korekiyo
高橋是清とMMT
経済産業省 中野剛志
https://ies.keio.ac.jp/upload/Nakano_Paper.pdf
高橋には、「およそ経済の要は物を安くし、人を高くするにある」72のであり、「『人の働きの値打』をあげることが経済政策の根本主義」73だという確信があった。「人の働きの値打ち」を上げるというのは、賃金を上げることを意味する。それは、「物の値打だとか、資本の値打のみを上げて『人の働きの値打』をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果になる」という理解となる。74
73 高橋(2010, p.189)。
74 高橋(2010, pp.188-9)。
高橋是清 『随想録』、中公クラシックス、2010年 ★
高橋是清 『経済論』、中公クラシックス、2013年
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経済難局に処するの道(昭和十年一月)
…
すなわち資本が、経済発達の上に必要欠くべからざることはいうまでもないことであるが、この資本も労力と相俟って初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいえば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。ゆえに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信している。すなわち「人の働きの値打」をあげることが経済政策の根本主義だと思っている。またこれを経済法則に照して見ると、物の値打だとか、資本の値打のみを上げて「人の働きの値打」をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる。
(昭和十年一月)
経世済民大学院生
@LiberalismStu
https://twitter.com/liberalismstu/status/1523639640346877952?s=21
高橋是清「資本が、経済発達の上に必要欠くべからざることはいう迄もないことであるが、この資本も労力と相俟って初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいえば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。」
「ゆえに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信している。即ち『人の働きの値打ち』をあげることが経済政策の根本主義だと思っている。 」
「高橋是清の経済政策と現代への教示」講師:経済評論家 中野剛志氏 責任ある積極財政を推進する議員連盟 第1回勉強会 令和4年2月24日 youtu.be/UBvqmoWTuF8 より
評傳. 高橋是清 - 251 ページ
Nihon kinyūshi shiryō - 第 6 巻
高橋是清と国際金融 - 第 2 巻 - 331 ページ
高橋是清 - 225 ページ
高橋是淸と国際金融 - 第 2 巻 - 331 ページ
全銀協の歴史 | 組織概要 | 一般社団法人 全国銀行協会
手形交換所 - Wikipedia
手形交換所
手形交換所略史
日本では1879年12月に16の銀行が参加した大阪手形交換所が最初のものであり、以後手形法制の整備に伴って、東京でも1880年10月に為替取組所が創設され、1883年9月に東京銀行集会所の機関である手形取引所が創設、1887年に東京手形交換所がその下部機関として発足した。1891年3月には日本銀行も参加してロンドンで行われていた銀行が日本銀行に持つ当座預金を通じた振替決済が導入された。また、この時、東京銀行取引の直属の機関となり、東京交換所と改称した。
その後、1897年に神戸、1898年に京都、1900年に横浜、1902年に名古屋と各地の主要都市に手形交換所が設置されていく。1903年には全国の手形交換所の代表による第一回各地交換所組合銀行連合会も結成された。1900年、東京交換所は東京銀行集会所から分離し、1911年の商法改正によって手形交換所における小切手の支払呈示に関する法的保護規定の導入に伴って、他の手形交換所とともに司法大臣指定機関となる。この際、「手形交換所」という用語が用いられていたことから、第一次世界大戦後に「手形交換所」を正式名称とするものが増加し、1925年には東京交換所も旧称である東京手形交換所に戻し、翌年12月には社団法人となった。また、手形交換以外にも預金利子協定や手数料協定なども扱うようになった。
1940年に常設の全国組織として全国手形交換所連合会を結成するが、戦時経済体制強化の下で行われた1942年の金融統制団体令によって強制的に解散させられた。ついで1945年の6月には本土決戦に備えて全ての手形交換所は解散させられて日本銀行の業務とされた。だが、8月の敗戦で手形交換所再建論が浮上し、1946年1月に東京銀行協会の機関として東京手形交換所が再建され、同年4月までに日本全国の手形交換所のほとんどが地域の銀行協会の下で再興された。
戦後も手形交換所の整備が進められ、東京手形交換所では1971年に磁気インク文字認識を採用して従来の立会為替方式を廃止した。
司法大臣・法務大臣指定の手形交換所は1912年の10、手形交換所が一時廃止された1945年には56、1980年には184、2003年には162に達している。
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1935年5月6日
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「朝礼訓話」高橋是清蔵相 | NHK放送史(動画・記事)https://t.co/epBD4jiMSn
— 地域通貨花子1 (@TiikituukaHana) January 18, 2022
1935年
『朝礼訓話』は学校の朝礼の時間にあわせ放送された学校放送番組。この録音は、当時の大蔵大臣・高橋是清が自宅から生放送したものである。高橋是清は、この放送の翌年二・二六事件で凶弾に倒れる。 pic.twitter.com/1hVOkoqEiV
含まれない: 1935 | 含めて検索: 1935
工業所有権制度百年史 - 第 3 巻 - 345 ページ
日本国債:
発明特許の日本史: 礎石を置いた高橋是清と高峰譲吉の人生 - 135 ページ
天佑なり: 高橋是清・百年前の日本国債 - 第 2 巻
官界 - 第 1~4 号 - 36 ページ
参考:
ビル・ミッチェル「ケインズに先駆けて大恐慌から日本を救った男、高橋是清」(2015年11月17日) — 経済学101
https://econ101.jp/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%80%8C%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AB%E5%85%88%E9%A7%86%E3%81%91%E3%81%A6%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%8B/
Takahashi Korekiyo was before Keynes and saved Japan from the Great Depression – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory
http://bilbo.economicoutlook.net/blog/?p=32355
「国際経済情勢とわが国の非常時対策」『高橋是清 経済論』428頁でケインズらの金本位制批判(「金本位は専制的暴君と化するに至りたり…」)を紹介。昭和8年4月21日手形交換所聯合会での演説より。
鈴木隆『高橋是清と井上準之助』223頁参照。
ただし同じ演説内のホートリーへの言及の方が目立つ。7頁ではスミスとリストにも言及。
検索結果
中央銀行會通信錄 - 第 362~365 号 - 287 ページ
以下は高橋是清『随想録』より
緊縮政策と金解禁
所謂緊縮政策について
緊縮という問題を論ずるに当っては、先ず国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。
例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約によって、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減るわけであって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。ゆえに国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をして貰った方がよいのである。
さらに一層砕けて言うならば、仮にある人が待合へ行って、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。これは風紀道徳の上から云えば、そうした使い方をして貰いたくは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散ばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、また料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれ等の運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。この分は、すなわちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。しかしてこれらの代金を受取たる農業者や、漁業者、商人等は、それを以て各自の衣食住その他の費用に充てる。それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出でない。
しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。ゆえに、個人経済から云えば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云えば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、むしろその方が望ましいわけである。ここが個人経済と、国の経済との異っておるところである。
以上は、もとより極端な例を挙げたに過ぎない。かく言えばとて、私は待合行きを奨励する次第では決して無い。ことにそれだけの余裕なきものが、借金までして浪費する事は、無論よく無い事である。ただ私がここに待合の例証を取ったのは、世に最も浪費なりと称せられている、この待合遊びについてさえも、これを個人経済から見る時と、国の経済から見る時とは、大変な相異がある事を明かにしたまでである。
…
金解禁の準備は自主的なるべし
近ごろ世間で唱えておるところを聞くと、所謂緊縮節約は金解禁のためである、と云っている。それは先ずよいとして、この金解禁についても、我が国民は、もっと慎重に考えるの必要がある。やれ対米為替が上ったから、やれ英米の金利が下ったから、金解禁に好都合になったと、有頂天になっている者もあるが、それは少し早計でないかと考える。もとより今日金解禁をなすについては、外国市場の金利や為替相場等の影響も考慮せねばならぬが、もっと、大事な事は、これを自主的にきめる事である。
しかして自主的の準備とは、我が国の国際貸借の関係において、支払いの立場に立たぬよう、国内の産業、海運その他の事業の基礎を確立する事である。この基礎が出来て初めて解禁という事が行われ得るので、その準備なく、徒らに為替相場や、外国市場の金利の低下を頼りとして、外国の御蔭で解禁せんとするがごときは、国家永遠の利害を考えぬ謬見と云わねばならぬ。
(昭和四年十一月)
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https://twitter.com/noahpinion/status/1351743063425601536?s=21
2021
是清
korekiyo
戦前昭和の軍部台頭を招いた「健全財政」の呪縛 | 国内経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
中野剛志
https://nam-students.blogspot.com/2020/02/2020131-mmt.html
(高橋是清とMMT)
20200516是清論
https://iitomo2010.blogspot.com/2020/05/20200516.html?zx=6b7dcf2877c61520
2020年5月23日
「健全財政の打破」で世界恐慌を克服した政治家 | 国内経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
「健全財政の打破」で世界恐慌を克服した政治家
高橋是清ならば「100兆円規模の財政出動」も
1930年代の世界恐慌にも匹敵するともいわれるコロナ危機。この危機を脱するにはどうすればいいのだろうか。
世界恐慌に挑んだ高橋是清
コロナ危機については、1930年代の世界恐慌に匹敵する恐慌であるという認識が共有されている。
すでに3月24日の段階で、ハーバード大学のカーメン・ラインハート教授は今回の経済危機を世界恐慌以来最悪と評し、短期的な回復は困難と述べていた(「世界経済は大恐慌以来最悪の状態」Bloomberg 2020年3月25日)。
4月9日には、国際通貨基金(IMF)のクリスタリナ・ゲオルギエバ専務理事も、世界経済は、世界恐慌以来の悪化となるという見通しを述べている(「『世界は大恐慌以来の景気悪化』IMF専務理事が警鐘」日本経済新聞 2020年4月9日)。
もちろん、世界恐慌とコロナ危機とでは、違いもある。しかし、失業の増大、所得の減少、需要の消失、そしてデフレ圧力という点においては、同種の経済危機であることは間違いない。したがって、我々は、1930年代の世界恐慌の経験から、多くを学ぶことができるはずだ。
世界恐慌を研究した経済学者ジョン・K・ガルブレイスは、恐慌下において「肯定的に捉えられていたいかなる政府の経済政策も否定する」ような、「固定概念を打ち破る思考の偉業」が達成されると述べた。
1930年代、その「固定概念を打ち破る思考の偉業」を最初に成し遂げたのは、誰あろう、我が国の高橋是清である。
「健全財政の打破」で世界恐慌を克服した政治家
高橋是清ならば「100兆円規模の財政出動」も
1931年、高橋は、5度目となる蔵相に就任し、金本位制からの離脱と金兌換の停止、金融緩和、日本銀行による国債の直接引き受け、そして財政赤字の拡大など、ケインズを先取りしたケインズ主義的政策を断行した。その結果はまことに劇的なもので、1936年までに国民所得は60%増加し、完全雇用も達成したのである。
「健全財政」という固定概念
当時、高橋が打ち破った「固定概念」の1つは、国家予算の収支均衡を原則とする健全財政論であった。だが、高橋が90年前に破壊したはずの健全財政論は、今日の日本においてもなお、強固な「固定概念」として政策当局や経済学者、そして世論を支配している。
例えば、昨年、MMT(現代貨幣理論)が我が国にも広く紹介されたが、MMTこそ、健全財政論を否定する理論であった。
しかし、我が国の政策当局や経済学者の大多数は、MMTを一蹴し、健全財政論に固執し続けた。それどころか、この世界恐慌以来のコロナ危機の渦中にあってもなお、「固定概念」を打ち破ることができずに財政支出を惜しみ、財政赤字の拡大を懸念している。
しかし、海外に目を転じれば、憲法で政府債務を制限しているドイツですら、制限を停止し(「財政目標『放棄しない』 麻生財務相」時事ドットコムニュース 2020年4月13日)、EU(欧州連合)も、加盟国に課していた財政健全化目標を一時停止して(「EU、財政ルール一時停止 経済縮小『09年に匹敵』」日本経済新聞社 2020年3月21日)、大規模な財政支出へと舵を切っているのである。
ところが、4月13日、麻生財務相は、財政健全化目標は放棄しないと述べている(「財政目標『放棄しない』 麻生財務相」時事ドットコムニュース 2020年4月13日)。
麻生財務相とは対照的に、高橋蔵相は、1934年、健全財政論はもはや時代遅れだと喝破し、均衡予算に固執していると、国家間競争の敗者となると警鐘を鳴らしていた。
(中略)今日の如く政府自ら事業をなし、あるいは民間の事業を助けていかねばならぬ―各国経済の競争場において負けてはならぬことになつて、歳出はただ一般の行政費だけで済ますことが出来なくなつた。ここにおいて事実上入るを計つて出づるを制するといふことが行はれない時代になつてきたのである。
(中略)もしそれがいかぬといつてただ納税のみによつて政府の仕事をすることになれば、国際間の経済競争に落伍者となるよりほか仕方がない。今日の時勢の変化からこれはよほど研究すべき価値がある。(経済論)
さらに高橋は、健全財政論を是とする主流派経済学を批判し、財政赤字の拡大は恐れる必要はないだけでなく、国富を増大させるためにはむしろ必要であると論じた。
https://toyokeizai.net/articles/-/349508?page=3
「健全財政の打破」で世界恐慌を克服した政治家
高橋是清ならば「100兆円規模の財政出動」も
今日までの経済学は、二百年以前の英国から起つて来た。これは当時の英国の経済事情を背景にしたものだ。だが、このマンチェスター経済学((注)自由主義経済学)を、私は、いつも動かざる真理だとは思つてゐない。
そこで今までの考へだと、財政は常に収支の均衡を保たねばならぬと云ふ。けれどもこの国を見ても、初めはなかつた借金がだんだん増えてゐる。戦争とか天災とか、思はぬ事件がどこの国にでも、次ぎ次ぎに起るからだ。しかしさう借金が殖えて行く結果はどうなつたかと云ふと、一面産業は大いに進歩し、国の富も殖えたので、国債の増加も苦にならない。十分、その重みに堪へる力が出来て来たのだから赤字公債と云ふものもさう理屈通りに気に懸けることはない。場合に依つては、借金をしても進んだ方が善い。又已むを得ず借金をしなければならぬ場合もある。しかしその結果、国民の働きが増せば、茲に富が出来る。前の借金くらゐ何でもない。(随想録)
今日、高橋が財務大臣であれば、このコロナ危機に処するため、100兆円規模の財政赤字も躊躇しなかったであろう。
当時、膨張する経済対策費や軍事費、あるいは国債の利払い費を支弁するため、増税が必要であるという議論があった。軍部もまた、軍事費を増大させるため、増税を主張していた。しかし、高橋は、増税を断固拒否した。増税は、国民の購買力を奪うものだからだ。
しかしながら現内閣が時局匡救、財界回復のために全力を傾注しつゝあるこの際、増税によりて国民の所得を削減し、その購買力を失はしむることは、折角伸びんとしつゝある萌芽を剪除するの結果に陥るので、相当の期間までこれを避くるを可なりと認めたる次第であります。(経済論)
「固定概念」を打ち破る思考
安倍政権は、2014年に消費税率を8%に引き上げて、「折角伸びんとしつゝある萌芽を剪除するの結果」に陥り、さらに2019年にも消費税率を10%に引き上げ、深刻な景気後退を招いた。高橋が財務大臣であったならば、絶対にありえない判断であろう。
今日、財政赤字を拡大してよいとするMMTの主張に対しては、多くの経済学者が、まるで示し合わせたかのように「インフレが制御不能になる」という批判を繰り返している(「MMT『インフレ制御不能』批判がありえない理由」東洋経済オンライン 2019年5月29日)。
どうやら、1930年代当時、高橋に対しても、同じような批判があったようだ。これに対して、高橋は、こう反論している。
能く世の中でインフレーションと言ふが、インフレーションの弊害は今のところ少しもない。それから公債は出るけれども、その公債を出して政府が使つた金はいろいろ働きをして又再び中央銀行に戻つて来る。さういふ訳で兌換券発行高といふものは、季節的に月末とか季節末には殖えるが、平常はさう俄に殖えない。一方に於ては徐々として需要供給の原理に基いて物価が上がるものもある。けれどもこれもさう急激な騰貴はない。(随想録)
実際、その通りで、高橋が蔵相の間、インフレ率は年率3%未満であった。
こうして、高橋は、高インフレを伴うことなく、世界に先駆けて、恐慌からの脱出に成功した。まさに、「固定概念を打ち破る思考の偉業」であった。
しかし、この令和の日本で、高橋のような「固定概念を打ち破る思考の偉業」を成し遂げられる者が、果たしてどれだけ現れるというのだろうか。
戦前昭和の軍部台頭を招いた「健全財政」の呪縛
高橋財政批判「3つの誤解」で学ぶ歴史の教訓
MMTと似ている「高橋財政」
前回も述べたように、高橋是清は、従来の健全財政路線を転換して積極財政に転じ、国債発行を増発し、財政支出を拡大することで、1930年代の恐慌を克服した。
しかも、完全雇用を達成しただけでなく、インフレも制御することに成功していた。この「高橋財政」は、今日のMMT(現代貨幣理論)の発想によく似ていた。
ところが、「高橋財政」については、次のような批判が根強くある。
「高橋財政の下では、日銀が国債を直接引き受け、財政支出を拡大させたことで、財政規律が失われた。その結果、軍部による軍事費の増大に歯止めがかからなくなり、さらに敗戦後の激しいインフレにつながった」
高橋財政をこのように否定的に評価し、それを「歴史の教訓」と称する論者たちは、MMTについて論じる際も、高橋財政の「歴史の教訓」を引き合いに出して、歯止めのない財政膨張や激しいインフレのおそれがあると批判するのである(「MMT/収容所群島/高齢者と車」毎日新聞2019年5月23日付 東京朝刊、「太平洋戦争に学ぶ…話題の『MMT』がハイパーインフレを招くリスク」現代ビジネス 2019年8月14日)。
戦前昭和の軍部台頭を招いた「健全財政」の呪縛
高橋財政批判「3つの誤解」で学ぶ歴史の教訓
しかし、このような高橋財政に対する否定的な評価は、いくつもの間違いを犯している。
第1に、高橋財政が、日銀による国債の直接引き受けを行ったことが批判される。しかし、実際には、高橋財政下では、国債はいったん日銀が引き受けた後、その85%以上が民間に売却された(島倉原『MMTとは何か』)。要するに、その効果は今日、一般に行われている「国債の市中消化」とほとんど変わらないのだ。
第2に、高橋財政下で、確かに軍事費は増えた。しかしその一方で、高橋はインフレ悪化の予兆が現れると、軍事費の抑制に努め、軍部と対立したのである。その結果、高橋は軍部の怒りを買い、そのことが二・二六事件における高橋暗殺につながったと言われている。高橋は、文字どおり、命をかけて軍事費の膨張を抑えようとしていたのだ。
第3に、高橋は、増大する軍事費を支弁するための増税を認めなかったのに対し、軍部はむしろ増税を要求していた。その意味で、高橋よりも軍部のほうが、健全財政論に近いのだ。
このように、軍事費の膨張は軍部の暴走のせいであって、高橋財政によるものではないのである。ところが、これに対して、なお「高橋が財政規律を放棄したから、軍事費の膨張を求める軍部の暴走を抑えられなくなったのだ」などと解釈する論者もいる。
しかし、これは、ナイーブにすぎる見解である。
軍事費の膨張とインフレの原因
そもそも、いったん国家が戦争へ向かって暴走を始めたら、それを財政規律で抑止することなど不可能だ。例えば、かの満州事変は、高橋財政以前の財政規律の下で勃発している。
また、財政規律を守りつつも、軍事費を膨張させ、戦争を始める手段はある。例えば、増税をすればよいのだ。実際、軍部は高橋に増税を要求していたことはすでに述べた。また、植民地を搾取するという方法もある。あるいは、他国を侵略して富を収奪して軍事費に充当するという手段もある。この場合、財政規律は侵略を抑止するどころか、その原因である。
また、いったん戦争を決意した国家は、仮に財政規律が戦争の妨げになっているというのであれば、それをあっさりと撤廃するであろう。財政規律を優先して戦争を諦めるなどということはしないのだ。
実際、第1次世界大戦が始まると、参戦国は、軍事費拡張の妨げとなる金本位制を次々と離脱していったのである。
したがって、軍事費の膨張と敗戦後の激しいインフレの原因は、あきらかに台頭した軍部にあるのであって、高橋財政のせいではない。
戦前昭和の軍部台頭を招いた「健全財政」の呪縛
高橋財政批判「3つの誤解」で学ぶ歴史の教訓
ならば、軍部の台頭をもたらした原因は何か。結論を急げば、その原因こそ、健全財政にほかならなかった。
恐慌による中間層没落とファシズム
1929年に成立した浜口雄幸内閣は、井上準之助を蔵相に任命し、金解禁(金本位制への復帰)を成し遂げるため、緊縮財政を断行した。そして、世界恐慌が始まっていたにもかかわらず、1930年1月、金解禁を実行した。
その結果、日本経済は恐慌となり、倒産や失業が増大し、とくに農民と中小企業者は深刻な打撃を受けた。それにもかかわらず、井上は金本位制という財政規律を維持し、かたくなに健全財政路線を守り続けた。
こうして困窮し、没落した中間層は過激な労働運動や右翼的な運動へと走った。こうして軍部が台頭し、わが国は軍国主義化していったのである。
このように、恐慌(デフレ不況)によって中間層が没落し、ファシズムが生まれるという現象は、同時代のドイツなどでも見られた現象である。
実は、高橋はデフレが失業を増やし社会問題を引き起こすことを、1918年の段階ですでに理解していた。
増加すべき当然の理由ありて増加したる通貨を急激に収縮したりとせんがために物価は下落すべしといへども、物価の下落は一面において不景気となり、失業者の増出を予想せざるべからず。したがつて重大なる社会問題の発生を見るべし。(経済論)
また、社会問題が発生すれば、人心が乱れ、過激な思想が台頭することも高橋はわかっていた。次の引用は、関東大震災の翌年の彼の言葉である。
この秋に於て私などの深く考へて決心したるところは、このままただ移つて行けば、政治問題が軈ては社会的問題になり、社会的問題になつて、全国にこの不平が起れば、燎原の火のごとく人心は激昂して来る、いづれのところに止まるか分らない。それゆゑにこれを要約して申しますれば、吾々の考へはかくのごとく極端に国民の思想を激発しないやうに、政治問題の範囲に於てこれを喰止めたい。(随想録)
しかし、井上準之助による健全財政が招き寄せた軍国主義は、もはや高橋の手に負えるものではなかった。その軍国主義の凶弾によって、高橋は倒れたのである。
国民の失業や困窮を放置すれば、人心が乱れ、思想が過激化し、ファシズムを生み出しかねない。これこそが、本当の「歴史の教訓」である。
現在、世界恐慌以来、最悪と言われるコロナ危機にあって、倒産、失業、貧困が急増し、国民の生活に対する不安が高まっている。それにもかかわらず、政府は、財政健全化の呪縛にいまだにとらわれ、十分かつ迅速な経済対策を打ち出せていない。
これが何をもたらすのか。為政者は「歴史の教訓」に学ぶべきであろう。
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https://econ101.jp/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%80%8C%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AB%E5%85%88%E9%A7%86%E3%81%91%E3%81%A6%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%8B/
ビル・ミッチェル「ケインズに先駆けて大恐慌から日本を救った男、高橋是清」(2015年11月17日)
[Bill Michel, “Takahashi Korekiyo was before Keynes and saved Japan from the Great Depression,“ billy blog, Novenber 17, 2015]
このエントリーは、以前に明示的財政ファイナンス(OMF)について書いた一連のエントリーに追加された第二部のエントリーだ。前英国金融サービス機構長官のアデア・ターナーは、2015年11月5日から6日に掛けて、ワシントンで開かれたIMF主催の第十六回ジャック・ポラック年次研究会議で新しい論文–The Case for Monetary Finance – An Essentially Political Issue–をちょうど出した。その論文では明示的財政ファイナンスが提唱されていたが、私はその内容を受け入れられない。それについては明日書くだろう (それはPart2になるが、二つの記事は必ずしもつながってないだろう)。
アメリカのジャーナリストのジョン・キャシディが、2015年11月23日発行のニューヨーカー誌でターナーについて書いている最新の記事を紹介しよう。-Printing Money。題名からわかるように、全く中央銀行の操作ニュアンスを正しく理解してない。彼はまたジンバブエやワイマール共和国のホラ話を持ち出すが、その詳細に対して単に無知なだけでなく、たとえ金融操作が関係しようとも、あらゆる支出が―公的、私的問わず―インフレリスクを抱えている事を学んでいない恐怖のネオリベラリズムのお仲間のひとりであるのがわかっている。それについては明日書くとしよう。しかしながら、今日はその背景として、私が第二次世界大戦前の日本経済政策について進めているある研究について報告しよう。これは、とても為になるし、明示的財政ファイナンスについての私たちの考えに結びついているからだ。今日の話題はそれだ。
高橋是清–は日本の第20代内閣総理大臣で、1932年に臨時な地位に就任したのを最後に総理大臣を2回務めた。彼は以前、日本銀行で働いていた。ほとんどの場合において、1920年代後半から1936年の彼の死まで、さまざまな政権の下で財務大臣だった。
私は、現在取り組んでいる本の企画の一環として、これまでかなりの期間、日本銀行の公文書を研究し続けている。高橋是清が日本の経済政策を形成する上で主要な人物であった時代まで進んで、この事はアデア・ターナーやジョン・キャシディに判断を下したいコメントとちょうど偶然にも一致している。
そこで、この背景が明日に備えて助けになるだろうと思った。
高橋是清は、1931年12月13日に金本位制を離脱、中央銀行の与信を伴った大規模な財政政策を行ない、その結果として日本を救ったことで名高い。その事で非常に高い評価を受けている。彼の行動とそれに続いた結果は、明示的財政ファイナンスが望ましいかどうかを評価する基準への確固たる証拠を与えている。
明示的財政ファイナンスは、現代金融理論(MMT)の中心となる政策であり、その点をキャシディは不安を感じているようだ。その詳細については明日。
高橋是清に関して、1936年に所謂226事件で―そのクーデターは失敗したが― (就寝中に銃撃と刀による) 反乱陸軍将校たちによって彼が暗殺された事と彼の貨幣に対する洞察が関連していたとは考えてない。
実際には、彼は軍事費を削減していた、なぜならば、日本の軍国主義を弱めるのを望んでいた穏健主義者だったからだ。その為に敵対者たちを作った。彼らは武器を所持しており、その使い方を知っていた!
これの背景として、日本は1927年に大手民間銀行の経営破綻を経験した (昭和金融恐慌)。その結果として”戦後の破綻まで遡る、過去の欠陥に対して度重なる失敗の隠蔽とその場しのぎの手段”として見なされている。(高橋亀吉『大正昭和財界変動史』第二巻、東洋経済新報社、東京、P.739から引用)
言い換えるのなら、1920年代に日本に於いて、バンクスター(訳者注:顧客をだまして利益を挙げる強欲な銀行幹部)たちは退出させられた。高橋亀吉は、1920年代後半の昭和金融恐慌を機に生じた改革は高橋是清が導入した刺激策の補助になったと論じている。
高橋是清によって行なわれた重要な刺激策が三つあった:
1. 日本が1931年12月に金本位制を離脱した後に、為替レートは対米ドルで60%、対英ポンドで44%下落した。為替の下落は、1931年12月から1932年11月の間で起こった。それから日本銀行は1933年4月以降には平価を安定させた。
2. 彼は拡張的財政刺激策を導入した。1932年3月、高橋は日本銀行が政府国債(即ち、政府支出を促進するために関連銀行口座に入金して)を引き受ける政策を提案した。
この提案は、1932年6月18日に国会で可決された。国会では向こう12カ月の財政政策戦略を可決したが、それは100%日本銀行の信用によって賄われる財政赤字を伴うものだった。
日本銀行の歴史家の鎮目雅人は日本銀行レビュ-(2009年4月)にて論じていた。–両大戦間期の日本における恐慌と政策対応:金融システム問題と世界恐慌への対応を中心に – これによると
財政政策については、日本は1930年代の高橋財政期を通じて、他国に比べて大幅な財政赤字を継続していた。
1932年12月25日に、日本銀行は政府支出の“引受”を始めた。
3. 日本銀行は、1932年(3月,6月,8月)と数回、再び1933年初頭に金利を引き下げた。利下げはイングランド銀行とアメリカのFRBの利下げに追随したものだった。従って、金融政策の利下げは各国とも共通していたが、財政政策による刺激の大きさは日本独自のものだった。
鎮目雅人は次のように論じている:
高橋財政のマクロ経済的側面に着目する多くの論者は、ケインジアン政策の先駆的な成功例として、高橋財政に積極的な評価を与えてきた。例えば、キンドルバーガーは、高橋是清が典型的なケインズ政策を行ったと指摘しており、以下のように述べている。「彼の著述は、彼が1931 年『エコノミック・ジャーナル』誌のR・F・カーンの論文に当ったような徴候は何もないのに、ケインズ的な乗数機構をすでに理解していたことを示した」
[完全な出典は:鎮目雅人(2009)“両大戦間期の日本における恐慌と政策対応:金融システム問題と世界恐慌への対応を中心に “ 日銀レビュー,2009-E-2]
次のグラフは、鎮目雅人の論文から日本と他国のマクロ経済政策を比較した図表7を転載したものである。これを見れば一目瞭然だ。
他の通貨ブロック圏と日本との間の大きな違いは、財政政策にある。
これらの三つの異なる刺激策の相対的な影響については、この論文の中では相当の議論があるが、次の事は明らかだ:
1. 実質GDP成長率は急速に回復し、景気後退に陥った他国と比較して際立っていた。1932年から1936年の間に、実質鉱工業生産は62%と驚異的に増大した。
2. また大恐慌の初期において急落していた雇用は、高橋介入の後では力強く成長した。
3. インフレは、1933年の為替の下落の結果として急上昇したが、財政と金融刺激の下支えによって経済成長率が上がったので急速に低水準となり、1934年には安定した状態となった。
金本位制の放棄は、政府に大規模な国内刺激策を導入する余地を与えたので、これが決定的な最初の一歩になったのは明らかだ。金本位制下に於いては、これらの政策は対外赤字を押し出して金保有量の流出を招くので不可能だった。
私は、アメリカの共和党現職大統領候補の多くが、再び金本位制への復帰を訴えかけているのに注目している。各国がこのような為替レートの仕組みを採用した時の最悪の記憶を考えれば、彼らは明らかに何を語っているのかを理解してないだろう。
大恐慌を確固たるものにしたのは、金本位制である事は確かだ。 (景気後退によって輸入が停止した後の)1929年に、アメリカが貿易黒字を計上し始めたのに連れて、他の国々は資本流入を促すために金利を引き上げなければならないので金保有量が枯渇し始めた。アメリカの景気後退は広がっており、ヨーロッパの多くの投資家は、他の中央銀行が平価切下げを行わなければならないだろうと考えた。このように予測したので、投資家たちは金を引き出し、マネーサプライが減少して景気は悪化した。それから銀行たちは破綻した。
グレッグ・イップに寄るおもしろい記事(2015年11月12日)がある。- What Republicans Get Wrong About the Gold Standard -この話題に関係しており、愚かな共和党候補者たちを標的にしている。
疑いもなく、高橋是清は、金本位制下では各国はその金保有量と比例したマネーサプライを維持しなければならず、それが国内政策において制約を課しているのを理解していた。彼はその制約を除去することで、その次には(日本銀行を通した)財政と金融手段を使って国内需要を狙い撃ちできた。
一部の研究者たちは、為替レートの下落と財政刺激の提携が“活動レベルに重大な影響を及ぼしていた”事を示唆している。(Nanto, D.K. and Takagi, S. (1985) ‘Korekiyo Takahashi and Japanese Recovery from the Great Depression’, American Economic Review, 75, 369-74を参照).
それらの研究のほとんどが示唆するのは、金融緩和政策(金利の引き下げ)が他の二つの刺激策ほど重要ではなかった事だ。
もう一つの議論の立脚点は、1930年代初頭の民主主義からファシズムの過渡期に於いて、労働組合は抑圧されて労働争議は減少した。その結果として、実質賃金は低下し雇用と産出の回復を齎したという主張もある。
2000年9月30日に、韓国の学者Myung Soo Chaによる興味深い論文が発表された。– – Did Korekiyo Takahashi Rescue Japan from the Great Depression?
大恐慌期間中での、その特異な回復への影響を調べるために、これらの刺激策と賃金下落とで因数を分離して求めた。また、この回復が日本の外部の出来事によって起こったものかどうかを調べるために、(日本の輸出への)世界的な産出の影響も含めている。
統計的手法 (ベクトル自己回帰分析) と日本銀行が公開している歴史的データを使って、大恐慌初期での日本では”下降を反転させる上で決定打だった“のは財政主導であった事を論証している。
余談として、日本銀行は素晴らしい歴史的統計ページを運営している。この時期を研究するのに他の有益なソースがある。-例えば、the League of Nations, International Statistical Yearbook -これはアメリカのノースウェスト大学を通してオンラインで利用できる。
次のグラフはMyung Soo Chaの図1をコピーしたもので、1920年代中盤から1937年にかけての工業生産の発展を示している。
日本の体験は、当時の他の主な経済国と完全に異なっており、特に高橋是清によって導入された一連の大規模な刺激策の後ではそれは明らかだ。
また、興味深い事に各国のグラフ上での転換点が、“景気後退後に金本位制を離脱した順番と一致している事だ。:イギリス、ドイツ、日本は1931年に、アメリカは1933年、最後にフランスが1936年” これは偶然ではない。
彼の方法論にこれ以上は言及しないだろう。(それは標準的なものだ) この種の計量経済分析に興味があるのならば、あなた自身でその論文を読んでみるといい。
彼の研究結果は、非常に明瞭だ。
1. 彼は、“日本において大恐慌を終わらせるのに、高橋の財政拡大の卓越した役割について感銘を受けずにはいられない。” と綴っている。
2. “特に高橋是清が行なった赤字支出は、不況を素早く終わらせるのに極めて重要だったのがわかっている”
3. “平価切下げは、1932年に於いては救済になったが、生産量の伸びへの貢献はささやかなものだった”
4. “円安は同様に刺激を与えたが、日本国外部からのインフレ収縮を上回るほど十分には強くなかった”
鎮目雅人の研究からもう一つわかった事は、自由民主主義からファシズムの過渡期において、インフレ期待が幾分か上昇したことだ。 “デフレーションからインフレーションへの期待の変化は、主に通貨下落の結果であり日本銀行の国債引受ではない”
財政刺激を提供したのは軍事費の増大であり、現在に於いては好ましいものではなかったと主張する人々がいるかもしれない。
しかし、研究が示唆するのは、刺激に対する財政転換のうち軍事費の割合は公平に見て取るに足りないものだった。
(例えば、Metzler, M. (2006) Lever of Empire: The International Gold Standard and the Crisis of Liberalism in Prewar Japan, Berkeley, University of California Press).
結論
高橋是清の経済政策姿勢は-その作用はとても現代金融理論(MMT)的だ-日本を大恐慌から救った。
主に中央銀行の与信引受を伴う大規模な財政刺激は、インフレ率の暴騰を引き起こさなかったし、インフレーションを加速しなかった。
インフレーションは、短期間で上がり、それから再び落ちたが、これは主に大幅な平価切下げの結果に寄るものだ。これは、常に日本のような小国開放経済(当時は-小国である)で起きるかもしれない結果である。
不必要な側面-例えば軍事費など-はあったが、高橋是清の‘実験’は現代に於いて、明示的財政ファインンスを議論するのに関連があるのは明らかだ。
私は、最新の著作-Eurozone Dystopia: Groupthink and Denial on a Grand Scale(2015年5月発行)-の中で、明示的財政ファイナンスがユーロ圏(それ自身から)を救う可能性があると論じている。
ブリュッセルとフランクフルトの政策立案者に於いては、1931年に高橋是清が実行したような深い政策的な洞察と展望の提示をしてみよう。
パブでの政治-ハミルトンー2015年11月17日
今夜、私は(ニューキャッスル郊外、NSWの)バーモント通りにあるハミルトンステーションホテルで開催されるパブでの政治において講演するつもりだ。
講演タイトルは’なぜオーストラリアにとって財政赤字は好ましいのか’であり、2013年4月29日のニューヨークタイムズ紙で、アメリカの哲学者ダニエル・デネットが語った事から引用して講演するつもりだ:
人々に対して、『彼らは幻想に人生を捧げている』と礼儀正しく告げる方法は単に存在しない…
私たちはそれを楽しむつもりだ!
イベントは18:30に始まる。
地元の読者はそこで見物して欲しい。
今日はここまで!
Takahashi Korekiyo was before Keynes and saved Japan from the Great Depression – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory
http://bilbo.economicoutlook.net/blog/?p=32355
Takahashi Korekiyo was before Keynes and saved Japan from the Great Depression
This
blog is really a two-part blog which is a follow up on previous blogs I
have written about Overt Monetary Financing (OMF). The former head of
the British Financial Services Authority, Adair Turner has just released
a new paper – The Case for Monetary Finance – An Essentially Political Issue
– which he presented at the 16th Jacques Polak Annual Research
Conference, hosted by the IMF in Washington on November 5-6, 2015. The
paper advocated OMF but in a form that I find unacceptable. I will write
about that tomorrow (which will be Part 2, although the two parts are
not necessarily linked). I note that the American journalist John
Cassidy writes about Turner in his latest New Yorker article (November
23, 2015 issue) – Printing Money.
Just the title tells you he doesn't appreciate the nuances of central
bank operations. He also invokes the Zimbabwe-Weimar Republic hoax,
which tells you that he isn't just ignorant of the details but also part
of the neo-liberal scare squad that haven't learnt that all spending
carries an inflation risk – public or private – no matter what monetary
operations migh be associated with it. I will talk about that tomorrow.
Today, though, as background, I will report some research I have been
doing on Japanese economic policy in the period before the Second World
War. It is quite instructive and bears on how we think about OMF. That
is the topic for today.
Takahashi Korekiyo – was the 20th Prime Minister of Japan and held office twice the last time in an acting capacity in 1932. He had previously worked in the Bank of Japan. For the most part though, he was Finance Minister under various administrations from the late 1920s until his death in 1936.
I have been researching documents in the Bank of Japan archives for some time now as part of a book project I am working on. I am up to the period that Takahashi Korekiyo was a major player in Japanese economic policy making and it just happens to fit in with the comments I wish to make about Adair Turner and John Cassidy.
But I thought this background would help us for tomorrow.
Takahashi Korekiyo is famous for abandoning the Gold Standard on December 13, 1931 and introducing a major fiscal stimulus with central bank credit which rescued Japan from the Great Depression in the 1930s. That is quite a reputation. His actions and the subsquent results provide a solid evidence base for assessing whether OMF is desirable.
I note that OMF is core Modern Monetary Theory (MMT) policy, a point that Cassidy seems to be worried about. More about that tomorrow.
As to Takahashi Korekiyo, I don't think his monetary acumen had anything to do with his assassination (in his sleep by gunshot and sword) by rebel army officers in 1936 during the so-called – February 26 Incident – which was a failed coup d'état.
He had in fact reduced military funding because he was a moderate and wished to reduce Japan's martial tendencies. Enemies were thus made and they were the type of enemies that carried weapons and knew how to use them!
As background, Japan had experienced a major private banking collapse in 1927 (the Showa Financial Crisis) as a result of what has been referred to as "cumulative mismanagement of cover-ups and halfway measures against earlier flaws dating back to the post-war collapse" (quote from Takahashi, Kamekichi [1955a], Taisho Showa Zaikai Hendou Shi (A History of Economic Fluctuations during Taisho and Showa Eras), vol.2, Toyo Keizai Shinposha, Tokyo, p.739).
In other words, the banksters were out in force in Japan during the 1920s. It is argued by Takahashi Kamekichi that the stimulus measures introduced by Takahashi Korekiyo were assisted by the reforms that were made in the late 1920s to deal with the Showa Financial Crisis.
There were three notable sources of stimulus introduced by Takahashi Korekiyo:
1. The exchange rate was devalued by 60 per cent against the US dollar and 44 per cent against the British pound after Japan came off the Gold Standard in December 1931. The devaluation occurred between December 1931 and November 1932. The Bank of Japan then stabilised the parity after April 1933.
2. He introduced an enlarged fiscal stimulus. In March 1932, Takahashi suggested a policy where the Bank of Japan would underwrite the government bonds (that is, credit relevant bank accounts to facilitate government spending).
This proposal was passed by the Diet on June 18, 1932. The Diet passed the government's fiscal policy strategy for the next 12 months with a rising fiscal deficit 100 per cent funded by credit from the Bank of Japan.
Bank of Japan historian Masato Shizume wrote in his Bank of Japan Review article (May 2009) – The Japanese Economy during the Interwar Period: Instability in the Financial System and the Ipact of the World Depression – that:
Japan recorded much larger fiscal deficits than the other countries throughout Takahashi's term as Finance Minister in the 1930s.
On November 25, 1932, the Bank of Japan started 'underwriting' the government's spending.
3. The Bank of Japan eased interest rates several times in 1932 (March, June and August) and again in early 1933. This easing followed the cuts by the Bank of England and the Federal Reserve Bank in the US. Monetary policy cuts were thus common to each but the size of the fiscal policy stimulus was unique to Japan.
Masato Shizume wrote that:
[The full reference is: Shizume, Masato (2009) "The Japanese Economy during the Interwar Period: Instability in the Financial System and the Impact of the World Depression", Bank of Japan Review, 2009-E-2]A number of observers who focus on the macroeconomic aspects of the Takahashi economic policy praise Takahashi's achievements as a successful pioneer of Keynesian economics. Kindleberger points out that Takahashi conducted quintessential Keynesian policies, stating, "his writing of the period showed that he already understood the mechanism of the Keynesian multiplier, without any indication of contact with the R. F. Kahn 1931 Economic Journal article."
The next graph is a reproduction of Chart 7 Macroeconomic Policies of Japan and Other Countries from Masato Shizume's paper. It is self-explanatory.
The big variation between the different currency blocs and Japan is in fiscal policy.
There is substantial discussion in the literature about the relative impacts of these three different stimulus measures. But what followed is clear:
1. Real GDP growth returned quickly and stood out by comparison with the rest of the world which was mired in recession. Between 1932 and 1936, real industrial production grew by a staggering 62 per cent.
2. Employment, which had also plummeted in the early days of the Great Depression, grew robustly after the Takahashi intervention.
3. Inflation spiked as a result of the exchange rate depreciation in 1933 but quickly fell to low and relatively stable levels in 1934 as the economy's growth rate picked up under the support of the fiscal and monetary stimulus.
It was clear that abandoning the Gold Standard was a crucial first step because it gave the government space to introduce major domestic stimulus policies. These policies were not possible under the Gold Standard because they would have pushed out the external deficit and the nation would have lost its gold stocks.
I note a number of the current Republican presidential potentials in the US are once again calling for a return to the Gold Standard. They clearly haven't a clue what they are talking about given the appalling record of nations when they were on such exchange rate mechanisms.
It was the Gold Standard that ensured the Great Depression ensued. As the US started to run trade surpluses in 1929 (after the recession choked off imports), other nations started to deplete their gold stocks which meant they had to raise interest rates to attract capital inflow. The US recession spread and many investors in Europe considered that the central banks would have to devalue. Anticipating that, they withdrew gold and the contractionary effects on the money supply worsened the downturn. Then banks collapsed and so on.
There is an interesting article (November 12, 2015) by Greg Ip – What Republicans Get Wrong About the Gold Standard – that bears on this issue. It is targetted at those stupid Republican candidates.
Clearly, Takahashi Korekiyo understood the constraints that the Gold Standard and the need to maintain the money supply in proportion with the nation's stock of gold imposed on domestic policy. Once he removed that constraint he could then use the fiscal and monetary tools available to him (and through the Bank of Japan) to target domestic demand.
Some researchers have suggested that the combination of the exchange rate depreciation and the fiscal stimulus "had significant impacts upon the level of activity" (see Nanto, D.K. and Takagi, S. (1985) 'Korekiyo Takahashi and Japanese Recovery from the Great Depression', American Economic Review, 75, 369-74).
Most of the studies suggest that the monetary policy easing (cutting interest rates) was not as significant as the other two stimulus measures.
Another strand of argument is that in the transition from democracy to fascism in the early 1930s, the trade unions were suppressed and industrial disputation fell. Real wages fell as a result, which some claim caused employment and output to rise.
An interesting paper was published on September 30, 2000 by the Korean scholar Myung Soo Cha – Did Korekiyo Takahashi Rescue Japan from the Great Depression?.
It sought to decompose these stimulus factors and wage reductions to see order their impact on the exceptional recovery during the Great Depression. He also includes world output impacts (on Japanese exports) to see whether the recovery was driven by events outside of Japan.
He uses statistical techniques (Vector Autoregression) and historical data released by the Bank of Japan to show that it was the fiscal initiative that "was critical in reversing the downswing" in Japan in the early years of the Great Depression.
As an aside, the Bank of Japan runs an excellent Historical Statistics page. There are other sources of data that is of use in studying this period – for example the League of Nations, International Statistical Yearbook – which is available on-line through Northwestern University in the US.
The next graph is a reproduction of Myung Soo Cha's Figure 1 and show the evolution of Industrial Production from the mid-1920s to 1937.
It is clear that Japan's experience was quite different to the other major economies of the day, especially after the major stimulus package introduced by Takahashi Korekiyo.
It is also interesting that the turning points in the graph for the respective countries "matches the sequence of going off gold in the wake of the Depression: Britain, Germany and Japan in 1931, the U.S. in 1933, and finally France in 1936". That is not coincidental.
I won't go into his methodology (it is standard) and you can read the paper yourself if you are interested in this sort of econometric analysis.
The results of his study are fairly clear:
1. He writes "one cannot but be impressed by the prominent role of Takahashi's fiscal expansion in ending the Great Depression in Japan".
2. "In particular, his deficit spending was found to have been crucial in ending the depression quickly".
3. "Devaluation did help during 1932, but its contribution to output growth was modest."
4. "The depreciating yen provided some stimuli as well, but they were not sufficiently strong to outweigh the contractionary influences from the rest of the world."
Another finding from Shizume Mazato's work is that while inflationary expectations rose somewhat during the shift from liberal democracy to fascism, "the shift in expectation from deflation to inflation was chiefly the result of the currency depreciation, not the BOJ underwriting of government bonds".
Some might argue that it was the increased military spending that provided the fiscal stimulus, which would be undesirable in today's world.
But research suggests that the military part of the fiscal shift to stimulus was fairly insignificant (see for example, Metzler, M. (2006) Lever of Empire: The International Gold Standard and the Crisis of Liberalism in Prewar Japan, Berkeley, University of California Press).
Conclusion
There is little doubt that Takahashi Korekiyo's economic policy stance – which was very MMT in operation – saved Japan from the Great Depression.
The large fiscal stimulus that was mostly underwritten with central bank credit did not cause interest rates to sky-rocket nor inflation to accelerate.
Inflation rose for a time then fell again but this was mainly the result of the massive exchange rate depreciation. That is a result that would always occur in a small open-economy such as Japan (at the time – small that is).
While there were aspects that were unnecessary – for example, the military spending – it is clear that Takahashi Korekiyo's 'experiment' has relevance for us today in discussions concerning Overt Monetary Financing.
I have argued in my current book – Eurozone Dystopia: Groupthink and Denial on a Grand Scale (published May 2015) – that OMF could save the Eurozone (from itself).
But try to get the policy makers in Brussels and Frankfurt to display as much policy acumen and foresight as Takahashi Korekiyo did in 1931.
Politics in the Pub – Hamilton – November 17, 2015
Tonight, I will be the speaker at the Politics in the Pub, which is held at the Hamilton Station Hotel, Beaumont Street, Hamilton (a suburb of Newcastle, NSW).
The title of my talk will be 'Why budget deficits are good for Australia' and I will motivate the talk with the quote from US philospher Daniel Dennett who told the New York Times on April 29, 2013 that:
There's simply no polite way to tell people they've dedicated their lives to an illusion …
We will have some fun with that!
The event starts at 18:30.
I hope to see local readers there.
That is enough for today!
緊縮政策と金解禁 所謂緊縮政策について
緊縮という問題を論ずるに当っては、先ず国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。
例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約によって、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減るわけであって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。ゆえに国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をして貰った方がよいのである。
さらに一層砕けて言うならば、仮にある人が待合へ行って、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。これは風紀道徳の上から云えば、そうした使い方をして貰いたくは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散ばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、また料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれ等の運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。この分は、すなわちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。しかしてこれらの代金を受取たる農業者や、漁業者、商人等は、それを以て各自の衣食住その他の費用に充てる。それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出でない。
しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。ゆえに、個人経済から云えば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云えば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、むしろその方が望ましいわけである。ここが個人経済と、国の経済との異っておるところである。
以上は、もとより極端な例を挙げたに過ぎない。かく言えばとて、私は待合行きを奨励する次第では決して無い。ことにそれだけの余裕なきものが、借金までして浪費する事は、無論よく無い事である。ただ私がここに待合の例証を取ったのは、世に最も浪費なりと称せられている、この待合遊びについてさえも、これを個人経済から見る時と、国の経済から見る時とは、大変な相異がある事を明かにしたまでである。
言うまでも無く、如何なる人の生活にも、無駄という事は、最も悪い事である。これは個人経済から云えば、物を粗末にする事である。倹約という事も詮じ詰れば、物を粗末にしないと云う事に過ぎない。しかしながら、如何に倹約がよいからと云って、今日産業の力を減退させるような手段を取る事は好ましからぬ事だ。もとより財政上緊縮を要するという事はあるが、その場合には、なるべく政府の新たなる支出を出来るだけ控目にする事が主眼で無くてはならぬ。すでに取かかった仕事まで中止するという事は考えものだ。
先だっても、永田町を通って見たら、帝国議事堂の鉄骨が、ガランとして秋空の上に突立っている。そうして仕事は中途半端で停止せられ、構内は寂として山寺のようである。霞ケ関でも先頃までは内務省の庁舎の基礎工事が進んでおり、桜田門では警視庁の建物がこれも鉄骨の組立てを終っていたようだ。ところが四、五日前に通って見ると、この方にも人の子一人おらず、閑古鳥も鳴かぬ有様である。
これらはすでに取掛って、現に進行中の仕事である。これを止めるとか中止するとかいうには十分に事の軽重を計り、国の経済の上から考えて決せねばならぬ。その性質をも考えず、天引同様に中止する事は、あまりに急激で、そこに必ず無理が出て来る。その無理はすなわち、不景気と失業者となって現れ出ずるのである。
現に、帝国議事堂、内務省庁舎、警視庁の例を見ても、これらの工事を止めたために、第一に請負人が職を失う。またこれに従事せる事務員、技術者、労働者及び工事の材料の生産者、その材料を取次ぐ商人等の総ては、節約または繰延べられたるだけ職を失うのである。これらの人々が職を失う事は、やがて購買力の減少となり、かような事が至る所に続出すれば、それに直接関係なき生産業者も、将来における商品の需要の減退を慮って、自分の現在雇傭せる労働者を解雇して、生産量を減少するようになる。その結果は、一般の一大不景気を招来するに至るのである。かくのごとき事は国家経済の上から、よほど考慮を要する事柄である。
金解禁の準備は自主的なるべし
近ごろ世間で唱えておるところを聞くと、所謂緊縮節約は金解禁のためである、と云っている。それは先ずよいとして、この金解禁についても、我が国民は、もっと慎重に考えるの必要がある。やれ対米為替が上ったから、やれ英米の金利が下ったから、金解禁に好都合になったと、有頂天になっている者もあるが、それは少し早計でないかと考える。もとより今日金解禁をなすについては、外国市場の金利や為替相場等の影響も考慮せねばならぬが、もっと、大事な事は、これを自主的にきめる事である。
しかして自主的の準備とは、我が国の国際貸借の関係において、支払いの立場に立たぬよう、国内の産業、海運その他の事業の基礎を確立する事である。この基礎が出来て初めて解禁という事が行われ得るので、その準備なく、徒らに為替相場や、外国市場の金利の低下を頼りとして、外国の御蔭で解禁せんとするがごときは、国家永遠の利害を考えぬ謬見と云わねばならぬ。
(昭和四年十一月)
随想録
マクロ経済学・入門(第5版) 有斐閣アルマ | 福田慎一, 照山博司 2016
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生産 ________
家計→企業_____
← ←
所得 支出
353:
Column24 ⤠ 技術進歩の類型 本文では, 日米の経済成長の重要な源泉として技術進歩が あったことを説明した。 すなわち, 日米両国とも同一要素投 入のもとでより多くの生産が可能になる技術進歩が経済成長 を生み出したのである。
もっとも, 一言で技術進歩といっても, それにはさまざま なタイプのものがある。
たとえば, ヒックス (J. R. Hicks) は, 技術進歩が起こる前と後で, 資本ストックと労働の限界生産 性が同じ率で増大するならば, その技術進歩は中立的である と定義した。 すなわち, 時間 t の経過とともに進む技術進歩 を A(t) で書き表すとすれば, ヒックス中立的技術進歩とは, マクロ生産関数が,
Y = A(t) F1 (K, L)
と書き表せるケースになる。
一方, ハロッド (R. F. Harrod) は, 資本ストックを一定と したときに, 同じ生産を行うのに必要な労働投入量を節約す るような技術進歩を中立と定義した。 このため, ハロッド中 立的技術進歩を A(t) とした場合には, マクロ生産関数は,
Y = F2 (K, A(t) L)
と書き表されることになる。
さらに, 同一水準の労働投入量のもとで同じ生産を行うの に必要な資本ストックを節約する技術進歩は, ソロー中立的 技術進歩と呼ばれている。 この技術進歩がソロー中立である ための必要かつ十分条件は, マクロ生産関数が,
Y = F3 (A(t) K, L)
と書き表されること, すなわち, 技術進歩A(t) の効果がすべ て資本の効率の上昇 (すなわち, 資本の節約) に現れること である。
194:
Column12 ⤔ 高橋是清の経済政策 ケインズの 『一般理論』 が公刊されたのは 1936 (昭和11) 年であり, 経済が不況に陥った際に財政政策や金融政策で経 済活動を活性化するべきだという考え方が世界的に認知され るようになったのはそれ以降である。 しかしながら, 日本で はそれ以前の 1930年代初頭に, 高橋是清(当時の大蔵大臣) が積極的にケインズ的な政策を実行し, 日本経済の不況から の脱却に成功している。 高橋是清が大蔵大臣に就任したのは, 1931 (昭和6) 年12 月である。 その当時の日本経済は, 対外的な要因も加わって 最悪の状況にあり, 設備投資が大幅に落ち込むと同時に, 失 業率も大幅に増加していた。 そうしたなかで, 高橋是清はそ れまでの緊縮的な財政政策を 180度転換させて, 政府支出を 大幅に増加させると同時に, そのために必要なお金を日本銀 行から調達することによって極端な金融緩和政策に踏み切っ た 。 これら高橋是清の経済政策は, 経済を立ち直らせるうえで はきわめて有効であり, 日本経済はその後順調に回復してい くことになる。 したがって, 1930年代初頭に議論を限定すれ ば, ケインズに先がけた彼の経済政策はおおむね成功であっ たといえるかもしれない。 しかしながら, 不況期に採用された拡張的な経済政策は, 日本経済が回復に成功した後もとどまることはなかった。 と りわけ, 二 ・ 二六事件で高橋是清が暗殺された後の日本では, 軍部の台頭が顕著となり, それまでの拡張的な政府支出はそ のまま軍事費のとめどない増大へとつながっていった。
➲参考文献➲島謹三 「いわゆる高橋財政について」 『金融研究』第 2巻第2号 [1983], 83-124 頁。
リチャード・J. スメサースト著, 鎮目雅人,早川大介,大貫摩里訳『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』東洋経済新報社 [2010]。
随想録より
返信削除緊縮政策と金解禁
所謂緊縮政策について
緊縮という問題を論ずるに当っては、先ず国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。
例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約によって、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減るわけであって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。ゆえに国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をして貰った方がよいのである。
さらに一層砕けて言うならば、仮にある人が待合へ行って、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。これは風紀道徳の上から云えば、そうした使い方をして貰いたくは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散ばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、また料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれ等の運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。この分は、すなわちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。しかしてこれらの代金を受取たる農業者や、漁業者、商人等は、それを以て各自の衣食住その他の費用に充てる。それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出でない。
しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。ゆえに、個人経済から云えば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云えば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、むしろその方が望ましいわけである。ここが個人経済と、国の経済との異っておるところである。
以上は、もとより極端な例を挙げたに過ぎない。かく言えばとて、私は待合行きを奨励する次第では決して無い。ことにそれだけの余裕なきものが、借金までして浪費する事は、無論よく無い事である。ただ私がここに待合の例証を取ったのは、世に最も浪費なりと称せられている、この待合遊びについてさえも、これを個人経済から見る時と、国の経済から見る時とは、大変な相異がある事を明かにしたまでである。
高橋是清
返信削除経済論
429
となり、しかも五億五千万円以上は制限外発行となり、それ以上通貨を供合す
分を下らざる課税を受けなければならず、かくては産業上の取引と
らしむること到底不可能にして、物価はますます下落し、経済界の建直しは得て望むべからずと
信じましたがため、政府は大英断を以て発券制度の上に根本的改革を施し、保証準備の額を一躍
十億円に拡張し、その上必要なる場合の制限外発行に対する課税最低率を三分に引下げ、以て正
貨の激減したるに拘らず農工商方面の正常なる取引に対する通貨の供給には老も支障なきを期せ
しめたのであります。所謂金融収縮時代に各国の産業に従事せる人々が、如何に資金難に苦悩せ
るかは、想像にあまりあるところでありまして、昨年英国の金融論者として知らる、ホートレー
(R・G・ホートリー。通貨金融論でケインズと対立した)氏の『中央銀行論』中に次のやうなこと
が書いてあります。
『一九三〇年及び三一年に、世界到るところの生産者は需要が仮借なく萎縮していくのを見た。
彼らは生産を維持するために必死となつて価格をドシドシ下げていつた。しかも依然として減退
していく需要に対し彼らが狂気の如く張合つてゐた有様は、さながら往昔カルカツタのブラッ
ク・ホールに幽閉させられたる英人たちが、窒息しまいとして唯一の通風手段であつた二つの小
窓に近寄らうとして死物狂ひになつた事実にも比すべきであつた。
現地人の部族長が間ロ十五フイート、奥行十八フイートの小房に百四十六人の英人捕虜を収容
したのは、あへて殺さんがためではなかつた。しかも可哀相な英人たちは苦しさのあまり番兵に
賄賂を使つて部族長に哀訴を取次いでもらつた、ところが部族長は正にお寝み中でござったので
番兵は起し申すことを差控へた。この部族長は中央銀行ソックリの男であつた、〔翌日窓を開い
国際経済情勢とわが国の非常時対策
429
て見たら英人の大部分は死んでをつたのである]』といふ例を引き、
さらにホートレーは『消費者の所得を圧縮するのはどこでも物価下落と生産低減との二要素の
合成であつた。農業においては、生産量を迅速に減少せしむることの困難なる結果として、農産
物の価格下落は製造品の下落よりもはるかに甚しかつた、故に農産物の価格は製造品の価格より
も不況の深刻さをヨリ真実に示す尺度となる、一体中央銀行が為替安を矯めんとして金利引上げ
その他貸出しを収縮する措置を執ると、必ず結果においては不況を一層甚しからしむるのであつ
た』云々と論じてをります。
中央銀行として深く注意すべきことは、世の生産業または商取引をなす人々に対し、常に不足一
を感ぜざる程度に資金の供給をなすべき事であります。
わが国はだんだん金の輪出を禁じ、国内の正貨保有高に比し従来よりも多量の通貨を発行する
事を許したる以上は、わが対外為替の下落を来すべきは当然であります。したがつて国内の資本
が海外に逃避せんとするに至り特に産業振興の見地より低金利政策を実行せんとするに際しては
ここが最も多いのであります。故に政府はわが国の資本を出来得る限り国内における事業に投下
せしめ、以て利潤と労働とを国内に留保せしめ、これによりて経済界の振興に資せしむるの政策
を執るの必要を認め、まづ資本逃避防止法を制定して必要の処置を講じてきたのでありましたが
満兎電題の進展に伴ひ国際政局の複雑化するとともに、為替安を助長するの傾向さらに顕著なる
ものがありましたため、政府はさらに百尺竿頭一歩を進め、為替管理 に関する法律を去る議会に
財界変動と主要財政。経済演説
430
返信削除高橋是清
経済論
中公バックス
429
となり、しかも五億五千万円以上は制限外発行となり、それ以上通貨を供合す
分を下らざる課税を受けなければならず、かくては産業上の取引と
らしむること到底不可能にして、物価はますます下落し、経済界の建直しは得て望むべからずと
信じましたがため、政府は大英断を以て発券制度の上に根本的改革を施し、保証準備の額を一躍
十億円に拡張し、その上必要なる場合の制限外発行に対する課税最低率を三分に引下げ、以て正
貨の激減したるに拘らず農工商方面の正常なる取引に対する通貨の供給には老も支障なきを期せ
しめたのであります。所謂金融収縮時代に各国の産業に従事せる人々が、如何に資金難に苦悩せ
るかは、想像にあまりあるところでありまして、昨年英国の金融論者として知らる、ホートレー
(R・G・ホートリー。通貨金融論でケインズと対立した)氏の『中央銀行論』中に次のやうなこと
が書いてあります。
『一九三〇年及び三一年に、世界到るところの生産者は需要が仮借なく萎縮していくのを見た。
彼らは生産を維持するために必死となつて価格をドシドシ下げていつた。しかも依然として減退
していく需要に対し彼らが狂気の如く張合つてゐた有様は、さながら往昔カルカツタのブラッ
ク・ホールに幽閉させられたる英人たちが、窒息しまいとして唯一の通風手段であつた二つの小
窓に近寄らうとして死物狂ひになつた事実にも比すべきであつた。
現地人の部族長が間ロ十五フイート、奥行十八フイートの小房に百四十六人の英人捕虜を収容
したのは、あへて殺さんがためではなかつた。しかも可哀相な英人たちは苦しさのあまり番兵に
賄賂を使つて部族長に哀訴を取次いでもらつた、ところが部族長は正にお寝み中でござったので
番兵は起し申すことを差控へた。この部族長は中央銀行ソックリの男であつた、〔翌日窓を開い
国際経済情勢とわが国の非常時対策
429
て見たら英人の大部分は死んでをつたのである]』といふ例を引き、
さらにホートレーは『消費者の所得を圧縮するのはどこでも物価下落と生産低減との二要素の
合成であつた。農業においては、生産量を迅速に減少せしむることの困難なる結果として、農産
物の価格下落は製造品の下落よりもはるかに甚しかつた、故に農産物の価格は製造品の価格より
も不況の深刻さをヨリ真実に示す尺度となる、一体中央銀行が為替安を矯めんとして金利引上げ
その他貸出しを収縮する措置を執ると、必ず結果においては不況を一層甚しからしむるのであつ
た』云々と論じてをります。
中央銀行として深く注意すべきことは、世の生産業または商取引をなす人々に対し、常に不足一
を感ぜざる程度に資金の供給をなすべき事であります。
わが国はだんだん金の輪出を禁じ、国内の正貨保有高に比し従来よりも多量の通貨を発行する
事を許したる以上は、わが対外為替の下落を来すべきは当然であります。したがつて国内の資本
が海外に逃避せんとするに至り特に産業振興の見地より低金利政策を実行せんとするに際しては
ここが最も多いのであります。故に政府はわが国の資本を出来得る限り国内における事業に投下
せしめ、以て利潤と労働とを国内に留保せしめ、これによりて経済界の振興に資せしむるの政策
を執るの必要を認め、まづ資本逃避防止法を制定して必要の処置を講じてきたのでありましたが
満兎電題の進展に伴ひ国際政局の複雑化するとともに、為替安を助長するの傾向さらに顕著なる
ものがありましたため、政府はさらに百尺竿頭一歩を進め、為替管理 に関する法律を去る議会に
財界変動と主要財政。経済演説
430
1933年4月21日
返信削除ラルフ・G・ホートリー (Ralph G. Hawtrey), 1879-1971 ホートレー(ホートリー)
The Art of Central Banking, 1932.
口語訳聖書 - マタイによる福音書
返信削除http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
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(『処世一家言』)に)「 楽境にあるときの気持をもって、 1 30 すべての人間の栄枯浮沈は、定めがたいものである。この間に処して、悲境に陥っては、(仕事をあてがわれたときにも、そのれた「子供のときから今まで、一貫して、どんなつまらないいることは ...
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高橋是清
返信削除前表紙
今村武雄
時事通信社, 1985 - 250 ページ
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(『処世一家言』)に)「 楽境にあるときの気持をもって、 1 30 すべての人間の栄枯浮沈は、定めがたいものである。この間に処して、悲境に陥っては、(仕事をあてがわれたときにも、そのれた「子供のときから今まで、一貫して、どんなつまらないいることは ...
書籍の全文が表示されない理由
処世一家言: デジタル復刻 今日の問題 Kindle版
返信削除高橋是清 (著) 形式: Kindle版
5つ星のうち5.0 1個の評
https://www.amazon.co.jp/dp/B07KSH6RDH/
ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=3P7NC1KCHFUAS&keywords=処世+是清&qid=1661279368&sprefix=処世+是清%2Caps%2C391&sr=8-1
第六話 誠の道を踏めば飢ゆることなし 栄古盛衰は、人生の常である。順境は、いつまでもつづものではなく、逆境も、心の持ちやう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。境遇の順逆は、心の構へ方一つで、どうにでも変化するものである。 ただ困るのは、薄志弱行の徒輩だ。彼等は、一度困難に遭ひ、逆境に陥ると、たちまち依頼心を起し、他人の恵沢によってその運命を拓かんとし、それがうまく行かぬと、直ちにこれを天命と思ひ込み、不平をいだき、自暴自棄となり、堕落して行く。独立自助、自分の額に汗して、自らその進路を拓り開いて行かうとしない。 かういふ人は、よし順境にあっても、長くその恵みを受けることが出来ないで、逆境に陥ってしまふ。一旦逆境に陥っては、再び浮ぶ瀬がなくなるのである。 わが輩は、近頃の青年が、世路難を嘆ずるのを聞くごとに、彼等に果して独立自助の大精神があるか、どうかを疑はざるを得ないのである。 顧みれば、わが輩なども、前半生においては、実に、種々の逆境を経験して来た。 嘗て、校長の品行問題に関して、外国語学校の教授を辞職した時の如きは、つぶさに逆境の苦痛を嘗めなければならなかった。その時、問題の起ると共に、わが輩は直ちに、教職の辞任を決意し、微力ながらも、一身を校風維持のために投じたのであった。 だから、目的が貫徹すると共に、わが輩も辞職してしまったが、といって、当時、これにとって代るべき職業などのありやう筈はない。当分の生活を支へるだけの貯蓄もなかった。辞職の日から、すぐさま収入の道はなくなるし、生活の資には窮するし、月末になっても、米塩の代を払ふ金さへも無かった。覚悟の上とはいひながら、一時はまったく途方に暮れざるを得なかった。 だが、わが輩は辞職したことを、すこしも後悔しなかった。男子の意気地として、当にかくあるべしと思って居った。 また、困窮を感じても、決して不平を起したり、失望したりはしなかった。といふのは、当時すでに一つの信仰を有っていたからである。
返信削除それは、明治二年、わが輩が森有礼さんの紹介で、当時大学南校の教頭であった、フルベッキ先生の書生をしていた頃、毎日耽読していた聖書の中に、
「天は空飛ぶ鳥をさへ飢えさせぬ。ましてや万物の霊長たる人間の誠の道さへ踏んで行くならば、飢えることなどのあるべきものではない。」 といふ意味の一句があった。わが輩は、この句に深く感激し、心の信仰とした。
人間は、誠の道を踏んで働きさえすれば、どんな人でも不自由なく生活することが出来る。天は、何人にでも、働く者には必ず衣食の料を与へるものであるといふ信念が、ふかく頭脳の中にしみ込んでいた。 貯蓄のないわが輩が、辞職して収入の道を失へば、立ちどころに困る位いのことは、よく知っていた。知っていて、しかも辞職したのは、人間の労働の偉大なることの確信があったからである。だから、一時収入を失ひ、衣食に窮しても、失望もしなければ、不平も起さずに、すんだのである。
処世一家言
返信削除高橋是清
https://www.amazon.co.jp/dp/B07KSH6RDH/
…
毎日耽読していた聖書の中に、
「天は空飛ぶ鳥をさへ飢えさせぬ。ましてや万物の霊長たる人間の誠の道さへ踏んで行くならば、飢えることなどのあるべきものではない。」 といふ意味の一句があった。わが輩は、この句に深く感激し、心の信仰とした。
slowslow2772
@slowslow2772
@siroiwannko1 高橋是清
x.com/tiikituukahana…
《毎日耽読していた聖書の中に、
「天は空飛ぶ鳥をさへ飢えさせぬ。ましてや万物の霊長たる人間の誠の道さへ踏んで行くならば、飢えることなどのあるべきものではない。」 といふ意味の一句があった。わが輩は、この句に深く感激し、心の信仰とした。》
2024/03/16 15:19
https://x.com/slowslow2772/status/1768884773722992866?s=46&t=QAfSDzAh-_cN0WvSTaQ0RA
slowslow2772
@slowslow2772
@TiikituukaHana The Gospel According to St Matthew (1964) - Pasolini
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2024/01/28 17:38
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