2023年5月27日土曜日

歷史上是否有秦河勝這個人,他生平又有那些事迹? - GetIt01

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歷史上是否有秦河勝這個人,他生平又有那些事迹?

在接觸的一些日本動漫作品中都看到了這個叫秦河勝的人,似乎年代久遠且是個不得了的領導人,但是百度了一下後只有日本秦氏的百科,他的名字只是提及過,沒有關於他的資料,特來知乎問問。希望好心人解答。。。


秦河勝姓秦造,諱河勝,又作川勝,實名廣隆,秦國勝之子。秦始皇十五世孫,秦氏一族的族長,官居小德位太花上。此人是日本飛鳥時代的名臣,聖德太子的追隨者,曾在丁未之亂中斬下太子的政敵物部守屋的首級,後幫助太子推廣佛教,消滅淫祀,並創立了太秦廣隆寺,並被視為神道神樂的開創者和猿樂、能樂的始祖。秦河勝歷侍數朝,長期主管國家財政,建立了會計制度,其家族亦擁有雄厚的財力。皇極三年(644)聖德太子太子去世後,據說受權臣蘇我入鹿迫害,被流放到兵庫的坂越浦,致力於千種川流域的開拓,大化三年(647)以八十餘歲的高齡亡故。死後被尊為大避大明神,為日本各地大避神社的主祭神,被認為是保佑航海安全和祛除災厄的守護神。秦河勝作為大避大神廣受後世朝野的信仰,後於治暦四年(1068)被朝廷贈予最高級的正一位神階。以下是關於秦河勝的一些記載。

菊池容齋『前賢故實』中的秦河勝

秦河勝,山城葛野人。推古帝十一年,豐聰耳皇子尊崇佛像,欲令群臣拜之。河勝進受其像,造蜂岡寺以置之。皇極帝三年,東國不盡河上有大生部多者,養異蟲,誑惑鄉里曰:「此常世神也。」巫覡等託神語曰:「祭常世神者,貧人致富,老者還少。」民爭捨財寶,陳酒肉於路傍而呼曰:「新富入來,都鄙祭之,歌舞求福,委棄貸財,曾無所益,耗費滋甚。」河勝惡其妖術惑民,捕大生部多笞之。巫覡等恐而止,時人作歌稱之。
——《大日本史 卷之一百十五 列傳第四十二》

広隆寺半跏思惟像,聖德太子賜給秦河勝的佛像

十一月己亥朔,皇太子謂諸大夫曰:「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」時,秦造河勝進曰,臣拜之。便受佛像,因以造蜂岡寺。是月,皇太子請於天皇,以作大楯及靫靫此雲由岐,又繪於旗幟。
——《日本書紀 卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇》

客等拜朝庭。於是,命秦造河勝、土部連菟爲新羅導者。以間人連臨蓋、阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立於庭中。時大伴咋連、蘇我豐浦蝦兩臣、坂本糠臣、阿倍鳥子臣,共自位起之進伏於庭。於是,兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣,時大臣自位起,立廳前而聽焉。既而賜祿諸客,各有差。
——《日本書紀 卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇》

常世神,飛鳥時代關東地區新興宗教所祭祀的神,該宗教被秦河勝消滅。

東國不盡河邊人大生部多,勸祭蟲於村裡之人曰:「此者常世神也。祭此神者,到富與壽。」巫覡等遂詐託於神語曰:「祭常世神者,貧人到富,老人還少。」由是加勸捨民家財寶,陳酒陳菜六畜於路側。而使呼曰:「新富入來。」都鄙之人取常世蟲置於清座,歌舞求福,棄捨珍財,都無所益損費極甚。於是,葛野秦造河勝惡民所惑,打大生部多。其巫覡等恐,休其勸祭,時人便作歌曰:

禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屢。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。

此蟲者常生於橘樹或生於曼椒。曼椒,此雲衰曾紀。其長四寸餘,其大如頭指許,其色緑而有黒點,其貌全似養蠶。
——《日本書紀 卷第廿四 天豐財重日足姫天皇 皇極天皇》

廿七年,己卯,春正月。太子奉敕命駕,巡撿畿內諸國臣、連、國造、伴造所建寺地。無地者給地,無木者給木,無田者給田,無壠者給園。經二十箇日,終至蜂岡。建塔心柱,定常住僧一十口。除此之外,不存戒者,即日擯出。命檀越川勝造曰:「以此為例,貽於後昆。」川勝造,此日致仕,受命而退。即賜小德位並祿物功田六町,傳於子孫。
——《聖德太子傳曆》

丁未之亂,當朝的兩位權臣大臣蘇我馬子與大連物部守屋圍繞是否尊奉佛教的問題而展開內戰,蘇我馬子與廄戶皇子(聖德太子)結盟領兵攻打物部守屋的本據地稻城。是役,物部守屋被射殺,秦河勝親手斬下其首級。

太子生年十四。丁未年七月,物部弓削守屋大連與宗我大臣縁佛法興不之論,內忘姻親之義,外蔑君臣之道,發睚眥之怨,興志逆之軍,率己黨類,以稻爲城, 調練軍士,擬襲京城,朝廷震恐。事倉卒,大臣奉勸太子,興整軍士,眞難波自後而襲。以平群臣神手爲少軍,自志紀襲於澁川。 賊勢二分,東西相戰。大連登榎木,與太子軍爲戰甚強,官軍中矢者衆矣。太子在殿,士卒氣衰。軍政秦川勝率軍奉護太子,見官軍氣衰,馳啓太子。太子立謀,即令川勝採白樛木,刻造四天王像,擎立鋒,太子自率壯士而迫賊。賊與太子相去不遠,賊誓放物部府都大神之矢 中太子鎧,太子亦誓放四天王之矢,即中賊首大連胸,倒而墜樹,衆亂躁。川勝進斬大連之頭 。少將軍撃平餘黨,係虜賊首家口,覆奏於玉造之東岸上【在東生郡】, 即以營爲四天王寺 ,始立垣基。大臣與太子還宮覆奏,平群臣神手、軍政人秦造川勝等三人各有等差。後制新位之時,神手敘小德,川勝等敘大仁,四天王寺後遷荒墓村。——《上宮聖德太子傳補闕記》丙子年五月三日,天皇不悆。太子立願,延天皇命。立諸寺家,即以平復。 諸國國造伴造亦各始誓立寺。先是,太子巡國至於山代楓野村。謂羣臣曰:此地爲體,南弊北塞,河注其前,龍常守護。 後世必有帝王建都,吾故時遊賞。即於蜂岳南下立宮。 秦川勝率己親族祠奉不怠, 太子大喜 ,即敘小德 ,遂以宮預之, 又賜新羅國所獻佛像。 故以宮爲寺, 施入宮南水田數十町並山野地等。
——《上宮聖德太子傳補闕記》

京都最古老的寺院,由秦河勝創立的太秦廣隆寺,也是日本最早建立的佛教寺院之一

當寺有五寺號:蜂岡寺。太子始降臨此地時,千二百阿羅漢,演說諸大乘經。凡夫見之,則為眾蜂。故名雲蜂岡寺。 秦公寺。秦始皇帝苗裔秦川勝,奉太子命,創建當寺。故名雲秦公寺。桂林寺。太子降臨此地時,大桂樹空處中現小寶閣,光明璨爛。故云桂林寺。 三槻寺。 此寺雖有萬木,向日明神,垂跡槻木。其木初枯後榮。以有此三奇怪,故云三槻寺。 廣隆寺。 廣隆者,秦川勝實名也。川勝奉命創建當寺,有功勛,故以實名為寺號。

秦氏系圖

秦始皇帝——胡亥皇帝——孝武皇——竺區宋孫王——法成王——功滿王——融通王——普洞王——酒秦公——意美秦公——忍秦公——丹照秦公——河秦公——國勝秦公——川勝秦公

自秦始皇帝至小德位太花上秦造川勝廣隆卿,已上十五代也。仲哀天皇四年乙亥,秦始皇第六世孫功滿王初來日域,儲置融通王,然後歸漢土也。時融通王分置秦孫於諸國,始令養蠶織絹也。應神天皇十四年,扶桑始有絹棉事業。仁德天皇詔曰:秦王所獻絲綿綾之類,始觸朕膚,柔軟溫暖。自今以後,呼卿姓曰波多(秦者膚也)。今秦字訓波陀,依聖詔也。
——《廣隆寺來由記》

京都大酒神社,人稱太秦明神,祭祀秦氏祖神秦始皇帝,據學者考證該社原為大避神社。

赤穗坂越市的大避神社,祭祀大避大神秦河勝,也是其墓所所在地。

《日本真景?播磨?垂水名所図帖》中的坂越,秦河勝生涯最後階段的居住地。

坂越船祭,為每年大避神社舉行的重要祭典,重現了當年大避大神秦河勝開拓坂越的情景。該祭典已被列入重要無形民俗文化財。


確實有這個人
(文章來自日文維基)
秦河勝是飛鳥時代的人,出生於山城國葛野,也是秦氏的族長,後來仕從了聖德太子,河勝還是一個富裕的商人,贊助了朝廷很多錢。河勝在政壇上很活躍。

秦河勝 《前賢故實》

生涯:
用明天皇2年(587年),蘇我馬子與物部守屋發生戰爭(丁末之亂),河勝參加了追討物部的追討軍,為守護聖德太子而斬了守屋的首。——《上宮聖德太子傳補闕記》

推古天皇11年(603年),聖德太子將彌勒菩薩半跏思惟像賜給了河勝,河勝為此在山城國建了蜂岡寺來供奉。——《日本書紀》

蜂岡寺就是今天的廣隆寺,京都最古老的寺院,這個佛像被保存到了今天,被評為了國寶,保存在廣隆寺里的。

彌勒菩薩半跏思惟像(寶冠彌勒) 國寶 (京都府京都市·廣隆寺·藏)

推古天皇18年(610年),河勝與土部菟一起擔任了大使,去接待來自新羅的使節。——《日本書紀》

皇極天皇3年(644年),駿河國富士川附近有個以部民大生部多為中心的信仰常世神的宗教團體,該團體四處騙取財物,影響了社會的安寧,河勝率兵去剿滅了該團體。——《日本書紀》

約7世紀半,河勝在赤穗的坂越(現兵庫縣)去世,其墓所在大避神社的神域—生島上面。有說法說河勝是被流放至此的,在大避神社裡也祭祀得有河勝。

河勝有幾個孩子,其中的秦綱手在壬申之亂中為大海人皇子立下了功勞。還有個孩子叫朴市秦田來津,他仕從天智天皇,曾參與過日本與唐朝·新羅的戰爭,在戰爭的最後階段,日本在白村江海戰中敗於唐朝後,田來津仰天發誓,並吃下了自己的牙齒,然後憤怒地殺了十幾人最後戰死。


逸事:
某年初瀨川泛濫,欽明天皇在三輪大神的神社前,發現河上漂來了一個童子,天皇想起了以前的夢,夢裡有童子對他說:「我是秦始皇的轉世,因緣轉生到了這個國家」。天皇認為這個童子就是夢裡的童子,於是將他召到了朝廷里,因為夢而賜予了童子「秦」姓,後來童子協助治理初瀨川有功,被稱為「河勝」,是為秦河勝。

在大生部多常世神事件里,部多創建的宗教團體信奉某個4寸的蟲為常世神,相信只要祭祀常世神就可以獲得財富與長壽,在民眾間影響很大,該團體藉此到處騙錢,威脅到了社會的安寧。因此秦河勝討伐該團體,把大生部多打了一頓,巫女們也嚇得不敢再傳教了,民眾們對此作了一首和歌

ウヅマサハ
カミトモカミト
キコエクル
トコヨノカミヲ
ウチキタマスモ

大概意思是,聽聞太秦被評判為神明中的神明,因為他打懲了常世神。

我本人不贊同秦河勝是秦始皇后裔的說法。因為秦始皇的兒子除了胡亥之外全部被殺了。按秦朝嚴酷的法律和趙高的心狠手辣,他們的兒子也不能活下來。除非是狗血的私生子橋段。
我覺得秦氏祖先可能是從朝鮮半島來的人。朝鮮半島有個古國叫辰韓,辰韓又叫秦韓,據中國史書記載他們都是秦國人的後代,所以叫秦韓。而秦氏祖先就是秦韓的一員。

日本有個奇特的網站叫日本苗字7000傑,裡頭有列出日本古代各個大姓的系圖。當然也有秦河勝的家族秦氏。
秦氏系圖竟然顯示秦氏的祖先是扶蘇的兒子胡苑。扶蘇被二世殺死,他的兒子應該都被連坐才對,怎麼會有一個兒子存在?
而且如果按年齡推算,秦始皇去世的時候五十歲,舉極端例子他14歲生小孩吧,那麼扶蘇也是36歲的人,就算扶蘇14歲生小孩,那子嬰也才22歲。二世死的時候子嬰頂多25歲。史記中有記載子嬰和他兩個兒子商量誅殺趙高的事,說明那時候子嬰的兒子已經具備成人思維,能夠對如此重大事件做出正確判斷。那麼這樣的人至少也是13歲以上。可是除非子嬰12歲生小孩,那麼他根本不可能有這樣年齡的兒子。除非他生了個甘羅二世。

所以從年齡上推斷,我認為子嬰的身世應該如同《李斯傳》記載的那樣,是秦始皇的弟弟——【高自知天弗與,群臣弗許,乃召始皇弟,授之璽。子嬰即位,患之,乃稱疾不聽事,與宦者韓談及其子謀殺高】這樣更為合理一些。
不過這種說法也有漏洞。因為也有可能是這個弟弟並沒有即位,即位的人是子嬰,子嬰對趙高不授予他傳國璽的做法有憤怒又害怕,所以才除掉了他。
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上宮聖徳太子伝補闕記(じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

讀書非爲君子是敕戒之辭。太子薨後王子山代大兄。

日夜六時。後;拜此經 癸卯年十月廿三日夜半º忽失,此

經不.知所、去°王子大怪°復以大憂將精,出汗所十

一月十一日亥時。宗我林臣入鹿等興軍°燒滅宮室。王

子王孫廿三王等。一時解、戶共昇 蒼天 太子生年卅六。

己巳四月八日始製,勝鬘經疏|辛未順 年正月廿五日

了壬申)年正月十五日始製,維摩經疏癸酉 14 九月

十五日了甲戌 -7 年正月八日°始製,法華經009

年四月十五日了制諸經疏·義儻不達太子每夜夢見

金人來授 不解之義太子乃解之以問於慧慈法師法

師亦領悟º發„不思,歎,未曾有 皆稱,上宮疏º 謂,弟子,日。

是義非、凡。持:還本國欲、傳聖趣 庚戌年四月持渡本

國講;演彼士 丙子 | 年五月三日°天皇不余太子

十三

立願延。天皇命立諸寺家卽以平復'諸國國造 造亦

各始誓寺。先是太子巡、國至于山代楓野村草

臣日"此地爲、體南弊北塞°河注其前 龍常守護後世必

有【帝王建,都吾故時遊賞卽於 蜂岳南下,立、宮秦川勝


率己親族,祠奉不.怠。太子大喜。卽敘_ 小德 途以.宮預、

之又賜新羅國所、獻佛像故以.宮、寺°施;入宮南水田

數十町弁山野地等丁丑 20 年四月八日太子講說勝

鬘經三日而畢。其儀如.² 天皇大悅。王子羣臣大夫已

下莫不,信受。 天皇以,針間國佐勢田地五十戶末代奉

施º卽頒;入斑鳩寺中宮寺等太子己卯加年十一月十

五日巡看山西科長山本陵處 經還向之時"卽日申時枉,

道入於片岡山邊道人家 卽有 飢人,臥道頭、 去三丈許。

太子之馬至.此不.進°雖、鞭猶駐°太子自言。哀々用音郎

下馬°舍人調使麻呂握取御杖近飢人,下臨而語.之可

々恰々。何爲人耶° 如.此而臥°卽脫 紫御袍覆其人身

賜.歌曰「科照片岡山爾°飯爾飢天°居耶世屢的其旅人。

可怜祖無爾°那禮韵成利來也°刺竹乃君波也无毋°飯爾

飢氏居耶世屢其旅人可怜。 起首進答日°斑鳩

乃°富乃 小川乃絕者已禁。 我王乃 御名忘也米。飢人之形。

面長頭大°兩耳亦長°目細而長°開、目而看內有非金光,異、

人°大有 奇相º 亦其身太香°命,麻呂,日° 彼人香哉 麻呂


 という言葉を残しています。 王子の死後、シャン王子は長兄の身代わりとなった。毎日夜6時に本を読むことになった。 王子の死後、10月23日の深夜に経典を紛失した。 王子は驚き、これから大いなる心配をすることになると、十一月十一日の真夜中に経典に汗を流した。  王子とその息子や孫、23人の王などである。 同時に王の子や孫も天に昇り、36年に王子が誕生した。 "私は思わない、ため息をつく、存在しなかった、すべて呼ばれる、上宮呪咀は、弟子、日を言った。"不 "と "死 "の字の意味である。 天皇は、すべての寺院を設立して直ちに復興するよう命じ、各自が寺院に誓願するようになった。 皇子はまず全国を巡り、鳳閣の村に来た。 皇子は歓喜した。 王子は大喜びだった。 王子は歓喜した。 そして、新羅国に仏像を贈られた。 皇紀二十年四月八日、皇子は三日間、勝利の経典を講義された。 その儀式は次のようなものであった。 天皇は大いに喜ばれた。 皇子の息子、大臣、役人も皆納得していた。天皇は、ニードルモー王国の笹井畑の50家の最後の世代に、この経典を贈った。王子の馬が到着した。 彼は来なかった。 王子は自分に言った、「残念だが、鞭はまだある」。 王子は自分自身に言った、「私は申し訳ないと思っているが、申し訳ないと思っている。 彼は言った、「私は男だ。 男とは何だろう。 そして、ここに横たわったとき、紫の衣を脱いで、体を覆った。 歌に「食に飢えた旅人、世に生きる者よ。餓鬼の国を旅する貧乏人を憐れめよ。というものである。王はその名を忘れた。 飢えた男の姿。顔は長く、頭は大きく、耳は長く、目は小さく長く、目を開くと金ではない光が見える、不思議な姿をしている。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164564511?__ysp=5a6u56em5bed5YudIOeOh%2BW3seimquaXjyznpaDlpYnkuI0u5oCg44CC5aSq5a2Q5aSn5Zac


http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/hoketsuki/fr.htm に、群書類従を底本にして校訂した本文があります。 


 日本書紀暦録并四天王寺聖德王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾 石余池邊宮御宇天皇 庶妹間人穴太部皇女爲后 后夢有金色僧 容儀太艶 對后而立 謂之曰 吾有救世願 願暫宿后腹 后夢中許諾 自此以後始知有娠 經十二箇月 后巡宮中 至于厩下 不覺有産 女嬬抱持 疾入寢殿 后亦安臥 忽有赤黄光 至自西照于殿内 良久而止 天皇大異 敕群臣曰 此兒必後有異於世 即定大湯坐 若湯坐 沐浴抱擧 數月之後 能言能知人擧動 不妄啼哭 三歳之後 常旦日東向 稱南無佛而再拜 不因人敎 嬭母大奇 至六歳宮中有諸小王子鬪叫之聲 天皇聞著 設笞追召諸王子等 皆悚逃隱 而太子脱衣獨進 天皇問之 兄弟不和 諸小王子等輙以口鬪 今將笞誨皆悉隱避 而汝何獨進 太子合掌對天皇皇后 低首奏曰 不得立橋於天而昇 不得穿穴於地而隱 故自進受笞 天皇皇后大悦 敕曰 汝之岐 朕今知之 皇后披懷而抱 其身大香 香氣非常 皇后大異 乃最加愛 一説云 一抱太子 即數月懐香 故後宮爭欲奉抱 皇后亦屢加抱 太子生年十四 丁未年七月 物部弓削守屋大連與宗我大臣縁佛法興不之論 内忘姻親之義 外蔑君臣之道 發睚眦之怨 興志逆之軍 率己黨類 以稻爲城 調練軍士 擬襲京城 朝廷震恐 事倉卒 大臣奉勸太子 興整軍士 眞難波自後而襲 以平群臣神手爲少軍 自志紀襲於澁川 賊勢二分 東西相戰 大連登榎木 與太子軍爲戰甚強 官軍中矢者衆矣 太子在殿 士卒氣衰 軍政秦川勝率軍奉護太子 見官軍氣衰 馳啓太子 太子立謀 即令川勝採白樛木 刻造四天王像 擎立鋒 太子自率壯士而迫賊 賊與太子相去不遠 賊誓放物部府都大神之矢 中太子鎧 太子亦誓放四天王之矢 即中賊首大連胸 倒而墜樹 衆亂躁 川勝進斬大連之頭 少將軍撃平餘黨 係虜賊首家口 覆奏於玉造之東岸上【在東生郡】 即以營爲四天王寺 始立垣基 大臣與太子還宮覆奏 平群臣神手 軍政人秦造川勝等三人各有等差 後制新位之時 神手叙小德 川勝等叙大仁 四天王寺後遷荒墓村 小治田大宮御宇天王 以太子爲儲君 天下政事決於太子 太子即制十七條政事修國修身事


『日本宗自由雲記』や四天王寺の称徳王伝には、長老を訪ねて古文書を調べたところ、不満を晴らさずに様子がおかしいことに気づき、士鎮ら両家の記録がほとんど残っているが、古代の書物と同じ そして、ユネルシ・ユチ・ビアンゴン・ユユについての奇妙で避けられない物語があると言われました タイブの洞窟にあるユユ皇帝の側室の妹の部屋 王妃は威厳のある容姿の黄金の僧侶がいるという夢を見て、タイジは立ち向かう女王はこう言いました。「私には世界を救いたいという願いがあり、しばらくここにいたいのです。お腹が空いたら夢の中での約束です。これから妊娠期間があることが分かるのは12か月後です」 、宮殿に伺います、馬小屋の子に関しては、産む女がいるとは知りません、腕を組んで寝ることにします、皇帝は大ごとを起こして大臣たちにこう命じました。この子は将来、世界とは違うものになるだろう、つまり、大きなスープはスープのように座り、お風呂に座り、抱き合ったり持ち上げたりするが、数か月後には話せるようになり、人のことを知ることができるようになるが、行動はしない。 6歳の宮殿で、王子たちの叫び声が聞こえ、皇帝は鞭打ちの声を聞き、王子たちと他の人々は皆恐怖のあまり逃げ出したが、王子はそれを聞いて、義母が驚いたからだ。服を脱いで、一人で皇帝の中に入りました 兄弟たちは王子様たちと一緒には行きませんでした 口を開けたまま、今度は鞭打ちの指示をすべて隠しますが、なぜ一人で入るのですか 王子は手のひらを合わせて頭を下げました天皇皇后両陛下に「空に橋をかけることはできない、上に行くことはできない、地面の穴を通ることができない、そして身を隠すのだから、中に入って、 「鞭打ちを受けてください。皇帝の皇后はとても幸せです。ルー・ジーチー、私は腕を組んで体を抱きしめる皇后を知っています。香りはとても違います。王妃はとても違います。私はそれが一番好きです。かつてあったと言われています」あなたは王子を抱きます、それは数ヶ月続きます新年の7月にオブジェクト省は大連の番所を切り倒し、仏教の栄枯盛衰について語った蘇我大臣は内心忘れていました義理の義を主張し、対外的には君主や大臣の道を讒言し、不満の憤りを発し、反乱軍は自党を率いて米を都として兵を派遣し、首都攻撃を計画した。朝廷は慌てており、大臣たちは太子に軍を再編するよう進言しました。その後、難波が攻めてきました。大臣と大臣は神でした。小軍の子治季が川川の盗賊を攻撃しました。人はたくさんいます。王子は宮殿にいます、兵士は弱っています、軍隊が指揮しています、そして秦伝生は王子を守るために軍隊を率います。軍の精神が衰退しているのを見て、王子は励まされます。遠くないところで、泥棒は解放すると誓いました物部の大神の矢、皇太子カイも四天王の矢を放つことを誓い、泥棒の首、大連の胸が落ちて木に落ち、群衆は混乱した。川勝が大連に入り首を斬り、東勝県の弓尾の東岸、すなわち陣営を四天王廟として家族の口が演じられ、基地大臣と太子は帰還した。王位の時、ゴッドハンド徐暁徳伝勝ら徐大仁時天王廟は廃墓村小子天大宮に移り、王裕天王は王子を後継者とした


【在別卷】 爾於天下大嘉 




 此時高麗慧慈法師慕化來朝 太子悦爲師受業 問一知十 問十知百 不問而知 不思而逹 二年業成 道被幽顯 八人時共聲白事 太子一一能辨 各得情無復再訪 聰敏叡智 是以名稱厩戸豊聰八耳皇子 又奉稱大法皇 太子謂慧慈法師曰 法華經中此句脱字 師之所見者如何 法師答啓 他國之經亦無有字 戊辰年九月十五日 閇大殿戸 七日七夜 不召羣臣 又不御膳 夫人已下不得近習 時人太異 法師曰 太子入三昧定 宜勿奉驚 八日之旦 御机之上有法華一部 驚深加恭敬 出自定後 常有口遊曰 可怜可怜 大隋國僧我善知識 好々讀書 不讀書非爲君子 是敕戒之辭 太子薨後 王子山代大兄 日夜六時禮拜此經 癸卯年十月廿三日夜半 忽失此經不知所去 王子大恠 復以大憂【今在經者 小野妹子所持也 事在太子傳】 十一月十一日亥時 宗我林臣入鹿等 興軍燒滅宮室 王子王孫廿三王等 一時解尸 共昇蒼天 太子生年卅六 己巳四月八日始製勝鬘經疏 辛未年正月廿五日了 壬申年正月十五日始製維摩經疏 癸酉九月十五日了 甲戌年正月八日始製法華經疏 乙亥年四月十五日了 制諸經疏 義儻不達 太子毎夜夢見金人來授不解之義 太子乃解之 以問於慧慈法師 法師亦領悟 發不思歎未曾有 皆稱上宮疏 謂弟子曰 是義非凡 持還本國欲傳聖趣 庚戌年四月持渡本國 講演彼土 丙子年五月三日天皇不悆 太子立願 延天皇命立諸寺家 即以平復 諸國國造伴造亦各始誓立寺 先是太子巡國至于山代楓野村 謂羣臣曰 此地爲體 南弊北塞 河注其前 龍常守護 後世必有帝王建都 吾故時遊賞 即於蜂岳南下立宮 秦川勝率己親族祠奉不怠 太子大喜 即叙小德 遂以宮預之 又賜新羅國所獻佛像 故以宮爲寺 施入宮南水田數十町并山野地等 丁丑年四月八日 太子講説勝鬘經 三日而畢 其儀如僧 天皇大悦 王子羣臣大夫已下莫不信受 天皇以針間國佐勢田地五十戸末代奉施 即頒入斑鳩寺中宮寺等 太子己卯年十一月十五日巡看山西科長山本陵處 還向之時 即日申時 枉道入於片岡山邊道人家 即有飢人臥道頭(以下略) 



[別冊] エル・ユー・ティアン・ジア・ジア 


 このとき、Gao Li Huici Master Mu Huaが教師としてYue王子に求愛し、カルマを受け入れ、10の質問、10の質問、10の質問をしますが、質問しないでください、しかし考えないでください。 , 彼は啓発され、8 人が明らかにされました。愛に戻ることはありません、そして私はコン・ミンと知恵を再訪します。それが名前が安定の家である理由です, フェン・コン、8 つの耳の王子、そして彼はまた、大法の皇太子であり、慧慈先生と呼ばれていますが、2009年9月15日、正殿で7日7晩開催され、大臣は召喚されず、夫人は下山して勉強することも許されませんでした。 、大儀師は、王子はサマーディに入るべきだと言いました、驚き、深く尊敬し、それは自決から出たもので、よく言いました、「かわいそうに、隋の貧しい僧侶。私は良い教師です。もしあなたがそうしないなら」 「本を読まないんだよ、君は紳士じゃないよ」 23日の真夜中、私はこの経典を突然紛失してしまい、どこへ行ったのか分かりませんでした。王子、王、孫、二十三人の王などがいたのです。しばらく解剖して昇天し、嘉緒正月九月十五日、正月八日に法華経が編纂され、益海年四月十五日には全ての経典が完成した。編纂されたが、義は達成されなかった。王子は理解できない義を教えるために毎晩黄金の男の夢を見ました。師もまた、彼が何も考えていないことを理解し、ため息をつきました、そして彼が上公宗と呼ばれたことは一度もありません。彼の弟子たちはそれを言いました「彼は正義であり、並外れた人物です。彼は祖国に帰りたいと考えており、聖なる利益を継承したいと考えています。寺院の設立は王国を平定するためであり、仲間の建設は寺院の設立の始まりでもあります。まず、 , 王子は国を巡回しました. シャン朝の豊渓村については、役人はこの場所が遺体であると言いました. 私が古い場所を訪れたとき、私は豊渓の南に宮殿を建てました. 秦伝生は親戚を率いて、皇太子は大喜びし、暁徳を分け与えたので、宮殿を寺院として使用し、新羅から贈られた仏像に与えた。聖なる花輪を三日間捧げ、儀式は修道士のように完了し、大岳皇帝、太子、大臣、役人全員が降りてきて、大臣と大臣全員が最後の世代の50世帯を受け入れるようになりました。針と瀬田の国、盤九寺中公寺ら諸侯に授与され、建毛年の11月15日、山西省山本廟を視察して帰参し、同日、道家側に入った。無駄に片岡山。


 これで見ると、そんなに厄介な漢文とも思えません。手持ちの群書類従を見ると、返り点がついています。近代デジタルライブラリーにもあります。そういうのを参照し、辞典を引けば、大体読めるのではありませんか。新川氏の本があるのはいいですが、そういうのは全くの研究書で、一般向けにやさしい訳文があるとは思えません。だいたい研究書というのは、書き下しまでで、訳文は載せません。それだったら、取り敢えずは、返り点を参考に自分で読む方がいいと思います。専門家でない限りそれで十分です。 丁丑年四月八日 太子講説勝鬘經 三日而畢 其儀如僧 天皇大悦 王子羣臣大夫已下莫不信受 天皇以針間國佐勢田地五十戸末代奉施 即頒入斑鳩寺中宮寺等 これなんか、楽に読めますよ。 丁丑年四月八日 太子は勝鬘經を講説し、三日で終わった。その様子は僧のようであった。天皇は大いに悦び、王子羣臣大夫以下で信受しないものはなかった。天皇は針間國の佐勢の田地五十戸を末代にわたって施入申し上げ、それをそのまま斑鳩寺中宮寺等に頒入された。




 聖徳太子 - Wikipedia

   上宮聖德太子傳補闕記


https://dl.ndl.go.jp/pid/1879458/1/176


     ・ 太子生年十四。丁未年七月。物部弓削守屋大連。與宗我大臣縁佛法興
      不之論・・・。太子在殿。士卒氣衰。軍政秦川勝率軍奉護太子。見官軍氣
      衰。馳啓太子。太子立謀。即令川勝採白樛木。刻造四天王像。擎立鋒。
      太子自率壯士而迫賊。太子亦誓放四天王之矢。即中賊首大連胸。倒而
      墜樹。衆亂躁。川勝進斬大連之頭・・・。覆奏於玉造之東岸上在東生郡
      即以營爲四天王寺。始立垣基。
     ・ 宗我大臣輔政。太子與之興隆三寳。紹發二諦。始起四天王寺。元興寺。
      一説法隆寺。 中宮寺。橘寺。蜂岳寺。并宮領賜川勝秦公。池後寺。葛木寺。
      賜葛木臣。又制爵十二級・・・。

   秦河勝 - Wikipedia
     ・ 広隆寺 ・ 松尾大社 ・ 大避神社 ・ 伏見稲荷大社  - Wikipedia

上宮聖徳太子伝補闕記(読み)じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき

「上宮聖徳太子伝補闕記」の意味・わかりやすい解説

世界大百科事典内の上宮聖徳太子伝補闕記の言及

【聖徳太子】より

…当時の太子伝承は《上宮聖徳法王帝説》に記され,太子が一時に8人の言をわきまえた聡敏な人であったこと,《維摩経》や《法華経》の疏を製作中,夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は,《上宮皇太子菩薩伝》に夢堂の禅定,《上宮聖徳太子伝補闕記》に大殿の三昧定という形を経て,10世紀に成立した編年体の《聖徳太子伝暦》で夢殿にこもって金人より妙義を聴き,また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように,太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。…

※「上宮聖徳太子伝補闕記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

2023年5月26日金曜日

「ベルイマンを知らないあなたもベルイマンを知っている」町山智浩(映画評論家)|「ベルイマン生誕100年映画祭」公式

「ベルイマンを知らないあなたもベルイマンを知っている」町山智浩(映画評論家)|「ベルイマン生誕100年映画祭」公式

「ベルイマンを知らないあなたもベルイマンを知っている」町山智浩(映画評論家)

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坂口安吾 安吾の新日本地理 飛鳥の幻――吉野・大和の巻――

坂口安吾 安吾の新日本地理 飛鳥の幻――吉野・大和の巻――

 すると「入鹿臣□□林太郎」という欠字には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御世葵卯年と明記しているから。
 ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、
「□□□天皇御世乙巳年六月十日」
 と書きだしているね。書紀によれば、これは皇極四年である。皇極四年ならば、法王帝説は、先の条にある如く「飛鳥天皇御世乙巳年」と書く筈だね。ところが、飛鳥天皇は二字だが、□□□天皇は三字だよ。そして、それにつづいて、その六月十一日に、
「近江天皇、殺於林太郎□□、以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之」とある。
 近江天皇はまだその時は中大兄王で天皇ではないが、後に天皇たるべき人をはじめから天皇とよんでいる例はこの本ではしょッちゅうのことだ。怪しむに足らん。まだ天皇になる前にも後の天皇を天皇とよぶのがこの本の例であるのを知ると、「入鹿臣□□林太郎」も「林太郎□□」も、どっちも、やっぱり天皇か皇太子、もしくは天皇か皇太子を特に蘇我流にした同じ意味の別の語であったかも知れないね。
 皇極二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね。即ち、
「□□□天皇御世乙巳年」は皇極天皇の飛鳥ではなく、甘梼岡だか林太郎だか他の何物だか知らないが、蝦夷天皇か入鹿天皇を示すどれかの三字があったのだ。私はそう解くね。この欠字の特殊な在り方によるのみではなく、日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起しているからです。きわめて重大な理由がなくて、このような妖しい記述が在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿は自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をする筈はないね。その程度のことは、否それよりも重大な肉親の皇位争い、むごたらしい不吉な事件はほかにいくつもあるではないか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45904_37860.html

飛鳥の幻――吉野・大和の巻――



 海を見たことがないという山奥の子供でも汽車や自動車は見なれているという文化交通時代であるが、紀伊半島を一周する汽車線はいまだに完成していない。また、紀州の南端から大台ヶ原を通って吉野へ現れるには、どうしても数日テクる以外に手がないのである。吉野の入口から自動車にのると上の千本までしか登れない。奥の千本へ行くにもテクらなければダメなんだから、大峰山や大台ヶ原は今もって鏡花先生の高野聖時代さ。交通文明というものに完璧に見すてられている山また山の難路なのである。ところが昔の神々は目のつけ場所がちがう。ここが日本で一番早くひらけていた交通路の一ツなんだね。
 神武天皇が熊野に上陸して最初に辿ったコースがこれだ。そのころの日本人の生活はどんなグアイかというと、当時の日本の王様、大国主だかその子孫だか誰だか知れんが、その王様のいたミヤコがたぶん今の奈良県三輪らしいね。今はそこに大神みわ神社があって大国主を祀っているが、この神社は拝殿があるだけで本殿はなく、否、建築としての本殿はないが、三輪山という四百五十メートルぐらいの姿の美しい山全体が本殿であり御神体なのである。山上や中腹に巨石がルイルイとあるそうだ。
 三輪から山の辺に沿うて盆地を北上すると天理教の丹波市たんばいちから奈良へと平野がつづいている。南に向ってはウネビ、耳成みみなし、天ノ香具山の大和三山にかこまれた平地があって飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。東の方へは初瀬はせから宇陀、伊賀を越えて伊勢路へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、大阪方面へ通じている。三輪のミヤコをまン中に、交通は四通八達していたらしい。これを古に「山の辺の道」と云い、古記にも、崇神天皇には「御陵ハ山辺道ノ勾之岡ノ上ニアリ」とあり、景行天皇には「御陵ハ山辺之道ノ上ニアリ」とある。
 この古代の道が今も残っているのだ。東に伊賀伊勢方面へ、西に河内方面へ、と東西にのびる道が三輪の町で丁字形に岐れて奈良方向へ北上している。今日も古代のように人がそこを歩いているのだが、どういう証拠があって、これを古代のままの「山ノ辺ノ道」と断定されたのか私は知らない。私はその道を通ってみた。今は賑やかな町となっているところもある。賑やかだが自動車がようやく一台通れる道だ。道で自動車とすれちがった。私たちの自動車は自発的に後退して向うの車がすれちがうのを待った。向うの車がサンキューと云ってすれちがうかと思いのほか、あやしくも心にくし、向うも後退して通路をつくり、私たちの通過を待つではないか! なんたる礼節! 古代日本はかく在りしか。見上げたる神々の子孫よ。と思いつつ敬々うやうやしくかの車を通過すれば、この車に乗りたるオノコらは手に手にメガホンをもち、これなん選挙の自動車にてありけり。二日の後が投票日さ。三日目からは決して人に道を譲らない自動車でした。
 家並を外れると、なるほど山の辺にかかって北上し、右手山際に、景行、崇神両帝の陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。
 いわば吉野も、この古の道の支線の一ツだ。伝に曰く、えんの行者がひらいた道さ。そして今も年々歳々山伏の通る道である。この地帯は山伏の聖地である。吉野には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原全体にかけて、すなわち山伏の根本道場だね。蔵王堂は木造建築としては東大寺の次ぐらいに大きいのだそうだが、実にヌッと突ッ立ってる様が山伏的にブザマで、美的じゃないね。この本堂の前に人だかりがあって、本堂のキザハシの上で洋装の女の子が炭坑節を唄っていたよ。桜まつりと、いうんだそうだ。私の行った日は、桜まつり歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね。山伏の根本道場のキザハシでストリップをやるのさ。役の行者以来、法術によって何でも祈りだすのが山伏というものさ。
 吉野山に立って北方を見ると、天は山々の壁によってさえぎられ、一きわ高いのを龍門岳というね。ここに昔、久米の仙人が住んでいたのだ。その山々の向うに飛鳥の地があって大和盆地があるのだが、仙人は空をとんでとぶとりの飛鳥の里の久米川上空にいたり、センタクしている女の子のフクラハギを見て墜落したね。よってそれより人間に戻ってその女の子と結婚し、仲よく暮したそうだ。イニシエもイマも目にしむフクラハギ吉野はカナシ花ミエズ。久米の人マロかね。
 先月、仙台の旅行から戻ってきてから肺炎をやった。旅行の疲れのせいではなくて、伊東の町に火事があって猛スピードで見物に行って水を浴びたせいであった。コレヲ歓楽の果トイウカ、ペニシリンには感激しました。たッた一晩で熱が落ちた。ドクター曰く、ペニシリンにれるナカレ。肺炎ハ肺炎デアル。二週間ハ注意シタマエ。しかし締切が待っているから仕方がない。翌日から仕事にかかり、競輪にも出かけましたね。再びどッと床につき、今度はいつまでも微熱が去らない。吉野旅行が延び延びとなり、ついに意を決しペニシリンと注射器一式にダイヤジンをぶらさげて吉野へついたら、花の散ったあとであった。しかし、どうせ花を見ない私である。久米ノ仙人の末流さ。
 神武天皇が熊野から八咫やたの烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の中から出てきて、その井戸が光った。お前は誰だと問うたら、国ツ神で名を氷鹿ひかという者だと答えた。これが吉野おびとの祖先だと古事記に書いてある。その井戸が今も残っている。
 竹林院という修験道の宿坊が今は旅館になっている。万事アルバイト時代である。そこの名園(?)から竹林派という造庭上の名が起ったのだそうだが、そこのフモトの汚い谷底に神武天皇の昔光ったという井戸があるのである。谷底といったって、吉野の谷には水というものが殆どない。吉野川は岩石山水の美で名高い渓流であるが、これは吉野山の外側をぐるッと一周して大峯山脈から豊富な水を下流へ運んでいるけれども、山を距てた外側のことで、吉野山の内ブトコロには水がない。吉野の町は両側が谷だ。両側の深い谷にはさまれて、下から上へ桜の名所がエンエンつづいているのだが、両側の谷には殆ど水というものがない。地質のせいかね。そこで吉野山の頂上ちかく上ノ千本のあたりに、大峯山脈のドテッ腹から清水をひいてきて水道をつくり、町民はこの水道を飲料に用いている。井戸を掘っても水がでないのだ。
 だから、吉野山に井戸水があるということは例外なのだ。清水というものも、甚しく乏しい量で、後ダイゴ天皇の御製に、枕の下に水くぐる音、とあるが、なるほど吉水院の門前の家には竹のトヨで山腹から清水をひいてチョロ/\流れているのを現に用いているけれども、その清水の溜り水が深く濁りよどんで臭気があるほど流れている水量はチョロ/\にすぎない。吉野の宿屋はこの吉水院と同じように深い谷の上に一列に並んでいるが深夜になっても私の枕の下は水の音がくぐらなかったね。恐らく雨がふれば、眼下の谷に水流の音がトウトウと鳴るのであろうが、お天気の日は枕の下はほとんど水音はないね。実に高い谷なんだ。私の泊ったサクラ花壇という妙テコリンな名の旅館の座敷から見ると、はるか眼下にトンビやカラスが舞いまわり木の枝にとまっている。実にはるか眼下の木の枝にです。トウトウと谷が流れて然るべきだが、吉野山なるものは殆ど水がないのである。
 だから、吉野に於ては、むかし、むかし、井戸があるとすれば、実に最高の宝であったに相違ない。吉野の親分が井戸の中から這って現れたというのは当然の話ですよ。東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分はたった一ツの井戸を縄張りにマーケットを造ったにきまっていや。高い水を売りつけてボッたんだね。貴重な水だから、濁っていても光りかがやくさ。
 吉水院の前には珍しく清水があったし、名も吉水だから、吉野をひらいた役の行者がこゝに庵室を造ったというのも、こゝが水にめぐまれていたせいかも知れない。その庵室が後年の吉水院、今の吉水神社、後ダイゴ天皇の仮の宿舎です。この庵室は鎌倉時代の建築で、後ダイゴ帝の泊った時のままのものだ。後ダイゴ帝の遺品には楽器が多いや。御岳丸笙、国軸丸笙という笙があったし、七文字笛、高麗笛という笛の精が中に住みついているようなのもあったね。楽記という書物もあった。続拾遺和歌集があった。風流でいらせられる。詩歌管絃に身をかためて京都を脱出あそばしたね。字も名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし、水の乏しい吉野で、枕の下に水をくぐらせてしまったのは、誰しも傷心やみがたければ、そうもなろうというものだろう。だいたい人の判断が視覚に幻惑される例は多いね。この山この谷の姿を見ればトウトウと谷の流れや至るところに清水の流れを思うのは自然なのさ。この山に水がないときいた方がビックリするよ。全山冷めたく清らかな清水にあふれているように思われますね。桜ノ花ハ火ニアラズ。火ヨリモ水ニ近カラン。旅行者たる後ダイゴ帝が水にあざむかれ、土着の親分氷鹿がチャッカリ井戸を占領して井戸の中より現れ出でたのは然るべきところであるかも知れません。太古の史家はその表現が巧妙だ。これを健康なる表現と云いますか。水鹿親分は一本には女性ナランとあるね。
 南北朝は元中九年(北朝の明徳三年)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を伝えて、南朝の不和は和解したことになっているが、実はさにあらず、後南朝というべきものがあって、その後も吉野にたてこもり、六十五年がほど抗争していた。
 和解の条件は南北両朝から交互に皇位につく約束であったが、後小松天皇以後への北朝はその約束をまもらないから、五十年ほど辛抱していた南朝方はもはや北朝に誠意なし武力以外に手がないと内裏へ乱入して三種の神器を奪いとり、吉野川の上流、北山村と川上村にたてこもり、南朝の正系たる自天王を擁し天靖の年号をたてて天皇を称した。しかし長禄元年に北朝の刺客がこの村に忍びこんで自天王を殺し、その弟の宮忠義王をも殺した。本誌の昨年正月号に滝川政次郎氏の文章があるから、私がクダクダしく書くには及ばないでしょう。
 応仁の乱に、山名宗全は西陣南帝を擁して北朝の天子をいただく細川方と戦ったが、西陣南帝は乱後に奥州へ落ち、標葉郡沢之邑というところに住んだそうだ。その後裔が熊沢天皇デアル、という。これ即ち熊沢天皇家に伝る系図だそうだね。系図は本当らしいね。しかし彼は天皇ではないさ。南朝の血をひく名古屋の雑貨商、熊沢寛道氏であろう。藤原一族は云うまでもなく、大和の農民にも、クマソ土グモの子孫の中にも天皇の血をひく者は珍しいことではなかろうさ。
 日本の相続の習慣は(習慣だろうな。昔は制度や法律ではなかったろう)古代に於ては家長が自分の好きな子供に与える。これを選定相続というのかね。しかし、長兄に与えるのが自然だという不文律が感情的に存在していたのかも知れない。応神天皇は二人の子供をよんで、お前らはお前たちの子供の場合に兄の方が可愛いいか、弟の方が可愛いいか、ときいた。というのは三人目の末弟に皇位を譲りたい下心があったからだそうだ。長兄は兄の方が可愛いいと答えたが、次兄は天皇の心を察して弟の方が可愛いいと答えた。天皇はよろこんで、次兄の言葉は正しい。一番下の子が可愛いいものだ。だからお前らには皇位をゆずらず、三番目の末ッ子を天皇にするよ、と言い渡した。しかし、天皇崩御のとき末ッ子が辞退して次兄に皇位をゆずった。この次兄が仁徳天皇だそうだ。こんな話が記紀にあるから、親も好みのアトツギを選ぶには子供に気兼ねがあったのだろう。選定相続は概して末ッ子に譲ることになり易い。末ッ子が一番可愛いいのが大概の親の気持らしいな。また末ッ子の母が一番若くて美人で、お気に入りなのも自然だろう。昔は子供の母がたいがい一々違っているから、尚さら事はメンドウであったね。
 長子相続は大化改新からだそうだが、どうだかね。しかし、いきなり壬申の乱が起ったほどだから、どうも天皇家の相続はうるさいね。藤原一族が勢力を得て、銘々が自分の娘をひんだの夫人だのというものにして自分の血縁を天皇に立てようと企むに至って、相続のたびに、否、常に相続をめぐって、お家騒動の絶え間なき連続のようなものだ。藤原一門自体が氏の長者だの関白をめぐって父子兄弟の絶え間なき争いでもあった。藤原氏にも三種の神器のようなものがあるのだね。これを、長者の印、朱器、台盤とやら云うね。朱器台盤というのは食事の道具らしいや。年に一度の大宴会に大臣諸公や代表的日本紳士諸公にこの朱器台盤とやらでもてなす。これが藤原長者の貫禄なんだそうだ。そこで朱器台盤とやらがないと氏の長者になれないから、これをめぐって争奪戦をやらかす。平安朝はテンヤワンヤさ。この時代に於ける儀式や虚器の人格化というものはまるで実生活をもつ生き物めいた妖怪であった。私は戦争中バクダンに追いまくられている以外の時間に甚しく退屈に苦しんだので、この時とばかりに「台記」だの「玉葉」というものをノートをとりながら読みはじめた。この種の本はいかに退屈している時でも連続的に読めないな。こういうものを読むことのできる歴史家という存在は実に超人だとその時シミジミ思った。「台記」も「玉葉」も、つまり朱器台盤とやらをめぐって争奪の実戦に経験ある関白殿の日記なのである。第三次世界戦争がはじまったら、また台記や玉葉をよむかね。しかし私の生存中に百ぺん世界戦争があっても、とてもこの本を読み終る見込みはないね。
 天皇トハ何ゾヤ。三種ノ神器デアル。イヤ、笑イ事デハアリマセン。台記だの玉葉というものを三頁ぐらい読めば、虚器とは人格的に実存している厳然たる怪物だということが分ります。
 南北朝の皇位争奪がやっぱり三種の神器の争奪だ。天皇は三種の神器だ、というのは神皇正統記の思想なのである。南朝を正当化するには、特にこういう論理が必要でもあった。戦争に妙な論理が必要だということは、我々が痛切に経験したことである。八紘一宇とやら称して古事記だの日本書紀だのというものから論理を探してきたのが現代の話だからね。それに比べれば南朝の論理の方がいささか文明さ。
 建武中興の理想は武家政治や院政の否定、天皇親政復活ということであるが、皇位相続の正しい法則をどこに求めるかということになると大そうグアイがわるかったのである。摂関政治、院政、武家政治時代、というものは、なべて選定相続だ。南朝自体が嫡流ではないのである。院政のおかげで、弟の方が上皇に愛され選ばれて、皇位をついだのが南朝だ。兄の系統が北朝だ。天皇親政の理想によって相続法も昔に復活すると、北朝の方に相続権の理があるのだ。そこで仕方がないから、正統の天子とは何ぞや。三種の神器の授受である。神器のあるところに天皇あり。やむを得ない詭弁であった。九条兼実という九条家始祖の関白は藤原氏歴代の中で特に実利派の陰謀家であるが、しかし彼の日記「玉葉」なるものを三頁よむと、虚器を人格化している感情は身についているね。生活自体がそうであった。これが平安貴族の特色だ。これに比べると神皇正統記の理論は親房の身についた感情をともなっているものではなくて、一貫して論理であり、論理のために汗ダクではあるが、論理と共に生きている安定はない。
 だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。
 曾我兄弟の人気は大そうなものだが、ツラツラ事の起りを辿れば、曾我兄弟の祖父が工藤祐経の領地や財産を奪ったのである。祐経の方が元来の被害者さ。そこで祐経が五郎十郎の父に復讐し、五郎十郎がその仇を討った。事の起りは、五郎十郎方の祖先が悪いのだが、祖先の罪は民衆の感情の対象にはならないのである。祖先と云ったって、五郎十郎でたった三代目、祐経の方は国や財産を盗まれた当の本人だ。それですら、ソモソモのことはすでに民衆の問題ではない。民衆の自然の感情はそういうものだ。常に「今」の問題である。
 今の王様が今の罪によって民衆に裁かれることはあっても、国を盗んだ祖先の罪によって裁かれるということはない。すくなくとも、民衆の感情が自然の状態に於てはそうである。法律だって祖先の罪にさかのぼりやしないね。
 天皇とても同じことだ。しいて万世一系だの正統だのということは、民衆の自然の感情に相応しているものではないのである。ただ原始の、呪術的な神秘思想に相応しているだけさ。歴史的事実としても神代乃至神武以来の万世一系などというものはツクリゴトにすぎないし、現代に至るまでの天皇家の相続が合理的に正統だというものでもない。むしろお家騒動、戦争ゴッコの後の相続が甚だ少くないのである。しかし、そんなことは民衆の自然の感情には問題ではないのだ。かりに熊沢天皇が南朝の血統たるのみならず、徹底的に合理的な正系であるにしても、民衆の感情は熊沢天皇をうけいれはしないね。民衆の感情にとっては今の天皇が天皇のすべてで、熊沢覚道氏は名古屋の雑貨屋にすぎないのである。
 もっとも、かりに革命が起り、別の王様が国をとる。その初代目は民衆の多くに愛されないかも知れないが、二代目はもう民衆の自然の感情の中でも王様さ。否、うまくやれば国を盗んだ一代目ですら民衆の憎悪を敬愛に変えることができるかも知れん。民衆の自然の感情はたよりないほど「今的」なものだ。時代に即しているものだ。戦争中東条が民衆の自然な感情の中に生きていた人気と、同じ民衆の今の感情とを考え合せれば、民衆の今的なたよりなさはハッキリしすぎるほどでしょう。たった六年前と今とのこの甚しい差。別に理論や強制と、関係なく現れてきた事実だ。単に時代と共に生きつつある民衆というものの自然の感情は、永遠にかくの如きものさ。
 万世一系だの正統だのということを特別の理由とする限りは、蒙昧な呪術的な神秘迷信時代の超論理や詭弁をもって一国の最後的な論理とする愚かさ危さをまぬがれることはできない。日本の運命を古事記的な神がかりにまかせておいて文明開化を導入されては助からんな。カブツチの代りに原子バクダンをふりまわされちゃア危いよ。国家の論理も文明開化に相応しようじゃありませんか。真理は簡単さ。生キティル神様ハイナイ。しかし、また、日本の政治家は生きている神様をつくりつつあるらしいね。政治家が論理的に正当な思想をもたないと、生きている神様をつくる。論理ぬきで民衆を征服する手段は宗教的方法にまさるものはないからである。
 天皇は国家の象徴だという言い方もアイマイで、後日神道家の舌に詭弁の翼を与える神秘モーローたる妖気を含んでいるね。天皇家はかつて日本の主権者であった立派な家柄さ。日本歴史に示されている通りの第一の家柄さ。そして、他の日本人よりも特に古いということはないが、歴史的に信用できる系図を持つものとしては日本最古の家柄さ。歴史の事実が示す通りに、それだけのものなのだ。そして人間がそれに相応して社交的にうけるような敬意をうければ足りるであろう。ガイセン将軍に対してもお光り様に対しても土下座しないと気がすまないような狂的怪人物に恵まれている日本では、アイマイな規定はつつしむことがカンジンだね。新しい神様をつくる必要があるのは共産党だけさ。
 吉野の旅館で食べたデンガクはちょっとうまかった。ミソに吉野葛をまぜていたね。いくらうまいと云ったってデンガクなどというものが特に美味でありっこないが、旅の心にしむ土地の味かね。土地の味を工夫してデンガクもクズも生かしたところがミソなのさ。言葉のシャレを言うツモリではありませんがね。たったこれだけの小さな工夫でも、よその土地では今までのところお目にかかることができなかったのです。枕カバーの上にさらに吉野紙(ナラン)が当ててありましたわい。

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 吉野の宿で、私は夜の十二時に目をさましていました。そして、地図をみたり、考えたりしていました。アスカ。タナカ。アマカシノ丘。イカズチ。ヒノクマ。オカ。四時起床。五時半に出発。アスカへ、アスカへ。十五年ほど前にもブラリと京都の下宿を着流しで出てウネビへ着き、アスカの地へと志したことがあったが、金もなく、土地にも不案内な人間には、手軽にアスカ遍歴を志してもムリですね。四方のあらゆる山々も野も畑も丘も川も、みんな同じようだもの。地図や写真は相当に長期にわたって眺めた覚えの土地であるが、山水風物が四方八方こうよく似ていては、どうにもならん。いさぎよく諦めて帰ってきた。二、三十分土をふんだというだけで、十五年前に行った時は何一ツ見物しなかったのです。
 日本の神話(仏教渡来の頃までを含めて)で最大の巨人は大国主という大人たいじんだね。いとも情緒こまやかに太平楽で、女や酒は大そう好むけれども、およそ戦争を好まないという昔には珍らしいダンナだね。時の人民に人気があったわけですよ。スサノオ。オキナガタラシヒメ。建内スクネ。ヒノクマの帰化人たち。変ったダンナやオンナのヒトは色々といるけれども、神話という太古の湖があるだけで、その湖面から確実な歴史を見分けることは全然できない。
 神話と歴史の分水嶺は、仏教の渡来だろう。はじめて実在の人間と遺物があって、それを証明するに足る記録があるのだから。
 それにしても、王仁わにが論語をもたらし文字を伝えたというのが伝説であるにしても、また、ヒノクマその他に土着した夥しい帰化人たちが大和地方民の生活中に文字をもたらしたであろうことが臆測にとどまるにしても、仏教の渡来以後は急速に文字が普及したことは確実だ。とりわけ聖徳太子が現れるや、隋へ大使や学問僧を送って文物をとりよせ、憲法をつくり、十二階を定め、七大寺をたて、仏典を講じ、今日と同じように文字とともに生活する文化生活が起ったのである。色々雑多な記録がおびただしく在ったはずだ。今日では主として寺院関係の極めて少数のものだけが、引用されたりなんかして、どうやら残っていますね。しかし、ある種のものが完璧に伝わらないね。
 聖徳太子と馬子が協力して、天皇記、国記、各氏族の本記というものを録した由ですね。文字のあるところ、必ずそのような記録があるべき性質のものだ。それが完璧に残っていませんね。大極殿で入鹿いるかが殺され、蝦夷えみしがわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄なかのおおえに奉ったという。
 蘇我氏の亡びるとともに天皇家や日本の豪族の系図や歴史を書いたものがみんな一緒に亡びたのかね。そういう記録が一式揃って蘇我邸に在ったというのは分るが、蘇我邸にだけしかなかったということはちょッと考えられないことだね。文字の使用者が聖徳太子と馬子に限られていたという蒙昧な時代ではなかったはずだ。それらの記録は蝦夷とともに焼けた。または、蘇我氏とともに亡びた。しかし、蘇我氏の亡ぼされた如くに、それらの記録も亡ぼされた、ということを一度は疑ってみても悪くはなかろう。焼ける国記を恵尺がとりだしたということは、弁解的な筆法で、事実はアベコベにそれを焼いたのが彼ら自身だとみることも、歴史家や学者はやらないかも知れないが、タンテイというものはそういう下司なカングリをやらかすものなのさ。こッちは学がありません。素人タンテイというインチキ岡ッピキの三下ヤッコですからね。
 素人タンテイの心眼だから我ながら鋭い把握はないのだが、しかし「上宮聖徳法王帝説」という本を読むと、どうも妙だな、と思うことがあります。私は二十五年前の坊主学校の生徒だったから、否応なくこの本を読まされたのですよ。日本仏教史をやると、書紀の仏教渡来年代の誤りというカドによって、この本だの元興寺伽藍縁起併ニ流疏記資財帳などを読まされますよ。なるほど欽明戊午と書いてあるな。しかし、そういうことは、大したことじゃないね。欽明戊午だろうと、一二一二だろうと、十年や二十年のヒラキはコチトラの知ったことじゃアないね。夢想的な素人タンテイというものは、そういうコクメイなことは性に合わないのである。しかし「上宮聖徳法王帝説」なるものは、本文の字数はいくらもないけれども、読んでみると、おもしろいね。
 なぜ面白いかって? ヒラキ直られると、こまるが、失われた古代の歴史、たとえば日本書紀が甚しく多数の文字を用いて説話的伝説的に物語を構成している失われた古代を、これは、また、たった二十か三十の字を用いてズバリズバリと簡潔に事実だけを言いきっているではありませんか。なんの感情もありませんね。この記録者が聖徳太子のファンなら、入鹿にも悪意はないだろう。もっとも入鹿は山背大兄王やましろのおおえおう(聖徳太子の子供)とその一族を殺していますね。それにしても、入鹿が山背大兄を殺した記事も簡潔、入鹿が殺された記事も簡潔、気持がいいほど無感情、実にアッサリしたものですよ。ザッと次の通りです。
「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日、蘇我豊浦毛人とゆらのえみし大臣ノ児、入鹿臣□□林太郎、伊加留加宮いかるがのみやニ於テ山代大兄及其ノ昆弟等合セテ十五王子ことごとク之ヲ滅ス也」
 飛鳥天皇は皇極天皇のこと。林太郎というのは入鹿の異名だそうです。その上の二字の欠写については、後にタンテイの結果をのべます。
「□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇、林太郎□□ヲ殺シ、明日ヲ以テ其ノ父豊浦大臣子孫等皆之ヲ滅ス」
 アッサリしたものです。近江天皇は天智天皇のこと。□□□及び□□という二ヶ所の欠字については、これまた後にタンテイの次第を申上げます。
 この件りのあたりを書紀がどのように書いているか、欽明天皇の終りごろから読んでごらんなさい。ヒステリイだかテンカンだか知らないが、ほとんど血相変えて、実に慌しく発作を起しているのです。入鹿蝦夷が殺される皇極天皇の四年間だけでなく、その前代の欽明天皇の後期ごろから、何千語あるのか何方語あるのか知らないが、夥しく言葉を費して、なんとまア狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね。文士の私がとても自分の力では思いつくことができないような、いろんな雑多な天変地異、妖しげな前兆の数々、悪魔的な予言の匂う謡の数々、血の匂いかね。薄笑いの翳かね。すべてそれらはヒステリイ的、テンカン的だね。それらの文字にハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、でているようだ。なんというめざましい対照だろう。法王帝説の無感情な事実の記述は静かだね。冷めたく清潔で美しいや。それが事実というものの本体が放つ光なんだ。書紀にはそういう清潔な、本体的な光はないね。なぜこんなに慌しいのだろうね。テンカン的でヒステリイ的なワケはなんだろう。それは事実をマンチャクしているということさ。
 とにかく、重大なことが起ったのさ。ところがですね。その重大なこととは、蝦夷という大臣とその子の入鹿が殺されただけのことではないか。蝦夷と入鹿は自分を天皇になぞらえて、宮城やミササギをつくッていたそうだが、それにしでもだね、大臣が殺されたなんてことは、その前後にフンダンにありますね。天皇も皇太子も殺されているね。王子もそれから天皇位を狙う重臣も、いろいろと品数多く、蝦夷入鹿の父子よりもよッぽど高貴の筈の人たちが実にムザンに実に大量に殺されたり殺したりしているではありませんか。より以上に重大な殺人事件がタクサンあるのに、ヒステリイ的で、テンカン的で、妖しい狂躁にみちているのは、この事件の場合だけですね。実に事の起る六七年以前から、記事はすべて天変地異、妖しい前兆、フシギな謡の数々だ。ただごとではありません。そこに重大な理由がなければならないことだ。
「上宮聖徳法王帝説」は、昔、写本を写真に撮したのも見たことがあったし、写本の一種も見たことはあったが、今は私の手もとには群書類従もない。岩波文庫本が一冊あるだけだ。ほかの本のことは知らないが、岩波本は相慶之という坊さんが写した本だね。二条、六条天皇のころ、平安末期の法隆寺の大法師だそうだね。
 この本に、ごく稀に、二字三字ずつ欠字があるのは、なぜでしょうね。虫くいの跡ではないね。虫くいにしては数が少なすぎるし、欠字の形が縦横に不自然でなければならない筈だ。この欠字はいつもタテであるし、前後がハッキリしていて、ある単語や、ある意味をなす一句の全部がチョッキリ欠字になっていることを示しているのである。虫がそんなにチョッキリと食う筈はないね。
 つまりこの欠字は人から人へ写本されつつあるうち、誰かが故意に欠字にしたものだ。しかも甚しく曰くありげなところに限って欠字になっているのである。相慶之の写本以外の異本があるなら、見たいな。同じところが欠字になっているかしら。曰くありげとは、天皇の名とか、ミササギの場所とか、そういう事が記載されているらしい所に限って欠字になっているのさ。
 まず、先にあげた山背大兄王が殺された記事と、入鹿父子が殺された記事を例にとってみましょう。
 飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日。これは書紀と同じだね。飛鳥天皇は皇極天皇で、癸卯は書紀では皇極二年に当っています。さて次に毛人えみし大臣の児、入鹿臣□□林太郎が山代大兄及び十五王子らを殺したというのだが、書紀の方には皇極二年に何があったかというと、例の妖しげな前兆や天変地異の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠を授けて物部大臣を名のらせたと書いてある。自分の子を勝手に大臣に任じたわけだ。その前年の条には、祖先の廟を葛城の高宮にたて※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)やつらのまいをやり、自分と入鹿のミササギをつくったことが記されている。山背大兄が殺されたのは、書紀では翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡あまかしのおかに宮城を構えて自分の住居を上宮門うえのみかど、入鹿の住居を谷宮門はさまのみかどとよび、子供を王子とよびはじめたことが書いてある。
 すると「入鹿臣□□林太郎」という欠字には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御世葵卯年と明記しているから。
 ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、
「□□□天皇御世乙巳年六月十日」
 と書きだしているね。書紀によれば、これは皇極四年である。皇極四年ならば、法王帝説は、先の条にある如く「飛鳥天皇御世乙巳年」と書く筈だね。ところが、飛鳥天皇は二字だが、□□□天皇は三字だよ。そして、それにつづいて、その六月十一日に、
「近江天皇、殺於林太郎□□、以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之」とある。
 近江天皇はまだその時は中大兄王で天皇ではないが、後に天皇たるべき人をはじめから天皇とよんでいる例はこの本ではしょッちゅうのことだ。怪しむに足らん。まだ天皇になる前にも後の天皇を天皇とよぶのがこの本の例であるのを知ると、「入鹿臣□□林太郎」も「林太郎□□」も、どっちも、やっぱり天皇か皇太子、もしくは天皇か皇太子を特に蘇我流にした同じ意味の別の語であったかも知れないね。
 皇極二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね。即ち、
「□□□天皇御世乙巳年」は皇極天皇の飛鳥ではなく、甘梼岡だか林太郎だか他の何物だか知らないが、蝦夷天皇か入鹿天皇を示すどれかの三字があったのだ。私はそう解くね。この欠字の特殊な在り方によるのみではなく、日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起しているからです。きわめて重大な理由がなくて、このような妖しい記述が在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿は自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をする筈はないね。その程度のことは、否それよりも重大な肉親の皇位争い、むごたらしい不吉な事件はほかにいくつもあるではないか。
 蝦夷入鹿とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に焼滅せしめたのに相違ない。
 そして、書紀全篇の中で、ただ一ツ調子が妖しく乱れて、テンカン的にざわめき立っているのがこの一ヶ所であるのを知れば、書紀成立の重大な理由の一ツが天孫たる天皇家の日本の首長たる神慮や定めを創作するにあったというその最も生々しい原因が蘇我天皇の否定、蘇我天皇よりも現天皇の優位を系譜的に創作する必要に発していたと見てよかろう。蘇我天皇の否定、現天皇の優位を理窟づけることは、さしせまった大問題であったのだ。ことその条に至るや妖しくも調子が乱れてざわめき立たざるを得なかったほどの大問題であったのさ。蘇我氏とともに蘇我氏の国記を亡して、自分の国記を創る必要があったのだろうね。
 歴史家でも学者でもない私は、文章の調子から歴史をタンテイするという妖しい手口を用いたのですが、しかしタンテイするためにムリにその手口を発明したわけではないのです。たまたま書紀にそういう文章があって、同時に上宮聖徳法王帝説という妙に冷静な欠字をもった書物があったということが、おのずからムラムラと私にタンテイの意慾を起させただけのことです。しかし、こういうことをあばくことが現天皇家に何の影響もありうべからざることは前章でルル述べた如くであり、歴史というものは、たとえ素人のタンテイ眼を用いてでも、その正しい史実をもとめるべく努力することが理にかなっているということを明にしたかったからであります。学問は真理をもとめて真理を語るものであるが、つとめて真理をごまかそうと努力している学問は日本歴史あるのみ。日本の史家が真理をもとめようとしないから、素人タンテイが柄にもなく言わざるを得ないのです。素人タンテイのナマクラ手口に対する諸先生のお叱りは覚悟の上であります。
 さて、かりに私のタンテイの結果を認めることにすると、書紀に於いて蘇我氏が素性のない成り上り者ではなくて、建内宿禰すくねという怪人物の子孫に表現されているということには、いろいろと意味がありそうだね。しかし建内スクネとは何者ぞや。これはどうにも分りッこないね。まったく神話という太古の湖の底の存在だもの。湖面にはなんの手がかりがあるものですか。
 だが、記紀から判断すると神功皇后は神がかりして予言などを行うミコや教祖の実力を具えていたようだ。すると建内スクネは教祖の参謀長、否、総理大臣かね。それにしては、その後のスクネが妙に忠実な番頭で、現代に於ける教祖の総理大臣の性格とは大そう、ちがっている。彼は蔭で教祖を支配している総理大臣ではなくて、熱心な信徒的な性格のようでもある。そうかと思うと現代の教祖総理大臣よりも抜け目のないようなところもあるね。この人間は非常に複雑な、多くの人間のタイプや性格を一人で背負っているようなところがある。時に甚しく単純だから、そうきめてかかると手に負えない。よって何人ものスクネが子々孫々いたのだろうというのは昔の史家にだまされている見方であろう。このへんは歴史をのべているのじゃないね。まさしく神話なのですよ。歴史らしく解釈しようとするのは妙な話というべきだろう。神話がいけなければファーブルでもよろしい。
 しかし、古代史の上ではこれほど大きな怪人物でありながら、建内スクネ古墳と称してウネビに現存するものは大そうチッポケであるし、史上で表現された功績にも拘らず、彼を祀った大神社というものもなく、つまり、歴史にあるが如き建内スクネという大人物の大行跡が庶民の心に深く長く残って敬愛され礼拝されたという形跡の見るべきものが、あんまりないようである。建内スクネが大忠臣、大功臣として仰がれているのは、むしろ現代が最も甚しく、つまり、現代は記紀にまんまと騙されているような気がするね。つまり、歴史として読むからだ。
 私は記紀の史家の作為があるような気がするな。実在していた(伝説的にも)スクネという人物は一向にパッとせず、民衆にあんまり関心を払われていない人物だったんじゃないかな。記紀の史家の巧妙なイタズラと巧妙な構成が成されているような気がする。ああいう怪物的な大存在が当時の民衆の心に深く宿っていないらしいのが、どうにも怪しいじゃないか。裏でカラカラと哄笑している健康でたくましい古代の史家の野性的な笑声がきこえてくるような気がするよ。
 むしろ蘇我氏の祖先は大国主系統かも知れないと私は空想するのである。蘇我氏の地たる飛鳥のカンナビ山(イカズチの丘)はミモロ山ともいうね。大国主の三輪山がミモロ山である。馬子の頃に三輪逆という三輪の一族らしくて妙に怖れ愛されているような奇怪な人物がちょッと登場して殺されるが、馬子はこれとジッコンらしいね。ヒノクマの帰化人はじめ多くの帰化人にとりまかれて特殊な族長ぶりを示していたらしい蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的であるですよ。私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見るから、蘇我氏に関する限り、その表面に現されていることは、そのままでは全然信用しないのである。
 ともかく、大和を中心にした夥しい古墳群(ミササギも含めて)は小心ヨクヨクたる現代人のドギモをぬくに充分な巨大きわまるものだね。玄室の石の一ツの大きさだけでも呆気にとられるね。それらの古墳は、どれが誰のもので、誰の先祖だか、実はてんで分るまい。記紀が示した系譜なるものが、実は誰が誰の祖先やら、人のものまでみんな採りいれたり、都合のわるいのを採り去ったりしているに相違ないと思われる。
 しかし、大そうな豪族がたくさん居たことだけは確かだね。その子孫はどこへどうなったものやら。ヒノクマの帰化人などもどこへどうなったものやら私自身がそれを探りだす能力はとてもないね。
 八木で電車を降りるとき、五尺五寸ぐらいもあって肉づき美しく、浄ルリ寺の吉祥天女そっくりの白いウリザネ顔のお嬢さんを見た。あの土地で、否、あの土地へ着いた時に見たから、甚しくおどろいたね。しかし、幻でした。なぜなら、その時以来は目を皿にして行き交う男女の顔や形を見つづけたが、昔をしのぶ男女の顔形はついに再び見ることができなかったからです。
 当り前の話だろうね。幻さ。すべての時間が。

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邪馬台国の前身・倭面土国(スサ王の国)