2023年11月28日火曜日

船盡比賣神社 – 偲フ花

船盡比賣神社 – 偲フ花

船盡比賣神社

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「船盡比賣神社」(ふなはてひめじんじゃ)という、少しミステリアスな神社が徳島市入田町にあります。

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長閑な田舎道脇にある、素朴な神社なのですが、

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この謎の物体、これは三つ足の鳥居の原型だとされており、中の石は天照大神と素戔嗚神が、和解したときの誓約石(うけいいし)だと言う話が実しやかに囁かれています。

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三つ足の鳥居といえば、京都太秦の「蚕ノ社」(木嶋坐天照御魂神社)が有名です。僕も最初こそそのミステリアスさに魅了されていましたが、全国を旅していると意外とあちこちで見かけることがあり、今では「ふ~ん」というくらいの感じです。

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それはさておき、これがその三つ足鳥居の原型かと言われると、これ自体は新しいものでしょうからなんとも言い難い気持ちです。
無造作に置かれていますが、わざわざこうして形状を維持しているあたりは、何かを言い伝えているのでしょう。

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更にこの神社をミステリアスにしているのが、当社に伝わっていると言う「神代文字」の幟です。

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その幟には、意味深な神の名が記されいるようですが、僕はそもそも神代文字自体に懐疑的です。

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あれはおそらく、修験者たちが創作した文字なのではないかと考えています。

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この船盡比賣神社の社殿と思われる社の中には、白蛇がトグロを巻いたような石が祀られていました。

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船盡比賣神社の前には鮎喰川が流れており、その対岸に「船盡神社」(ふなはてじんじゃ)が鎮座しています。

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まず驚くのが、要塞のように積まれた石垣。
磐境神明神社を彷彿とさせます。

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先の船盡比賣神社は、この舩盡神社が川の増水などで渡河できず参拝できない場合の遥拝所だったと言われているそうです。

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船盡神社、船盡比賣神社共に、祭神は「船尽比売尊」(ふなはてひめのみこと)と聞き慣れない名の神です。

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まったくもって謎深い船盡比賣ですが、一説に木船ノ神と言われているようで、貴船の神とはすなわち玉依姫を指しているのではないかと思われました。
玉依姫は豊玉姫の息子、ウガヤフキアエズに嫁いだとあることから、越智の常世織姫のことだと考えられます。
宇佐家伝承では、常世織姫は宇佐の貴船宮に埋葬されたと伝えられていました。

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吉野川に架かる岩津橋(いわづばし)の袂、そこにある「鯰の歌碑」と言うものを見てきました。

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それはどんなものかと言うと、文久2年(1862年)に建てられた、岩雲花香による神代文字の歌碑だということです。

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江戸時代に阿波国の神官であった岩雲花香は、平田篤胤に神代文字を学び、自作自筆の詩を彫刻させたものがこれだといいます。

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「波の間に い出て見えなむ つぬさはふ 岩津の淵の 底の鯰は」
対馬の卜部氏・阿比留氏に伝わると言う阿比留文字でそのように書かれているとのことですが、はっきり言ってハングル文字そのままで、神代どころか古代の風格さえ見受けられません。
象形文字でさえない。

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船盡比賣神社に伝わる幟旗もこれに似た文字のようで、神代もソロモンも、関係ないと思われます。
古代出雲には、法を定めた八重書きがあったというので、なんらかの文字が存在していたはずなのですが、現在目にする神代文字は稚拙に見え、風格が感じられないでいるのです。

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弁天山 福山雅治登頂記念


2023年11月27日月曜日

【密談vol.31】完全ネタバレ「ゴジラ-1.0」のドラマパートってあれでいいの?編 #ゴジラ #ゴジラマイナスワン #山崎貴 #平成ガメラ

https://www.youtube.com/live/MpMPyFBddSo?si=CH5pfkgJSB6GruIj
この作品に関しては複数でシナリオを書くのは賛成
権力が集中する弊害はトップの人格に関係ないとわかる
受け取った写真は遺族に返さないと
未曾有の読み方を誰もチェック出来なかったのか?
役者について言えば、
佐々木と吉岡は声質がワンセットで成功
安藤と神木は演技が安定していない
ただしこれは脚本のせい
プラトニックラブの説明は射精と射撃のアナロジーを使ったフルメタルジャケットを参照するとよかった

阿波の踊子 - Wikipedia

阿波の踊子 - Wikipedia
阿波の踊子 - Wikipedia
1941
監督
マキノ雅弘
出演
長谷川一夫

阿波の踊子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿波の踊子』(あわのおどりこ)は、東宝映画京都撮影所製作、東宝映画配給、1941年昭和16年)5月21日に公開された日本の長篇劇映画である。第二次世界大戦後、『劔雲鳴門しぶき』と改題・短縮で再公開されたフィルムが現存している。

略歴・概要

舞台である徳島県徳島市助任川に架かる工兵橋(現徳住橋)付近を中心に、徳島中央公園、津田港、川内町宮島などで行われたとされる[1]。ロケ期間は1941年4月16日からの9日間[1]。それを受け、半世紀以上後の2006年3月に、徳住橋付近にある中徳島河畔緑地に映画の記念碑が建てられた[2]

1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こり、支那事変日中戦争)の影響で、この年から阿波おどり徳島観光協会が自発的に取りやめていた[1]。翌年、日中戦争に勝利し、阿波おどりが再開、本作『阿波の踊子』は再開のきっかけとなった[1]

1957年(昭和32年)、本作の監督であるマキノ正博は、東映大友柳太朗の主演により『阿波おどり 鳴門の海賊』として、マキノ雅弘名義でセルフリメイクした。

あらすじ

物語は徳島の民話・阿波十郎兵衛をアレンジしたもので、徳島藩の悪家老により無実の罪で処刑された十郎兵衛の敵を討つべく、阿波おどりの日に弟が徳島に帰ってくる。

キャスト

脚注

  1. ^ a b c d "66年ぶり「阿波の踊子」銀幕復活 戦前の街並み 随所に". 徳島新聞 (2007年7月20日). 2012年5月20日閲覧。none
  2. "「後世に伝える」 記念碑建立". 徳島新聞 (2007年7月). 2012年5月20日閲覧。none

関連事項

マキノ雅弘監督作品
戦前
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代以降
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マックス・ウェーバーと音楽社会学 | 井手敏博の日々逍遥

マックス・ウェーバーと音楽社会学 | 井手敏博の日々逍遥

マックス・ウェーバーと音楽社会学

音楽社会学

近代知の巨人といわれるマックス・ウェーバー(1864~1920)の生涯は西欧近代の本質を考え続けたことであった。本質とは要因であり、担い手であり、果実である。これらは分化しつつ相互に影響して、場合によって統合される。

彼の関心は多岐に亘る—-それ故に巨人と称せられるのである—-が、私が音楽社会学というカテゴリーに気づいたのは比較的新しい。一般に『音楽社会学』といわれる文献は「音楽の合理的かつ社会学的基礎(Die rationale und soziologische Grundlagen der Musik)」であって、まだ読破してはいない。読みこなせるかどうかも疑問なので、世の中に流布しているウェーバーの解説書を基にしての話をすすめる。

ウェーバーは西欧音楽を「他の諸地域の歌唱や演奏がヨーロッパより優れている例はいくらでも挙げることが可能だが、和声音楽の分野では西欧近代音楽の優位性は揺るぐことがなく、他地域ではこの分野を構築することができなかった」といったように位置づけている。音楽は近代西欧が創りあげたと言っているに等しい。

西欧の文化が世界に一般化されて近代文明となったことの例証はたやすい。「経済における資本主義生産様式」であり「国家体制としての憲法と三権分立の法治」である。「官僚制行政組織」に「自然科学の学問的探求と大学の設立」もそうだ。「芸術の市場商品化」も進展した。それによって絵画に遠近法が共有され、また音楽に和声音楽が確立された。芸術としての絵画や音楽が人類の到達した高みとして定立されたのである。

音楽の3要素といわれるものは旋律melodyと律動rhythm及び和声harmonyである。和声音楽とは和音和声chord harmonyであり、自由な転調や移調を可能とした均質なオクターブを保障した12平均律に基づく。12平均律とは1オクターブを12等分する音律をいう。隣り合う半音の周波数比は一定である。楽譜が生まれ記譜がなされ、生まれた曲をwrite downすることで作曲が可能になった。ひいては近代産業資本の勃興にも資することとなったのである、と。

12平均律が今ある楽譜を生み出して芸術の市場化に与ったのは理解できる。だが一挙に産業資本の勃興まで論じられては少し鼻白む。西洋音楽が地球の覇権を握ったことは諒解できる。たとえ世界No.1の国が中国になったとしてもチャルメラがトランペットに代わることはありえない。メロディーとリズムはあってもハーモニーがないエスニック音楽では、(たとえば勇気といった)感情を表現するのは不十分である。

「君が代」の作曲は原曲を英国公使館軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが作り、宮内省雅楽部の林廣守が改作した演奏を、同僚の奥好義が曲に起こし、お雇い外国人音楽教師だったドイツ人フランツ・エッケルトが西欧的和声をつけて編曲したものである。和声がなくては国家の荘重が表現されなかったのであろう。

合理的な和声音楽と、自由な転調や移調によって豊かな感情を表現する調性音楽の完成は、「産業資本の勃興に与った」というテーゼも牽強付会ではない気がしてくる。明治新政府が西洋文化の<なんでも猿真似>に狂奔したのも、強ち税金の無駄遣いではないのかもしれない。富国強兵を実現するのは軍楽隊のマーチが不可欠だったのである。

民族音楽の限界性

音楽は人々の情緒を表現する。原始の昔から人々は喜怒哀楽を「うた」として歌い、「おどり」を舞ってきた。歌や踊りに民族的な違いはあっても感情の表出に優劣はない。だが技法にはある。

私はわが国に民族音楽のどれが「伝統音楽」で、なにがそうでないのかを区分する境界がよくわからない。とりあえず前近代と近代の時代区分で考えてみる。私の前近代音楽体験は詩吟と謡曲である。演歌は歌曲の民謡バージョンであるし、今や民謡自体が西洋音楽化していることもあって検討の対象としない。「小節がいやらしい」とか「喉を締め上げるような発声は野蛮だ」といったことは主観的論難に過ぎない。

それはいいとしても、民族音楽は入り口がせせこましく、門戸開放とはほど遠い。詩吟や謡曲の当事者が国民一般への普及や理解促進を考えているとは思えない。頭がわるいのか、どうせ滅びるだけと諦めているのか。どちらにせよ、力を尽くさずして滅びに到る道を着々と歩んでいる。

楽譜がない。詩吟はそもそもない。謡曲は大きな文字の横や下に波模様や跳ね点などがあるが、その説明は教本にもなければ先生もやってくれない。つまりは「師弟相伝」のマンツーマン教育であって、それ以外の方法はない。さらに極論すれば天下の大道(=orthodox)がない。幼稚園のお歌の時間みたいに先生の後を真似することの繰り返しだから、先生の癖を癖と知らずに覚えてしまう。

「まず師匠ありき」では普及が覚束ないだけではない。津々浦々に伝播するうちに御家流となって様々の流派ができあがる。江戸時代の時制である不定時制そのものである。—-不定時制は一日を昼夜で二分したので夏冬で時間の長さが違い、また南中時を正午としたので地域によって時刻もズレがあった。—-それはローカリティがあるとかの話ではないと思う。

師弟と記したが、職業芸能人を別にすれば、教わる方だって弟子とか思っちゃいないので師匠と弟子ほどの重みはない。詩吟は流派で漢詩の読み下しが異なる。節(メロディー)だって違うから音楽的良し悪しがわからない。みんな勝手放題ではないかと思ってしまう。

詩吟はアマチュアっぽいからWEBで聴けるからまだいい。謡曲をも包含する能楽はシテ方の観世・今春・星生・金剛・喜多をはじめとして、ワキ方・囃子方・狂言方など19流派で寡占化されて何百年である。これで発展とか望めるわけもない。趣味で謡曲をやりたいといってもプロについて教わるマンツーマンなので、それなりの出費が必要である。DVDや教本があるといっても安いものではない。楽譜がないということはレベルの平準的を阻害する。西洋音楽でも先生についての個人レッスンはあるが、それは趣味の領域を超えてからのレベルである。

西欧近代音楽は抽象的感情を表現する和声をつくる技法を創りあげた。和音と和声の関係を解き明かしたのだ。感情の表現はなお作曲家の手のうちにある。対位法と和声法といったものは長い時間と多くの人の経験と試行錯誤の結果であった。誰かの閃きによる発見ではない、だからこそ、近代西欧の恵沢を一身に受けていると思うウェーバーが大いに自負したのだと思われる。

クラシック音楽のタイトルはほとんどが無機質である。師走の定番であるベートーヴェンの第九のタイトルは「交響曲第9番ニ短調作品125(Sinfonie Nr.9 D-moll op.125)」である。「合唱付き(Choral)」というサブタイトルがつけられることもあるが、無味乾燥に変わりはない。「交響曲第3番変ホ長調『英雄』作品55(SymphonyNo.3-Eroica)」はむしろ例外である。

私たちはクラシック音楽の場合、無機質のタイトルを当たり前と感じているけれども、ポピュラーや歌謡曲あるいは伝統音楽だったらそうはいかない。音楽は「うた」から発し、歌い続けるためのメロディーとリズムが音楽となった。あるいは(風や水など)自然の音を声や(音を出す)道具で再現しようして音楽が生まれたとされる。歌がどんな気持ちを歌ったものか、音楽がどんな自然の音を表そうとしたものかを、歌い手や演じ手が聞き手に伝えるのは当然である。

タイトルは重要である。歌い終わっての感動の拍手は、タイトルの内容を歌手Singerがうまく表現していると聴衆Listenerが感じた時に起きる。外国の歌を訳詞する際に、タイトルを"苦吟"するのももっともである。

そう考えていくと、クラシック音楽とは和声音楽の心地よさを堪能するカテゴリーであるとも思えてくる。聞き手へはタイトルの縛られない空想の自由をもたらし、作曲家は制作の自由を有し、指揮者あるいは演奏家も解釈とメソッドの自由を得る。なるほど、近代西欧がつくりあげた音楽空間は壮大な可能性を人類に広げてみせたのだった。

平均律を択った意味

音としての和音和声が西欧以外の他の諸地域、東洋やインドなどの人々が無知だったわけではない。古代黄河文明ではすでに12音程の知覚があり、江戸期の和算でも音程の差を12乗根で開く方法を会得している。となると、むしろ平均律への冒険を敢えて行った西欧文化の「勇気」を賞賛するべきかもしれない。

楽音とはヒトが快いと感ずる音であって、文字通り音楽に使われる音である。共鳴という概念は固有周波数による音の増幅といっていいが、これによって音楽は鈴鈴(りんりん)と鳴り響いて強く大きくなる。その音を楽音は掬(すく)いとる。

平均律は1オクターブの音を12音程に等分したが、それは経験値による音程数を数学的に平均した結果である。平均律の反対概念を純正律という。純正律は経験値によって和音が濁らない音程でつくられた音階である。平均律が「1オクターブの周波数比は2」で「隣り合う音程の周波数比は12√2:1」であること、純正律とは「和音の周波数比が整数になる」ことが定義となったのは科学的後追いである。1オクターブを12分する科学的根拠はなく、純正律和音の調和も説明できない。すべてはヒトの感性の賜としかいいようがない。

平均律の音程と周波数は対数曲線で表される。対数の解はほとんどが無限小数であるようにアナログanalogueであるに対し、純正律の解である整数はいわばデジタルdigitalである。アナログ楽器である弦楽器の場合、演奏者の耳と腕によって和音の音程を調和させることができる。しかしデジタル楽器であるピアノの調律は難しい。マックス・ウェーバーは『音楽社会学』のなかでピアノの起源に言及していが、「ピアノによる音感訓練は微妙な聴覚を鈍らせる」とも述べている。そもそもピアニストはコンサートホールにMy pianoを持ち込めない。

12平均律は音の美しさを犠牲にして音楽表現の多彩な可能性を選択したということもできる。その結果主題が確固としていた調性音楽は、さらに自由な感情表現をもたらす無調整音楽に取って代わられた。絵画が具象の覊束を脱して印象派から絢爛たる抽象へと自由に手足を伸ばすようになったように、芸術の様々の分野においてタイトルに束縛されない「芸術のための芸術」が花開いてきたのである。

ウェーバーの限界性

近代西欧音楽が産業資本の勃興にどう与ったのか、ウェーバーも精緻な論証によって解明したわけではない。『音楽社会学』は彼の死の翌年に未完のままで発表された。

さらに言及すれば、ウェーバーの論じた西欧近代の本質の前提であった「西欧の優位」が破綻したことのなかに、彼の洞察力の限界を思うのである。破綻とはEUの経済的な揺らぎといったことではなく、資本主義生産様式が近代的合理主義の確立—-国家体制の法治や行政官僚機構及び高等教育機関を軸とする自然科学の進展など—-がなくとも、容易に成功できるようになったことである。

逆説的にいえば、音楽や絵などの文化的な近代西欧化がなされなくともいい。そうした「国家としてのハビトゥスhabitus」は不必要なのだとなると、本気で「西欧の没落」がやってきたとすら思える。—-これについては「ハビトゥスの妖怪」(1)~(4)(2011/06/24~06/30)を参照してほしい。

だれもが彼の"箴言"、すなわち「資本主義の精神とは節制と禁欲である」を信じなくなってきた。資本主義—-その瑞々しい精神を蘇生させることができるかどうか—-が問われているのである。

1920年と今日の音楽情況はまるで異なる。音楽社会学が意味するものは現代こそ大きくなっているのではあるまいか。

地名も地形も一致している九州・近畿・関東 - たっちゃんの古代史とか

地名も地形も一致している九州・近畿・関東 - たっちゃんの古代史とか

地名も地形も一致している九州・近畿・関東

拙著『日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(上・下)』に目を通した方はなんとなくわかったと思いますが、日本列島の地名の由来の一つは、

「西日本の地名を東日本に当てはめた」ことだったのでした。

○いつも助かっております

 

拙著から図版を持ち出す

例えば西日本の山岳ラインと、全く同一の山岳ラインを東日本に発見するに至ったり。

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または九州の大きな地名は、そのまま近畿に移植されていたり。

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日本列島にはこうした地名の秘密があったわけです。

北部九州と奈良盆地の地名の一致は安本美典氏の著書『「邪馬台国畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』で解説されていました。本書は安本美典氏の地名に関する推論を、拡大解釈していったものでした。

関東地方にも、九州系地名が移植されている事実が分かって、著書内で公開しました。つまり日本の地名は、「九州=近畿=関東」が同一系であったのです。

例えば少し例を挙げると、

九州  近畿  関東  一致する音と漢字

佐賀郡 大阪  相模国 さが・さか

神埼郡 神崎郡 埼玉郡 かんざき・さき・埼

豊国  豊島郡 豊島郡 とよ・豊・豊島

養父郡 養父郡 秩父郡 やふ・父

出水郡 和泉国 夷隅郡 いずみ・いすみ

宇佐郡 伊勢国 匝瑳郡 うさ・いせ・そうさ

諸県郡 牟婁郡     もろ・むろ

山門郡 大和国     やまと

夜須郡 野洲郡     やす

    河内国 河内郡 かわち・河内

こういった例でした。

以上は理解しやすいように、大きな地名の一致を取り上げていました。

安本氏の調査のように、大字、小字といった細かい地名の一致も含めれば、膨大な地名の一致が確認できるはずですが、時間をかけるのが面倒なので省略しました。

例えば、小さな地名の一致を挙げると、

九州の宮崎県日南市に鵜戸(うど)神宮

近畿の三重県紀宝町に鵜殿(うどの)・烏止野神社

関東の千葉県勝浦市鵜原(うばら)

こうした「うど」「鵜」の地名が一致していたりするような話です。まぁ鵜戸神宮は小さな地名とはいえませんが。

これらは決して偶然でなく、昔の天皇大和民族による、計画的、意図的なものでした。

鹿児島と東京

で、実は一致していたのは、古地名だけじゃなかったのですよ。

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南九州   南関東

大隅半島 = 房総半島

薩摩半島 = 三浦半島

鹿児島湾 = 東京湾

宮崎海岸 = 九十九里浜

南九州と南関東は、地理的に大変良く似てたのですね。

だから大隅(おほすみ)半島に対応する房総半島の土地に夷隅(ゐすみ)と名づけてあったり、

大隅半島の突端に大輪(おほわ)島に、房総半島の突端の安房(あわ)国が対応したり。

鵜戸神宮鵜原が対応したりしたのですね。

イタリア半島は長靴だとかブーツのようだと言われるのと同様に、大隅半島と房総半島は見方によっては靴のようだし、薩摩半島三浦半島も長靴のようでもありますね。

こうした地名と地理的な一致も、昔の日本の知識人は、熟知していたに違いないところですが、いつしか人間の知識は退化し、感覚が鈍感になってしまったのか。

今の時代は、勉強できる力だけは向上してきていますけど、過去の記憶・直感力・想像力といったものは、まだ古代人の領域まで回復していないです。

地理的に一致しているのは自然による偶然と言えばそうですが、伊耶那岐命と伊耶那美命による国生み神話があるからには、神様の仕業と言っても、もしかするとそうなのかと考えてみたりするところです。

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