2025年11月5日水曜日

天學傳概 李祖白 再改訂版

天學傳概 李祖白


抜粋:
《何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。

惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。

何以言之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時,事一主,奉一教,紛岐邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逳。而大東大西,有人之始,其時略同。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時代に、中国に人が現れた始まりである。

ただこの中国最初の民は、まさにユダヤの子孫のように、西から東へ移り住んだものであり、天の教えは彼らが本来心に抱いていたものである。子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この学問が中国に根付いた当時は、今よりはるかに隆盛であったに違いない。唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒め合い、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに励まし合った。生誕の地や救世の宗徒が多い者たちは、中土で教えを広め、その事績は西方の史書に記されている。


吕秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。

呂秦が周を代え、法律を任じ、《詩経》《書経》を棄てた。かつての文献は全て炎に焼かれ、天学の詳らかなところはもはや見られぬ。悲しいことよ!西漢の元寿に至り、天主が降誕し救世を成し遂げると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事は西方の史書に記されている。このうち中州に近い地域では、明の末期に十字教の教規が伝わり、天主が救世を成し遂げ、功を十字に結んだことから、この名を教義とした。これこそがトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩に遡る頃、大秦国(すなわちユダヤ国)の修道士アロボンが経典と仏像を携え、遠くから再訳して来朝した。これを受けて宰相は郊外で出迎え、経典を宮殿内で翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景寺を設置させた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教行は唐にあって、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証し得る。》

宗徒聖多默者
聖多默( S. Thomas Apostolus)

阿羅本
阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。

如德亞
を自動翻訳はユダヤと訳さないことが多い
 
明末清初天主教史文獻叢編 
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 天學傳概 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 

天學傳概 

 天學傳概目録 
天學傳概前言 周弭方 
天學傳概序 許之漸 
天學傳概 李祖白 

 天學傳概前言 

 《天學傳概》,李祖白撰,清康熙刻本,九行二十字,白口單邊。今海内外僅梵蒂岡在中國天主教史、中西思想公 教廷圖書館有藏。

李祖白,字然真。明天啟六年與湯若望合作,譯《遠鏡説》。入清,湯若望順治元年 八月十一日《請給新曆供費兼陳本局要務疏》云:「如順天生員宋可成、副榜監生李祖 白、儒士掌乘、焦應旭,此四人者,文理優通,有志曆學,訪舉在局,効力多年。」二十五日 旨下,李祖白等「以効力有年,勤敏可加,相應照例量帶欽天監博士職銜」(見《西洋新法 曆書奏疏》二卷)。至順治六年刻《西洋新法曆書》,李祖白成欽天監夏官正。 祖白以弟子禮事湯若望。順治十七年七月,湯氏立聖母堂碑於北京教士公墓。祖 白有跋,刻於碑陰。跋云:「吾師湯道未先生,諱若望。西海熱爾瑪尼亞國人。幼齡學 道,入耶穌會,以宣傳天主正教爲務。三十遊中華,爲天啟二年。嗣以夙諳曆學,歲己 巳由大學士徐文定公薦,應召來京修曆,凡十餘載。恭遇國朝建鼎,遂用西洋新法,造 曆頒行。洊荷恩禮優異,迄今未艾云。門人李祖白謹識。」湯氏纂定《西洋新法曆書》 中,《渾天儀說》一卷、《五緯表》十卷,镌受法門人中,有「祖白」名。 康熙二年癸卯孟冬,祖白「公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次,以代 口答」。是即《天學傳概》,許之漸序。此書一出,天下大譁。楊光先即投《與許青嶼( 漸)侍御書》,狂訾祖白。是年冬,因曆法事,朝廷議湯若望、李祖白不軌,罪至極刑。後 因京師連續地震,朝中不敢遽用;再議,若望得開釋,欽天監附教官員李祖白、宋可成、 宋發、朱光顯、劉有泰五人俱處斬。至康熙八年,湯若望、李祖白之欽天監案,始得平反 昭雪。 《天學傳概》是天主教名著,在中國天主教史、中西思想交匯史上,均有獨特地位。 祖白也曾參與教會其他書籍之校刻。高一志譯《聖母行實》,卷三修潤者題「虎林 李祖白」。虎林,今安徽贵池,古吴封地,故是書祖白自署「燕吴後學」。 本次整理《天學傳概》,以台灣吳相湘氏《天主教東傳文獻續編》影印本為底本,除 了徑直訂正引文中的一些錯訛外,其他文字没有任何改動。 二〇〇〇年五月六日北京周驛方謹序 

天学伝概 李祖白

明末清初カトリック史文献叢編
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校 天学伝概 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校

天学伝概

天学伝概目録
天学伝概前言 周弭方
天学伝概序 許之漸
天学伝概 李祖白

天学伝概前言

『天学伝概』は李祖白が撰し、清康熙刻本、九行二十字、白口単辺である。現在、国内外ではバチカン市国の中国カトリック史・中西思想公教廷図書館にのみ所蔵がある。

李祖白、字は然真。明天啓六年、湯若望と協力して『遠鏡説』を翻訳した。清代に入り、湯若望は順治元年8月11日付『新暦供費請給兼本局要務陳疏』において「順天生員宋可成、副榜監生李祖白、儒士掌乗、焦応旭の四名は、文理に優れ、暦学に志をもち、局に招かれ、長年尽力してきた」と記している。二十五日、勅旨が下り、李祖白らは「長年尽力し勤勉で敏捷であるため、例に照らし欽天監博士の職名を兼任させる」とされた(『西洋新法 暦書奏疏』二巻参照)。順治六年『西洋新法暦書』を刻印した際、李祖白は欽天監夏官正となった。祖白は弟子として湯若望を敬慕した。順治十七年七月、湯氏は北京の宣教師墓地に聖母堂碑を建立。祖白が碑陰に跋文を刻む。跋文に「我が師湯道未先生、諱は若望。西洋ドイツ国人。幼少より道に学び、イエズス会に入り、天主正教の宣教を志す。三十歳で中華に赴き、天啓二年となる。嗣に歴学に精通していたため、己巳の年に大学士徐文定公の推薦により召され、京に赴いて暦を修め、十余年に及んだ。恭しく国朝の建鼎に遇い、遂に西洋の新法を用いて暦を造り頒布した。相次いで恩恵と礼遇に浴し、今に至るまで衰えを知らない。門人李祖白謹んで記す。」 湯氏が編纂した『西洋新法暦書』の中に、『渾天儀説』一巻、『五緯表』十巻があり、受法門人の中に「祖白」の名がある。康熙二年癸卯の孟冬、祖白は「公余の少しいつかの間に、客人が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代えた」 。これが『天学伝概』であり、許之漸の序文である。本書が出ると、天下は大いに騒然となった。楊光先は直ちに『許青嶼(漸)侍御書』を投じ、祖白を激しく誹謗した。この年の冬、暦法の問題により、朝廷は湯若望・李祖白の不軌を議し、極刑に処した。後に京師で連続地震が発生したため、朝廷は急いで採用できず、 再議の結果、若望は釈放され、欽天監の付教官吏である李祖白、宋可成、宋発、朱光顕、劉有泰の五人は全員斬刑に処された。康熙八年になって、湯若望と李祖白の欽天監事件はようやく平反され、昭雪された。『天学伝概』はカトリックの名著であり、中国カトリック史、中西思想交流史においていずれも独特の位置を占める。祖白は教会の他の書籍の校訂・刻印にも参加した。高一志訳『聖母行実』巻三の修潤者は「虎林 李祖白」と題している。虎林は現在の安徽省貴池市、古の呉の封地であるため、本書で祖白が自ら「燕呉の後学」と署名している。今回の『天学伝概』整理は、台湾の呉相湘氏編『天主教東伝文献続編』影印本を底本とし、引用文中の誤りを直接訂正した以外は、他の文字に一切手を加えていない。二〇〇〇年五月六日 北京 周驛方謹序


 天學傳概序 
  自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學, 未有不本乎天者也。黄軒迄今,世無異治,而教統一裂,人自為學,家自為 師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其 名,而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虚寂,窮其所託,與吾儒之盡性至 命,不有殊途而同歸者乎?惟是斁倫毁紀,捨君臣父子之大,而躭夫幽渺虚 寂,以别求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而闢之也。彼行之不著,習 矣不察,終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者或不能無弊。如欲循 其弊以為救,仍莫若尊天以立說。相傳開闢以來,有所為天主教學者,驟而 聆其語,若儻怳而弗可據。即其於吾儒當告之以二帝三王之道,日月星辰 之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆 告之以其學也。久之而親,其人繹其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工 夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟;其於二帝三王之道,日月 星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡 弗相始終相表裏。超出乎二氏之上,而後知其學,何莫非吾儒之學也?其 教自漢唐流傳中土。

明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來,建 堂於宣武門内。一時名公卿,多樂與之遊。至國朝恩禮倍渥,通微教師實 總曆務,復勅建東堂,再可利子、景明安子主之,余俱樂與之遊。而然真李 子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福 清葉相國,《贈西賢》詩有云:「言慕中華風,深契吾儒理。」又云:「拘儒徒 管窺,達觀自一視。」誠化其同異之見,取所為尊天以立説者。究其指歸,精 其義蘊,即不言學,並不言教可也。而一切窮神達化,更有進乎此者,抑非 余之所及知也已。 康熙三年歲在甲辰春王正月柱下史毘陵許之漸敬題 E 時間以 天地之所 鬼神之所以幽,物類之所以會,江河之所以说,不富 分所應有云。前性書二教,恩施此尤纳矣。然則天學之傳及中土,其時 

天学伝概序
  天地の心が見えて初めて、君師の道が興る。帝王が治める所以、聖賢が学ぶ所以、天に本ぜずして成ったものはない。黄軒(黄帝)の時代から今日に至るまで、世に異なる治め方はなく、教えは統一されながら分裂し、人々は各自で学び、家は各自で師となる。水と火が相容れないが、要するに天を尊んで説を立てる者はいない。彼とこの間の往々にして、陽にはその名を排し、陰にはその実を窃む。道家の幽玄、仏子の虚寂も、その拠り所を究めれば、儒家の「性を尽くし命に至る」と、道は異なれど帰処は同じではないか。ただ、倫を廃し紀を壊し、君臣父子の大を捨てて幽玄虚寂に耽り、別に所謂天を求めること、これ二氏の教えが儒者が辞して斥ける所以である。彼らが実践を明らかにせず、習わしを深く察さず、終生君臣父子の道に留まり、天の働きを認識しないならば、儒者にも欠陥が生じかねない。もしその欠陥を正そうとするなら、やはり天を尊んで説を立てるに勝るものはない。伝承によれば、開闢以来「天主教学」を唱える者たちがいたが、その言葉を聞けば突如として怪しく頼りない。たとえ儒者に接しても、二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転を説くべきであり、彼らの学問を安易に語るべきではない。時を経て親しく接するにつれ、その書を読み解くと、事象の明示と堕落防止を宗旨とし、己を克ち人を愛することを実践とし、過ちを悔い善へ改めることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転に至るまで、これらと相補相表裏をなさないものはない。二氏(仏教・道教)を超越し、初めてその学問が、何一つとして我が儒者の学問でないものはないと知る。その教えは漢・唐の時代から中国に伝わる。

明の万暦辛巳年(1581年)、イエズス会の宣教師シレリが九万里の海を渡って来訪し、宣武門内に堂を建立した。当時、名高い公卿の多くが喜んで彼と交わった。我が朝に至っては恩恵と礼遇が倍増し、通微教師が実際に諸務を統括し、さらに勅命により東堂が建立され、再可利子と景明安子がこれを司った。私もまた皆と共に喜んで彼らと交わった。しかし、真に李子が私をその言葉に契りある者と見なしたのか、著書を手にし、利子を通じて私に序文を求め、その大略を述べるに至った。かつて福清の葉相国が『西賢に贈る』の詩にこう詠んだ。「中華の風を慕い、我が儒理に深く契く」 また「拘儒徒は管窺に過ぎず、達観は自ずから一視す」とも。誠にもして同異の観を化じ、天を尊ぶことを説く所以を取らざるを得ぬ。その指帰を究め、その義蘊を精すれば、学を言わず、教を言わずとも足るべし。然れども一切の窮神達化は、これより更に進むものあり、抑えもって余の及ぶ知らざるに過ぎぬ。康熙三年 甲辰の春 王正月 柱下史 毘陵許之漸 謹題 E 時間とは天地の所為 鬼神が幽かに働く所以 物類が集う所以 江河が流れる所以 富めるも貧しきも応ずべき有る云う。前性書二教、恩施この尤も納む。然るに天学の中土への伝来、その時は


 天學傳概 
 燕吳後學李祖白撰 

 人子孫,某處如德亞,此外東西南北,並無人居。

 天學,天主教學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福 圓滿,知能渾全;妙性超然,奥窮思悟,中土尊稱之曰上帝。兹以其為天地 之主宰,故質稱天主也。而其教則為人而立,别人於蠢動,儕人於天神,令 向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷 善為入門,以生死大事有備無患為究竟,誠吾人最喫緊之實學,而其從來遠 矣。緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者 悉備。而生初人,男女各一,其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永 不能脱。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇奸頑大,舉疾視之若讎。 自古稱為性教,愚非不足,聖非有餘,豈不然乎?只以性叅氣禀物誘交侵, 失其初良,而不敢漫言率也,則繼之以書教。後開闢三千七百有一年,天主 於西納山西距中國四萬里°頂,降石碑二,明列十誡為目,括以愛主愛人為綱。是 書教者,所以為性教之申命也。而不惟是,又後千四百九十七年,天主之教 世,又有進焉者。先是詔示人間,兼遣神人,此因舉世沉迷,躬自降救,下取 人性以接本性,而生如德亞國初人亦生於此,西納山在其界内。之白稜郡,名耶穌。在世 三十有三載,所顯奇跡甚衆。命死者活即活;命瞽者見即見;巨浪雄風, 命息即息;虐魔恣害,命退即退。蓋與化成功用萬有應命而出者,同一神 異也。詳明誡理,簡定新規,群心大服,名其教為寵教,以見教由主寵,非人 分所應有云。較前性書二教,恩施此尤摯矣。然則天學之傳及中土,其時 亦可得而稽乎?日有斯人,即有斯教,中土人與教同時並得也。何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。

惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。 受之也,豈偶然哉?其見之《書》曰:「昭受上帝,天其申命用休。」曰:「予 畏上帝,不敢不正。」曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」曰:「顧諟天之明命。」曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上 帝。」曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」見之《詩》曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天 鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」曰:「口我來牟,上帝率育。」曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」《魯論》曰:「獲罪於天,無 所禱也。」曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」曰:「丘之禱久矣。」曰:「畏天 命。」

天学伝概
燕呉の後学 李祖白 撰

人の子孫、某処に如徳亜あり、このほか東西南北、並に人居ず。

天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然として、奥は思悟に窮む。中土では尊称して上帝と称す。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称す。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)より別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交じり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナイ山西(中国から四万里)の頂に降り、石碑二枚を刻み、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、また進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷い深まったため、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ユダヤの初の人もまたここに生まれ、シナイ山はその境内にあった。白陵郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。

では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫は徳亜のように一箇所に集まっていたが、東西南北の他には人の住むところなかった。

当時、人々は一主を事え、一教を奉じ、紛れもしい邪説は生じる余地もなかった。その後、人口が増え続け、人々は遠く離れて散らばっていった。そして大東と大西に人が住み始めたのは、ほぼ同時期であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時期に、中国に人が現れた始まりである。

ただこの中国における最初の人々は、まさにユダヤの末裔のように、西から東へ渡り、天学を心に抱いて来たのである。

子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。延々と唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒めを告げ、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるもの及び救世の宗徒の多い者たちは、中土で教えを伝え、その事績は西方の史書に蔵されている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にこう記されているのを見よ:「昭は上帝を受け、天は命を申して用いて休む」。「我は上帝を畏れ、敢えて正さずにはおかない」。「惟皇上帝、衷を下民に降す」。「上帝は下民を妥佑す」。「唯簡在上帝之心」。曰く「惟上帝不常、作善降之百祥、作不善降之百殃」。曰く「顧諟天之明命」。曰く「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王は上に在り、天に照る。文王昇降し、帝の左右に在り。」曰く:「唯この文王翼翼、上帝に照事す。天鑑は下に在り、命は既に集う。上帝汝に臨む、心を二うることなかれ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨み赫々たり。」 「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず。天の変りを畏れ、駆け巡ることを敢えてせず。」曰く:「広大なる上帝、下民の庇護者。天は衆民を生み、その命は決して偽りなし。」曰く:「我が来牟(きむ)、上帝が率いて育む。」曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は他と異なる。上帝はこれ依り……『二心なく憂いなく、上帝は汝に臨む。』」『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし。」曰く:「我が否むところ、天はこれを厭う、天はこれを厭う。」曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」

《中庸》曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」曰:「上天之載,無聲無臭,至 矣。」《孟子》曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」曰:「順天者存,逆天 者亡。」曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。

吕秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。

又後九百四十六載,遡天 主降生千五百八十一年,為明萬曆辛巳。耶穌會士西泰利子,自歐羅巴梯 航九萬里東來,庚子底燕京,貢聖像、西琴、自鳴鐘等物。朝廷義隆柔遠,恩 《御製文》有銘,西泰氏孩 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。

『中庸』に曰く:「郊社之礼、所以事上帝也。」曰く:「上天之載、無声無臭、至矣。」『孟子』に曰く:「楽天者、保天下。畏天者、保其国。」曰く:「順天者存、逆天者亡。」曰く:「雖有悪人、齋戒沐浴、則可以事上帝。」 曰く:「その心を存じ、その性を養うは、天を事える所以なり。妖寿は二たからず、身を修めてこれを待つは、命を立てる所以なり。」凡そこれらの諸文、天学の微言法語でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。

呂氏と秦が周を代え、法律を重んじ『詩経』『書経』を棄てた。古の典籍は全て烈火に遭い、天学の詳なるは再び見られず、哀れなり!西漢元寿の世に至り、天主降誕と救世の業が成就すると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事跡は西洋史に記されている。この中州の近き地に、明末に十字教規が伝播したのは、天主が救世の功を十字架に成し遂げたゆえに、その名を教義としたのであり、これこそトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩を経た頃、大秦国よりユダヤ国の修道士アロボンが経典と仏像を携え遠路来朝した。宰相が郊外で出迎え、宮殿内で経典を翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景教寺を置かせた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教は唐に伝わり、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証できる。

また九百四十六年後、天主降誕千五百八十一年に遡り、明の万暦辛巳年にあたる。イエズス会の西泰利子(シチリ)がヨーロッパから九万里の航海を経て東来し、庚子年に燕京(北京)に到着し、聖像、西洋の琴、自動鳴鐘などを献上した。朝廷は遠方を慈しむ義を重んじ、恩恵を尽くした。『御製文』に銘があり、

西泰氏は「赤子のごとく」大官の恩恵に与った。同時に詔に従い内地に入った者はさらに十名、礼遇は至れり尽くせりであった。士紳の先生方は彼と交わり、天主の大道を講究し、多くの点で契合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊・龐・陽・龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁がおり、いずれも当時名声を轟かせた。崇禎己巳年、朝廷で暦書の修訂が議された。徐文定公は素より西方の賢者に敬意を払い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として暦書の編纂を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦書が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦書の編纂に最初から最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。

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利子はマテオ・リッチのことだろう。


人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 × 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 中丞匯白佟、廉察鶴沙許二公[三];信嚮綦堅。宦遊所到,捐貲營築,以奉天 主。俸入不為己有,而為天主有。其視明葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、 李卿、楊京兆數君子[四];樂為道侣身主者,又何讓乎江南之蘇淞二郡,浙 之武林,江右之南昌之建昌之南贛,楚之武昌,閩之福州之建寧之延平之汀 州,蜀之重慶之保寧,咸有新堂,西賢居焉。前己丑,余師為曆學計久遠,特 疏上請,敦伯南子[]以知曆赴闕庭,仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 餘人  我國家肇造區夏,一統無外,名公鉅卿,相與黼黻皇猷於上,而輦轂內 外,或省會之衝,或鄉邑之僻,每有西賢至止,時出其所學,為世津梁,指正 真之定極,杜誑惑之旁蹊,於以下肅人心,上襄王化。唐虞三代之風,庶其 再見於今日歟?利西泰而下,著述號最富者,《進呈曆書》百餘卷,業蒙宣付 史館。他若理器殊彙,莫非教學攸關,成書又三百卷。有經、有史、有超形 性學、有形性學、有修學、有天文學,板藏京師、江南、浙、閩、秦、晉各堂。且 總計載來圖書七千餘部。群賢感荷帡幪,賓至忘返,共矢協佐同文,抑首翻 矣。 譯,川至日昇,殆無窮竟。嗚呼!此又秦火以前未有之盛事也,漢唐無論 癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代 口答。

人称東堂、宣武門の堂と区別するためである。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵を賜っている。四方の西の賢人たちが鐘を鳴らす地において、士民はますます敬慕の念を奮い立たせた。ある時、紅」が官庁から支給を受けた。同時に勅命に従い内地に入った者も十数名おり、礼遇は至れり尽くせりであった。紳士や先生たちが彼と交わり、天主の大道を論じ合うと、多くの点で意気投合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥年(1688年)に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊、龐、陽、龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁らが現れ、共に世に名を馳せた。崇禎己巳年(1637年)、朝廷で暦法の修訂が議された。徐文定公(徐文定)はかねてより西賢を敬い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として修暦を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦事の始末に最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。人々はこれを東堂と呼び、宣武門の堂と区別した。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵に浴している。そして四方の西賢が鐘を鳴らす地では、士民の敬慕の念が一層高まっている。折しも中丞匯白佟、廉察鶴沙許の二公[三]が、信仰を堅く持ち、官途を巡る所々で財を投じて堂宇を営み、天主を奉じた。俸給は己のためではなく天主のため。明の葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、李卿、楊京兆の諸君[四]が、自らを道友の身主と為すことを惜しまなかったならば、江南の蘇松二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州など、 道友として主を奉じることを喜びとする者、江南の蘇淞二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州・建寧・延平・汀州、蜀の重慶・保寧に新堂を建立し、西の賢人たちがそこに住まうに至った。己丑の年、我が師は暦学の計算を久遠にわたり行い、特に上奏して請い、敦伯南子[]を暦官として闕庭に赴かせ、大官の御用を仰いだ。同時に詔に従い内地に入った者は、また十数人に及ぶ。我が国家は区夏を創建し、一統して外なきをなし、名公巨卿は 共に皇猷を黼黻し、輦轂の内外、あるいは省会の要衝、あるいは郷邑の僻地において、西賢が訪れる度に、その学問を時折披露し、世の津梁となり、真の定極を指し示し、誑惑の傍蹊を断ち、これにより下には人心を整え、上には王の化を助けた。唐虞三代の風潮が、今日再び見られるのだろうか?李西泰以降、著述で最も豊富なのは『進呈暦書』百余巻で、すでに史館に奉納されている。その他、理器殊彙など、いずれも教学に関わるもので、成書はさらに三百巻に及ぶ。経典あり、史書あり、形性を超えた学問あり、形性を論じた学問あり、修養の学問あり、天文学あり。版木は京師、江南、浙、閩、秦、晋の各堂に蔵される。総計して来たる図書七千余部を載せ。群賢は恩恵に感銘し、賓客は帰りを忘れ、共に協力を誓い、同文を助けることを誓う。訳すこと、川の流れのように日増しに、ほぼ尽きることがない。ああ!これはまた秦の焚書以前にも例を見ない盛事である。漢唐は言うまでもなく。癸卯の年の初冬、公余のわずかな暇に、客が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代える。

天学伝概
燕呉の後学 李祖白 撰

人の子孫、某処に如徳亜あり、このほか東西南北、並に人居ず。

天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然としており、奥義は思悟に尽きる。中土では尊称して上帝と呼ぶ。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称する。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)から別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交わり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナ山西(中国から四万里離れた山)の頂に降り、石碑二基を立て、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、さらに進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷いに沈むゆえ、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ドイツの初の人もまたここに生じ、シナイ山はその境内にあった。白稜郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫は徳亜のように集住し、東西南北には他に人の住むところなし。当時、一主を事え、一教を奉じ、紛岐する邪説は生じる余地なし。その後、人口日増しに繁り、遠く離れて散らばる。大東と大西に人が現れ始めた時期はほぼ同時であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時代に、中国に人が現れた始まりである。この中国最初の民は、まさにドイツの末裔のように、西から東へ渡り、天の教えを心に抱いて来たのである。子孫を育み、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣が朝廷で戒め合い、聖賢が後世に訓戒を垂れる中で、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるものや救世の宗徒が多い者たちは、中土で教えを実践し、その事績は西方の史書に収められている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にその見所あり曰く:「昭くして上帝を受く、天その命を申す用い休む」。曰く:「予は上帝を畏れ、敢えて不正を為さず」。曰く:「惟く皇上帝、その衷を下民に降す」。曰く:「上帝は下民を妥佑す」。曰く:「惟く簡は上帝の心に在り」。曰く:「惟く上帝は常ならず、善を為せば百祥を降し、不善を為せば百殃を降す」。曰く: 「顧諟天之明命」。曰く:「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く:「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王在上、於昭於天;文王陟降、在帝左右」。曰く:「維此文王翼翼、昭事上帝。天鑑は下にあり、命は既に集う。上帝は汝に臨み、心を二心なくせよ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨みて赫々たる。」「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず;天の変りを畏れ、駆けることを敢えてせず。」曰く:「蕩蕩たる上帝、下民の辟なり。天生るて衆民を、その命は諶(しん)ならず。」 曰く:「我が来牟(きむ)は、上帝率育(すくすく)せしむ」。曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は異なる。上帝はこれ依り……『心を二分せず、憂いなく、上帝は汝に臨む』」。『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし」。曰く:「我が否むところ、天は厭う、天は厭う」。曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」『中庸』曰く:「郊社之礼、上帝を事える所以なり。」曰く:「上天の載せしもの、声なく臭いなく、至るなり。」『孟子』曰く:「天を楽む者は天下を保ち、天を畏れる者はその国を保つ。」曰く:「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ。」 曰く:「たとえ悪人であっても、斎戒沐浴すれば、上帝を事えることができる。」曰く:「その心を存じ、その性を養うこと、これ天を事える所以である。妖寿は二つの道を持たず、身を修めてこれを待つこと、これ命を立てる所以である。」

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 校記 
[一]鄧玉函,字函璞;湯若望,字道未;羅雅谷,字味。
 [二]利類思,字再可;安文思,字景明。
 [五]南懷仁,字敦伯 。 以上耶稣會士。
 [三]佟國器,字思遠,號匯白;許纘曾號鵠沙。
 [四]葉向高,謚文忠;徐光啟,謚文定;韓,宰相,蒲州人;劉宇亮,宰相,绵竹人;李之藻,仕光禄寺卿,故稱;楊廷筠,官京兆尹,故稱。
以上中國官吏。其中葉向高、韓、劉宇亮,家人有領洗入教者,而本人尚難確定。

 遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。 国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問合せの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。

校記
[一]鄧玉函、字は函璞;湯若望、字は道未;羅雅谷、字は味。
[二]利類思、字は再可;安文思、字は景明。
[五]南懷仁、字は敦伯。以上イエズス会士。
[三]佟国器、字は思遠、号は匯白;許纘曾、号は鵠沙。
[四]葉向高、諡は文忠;徐光啓、諡は文定;韓、宰相、蒲州人;劉宇亮、宰相、綿竹人; 李之藻、光禄寺卿に任じられたため称される;楊廷筠、京兆尹の官職にあったため称される。
以上は中国官吏。このうち葉向高、韓、劉宇亮は、家族に洗礼を受けて入教した者がいるが、本人については未だ確定が難しい。

遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問い合わせの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。


西泰利子
多分マテオ・リッチのこと
利玛窦(義大利語:Matteo Ricci,1552年10月6日—1610年5月11日),号西泰,又号清泰西江,天主教耶稣會意大利籍神父、传教士、学者。明万历十一年(1583年)前往中國居住。在明朝颇受士大夫的敬重,尊称为"泰西儒士"。他是天主教在華传教的开拓者之一,也是第一位阅读中国文学并对中国典籍进行钻研的西方学者。他除传播天主教教义外,还广交中国官员和社会名流,传播西方天文、数学、地理等科学技术知识。他的著述不仅对中西交流作出了重要贡献,对日本和朝鲜半岛上的国家认识西方文明也产生了重要影响。[1]
1984年獲得天主之僕稱號。2022年教宗方濟各宣布利玛窦為可敬者。[2]天主教馬切拉塔教區于2011年開始對耶稣会士利玛窦神父列真福品进行审理[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/阿羅本

阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。
歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。
「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。
貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。 唐高宗時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。

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