日航機墜落事故から39年…元JAL客室乗務員が、今も「事故ではなく事件」と言い切るワケ「レコーダー開示訴訟では裁判長が突然交代するなど、不可解な点だらけです」
垂直尾翼に当たったのは自衛隊のミサイルだった!?
──青山さんは圧力隔壁の破壊ではなく、垂直尾翼(後部に設置され飛行機の左右のバランスを保つための縦方向の翼)になにかが当たったのが事故の原因と訴えていますが、その根拠はなんでしょうか? 2013年に運輸省の航空事故調査委員会が作成した「事故調査報告書別冊」がネットにアップされ、飛行中の123便の垂直尾翼に、突如外部から11トンの外力が加わったとはっきりと書いてあったんです。決定的証拠です。圧力隔壁の破壊ではなく、最初に垂直尾翼が破壊されて操縦不能に陥ったのです。 ──なにが当たったと考えられるのでしょうか? 当時、防衛庁は国産ミサイルの開発に力を入れていました。「自衛隊がオレンジ色に塗られた模擬ミサイルで試射実験を繰り返し行なっている」と事故前日の新聞にも出ています。実際に123便の垂直尾翼の一部を相模湾から回収した護衛艦「まつゆき」も事故当日に出航しています。記事にあるように模擬ミサイルの試射を行なっていてもおかしくはありません。 実は1968年にエールフランス航空1611便が、エーゲ海で演習中のフランス海軍艦艇から発射されたミサイルで墜落させられた事件が起きています。しかしトイレの火災を事故原因とし、本当のことは長らく隠蔽されてきました。状況が似ていませんか? 123便の乗客が窓から外を撮った写真に黒い物体が写っていました。これを専門家に分析して拡大してもらったら結果、オレンジ色でした。模擬ミサイル(あるいは訓練用の無人標的機)もオレンジ色をしています。つまり最初に垂直尾翼に当たったのが、このどちらかという可能性があるわけです。
政府はすぐに事故現場の特定していた!
──事故現場の特定に時間がかかり、実際に自衛隊の救助活動が行なわれたのは、発生から10時間以上も経ってからです。なぜ大幅に遅れたのでしょうか? NHKをはじめ多くのメディアが事故現場不明とするなか、1985年8月12日付け信濃毎日新聞号外に「墜落現場は群馬県上野村山中とみられる」と書いてあります。なぜ大手マスコミは特定できなかったんでしょうか? NHKは違う場所を報道するなど二転三転していますが、わざわざNHKに「上野村が事故現場」であると電話をかけた人もいます。現場を伝えているのに、それが一切ニュースで報道されていません。 しかも墜落前の123便を自衛隊のファントム2機が追尾しているのを目撃した人たちもいます。つまり自衛隊は場所を特定できたはずです。 警察の冊子「上毛警友」(1985年10号)に現役の自衛隊員がファントムを見たという証言が載っています。また、地元の小学生による「小さな目は見た」(1985年9月)という文集には、生徒とその家族も含めて総勢225名の目撃談が載っています。真っ赤な飛行機が飛んでいたとか、飛行機が追いかけっこをしているとか、たくさんの人たちが見ています。しかし、この時間帯にファントムが発進したという事実は、自衛隊の公式記録には残っていません。 また、事故から10年後の1995年には、当時米空軍第三四五戦術空輸団に所属していた元中尉のマイケル・アントヌッチ氏が墜落の20分後に御巣鷹の尾根に煙が上がるのを確認したと証言しています。彼は沖縄から横田基地にC130輸送機で戻る途中、大島上空で123便の機長の緊急事態発生の無線を傍受しています。 アントヌッチ氏の報告を受けて米軍ヘリが上野村に向かいますが、隊員がまさにロープで降りようとした直前で、なぜか帰還命令が出されています。目の前に犠牲者がいるのにですよ。政府にとって都合の悪い証拠隠滅のために救助が遅れたわけです。 生存者の落合由美さんは、事故直後何人もの乗客が生きていたと証言しています。もっと早く救助活動を行なっていれば、助かった命もたくさんあったはずです。
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