったのです。
  そして翌一〇月一五日の午前九時から、発掘調査を開始し、一六日に、海岸に突出した岩盤の岬に、遺跡が発見されたのです。  
 この遺跡は、小磯海岸と呼ばれる場所にあって、昔から「祟り」があると、地元の人々に怖れられていました。
  それには理由がありました。  
 実は、一九二八(昭和三)年九月、四洲園のオーナーだった森重吉氏がこの小磯海岸の岩場を購入、旅館の湯殿拡張のために岩場を整地していたところ、岩蓋のある遺跡のようなものを発見し、掘り起こしたのです。  
 しかし、森氏は「大変なものを掘り起こしてしまった」と真っ青になり、すぐに埋め戻したそうですが、翌日、なんと森氏は急死してしまったのです。  その直後に高知県室戸岬に上陸した室戸台風が洲本市を襲い、甚大な被害を与えたことから、人々は「遺跡を掘り起こした祟りではないか」と、噂するようになったと言うのです。
  そんないわれのある遺跡を、日本の占領にあたっていたGHQの従軍聖職者、ユダヤ教の大司教T・ローゼン師が淡路島にやってきて、「古代イスラエルの遺跡」と認定したのです。  
 また、日本イスラエル協会の小林考一会長らが、この淡路菰江遺跡の周辺の海岸を発掘調査したところ、ヘブライ語で「聖なる波」と書かれた三〇センチほどの石や、ダビデの紋章のついた指輪などが次々と出土したと言うのです。  
 こうしたことから、ここは「古代ユダヤの遺跡」であると考えられているのです。 古代ユダヤ遺跡発掘六五周年の記念式典で講演  淡路島での催しは、淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会(魚谷佳代会長)の主催で行われました。 
 私は五月一四日の早朝に東京を発ち、新幹線で新神戸まで行って、出迎えてくれた関係者の車で淡路島に向かいました。 
 最初に訪れたのは、遺跡のある「ホテル夢泉景」でした。奉賛会の魚谷会長に案内されて、遺跡の祀られているところを訪れました。  
 しかし、遺跡は、もともとあった場所から移動され、ホテルの一角に祀られていました。  
 私は、もともと遺跡のあったところを見たいと言って、魚谷会長にその場所に連れて行ってもらったところ、そこは、ホテルの建物の下にあり、コンクリートと土に囲われた空間のようなところでした。 
 私は、一人にさせてほしいと言って所払いをお願いし、その場所に立ってみました。
  心を鎮め、神に祈り、この地に来たとされる古代イスラエルからの訪問者を感じることができるか、試みたのです。しかし、残念ながらその時は、渡来した古代イスラエル人の霊の存在を、感じることはできませんでした。 


 シンポジウムの会場は、洲本市文化体育館文化ホールという、かなり大きな三階建ての大ホールでした。私は控室に通されて、そこで淡路菰江古代ユダヤ遺跡から発掘された石や指輪などを拝見しました。驚いたことに、漬物石のような丸い三〇センチほどの石には、ヘブライ語が書かれていたのです。日本中の「ユダヤの遺跡」とされるところは、大使だった頃から、ずいぶんといろいろなところを訪れてきましたが、ヘブライ語が書かれている石を、実際に手にして見たのは、初めてでした。
  ほどなく、もう一人の講演者である伊弉諾神宮の本名孝至宮司もお越しになられ、樋口季一郎中将が、この地で生誕されたと教えていただき、びっくりすると同時に、イスラエルと淡路の不思議な絆に思いを馳せたものでした。
  開会に先立って、地元出身の衆議院議員で現内閣官房副長官の西村康稔氏から届けられたメッセージが代読されました。そのメッセージは、次の通りです。  
 本日の淡路菰江古代ユダヤ遺跡発掘六五周年記念講演並びに伊弉諾神宮による祭典のご催行を心よりお喜び申し上げます。 
 淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会会長、魚谷様はじめ関係各位におかれましては、ご開催に向け多大なるご尽力を賜り、衷心より敬意を表します。    イスラエル建国六九周年の五月一四日に、国生みの島、淡路島において行われる祭典が、今後の日本とイスラエルの友好の柱となりますこと、そして本日の記念講演、祭典を契機とし、より多くの方々が歴史、史実に興味を持ち、日本遺産に認定された淡路島を訪れ、その魅力に触れていただくことにより、さらなる活性化につながることとご期待申し上げます。  
 本日のご盛会、ご会衆の皆様の一層のご活躍とご健勝をお祈りいたします。
  平成二九年五月一四日 自民党総裁特別補佐、筆頭副幹事長      衆議院議員 西村やすとし    
 シンポジウムでは、「日本を知る会」の國分孝一氏による法螺貝の演奏、ソプラノ歌手の倉原佳子氏による国歌「君が代」とイスラエル国歌の独唱、楢崎醍剛氏による「天皇を護る」ものとされる秘伝の「剣祓い極典の儀」の演武、倭瑠七氏他倭巫女舞の女性たちによる「月舞い」、「あわうた・あわフラ」の演舞などが披露されました。
  そして私は、英語で次のような講演を行いました(要約)。 (前略)私は、本日お集まりの皆様、そして世界の皆様にお伝えしたいことがあります。それは、「信じる」ということです。これは、とても大切なことなのです。 
 大谷先生は、ユダヤ人が初めて日本にやってきたのは、いまから二七〇〇年前だと、そう信じておられます。はたしてそれが真実であるかどうか、私にはわかりません。 
 私は、よく次のような質問をされます。 
 二千年もの間、ユダヤ人は世界に散らばってしまっていた。ところが、二千年を経て、ふたたびユダヤ人の国家を建設した。どうして、世界史の中に埋もれて民族が消滅してしまうことなく、復活することができたのか、と。 
 この質問に対する答えは、シンプルです。 (中略)彼らは、三つのことを、強く信じることができた。だから、彼らはユダヤ人として生き続けることができたのです。
  一つは、神です。神を信じた。彼らは、ユダヤの聖書に書かれていることを信じた。伝統と宗教を信じたということです。  二つ目は、イスラエル国のある地は、聖地であるということを、信じたわけです。
  そして三つ目は、我々は、一つの民族であるということを信じたわけです。イスラエルの民であるということを、信じた。呼び方としては、ユダヤ人、イスラエル人と二つの呼び方がありますが、いずれにしても、一つの民族なのだという信念があった。  
 つまり、信仰、そして国土、民族と、この三点がそろうことが重要なのです。
  世界中に、この三つの点を大切にしてきた民族は、日本人を唯一の例外とすれば、ユダヤ人しかいません。
  エジプトや中国は古い国家ですが、彼らは、三つのうちの一つか、二つを欠いています。宗教を失ったり、民族としてのアイデンティティを失ったりしています。
  ですから、皆さんがこの三つを護持するなら、特別な国として存在し続けられるのです。  日本人は、この三つを大切にしてきました。日本人にとって、国土は「神州」です。そして、天皇、神道といった日本の伝統を、大切にしています。そして日本人は、日本民族を一つの民族であると、捉えています。例えば、ブラジルで外国人に、「あなたは中国人ですか?」と尋ねられたら、「いえ、日本人です」と、皆さん答えるでしょう。世界中のどこにいようと関係ありません。
  この三つのことを大切にすることを、決して忘れてはなりません。 
 淡路島は、日本の国生み神話では、一番最初に誕生した島です。 (中略)また、遺跡から発掘された石も、手に取って拝見させていただきました。そこにはヘブライ語が書かれていました。 
 私は、一九八六年から、日本全国をまわって、ユダヤの遺跡などを直接目にしてきましたが、ヘブライ語が書かれた石を目にしたのは、初めてでした。
  実に数多くのユダヤの伝統にまつわるものが日本に存在し、私もそうした場所を訪れました。その体験から、私はユダヤ人がはるか昔に日本列島にやってきたということを、確信しています。 (中略)私は専門家ではありませんので、この石を鑑定することはできません。ぜひ、専門家による鑑定をしていただきたいと思います。そしてこの石(に書かれたヘブライ語)が、二千年、あるいは二七〇〇年前のものであると判明すれば、古代にユダヤ人が日本に来ていた重要な証拠となります。なぜなら、そこにはヘブライ語が書かれているからです。
  私の人生の大きな目的の一つは、日本とユダヤの強い絆をつくりあげることです。  私は、偶然というものを信じません。偶然のようなことが起こったとしたら、それは天の何者かが、そうしたことを意図的に起こそうと計画したから起こるのです。
  一九五二年に、淡路島の菰江古代ユダヤ遺跡が発掘されてから、今年で六五周年を迎えます。  ユダヤ教のラビ、T・ローゼン師が、この遺跡は古代ユダヤの遺跡であると認定してから、六五年を経たわけです。  
 一九五二年という年は、日本とイスラエルが外交関係を樹立した年でもあります。日本は、アジア全体の中で、最初にイスラエルと国交を結んだ国なのです。日本の政治リーダーたちが、日本とイスラエルの深い絆というものを感じていたことは、明らかです。 淡路島がつなぐ不思議な縁  日本とユダヤが古くから交流を持ってきたことは、日本全国に存在するさまざまな証によって確信することができます。 
 日本最古の歴史書でもある『古事記』の冒頭を飾るのが「国生み神話」です。 
 その神話の中で伊邪那諾と伊邪那美が、生まれたばかりの混沌とした大地を、天沼矛でコオロコオロとかき回し、その矛の先から滴り落ちた塩の雫が凝り固まったものが、「オノコロ島」です。そして、この最初に生まれたオノコロ島が、淡路島であるとされています。 
 日本神話で初めて誕生した島に、古代ユダヤの遺跡があるというのは、実に意義深いことだと思うのです。 
 二七〇〇年前というのも、実に不思議な伝説であると思います。 
 前述したように、紀元前七二二年には北イスラエル王国が滅亡し、ユダヤ人は「イスラエル国歌」に歌われるように、「東の果て」を目指して大きな民族移動を始めたとされています。 
 いわゆる「古代イスラエルの失われた一〇部族」のことを指しているのですが、それからほどなくして、東の国・日本で、神武天皇が初代の天皇として即位していることには、不思議な思いを禁じ得ません。
  皇紀という天皇の暦でいえば、二〇一八(平成三〇)年は、皇紀二六七八年にあたるのです。 
 古代の北イスラエル王国が滅亡したのが、紀元前七二二年ですから、いまより二七三九年前のことになります。 
 北イスラエル王国の崩壊から六二年後に、東の国に「神の子孫」とされる初代天皇が誕生し、現在まで天皇の皇統が継承されてきているのです。
  もちろん初代天皇の即位の年代は、神話のことですから、史実とそのまま認定することは難しい面もあるでしょう。しかし、実に興味深い、偶然の「一致」ではないでしょうか。 高天原はイラク北部にあった!?  日本と古代イスラエルには、偶然とはいえない、さまざまな相似点があるのです。 「日ユ同祖論」の研究者の中には、「高天原が、イラク北部にあった」と推論する方もいらっしゃいます。
  私を含め、ほとんどの日本人がそんなことはないと、即座に否定したくなりますが、ユダヤ研究の第一人者である小谷部全一郎博士の信念は、揺るぎないものがあります。 
 小谷部博士は、アメリカのハワード大学、エール大学に学び、同大学院で哲学博士の称号を得た後、帰国して東京皇学講究所や国学院大学で講師を務めた人物です。 
 小谷部博士は、一九二九(昭和四)年に、『日本及日本國民之起源』という本を著し、日本人と天皇家のルーツが古代イスラエル人であると主張したのです。 
 戦前に、そのような主張が許されたことも驚きですが、その根拠も驚くべき内容であるといえます。
  日本神話では、大和民族の祖先は高天原から降臨したとされ、その高天原は天上の神々の世界と解釈されています。つまり、高天原は「神話」の世界であるのです。 
 ところが、小谷部博士は、高天原は、西アジアの「タガーマ地方のハランという場所」であると喝破しました。 「タガーマ」は、聖書の『創世記』第一〇章三節、『エゼキエル書』第三八章六節に出てきます。ノアの曾孫トガルマの子孫が、住んでいた土地の古代の地名です。そこには、「ハラン」という場所があったことが、聖書にも書かれています。  
 イスラエル人の父祖アブラハムが住んでいたところでもあります。  現在でいうと、そこはイラクの北部にあたりますが、ISの出現によって、いまや「タガーマ・ハラン」は、戦闘の地と化してしまいました。

私は武道家ですから、試合開始の時に、「はじめ」と言われることには慣れています。  しかし国技である相撲では、力士の取り組みの時に、レフリーである行事が使う言葉は、「はじめ」ではなく、「ハッケヨイ」であることに驚きました。それどころか、日本人は、「ハッケヨイ」の意味がよくわからないようです。イスラエル人にはすぐわかります。  ヘブライ語で「ハッケ」とは、「打つ」とか「打撃」すること、あるいは「噛みつく」ことを意味するのです。  相撲だけではありません。日本の祭りで使われる掛け声も、どうも多くの日本人はその意味がわかっていないようです。しかし、不思議なことにイスラエル人には、その意味が即座にわかるものが多いのです。  例えば、「エッサ」という、神輿を担ぐ時などに発せられる掛け声があります。  日本人に「この『エッサ』とは、どういう意味ですか?」と尋ねても、ほとんどの方が答えに窮してしまうのです。  ヘブライ語で、「エッサ」は、「持ち上げろ」あるいは「運べ」という意味です。  祭りで神輿を担いでいる時に、「エッサ、エッサ」と言っているのを聞くと、ヘブライ語ではないかと思ってしまいます。  日本の民謡の「掛け声」にも、日本人には意味がわからないのに、ヘブライ語でなら意味がわかるというものが、たくさんあります。  例えば、秋田音頭では「キタカサッサ」と繰り返されます。これはヘブライ語で「皆が輪になって、喜んで待ち望む」という意味に解釈できます。  秋田の生保内節は、「キタサノサー」と言い、さらに「コラサノサー」「ドッコイショ」と掛け声が入ります。  ヘブライ語では、「キタサ」は、「王位に就く」という意味です。「ノサー」は、「ノサッド」というヘブライ語であると解すれば、「樹立する」という意味になります。つまり、「王位を樹立してその地位に就いた」という意味になるのです。 「コラ」は、「神の声」とも解釈できます。すると、「コラサー」は「神の声を携える」の意味となるのです。ちなみに「ドッコイショ」は、「神の助けで突き進む」という意味に解釈できます。 
   まったく意味不明の盆踊りの歌  
 青森県十和田周辺はもとより、青森県南部から岩手県北部、秋田県鹿角地方にかけては、かつての南部藩の領内です。  そこに昔から伝わる盆踊りがあるのですが、その「はやし歌」は、地元の人にもまったく意味がわからないものなのです。 「ナニャドヤラ」として知られていますが、南部以外の人には「ニャンニャン」と聞こえたので、「南部の猫唄」とも呼ばれていました。  男女が夜を徹して踊りながら、好き合っている男女が、この夜だけは夜陰に紛れて思いを遂げることが許されたともいいます。  現在歌われている歌詞は、次のようなものです。  ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ  ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ  ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー  ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド

大正時代のことになりますが、神学博士でヘブライ語研究の泰斗であった川守田英二博士が、この「ナニャドヤラ」は、ヘブライ語で解釈すると意味がわかると喝破しました。 「ナニャドヤラ」は、「御前に聖名をほめ讃えん」。「ナニャドナサレノ」は、「御前に毛人を掃討し」という意味に取れ、「これは古代イスラエルの進軍歌だ」と論じたのです。  同様に、青森のねぶた祭りで知られる掛け声の「ラッセー・ラッセ・ラッセーラ」も、川守田博士は、「動かせ・動かせ・高きへ進め」と訳せると論じています。

第六章
ユダヤの『ゴールデン・ブック』に載る樋口季一郎中将の名  淡路島を訪れた時に、伊弉諾神宮の本名宮司から、「樋口季一郎中将が生まれたのは、淡路島です」と言われて驚きました。  樋口季一郎中将は、「ジェネラル・ヒグチ」としてユダヤ人にはよく知られています。  一九三〇年代に、二万人にのぼるユダヤ難民が、ナチス・ドイツの迫害を逃れて、極寒のシベリアを経由して満洲の国境に集結していました。着の身着のままで満洲に辿り着いたユダヤ難民を救ってくれた英雄こそが、ジェネラル・ヒグチなのです。  ユダヤ民族に貢献した人々を顕彰するために『ゴールデン・ブック』がつくられることになったのは、一九〇二年の第五回シオニスト会議でのことでした。 『ゴールデン・ブック』と呼ばれるのは、その第一巻の表紙に、天から太陽の黄金に輝く光が、エルサレムに射している絵が描かれているからです。


創世記

第10章

10:1ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。 10:2ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。   10:3ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、トガルマ。

エゼキエル書
38:6ゴメルとそのすべての軍隊、北の果のベテ・トガルマと、そのすべての軍隊など、多くの民もあなたと共におる。


トガルマ=タガーマ
アブラハムの故郷



タガーマハランはアブラハムが住んでいた土地である。 ユダヤ人は東方に安楽の地があるとの聖書の言葉を信じてここから8000キロもの遠征をおこない遂に日本に ...

ハッラーン(ハラン、Harran)、別名カルラエ(Carrhae)は古代シリア地方の北部にあった都市の名 ... イラク南部にあったグノーシス主義のサービア教は当時すでに衰退しておりその ...

歴史-古代のハラン-オスロエネ王国-サービア教徒のハラン

タガーマにあるハラン、それはタガーマハラン、つまりタガーマハラなのだ。 アブラハムは神の命に従い故郷であるタガーマハラを出発。それまで一緒にいた一族に別れを告げ ...

2017/6/5 -一般にこの「タカマノハラ」は天上界と理解されているが、小谷部は、これは天上界のことではなく西アジアの『タガーマ(地方)のハラン』のことである ...

2017/2/17 -ヘブル人のふるさとは、タガーマハラン(今のイラクより北部)である。アブラハムもこの地の出身である。 そこにはカナン人がいなかった。

繁栄と恵みの象徴であるアブラハムの一家が突然ウルを去ることを知ったシュメール人の中には、アブラハム一家と共にタガーマハランへと移住した人々も少なくなった ...

昨年9月の秋分の日、シリア国境近くのタガーマハランで、アルテミスやキュベレー ... 号の恩義を忘れず、イラン・イラク戦争時にはテヘランから日本人をトルコ政府が ...

中東問題②湾岸戦争、イラク戦争 ... とユダヤの関係」日本の神話で神々が住むとういう「高天原」はユダヤ人の始祖アブラハムの生まれ故郷の「タガーマハラン」で、 ...



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もぎせかチャンネル
神社を語る
10:00~


【新装版】イエス・キリストと神武天皇 Kindle版 


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淡路の神秘ヱル、ヱロヘ、イスラヱル 単行本 – 2016/10/28 

失われた十支族・淡路島のイスラエルの遺跡【2020年6月28日お試し講演会】平津豊
失われた十支族・淡路島のイスラエルの遺跡
平津豊2020年6月28日講演会
平津豊




























平津豊と行く淡路島イスラエルツアー
2015






古代日本とユダヤの関連性とは!?淡路島遺跡に眠る古代日本ユダヤ人渡来説!
2020






あわじこもえ

アクセス | ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景
アクセス
館内案内




2017年5月14日(日)、淡路菰江古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典 プログラムより



2017年5月14日(日)、イスラエル69回目の建国記念日に古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典を開催します | 淡路菰江古代イスラエル遺跡奉賛会


2017年5月14日(日)、イスラエル69回目の建国記念日に古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典を開催します | 淡路菰江古代イスラエル遺跡奉賛会

2017年5月14日(日)、イスラエル69回目の建国記念日に古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典を開催します|淡路島の洲本市

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 https://www.youtube.com/embed/tKyxsEamCdw(ユーチューブ)


淡路菰江古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典 2017

https://youtu.be/tKyxsEamCdw

再発掘

Please cooperate with everyone in the world

Please cooperate with everyone in the world.
I am Kayo Uotani, organizer of this ceremony.
Given the situation in the world, we hold this ceremony with cooperation of many people.
Since we operate as a volunteer, we are short of funds.
Please ask you for the share and financial cooperation of those who can sympathize with the purpose of the ceremony and with this broadcast.

魚谷佳代  世界の皆様に協力お願いします。
 今回の式典の主催者の魚谷佳代(淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会)です。
 世界の情勢を鑑みて、やむにやまれぬ気持ちで今回の式典を皆様の協力を得て開催しています。
 私たちは資金のない中でボランティアで運営していますので、この放送をみて式典と祭典の趣旨に共感できる方のシェアと資金協力をお願いします。

申込

65周年 65周年 65周年

2017年5月14日(日)、淡路菰江古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典・祭典を開催

 案内チラシ表面(B4)  ・  案内チラシ裏面(B4)

【当日開催プログラム(観音開き8P)~編集途中】

 当日開催プログラム表面 (開催に向けて協力していただいた方のお名前を記載しています)
 当日開催プログラム中面 (資金協力していただいた方のお名前を記載しています)

【式典】13時~ 洲本市文化体育館 文化ホール
古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念講演会
<講師>
エリ・コーヘン氏、本名孝至氏、魚谷佳代氏
【祭典】17時~ 夢泉景の海岸
淡路國一之宮 伊弉諾神宮様による祭典、
同時刻、出雲大社様でも執り行われています。
【直会】18時30分~ 
ホテルニューアワジ 別亭 夢泉景
講師 【講師】
エリ・コーヘン
元イスラエル大使




講師 【講師】
本名孝至
伊弉諾神宮宮司

魚谷佳代 【講師】
魚谷佳代
淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会
講師
1952年(昭和27年)の発掘時の玉串奉献
法螺貝(國分孝一)、剣祓い極典の儀(楢崎醍剛)、君が代とイスラエル国歌(倉原佳子)
月舞い(倭瑠七と倭社中)、天・地・人 結靈の舞音『あわうた・あわフラ』


2017年は、淡路島が日本遺産に認定されて1年になります

 昨年2016年4月に淡路島が、海洋民族というストーリーに焦点をあて、日本遺産に認定されました。
   『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」

  ~古代国家を支えた海(あ)人(ま)の営み~

 淡路島が日本遺産に認定されて1年経た時期に、1952年(昭和27年)に発掘調査された洲本市の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の発掘65周年記念の式典と祭典を、イスラエルの69回目の建国記念日に開催するのも、大きな歴史の流れに沿っていることなのでしょう。

淡路島に、古代ユダヤ(イスラエル)遺跡が残されたと推測される経緯

 紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡し、さらに紀元前586年に南のユダ王国も滅亡します。
 それ以降、イスラエルの人々は「東の果て」(イスラエル国歌)を目指します。
 この大きな民族移動のなかで、イスラエルの人たちの葦船船団が、日本にも渡ってきたらしい。
 一番初めの葦船の大船団は沖縄、九州に渡ってきて淡路島をめざします。一部が九州を北上し、山口県に落ち着き、さらに一部は京都の丹後半島に落ち着いたらしい。
 これ以来、イスラエルの人々は波状的に日本にやって来たらしい。
 日本各地に残されている言語や文化の痕跡に、イスラエル民族との共通項を見て取ることが出来ます。

 淡路島に入ってきた一団は、自分たちが到着した記念碑を残しておきました。

 これが、出口王仁三郎氏が白山義高氏に調査・発掘を指示された淡路島に残る古代ユダヤ(イスラエル)遺跡です。
 淡路島の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の発掘調査は、未来の「なんらかの出来事」を見越して出口王仁三郎氏が指示されているかのようにも見えてきます。

古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の調査は出口王仁三郎氏の指示で始まった

 出口王仁三郎氏は、1935年(昭和10年)に淡路島の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の調査を、次のような趣旨で白山義高氏に託しました。
< 如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。未来に戦争が収拾されるが、それはユダヤと日本の完全な提携による。
 ユダヤと日本が完全に提携しない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
 宗教原理を示す雛形建設のため、淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。
 然し実際に、井戸掘り工事に着手するのは、10年先のことであるから、それまでに、淡路島の古文化遺跡(ユダヤ遺跡)の史料調査をして欲しい。 >

 こうして、1935年(昭和10年)に白山義高氏は出口王仁三郎氏から要所要所の差図を受け、淡路島の古代ユダヤ遺跡の調査に乗り出したのでした。
 終戦の前年、白山義高氏は、1944年(昭和19年)8月1日(皇紀2604年)の日付の書面をもって、ユダヤに対して「聖書に啓示されている合図の旗」と題する20頁の勧告書を送りました。
 この勧告書は日本政府(情報局総裁宛)を経由し、米英ユダヤ聖徒へ送られました。
 白山義高氏はこの勧告書で、ユダヤ教徒に
「合図の旗をたてよ」
 と促したのです。
 淡路島の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の発掘を依頼した出口王仁三郎氏は、イスラエルの建国を見ることもなく、1948年(昭和23年)1月19日に亡くなります。
 出口王仁三郎氏の亡くなった1948年(昭和23年)5月14日にイスラエルは建国されました。
 このイスラエルの建国こそ、「エルサレムを建て直せという命令」(ダニエル書)が出された瞬間と捉えられたものでもあります。
記念写真  終戦から7年経た1952年(昭和27年)10月14日、白山義高氏の勧告書に応えて、日本占領軍総司令部に従軍牧師として活動されていたユダヤ教大司教テー・ローゼン牧師が淡路島にやってこられました。

 10月14日に「四洲園(現在の夢泉景)の古代ユダヤ遺跡に日本の国旗とイスラエルの国旗を交差して掲揚し、発掘祭典(玉串奉献)が行われました。
 10月15日9時から、白山義高氏の鍬入れによって、発掘調査が始まりました。
 そして10月16日、海岸に突出した盤岩の岬に秘められた問題の古代淡路文化遺跡の実相が、多人数立会いの許に確認されました。

ミホト  その遺跡というのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、その上に鑿(ノミ)の無い時代の工作を想はせる 火と水との作用で製作した 女の陰所(ほど)の彫像でした。

 ローゼン氏は淡路島に到着した14日の夜の洲本市第二小学校・講堂での講演会で、ユダヤ聖教徒を代表して次の宣言をされています。
< 世界に幸福と平和をもたらすものは、この二つの国旗であります。
 太陽と星とであります。太陽は昼の世界を照らします、この星は夜を司る司会者なのです。
 全世界が悩みの時は、この暗黒の世界を導くものは星であります。太陽も世界に正義の観念を与えます。
 この二つがお互いに手を組んで進んでいこうではありませんか。
 偉大なる太陽の国シオンよ、眼を醒せ!
 その努力と貢献は必ずや世界に平和と幸福をもたらすでありましょう。 >
 と、敗戦に打ちひしがれている日本国民に呼びかけられたのでした。
 洲本市第二小学校の講堂での講演に参加された方たちは感動に包まれたということでした。

 以上のように、洲本市の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の占める位置は特殊で、未来のある時期に何らかの役割を果たすように神定されているかのように見えます。

イスラエル(ユダヤ)問題は日本の国体や国論を左右しかねない問題を含んでいる

 日本へのイスラエル民族の大量移入という出来事をどのようにとらえるのかという問題は、日本の国体や国論を左右するような話題・論点を含んでいるため、正面から取り扱いにくいという現実があります。
 しかも、伊勢神宮の在り方や、伊勢神宮の御神宝の内実に及びかねない議論もあるので、厳重なる慎重さを求められる性質の事柄になっていました。
 戦前・戦中・戦後にこういうイスラエル問題に深い関心を寄せられ、イスラエル問題の精神的支柱になられていたのは三笠宮崇仁殿下でしたが、その殿下も2016年(平成28年)10月27日に100歳で薨去されました。

 こういう時代の流れを鑑みても、時代の大きなウネリが始まったという感じがしてきます。

 日本とイスラエルの関係については、いろんな主張や様々な論点があります。
発掘  そんななかにあって、洲本市のイスラエル(ユダヤ)遺跡は過去にユダヤ教の司祭が1952年(昭和27年)10月にやってこられて共に発掘調査をされているという事実が残っていますので、国体に関わりそうなデリケートな問題の渦中にはいることなく、日本神道の格式をもって式典や祭典を行える日本で唯一特別な位置が与えられています。

伊弉諾神宮

【ありがとうございます】
 出雲大社様では、天皇陛下の勅使を迎えて例大祭を執り行うのが5月14日です。
 イスラエルが建国された5月14日(太陽暦)と出雲大社様の例大祭の日が同じ日だったというのは、何気なく凄いことです。
 出雲大社様のほうでも、今回の淡路島の古代ユダヤ遺跡の祭典が開催されるのと同じ時間に古代ユダヤ遺跡発掘65周年とイスラエル建国69周年を祝う御祈願をしていただけることになっています。
 日本各地の神社では、今年の5月14日が日曜日になっていることもあって春季大祭に当たっているところが多いんです。
 祭られる日は、祭られるように春季大祭になっているのかもしれませんね。
 日本って不思議な国です。
出雲大社

 次では、ホテル夢泉景(旧、四洲園)の古代ユダヤ(イスラエル)遺跡に関わった方々の状況をお伝えします。

古代ユダヤ(イスラエル)遺跡に関わった方々の状況

 古代ユダヤ(イスラエル)遺跡が発見された場所は、小磯海岸と呼ばれていた場所にあって、昔から「祟り」がある場所として地元の人には知られていました。この小磯海岸の岩場を、昭和3年に四洲園のオーナーの森重吉氏が購入しました。
 1934年(昭和9年)9月に森重吉氏が、旅館の湯殿拡張のために岩場を整地していたところ、岩蓋のある遺跡のようなものを掘り起こし、
「大変なものを掘り起こしてしまった」
 と言ってすぐに埋め戻したといいます。しかし森重吉氏は翌日急死してしまいました。
 そして、直後に1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸した室戸台風によって洲本市が甚大な被害を受けたので、土地の人は、
「遺跡を掘り起こした祟りではないか」
 との噂になったようです。
 次にこの古代ユダヤ(イスラエル)遺跡に光が当てられたのは、先に説明したように18年後の1952年(昭和27年)のことでした。
 1952年(昭和27年)当時は新聞などで世間の脚光を浴びたようなのですが、星霜を経るにつれて忘れ去られ、1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風の甚大なる被害で、1952年(昭和27年)に埋め戻した跡が解らなくなっていたようです。
 四国剣山顕彰学会(高根三教氏)のメンバーの方々が1952年(昭和27年)の遺跡跡の場所を定め直そうとして再発掘されたといいます。
 しかし、遺跡は再発掘の後に埋め直されずに、ブルーシートを掛けたままの状態にしておかれた。
 この遺跡を埋め戻されずにブルーシートを掛けて置いた時期に、四洲園のオーナーは、癌で入院していました。四洲園のオーナーの入院の話を耳にした魚谷佳代さん(今回の式典と祭典の発起人)は、
「遺跡を掘り返したために、先代さんも昭和9年(1934年)9月に急死なさっている。早く遺跡を埋め戻してください」
 と四洲園の社長の妹さんにお話しされ、遺跡が埋め戻されたそうです。
 それからほどなくして、四洲園の社長さんは無事に退院され、その後、四洲園の会長になったといいます。
 2017年現在の四洲園の経営権は、2011年にホテルニューアワジグループに移り、夢泉景となっています。

 こういう経緯をふり返ると、この古代ユダヤ(イスラエル)遺跡には、何らかの特別な呪術が入っているかのようです。
 瓊々杵尊が木花咲耶姫と岩長姫を娶ったあと、岩長姫の「見にくい(醜い)」領域、つまり、音や匂いや熱の領域を大山祇神にお返しになられたため、岩や石に秘められている領域の呪術を天孫族の末裔は知りにくくなってしまいました。
ミホト  そのため、どういう呪術が入っているかは不明ですが、この古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の一部を構成している「女の陰所(ほど)の彫像」は、伊邪那美命のミホトそのものの可能性があります。
 伊邪那美命の焼けただれたミホトの痕跡が古代ユダヤ(イスラエル)遺跡のある小磯海岸に元からあって、この場所をユダヤ(イスラエル)人が発見し、「女の陰所(ほど)の彫像」に自分たちの思いを重ねあわせて自分たちの記念碑の一部にされた、と推測できます。
 三重県熊野市の花窟神社では、伊邪那美命と迦具土命を祀っていますが、花窟神社には「ミホトが焼かれた」と感じられるような場所はありません。
 『古事記』に「伊邪那美命のミホトが火傷して病気になった」と記述されているので、日本のどこかにその痕跡はここだ、という風にあってもおかしくないはずなのですが、日本の各地の神社でそれらしい伝承をもつ場所はありません。
 この古代ユダヤ(イスラエル)遺跡こそ、伊邪那美命の焼けただれたミホト跡なのかもしれません。
 この古代ユダヤ(イスラエル)遺跡が迦具土命を生んでミホトに火傷を負った場所であるとすると、その場所に無防備で近づくと、伊邪那美命が命を落とした因縁を引いてしまうのでしょう。
 だから、生命を落としたり、災いが降りかかったりする。
 こういう因縁で出口王仁三郎氏は、淡路島の御神業は、「白山」の霊統を持つ人物がやるものとされていたのだと思われます。
 幸いにして今回の式典と祭典の呼びかけ人は株式会社味きっこうの魚谷佳代さんで、魚谷家は8代前の亀太郎さんの時代に加賀前田家から養子に入った方の血筋で現在までつながっていますので「白山」の霊統を持ちます。

2017年5月14日は69回目のイスラエル建国記念日に当たっています

 本年の2017年5月14日は69回目のイスラエル建国記念日(建国:1948年5月14日)です。
 ダニエル書に
「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週ある」
 と記述されているため、『旧約聖書』の民であるユダヤ(イスラエル)人は、『ダニエル書』に記載されているように、イスラエル国家が建国された1948年5月14日から69週後にイスラエルにメシアが現れることを期待したといいます。
 しかし、1948年5月14日から69週後の1949年9月9日にメシアは現れませんでした。
 イスラエル国家が建国されてから69週後にイスラエルにメシアが現れなかったという事実を踏まえ、1960年代から、「週」の解釈は、実際は「年」と置き換えてもいいのではないか、という説が急速に台頭してきました。
 そして、ダニエル書の「69週」とは、イスラエル建国から「69年目」の2017年に違いないと、2017年を待ち望むようになってきたようなのです。
 しかし、この「69週」が2017年に合致しない場合、1週を7年と解釈することになるらしい。
 69週×7年=483年。
 つまり、1948年+483年(69週×7年)=2431年が、『ダニエル書』が指定する「メシア登場」の時になる。

『ダニエル書』のような『聖書』の預言はイスラエルや欧米ではかなり研究されていて、こういう預言を念頭において、現実の政治が行なわれているらしい。

 核兵器や超常兵器が充満している現代を生きる我々にとって、終末を「1948年+483年(69週×7年)=2431年」という風に考えるのはピントがズレていると思われます。

 混迷を極めている現代社会の動きのなかで、微々たることではありますが、「東の果て」(イスラエル国歌)にある日本から、イスラエルの建国記念日に淡路島にある古代ユダヤ(イスラエル)遺跡の発掘記念の式典を執り行うことは、世界の論調を明るい方向に向かわせる一助になるのではないかと思っています。
 イスラエル国歌の歌う「東の果て」にある日本から、日本神道の格式をもって、古代ユダヤ(イスラエル)遺跡を顕彰しているという知らせを聞いて、世界に散らばるユダヤ民族がどのように思われるでしょうか?
 『聖書』に書かれているように、「東から知らせ」が届いたと感じ取ってくれるでしょうか?
 ダニエル書ではイスラエルの民に救いをもたらすのは「ミカエル」です。
 その「ミカエル」というのは日本の国論の象徴だったのだ、と感じ取ってくれるでしょうか?

 私たちの個々人の力は限られていますが、定められている時に、定められていることを粛々と行うことが、次の時代に幕開けになってくれることだと信じています。

今回の式典と祭典は歴史的な祭典です

 第一点。
 長い間秘密にされてきた、伊邪那美命の火傷した「ミホト」かもしれない場所での祭典になっている点。

 第二点。
 戦前・戦中・戦後に活躍された出口王仁三郎氏の教示に基づいて発掘調査が行われた場所での祭典である点。出口王仁三郎氏の教示がなければ、古代ユダヤ遺跡の発掘に至っていないと想像できます。

 第三点。
 ローゼン師によって古代ユダヤ遺跡と認定されていた点。

 第四点。
「エルサレムを建て直せという命令が出てから」69年後の祭典であるという点。

Please cooperate with everyone in the world

Please cooperate with everyone in the world.
I am Kayo Uotani, organizer of this ceremony.
Given the situation in the world, we hold this ceremony with cooperation of many people.
Since we operate as a volunteer, we are short of funds.
Please ask you for the share and financial cooperation of those who can sympathize with the purpose of the ceremony and with this broadcast.

魚谷佳代  世界の皆様に協力お願いします。
 今回の式典の主催者の魚谷佳代です。
 世界の情勢を鑑みて、やむにやまれぬ気持ちで今回の式典を皆様の協力を得て開催しています。
 私たちは資金のない中でボランティアで運営していますので、この放送をみて式典と祭典の趣旨に共感できる方のシェアと資金協力をお願いします。

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65周年
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淡路島の「古代ユダヤ遺跡」とは何? | 古代遺跡・クンクン紀行
https://ameblo.jp/shiroyamaryuzo/entry-12519211032.html

淡路島の「古代ユダヤ遺跡」とは何?

この遺跡は、ホテル 「淡路夢泉景」の敷地にあります。

淡路島の人にもあまり知られていない この遺跡とは、どういうものでしょうか。

時は昭和9年の9月20日。

旅館・四州園の経営者・森重吉氏は、旅館の湯殿を建てようと敷地内を整地していたところ

地下1メートルのところで不思議な石組を見つけました。その天井板を外すと、その中にはきれいな青い石が敷き詰められており、8個の小石が置かれていたというのです。

ところが、ところが。

この遺跡を掘り出した森重吉氏は、その夜、うめき声をあげて急死してしまったのです。

「これは遺跡の祟りに違いない。」

このように恐れた人たちが、遺跡を埋め戻してしまいました。

その後、昭和27年になって、淡路古文化協会・会長の白山義高氏が、この遺跡は、イスラエル人の遺跡であることを発表したのです。こうして、この遺跡は世間の注目を集めることに

なりました。そして昭和27年10月14日に、この遺跡は発掘されることになりました。この調査には、外務省嘱託内藤智秀博士、イスラエルのローゼン大司教、日本イスラエル協会

小林孝一らが立ち会う大規模なものでした。

当時の新聞記事(神戸新聞 昭和27年10月13日)

 

 【昭和27年10月13日神戸新聞】

こうして 世の注目を浴びた古代ユダヤ遺跡ですが、その後は次第に忘れられてしまいます。

ところがこのユダヤ遺跡が発見されてから65年目にあたる2017年。

この遺跡が発見されて65周年式典が淡路島洲本で開催されました。

この式典の概要は以下の通りです。

「2017年5月14日 

イスラエル建国69周年。淡路菰江古代ユダヤ遺跡発掘65周年」

第一部    (洲本市文化体育館において)

記念式典 13時~

記念講演 エリ・コーヘン氏(元・イスラエル駐日大使)

     本名孝至氏( 淡路国一之宮 伊弉諾神宮 宮司)

第二部(淡路菰江古代ユダヤ遺跡において)

 伊弉諾神宮による式典   17時~

 (また同時同時刻に、出雲大社ご本殿にて祭典が執り行われます。)

【この式典への賛同神社名】

伊弉諾(いざなぎ)神宮 

出雲大社

大神神社

枚岡神社

中山神社

剣神社、大剣神社、西島神社

以上 8神社

 

主催:淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会 会長 魚谷佳代 」

いかがでしょうか。

この賛同神社の名前をみて 私は腰を抜かしました。

( 腰を抜かしたところで またね! )



Kindle出版(電子書籍)

はやくも第二版 絶賛発売中 

「古代ユダヤ遺跡 ~淡路島の謎」

城山流三著

 


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国際親善。 淡路島 これもユダヤ古代遺跡か? 淡路島に残るイスラエルの足跡!in ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景 : 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
http://tanetabi10.blog.jp/archives/426401.html

国際親善。 淡路島 これもユダヤ古代遺跡か? 淡路島に残るイスラエルの足跡!in ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景

門出の笑顔 今こそ撮りたい : 言わせて 聞かせて : 企画・連載 : 関西発 : 地域 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

これもユダヤ古代遺跡か? 淡路島に残るイスラエルの足跡!in ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景 


古代日本とユダヤの関連性とは!?淡路島遺跡に眠る古代日本ユダヤ人渡来説! - YouTube

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これもユダヤ古代遺跡か? in ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspo...

5 淡路島にユダヤの跡を追って 油谷、論鶴羽神社、ユダヤ遺跡?
http://tweettvjp.blog.fc2.com/blog-en...

https://twitter.com/JunjiHattori/stat...

服部順治(脱戦争/脱原発)
‏@JunjiHattori
うーん、何だろう?「これもユダヤ古代遺跡か? in ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景: http://youtu.be/AM3pkYoBe5Y 
イスラエル文化遺跡
http://www.tukinohikari.jp/jinja-hyou... …
地図 淡路島のイスラエル遺跡
https://www.google.com/maps/d/u/0/edi...

https://twitter.com/gnocisous/status/...
ネット徘徊老人
‏@gnocisous
淡路島に残るイスラエルの足跡 http://mysteryspot.main.jp/mysteryspo... …
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gakkenmu.jp/column/12385/ - キャッシュ
淡路島ユダヤ遺跡. 「驚きました。ヘブライ語の文字が記された古代日本の遺物を目にしたのは初めてです」. こう語るのは元駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏だ。

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tocana.jp > TOCANA > 日本 > 歴史・民俗学 - キャッシュ
去る5月14日、淡路島の洲本市(兵庫県)で「淡路菰江(こもえ)古代ユダヤ遺跡奉賛会」 が「古代ユダヤ遺跡発掘65周年記念式典」を開催した。

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awaji-suteki.com/spot/ - キャッシュ
27年、淡路島古茂江(コモエ)海岸、洲本市小路谷(オロダニ)にある旅館「四州園」(現ホテルニュー淡路別邸 淡路夢千景)内の小磯といわれる景勝地の海岸でイスラエル人の遺跡と思われるものが発掘され当時の神戸新聞にも「日本人にもユダヤの血?

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www.amazon.co.jp/... - キャッシュ
Amazonで魚谷 佳代の淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる!。アマゾンならポイント還元本が多数。

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これも<b>ユダヤ</b>古代遺跡か? <b>淡路島</b>に残るイスラエルの足跡!in ホテル ...

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mysteryspot.main.jp/mysteryspot/awaji-israel/awaji-israel.htm - キャッシュ
世界の流民といわれるユダヤ人の祖先が大古の日本に渡来したというナゾの学説はこれまでしばしば流布されて来たが、
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ユダヤ人


ユダヤ人
ヘブライ語יהודים[注 1]英語Jewsラジノ語Djudiosイディッシュ語ייִדן[注 2])は、ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的民族集団のこと。

原義は狭義のイスラエル民族のみを指した。

由来はイスラエル民族のひとつ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことからきている。

ユダヤ教という名称は、ユダヤ民族が多く信仰していた宗教であることによる。 

ヨーロッパでは19世紀中ごろまでは、イスラエル民族としての用法以外には主としてユダヤ教の信者というとらえ方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは宗教的民族集団としてのとらえ方が広まった。

ハラーハー
では、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[10]。 

イスラエル

イスラエル国
מדינת ישראל
دولة إسرائيل
イスラエルの国旗イスラエルの国章
国旗国章
国の標語:不明
国歌 התקווה (ヘブライ語)
希望
イスラエルの位置
公用語ヘブライ語
首都エルサレム(イスラエル宣言及び限定的な承認、国連は認めていない)
テルアビブ国連決議)[fn 1][6]
最大の都市 エルサレム
政府
面積
総計 22,072km2153位[6]
水面積率 2.12% 
人口
総計(2017年) 8,797,900人(98位)(推計)[7]
人口密度409人/km2
  1. ^ イスラエルは、エルサレムを首都と宣言しているが、国際連合はこれを承認しておらず、国連加盟国の多くはテルアビブを首都としている。
    アメリカ合衆国[1]グアテマラ[2]はエルサレムを首都と認めており、ロシア[3]オーストラリア[4]チェコ[5]は、西エルサレムをイスラエルの首都と認めている。詳細はエルサレム#首都問題を参照。

イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎ 、アラビア語دَوْلَة إِسْرَائِيل‎ 、英語State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエルは、中東レバントに位置する共和制国家。首都はエルサレムだが、多くの国はテルアビブを首都と見なしている。 

歴史

古代イスラエル

古代にはこの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめさまざまな民族が住んでいた。

ユダヤ人の祖先となるヘブライ人も移住してきたが、子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となっていった。

中世

636年東ローマ帝国正統カリフに敗北し、以後オスマン帝国滅亡(1924年)までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになる。

1099年第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。

イギリス委任統治領パレスチナ

国際関係

自民族の国家を持たなかったことにより、600万人のユダヤ人が殺されたホロコーストの教訓から、イスラエルは
「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」ということを国是にしているとされる[116]

その一方で、同情を利用した外交や事業といったものも行われており、それはノーマン・フィンケルスタインによってホロコースト産業と呼ばれた。 

  外交関係を有している国

  外交関係が未決の国

  過去に外交関係を有していたが、現在は有していない国

  外交関係を有していないが、過去に貿易関係を有していた国

  外交関係を有していない国

イスラエルは建国直後の1949年に国際連合へ加盟している。2011年時点で、イスラエルは157の国連加盟国外交関係を有している。

残りの国連加盟35か国のうち、サウジアラビアシリアなどのイスラム圏を中心とする26か国[117]パレスチナ問題を理由として建国以来一度もイスラエルを国家承認していない。

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www.historyjp.com/article.asp?kiji=204 - キャッシュ
海上から眺める淡路島古代、島々を旅する民が日本列島を廻った際、列島の中心として注目されたのが淡路島と推定されます。

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blog.goo.ne.jp/.../594987bb971ffe012f48bc58436675... - キャッシュ
僕が初めて聞いた時は、目を丸くし驚き、現場にも行ったものだ。

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tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51891511.html - キャッシュ

《内容紹介》 かつてイスラエル人が辿り着いた135度線の淡路島。 なぜ出口王仁三郎もそこを注目したのか。

ameblo.jp/akiaki0830-juria/entry-11933636171.html - キャッシュ
海を見下ろすある場所に. 古代イスラエル遺跡がありました. 淡路島にはなぜか、古代ユダヤの文化・風習・地名・遺跡が多く残っています. 日本の国造り神話も淡路から始まっていてユダヤと日本には深い関係があるようです.   

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『淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎』(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(+ナフタリ族の指輪)、ヘブライ文字が書かれた石) 
http://aikokutaro.blog.fc2.com/blog-entry-290.html

『淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎』(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(+ナフタリ族の指輪)、ヘブライ文字が書かれた石) 『織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人』(信長の先祖は、福井県の「劔(つるぎ)神社」の神官(忌部氏)(長篠合戦図屏風、忌部氏の白い羽織の背中には大きな六芒星)) 『四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」』

ムー2017年8月号、淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(+ナフタリ族の指輪)、ヘブライ文字が書かれた石)
淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(ナフタリ族)、ヘブライ文字が書かれた石)

淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(ナフタリ族)、ヘブライ文字が書かれた石)

淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(ナフタリ族)、ヘブライ文字が書かれた石)

淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(ナフタリ族)、ヘブライ文字が書かれた石)


「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第1部 「剣山を昇る」
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第1部 「剣山を昇る」
2004年から2007年まで駐日イスラエル大使。スファラディユダヤ人。アロン・コーヘンを祖先に持つ古代ユダヤ祭司一族、エリ・コーヘンの末裔)

元イスラエル大使が語る 神国日本 エリ・コーヘン
『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン』
https://ja.wikipedia.org/wiki/エリ・コーヘン

日本の神話と似ている聖書の神話
(ユダヤと日本の比較研究で高名なラビのマーヴィン・トケイヤー氏は、実は私の親族でもあります。トケイヤーは、彼の著書『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』の中で、日本の神話と聖書の記述には、「興味深い類似性」が存在していると述べています。)
『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン』

『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン』

『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン』

二七〇〇年前、淡路島にユダヤ人が来ていた/大本教の出口王仁三郎が遺跡調査を指示
(そうした伝説によれば、葦船の大船団は、沖縄、九州から淡路島を目指し、その一部は九州を北上し山口県に至り、また別な一団は、京都の丹後半島に至ったといいます。)
『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン

『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン

ユダヤの祭司コーヘン一族も男子継承
(日本の天皇とユダヤの祭司が、いずれも一度の例外もなく、男系によって続いているということは、実に興味深いことです。この点でもまた、世界の他の民族には例を見ないことだといえるのではないかと思います。)
『元イスラエル大使が語る神国日本 NIPPON DO 神代から大東亜戦争、現代まで貫く「日本精神」とは エリ・コーヘン』


古代ユダヤ遺跡~淡路島の謎 城山流三
『古代ユダヤ遺跡~淡路島の謎 城山流三』
淡路島は、国生み神話の舞台です。しかし、日本の神話は なぜ淡路島から 始まったのでしょうか。
実はこの淡路島の東海岸に、知る人ぞ知る 古代ユダヤ(イスラエル)遺跡があるのです。
2017年5月、この遺跡発掘65周年の記念式典がありました。この式典には、元イスラエル駐日大使のコーヘン氏らの講演もあって、大がかりなものでした。ところで、このユダヤ遺跡の記念式典に賛同した日本の神社があるのです。その神社名は、伊弉諾神宮、出雲大社、大神神社 等々の著名な神社が5社。それに剣山の神社が3社。(合計8社です。)
しかし、なぜ、古代ユダヤ遺跡の発掘65周年の式典に、著名な神社が賛同しているのでしょうか。

 筆者の、城山流三は、「数霊の翼」の著者。(2017年 文芸社より発刊)
「出雲の荒神谷遺跡は、ヘブライの数秘術によって出来ている」 これが「数霊の翼」執筆の動機でした。
古代代ヘブライの数秘術によると、「メッシアの出現を求める願い」は、数に置き換えると「358」なのです。一方出雲の荒神谷遺跡の銅剣本数は、358本です。この「358」という数の一致は 偶然でしょうか?
  
(出雲は、ユダヤとつながっているのです。)
「荒神谷遺跡は 神に救いを求めるSOS。」これが「数霊の翼」の結論です。
このたびのKindle新書「古代ユダヤ遺跡 ~ 淡路島の謎」は、その「数霊の翼」の続編です。


淡路島に残るイスラエルの足跡 イワクラハンター平津豊
淡路島に残るイスラエルの足跡 イワクラハンター平津豊


織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は、福井県の「劔(つるぎ)神社」の神官(忌部氏))(長篠合戦図屏風、忌部氏の白い羽織の背中には大きな六芒星))
織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人、長篠合戦図屏風、忌部氏の白い羽織の背中には、大きな六芒星が見られる

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)

織田信長と忌部氏と古代ユダヤ人(信長の先祖は神社の神官だった!、古代イスラエル人の子孫・信長、古代イスラエルと日本の共通点、ほか)




富田茶臼山古墳
さぬき市古墳勉強会 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん)
四国で一番大きな全長139mの古墳で、香川の古代史を語る上で欠くことのできない文化遺産です。
古墳時代の初めの頃(西暦250~300年)前方後円墳という鍵穴の形をした古墳は王の墓として全国各地に出現し、古墳時代後期(西暦500年代)までの約300年間造られます。中でも古墳時代中期(西暦400年代)は世界最大の伝仁徳天皇陵など巨大な前方後円墳が目立ちます。
富田茶臼山古墳は古墳時代中期のはじめ頃に造られたと考えられており(西暦400年の初め頃)、まさに巨大古墳の一番盛んだった頃の古墳です。
 また、この古墳は香川の古墳の歴史を語る上でキーポイントになります。香川では古墳時代の初め頃はたくさんの小さな前方後円墳が各地で造られます。また石だけで造った古墳など香川で特徴的な点が多く見られます。
それが富田茶臼山古墳の時代に近づくにつれて、段々と規模が大きくなり一方で数が減ってきます。形は大阪や奈良など他地域の古墳と似たものになってきます。そして富田茶臼山古墳が完成する頃は富田茶臼山古墳の他に前方後円墳はほとんど見受けられなくなり、特徴は大阪・奈良の古墳とほとんど同じになります。
このような変化は古墳時代の初め頃から段々と王の権力が強くなり、同時に奈良・大阪など畿内地域の影響が強くなってきたことを示します。その到達点が富田茶臼山古墳だったのです。
だだ、面白いのは富田茶臼山古墳から後の話です。香川では二度と同じような古墳が造られる事はなかったのです。さぬき市内でも富田茶臼山古墳より新しい古墳は全て小型の円墳になってしまいます。富田茶臼山古墳の王は一代で没落したのでしょうか。一代限りで奈良・大阪から派遣されてやってきた王だったのでしょうか。富田茶臼山古墳から約300年後、国の役所はさぬき府中、今の坂出市に設置されます。

さぬき市古墳勉強会 富田茶臼山古墳
参考

富田茶臼山古墳測量図
さぬき市古墳勉強会 富田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳の特徴
富田茶臼山古墳の特徴を見ると、様々な点で奈良・大阪の畿内地方の古墳と共通することがわかります。
 まず、古墳を三段につくっていること。奈良・大阪の巨大前方後円墳の多くは三段になっています。そして、各段には犬走り上の平坦地(テラス)がありますが、ここには円筒埴輪と呼ぶ土管の形をした埴輪を古墳の周りにぐるりと並べています。現状では確認できませんが発掘調査で埴輪が並べられていた様子が確認されています。
 次に古墳の周りには堀をほって水を溜めていました。奈良・大阪の巨大前方後円墳は巨大な墳丘とともに水を湛えた堀に雄大さ感じます。こうした堀を周濠(しゅうごう)といいます。富田茶臼山古墳の場合、現在水は湛えていませんが、周濠の存在は地形を見れば分かります。
 平成5年(1993)、古墳の西側で四角い古墳が3基発見されました。これは陪塚(ばいちょう)とよばれるもので、巨大な古墳の周りには円形や方形、中には前方後円墳の古墳がたくさん造られたのです。陪塚の中には甲や鏡などお供えものだけを埋めているものもあり、お供え物の収納施設、家来の墓、一族の墓など様々な意見がありますが、定説には至っていません。
 これらの点から富田茶臼山古墳は奈良・大阪の巨大古墳と同じ特徴をもっていることが判明するのです。
最後に王を葬った施設ですが、内部の様子については今の所不明です。おそらく石棺に葬られているのでしょうが、富田茶臼山古墳から前の時代、津田地区では火山の石を使った石棺が使われました。一方、大阪・奈良の大王の墓は兵庫県の竜山石が盛んに使用されています。富田茶臼山古墳は果たして地元の火山石なのか、兵庫の竜山石なのか、興味深い問題といえます。

さぬき市古墳勉強会 富田茶臼山古墳
参考

さぬき市古墳勉強会 TOP


妄想の阿波古代史 四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)
四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)

 道の駅「みろく」の北側に、全長139m、四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳がある。前方部は木々が伐採され、整備されており、3段築成の様子を偲ばせる。
四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)

 高さ15mの後円部頂上には、往古から信仰を集めていたのだろうか、妙見神社が建っている。頂上からは、長尾平野が一望でき、遠景に火山を望む。辺り一帯を治めていた豪族の旺盛がうかがえる。
四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)

 後円部南側には周濠とみられる跡もあり、楯形の周濠帯も生活道路として遺っている。周濠帯をふくめた全長は163mにも及ぶ。
四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)

四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」(香川県さぬき市)
 
 富田茶臼山古墳は、3基の陪塚を有しており、築造は5世紀前半とされている。5世紀ごろの畿内においては、河内に巨大古墳が次々と作られており、最大の仁徳天皇陵は5世紀中頃の築造とされている。仁徳天皇は、難波高津宮を都とした。富田茶臼山古墳のある辺りは、平安時代には、難波郷と呼ばれていたことが和名類聚抄に記されている。139mという規模、陪塚の存在、そして難波の地、富田茶臼山古墳には畿内政権とかなり関係の深い人物が埋葬されていたのではないかとされている。

最大の仁徳天皇陵は5世紀中頃の築造とされている。仁徳天皇は、難波高津宮を都とした。富田茶臼山古墳のある辺りは、平安時代には、難波郷と呼ばれていたことが和名類聚抄に記されている。



香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

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香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。

香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。
ユーチューブ動画 SkySkip:010 富田茶臼山古墳
香川県さぬき市大川町にある富田茶臼山古墳は、国指定文化財で、全長139メートルの四国最大の規模を誇ります。築造年代は、5世紀前半と考えられ、大和朝廷との強い結びつきを物語る大型前方後円墳に共通した盾形の周濠や三段築成、三基の陪塚といった3つの特徴をもっており、貴重な文化遺産です。


国指定文化財等データベース 富田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳は香川県の東部、長尾平野の東端に位置する四国地方最大の前方後円墳である。南方の讃岐山脈(阿讃山脈)から派生した低丘陵の縁辺部に立地し、丘陵の稜線に直交するように前方部を西方に向けて築造されている。後円部に立つと長尾平野を一望でき、弘法大師ゆかりの五剣山や、高松平野との結節点に聳える白山を遠望することができる。
 古墳の北側には津田川が流れ、蛇行しつつ東流して播磨灘に開く津田湾に流入している。その河口の津田港は中・近世の商業港として知られているが、津田湾を望む山丘上には東讃地域を代表する前期古墳が数多く分布し、津田湾が海上交通の拠点として古くから重視されたことを物語っている。本古墳は津田湾から長尾平野に至る要点を占め、津田湾を掌握し、高松平野に連なる長尾平野を治めた被葬者の支配領域と経済的基盤が推測される。
 本古墳に関しては、江戸時代の『三代物語』が日本武尊陵と記し、『全讃史』は仁徳天皇陵、もしくはその皇子である難波皇子の墳墓と推定している。後者は当地が『和名抄』にみえる寒川難破郷に比定されることに由来し、さらに寒川皇子、讃岐国造の祖とされる神櫛皇子の墳墓とする説もある。円筒埴輪の存在が古くから知られ、地元では千壺山とも呼ばれている。後円部の頂上には妙見神社が祀られ、後円部東端には中世の石仏を祀る「弥勒庵」が存在する。古墳は、昭和10年代に県道高松長尾大内線の建設によって後円部北側を掘削され、その後の開墾や住宅建設によって前方部や墳丘裾部に改変を受けているが、総じて旧状をよくとどめている。
 平成元年度に大川町教育委員会によって古墳の確認調査が実施され、墳丘や周濠の規模や形態が明らかになった。
 古墳は前方部・後円部ともに3段に築成されている。墳丘は全長139メートルの規模をもち、後円部の高さは15・7メートルで、前方部に比べると2・4メートルほど高い。後円部の直径91メートル、前方部の長さ四八メートル、前方部の幅77メートルで、前方部の長さが後円部に比べて短い点に形態上の特徴がある。段築の斜面長は、後円部が下から1対1対3、前方部が同様に1対1対2の比率をもち、畿内の大型前方後円墳に共通した築造企画が認められる。段築の平坦部には埴輪列が巡る。
 周濠は現存する地割にその痕跡が認められ、早くからその存在が指摘されていたが、調査によって規模と形態が確定した。周濠の幅は後円部東側で幅13メートルとやや狭いが後円部両側と前方部の最大部両側、前方部前面が約20メートルの同一幅に設計されており、全体としては前方部で幅を狭めた盾形の平面形となる。深さは墳丘1段目から2メートル前後で、周濠を含めた古墳の主軸総長は163メートルである。
 南方の丘陵側には、周濠の外側に幅15メートルの周庭帯が認められる。周庭帯は丘陵面よりも3〜4メートル低く、墳丘1段目とほぼ同レベルにあることから、丘陵を切断し古墳築造の基盤面として一体に形成されたことが分かる。この周庭帯は前方部北側の対称位置や後円部北東側にも遺存地割として認められる。
 埋葬施設は未調査のため不明であるが、明治時代に後円部の墳頂部を掘削した際に、石室の天井石を掘りあてたという伝承がある。
 出土遺物には、円筒埴輪や朝顔形埴輪のほかに、家形や蓋形などの形象埴輪の細片がある。円筒埴輪は器面が剥離するなど残りが悪いが、制作時の器面調整は縦刷毛後に連続する横刷毛を施したものが多い。透し孔は円形で、タガは断面台形のものが主流を占め、外面には黒斑が認められる。
 本古墳の築造時間は、円筒埴輪の特徴や古墳の形態、築成方法などから、5世紀前半と考えられる。古墳時代前期の讃岐は、瀬戸内海沿岸地域でも独自の古墳文化を形成した地域である。積石塚の発達と前方部の中ほどがバチ形に屈曲したり、長方形の前方部をもつ特異な形状の前方後円墳の盛行を特色とする。こうした地域的特色は、富田茶臼山古墳が出現する5世紀前半頃から急速に消滅の方向に向かっている。東讃地域をみると、津田湾を中心に築造された5群15基の前期古墳が知られているが、それらの古墳群は古墳時代中期まで継続せずに、富田茶臼山古墳の出現を契機に急激に衰退する現象が認められる。富田茶臼山古墳の傑出した規模や、墳丘形態・築成方法にみられる畿内的色彩の強さを考慮すると、畿内政治勢力と緊密な結び付きを背景に、瀬戸内南岸ルートの四国東端の要衡である津田湾を掌握し、東讃地域を統合した有力な首長の出現が推測される。
 以上のように本古墳は四国地方最大の前方後円墳であるとともに、四国地方における古墳時代の政治や社会の動向を考究する上でも高い学術的価値を有している。
 よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。



第十六代 仁徳天皇
山県(やまがた)に蒔(ま)けるあおなも吉備人と共にし摘めばたのしくもあるか

 仁徳天皇は難波に都を営まれたが、高殿にのぼって民家に炊煙が立っていないのを見て三年の間、租税を免じるという仁政を施されたことで有名。天皇は吉備の国の黒日売を寵愛されたが、日売は、皇后、磐之姫の嫉妬を恐れて国に帰ってしまう。この歌は天皇が思慕の思いに耐えず、皇后の目を欺いて吉備に赴かれたときに詠まれたものである。「山の畑に蒔いたあおな(青菜)を摘むという平凡なこともお前(吉備人)と一緒にすれば楽しいことよ」という愛情に満ちたお歌。

出典 古事記


(資料)<日本の真相 1~8><神々の真相 1~6>リンク 古代物部王国と籠神社、秦氏の起源、大和朝廷、人類創世神話とシュメール、ほか 『MILLENNIUM』日本という国の意味がこれで明らかになった、八咫烏の関係者曰く、真名井神社、伊雑宮の復活が意味するところ
(2)籠神社の極秘伝
①忌部氏
 このように見てくると、阿波忌部氏は北イスラエル王国=失われた十支族系のレビ族であると考えるのが妥当である。籠神社の海部宮司に依ると、四国が重要であるという。言われた時には、単に大嘗祭の麁服を献上する阿波忌部氏と、剣山でノアの箱舟がアララト山に到着した日に行われる祭り(7 月 17 日の神輿渡御)の重要性を指しているのかと思った。しかし、物部氏のトップが重要と言うからには、四国の阿波で象徴される阿波忌部氏のことであり、阿波忌部氏も物部氏に属するということである。
 阿波忌部氏は大嘗祭に於いて麁服という白装束を献上する。大嘗祭では皇太子殿下の“最後の晩餐”“死”、そして天皇陛下となって“復活”することを再現しており、イエス・キリストの御魂と一体となり、正式に王権を継承する御神事である。だから、この麁服は“死に装束”である。そして、このような御神事に関われるのはレビ族のみである。ただし、中核を成す、失われていない二氏族系=原始キリスト教徒(純粋秦氏)のレビ族が御神事を取り仕切るが、これは賀茂氏である。対して、失われた十支族系=ユダヤ教徒(物部氏)のレビ族は取り仕切らずに関わるのみである。これが阿波忌部氏であり、阿波忌部氏は物部系故に、直接御神事を取り仕切るのではなく、麁服を献上するのみとなったのであろう。そういう意味で、忌部氏を“レビ族”と言い換えると、神道を裏から取り仕切る秦氏系のレビ族が賀茂氏=八咫烏、物部系のレビ族が忌部氏と言える。中でも、エフライム族=海部氏=尾張氏と共に渡来したレビ族が阿波忌部氏である。
 また、イエスの磔刑を見守ったのが原始キリスト教徒=秦氏のレビ族である。イエスを十字架に掛けるよう要求したのは原始キリスト教徒ではないユダヤ人=ユダヤ教徒である。麁服という“死に装束”を差し出すことは、死を要求していることと同じである。つまり、イエスの“死”と“復活”を象徴する大嘗祭に於いて、“死に装束”である麁服を献上する阿波忌部氏はユダヤ教徒の象徴であり、物部氏はユダヤ教徒だから、阿波忌部氏は物部氏ということになる。 
 著者は、古代メソポタミアに於いて、天界へ旅立つ死者を導くイム・ドクトという鳥獣神を挙げ、“忌”の読みと掛け、メソポタミアとの関連性を指摘し、今後の研究課題としている。この鳥獣は、フェニックスに他ならない。方墳に関係する阿波忌部氏の忌=イミ=イムには、フェニックスという意味も込められているのである!確かに、フェニックスは死者の“復活”に関わり、大嘗祭で麁服を献上する忌部氏に最も相応しく、また、死者に関わることができるレビ族たる忌部氏に相応しい。
 そして、フェニックスは沖縄に関わりが深く、沖縄は古代物部氏、とりわけフェニックス=フェニキアと関係が深いエフライム族=海部氏=尾張氏と繋がる。このことからも阿波忌部氏は物部氏であり、特にエフライム族、アロンの杖と共に渡来した物部氏(レビ族)と言える。“エフライム”にも“イム”が含まれていることは、それを暗示している。


『古代風土記の事典 瀧音能之(編集), 鈴木織恵(編集), 佐藤雄一(編集)』『風土記』とはどんな本か、成立をめぐって、アメノヒボコ神、スクナヒコナ神、イワ大神、神仙思想、浦島伝説、蘇民将来伝承、景行天皇、応神天皇、仁徳天皇、ヤマトタケル、神功皇后
仁徳天皇(『風土記』における特筆記事、地名起源となる『播磨国風土記』の開墾説話)
『古代風土記の事典』仁徳天皇(『風土記』における特筆記事、地名起源となる『播磨国風土記』の開墾説話)


『日本人のご先祖様は聖書のアブラハム! 小石豊』 ヤコブが十支族へ与えた注目の祝福とは? 天橋立 元伊勢籠神社、諏訪大社はキリスト寺院か!?、沖縄琉球王朝に見るユダヤ・キリスト教の影響、「広隆寺の十善戒」と「モーセの十戒」、メノラー模様、サマリアから日本への道
『日本人のご先祖様は聖書のアブラハム! 小石豊』
『日本人のご先祖様は聖書のアブラハム! 小石豊』

■戦国時代に見るダビデ紋様
戦国時代に見るダビデ紋様 [出典:『日本文化もとをたどれば聖書から』杣浩二 神戸平和研究所]


テレビ放映された古代日本ユダヤ人渡来説1(日本語の中のヘブライ語他 出演:久保有政 他) 「新説!?日本ミステリー」より「日本のルーツは古代イスラエル!?」(2006年12月6日 テレビ東京)。日本語の中にはヘブライ語と発音も意味も同じ言葉がたくさんある。秦氏の渡来、他。
テレビ放映された古代日本ユダヤ人渡来説1(日本語の中のヘブライ語、秦氏の渡来 出演:久保有政)「新説!?日本ミステリー」より「日本のルーツは古代イスラエル!?」(2006年12月6日テレビ東京)。

テレビ放映された古代日本ユダヤ人渡来説1(日本語の中のヘブライ語、秦氏の渡来 出演:久保有政)「新説!?日本ミステリー」より「日本のルーツは古代イスラエル!?」

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『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く 田中英道』

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ムー2017年8月号










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1 件のコメント:

  1. 1 坊主 ★[sage] 2021/04/13(火) 23:23:22.48 ID:CAP_USER
    ハルビン特務機関長時代の樋口季一郎(樋口隆一氏提供)
    https://www.sankei.com/images/news/210412/wor2104120010-p1.jpg
    樋口中将孫の樋口隆一氏
    https://www.sankei.com/images/news/210412/wor2104120010-p2.jpg

     第2次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救った陸軍中将、樋口季一郎(明治21年~昭和45年)の功績を顕彰する銅像を樋口の出身地、兵庫県南あわじ市などに建立する計画が進んでいる。12日までに孫の明治学院大学名誉教授の隆一氏を代表とする銅像建立委員会が設立された。

     設立委員には、南あわじ市の守本憲弘市長や戦略論研究で世界的権威の米歴史学者であるエドワード・ルトワック氏らが名を連ね、来年秋、南あわじ市の伊(い)弉(ざ)諾(なぎ)神宮などに銅像建立を目指し、5月に一般社団法人を設立し、約2000万円の寄付を募る。

     樋口中将はハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年、ナチスの迫害を逃れソ連を通過してソ連・満州国境に逃れながら立ち往生していたユダヤ難民を満州国に受け入れ、脱出ルートを開き、救出人数は2万人とされている。

     この2年後の40年、リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発効しユダヤ人を救った。

     また45年の終戦時、樋口中将は北の守りを固める第5方面軍司令官として、千島列島のシュムシュ島(占守島)や樺太での旧ソ連軍との自衛戦闘を指揮し、「ソ連の北海道への侵攻を阻止した」との再評価が進み、昨年9月、北海道の石狩に記念館が開設された。

     ドイツと防共協定を結び、反対が根強い中、樋口中将は捨て身でユダヤ人難民を救出し、上司だった関東軍の東条英機参謀長もこれを不問に付した。樋口中将は、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」に掲載されたが、軍人という理由から、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)に列せられなかった。

     同委員会は、銅像建立を通じて人道行為の功績を発信したいとしている。

     ルトワック氏は、「樋口は混乱して予測不能の困難な時代に率先して勇気ある大胆な行動を取った。彼に助けられ、戦後、大使や科学者になった者も少なくない。しかし、ヤド・ヴァシェムから英雄に処されていない。いつ、どこにも良い軍人はいた。樋口は広く顕彰されるべきだ」と話している。(岡部伸)

    産経新聞 2021.4.12 12:41
    https://www.sankei.com/world/news/210412/wor2104120010-n1.html

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