2021年6月8日火曜日

日本発「イベルメクチン」 インドがコロナ治療で感染者数減もWHO「反対」のナゼ

日本発「イベルメクチン」 インドがコロナ治療で感染者数減もWHO「反対」のナゼ

日本発「イベルメクチン」 インドがコロナ治療で感染者数減もWHO「反対」のナゼ

 新型コロナの変異株の蔓延で感染爆発が起きていたインドだが、5月を過ぎてから、その状況に変化が生じている。各州が抗寄生虫病の特効薬「イベルメクチン」の本格投与に踏み切ってから、感染者数・死亡者数ともに減少に転じているのだ。イベルメクチンといえば、大村智・北里大特別栄誉教授が発見、開発し、2015年にノーベル医学生理学賞を受賞した抗寄生虫薬。効果が認められれば、日本で発明された薬が、ワクチン不足の世界を救うことになるかもしれない。こうしたインドの状況について、北里大学教授・大村智記念研究所感染制御研究センター長の花木秀明氏は期待をかける。

【図】ペルーのイベルメクチン投与の推移

――イベルメクチンの本格投与に踏み切ったインドで、改善の兆しがみられています。インドは今、どのような状況なのでしょうか。

 インドではほとんどの州で投与が進んでいる状況です。中には投与を見送っている州もあり、5月以降、投与を見送ったタミル・ナードゥ州では感染者数が増加を続ける一方、投与をしているゴア州では感染者数が減少しています。感染状況に大きな差が生まれているというデータが出てきました。

 実はインドだけではなく、ペルーでも投与に踏み切った州は効果が出ています。イベルメクチンが投与された8つの州と、投与が遅れたリマ州とでは、発生数と死亡者数に歴然とした差があります(グラフ参照)。投与後は、新規感染者が10分の1から15分の1まで減少したのです。その後に大統領が変わって、ペルーでは投与しない方針に転じましたが、再び感染者数が急増し、元の木阿弥になってしまいました。

――ほかに効果が表れた国はありますか。

 アフリカ諸国です。元々、イベルメクチンのコロナへの効果が注目される端緒になったのはアフリカでした。アフリカは医療体制が整っていませんが、国によっては感染者数が思ったほど増えていない。細かく見ていくと、イベルメクチンを配った国は感染者が少なく、配っていない国は感染者が多かったのです。

 数字で示すと、アフリカで「投与ありの国」の感染者数は、10万人当たり131人で、「投与なしの国」が925人。死亡者数は、投与国が10万人当たり2.1人で、投与していない国は28・4人と、13倍以上の開きがあります(馬場錬成先生のデータ)。差は歴然です。


――これらの数字は、イベルメクチンの効果と捉えて間違いないでしょうか。

 インドやペルーでもアフリカと同様のデータが出ていますので、これを偶然ととらえるには無理があると思います。北里大の研究チームでは、それなりに効果があるだろうとみています。

 実は日本でも、独自の判断でイベルメクチンをコロナの治療に使っている医師は一定数いて、データを取ってくださっています。イベルメクチンを投与すると、解熱効果や肺の状況が改善するといった臨床データが出てきました。そうした点からも、効果はあると捉えています。ただし、「効果がある」と言うと、100%の患者さんに効くと思われがちですが、薬というのは通常、80%ほどに効果がみられたら、十分効いたとされるものです。イベルメクチンも100%ではないですが、その範疇には入っていると思います。

――世界では急ピッチで治験が進められているようですが、現在の状況についてうかがいたいです。

 現在、世界各国の56カ所で臨床研究が行なわれていて、投与された患者さんが1万8000人ほどいます。軽症患者に投与する早期治療は、78%に改善効果が見られました。予防投与では、85%の人が改善。死亡率の改善も74%でした。それら臨床研究をもとに出した平均値なので、このデータをもってまったく効かないという考えには、到底いたらないです。

 これまでの臨床研究は発展途上国ばかりでした。途上国のデータだからといって認めない先生方もたくさんいらっしゃいますが、改善したというデータがこれだけ多く集まっている以上、そのデータを無視するわけにはいかないと思います。

――改善データがありつつも、新型コロナの治療にイベルメクチンを使うことには、反対意見も一定数見られます。世界保健機関(WHO)も治験データが不足していることなどから、投与に慎重論を唱えています。

 イベルメクチン投与に反対する一番の理由は、先進国が出した治験データがないということ。ですが、人が次々と命を落としている有事の中で、「EBM(根拠に基づく医療)が必要だ」と言って何千人何万人のデータを要求するような考えはおかしいと思っています。

 公的機関としては、そういう方針をとらざるを得ない面はあるのかもしれませんが、本当に救命を考えるのであれば、発展途上国のデータであっても人に投与した結果が出ているのですから、それを素直に評価していただきたいです。薬は本来、80%が効けば十分とされるもの。残り20%を持ち出して効かないと言われてしまったら、ほとんどの薬は効かないことになってしまいますよ。

 今はイタリア・イギリス・日本・フランス・アメリカなど、先進国も治験を開始しています。今後先進国の結果がオープンにされれば、反対する一番の理由がなくなってしまうので、情勢は変わってくると思いますし、効く使い方が明らかになってくると思います。

――本来、抗ウイルス薬として開発されたものではないイベルメクチンの使用については賛否両論の議論がなされています。イベルメクチンに期待をかける研究チームの一人として、望まれることはありますか。

 専門家が使用に対して批判するのであれば、科学的な検証でもって批判していただきたいです。科学的な根拠をもって批判をするためには、世界的に評価されているデータを見なければいけませんから、これだけポジティブなデータが集まっている以上、科学的な否定は難しいと思いますよ。

 これだけの改善効果が出ていながら、WHOやCDCが言っているからという理由だけで反対するのは、もうやめていただきたいです。世界的な権威であっても、コロナにおいてはよく判断を間違えています。WHOは以前、マスクは要らないという方針をとっていましたが、今は一転してマスクが重要だと言っています。今はイベルメクチン投与に反対していますが、そのうち変わるかもしれません。この新型コロナはまったく新しい疫病なので、権威主義に依存せず自分で調査し考え臨機応変に対応しないといけません。

――インドは本格投与に踏み切りましたが、日本の状況はいかがでしょうか。

 現在は権威側が足踏みしているので、医師が独自の判断で処方しているような状況です。イベルメクチンの使用については、最終的に医師の裁量と患者の同意があれば処方することは可能です。兵庫県尼崎市にある長尾クリニックでは、自宅療養者約300人に投与していますが、死亡者は現時点で一人も出ていないそうです。でも、そういう先生は「ちゃんとしたEBMがないのに治療を行った」と言われ、批判を受けてしまうのが現状です。

――副作用については。

 これまでに37億人に投与していて、今でも年間3億人が投与しています。安全な薬と思っていただいて大丈夫です。あえてリスクを挙げるなら、経口なので、肝臓にある程度の負担がかかることでしょうか。これは仕方のないことだと思います。今のところ日本で、肝臓に重篤な副作用が起きたという事例は聞いたことがありません。

――国が早期に医薬品を承認する「早期承認」を受けるという選択肢もありますが、これについても見解をうかがいたいです。

 現在、立憲民主党がイベルメクチン承認を後押しする議員立法を準備しています。イベルメクチンだけが対象ではなく、既存薬で効くものがあれば使えるようにしましょう、という法案です。ぜひ超党派で議論してほしいと思います。

――現在の制度でも医師の判断で処方が可能ですが、早期承認が下りることで、なぜ普及が進むのでしょうか。

 早期承認が下りることで、医師の免責事項ができます。今は医師の独自の判断で処方しているので、万が一副作用が出た場合は、その賠償を医者がもたないといけません。早期承認されれば、何かあった場合も保険で適用されるようになります。

 法案が通れば、処方する医師は一気に増えると思いますし、自宅待機者やホテル療養者にも安心して配ることができるようになります。現状では38度以上の熱があってもカロナールしか配られず、医療放置に近い状態が続いていますが、抗ウイルス効果が認められれば、お医者さんだって配りたいはずです。そもそもイベルメクチンは厚生労働省の「新型コロナウイルス感染症COVID-19診断の手引き」に記載されている治療薬です。

――イベルメクチンを個人輸入されている方も増えているようですが、この状況についてはどうみていますか。

 個人輸入は、個人の権利なので侵害はできません。それよりも、国が個人輸入しなければいけないような状況を作ってしまっていることが問題です。輸入する人たちも、なるべくそんなことはしたくないし、自分の身を守るためにどうしようもなくやっている。クリニックで医者の管理下で処方されるようになれば安心ですし、個人輸入はしなくなります。

――イベルメクチンの普及が進まないことについて、課題を教えてください。

 残念なことに、イベルメクチン自体、まだまだ知名度が低いんですよ。アビガンと比べると雲泥の差です。もともと駆虫薬なので、新型コロナに効くという認識がない。コロナの治療なのにどうして虫下しの薬を飲ませるのかと、抵抗を抱いてしまう人も多いのです。私がツイッターなどで積極的に発信活動をしているのも、イベルメクチンを知ってもらうためです。早く世に知られて、コロナ禍を収束させる一助になることを願っています。
(構成=AERA dot.編集部・飯塚大和)

サイトで見る


iPhoneから送信

イベルメクチン Noguchi Akioさんのツイート


https://twitter.com/derive_ip/status/1401910969014513665?s=21

2021年6月7日月曜日

モース1925、ダヴィ1922、スワントン1905 Mauss1925 - Georges Davy1922 - Swanton1905


贈与論ーアルカイックな社会における交換の形態と理由』 ( ぞうよろん、Essai sur le don: forme et raison de l'échange dans les sociétés archaïques ) は、 フランス出身の社会学者、文化人類学者であるマルセル・モースによる社会学、 文化 ...

https://ja.wikipedia.org/wiki/贈与論

モース『贈与論』1925はダヴィ1922を参照している。

 La foi jurée : étude sociologique du problème du contrat : la formation du lien contractuel 
by Davy, Georges, 1883- 
 Publication date 1922

ダヴィが参照したのはスワントンの以下?

Page -195- 1. Swanton, Tlinkit (36"' annual Report. Bar. of amer Ethnol). Ynu plus liant, p. 171, la référence complète.
Page -391- III. Les faits de potlatch décrits par M. Swanton 179-187

中でもダヴィ経由でモースが参照したのはスワントンの以下1905、

スワントンはフィールドワークにおいてカナダ先住民族の二つの地域を比較している。
結果的にモースはハイダ族を念頭に置いていたことになる。

ハイダ関連:

Contributions to the ethnology of the Haida. Memoirs of the AMNH ; [v. 8, pt. 1]; Publications of the Jesup North Pacific Expedition ; v. 5, pt. 1.

Swanton, John Reed, 1873-1958.
日付: 1905



178 SWANTON, THE HAIDA. same day he who potlatched sent messengers to talk over the order of dancing, and the day after completing these arrangements the people were summoned. When all had assembled in the house of the host, the town people and the guests were ranged on opposite sides of the house, and those who were going to be inspired sat at the upper end of the house. They sat there for the For this duty the visiting chiefs were After the chiefs had danced awhile, they went up to the rear of the house where the novices sat, and threw When they did this to any one, he threw himself on the ground. Two of the guests danced at the same time in the rear part of the Other novices threw themselves upon the ground in the same way. The guests and town people who acted as companions to the novices were chosen from the highest ranks only. One of them sat by the face of each who had fallen down. By and by all of the novices went out, and the guests and town people began to sing. Again the novices (those who were inspired) entered the house where they were singing, and went behind the screen. While they were there, the chiefs went around the fire, singing a peculiar guests to put the spirits into them. taken ; and they, too, did the dancing. feathers at them. house. song. This was all for that day. 
 Very early next morning, before daylight came or the raven called, all were summoned; and when the potlatch-house was filled, they began to sing. They sang until daylight, but, when the raven called, stopped and went out. This was done for four days successively; and at the end a long pounded- cedar-bark rope was stretched from the doorway to the beach, and no one If any one went around the front, they seized him, took him into the house, and put him among the novices. On that day, too, they prepared food for the novices, and, going around the They did not invite them by word of mouth, but only tapped on the ground in front of them The heralds wore cedar-bark rings, and those invited used the When they got inside, the This was then put into four new. trays, and one flicker-feather was put into each. Four selected men (who Two of these called out went by the front of the house. town, called all of those who were already initiated. with canes. same. Members of both clans went to the feast. people started preparing food for them. were to receive the food) took up these trays. “Halu'gułiē !" and went around the fire. The other two called out “Great They said this four times, and, after having spoken, kept the trays for themselves. Before sitting down they put food into the fire; and when it began to burn, the novices behind the power !" (Wi'naxna'o!') and did the same. screen began blowing whistles. This feast was called Gu'gadōt. Then they brought out dried mountain-trout, and handed it to a chief from among those invited (from the other town) who sat in the rear of the small piece, and all of those invited bit off house. First of all, he bit off ! A Tsimshian word.


日付 1905
178 SWANTON, THE HAIDA 同じ日にポトラッチした者が使者を送って踊りの順序を話し合わせ、その準備が完了した翌日に人々が召集されました。主催者の家に全員が集まると、町の人々と客は家の両側に並び、鼓舞される側の人々は家の上の方に座った。彼らはそこに座っていた。この任務のために、訪問した長者たちはしばらく踊った後、長者たちは初心者が座っている家の後部に上がり、投げた。誰かにこれをすると、その人は地面に身を投げた。客のうちの二人は、家の後部で同時に踊り、他の初心者も同じように地面に身を投げた。修行僧のお供をする客や町の人たちは、最高位の者だけが選ばれた。その中の一人が、倒れた人の顔のそばに座っていた。やがて、修行僧たちが全員外に出ると、客や町の人たちが歌い始めた。再びノビスケ(感化された者)は、歌を歌っている家に入り、屏風の裏に入った。彼らがそこにいる間に、酋長たちは火の周りを回り、霊を入れるために独特の客を歌い、彼らも踊りをした。その日はこれでおしまい。
 次の日の朝早く、日が暮れる前に、あるいはカラスが呼ぶ前に、全員が召集され、ポトラッチハウスが満員になると、彼らは歌い始めた。日が暮れるまで歌っていましたが、カラスが鳴くと止めて出て行きました。これを4日間続けたが、最後に杉皮を叩いた長い縄を戸口から浜辺に張ったが、誰もいなかった。 誰かが表に回り込んだ時には、その人を捕まえて家の中に入れ、修行僧の中に入れた。その日も、修行僧のために食事を用意し、家の周りを回って、口伝えで誘うことはせず、目の前の地面を叩くだけであった。 伝令者は杉皮の指輪をし、誘われた者は杉皮の指輪を使った。選ばれた4人の男(このうちの2人が呼んだ)が家の前に行き、町の中で、すでにイニシエーションを受けている人たちを全員杖を持って呼んだ。両氏族のメンバーは宴会に行き、人々は彼らのために食べ物を準備し始めた。 は食べ物を受け取ることになった)これらのトレイを取り上げた。"Halu'gułiē !"と言って、火の周りを回りました。他の二人は「グレート」と声をかけた。彼らはこの言葉を4回言い、話し終わった後、お盆を自分たちのものにした。座る前に食べ物を火の中に入れ、燃え始めると、初心者は力の後ろに「!」と言っていた。スクリーンは口笛を吹き始めた。この宴をグァガドートと呼んだ。そして、ヤマメの干物を持ってきて、(他の町から)招待された人の中から、小駒の後ろに座っている長者に手渡し、招待された人は皆、家の中で噛み切ってしまった。まず、彼が噛んだのは!?ツィムシアン語の一つ。

…
180
180 SWANTON, THE HAIDA. novices were still seated at the side of the fire towards the door. A chief arose and delivered some orders. Then only the men stood up, and, as they did so, blew through their lips. The novices all stood up and went up to the screen to go behind it. the novices went behind the screen. All blew through their lips four times. Then After that, the novices came out and The people all began to sing; and one wearing a mask appeared, performing behind the screen so that he could be Then they sang very After that, two of the town people also began to dance; and when this came to an end, sat down in front of the screen. over the top of it. After that all stood up. seen much; and, that finished, two of the guests began to dance. they went to sleep.

 Early next day, while it was yet dark, they had the novices sit in front of the town, wearing cedar-bark rings. While they sat there, the raven called, and day broke.  When the sun stood high, they came in, and were given food.

The trays were looked after very carefully, to see that they did not turn around.

The ends of the spoon-handles were tied about with rings of cedar-bark.

 Then they called for the guests, and began to pile out the house-owner's property. Afterwards those whom he had chosen to become “inspired" also brought in their property. When this had been done, they began giving the property away to the visitors. [ダヴィ引用箇所]





They gave first to the chiefs, and then to Then the property. brought in their property. When it was ended, they began to go out. every one else. visitors paddled home. For ten days after, household articles, etc., were kept in a certain order in the potlatch-house. days, they went back to their parents. They did not eat things collected at low tide for some time. prescribed When the novices had been together for ten By and by, when they were going to eat such things, their parents made a great feast, and called the people in for it. When all were in, they began to sing; and while they sang much, they put into the fire the cedar-bark rings the novice had used. ' Afterwards food was given them, grease and preserved berries, of which the feast consisted. In all, there were ten boxes. eat things found at low tide (tcao). After that, he who had been initiated began to DISTRIBUTION OF CEREMONIALS AMONG FAMILIES.
 The Haida are aware that the Tlingit formerly buried a slave under the grave-post, but declare that they never had such a custom themselves. Both clans could act the "good spirit," and it is said to have been the only Masset spirit which spoke through women. My informant told me that the only one who could act U'lala in the northern towns was Lā'teł, chief of the Ski'daoqao (R 16). When he was sitting before a fire, and the kettle upset, he would jump up and run over town

…
180
180 SWANTON, THE HAIDA. 初心者たちは、まだ火の側でドアに向かって座っていた。酋長が立ち上がり、いくつかの命令を伝えた。その後、男たちだけが立ち上がり、唇から息を吹き込んだ。修道士たちは全員立ち上がり、スクリーンの後ろに行くためにスクリーンに近づいた。全員が4回唇に息を吹き込んだ。その後、修行僧たちが出てきて、みんなで歌い始め、仮面をつけた人が現れて、スクリーンの後ろでパフォーマンスをして、とても歌いました。その後、全員が立ち上がり、多くのことを見て、それが終わると客の二人が踊り始め、彼らは眠りについた。

 次の日の早朝、まだ暗いうちに、彼らは修練者たちに杉皮の指輪をはめて町の前に座らせた。彼らが座っていると、カラスが鳴いて、日が暮れた。日が高くなると、彼らは中に入ってきて、トレイを与えられた。 スプーンの柄の端は、食べ物の輪で結ばれていた。 スギの樹皮が裏返る。
 そして、客を呼び、家主の財産を積み上げ始めた。その後、家主が選んだ「霊感」のある人たちも、このようにして、財産を客に配り始めた。最初に酋長たちに渡し、次に財産を渡した。それが終わると、彼らは外に出始めた。来場者は皆、家に向かって漕ぎ出した。それから10日間、ポトラッチハウスでは生活用品などが一定の順番で保管されていました。干潮時に採取したものはしばらく食べなかった。 所定の方法で、修行僧たちが10日ほど一緒にいて、そのようなものを食べようとしたとき、彼らの親は大きなごちそうを作り、そのために人々を呼んだ。皆が集まると、歌を歌い始め、歌いながら、修行僧が使っていた杉の皮の輪を火にくべた。その後、食べ物が与えられ、油や保存されたベリー類が与えられたが、これらはごちそうの材料であった。全部で10箱あった。 干潮時に見つけたものを食べる。その後、イニシエーションを受けた者は、家族の中で儀式の分配を始めた。
 ハイダ族は、トリンギット族がかつて奴隷を墓標の下に埋めていたことを知っているが、自分たちにはそのような習慣はないと宣言している。どちらの氏族も「良い霊」を演じることができ、マセット族の霊の中で唯一、女性を通して話をしたと言われています。私の情報提供者によると、北部の町でウララを演じられるのは、スキーダオカオの酋長であるラーテウだけだったそうです(R16)。彼が火の前に座っていて、やかんがひっくり返ると、彼は飛び上がって町中を駆け回るのです。




トリンギット関連:

例えば、オーストラリア先住民のようにいっそう未開な文化では、コロボリー〔六週間に及ぶ饗宴、舞踊を含む儀礼:訳注〕のやり方を習得させてくれた部族にそれを残し伝える。これと同様に、トリンギット族では、ポトラッチの後に、ポトラッチをやってくれた人々に対して交換の舞踊を残し伝える(Swanton, Tlingit Indians, p.442)。トリンギット族では、最も本質的で、不変の、人々の羨望の的になる財産は、名前とトーテムの紋章である(同書、p.416)。それはまた幸福と富をもたらす財産である。

モース1925
モースはこちらは直接スワントンに言及している。

参照
swanton 1908



 

442 THE TLINGIT INDIANS ENTH. ANN. 26 guests so that they would feel happy." When the guests came they said to them, "Up to the rear of the house. You will sit on my mother," etc. Any property that the man had left by his dead broth- ers, uncles, or mother he took out before the people. If he had nephews, nieces, etc., he brought them out also at that time. The chief himself also wore the earrings and other things he had received from dead members of the clan, which he wanted to let the people see. They said that "he spent so much money to let the people see them." It is said that Yelgü'xo at this potlatch gave away $6,000 worth of property, and Yelxa'k $5,000 worth, besides the usual sums brought in for previous distribution by other members of their clan. On the second night, just before they started the song for the host when he was about to give his things out, the people were served with food the fin kinds. (The people sometimes sat in potlatch house for two days steadily.) A long cloth was stretched out across one end of the house and Yelgü'xo came out behind it wearing a hat named Ku'cta-xoste'yî-qa (Man-that-became-a-land-otter). In olden times his uncles and grandmothers had used it, and for that reason he "killed" $6,000 of his property when be brought it out. property that he was going to give in return for what his wife had gotten in Sitka all placed out first, and it was just double what she had received. He had the This was the custom when people sang. If one did not know how to start a song he would ask somebody in the rear of the house to do and him fifteen or twenty blankets or the same number of so, dollars. While the other property was being gotten out they paid the principal guests one or two hundred dollars apiece just for danc- ing. Sometimes a man felt dissatisfied with what he had received and started to walk out. Then the host went in front of him "with a dead pay man's name" (i. e., mentioning the name of a dead relative), made him sit down, and doubled the amount of property given to him. It took four days to give out the blankets. As a man's name was called out he would answer "Hade" ("this way"), equivalent to English "here." At such times the host brought out his brother-in-law or his child and put him on the property before it was distributed. This was to make him high caste, for it would be afterwards said of him that so many blankets "were lost to see bim." The last feast, the one which takes place after giving out the blankets, is called Anwu'wu ("town food" or "food-that-keeps-the- town-alive"), because what they then eat is the home food. Berries, grease, dried eulachon, dried salmon, all kinds of berries, boxes of crackers, oranges, apples, figs, etc., were brought out. Finally the guests "left a dance" in that place, to show respect for ain olden times they used to kill slaves just as the guests came into the house. 442 The Tlingit Indians enth. ANN. 26人のゲストが幸せな気分になるように」。客が来ると、彼らは「家の後ろに上がれ。私の母の上に座ってください」などと言った。その人が死んだ兄弟や叔父、母が残した財産は、人々の前に出した。甥っ子や姪っ子などがいる場合は、その時に一緒に出した。酋長自身も、死んだ一族の人たちからもらった耳飾りなどを身につけて、民衆に見せていた。人々に見せるために大金を投じた」と言われた。このポトラッチで、Yelgü'xoは6,000ドル、Yelxa'kは5,000ドルの財産を贈ったと言われていますが、これに加えて、他の一族の人たちが以前に分配するために持ち込んだ通常の金額もありました。2日目の夜は、ホストが自分の物を配るときの歌を始める直前に、人々に細かい種類の食べ物が振る舞われた。家の端に長い布が張られ、その後ろからYelgü'xoがKu'cta-xoste'yî-qa(Man-that-became-a-land-otter)という帽子をかぶって出てくる。昔、彼の叔父や祖母が使っていたもので、そのために彼は自分の財産6,000ドルを「殺して」持ち出したのである。彼は、人が歌うときの習慣として、このようにしていた。歌い方がわからない人は、家の後ろにいる誰かに頼んで、毛布15枚か20枚、あるいは同数のドルをもらっていた。他の財産を整理している間に、主な客には踊るだけで一人100ドルから200ドルを支払っていた。時には、もらったものに不満を感じた男が出て行こうとする。すると、主人が「死人の名をもって」(死んだ親戚の名前を言って)彼の前に出て、彼を座らせて、財産を倍にして渡したのである。毛布を配るのに4日かかった。男の名前が呼ばれると、「ハデ」(「こっち」)と答えた。このような時、ホストは義理の兄弟や子供を連れてきて、配る前に財産の上に乗せるのである。これは、後に「ビムを見るために多くの毛布が失われた」と言われるように、彼を高いカーストにするためである。毛布を配った後に行われる最後の宴会は、Anwu'wu(「町の食べ物」または「町を活気づける食べ物」)と呼ばれている。ベリー類、グリース、乾燥ユーラコン、乾燥サーモン、あらゆる種類のベリー類、クラッカーの箱、オレンジ、リンゴ、イチジクなどが持ち出された。最後にゲストはその場所で「ダンスを残す」。昔はゲストが家に入ってくると同時に奴隷を殺していたことへの敬意を示すためだ。
416 www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。 416 416 THE TLINGIT INDIANS IKTH, ANN. 20s clan has used a grizzly-bear skin and the head of a mountain goat, the former of which they regard as their very highest crest. The first grizzly-bear skin that they used is, of course, said to have been that of the identical bear which had accompanied them, but this in time became worn out and had to be replaced. The killer whale is claimed especially by the DAqLlawe'df, Tsague'di, and Wucketä'n. The first killers are said to have been made out of yellow cedar by a man of the Tsague'di or DAqLlawe'di (which are really parts of the same clan), and they claim it from that circum- stance. Yet it is used by other Wolf clans, such as the Ka'gwantän and Katagwa'di, and Kit anyê'di'släx" (killer-whale high-caste hat) is the special emblem of Łonti'tc, speaker for the Sitka Kä'gwantan. The Slitlqoe'dî claim a whale called slit!, which is like the killer whale. The Teūkane'dî claim the porpoise. According to Katishan the seal was an emblem of the Tsague'di, but this was denied by a man of that clan. The shark hat (tūs! slāx") was used by the Nanyaa'yî and Ka'gwantan, the latter accompanying it with the devilfish face painting. The Petrel (Ganu'k) from whom the culture hero Raven obtained fresh water appears on both sides. According to Katishan it was owned by the Wolves; but an old Sitka woman said the petrel hat (tclīt slax") belonged to the Ravens of Chilkat. The De'citan have the beaver hat. All Raven clans are supposed to have a right to the Raven emblem; but according to Katishan the Gänaxte'dî claim it in a special manner, because in the Raven story Raven declared that he himself was a Gānaxte'dî. The DaqL!awe'di of the Wolf phratry also think they have some right to it because Raven dragged a house full of fishes ashore at their village. The Luqa'xadî of Chilkat make so much of this crest as often to be called "Real Ravens," while the Ti hît tan have a special raven emblem which they captured from the Tsimshian in war and call the "Winter Raven." The Käsq lague'df had a hair ornament called yel tein, like the beak of a raven, which hung down on the back of a dancer at the potlatch. The frog was a special possession of the KiksA'dî, who claimed it from the fact that persons of their clan had had special dealings with frogs, although the stories told about them at Sitka and Wrangell differ. The GanaXA'dî of Tongas tell the same story as the Wrangell Kiksa'di about the marriage of a woman of their clan to a frog, and probably claim the frog also. In recent years the Qã'teadî at Wrangell and the Llük! naxA'dî at Sitka have tried to adopt the frog, but in the latter case their attempt to put up the frog carving precipitated a riot. The woodworm is a special possession of the GanAXA'di, since one of their women suckled the monster woodworm at TA'qdjîk-an; and 416 416 トリンギット・インディアンのイクス、年。20代の一族は、グリズリーベアの皮とマウンテンゴートの頭を使ってきましたが、前者は彼らにとって最高の紋章と考えています。彼らが最初に使ったグリズリーベアの皮は、もちろん彼らに同行していた同じ熊の皮だったと言われていますが、これもやがて擦り切れて交換しなければならなくなりました。シャチは、特にダクラウェイドフ族、ツァグジ族、ウケタン族が主張しています。最初のシャチホコは、ツァグジやダクラウェジ(本当は同じ氏族の一部)の人間がイエローシダーで作ったと言われており、彼らはそのような状況からシャチホコを主張している。しかし、この帽子はKa'gwantänやKatagwa'diなどの他のウルフ族も使用しており、Kit anyê'di'släx(キラーホエールのハイカースト帽子)はシトカKä'gwantanのスピーカーであるŁonti'tcの特別な紋章です。Slitlqoe'dîは、シャチに似たslit!と呼ばれるクジラを主張しています。Teūkane'dîはネズミイルカを主張しています。Katishanによれば、アザラシはTsague'diの紋章であったが、その一族の人物によって否定された。サメの帽子(tūs! slāx")はNanyaa'yîとKa'gwantananが使用し、後者はデビルフィッシュのフェイスペインティングと一緒に使用していました。文化的英雄であるレイヴンが真水を得るためのウミツバメ(Ganu'k)が両面に描かれています。カティシャンによると、これはウルフが所有していましたが、シトカの老女によると、ミズナギドリの帽子(tclīt slax")はチルカットのレイブンのものだったそうです。De'citanはビーバーハットを持っています。すべてのカラス族はカラスの紋章の権利を持っているとされていますが、カティシャンによると、カラスの物語の中でカラスは自分自身がGānaxte'dîであると宣言しているため、Gänaxte'dîは特別な方法でそれを主張しています。狼族のDaqL!away'diも、カラスが魚の詰まった家を自分たちの村に引きずり込んだことから、自分たちにもその権利があると考えています。ChilkatのLuqa'xadîは「Real Ravens」と呼ばれるほどこの紋章を多用し、Ti hît tanは戦争でTsimshianから奪った特別なカラスの紋章を持っており、「Winter Raven」と呼んでいます。Käsq lague'dfにはyel teinというカラスのくちばしのような髪飾りがあり、ポトラッチの際に踊り子の背中に下げていました。カエルはKrysA'dî族が特別に所有していたもので、彼らの一族がカエルと特別な関係を持っていたことから主張していましたが、シトカとウランゲルで語られている話は異なります。トンガのGanaXA'dîは、クランゲルのKiksa'dîと同じように、一族の女性がカエルと結婚したという話をしており、おそらくこのカエルも主張しているのでしょう。近年では、ランゲルのQã'teadîとシトカのLlük! naxA'dîがカエルを採用しようとしましたが、後者ではカエルの彫刻を飾ろうとして暴動が起きました。木虫はGanAXA'diの特別な財産で、彼らの女性の一人がTA'qdjîk-anで怪物の木虫を吸っていたからである。 www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

Social condition, beliefs, and linguistic relationship of the Tlingit Indians / by John R. Swanton.

Swanton, John Reed, 1873-1958.
Date
1908


ポトラッチ

potlatch


1
2


Swanton, John R (1905). Contributions to the Ethnologies of the Haida (2 ed.). New York: EJ Brtill, Leiden, and GE Stechert. ISBN 0-404-58105-6.


Tlingit Myths and Texts (English Edition) Kindle版




 La foi jurée : étude sociologique du problème du contrat : la formation du lien contractuel 
by Davy, Georges, 1883- 
 Publication date 1922


LE POTLATCH ET LE CONTRAT 
207 
voqué pour investir le successeur du mort. C'est au mo- ment de cette investiture solennelle que le dernier rite des funérailles, l'érection du poteau, est accompli. Un potlatch est donné à la fois pour clore les funérailles et pour investir le successeur. Les membres de la phratrie opposée y reçoivent un paiement pour les services funè- bres qu'ils viennent d'exécuter. A Masset les rites sont exactement les mêmes avec cette différence qu'on donne plus de solennité et plus d'importance à la communion avec les morts au moyen de la nourriture jetée dans le feu (cf. Swanton, id., p. 52 et 54). Ajoutons enfin que les membres de la phratrie opposée interviennent égale- ment pour relever la femme de ses rites de deuil et en particulier de son jeùne (p. 52).

 C'est bien, on le voit, ce qui se passe chez les Tlinkit. Le service funéraire est assuré par la phratrie d'en face et celle du mort la paie. Mais il n'y a pas là, non plus que nulle part ailleurs dans le potlatch, un échange immédiat, une sorte d'opération au comptant. La contre-prestation est toujours différée et c'est en quoi le potlatch prépare la solu- tion du problème du contrat. Et, quoique différée, elle est assurée, en tant que partie d'un cycle de rites statutai- rement obligatoires dans la liturgie, et auxquels on ne peut pas par conséquent se soustraire. Rien ne peut ètre changé à la' succession des rites. La contre-prestation y a sa place marquée. C'est par ce biais qu'elle est obligatoire. Il est si, vrai que la contre-prestation apparait de cette- façon qu'elle ne se présente jamais comme faisant avec la prestation un couple isolé. On les rencontre à leur place au même titre que les autres rites suivant le rythme du calendrier liturgique. 
Voici, en effet, ce qui nous est rapporté pour le potlatch sitka comme succession des moments du rituel: 1 Quand le mort mourait; 2° quatre jours après; 3" l'hiver suivant quand les canots se rasssemblent; 4° quand les canots sont en vue du village; 5° quand leurs occupants débarquent


ポットラッチと契約 
207 
亡くなった人の後継者 葬儀の最後の儀式であるポールの建立は、この厳粛な任命式の時に行われます。ポトラッチは、葬儀の締めくくりと後継者への投資のために行われます。反対側のフラタリーのメンバーは、自分が行った葬儀の対価を受け取る。マセットでの儀式は全く同じであるが、火に投げ入れた食べ物による死者との交わりがより厳粛で重要であるという違いがある(Swanton, id, pp.52 and 54参照)。最後に、反対側のフラトリのメンバーも、女性の喪の儀式、特に子供の喪を和らげるために介入することを付け加えるべきである(p.52)。

 確かにトリンキットではそうなっています。葬儀は反対側のフラタリーが行い、死んだ人のフラタリーがその費用を負担する。しかし、そこには、ポトラッチの他の場所と同様に、一種の現金取引のような即時の交換はありません。カウンター・パフォーマンスは常に延期され、こうしてポトラッチは契約の問題に対する解決策を準備するのです。また、延期されたとはいえ、典礼で制定された義務であり、それゆえに回避できない儀式のサイクルの一部として、確実に行われます。儀式の継承は何も変えられない。カウンター・パフォーマンスは、その中で重要な位置を占めています。このようにして、義務化されるのです。このようにカウンター・パフォーマンスが登場することは、決してパフォーマンスと孤立したカップルとしては現れないということです。典礼暦のリズムに沿った他の儀式と同じように、それぞれの場所で発見されます。
実際、シトカのポトラッチでは、次のような儀式の瞬間が連続して報告されています。


  208 LA FOI JURÉE
et pénètrent dans la maison de danse; 6° après quoi, ils sont invités à une fête de nourriture; 7 pendant que les invités mangent; 8° de très bonne heure, le lendemain . matin; 9° de bonne heure, le surlendemain; 10° après avoir chanté, ils allèrent vers le poteau; 11° une fois reve- nus, on leur distribua; 12° celui qui donnait le potlatch exécuta; 13 le jour d'après. Et ainsi de suite, toutes les parties de la fète se succédant dans un ordre déterminé. Où est l'obligation? Mais dans ce fait que nul ne peut même concevoir qu'on se puisse soustraire à cet ordre liturgique. Les prestations passent avec le reste. La majesté sacrée de la succession ne souffre pas qu'on la rompe. Que l'on songe au milieu de quel appareil religieux les presta- tions se trouvent insérées!
Considérons, par exemple, pour reprendre la liturgie au point où nous l'avons laissée plus haut, le moment où se produit l'une des prestations : les gens de la phratrie opposée apportent le poteau funéraire et commencent à le peindre et à le sculpter, puis ils le plantent et l'érigent. Que se passe-t-il ensuite ? Cet acte est immédiatement suivi d'une danse religieuse qui le consacre. Comment veut-on que soit niée la créance qu'il fait naitre ? « Tous sont rassemblés dans la maison de l'hôte. Les gens du vil- lage et les invités sont rangés face à face, tandis que ceux qui vont être inspirés sont juchés à la partie supérieure de la maison. Ils sont ainsi placés pour que les invités leur insufflent les esprits. Ce devoir incombe aux chefs des invités qui alors se mettent à danser en se dirigeant vers les novices dans le fond de la maison et les aspergent de duvet. Le premier qui reçoit ce duvet se jette à terre, pendant que deux des invités exécutent une danse. Les autres novices font de même » (p. 178). Les rites se succè- dent ainsi, coupés de prestations alimentaires ou autres qui apparaissent comme en faisant partie intégrante. Comme dans toutes les initiations, les novices disparais- sent pour réapparaître et entrer en transe.
C'est au milieu de ce paroxysme que va tomber l'échéance 




  208 誓った信念
と踊り場に入り、6° その後、食事の宴に招かれ、7 客が食事をしている間に、8° 翌朝の非常に早い時間に、9° その翌日の早い時間に、10° 歌った後、ポールに行き、11° 明らかにされた後、分配され、12° ポトラッチを与えた者が行い、13 翌々日。このようにして、宴のすべての部分が決められた順序で互いに続くのです。義務はどこにある?しかし、誰もがこの典礼の秩序から逃れることができるとは考えられないという事実がある。サービスも一緒に通過します。継承の神聖な威厳は、それを崩すことを許さない。このサービスが挿入されている宗教的な装置を考えなければならない。
例えば、先ほどの時点で典礼を取り上げることを考えてみましょう。礼拝の一つが行われた瞬間に、対岸の人々が葬儀用の柱を持ってきて、絵を描いたり、彫刻をしたりし始め、その後、植樹して建てるのです。次の展開は?この行為の後、すぐに宗教的なダンスをして聖別します。その主張を否定することはできない。"全員がホストの家に集まっている。町の人々とゲストは向かい合って並び、インスピレーションを受けるべき人々は家の上部に腰掛けています。このようにして、ゲストに魂を吹き込んでもらうために置かれています。この役目は、ゲストのリーダーに任されていて、ゲストは後ろの初心者に向かって踊り始め、ダウンを振りかける。このダウンを最初に受けた人が地面に身を投げ、ゲストの2人がダンスを披露します。他の初心者も同じようにする」(P.178)。このように、儀式は次々と続き、その間には食事やその他のサービスが不可欠であるように見えます。すべてのイニシエーションと同様に、初心者は姿を消し、再び姿を現してトランス状態に入ります。
この発作の最中に、締め切りがやってくる。

LE POTLATCH ET LE CONTRAT 209
de la distribution de propriété finale, c'est-à-dire le rem- boursement de la dette vieille déjà d'une saison. Dans la soirée, les novices ont réapparu. Deux inspirés parmi les invités 'ont dansé. Tous les assistants les ont bientôt imités. Puis on s'est endormi. « De bonne heure, le lendemain, pendant qu'il faitencore sombre, les novices se placent face au village, portant leurs anneaux d'écorce de cèdre. Tandis qu'ils sont ainsi campés, le corbeau chante et le jour se lève. Quand le soleil monte à l'horizon, ils s'avancent dans le village pour recevoir de la nourriture. Alors on appelle les invités. On entasse la propriété du chef de la maison. On y joint celle qu'apportent ceux qui ont été choisis pour être inspirés. Cela fait, on commence a distribuer cette propriété aux visiteurs, d'abord aux chefs, ensuite à tous les autres » (p. 180). - Et voilà comment le moment et la nécessité du paiement apparaissent comme une chose aussi régulière et fatale que l'entrée en transe des novices, les sifflements de l'esprit qui les possède ou la décoration du poteau funéraire.



"翌朝早く、まだ暗いうちに、修行僧たちは杉皮の指輪をして、村に向かって立っていた。彼らがこうしてキャンプをしていると、カラスが鳴き、日が暮れる。太陽が地平線から昇ると、彼らは食料を受け取るために村に移動する。そして、ゲストが呼ばれます。家長の財産を積み上げていく。そこにインスパイアされて選ばれた人たちの料理が加わる。これが終わると、彼らはこの財産を訪問者に配り始めます。まず、酋長に配り、次に他のすべての人に配ります」(180ページ)。



IV
Nous rejoignons ici, on le voit, à propos du potlatch, une conclusion que nous avons déjà établie plus haut, à propos du mariage, lorsque nous avons étudié la nature de l'obli- gation de rendre qui s'imposait au beau-père provoqué par l'initiation. De cette obligation, nous avions montré qu'elle n'avait pas sa source dans la parenté, ni même dans la relation de phratrie, mais dans le fait que son échéance se trouvait inscrite dans le calendrier liturgique. Le gendre n'avait qu'à provoquer l'initiation de son fils pour obtenir ce résultat. La restitution par le beau-père de l'argent du mariage suivait nécessairement sous la forme d'un potlatch obligatoire. C'est en effet le potlatch qui intervenait alors. Rien d'étonnant, on le voit, à ce que nous retrouvions cette fois, à propos du potlatch proprement dit, la même conclu- sion. 14

ポトラッチと契約書 209
最終的な財産分与のうち、すでに旬を迎えた借金の返済のことを指します。夕方になると修行僧たちが再び現れた。ゲストの中でインスピレーションを受けた2人が「踊った」。その場にいた全員がすぐに真似をした。
翌朝早く、まだ暗いうちに、修行僧たちは杉皮の指輪をして村に向かって立っていた。彼らがこうしてキャンプをしていると、カラスが鳴き、日が暮れる。太陽が地平線から昇ると、彼らは食料を受け取るために村に移動する。そして、ゲストが呼ばれます。家長の財産を積み上げていく。そこにインスパイアされて選ばれた人たちの料理が加わる。これが終わると、彼らはこの財産を訪問者に配り始めます。まず、酋長に配り、次に他のすべての人に配ります」(180ページ)。- このようにして、支払いの時期と必要性は、初心者がトランス状態に入ることや、彼らに憑依する霊のヒスのように、あるいは葬儀のポストの装飾のように、規則的で運命的なものとして現れるのである。

IV
ここでは、ポトラッチに関して、婚姻に関して、イニシエーションによって義父に課せられた給付義務の性質を研究したときに、すでに確立した結論を結びつけているのです。私たちは、この義務が親族関係でもなく、フラトリ関係でもなく、その期限が典礼暦に記されていることに由来することを示しました。婿は、息子を刺激するだけで、このような結果を得ることができた。義父による婚姻費用の返還は、義務的なポトラッチという形で必ず行われる。その時に介在したのが、確かにポトラッチだった。見ての通り、今度はポトラッチそのものについても同じ結論が出てくるのは不思議ではありません。14

 


Georges Davy

From Wikipedia, the free encyclopedia
Georges Davy

Georges Davy (French: [davi]; 31 December 1883, Bernay – 27 July 1976, Coutances) was a French sociologist.[1] He was a student and disciple of Émile Durkheim. With Marcel Mauss and Paul Huvelin he pioneered anthropological studies of the origins of the idea of contract.  ★


 


柄谷行人

世界史の構造


 信用の問題は、交換様式Cが、交換様式AやBといかに密接につながっているかを示すものである。たとえば、マルセル・モースは、信用取引の起源に贈与を見出している。《贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、一定の期限の後に返される贈与システムのうえに、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近させ、単純化することによって、物々交換が築かれ、他方では、売買現実売買と信用取引と貸借が築かれた。なぜならば、われわれがいま描写している段階を越えたいかなる法(とくに、バビロニア法)も、われわれの周囲に残存するすべての古代社会が知っている信用を知らなかったということを証明するなにものも存しないからである(18)》。

 信用は、取引の当事者の間の共同性の観念に支えられる。債務を負う者はどうしても返済しなければならないのだ。商品交換様式Cにおける信用は、このように、交換様式Aによって支えられている。と同時に、信用が国家によって、すなわち、交換様式Bによって支えられていることを無視してはならない。なぜなら、国家は債務不履行を処罰することによって、窮極的に信用を裏づけるからである。とはいえ、商品交換Cから生まれる信用は、それに固有の世界をつくりだす。

 貨幣と信用によって、商品交換は空間と時間を超えておこなわれるようになる。あとで述べるが、商品交換が空間的に拡張されたとき、商人資本の活動が可能になる。異なる空間の間での中継的交換が剰余価値をもたらすからである。ここで大事なのは、貨幣および信用がもたらす時間性の問題である。貨幣および信用によって、現存する他者のみならず、将来の他者との交換が可能になるのだ。少なくとも、そのように思念される。そして、このことは、商人資本とは違ったタイプの資本を派生させる。

 たとえば、投資によって利潤が得られる見通しが確実にあるならば、商人は、金を借りてでもそうするだろう。その場合、金を貸す者には利子が払われる。そこに、利子うみ資本(M-M'…)が成立する。このとき、貨幣はそれ自体、利子を生む力があると思念される。貨幣の「物神性」(マルクス)は、この利子うみ資本において極大化する。


 このM-M'は、資本の最初の一般定式が無意味な要約に収縮されたものである。それは、できあがった資本であり生産過程と流通過程の統一であり、したがって一定の期間に一定の剰余価値をうむ資本である。利子うみ資本の形態では、このことが直接に、生産過程と流通過程に媒介されないであらわれる。資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的かつ自己創造的な源泉としてあらわれるのである。物(貨幣、商品、価値)がいまや、たんなる物としてすでに資本なのであって、資本はたんなる物としてあらわれる(19)。


 そうなると、貨幣を蓄蔵したままでいることは、利子を失うことになる。マルクスはいう。《貨幣退蔵は、高利において初めて現実的となり、その夢を実現する。退蔵貨幣所有者によって欲求されるものは、資本ではなく、貨幣としての貨幣である。しかし、利子によって、彼はこの退蔵貨幣をそれ自体として資本に転化する(20)》。むろん、貨幣そのものに利子をもたらす力があるわけではない。それは、商人資本(M-C-M')の活動を通してもたらされるのである。だが、それらはまったく別個のものではない。商人資本の行為自体に、すでに投機的(speculative)なものがある。商人資本と高利貸し資本は、資本の「大洪水以前的諸形態」である。しかし、それらが太古から存在するということは、交換様式Cがもたらす世界が、物質的で合理的な下部構造であるどころか、根本的に、信用あるいは投機=思弁的(speculative)な世界であることを意味するのである。商人資本や高利貸し資本は、その形式において、近代資本主義に受け継がれている。つまり、M-C-M'やM-M'は産業資本の蓄積過程の一環として存続する。


 


(18)モース『社会学と人類学』1、二九〇頁。


(19)マルクス『資本論』第三巻第五第二四章、鈴木鴻一郎訳、中央公論社、九九三頁。


(20)マルクス『資本論』第三巻第五第三六章、岩波文庫、四三四頁。



ちくま

モース

贈与論


ところで贈与は必然的に信用の観念をもたらす。発展が経済上の法を、物々交換から販売へ、現金販売から信用販売へと移したのではない。一定期間の中で与え、返却される体系の上に、一方で物々交換が生まれた。これは以前には別々になっていた二つの時期を隣接させ、単純化する過程で作られたものである。他方、売買そのものも同じように生まれた。売る時は期限をつけ、あるいは現金で購入し、また貸し付けを行った。というのは、われわれが叙述している(特にバビロニア法の)段階を超えた法体系のいずれにおいても、今日われわれの周囲に残存しているあらゆる古代社会に知られている信用に関する観念が欠けていたことをわれわれは証明することが出来ないからである。そこに、ダヴィ氏がすでに研究したように、契約によって結合される「二つの時期」の問題を解決する単純で実際的な方法が存在している(135)。


(135)Davy, Foi jurée, p.207.


ダヴィ(Davy)「誓信」(Foi jurée)『社会学年報論文集』(Travaux de L'Année Sociologique, 1922)。モース「トラキア人における契約のアルカイック形態」(Une forme archaïque de contrat chez Les Thraces, Revue des Etudes grecques, 1924)における引用文献参照。R. Lenoir, L'Institution du Potlatch, Revue Philosophique, 1924.



★

Works

  • (ed.) Émile Durkheim: choix de textes avec étude du système sociologique by Émile Durkheim. 1911.
  • Le droit, l'idéalisme et l'expérience, 1922
  • La foi jurée: étude sociologique du problème du contrat: la formation du lien contractuel, 1922
  • (with Alexandre Moret) Des clans aux empires; l'organisation sociale chez les primitifs et dans l'Orient ancien, 1923
  • Éléments de sociologie, 1929.
  • Sociologues d'hier et d'aujourd'hui, 1931
  • (ed.) Leçons de sociologie by Émile Durkheim. 1950.
  • Thomas Hobbes et J.J. Rousseau, 1953.
  • L'homme; le fait social et le fait politique, 1973

References

  1. Alan D. Schrift (2009). "Georges Davy". Twentieth-Century French Philosophy: Key Themes and Thinkers. John Wiley & Sons. p. 117. ISBN 978-1-4051-4394-3. Retrieved 10 December 2012.

Further reading

  • Roger Cotterrell, Emile Durkheim: Law in a Moral Domain Edinburgh: Edinburgh University Press / Stanford: Stanford University Press, 1999, ch. 8 (on Davy, Mauss and Huvelin).


 


柄谷行人

世界史の構造


 信用の問題は、交換様式Cが、交換様式AやBといかに密接につながっているかを示すものである。たとえば、マルセル・モースは、信用取引の起源に贈与を見出している。《贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、一定の期限の後に返される贈与システムのうえに、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近させ、単純化することによって、物々交換が築かれ、他方では、売買現実売買と信用取引と貸借が築かれた。なぜならば、われわれがいま描写している段階を越えたいかなる法(とくに、バビロニア法)も、われわれの周囲に残存するすべての古代社会が知っている信用を知らなかったということを証明するなにものも存しないからである(18)》。

 信用は、取引の当事者の間の共同性の観念に支えられる。債務を負う者はどうしても返済しなければならないのだ。商品交換様式Cにおける信用は、このように、交換様式Aによって支えられている。と同時に、信用が国家によって、すなわち、交換様式Bによって支えられていることを無視してはならない。なぜなら、国家は債務不履行を処罰することによって、窮極的に信用を裏づけるからである。とはいえ、商品交換Cから生まれる信用は、それに固有の世界をつくりだす。

 貨幣と信用によって、商品交換は空間と時間を超えておこなわれるようになる。あとで述べるが、商品交換が空間的に拡張されたとき、商人資本の活動が可能になる。異なる空間の間での中継的交換が剰余価値をもたらすからである。ここで大事なのは、貨幣および信用がもたらす時間性の問題である。貨幣および信用によって、現存する他者のみならず、将来の他者との交換が可能になるのだ。少なくとも、そのように思念される。そして、このことは、商人資本とは違ったタイプの資本を派生させる。

 たとえば、投資によって利潤が得られる見通しが確実にあるならば、商人は、金を借りてでもそうするだろう。その場合、金を貸す者には利子が払われる。そこに、利子うみ資本(M-M'…)が成立する。このとき、貨幣はそれ自体、利子を生む力があると思念される。貨幣の「物神性」(マルクス)は、この利子うみ資本において極大化する。


 このM-M'は、資本の最初の一般定式が無意味な要約に収縮されたものである。それは、できあがった資本であり生産過程と流通過程の統一であり、したがって一定の期間に一定の剰余価値をうむ資本である。利子うみ資本の形態では、このことが直接に、生産過程と流通過程に媒介されないであらわれる。資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的かつ自己創造的な源泉としてあらわれるのである。物(貨幣、商品、価値)がいまや、たんなる物としてすでに資本なのであって、資本はたんなる物としてあらわれる(19)。


 そうなると、貨幣を蓄蔵したままでいることは、利子を失うことになる。マルクスはいう。《貨幣退蔵は、高利において初めて現実的となり、その夢を実現する。退蔵貨幣所有者によって欲求されるものは、資本ではなく、貨幣としての貨幣である。しかし、利子によって、彼はこの退蔵貨幣をそれ自体として資本に転化する(20)》。むろん、貨幣そのものに利子をもたらす力があるわけではない。それは、商人資本(M-C-M')の活動を通してもたらされるのである。だが、それらはまったく別個のものではない。商人資本の行為自体に、すでに投機的(speculative)なものがある。商人資本と高利貸し資本は、資本の「大洪水以前的諸形態」である。しかし、それらが太古から存在するということは、交換様式Cがもたらす世界が、物質的で合理的な下部構造であるどころか、根本的に、信用あるいは投機=思弁的(speculative)な世界であることを意味するのである。商人資本や高利貸し資本は、その形式において、近代資本主義に受け継がれている。つまり、M-C-M'やM-M'は産業資本の蓄積過程の一環として存続する。


 


(18)モース『社会学と人類学』1、二九〇頁。


(19)マルクス『資本論』第三巻第五第二四章、鈴木鴻一郎訳、中央公論社、九九三頁。


(20)マルクス『資本論』第三巻第五第三六章、岩波文庫、四三四頁。



ちくま

モース

贈与論


ところで贈与は必然的に信用の観念をもたらす。発展が経済上の法を、物々交換から販売へ、現金販売から信用販売へと移したのではない。一定期間の中で与え、返却される体系の上に、一方で物々交換が生まれた。これは以前には別々になっていた二つの時期を隣接させ、単純化する過程で作られたものである。他方、売買そのものも同じように生まれた。売る時は期限をつけ、あるいは現金で購入し、また貸し付けを行った。というのは、われわれが叙述している(特にバビロニア法の)段階を超えた法体系のいずれにおいても、今日われわれの周囲に残存しているあらゆる古代社会に知られている信用に関する観念が欠けていたことをわれわれは証明することが出来ないからである。そこに、ダヴィ氏がすでに研究したように、契約によって結合される「二つの時期」の問題を解決する単純で実際的な方法が存在している(135)。


(135)Davy, Foi jurée, p.207.


ダヴィ(Davy)「誓信」(Foi jurée)『社会学年報論文集』(Travaux de L'Année Sociologique, 1922)。モース「トラキア人における契約のアルカイック形態」(Une forme archaïque de contrat chez Les Thraces, Revue des Etudes grecques, 1924)における引用文献参照。R. Lenoir, L'Institution du Potlatch, Revue Philosophique, 1924.



岩波文庫版より


…そして、贈与は必然的に信用という観念をともなうのだ。経済にかかわる法は、物々交換から売買へと進化したわけではないし、売買にしても、その場での支払いから期間を置いた支払いへと進化したわけではない。贈り物を与えること、そしてある一定の期間を置いてお返しをすること、このシステムの上にこそ、一方に物々交換が成立し(もともとは時間の隔たりがあったのにもかかわらず、その隔たりが省略されたり短縮されたりすることによって)、他方に購買と販売(一定期間を置いた支払いによる販売も、その場での支払いによる販売も)、および貸借が成立したのである。というのも、わたしたちの周囲にあって今日にまで生き残っているアルカイックな社会はすべて、信用というものを現に知っているわけであるし、本章で叙述している段階よりも発達した段階の過去の法制度のなかに(とりわけバビロニア法)、それを知らなかったものがある、などということは、証明されていないからである。契約が結び合わせる二つの「時間上の点」の問題は、このように[時間差があることを進化にともなう文明の高度化の所産と考える経済史学・法制史学の通説とは]別の仕方で、簡明に、かつ現実的に解決することができる。なお、二つの「時間上の点」は、ダヴィ氏がすでに研究している(135)。 

(135) Davy, Foi jurée, p. 207. 


 以上に劣らず重要なのが、インディアンのこうした取引において名誉という観念が果たす役割である。  

 ある首長の個人的な威信や、その首長のクランの威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチの場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残し


2014/07/17

岩波文庫 白 二二八−一 

贈与論 他二篇〔電子書籍版〕 二〇二一年五月二七日 発行

 著 者:マルセル・モース

 訳 者:森山 工(モリヤマ タクミ) 





2021年6月5日土曜日

【音楽】「史上最高のリフTOP10」1位はレッド・ツェッペリン「Whole Lotta Love」 英米ギター誌共同読者投票結果 [muffin★]


https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1622886015/-100
1muffin ★2021/06/05(土) 18:40:15.43ID:CAP_USER9
https://amass.jp/147763/ 

英国のTotal Guitar誌と米国のGuitar World誌は共同で「史上最高のリフ」の読者投票を実施。 
1位に選ばれたのはレッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love」。 
TOP10リストが発表されています。TOP50のフルリストはTotal Guitar誌の最新号に掲載されています。 

1. Whole Lotta Love (Led Zeppelin) 
https://youtu.be/HQmmM_qwG4k 

2. Crazy Train (Ozzy Osbourne) 
https://youtu.be/FVovq9TGBw0 

3. Back in Black (AC/DC) 
https://youtu.be/pAgnJDJN4VA 

4. Smoke on the Water (Deep Purple) 
https://youtu.be/_zO6lWfvM0g 

5. Ain't Talkin' 'Bout Love (Van Halen) 
https://youtu.be/pUwNzQ6fqXY 

6. Enter Sandman (Metallica) 
https://youtu.be/CD-E-LDc384 

7. Iron Man (Black Sabbath) 
https://youtu.be/5s7_WbiR79E 

8. Walk (Pantera) 
https://youtu.be/AkFqg5wAuFk 

9. La Grange (ZZ Tio) 
https://youtu.be/vqz0wRaie2g 

10. Purple Haze (Jimi Hendrix) 
https://youtu.be/WGoDaYjdfSg

“切れ端”がぐんぐん育つ 再生野菜「リボベジ」の魅力(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース

"切れ端"がぐんぐん育つ 再生野菜「リボベジ」の魅力(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース

"切れ端"がぐんぐん育つ 再生野菜「リボベジ」の魅力

巣ごもり生活が続く中、おうち時間を充実させる趣味の1つが室内での植物栽培。 その中でも、環境にやさしい「SDGs栽培」が楽しめる、「リボベジ」が人気となっている。 おうちの中で育った、色鮮やかな数々の野菜。 これらは全て「リボベジ」。 リボベジとは「リボーンベジタブル」、つまり再生野菜のことで、野菜の切れ端などを利用して野菜を再生。 SNSでも、リボベジの画像がたくさん投稿されている。 中には、スマホのタイムラプス機能を使って、野菜がぐんぐん育つ様子を捉えた映像もあった。 撮影者「コロナ禍の今、どうしても自宅にいる時間が増えていく状況の中で、このように手軽に始められて、短期間で成長が見られるというのは、純粋に楽しいですし、ちょっとした癒やしとなっております」 管理栄養士で料理研究家の竹内ひろみさんも、およそ7年前からリボベジを実践。 竹内さんのキッチンには、細ネギや小松菜など、多数のリボベジが並べられ、まるで緑のインテリアのよう。 竹内さん「育て方がわからないとか、水の分量とか、どのくらい手入れをしらたいいのか、結構問い合わせがある」 竹内さんによると、初心者でも比較的簡単なのが、育ちが早く根腐れがしにくい豆苗。 さらに、「細ネギや小松菜なども初心者におすすめ」と竹内さんは話す。 竹内さんが育てている細ネギには、ちょっとしたポイントがあった。 竹内さん「見ていただくとわかるように、輪ゴムでちょっと留めております。バラバラとなってしまうので、まず輪ゴムで留めるということ」 細ネギは数本をまとめて輪ゴムで留め、立たせる。 さらに、水やりも大事なポイント。 竹内さん「朝1回、夜1回という形で、2回ぐらいは。特に夏場は替えていただきたい」 また、小松菜にもポイントが。 竹内さん「スポンジに穴をあけて挿しています。こういったものがあれば倒れずにすむ」 育てる環境も大事なポイント。 竹内さん「日光と水を栄養にするので、ほどよく日の光が当たる窓辺がいい」 竹内さんによると、細ネギは1週間、小松菜は10日ほどで収穫できるそう。 こうしたリボベジとともに人気なのが、必要なものが全てセットになった、室内で育てる栽培キット。 バラエティ用品担当・釼持夏未さん「おうち時間が増えている中で、育てる楽しみや収穫する楽しみが味わえる人気の商品となっている」 中でも、今人気なのが枝豆の栽培キット。 生育状況をめでながら、およそ3カ月で収穫。 父の日のプレゼント用にも売れているそう。 変わったところでは、道端や壁の隙間から入る雑草が再現できるという雑草栽培セット。 水をやり始め、1週間ほどでブロックの間から芽が出てきた。 さらには、土や鉢、種、全てがそろったカプセル型の栽培セットも低価格で人気。 植物を育ててめでる"おうち生活"。 心に新たな喜びが芽生えるかもしれない。