2024年10月26日土曜日
物理学者の保江邦夫氏が発見したとされるヤスエ方程式とはどのような... - Yahoo!知恵袋
2024年10月24日木曜日
NAMs出版プロジェクト: スピノザ:インデックス
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https://nam-students.blogspot.com/2013/05/blog-post_6805.html
NAMs出版プロジェクト: スピノザ:インデックス
スピノザ=無神論者だというレッテルが蔓延し、キリスト教の力が絶大だった1785年、『賢者ナータン』で知られる故レッシングが実はスピノザ主義者であったというヤーコビの証言が発表当時スキャンダルになった。これは、歴史的に言えばゲーテやカントなども巻き込み、汎神論論争というスピノザ評価のきっかけとなった事件である。肝心のテクストは邦訳が入手困難だが、現在、日本のゲーテ研究者による年会誌『モルフォロギア』にヤコービによるメンデルスゾーン宛の手紙が連載されておりその一部を読むことができる。
なかでもヤコービとレッシングとの会話(1780年7月6日)が再現されている24号(2002年)所収のそれがハイライトだ。
この両者の会話はゲーテの「プロメテウス」という詩*をヤコービが見せるところから始まる。
「死んだ犬」「スピノザ以外の哲学はない」など、有名なフレーズが目をひくが、レッシングが自らをルター派の決定論者として規定している点が見のがせない。
そもそも当たり前のことだが、ヤーコビとスピノザ理解でズレがあるのだ。保守的なメンデルスゾーンとの間での齟齬はなおさらとも言えよう。
メンデルスゾーンによる反論を含め、多くの疑問はあるが、この会話をヤコービによる完全な作り話とは考えにくいし、作り話たとすればそれはそれで逆にヤーコビは凄い才能の持ち主だということになる(A・タルコフスキーがカスタネダのドンファンシリーズに関して、ペヨトル工房が出した本のなかで同じことを言っていた)。
ゲーテは『詩と真実』(第三部-第四部、章で言えば14-15章)でスピノザを称揚しているが、政治的に宗教上の隠れ蓑として利用しているような気もする。反キリスト教的な側面をスピノザのせいにしてゲーテ自身の責任にはならないようにして予防線を張っている節があるのだ。ドゥルーズはゲーテを批判しクライストを称揚したが、連結するテクスト(批判哲学的、ここでは表象論的な予防線を破壊するテクスト?)を称揚した彼らしい態度であり、一理あると思う。
さて、ゲーテを震撼させた「神を愛するものは神から愛されることを期待してはならない」(エチカ5:19より)というスピノザの言葉などは、自己と他者とが非対称的に存在する批判哲学を想起させて興味深い。他者の幸福と自己の完全性とが絶対の義務となるべきでありその逆はないとカントが『人倫の形而上学』で述べるとき、それはスピノザを別の形、別の側から補強していると考えれ得るのだ。
一般に感情的だと看做されがちなヤーコビは、メンデルスゾーンとの論争の後に出したヒューム論(1787)の中で、「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」という有名な言葉を述べ、スピノザの側からカントの弱点を的確に指摘した。これなどは実はカント哲学にスピノザが含まれるというよりスピノザ哲学にカントが含まれることの証明でもあると思う。
というのはヤコービは自らアンチノミーとなることによってカントにとっての他者となりえたと言えなくもないからだ。ヤコービ本人、というよりもスピノザの哲学は批判哲学にとって物自体なのだ。そして、カント側から言えば、ヤコービの言葉通りカントは自らの哲学体系を三批判書はもとより遺稿に至るまで更新し続けたのだから、カントはヤコービの言葉通り(スピノザのエチカの通り?)にアンチノミーを体現し、そのアンチノミーを生きたとも言えるのではないか?
ともかく、カント(思考の方向を定める問題で言及)、ヘーゲル(小論理学で言及)を巻き込んだスピノザ問題は、今日的な課題を含んでいるように思える。
追記:
汎神論論争に関しては理想社版カント全集第12巻所収の「思考の方向を定める問題」とその解説が日本語文献のなかでは一番詳しいだろう。
関連文献は英訳されているので、岩波文庫で復刊された『賢者ナータン』とともに重要だ。
スピノザと批判哲学の相性は悪く、カントにとってスピノザは常に仮想敵だが、『オプス・ポストゥムム』ではスピノザへの接近が見られる(福谷茂の論考以外にこの遺稿の重要性を理解できている論文は見当たらない)。
岩波版新全集に所収されなかったのは本当に残念だ(監修の坂部恵氏の方針なのか?、経済的な問題なのか?)。
スピノザへの言及が多く含まれるカントの『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』が邦訳されていない現在の日本はまだカントの批判哲学の文脈が支配的だが、これは哲学の実生活への影響力のなさを同時に意味する。日本ではカント研究が盛んで世界レベルにあると言う人もいるがこの現状を見る限りそうは言えないと思う。
物自体と超越論的仮象との混同を避けるためにも精査するべき遺稿なのだが、、、
さらにヤコービ及び汎神論論争に関してはヘーゲルが『ヘーゲル哲学史講義』(河出書房新社版だと下巻)でも少し触れている。
*
「プロメテウス」の詩の邦訳は以下で読める。
http://masatobariton.blog85.fc2.com/blog-entry-119.html
原詩↓
http://www.freeinquiry.com/prometheus.html
音声↓は、ヴォルフ作曲、ハンス・ホッター歌唱の「プロメテウス」。
13 Prometheus.mp3
Prometheus プロメテウス 詩:ゲーテ 日本語訳:井上雅人
Bedecke deinen Himmel, Zeus,
Mit Wolkendunst
Und übe, dem Knaben gleich,
Der Disteln köpft,
An Eichen dich und Bergeshöhn;
Mußt mir meine Erde
Doch lassen stehn
Und meine Hütte, die du nicht gebaut,
Und meinen Herd,
Um dessen Glut
Du mich beneidest.
おまえの空を覆うがいい、ゼウスよ
そしておまえの力を試してみろ
薊の花の首をちぎる子供のように
おまえの樫の木のそばで、山の頂で!
だが おれの大地はそのままにしておくのだ
おまえが建てたのではない 俺の小屋も
そして その炎のためにおまえが妬んでいる このおれの竃も
Ich kenne nichts Ärmeres
Unter der Sonn als euch, Götter!
Ihr nähret kümmerlich
Von Opfersteuern
Und Gebetshauch
Eure Majestät
Und darbtet, wären
Nicht Kinder und Bettler
Hoffnungsvolle Toren.
おれは 太陽の下で おまえたち神々ほど哀れなものたちを 他に知らぬ!
おまえたちは かろうじて 生贄の貢ぎ物と祈りの吐息とによって
おまえたちの尊厳を養い
もし 子供らや乞食らのような希望に溢れた愚かな者たちがいなければ
惨めなくらしを送ることになるのだ
Da ich ein Kind war,
Nicht wußte, wo aus noch ein,
Kehrt ich mein verirrtes Auge
Zur Sonne, als wenn drüber wär
Ein Ohr, zu hören meine Klage,
Ein Herz wie meins,
Sich des Bedrängten zu erbarmen.
おれが幼かった頃は
何もわからず おれは困惑した目を太陽に向けた
まるで その上に 俺の嘆きを聞き入れてくれる耳と
おれと同じ 苦しむ者を憐れむ心があるかのように ー
Wer half mir
Wider der Titanen Übermut?
Wer rettete vom Tode mich,
Von Sklaverei?
Hast du nicht alles selbst vollendet,
Heilig glühend Herz?
Und glühtest jung und gut,
Betrogen, Rettungsdank
Dem Schlafenden da droben?
だれが おれを高慢なティタンたちとの戦いから 助け出したのか?
だれが おれを奴隷のような暮らしから 死から救い出したのか?
お前自身が全て為し遂げたのではなかったか
神聖に燃えるおれの心よ
そして若々しく 善良に燃えたな?
天上で居眠りをしている者に騙され 救いの感謝を捧げて ー
Ich dich ehren? Wofür?
Hast du die Schmerzen gelindert
Je des Beladenen?
Hast du die Tränen gestillet
Je des Geängsteten?
Hat nicht mich zum Manne geschmiedet
Die allmächtige Zeit
Und das ewige Schicksal,
Meine Herrn und deine?
おれが おまえを敬う? 何のためにだ?
おまえは かつて 苦しむ者の苦痛を和らげたことはあったか?
おまえは かつて 不安におののく者の涙を鎮めた事はあったか?
おれを鍛え上げたのは 全能の時と永遠の運命ではなかったか?
俺の主人であり おまえの主人でもある ー
Wähntest du etwa,
Ich sollte das Leben hassen,
In Wüsten fliehen,
Weil nicht alle
Blütenträume reiften?
おまえは勘違いしているのではないか
おれが人生に嫌気をさして 砂漠にでも逃げ出すだろうなどと
花のような夢が全て実るわけではないからと ー
Hier sitz ich, forme Menschen
Nach meinem Bilde,
Ein Geschlecht, das mir gleich sei,
Zu leiden, zu weinen,
Zu genießen und zu freuen sich,
Und dein nich zu achten,
Wie ich!
おれはここに座り おれの姿をかたどり 人間をつくる
おれと同じような種族を
悩み、泣き、楽しみ、喜び、
そして おまえを敬ったりしない者を
おれと同じように!
Johann Wolfgang von Goethe, 1773
追記:
プルードンやシェリーなどの使用例をみると、西欧ではプロメテウスは反抗のシンボルなのだろうか?それはそれでかまわないがゲーテの詩はスピノザ理解には適当でないかもしれない。
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
ヤコービ『スピノザ書簡』からの引用
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
a) 伊坂青司氏「有限と無限――あるいはヤコービとヘーゲル」の第2節「ヤコービと『汎神論論争』」(『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』所収、ミネルヴァ書房、1994年)
b) 栗原隆氏「IV ヤコービ/ヘルダー」(『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場』所収、中央公論新社、2007年)
拙訳(LS, S. 54/* 22-23)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングと私(ヤコービ)の会話を、メンデルスゾーンに報告しています。]
レッシング:神性についての正統派的な考えは、もう私には関係ないものです。そうした考えには、満足できないのです。「ヘン・カイ・パン [一にして全。一即全]」、これしか私は知りません。この [ヤコービが持ってきた] 詩も、またそこへと向かっていますね。この詩は大変気に入ったと、白状せざるをえません。
私:では、あなたはスピノザに、かなり同意できるのかもしれませんね。
レッシング:私が誰かの信奉者ということでしたら、彼以外にいません。
私:私もスピノザは、素晴らしいと思います。しかし、私たちは彼に無い物ねだりをしがちです。
レッシング:ええ、もしそう言いたいのであれば・・・だが・・・よりいいものがあるでしょうか? [省略は原文]
● 『哲学の歴史 第7巻』230-231ページでの引用
拙訳(LS, S. 55-57/* 23-25)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングとヤコービ(私)のやりとりを報告しています。]
翌朝、私は朝食をとった後、服を着るために自室へ戻りました。しばらくして、レッシングがやって来たのです。私がすわって髪を整えさせていたので、その間レッシングは、部屋の片隅の机に静かに体をもたせていました。私たち2人だけになり、レッシングが体をもたせている机の別の側に私がすわると、彼は語りだしました:
「私が来たのは、あなたに私の信じる『ヘン・カイ・パン』について、お話ししたいためです。昨日は、あなたは驚かれたことでしょう」。
私:あなたにはビックリさせられました。さぞかし青ざめたり赤くなったりしたことでしょう。困惑してしまったものですから。でも恐慌をきたしたわけではないのです(注1)。まさかあなたがスピノザ主義者、つまり汎神論者だったとは、思いもよりませんでした。しかも、あっさりとそう打ち明けられたものですから。私がここにやって来たのは、およそあなたからスピノザに抗するための援助を、得るためだったの
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http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
ヤコービ『スピノザ書簡』からの引用
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
a) 伊坂青司氏「有限と無限――あるいはヤコービとヘーゲル」の第2節「ヤコービと『汎神論論争』」(『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』所収、ミネルヴァ書房、1994年)
b) 栗原隆氏「IV ヤコービ/ヘルダー」(『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場』所収、中央公論新社、2007年)
拙訳(LS, S. 54/* 22-23)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングと私(ヤコービ)の会話を、メンデルスゾーンに報告しています。]
レッシング:神性についての正統派的な考えは、もう私には関係ないものです。そうした考えには、満足できないのです。「ヘン・カイ・パン [一にして全。一即全]」、これしか私は知りません。この [ヤコービが持ってきた] 詩も、またそこへと向かっていますね。この詩は大変気に入ったと、白状せざるをえません。
私:では、あなたはスピノザに、かなり同意できるのかもしれませんね。
レッシング:私が誰かの信奉者ということでしたら、彼以外にいません。
私:私もスピノザは、素晴らしいと思います。しかし、私たちは彼に無い物ねだりをしがちです。
レッシング:ええ、もしそう言いたいのであれば・・・だが・・・よりいいものがあるでしょうか? [省略は原文]
● 『哲学の歴史 第7巻』230-231ページでの引用
拙訳(LS, S. 55-57/* 23-25)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングとヤコービ(私)のやりとりを報告しています。]
翌朝、私は朝食をとった後、服を着るために自室へ戻りました。しばらくして、レッシングがやって来たのです。私がすわって髪を整えさせていたので、その間レッシングは、部屋の片隅の机に静かに体をもたせていました。私たち2人だけになり、レッシングが体をもたせている机の別の側に私がすわると、彼は語りだしました:
「私が来たのは、あなたに私の信じる『ヘン・カイ・パン』について、お話ししたいためです。昨日は、あなたは驚かれたことでしょう」。
私:あなたにはビックリさせられました。さぞかし青ざめたり赤くなったりしたことでしょう。困惑してしまったものですから。でも恐慌をきたしたわけではないのです(注1)。まさかあなたがスピノザ主義者、つまり汎神論者だったとは、思いもよりませんでした。しかも、あっさりとそう打ち明けられたものですから。私がここにやって来たのは、およそあなたからスピノザに抗するための援助を、得るためだったのです。
レッシング:では、あなたはスピノザのことを知っているのですね?
私:彼をよく知る数少い一人だと、思っています。
レッシング:それなら、あなたにはそのような援助など、必要ないでしょう。むしろ、完全にスピノザの友人になりなさい。スピノザ哲学以外に、哲学はありません。
私:そうかも知れません。決定論者は、自説を貫こうとすれば、宿命論者にならざるをえないのですからね。その後は、自余の問題もおのづと片付こうというものです。(注2)
レッシング:私たちは分かり合えるようですね。あなたがスピノザ主義の根本思想と考えているものを、ますますお聞きしたくなりました。ここでスピノザ主義というのは、スピノザ自身が考えていたもののことですが。
私:彼の根本思想は、おそらく古語にいう「無からは何も生ぜず(a nihilo nihil fit)」だと思います。スピノザは、カバラ哲学者達や彼以前の哲学者達よりも、より抽象的な考え方でもって [nach abgezogenern Begriffen] この古語を考察したのです。この考え方によって、彼が見出したのは、「無限なもののうちに何かが生じるときには、その何かをいかように表現したところで、何かが無から措定されてしまう。また、無限なもののうちに何らかの変化が起きるときも、同様である」ということでした。
したがってスピノザは、無限なものから有限なものへのいかなる移行も退けたのです。一般的にすべての移行原因 [Causas transitorias] を、それが2次的なもの [secundarias] であろうと遠隔的なもの [remotas] であろうと、退けました。そして彼は、ただ内在的な「神」 [Ensoph, エンソーフ。カバラ主義における無窮の神(英和辞典『リーダーズプラス』)] を、流出するものの代わりに措定したのでした。つまり世界の、内在的にして自らのうちで永遠に変わることなき1つの原因を、措定したのです。この原因は、そのすべての結果ともどもに――、一つの同じものなのでしょう。・・・ [省略記号は原文]
この内在的で無限な原因そのものは、明らかなことですが、悟性をも意思をも持っていません。なぜならこの原因は、その超越論的一性 [Einheit] と一様な絶対的無限性によって、思考と意欲のいかなる対象も持ちえないからです。それにまた、
・概念 [の存在] 以前の概念を生みだす能力とか、あるいは、
・その概念が対象とするもの以前に存する概念、つまり、自ら自身だけが原因となって [対象が原因となったのではなく] 生じたような概念――こうした概念を生みだす能力とかは、
・意欲に働きかけて、全く自らを規定する意思同様、
まったく馬鹿げたことだからです。
伊勢崎賢治
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2024年10月23日水曜日
関本洋司さんによるXでのポスト
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2024年10月21日月曜日
蠻子、漢人與羌族 (文明叢書) (Traditional Chinese Edition) Kindle版 繁体中文版 王明珂 (著) 形式: Kindle版
蠻子、漢人與羌族 (文明叢書) (Traditional Chinese Edition) Kindle版
…因為書上是這麼說的,所以藏族、彞族幾乎沒有反駁的機會。羌族不只是認為當今許多中國少數民族與漢族中有古羌族的後代,「被打散的羌族」甚至可能分布在世界任何的地方。
我聽過日本最早還是中國這過去的,跟古羌人有關係。越南人跟古羌人也有關係。這是七、八年前的事了;一個外國記者說,羌族到日本去了,所以日本打中國時,有人說不要殺了。一個外國記者在中國學中國話,她才25歲,是日本人,一個女的。她問我們是什麼族。然後說,我們都有羌族的根根。蘇聯也有羌族人;有人看見他們穿的皮掛子跟我們一樣。現在羌族應有好幾百萬。
以上這段一位羌族婦女的口述歷史中,特別提到日本人與羌族的關係;這在羌族中是普遍流行的觀點,值得一談。
羌族是日本人的舅舅
前面那位松潘小姓溝的少年,在講完羌族以前很強大後來被打散之後,接著他把「羌族」之所以能從歷史中復活,歸功於羌族後裔日本人的尋根。他說:
解放後,還有日本人的頭頭來。他說,羌族是日本人的舅舅;說,羌族怎麼沒見了。所以後來茂汶就弄一個羌族自治州,就有了羌曆年,這就是日本人問起的。
認為羌族與日本人有密切的文化與歷史血緣關聯,這樣的觀念目前在羌族中十分普遍。我們來聽聽以下兩則羌族人的說法:
日本人也有來北川這兒作研究。日本人認為他們的祖先很可能是羌族,所以對羌族有興趣。他們說,日本人與彞族特別接近;彞族的祖先就追溯到羌族。 我們那最近也聽說過日本跟羌族的關係。他們說,日本有一個地方的人跟我們赤不蘇人說的是一樣的話。還有日本人到我們那去調查,在找他們的祖先。現在學術界就斷定了日本人是西南一支民族;彞族就認為日本人是他們的後代。現在很多人都說我們的話像日本話一樣。
不僅是羌族人如此想,似乎在彞族地區,人們也認為日本人是彞族的後代。一位北川的羌族幹部對我說:
九二年我在涼山當兵,我聽說日本來了一個考察團,來考察彞族與日本人的關係。來了150人在涼山住了兩個月。說日本人的生活習慣與涼山上的人基本上有百分之八十是一樣。譬如說,把乾海椒弄成串串,還有包穀的收藏方式,都是一樣的。彞文的書寫方式基本上與日文相似。彞語與日語百分之十都是一樣的。我在黨校有幾個彞族的同學,他們說,如果你把日文學好了,來學彞語、彞文很方便。如果你會彞語,要學日語也方便。
據我了解,近十年的確有一些日本學者在羌族、彞族地區作研究。為何會造成羌族人民普遍認為「日本人是羌族的後代」?這是個值得玩味的問題。我一再強調,羌族不是一個有奇風異俗或有怪異滑稽想法的民族;他們只是單純、不掩飾的表達我們人類的一些共同特質。目前在民族主義下,居住在狹隘封閉的山溝中的羌族,想像全世界都有羌族存在。居於東亞海島的日本人,從上一世紀以來,也不斷的透過各種學術活動,在滿蒙地區、東南亞地區尋找日本人的血緣與文化根源。即使如「中國人」那麼大的民族,也曾在學術研究中將本民族的範圍擴及中南半島。同樣的,中南半島各國的部分學者(如泰國學者),也曾將其國族想像擴大到中國西南地區。羌族人民只是不懂得如何用「學術」來表達或掩飾這些族群想像而已。
羌族是大禹的子孫
在前面我們曾提起,從前漢人居住的城鎮,如汶川綿箎、理縣通化、茂縣鳳儀、北川治城,都有大禹的遺跡。當地漢人流行祭拜「大禹王」。跟著漢化的腳步,大禹王信仰也逐漸深入山間村寨之中。後來,當這些村寨成為羌族村寨,城鎮成為民族自治縣的行政中心時,大禹王可沒有被驅逐;祂也登記成了羌族。 過去在歧視「蠻子」時,這些中國西部邊疆的漢人誰會將崇高的「大禹王」當作是蠻子的神呢?在北川,民國時本地的大禹廟常常也是「湖廣會館」;「湖廣填四川」是本地漢人的共同記憶,誰會把「番羌」的神放在漢人的會館中呢?大禹由漢人的祖先或神變成羌族的祖先,只因為奉祀祂的人們由漢人變成了羌族後,他們仍捨不得大禹這位北川人的精神堡壘。由另一方面來看,說大禹是羌族也不無道理。在漢代司馬遷寫的《史記》中,就有「禹興於西羌」的記載。後來,漢晉時代的中國人又說禹是「西夷之人」。後來漢人大多把「禹興於西羌」理解成大禹出生在西部邊陲,而不是將大禹當作是西方羌人。所以,如果當前羌族把大禹當作是羌族祖先是一種「歷史想像」,漢人忽略「禹興於西羌」之說,而將大禹當作是漢族祖先,何嘗不是一種「歷史想像」? 大禹到底是漢族還是羌族?對於有學問的羌族這倒不是問題──大禹是古老的羌族,古羌族是古漢族的主要部分,因此大禹是羌族也是漢族。問題倒在於,岷江上游與北川的幾個地方都有大禹遺跡,大禹究竟出生在何處?這個關係可大了。若大禹出生在汶川,那麼汶川的羌族就是最正宗的羌族。如果大禹出生在北川,北川的羌族就成了羌族的核心。有趣的是,汶川與北川在過去也是本地區最漢化的兩個縣分。無論如何,有關「大禹故里」的爭論,就在汶川與北川兩地的羌族間展開。這就像是在南臺灣,兩個地方的人爭論鄭成功究竟在何處登陸一樣。雖然在羌族中這爭論不涉及供奉大禹的「香火錢」,但仍涉及一些國家重點觀光開發的地方利益。 顯然,目前北川是這場爭論的勝利者。這是由於北川比汶川更漢化,因此在北川有更
…この本にはそう書かれているので、チベット人やイ族には反論の余地がほとんどない。チャン族は、今日の中国の少数民族や漢民族の多くが古代のチャン族の子孫であると信じているだけでなく、「分散したチャン族」が世界のどこにでも分布している可能性さえある。
日本の起源は中国で、古代の羌族と関係があると聞いたことがあります。ベトナム人は古代チャン族とも関係があります。これは7、8年前の出来事で、ある外国人記者は、チャン族は日本に行ったので、日本が中国を攻撃したとき、彼らを殺すなと言う人もいたと語った。外国人記者は中国で中国語を勉強している、まだ25歳の日本人、女性です。彼女は私たちがどの部族の出身なのか尋ねました。それから彼は、私たちは皆、羌族のルーツを持っていると言いました。ソビエト連邦にもチャン族がおり、彼らが私たちと同じ革製のぶら下がっているのを見た人もいました。現在、チャン族は何百万人もいます。
上記の羌族女性の口述歴史では、日本人と羌族との関係について特に言及されており、これは羌族の間で一般的に人気のある見解であり、話す価値があります。
羌族は日本人の叔父にあたる
松潘出身のゴウという姓の若者は、前に非常に強力であったが後に散り散りになったチャン族について話した後、歴史上での「チャン族」の復活は日本人の子孫のルーツにあると述べた。羌族の人々。彼はこう言いました。
解放後、日本の指導者たちがやって来ました。彼は、羌族は日本人の叔父である、なぜ羌族は行方不明なのかと言いました。そこでマオウェンは後にチャン族の自治州を設立し、チャン暦年が誕生しました。これが日本人が尋ねたものです。
チャン族は日本人と文化的、歴史的に密接な血縁関係があるという考えは、現在ではチャン族の間で非常に一般的となっている。チャン族の次の 2 つの発言を聞いてみましょう。
日本人も調査のために北川に来ていた。日本人は自分たちの祖先はおそらくチャン族だったと信じているので、チャン族に興味を持っています。日本人は特にニ族に近いと言われており、ニ族の祖先はチャン族にまで遡ることができます。 最近、日本とチャン族の関係について聞きました。日本には私たちちぶす人と同じことを言う場所があるそうです。私たちのところに先祖を探しに来る日本人もいます。現在、学界は日本人は南西部の民族であると結論づけており、イ族は日本人が自分たちの子孫であると信じている。今では多くの人が私たちの言語は日本語に似ていると言います。
そう考えるのはチャン族だけではなく、イ族地域でも日本人はイ族の末裔であると信じられているようです。北川省の強族幹部は私にこう言った。
1992年、私は梁山市で兵士として勤務していましたが、ニ族と日本人との関係を調査するために日本の視察団が来たと聞きました。 150人が来て涼山に2ヶ月滞在した。日本人の生活習慣は梁山の人々と基本的に80%同じと言われています。例えば、干し海椒を串に刺したり、おにぎりを保存したりする方法は同じです。彝文字の書き方は基本的に日本語の文字と似ています。イ語と日本語は10%同じです。党学校にはイ族のクラスメートが何人かいますが、日本語をマスターすればイ語や方言を学ぶのにとても便利だと言いました。イ族の方言を知っていれば、日本語を学ぶのに便利です。
私の知る限り、日本の学者の中には過去10年間に実際にチャン族とイー族の地域で研究を行った人もいます。なぜチャン族は一般的に「日本人はチャン族の子孫である」と信じているのでしょうか?これは熟考する価値のある質問です。私は何度も強調してきましたが、チャン族は奇妙な習慣や奇妙で面白い考えを持つ民族ではなく、私たち人間の共通の特徴のいくつかを単純かつ恥ずかしがらずに表現しています。現在のナショナリズムのもとでは、狭く閉ざされた谷に住んでいるチャン族は、世界中にチャン族が存在していると想像している。前世紀以来、東アジアの島々に住む日本人は、さまざまな学術活動を通じて、満州、モンゴル、東南アジアにおける日本人の血と文化のルーツを絶えず探求してきました。 「中国人」と同じくらい大きな国家でも、学術研究では国家の範囲をインドシナ半島にまで拡大している。同様に、インドシナ半島のさまざまな国の一部の学者(タイの学者など)も、国家的想像力を中国南西部に広げています。チャン族は、こうした民族的想像力を「学問」を使って表現したり覆い隠したりする方法をまったく知りません。
チャン族は太夫の子孫である
文川県綿池、李県通化、茂仙県豊儀、北川志城など、かつて漢人が住んでいた町には大夫の遺跡があることは以前述べた。地元の漢民族の間では「金禹」を崇拝するのが人気です。中国化の足跡をたどって、禹王の信仰は徐々に山村に浸透していきました。その後、これらの村がチャン族の村となり、町が民族自治県の行政中心地となったとき、禹王は追放されず、チャン族として登録された。 かつて「蛮族」を差別していたとき、中国西部辺境の漢民族の誰が高貴な「禹王」を蛮族の神とみなすだろうか。中華民国時代の北川では、地元の大裕廟がしばしば「湖広ギルドホール」であったが、「湖広だらけの四川」は漢民族のギルドに誰が「樊強」の神を置くだろうかという共通の記憶である。ホール?大夫が漢民族の祖先または神から羌族の祖先に変わったのは、彼を崇拝する人々が漢人から羌族に変わった後も、彼らは依然として霊的要塞である大夫を手放すことができなかったからです。北川の人。別の見方をすれば、大夫が羌族であったと言っても不合理ではない。漢の時代の司馬遷が著した『史記』に「兪行賢」の記録がある。その後、漢晋の時代の中国人は、禹を「西蛮人」と称した。その後、ほとんどの漢人は、「西羌の虞興」を、大夫を西羌人として捉えるのではなく、大夫が西部辺境で生まれたことを意味すると理解しました。したがって、現在の羌族が大夫を羌族の祖先とするのは一種の「歴史的想像」であり、漢民族は「羌族は西羌から出てきた」という言い伝えを無視して大夫を羌族の祖先とするのである。漢民族、それは一種の「歴史的想像力」ではないでしょうか? 太夫は漢人だったのか、それとも羌族だったのか?教育を受けたチャン族にとって、これは問題ではありません。ダユは古代チャン族であり、古代チャン族は古代漢民族の主要部分であるため、ダユはチャン族であると同時に漢族でもあります。問題は、岷江上流と北川の数カ所に大夫の遺跡があることです。大夫はどこで生まれたのでしょうか。この関係はとても大きいです。大夫が文川生まれだとすれば、文川のチャン族が最も本物のチャン族ということになる。もし大夫が北川で生まれたとしたら、北川のチャン族がチャン族の中核となるでしょう。興味深いことに、文川県と北川県は、過去にはこの地域で最も中国人が多い県でもありました。いずれにせよ、文川と北川のチャン族の間で「大夫の故郷」をめぐる議論が始まった。これは、台湾南部の 2 つの場所で人々が鄭成功の上陸場所について議論したのと同じです。チャン族の間で起きたこの紛争には、ダユに捧げられた「お香」は関係していないが、それでも国家の主要な観光開発という地元の利益が関わっている。 明らかに、現時点では北川氏がこの議論の勝者である。これは、北川のほうが文川よりも中国人らしく、北川のほうが人口が多いためです。