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「ゴジラ岩」見出した記者が見た奥能登の今 能登半島地震上空ルポ
能登半島地震による海岸隆起で、観光名所「ゴジラ岩」が陸続きになったと話題になっている。実はこの岩を最初に見いだしたのは当時、珠洲市に勤務していた本紙の沢田敦記者(現名古屋社会部デスク)だった。20代の若手記者として取材に走り回った思い出の地。地震で様変わりしてしまった奥能登の今を沢田記者が上空からルポした。
「海からゴジラ出現」21年前に
快晴。11日、久々に広がった青空だった。ヘリで半島北部の「外浦」を東へ進み、家屋の倒壊や崖崩れが目立つ大谷町からさらに1キロほど。赤神海岸の沖にゴジラ岩はある…はずだが、いくら目を凝らしても見当たらない。
崩れてしまったのか―。いったんその場を離れ、しばらくして戻ってくると沖ではなく、岩場に交じって屹立する姿が確認できた。ゴジラ岩は高さ2・5メートルほど。地震前も干潮時にほぼ陸続きになることはあったが、この日は満潮に近い潮位でも完全に陸からつながっていた。
北陸中日新聞珠洲通信部に勤務していた2003年4月、「ゴジラに似た岩がある」と地元の知人に教えてもらい、「海からゴジラ出現」という小さな記事を書いた。「ゴジラ岩」の存在がメディアで報じられたのはその時が初めて。計らずも名付け親になってしまった格好だが、ちょうど「ゴジラ」の愛称で親しまれた石川県出身の松井秀喜さんが渡米、大リーグのヤンキースに入団した年で、一躍、観光名所になった。
珠洲を離れた後、案内標識や駐車スペースが設けられ、テレビ番組や観光ガイドブックでも紹介されるように。人気は全国区になり、なんだか自分のことのようにうれしかった。4年前に珠洲を訪れ再会したが、日本海の荒波にもまれながらも、変わらない姿に安堵していたのに…。
外浦の奇岩の多くは、地震で形を変えてしまった。輪島市の曽々木海岸にある「窓岩」は崩落し、アニメキャラクターにちなんで「トトロ岩」と呼ばれる同市門前町の「剱地権現岩」の一部も崩れた。
しかし、震源から程近いゴジラ岩は陸続きにはなったものの、耐え抜いた。復興の道のりは険しいが、いつかまた人々が集い、「思ったより小さいな」と笑い合える日が来ると信じている。
復興への道のり 見続けていきたい
半島の先端に位置する珠洲市三崎町の寺家漁港では10隻ほどの船が岸や岩礁に打ち上げられ、海上で裏返ったままの船も目に入った。4メートルを超える津波が襲ったとみられる海から山手に目を転じると、がれきの山や崖崩れの跡が無数に広がっていた。
今も目に浮かぶ光景がある。
かつて、この地区で原発の建設が計画された。1975年に持ち上がり、電力会社が事実上断念するまで30年近く。住民は推進派と反対派に分かれ、時にののしりあった。
この地区だけじゃない。「断念」が正式に決まった数日後、もう一つの原発予定地だった高屋町で、突然、冬の豪雨に見舞われたことがある。慌てて駆けだすと、老夫婦が小屋に招き入れてくれた。
「若い人はいなくなった。魚だってとれんようになった。原発までなくなってしもうた」。計画が進めば、立派な道路や建物ができる―。原発にすがるしかなかった老夫婦の問わず語りは、たたきつける雨音にかき消された。計画は消え、住民同士の溝だけが残った。
あれから20年の時が過ぎ、2万人だった人口は1万3千人以下に。高齢者は半数を超えた。どうにか分断を乗り越え、ゆっくりながらも歩を進めてきた町を、こんどは地震が襲った。いつもは立山連峰をかなたに望む静かな海が豹変してしまった。
珠洲では今も、多くの人が避難生活を送る。奥能登の厳しい寒さにも、手を取り合って暮らしているという。「能登はやさしや土までも」。あの日、軒先を貸してくれた老夫婦のように、助け合いの心が息づくのが能登だ。
寺家から半島南側の「内浦」に回ると、さらに何隻もの船が岸に打ち上げられていた。「軍艦島」と呼ばれた見附島は、土砂が崩れ落ちてやせ細り、見る影もなくなった。
本当に復興できるのか―。そんな思いはすぐに振り払った。容易ではないだろうが不可能でもないはずだ。穏やかだがしんの強い能登の人たちの心意気と美しい海と山、復興を信じ、いち個人として、記者としてその過程を見続けていきたい。
- 沢田敦
- 社会部

1997年、中日新聞社入社。2002~04年、珠洲通信部に勤務し、揺れ動く原発計画の取材の合間を縫って「ゴジラ岩」の存在を初めて報じた。その後、名古屋、東京の社会部などで主に事件や裁判取材を担当。現在は、名古屋社会部デスクを務める。
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