日航機墜落事故から39年…元JAL客室乗務員が、今も「事故ではなく事件」と言い切るワケ「レコーダー開示訴訟では裁判長が突然交代するなど、不可解な点だらけです」
見解内容の多くが間違いですが一例をあげると、名指しされ…解説を見る
1985年8月12日午後6時56分すぎ、乗客、乗員合わせて524名を乗せた日本航空123便(羽田発~大阪行)が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、520名もの命が奪われた。事故調査委員会はボーイング社の修理ミスによる後部圧力隔壁(飛行機の後部位にある、客室の空気を漏らさないための蓋構造物)の破壊と事故原因を結論づけたが、これに長年、異を唱え続けるのが、元日本航空客室乗務員の青山透子氏だ。「墜落は事故ではなく事件」と言い切る彼女を直撃した。 【画像】日航機123便の乗客が撮った写真に写っていた"オレンジ色のもの"とは…
ずっと事故原因は「圧力隔壁破壊」だと信じていた
──青山さんは日本航空客室乗務員を経て、ノンフィクション作家として日航機123便墜落事故に関する著書を7冊も出されています。でも、青山さんの名前をネットで検索すると、「実在しない」との関連ワードが出てきて。顔写真もないですし……。 青山透子(以下、同) いますよ(笑)。弁護士会や大学で何度も講演会を行っています。 ネットでは知らない人から無責任にいろいろといわれてますでしょ。ちなみに青山透子はペンネームです。故・黒澤丈夫さん(墜落現場の上野村の村長)に名付けてもらいました。 ──123便の墜落事故が起きた当時は、なにをしていましたか? わたしは日本航空(以下JAL)のキャビンアテンダント(客室乗務員)で、北品川のスカイハウスという女子寮にいました。8月12日の午後7時26分頃123便が消えたというニュース速報が流れ、寮の電話が一斉に鳴り出しました。各部屋に黒電話が1台ずつ引いてあったので、ほんとにスゴい音で。家族や親戚が心配になって電話をくれたんです。 生存者(わずか4名)のひとり・落合由美さんの部屋がわたしと同じフロアでした。彼女の部屋から、けたたましく電話の音がずっと鳴り響いていたのを覚えています。翌日、新聞に先輩たちの顔写真と氏名が載っていて、誰が亡くなったか知りました。大変お世話になった先輩たちだったので、体中が凍りつきました。 それから二十数年経って、123便の墜落に思いをはせる編集者を紹介され、先輩たちとの思い出話が中心のエッセイを書くことになったんです。一旦、書き終えると、本としてのボリュームが全然足りないので「もっと事故について調べてみてはどうか」と編集者に言われ、情報を集めることにしました。 ──どんなことから調べ始めたのですか? なにせ素人ですから、なにからはじめていいのかわからない。そこで図書館に行って、新聞の逆読みをしました。何紙も比較しながら日付の後ろの記事から読んだのです。 そうすると、記事からいろんなことが浮かび上がってきました。例えば、ボイスレコーダーやフライトレコーダーの解明が済んでいないのに、「事故原因は後部圧力隔壁破壊(飛行機の後部位にある、客室の空気を漏らさないための蓋構造物)」という報道があったんです。 操縦室でどんな会話がされたか、飛行機がどんな動きで飛行したか、そういうことを調べていないのに、判断を下していたわけです。そこからなにか隠蔽しているのではないかと思うようになりました。実は私もそれまでの二十数年間、事故原因は圧力隔壁と思い込んでいました。
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