2025年11月14日金曜日

【伊勢志摩から4時間かけてご帰京】天皇皇后両陛下 21:30すぎに三重県賢島から東京駅にご到着 完全封鎖の改札でJR東海駅員がファインプレーを魅...

【戦後日本の右派・左派】なぜ保守派が改憲で、革新派が護憲なの? 日本国憲法、朝鮮戦争、安保闘争、ニクソン訪中、天安門事件で現代日本政治史の《軸》...


前提として確認しておきたいことは、

右翼に皇道派と統制派があるように、左翼にもマルクス主義とアナーキズムがある、ということだ。

特にアナーキズムはテロリズムと同一視する人がいるが、基本的には協同組合主義である。

マルクス本人も実は生産協同組合を推奨していた。

2025年11月9日日曜日

2018年12月 入管難民法 採決 れいわ新選組 山本太郎代表が牛歩で1人反対

れいわ 山本太郎 消費税廃止!住まいは権利!さんによるXでのポスト


2025年11月6日木曜日

ビタミンB1

豚肉

大豆

玄米

上記の他に、ナッツ類もビタミンB1が多い食材です。例えば、落花生、アーモンド、くるみ、ぎんなん、カシューナッツ、カボチャの種、ひまわりの種、ひよこ豆などの他、ごまもビタミンB1が豊富です。これらはそのまま食べても良いですし、もちろん料理にも活用できます。
また、植物性の食品では、そばやライ麦、とうもろこし、枝豆、しいたけなど、動物性食品では鶏や豚のレバーなど、魚では、うなぎやさば、かつおなどもビタミンB1が豊富な食材です。


2025年11月5日水曜日

木村強

尿管結石を包んでまとめて除去してくれる「逆服薬ゼリー的手法」が誕生 - ナゾロジー

尿管結石を包んでまとめて除去してくれる「逆服薬ゼリー的手法」が誕生 - ナゾロジー

尿管結石の40%は手術しても取り残されている

画像
Credit:Magnetic retrieval of kidney stones via ureteroscopy in a porcine model

「腎臓の結石が磁石で取れたら…」そんな冗談みたいなことを考えた人は案外多いかもしれません。

特に腎臓結石の激しい痛みに一度でも苦しんだ経験のある人ならなおさらでしょう。

実は、最新の研究によってそれが冗談では済まなくなるかもしれないのです。

そもそも腎臓にできる結石とは、体のなかで結晶化した小さなミネラル(鉱物)が、腎臓や尿管などをふさいでしまう病気です。

小さな石でも尿の通り道が詰まると、非常に激しい痛みを伴います。

そこで現在、一般的に行われている治療が「レーザー砕石術(さいせきじゅつ)」という手術です。

これは、細く柔らかな管状のカメラ(内視鏡)を尿道から入れ、腎臓まで進めて、結石をレーザーで細かく砕く方法です。

しかし、砕いた結石をどうやって回収するかが問題でした。

従来の方法では、レーザーで細かく砕いたあとに、バスケットカテーテル(小さなかごのついた細い器具)で、破片を一つひとつ地道に拾い上げる必要があります。

この作業は想像するだけでも気が遠くなるほど手間がかかり、術者はもちろん、患者さんにとっても負担が大きいのです。

しかも、この「かご」では小さすぎる破片をすべて拾いきれません。

実際、手術後の患者さんのうち約40%で、破片が腎臓や尿路に残ってしまうことが報告されています。

残された破片は、尿路を再びふさいだり、細菌感染を引き起こしたり、さらには再び結石の芯になって再発の原因となることがあります。

では、徹底的に細かく砕いて「砂」のようにサラサラにすれば、破片が勝手に尿と一緒に流れ出るのではないか?

最近では、そうした考えで「粉砕モード」と呼ばれる処置を行うこともあります。

ところが実際には、その粉末状の破片の多く(約75%)が尿と一緒に流れ出ず、腎臓に残ってしまうことが知られています。

結局のところ、粉にしても安全という保証はありません。

微細な破片から再び結石が大きく育ってしまい、再発するケースも少なくないのです。

さらに最近では、こうした微細な破片を吸引する「吸引デバイス」も登場しています。

しかしこれも完全な解決とはいきません。

石をきれいに粉砕しないと吸引できないうえ、破片が詰まってしまうと尿路内の圧力が急上昇し、腎臓に負担がかかるリスクがあると報告されています。

つまり、どの方法をとっても「結石破片をすべて安全に除去する」という課題は、泌尿器科の分野で長らく未解決のままでした。

この難問に、今回スタンフォード大学の研究チームが立ち上がりました。

彼らが提案したのは、「砕けた結石に磁石でくっつく性質を与え、一気にまとめて回収する」という新しい発想です。

「磁石で一網打尽」というのは、かなり大胆に聞こえますが、科学的な仕組みは意外なほどシンプルで理にかなっています。

もし本当に砕けた結石を砂鉄のように磁石でまとめて回収できるなら、手術の常識が根本から変わるかもしれません。

それにしても、本当にそんなことが可能なのでしょうか。

地域通貨花子1さんによるXでのポスト 神経美学

【脳は‟美”をどう認識しているのか】神経美学とは何か|美は測れるのか|‟美”を感じる脳の部位|音楽を聞く、美術を見る…脳の反応は違う?|道徳的な...



天學傳概 李祖白 再改訂版

天學傳概 李祖白


抜粋:
《何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。

惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。

何以言之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時,事一主,奉一教,紛岐邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逳。而大東大西,有人之始,其時略同。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時代に、中国に人が現れた始まりである。

ただこの中国最初の民は、まさにユダヤの子孫のように、西から東へ移り住んだものであり、天の教えは彼らが本来心に抱いていたものである。子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この学問が中国に根付いた当時は、今よりはるかに隆盛であったに違いない。唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒め合い、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに励まし合った。生誕の地や救世の宗徒が多い者たちは、中土で教えを広め、その事績は西方の史書に記されている。


吕秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。

呂秦が周を代え、法律を任じ、《詩経》《書経》を棄てた。かつての文献は全て炎に焼かれ、天学の詳らかなところはもはや見られぬ。悲しいことよ!西漢の元寿に至り、天主が降誕し救世を成し遂げると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事は西方の史書に記されている。このうち中州に近い地域では、明の末期に十字教の教規が伝わり、天主が救世を成し遂げ、功を十字に結んだことから、この名を教義とした。これこそがトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩に遡る頃、大秦国(すなわちユダヤ国)の修道士アロボンが経典と仏像を携え、遠くから再訳して来朝した。これを受けて宰相は郊外で出迎え、経典を宮殿内で翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景寺を設置させた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教行は唐にあって、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証し得る。》

宗徒聖多默者
聖多默( S. Thomas Apostolus)

阿羅本
阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。

如德亞
を自動翻訳はユダヤと訳さないことが多い
 
明末清初天主教史文獻叢編 
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 天學傳概 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 

天學傳概 

 天學傳概目録 
天學傳概前言 周弭方 
天學傳概序 許之漸 
天學傳概 李祖白 

 天學傳概前言 

 《天學傳概》,李祖白撰,清康熙刻本,九行二十字,白口單邊。今海内外僅梵蒂岡在中國天主教史、中西思想公 教廷圖書館有藏。

李祖白,字然真。明天啟六年與湯若望合作,譯《遠鏡説》。入清,湯若望順治元年 八月十一日《請給新曆供費兼陳本局要務疏》云:「如順天生員宋可成、副榜監生李祖 白、儒士掌乘、焦應旭,此四人者,文理優通,有志曆學,訪舉在局,効力多年。」二十五日 旨下,李祖白等「以効力有年,勤敏可加,相應照例量帶欽天監博士職銜」(見《西洋新法 曆書奏疏》二卷)。至順治六年刻《西洋新法曆書》,李祖白成欽天監夏官正。 祖白以弟子禮事湯若望。順治十七年七月,湯氏立聖母堂碑於北京教士公墓。祖 白有跋,刻於碑陰。跋云:「吾師湯道未先生,諱若望。西海熱爾瑪尼亞國人。幼齡學 道,入耶穌會,以宣傳天主正教爲務。三十遊中華,爲天啟二年。嗣以夙諳曆學,歲己 巳由大學士徐文定公薦,應召來京修曆,凡十餘載。恭遇國朝建鼎,遂用西洋新法,造 曆頒行。洊荷恩禮優異,迄今未艾云。門人李祖白謹識。」湯氏纂定《西洋新法曆書》 中,《渾天儀說》一卷、《五緯表》十卷,镌受法門人中,有「祖白」名。 康熙二年癸卯孟冬,祖白「公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次,以代 口答」。是即《天學傳概》,許之漸序。此書一出,天下大譁。楊光先即投《與許青嶼( 漸)侍御書》,狂訾祖白。是年冬,因曆法事,朝廷議湯若望、李祖白不軌,罪至極刑。後 因京師連續地震,朝中不敢遽用;再議,若望得開釋,欽天監附教官員李祖白、宋可成、 宋發、朱光顯、劉有泰五人俱處斬。至康熙八年,湯若望、李祖白之欽天監案,始得平反 昭雪。 《天學傳概》是天主教名著,在中國天主教史、中西思想交匯史上,均有獨特地位。 祖白也曾參與教會其他書籍之校刻。高一志譯《聖母行實》,卷三修潤者題「虎林 李祖白」。虎林,今安徽贵池,古吴封地,故是書祖白自署「燕吴後學」。 本次整理《天學傳概》,以台灣吳相湘氏《天主教東傳文獻續編》影印本為底本,除 了徑直訂正引文中的一些錯訛外,其他文字没有任何改動。 二〇〇〇年五月六日北京周驛方謹序 

天学伝概 李祖白

明末清初カトリック史文献叢編
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校 天学伝概 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校

天学伝概

天学伝概目録
天学伝概前言 周弭方
天学伝概序 許之漸
天学伝概 李祖白

天学伝概前言

『天学伝概』は李祖白が撰し、清康熙刻本、九行二十字、白口単辺である。現在、国内外ではバチカン市国の中国カトリック史・中西思想公教廷図書館にのみ所蔵がある。

李祖白、字は然真。明天啓六年、湯若望と協力して『遠鏡説』を翻訳した。清代に入り、湯若望は順治元年8月11日付『新暦供費請給兼本局要務陳疏』において「順天生員宋可成、副榜監生李祖白、儒士掌乗、焦応旭の四名は、文理に優れ、暦学に志をもち、局に招かれ、長年尽力してきた」と記している。二十五日、勅旨が下り、李祖白らは「長年尽力し勤勉で敏捷であるため、例に照らし欽天監博士の職名を兼任させる」とされた(『西洋新法 暦書奏疏』二巻参照)。順治六年『西洋新法暦書』を刻印した際、李祖白は欽天監夏官正となった。祖白は弟子として湯若望を敬慕した。順治十七年七月、湯氏は北京の宣教師墓地に聖母堂碑を建立。祖白が碑陰に跋文を刻む。跋文に「我が師湯道未先生、諱は若望。西洋ドイツ国人。幼少より道に学び、イエズス会に入り、天主正教の宣教を志す。三十歳で中華に赴き、天啓二年となる。嗣に歴学に精通していたため、己巳の年に大学士徐文定公の推薦により召され、京に赴いて暦を修め、十余年に及んだ。恭しく国朝の建鼎に遇い、遂に西洋の新法を用いて暦を造り頒布した。相次いで恩恵と礼遇に浴し、今に至るまで衰えを知らない。門人李祖白謹んで記す。」 湯氏が編纂した『西洋新法暦書』の中に、『渾天儀説』一巻、『五緯表』十巻があり、受法門人の中に「祖白」の名がある。康熙二年癸卯の孟冬、祖白は「公余の少しいつかの間に、客人が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代えた」 。これが『天学伝概』であり、許之漸の序文である。本書が出ると、天下は大いに騒然となった。楊光先は直ちに『許青嶼(漸)侍御書』を投じ、祖白を激しく誹謗した。この年の冬、暦法の問題により、朝廷は湯若望・李祖白の不軌を議し、極刑に処した。後に京師で連続地震が発生したため、朝廷は急いで採用できず、 再議の結果、若望は釈放され、欽天監の付教官吏である李祖白、宋可成、宋発、朱光顕、劉有泰の五人は全員斬刑に処された。康熙八年になって、湯若望と李祖白の欽天監事件はようやく平反され、昭雪された。『天学伝概』はカトリックの名著であり、中国カトリック史、中西思想交流史においていずれも独特の位置を占める。祖白は教会の他の書籍の校訂・刻印にも参加した。高一志訳『聖母行実』巻三の修潤者は「虎林 李祖白」と題している。虎林は現在の安徽省貴池市、古の呉の封地であるため、本書で祖白が自ら「燕呉の後学」と署名している。今回の『天学伝概』整理は、台湾の呉相湘氏編『天主教東伝文献続編』影印本を底本とし、引用文中の誤りを直接訂正した以外は、他の文字に一切手を加えていない。二〇〇〇年五月六日 北京 周驛方謹序


 天學傳概序 
  自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學, 未有不本乎天者也。黄軒迄今,世無異治,而教統一裂,人自為學,家自為 師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其 名,而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虚寂,窮其所託,與吾儒之盡性至 命,不有殊途而同歸者乎?惟是斁倫毁紀,捨君臣父子之大,而躭夫幽渺虚 寂,以别求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而闢之也。彼行之不著,習 矣不察,終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者或不能無弊。如欲循 其弊以為救,仍莫若尊天以立說。相傳開闢以來,有所為天主教學者,驟而 聆其語,若儻怳而弗可據。即其於吾儒當告之以二帝三王之道,日月星辰 之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆 告之以其學也。久之而親,其人繹其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工 夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟;其於二帝三王之道,日月 星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡 弗相始終相表裏。超出乎二氏之上,而後知其學,何莫非吾儒之學也?其 教自漢唐流傳中土。

明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來,建 堂於宣武門内。一時名公卿,多樂與之遊。至國朝恩禮倍渥,通微教師實 總曆務,復勅建東堂,再可利子、景明安子主之,余俱樂與之遊。而然真李 子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福 清葉相國,《贈西賢》詩有云:「言慕中華風,深契吾儒理。」又云:「拘儒徒 管窺,達觀自一視。」誠化其同異之見,取所為尊天以立説者。究其指歸,精 其義蘊,即不言學,並不言教可也。而一切窮神達化,更有進乎此者,抑非 余之所及知也已。 康熙三年歲在甲辰春王正月柱下史毘陵許之漸敬題 E 時間以 天地之所 鬼神之所以幽,物類之所以會,江河之所以说,不富 分所應有云。前性書二教,恩施此尤纳矣。然則天學之傳及中土,其時 

天学伝概序
  天地の心が見えて初めて、君師の道が興る。帝王が治める所以、聖賢が学ぶ所以、天に本ぜずして成ったものはない。黄軒(黄帝)の時代から今日に至るまで、世に異なる治め方はなく、教えは統一されながら分裂し、人々は各自で学び、家は各自で師となる。水と火が相容れないが、要するに天を尊んで説を立てる者はいない。彼とこの間の往々にして、陽にはその名を排し、陰にはその実を窃む。道家の幽玄、仏子の虚寂も、その拠り所を究めれば、儒家の「性を尽くし命に至る」と、道は異なれど帰処は同じではないか。ただ、倫を廃し紀を壊し、君臣父子の大を捨てて幽玄虚寂に耽り、別に所謂天を求めること、これ二氏の教えが儒者が辞して斥ける所以である。彼らが実践を明らかにせず、習わしを深く察さず、終生君臣父子の道に留まり、天の働きを認識しないならば、儒者にも欠陥が生じかねない。もしその欠陥を正そうとするなら、やはり天を尊んで説を立てるに勝るものはない。伝承によれば、開闢以来「天主教学」を唱える者たちがいたが、その言葉を聞けば突如として怪しく頼りない。たとえ儒者に接しても、二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転を説くべきであり、彼らの学問を安易に語るべきではない。時を経て親しく接するにつれ、その書を読み解くと、事象の明示と堕落防止を宗旨とし、己を克ち人を愛することを実践とし、過ちを悔い善へ改めることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転に至るまで、これらと相補相表裏をなさないものはない。二氏(仏教・道教)を超越し、初めてその学問が、何一つとして我が儒者の学問でないものはないと知る。その教えは漢・唐の時代から中国に伝わる。

明の万暦辛巳年(1581年)、イエズス会の宣教師シレリが九万里の海を渡って来訪し、宣武門内に堂を建立した。当時、名高い公卿の多くが喜んで彼と交わった。我が朝に至っては恩恵と礼遇が倍増し、通微教師が実際に諸務を統括し、さらに勅命により東堂が建立され、再可利子と景明安子がこれを司った。私もまた皆と共に喜んで彼らと交わった。しかし、真に李子が私をその言葉に契りある者と見なしたのか、著書を手にし、利子を通じて私に序文を求め、その大略を述べるに至った。かつて福清の葉相国が『西賢に贈る』の詩にこう詠んだ。「中華の風を慕い、我が儒理に深く契く」 また「拘儒徒は管窺に過ぎず、達観は自ずから一視す」とも。誠にもして同異の観を化じ、天を尊ぶことを説く所以を取らざるを得ぬ。その指帰を究め、その義蘊を精すれば、学を言わず、教を言わずとも足るべし。然れども一切の窮神達化は、これより更に進むものあり、抑えもって余の及ぶ知らざるに過ぎぬ。康熙三年 甲辰の春 王正月 柱下史 毘陵許之漸 謹題 E 時間とは天地の所為 鬼神が幽かに働く所以 物類が集う所以 江河が流れる所以 富めるも貧しきも応ずべき有る云う。前性書二教、恩施この尤も納む。然るに天学の中土への伝来、その時は


 天學傳概 
 燕吳後學李祖白撰 

 人子孫,某處如德亞,此外東西南北,並無人居。

 天學,天主教學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福 圓滿,知能渾全;妙性超然,奥窮思悟,中土尊稱之曰上帝。兹以其為天地 之主宰,故質稱天主也。而其教則為人而立,别人於蠢動,儕人於天神,令 向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷 善為入門,以生死大事有備無患為究竟,誠吾人最喫緊之實學,而其從來遠 矣。緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者 悉備。而生初人,男女各一,其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永 不能脱。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇奸頑大,舉疾視之若讎。 自古稱為性教,愚非不足,聖非有餘,豈不然乎?只以性叅氣禀物誘交侵, 失其初良,而不敢漫言率也,則繼之以書教。後開闢三千七百有一年,天主 於西納山西距中國四萬里°頂,降石碑二,明列十誡為目,括以愛主愛人為綱。是 書教者,所以為性教之申命也。而不惟是,又後千四百九十七年,天主之教 世,又有進焉者。先是詔示人間,兼遣神人,此因舉世沉迷,躬自降救,下取 人性以接本性,而生如德亞國初人亦生於此,西納山在其界内。之白稜郡,名耶穌。在世 三十有三載,所顯奇跡甚衆。命死者活即活;命瞽者見即見;巨浪雄風, 命息即息;虐魔恣害,命退即退。蓋與化成功用萬有應命而出者,同一神 異也。詳明誡理,簡定新規,群心大服,名其教為寵教,以見教由主寵,非人 分所應有云。較前性書二教,恩施此尤摯矣。然則天學之傳及中土,其時 亦可得而稽乎?日有斯人,即有斯教,中土人與教同時並得也。何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。

惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。 受之也,豈偶然哉?其見之《書》曰:「昭受上帝,天其申命用休。」曰:「予 畏上帝,不敢不正。」曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」曰:「顧諟天之明命。」曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上 帝。」曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」見之《詩》曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天 鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」曰:「口我來牟,上帝率育。」曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」《魯論》曰:「獲罪於天,無 所禱也。」曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」曰:「丘之禱久矣。」曰:「畏天 命。」

天学伝概
燕呉の後学 李祖白 撰

人の子孫、某処に如徳亜あり、このほか東西南北、並に人居ず。

天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然として、奥は思悟に窮む。中土では尊称して上帝と称す。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称す。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)より別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交じり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナイ山西(中国から四万里)の頂に降り、石碑二枚を刻み、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、また進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷い深まったため、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ユダヤの初の人もまたここに生まれ、シナイ山はその境内にあった。白陵郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。

では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫は徳亜のように一箇所に集まっていたが、東西南北の他には人の住むところなかった。

当時、人々は一主を事え、一教を奉じ、紛れもしい邪説は生じる余地もなかった。その後、人口が増え続け、人々は遠く離れて散らばっていった。そして大東と大西に人が住み始めたのは、ほぼ同時期であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時期に、中国に人が現れた始まりである。

ただこの中国における最初の人々は、まさにユダヤの末裔のように、西から東へ渡り、天学を心に抱いて来たのである。

子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。延々と唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒めを告げ、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるもの及び救世の宗徒の多い者たちは、中土で教えを伝え、その事績は西方の史書に蔵されている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にこう記されているのを見よ:「昭は上帝を受け、天は命を申して用いて休む」。「我は上帝を畏れ、敢えて正さずにはおかない」。「惟皇上帝、衷を下民に降す」。「上帝は下民を妥佑す」。「唯簡在上帝之心」。曰く「惟上帝不常、作善降之百祥、作不善降之百殃」。曰く「顧諟天之明命」。曰く「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王は上に在り、天に照る。文王昇降し、帝の左右に在り。」曰く:「唯この文王翼翼、上帝に照事す。天鑑は下に在り、命は既に集う。上帝汝に臨む、心を二うることなかれ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨み赫々たり。」 「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず。天の変りを畏れ、駆け巡ることを敢えてせず。」曰く:「広大なる上帝、下民の庇護者。天は衆民を生み、その命は決して偽りなし。」曰く:「我が来牟(きむ)、上帝が率いて育む。」曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は他と異なる。上帝はこれ依り……『二心なく憂いなく、上帝は汝に臨む。』」『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし。」曰く:「我が否むところ、天はこれを厭う、天はこれを厭う。」曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」

《中庸》曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」曰:「上天之載,無聲無臭,至 矣。」《孟子》曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」曰:「順天者存,逆天 者亡。」曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。

吕秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。

又後九百四十六載,遡天 主降生千五百八十一年,為明萬曆辛巳。耶穌會士西泰利子,自歐羅巴梯 航九萬里東來,庚子底燕京,貢聖像、西琴、自鳴鐘等物。朝廷義隆柔遠,恩 《御製文》有銘,西泰氏孩 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。

『中庸』に曰く:「郊社之礼、所以事上帝也。」曰く:「上天之載、無声無臭、至矣。」『孟子』に曰く:「楽天者、保天下。畏天者、保其国。」曰く:「順天者存、逆天者亡。」曰く:「雖有悪人、齋戒沐浴、則可以事上帝。」 曰く:「その心を存じ、その性を養うは、天を事える所以なり。妖寿は二たからず、身を修めてこれを待つは、命を立てる所以なり。」凡そこれらの諸文、天学の微言法語でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。

呂氏と秦が周を代え、法律を重んじ『詩経』『書経』を棄てた。古の典籍は全て烈火に遭い、天学の詳なるは再び見られず、哀れなり!西漢元寿の世に至り、天主降誕と救世の業が成就すると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事跡は西洋史に記されている。この中州の近き地に、明末に十字教規が伝播したのは、天主が救世の功を十字架に成し遂げたゆえに、その名を教義としたのであり、これこそトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩を経た頃、大秦国よりユダヤ国の修道士アロボンが経典と仏像を携え遠路来朝した。宰相が郊外で出迎え、宮殿内で経典を翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景教寺を置かせた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教は唐に伝わり、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証できる。

また九百四十六年後、天主降誕千五百八十一年に遡り、明の万暦辛巳年にあたる。イエズス会の西泰利子(シチリ)がヨーロッパから九万里の航海を経て東来し、庚子年に燕京(北京)に到着し、聖像、西洋の琴、自動鳴鐘などを献上した。朝廷は遠方を慈しむ義を重んじ、恩恵を尽くした。『御製文』に銘があり、

西泰氏は「赤子のごとく」大官の恩恵に与った。同時に詔に従い内地に入った者はさらに十名、礼遇は至れり尽くせりであった。士紳の先生方は彼と交わり、天主の大道を講究し、多くの点で契合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊・龐・陽・龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁がおり、いずれも当時名声を轟かせた。崇禎己巳年、朝廷で暦書の修訂が議された。徐文定公は素より西方の賢者に敬意を払い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として暦書の編纂を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦書が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦書の編纂に最初から最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。

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利子はマテオ・リッチのことだろう。


人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 × 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 中丞匯白佟、廉察鶴沙許二公[三];信嚮綦堅。宦遊所到,捐貲營築,以奉天 主。俸入不為己有,而為天主有。其視明葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、 李卿、楊京兆數君子[四];樂為道侣身主者,又何讓乎江南之蘇淞二郡,浙 之武林,江右之南昌之建昌之南贛,楚之武昌,閩之福州之建寧之延平之汀 州,蜀之重慶之保寧,咸有新堂,西賢居焉。前己丑,余師為曆學計久遠,特 疏上請,敦伯南子[]以知曆赴闕庭,仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 餘人  我國家肇造區夏,一統無外,名公鉅卿,相與黼黻皇猷於上,而輦轂內 外,或省會之衝,或鄉邑之僻,每有西賢至止,時出其所學,為世津梁,指正 真之定極,杜誑惑之旁蹊,於以下肅人心,上襄王化。唐虞三代之風,庶其 再見於今日歟?利西泰而下,著述號最富者,《進呈曆書》百餘卷,業蒙宣付 史館。他若理器殊彙,莫非教學攸關,成書又三百卷。有經、有史、有超形 性學、有形性學、有修學、有天文學,板藏京師、江南、浙、閩、秦、晉各堂。且 總計載來圖書七千餘部。群賢感荷帡幪,賓至忘返,共矢協佐同文,抑首翻 矣。 譯,川至日昇,殆無窮竟。嗚呼!此又秦火以前未有之盛事也,漢唐無論 癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代 口答。

人称東堂、宣武門の堂と区別するためである。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵を賜っている。四方の西の賢人たちが鐘を鳴らす地において、士民はますます敬慕の念を奮い立たせた。ある時、紅」が官庁から支給を受けた。同時に勅命に従い内地に入った者も十数名おり、礼遇は至れり尽くせりであった。紳士や先生たちが彼と交わり、天主の大道を論じ合うと、多くの点で意気投合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥年(1688年)に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊、龐、陽、龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁らが現れ、共に世に名を馳せた。崇禎己巳年(1637年)、朝廷で暦法の修訂が議された。徐文定公(徐文定)はかねてより西賢を敬い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として修暦を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦事の始末に最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。人々はこれを東堂と呼び、宣武門の堂と区別した。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵に浴している。そして四方の西賢が鐘を鳴らす地では、士民の敬慕の念が一層高まっている。折しも中丞匯白佟、廉察鶴沙許の二公[三]が、信仰を堅く持ち、官途を巡る所々で財を投じて堂宇を営み、天主を奉じた。俸給は己のためではなく天主のため。明の葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、李卿、楊京兆の諸君[四]が、自らを道友の身主と為すことを惜しまなかったならば、江南の蘇松二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州など、 道友として主を奉じることを喜びとする者、江南の蘇淞二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州・建寧・延平・汀州、蜀の重慶・保寧に新堂を建立し、西の賢人たちがそこに住まうに至った。己丑の年、我が師は暦学の計算を久遠にわたり行い、特に上奏して請い、敦伯南子[]を暦官として闕庭に赴かせ、大官の御用を仰いだ。同時に詔に従い内地に入った者は、また十数人に及ぶ。我が国家は区夏を創建し、一統して外なきをなし、名公巨卿は 共に皇猷を黼黻し、輦轂の内外、あるいは省会の要衝、あるいは郷邑の僻地において、西賢が訪れる度に、その学問を時折披露し、世の津梁となり、真の定極を指し示し、誑惑の傍蹊を断ち、これにより下には人心を整え、上には王の化を助けた。唐虞三代の風潮が、今日再び見られるのだろうか?李西泰以降、著述で最も豊富なのは『進呈暦書』百余巻で、すでに史館に奉納されている。その他、理器殊彙など、いずれも教学に関わるもので、成書はさらに三百巻に及ぶ。経典あり、史書あり、形性を超えた学問あり、形性を論じた学問あり、修養の学問あり、天文学あり。版木は京師、江南、浙、閩、秦、晋の各堂に蔵される。総計して来たる図書七千余部を載せ。群賢は恩恵に感銘し、賓客は帰りを忘れ、共に協力を誓い、同文を助けることを誓う。訳すこと、川の流れのように日増しに、ほぼ尽きることがない。ああ!これはまた秦の焚書以前にも例を見ない盛事である。漢唐は言うまでもなく。癸卯の年の初冬、公余のわずかな暇に、客が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代える。

天学伝概
燕呉の後学 李祖白 撰

人の子孫、某処に如徳亜あり、このほか東西南北、並に人居ず。

天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然としており、奥義は思悟に尽きる。中土では尊称して上帝と呼ぶ。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称する。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)から別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交わり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナ山西(中国から四万里離れた山)の頂に降り、石碑二基を立て、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、さらに進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷いに沈むゆえ、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ドイツの初の人もまたここに生じ、シナイ山はその境内にあった。白稜郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫は徳亜のように集住し、東西南北には他に人の住むところなし。当時、一主を事え、一教を奉じ、紛岐する邪説は生じる余地なし。その後、人口日増しに繁り、遠く離れて散らばる。大東と大西に人が現れ始めた時期はほぼ同時であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時代に、中国に人が現れた始まりである。この中国最初の民は、まさにドイツの末裔のように、西から東へ渡り、天の教えを心に抱いて来たのである。子孫を育み、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣が朝廷で戒め合い、聖賢が後世に訓戒を垂れる中で、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるものや救世の宗徒が多い者たちは、中土で教えを実践し、その事績は西方の史書に収められている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にその見所あり曰く:「昭くして上帝を受く、天その命を申す用い休む」。曰く:「予は上帝を畏れ、敢えて不正を為さず」。曰く:「惟く皇上帝、その衷を下民に降す」。曰く:「上帝は下民を妥佑す」。曰く:「惟く簡は上帝の心に在り」。曰く:「惟く上帝は常ならず、善を為せば百祥を降し、不善を為せば百殃を降す」。曰く: 「顧諟天之明命」。曰く:「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く:「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王在上、於昭於天;文王陟降、在帝左右」。曰く:「維此文王翼翼、昭事上帝。天鑑は下にあり、命は既に集う。上帝は汝に臨み、心を二心なくせよ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨みて赫々たる。」「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず;天の変りを畏れ、駆けることを敢えてせず。」曰く:「蕩蕩たる上帝、下民の辟なり。天生るて衆民を、その命は諶(しん)ならず。」 曰く:「我が来牟(きむ)は、上帝率育(すくすく)せしむ」。曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は異なる。上帝はこれ依り……『心を二分せず、憂いなく、上帝は汝に臨む』」。『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし」。曰く:「我が否むところ、天は厭う、天は厭う」。曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」『中庸』曰く:「郊社之礼、上帝を事える所以なり。」曰く:「上天の載せしもの、声なく臭いなく、至るなり。」『孟子』曰く:「天を楽む者は天下を保ち、天を畏れる者はその国を保つ。」曰く:「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ。」 曰く:「たとえ悪人であっても、斎戒沐浴すれば、上帝を事えることができる。」曰く:「その心を存じ、その性を養うこと、これ天を事える所以である。妖寿は二つの道を持たず、身を修めてこれを待つこと、これ命を立てる所以である。」

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 校記 
[一]鄧玉函,字函璞;湯若望,字道未;羅雅谷,字味。
 [二]利類思,字再可;安文思,字景明。
 [五]南懷仁,字敦伯 。 以上耶稣會士。
 [三]佟國器,字思遠,號匯白;許纘曾號鵠沙。
 [四]葉向高,謚文忠;徐光啟,謚文定;韓,宰相,蒲州人;劉宇亮,宰相,绵竹人;李之藻,仕光禄寺卿,故稱;楊廷筠,官京兆尹,故稱。
以上中國官吏。其中葉向高、韓、劉宇亮,家人有領洗入教者,而本人尚難確定。

 遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。 国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問合せの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。

校記
[一]鄧玉函、字は函璞;湯若望、字は道未;羅雅谷、字は味。
[二]利類思、字は再可;安文思、字は景明。
[五]南懷仁、字は敦伯。以上イエズス会士。
[三]佟国器、字は思遠、号は匯白;許纘曾、号は鵠沙。
[四]葉向高、諡は文忠;徐光啓、諡は文定;韓、宰相、蒲州人;劉宇亮、宰相、綿竹人; 李之藻、光禄寺卿に任じられたため称される;楊廷筠、京兆尹の官職にあったため称される。
以上は中国官吏。このうち葉向高、韓、劉宇亮は、家族に洗礼を受けて入教した者がいるが、本人については未だ確定が難しい。

遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問い合わせの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。


西泰利子
多分マテオ・リッチのこと
利玛窦(義大利語:Matteo Ricci,1552年10月6日—1610年5月11日),号西泰,又号清泰西江,天主教耶稣會意大利籍神父、传教士、学者。明万历十一年(1583年)前往中國居住。在明朝颇受士大夫的敬重,尊称为"泰西儒士"。他是天主教在華传教的开拓者之一,也是第一位阅读中国文学并对中国典籍进行钻研的西方学者。他除传播天主教教义外,还广交中国官员和社会名流,传播西方天文、数学、地理等科学技术知识。他的著述不仅对中西交流作出了重要贡献,对日本和朝鲜半岛上的国家认识西方文明也产生了重要影响。[1]
1984年獲得天主之僕稱號。2022年教宗方濟各宣布利玛窦為可敬者。[2]天主教馬切拉塔教區于2011年開始對耶稣会士利玛窦神父列真福品进行审理[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/阿羅本

阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。
歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。
「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。
貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。 唐高宗時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。

天學傳概 李祖白

 

明末清初天主教史文獻叢編 
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 天學傳概 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 

天學傳概 

 天學傳概目録 
天學傳概前言 周弭方 
天學傳概序 許之漸 
天學傳概 李祖白 

 天學傳概前言 

 《天學傳概》,李祖白撰,清康熙刻本,九行二十字,白口單邊。今海内外僅梵蒂岡在中國天主教史、中西思想公 教廷圖書館有藏。

李祖白,字然真。明天啟六年與湯若望合作,譯《遠鏡説》。入清,湯若望順治元年 八月十一日《請給新曆供費兼陳本局要務疏》云:「如順天生員宋可成、副榜監生李祖 白、儒士掌乘、焦應旭,此四人者,文理優通,有志曆學,訪舉在局,効力多年。」二十五日 旨下,李祖白等「以効力有年,勤敏可加,相應照例量帶欽天監博士職銜」(見《西洋新法 曆書奏疏》二卷)。至順治六年刻《西洋新法曆書》,李祖白成欽天監夏官正。 祖白以弟子禮事湯若望。順治十七年七月,湯氏立聖母堂碑於北京教士公墓。祖 白有跋,刻於碑陰。跋云:「吾師湯道未先生,諱若望。西海熱爾瑪尼亞國人。幼齡學 道,入耶穌會,以宣傳天主正教爲務。三十遊中華,爲天啟二年。嗣以夙諳曆學,歲己 巳由大學士徐文定公薦,應召來京修曆,凡十餘載。恭遇國朝建鼎,遂用西洋新法,造 曆頒行。洊荷恩禮優異,迄今未艾云。門人李祖白謹識。」湯氏纂定《西洋新法曆書》 中,《渾天儀說》一卷、《五緯表》十卷,镌受法門人中,有「祖白」名。 康熙二年癸卯孟冬,祖白「公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次,以代 口答」。是即《天學傳概》,許之漸序。此書一出,天下大譁。楊光先即投《與許青嶼( 漸)侍御書》,狂訾祖白。是年冬,因曆法事,朝廷議湯若望、李祖白不軌,罪至極刑。後 因京師連續地震,朝中不敢遽用;再議,若望得開釋,欽天監附教官員李祖白、宋可成、 宋發、朱光顯、劉有泰五人俱處斬。至康熙八年,湯若望、李祖白之欽天監案,始得平反 昭雪。 《天學傳概》是天主教名著,在中國天主教史、中西思想交匯史上,均有獨特地位。 祖白也曾參與教會其他書籍之校刻。高一志譯《聖母行實》,卷三修潤者題「虎林 李祖白」。虎林,今安徽贵池,古吴封地,故是書祖白自署「燕吴後學」。 本次整理《天學傳概》,以台灣吳相湘氏《天主教東傳文獻續編》影印本為底本,除 了徑直訂正引文中的一些錯訛外,其他文字没有任何改動。 二〇〇〇年五月六日北京周驛方謹序 

 天學傳概序 
  自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學, 未有不本乎天者也。黄軒迄今,世無異治,而教統一裂,人自為學,家自為 師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其 名,而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虚寂,窮其所託,與吾儒之盡性至 命,不有殊途而同歸者乎?惟是斁倫毁紀,捨君臣父子之大,而躭夫幽渺虚 寂,以别求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而闢之也。彼行之不著,習 矣不察,終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者或不能無弊。如欲循 其弊以為救,仍莫若尊天以立說。相傳開闢以來,有所為天主教學者,驟而 聆其語,若儻怳而弗可據。即其於吾儒當告之以二帝三王之道,日月星辰 之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆 告之以其學也。久之而親,其人繹其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工 夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟;其於二帝三王之道,日月 星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡 弗相始終相表裏。超出乎二氏之上,而後知其學,何莫非吾儒之學也?其 教自漢唐流傳中土。明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來,建 堂於宣武門内。一時名公卿,多樂與之遊。至國朝恩禮倍渥,通微教師實 總曆務,復勅建東堂,再可利子、景明安子主之,余俱樂與之遊。而然真李 子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福 清葉相國,《贈西賢》詩有云:「言慕中華風,深契吾儒理。」又云:「拘儒徒 管窺,達觀自一視。」誠化其同異之見,取所為尊天以立説者。究其指歸,精 其義蘊,即不言學,並不言教可也。而一切窮神達化,更有進乎此者,抑非 余之所及知也已。 康熙三年歲在甲辰春王正月柱下史毘陵許之漸敬題 E 時間以 天地之所 鬼神之所以幽,物類之所以會,江河之所以说,不富 分所應有云。前性書二教,恩施此尤纳矣。然則天學之傳及中土,其時 

 天學傳概 
 燕吳後學李祖白撰 

 人子孫,某處如德亞,此外東西南北,並無人居。

 天學,天主教學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福 圓滿,知能渾全;妙性超然,奥窮思悟,中土尊稱之曰上帝。兹以其為天地 之主宰,故質稱天主也。而其教則為人而立,别人於蠢動,儕人於天神,令 向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷 善為入門,以生死大事有備無患為究竟,誠吾人最喫緊之實學,而其從來遠 矣。緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者 悉備。而生初人,男女各一,其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永 不能脱。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇奸頑大,舉疾視之若讎。 自古稱為性教,愚非不足,聖非有餘,豈不然乎?只以性叅氣禀物誘交侵, 失其初良,而不敢漫言率也,則繼之以書教。後開闢三千七百有一年,天主 於西納山西距中國四萬里°頂,降石碑二,明列十誡為目,括以愛主愛人為綱。是 書教者,所以為性教之申命也。而不惟是,又後千四百九十七年,天主之教 世,又有進焉者。先是詔示人間,兼遣神人,此因舉世沉迷,躬自降救,下取 人性以接本性,而生如德亞國初人亦生於此,西納山在其界内。之白稜郡,名耶穌。在世 三十有三載,所顯奇跡甚衆。命死者活即活;命瞽者見即見;巨浪雄風, 命息即息;虐魔恣害,命退即退。蓋與化成功用萬有應命而出者,同一神 異也。詳明誡理,簡定新規,群心大服,名其教為寵教,以見教由主寵,非人 分所應有云。較前性書二教,恩施此尤摯矣。然則天學之傳及中土,其時 亦可得而稽乎?日有斯人,即有斯教,中土人與教同時並得也。何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。 惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。 受之也,豈偶然哉?其見之《書》曰:「昭受上帝,天其申命用休。」曰:「予 畏上帝,不敢不正。」曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」曰:「顧諟天之明命。」曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上 帝。」曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」見之《詩》曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天 鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」曰:「口我來牟,上帝率育。」曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」《魯論》曰:「獲罪於天,無 所禱也。」曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」曰:「丘之禱久矣。」曰:「畏天 命。」《中庸》曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」曰:「上天之載,無聲無臭,至 矣。」《孟子》曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」曰:「順天者存,逆天 者亡。」曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。吕秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。又後九百四十六載,遡天 主降生千五百八十一年,為明萬曆辛巳。耶穌會士西泰利子,自歐羅巴梯 航九萬里東來,庚子底燕京,貢聖像、西琴、自鳴鐘等物。朝廷義隆柔遠,恩 《御製文》有銘,西泰氏孩 红”仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 红”仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 × 禮備至。縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有 畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛 卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地 畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 中丞匯白佟、廉察鶴沙許二公[三];信嚮綦堅。宦遊所到,捐貲營築,以奉天 主。俸入不為己有,而為天主有。其視明葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、 李卿、楊京兆數君子[四];樂為道侣身主者,又何讓乎江南之蘇淞二郡,浙 之武林,江右之南昌之建昌之南贛,楚之武昌,閩之福州之建寧之延平之汀 州,蜀之重慶之保寧,咸有新堂,西賢居焉。前己丑,余師為曆學計久遠,特 疏上請,敦伯南子[]以知曆赴闕庭,仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 餘人  我國家肇造區夏,一統無外,名公鉅卿,相與黼黻皇猷於上,而輦轂內 外,或省會之衝,或鄉邑之僻,每有西賢至止,時出其所學,為世津梁,指正 真之定極,杜誑惑之旁蹊,於以下肅人心,上襄王化。唐虞三代之風,庶其 再見於今日歟?利西泰而下,著述號最富者,《進呈曆書》百餘卷,業蒙宣付 史館。他若理器殊彙,莫非教學攸關,成書又三百卷。有經、有史、有超形 性學、有形性學、有修學、有天文學,板藏京師、江南、浙、閩、秦、晉各堂。且 總計載來圖書七千餘部。群賢感荷帡幪,賓至忘返,共矢協佐同文,抑首翻 矣。 譯,川至日昇,殆無窮竟。嗚呼!此又秦火以前未有之盛事也,漢唐無論 癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代 口答。

 校記 
[一]鄧玉函,字函璞;湯若望,字道未;羅雅谷,字味。
 [二]利類思,字再可;安文思,字景明。
 [五]南懷仁,字敦伯 。 以上耶稣會士。
 [三]佟國器,字思遠,號匯白;許纘曾號鵠沙。
 [四]葉向高,謚文忠;徐光啟,謚文定;韓,宰相,蒲州人;劉宇亮,宰相,绵竹人;李之藻,仕光禄寺卿,故稱;楊廷筠,官京兆尹,故稱。
以上中國官吏。其中葉向高、韓、劉宇亮,家人有領洗入教者,而本人尚難確定。

 遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。 国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問合せの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。

2025年11月1日土曜日

柄谷行人1(柄谷開場)2013

柄谷行人3 (柄谷回應結束) 2013

freeassociations: 柄谷行人の検索結果 協同組合

freeassociations: 柄谷行人の検索結果

178 考える名無しさん[sage] 2020/08/15(土) 12:36:59.72 ID:0 

《[台湾に行った時]

…みんながね、どういう理論で、あるいはどういう社会を実現するんですかときくんですよ。

けどねそれは僕はこう答えるんですよ。

それは君たちは知ってるんだ、と。

現にあるんですよ。イソノミアが現代ならどういう社会ですかと聞かれたら、

協同組合ですよと答えます。

自分が経営者で自分が労働者、あるいは共同所有…。支配関係はありません。労働商品ではないから。イソノミア、ノールールです。

協同組合が社会全体であるような社会をマルクスは共産主義と呼んだんですよ。

国家がやってはダメですよ。協同組合が国家にとってかわらなければならないと言っているんです。

マルクスは若いときから言っています‥


「彼ら(労働者)は、実現すべき理想を何ももっていない。彼らのなすべきことは、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。」


解放すべき諸要素はあるんです。それを解放すればいいんです。


要素があるだけで…

それを思い出せばいいだけです。》


2013/02/07紀伊国屋書店柄谷行人トークイベントより


https://freeassociations2020.blogspot.com/search?q=%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA&updated-max=2022-11-20T05:39:00%2B09:00&max-results=20&start=24&by-date=false

freeassociations

台湾 オードリー・タン Audrey Tang
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/08/blog-post_15.html @

零時政府 g0v.tw

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vTaiwan project page

https://info.vtaiwan.tw/#one

RadicalxChange

https://www.radicalxchange.org

AUDREY TANG 唐鳳 オードリー・タン 

デジタルとAIの未来を語る 

THE FUTURE OF DIGITAL INNOVATION 

オードリー・タン著 プレジデント社

オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B08MF877HP/

2020年11月29日(電子版2021114日)

柄谷行人の「交換モデルX」から受けた大きな影響  

 私が現在興味を持っていることの一つは、日本の哲学者であり文芸評論家でもある柄谷行人さんが唱えている「交換モデルX」をデジタルの力で実現できないだろうかということです。  

 私は柄谷さんの思想に強い影響を受けています。たとえば、『トランスクリティーク──カントとマルクス』は、カントの視点からマルクスを、マルクスの視点からカントを見たものですが、私に大きな影響を与えた作品です。  

 彼は多くの考えを持っていて、とくに『トランスクリティーク』に続いて刊行された『世界史の構造』などに出てくる「交換モデルX」という概念は、間違いなく私に大きな影響を与えています。少し説明すると、柄谷さんが言っている交換モデルXとは、家庭のような無償の関係の交換モデルA、上司と部下のような上下関係のB、政府内部あるいは不特定多数の人たちが対価で交換する市場のような関係のC、これら三種類に属さない四つ目の交換モデルを指しています。これは開放的な方法で、不特定多数の人々を対象としつつ、「家族のように何か手伝いを必要とすれば、見返りを求めずに助ける」という交換モデルです(図表3)。  

図表 3 柄谷行人『交換様式X』

 ___________

|B再分配 |A互酬  |

|(略奪と | (贈与と|

| 再分配)|  返礼)|

|_____|_____|

|C商品交換|D    |

| (貨幣と|  X  |

|  商品)|     |

|_____|_____|

出典:柄谷行人著『世界史の構造』(岩波書店)

 二〇一四年と二〇一五年に台湾でイベントがあり、柄谷さんとお会いする機会がありました。話をしていて、私たちの視点が似ていたことがとてもうれしかったのですが、柄谷さんが彼自身の角度からこれまでの哲学者について整理してくれたのは、私にはとても参考になりました。  

 柄谷さんの交換モデルに関する基本的な考え方というのは、次のようなものです。 「交換」ということを考えるとき、二つの方向性があります。一つは知り合いと交換するか、見知らぬ人と交換するかという方向性であり、もう一つは交換の中で見返りの関係になるかどうかという方向性です。見返りの関係とは、相手から何かもらうことで自分も相手に与えるような等価交換の関係です。見返りの関係にならない交換には、無償で交換するとか、自由に分け合うというパターンがあります。すると、次のように二つの方向性で四種類の交換モデルが生まれることになります。 

知り合いと見返りの関係になって交換するパターン 

知り合いと見返りの関係にならずに交換するパターン 

見知らぬ人と見返りの関係になって交換するパターン 

見知らぬ人と見返りの関係にならずに交換するパターン  

 たとえば、「知り合いとしか交換しないけれど、自由に交換する」(前記の)というのは、家族です。家族であれば間違いなくお互いを知っていますし、助けが必要となれば手を差し伸べるでしょう。このパターンは、「助けてあげるから、あとで見返りを求める」という関係ではありません。その点でクローズドな交換ですが、対価のない交換です。  

 同じように「クローズドなモデルだけれど、見返りのある」交換もあります(前記の)。それは国家や政府のようなものを考えればいいでしょう。納税をすることによって国家や政府は私たちにインフラやサービスなどを交換で提供します。これは従来までの国家の概念で、この交換システムに参加できるのは、国民あるいは市民という知り合いに限られることになります。  

 次に「不特定の会ったこともない人と見返りを伴って交換する」パターン(前記の)ですが、これは市場を考えるとわかりやすいでしょう。あなたがもし何かを売ろうと店を開くと、相手が国民だろうと家族だろうと、お金を持って買いに来た場合、商品を売るでしょう。この場合、ある種のオープンな交換になります。  

 そこで柄谷さんは問いかけます。不特定の人に対価を求めるわけではなく、無償で分け与えたいとすると、これはどんなモデルだろうか。これは「オープンで、かつ無償の交換を行う」というパターンですが、このモデルには名前が存在しません。柄谷さんはこれをXと名づけました。これが交換のXモデルです(前記の)。  

 私は柄谷さんに、「イーサリアムやビットコインのように世界中の不特定多数の人々が組織化し、そのプラットフォーム上で交換が行われる暗号通貨などのような新しい分散型交換モデルは、交換モデルXの実現と捉えてよいのか」と尋ねました。これについて柄谷さんは、地域通貨や自分が考えている通貨発行のシステムなどを交えて答えてくださいました。  

 つまり、こうした分散型の方向に進むことは決して悪いことではないけれど、相互信頼がない知らない人同士の交換システムの場合、基本的なシステムについてどのように信頼を得ていくかが重要な問題の一つになるというのです。  

 交換システムに参加する人たちがお互いに顔見知りで、少なくとも誰かの推薦で参加するのであれば、先ほど述べた「家族」という考え方を拡大すればいいのですが、知らない人との交換では「どのようにして信頼を担保するか」を解決しなければならないのです。  

 市場であれば、これは問題になりません。「交換が自由である」ということだけで、対等性も等価性も必要ないからです。  

 私が問題にしているのは、知識の交換のようなケースです。私が知識を誰かとシェアしたからといって、私の知識が失われるわけではありません。これは事実上、独占権のない無償の交換モデルですが、この場合、「私の知識をシェアした人が、その知識を用いて私の望まないことを行わない」という信頼関係が必要です。  

 その信頼関係をどのようにして構築するか。それはまだ完全には解決していない問題です。だからこそ、「この問題を先に解決してからでないとこの道を歩み続けることはできない」と柄谷さんは言うのです。  

参考:

台湾デジタル大臣「唐鳳」を育てた教えと環境 東洋経済education×ICT 

2020/07/24

https://toyokeizai.net/articles/-/363750

お好きな哲学者、哲学書というのはありますか。


台湾デジタル大臣「唐鳳」を育てた教えと環境 | 東洋経済education×ICT | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

《…お好きな哲学者、哲学書というのはありますか。


唐鳳:私は現在、RadicalxChange(https://www.radicalxchange.org)という非営利ソーシャルイノベーション組織に参加しています。本部は米ニューヨークにありますが、全世界で運営されている組織です。私はデジタル大臣として働く傍ら、起業も行っています。

私と一緒に起業した人物で、エリック・グレン・ワイル(E.Glen Weyl)さんは、起業する一方でマイクロソフト社で未来学者のような役割を担っています。またヴィタリック・ブテリン(Vitalik Buterin)さんは、われわれと起業しながらEthereum(イーサリアム)(注2)というソースコードを開発する計画に携わっています。

ヴィタリックさんのEthereum上で研究開発された「新たな交換様式」は、不特定多数の人が公共の利益のために交換することを可能にするものです。これは一見すると個人ための利益に見えるかもしれませんが、最終的にはコミュニティー全体の利益になるという共通認識につながります。これらはメカニズムデザインの活用方法であり、私はこれを台湾の政治にできる限り応用するようにしています。


前置きが長くなりましたが、なぜこのような交換様式をRadicalxChangeと

名付け、Radical x Changeと別々の単語に分けて表示しなかったのか。それは

日本の文学者であり哲学者である柄谷行人(注3)さんが提唱している交換様式X、

すなわち「交換様式論」(注4)から着想したものだからです。


(注2) Ethereum=分散型アプリケーションやスマートコントラクト(契約のスムーズな検証や執行、実行、交渉などを狙ったコンピュータープロトコル)を構築するためのプラットフォームの名称であり、関連するオープンソース・ソフトウェア・プロジェクトの総称。ヴィタリック・ブテリンさんが提唱したもの。
(注3) 柄谷行人(からたに・こうじん)=1941年生まれ。著書に『定本 日本近代文学の起源』『トランスクリティーク』『世界史の構造』『哲学の起源』(すべて岩波現代文庫)『世界史の実験』(岩波新書)など多数。

(注4) 交換様式=柄谷行人氏が1998年に着想し、2010年刊行の『世界史の構造』でひとまず完成されたと思われる「交換様式論」を指す。社会システムの歴史を交換様式がどうであったからという観点から説明する理論。交換様式には4つのタイプがある。「互酬交換」(贈与とお返し)という関係を持つA、「服従と保護」(支配と被支配)の関係をB、「商品交換」(貨幣と商品)という市場で見られる関係をCとする。ここで、柄谷氏は交換様式Aは、交換様式BとCが浸透することで解体することになるが、その後、より高い次元で回復するという。互酬原理によって成り立つ社会Aは国家の支配Bや貨幣経済Cによって解体されるが、互酬的な関係が高次元で回復する。その回復した状態こそ交換様式D=Xと説明する。


___


感染症対策と民主主義促進にデジタルイノベーションをどう生かすのか、オードリー・タンがインタビューに答えている TED-YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=IZ2N3tF4W_k


【開源在臺灣】國際開源社群領導者唐鳳:開源是新時代交換典範 | iThome

https://www.ithome.com.tw/news/93603

Q  開源又是怎麼影響經濟以及政治模型的?

 A   在經濟方面,傳統分配模式的公地悲劇模型已被證明為過時的想像,開源社群也提出分享經濟作為新的思考架構。其中除了臺灣近年較為熟悉,由Clay Shirky提出的串聯模型之外,Jeremy Rifkin提出的零邊際成本模型和Yochai Benkler提出的協造共有模型,都是從開源社群實地觀察出來的思想。

政治方面,開源專案去中心化的成功運作,促成了各地的網絡民主實驗。Lawrence Lessig將開源理念擴增為,以創用CC為先導的自由文化運動後,也進一步針對美國的金權政治結構,用群募模式來經營以獻金透明化為訴求的新政團,以改進現有民主體制。更接近安那其的這端,則有柄谷行人提出透過開源分享的實踐,來消弭國族與資本造成的隔閡。

台湾のオープンソース】国際オープンソースコミュニティのリーダー馮唐氏:オープンソースは新世代のお手本 - iThome

https://www.ithome.com.tw/news/93603

2015/01/16

Q オープンソースは経済・政治モデルにどのような影響を与えますか?


 A 経済面では、従来の流通モデルの悲劇的なコモンズモデルが時代遅れの想像力であることが証明され、オープンソースコミュニティは経済を考える新しい枠組みとしてシェアリングエコノミーを提案してきました。 近年台湾では馴染みの深いクレイ・シャーキーが提唱したカスケードモデルに加え、ジェレミー・リフキンが提唱したゼロ限界コストモデルや、ヨチャイ・ベンクラーが提唱した共同コモンズモデルは、いずれもオープンソースコミュニティでの現場観察である。


政治の世界では、オープンソースプロジェクトの分散化に成功したことで、いたるところでサイバー民主主義の実験が行われるようになり、ローレンス・レッシグはオープンソースの理念を拡大して、CCを開拓したフリーカルチャー運動や、アメリカの貨幣的な権力構造に対抗して、既存の民主主義を改善するために寄付の透明性を求める新しいコーカスをクラウドファンディングを使って運営するなど、オープンソースの理念を展開しています。 アナーキストの端に近いところでは、オープンソースの共有の実践を通して、国籍と資本の間のギャップを埋めることを提案する柄谷行人がいます。




Kim, Yi-Chul
kimarx

オードリー・タンが柄谷行人から影響を受けて贈与経済の「高次での回復」をめざすための実践的組織に参加しているというのは知らなかった。

2020/08/15 1:23:02Twitter Web App

https://twitter.com/kimarx/status/1294308558545149954


北守
hokusyu82

台湾の唐鳳って、技術信仰のテクノクラートの権化かと思いきや必ずしもそうではないわけでしょ。このインタビューだけでも人文知があることがわかるし、柄谷とか読んで彼女なりのテーゼをつくってる。ところが日本ではむしろ教科書から柄谷を排除しようとしてるわけだ。
https://t.co/dnRVgLzWDz

2020/08/14 22:24:57Twitter for iPhone

https://twitter.com/hokusyu82/status/1294263745619755014


junichi yoshimura
jy_speedy

柄谷にさらっと言及している。台湾の超天才「唐鳳」が語るデジタル教育の本懐 39歳デジタル大臣「自ら動機を探すことが重要」 | 東洋経済education×ICT https://t.co/N7HogRJFt5 @Toyokeizaiより

2020/08/12 1:23:58Twitter for iPhone

https://twitter.com/jy_speedy/status/1293221630768869376


:: SayIt

https://sayit.pdis.nat.gov.tw/search/?q=%E6%9F%84%E8%B0%B7

Mentions of "柄谷" in speeches















































検索/柄谷

スピーチにおける「から谷」の言及


2018-01-19 Zen Yushanによる訪問

唐風水

表と裏をめくったので、後で英語の本を探しに行きました。 私は遅くカラタニと連絡を取りましたが、彼の考えの多くは非常に無秩序であり、現代性と意味で再解釈されています。


2018-01-19 Zen Yushanによる訪問

唐風水

ひまわりの前後に、台湾人の友人が一連の唐谷書を翻訳し、「世界史の構造」から読み始めました。


2018-07-20「台湾の若手政治家を育てる方法」に関するインタビュー

唐風水

李は他の人に話をするのに上下はないことを伝えることができます哲学について話したい場合、刈谷が言ったのは「捕食再分配」の交換モードであり、それとは何の関係もありません。 したがって、「捕食-再分配」という言葉で説明することはできませんが、これは本質的な制限であり、これは1つのことです。


https://sayit.pdis.nat.gov.tw/search/?q=karatani

Mentions of "karatani" in speeches

2018-05-08 Conversation with international journalists

Audrey Tang

Asian, thinkers in Asia, such as Kōjin Karatani, I think. Let me just quickly make sure that I am speaking of the right person.

2017-05-22 Martin Legros visit

Audrey Tang

, there is this philosopher, Kōjin Karatani, who categorized many of the early pioneers, that is to say, people who just

2018-05-08 Conversation with international journalists

Audrey Tang

Kōjin Karatani is a little bit like David Graeber, also an associationist anarchist, [laughs

2018-01-19 曾于珊來訪

唐鳳

在太陽花前後有一些臺灣的朋友翻譯了Karatani(柄谷行人)一系列的書籍,我是從「世界史的結構」開始看。

deepl:

スピーチでの「カラタニ」の言及

2018-05-08 国際ジャーナリストとの会話

オードリー唐

アジアの、アジアの思想家、例えば唐谷幸人さんとかね。私の発言が正しいかどうか、さっさと確認させてください。

2017-05-22 マルティン・レグロス訪問

オードリー唐

哲学者の唐谷幸人という人がいますが、彼は初期の先駆者の多くを分類しています。

2018-05-08 国際ジャーナリストとの会話

オードリー唐

唐谷幸人は、同じくアソシエーション主義のアナーキストであるデビッド・グレイバーにちょっと似ていますね[笑

2018-01-19 曾于珊來訪

唐鳳

在太陽花前後有一些臺灣的朋友翻譯了Karatani(柄谷行人)一系列的書籍,我是從「世界史的結構」開始看。

google.tr:

スピーチにおける「からたに」の言及

2018-05-08国際ジャーナリストとの会話

オードリー・タン

アジア人、アジアの思想家、たとえば唐谷浩仁さん、そうですね。

2017-05-22マーティンレグロス訪問

オードリー・タン

、この哲学者、空谷空谷は初期の開拓者の多くを分類した、つまり、

2018-05-08国際ジャーナリストとの会話

オードリー・タン

唐谷鋼人は、アソシエーションのアナキストでもあるデビッド・グレイバーに少し似ています。

2018-01-19 Zen Yushanによる訪問

唐風水

ひまわりの前後に、台湾人の友人が唐谷書を翻訳し、「世界史の構造」から読み始めました。





https://sayit.pdis.nat.gov.tw/search/?page=2&q=一系列

Mentions of "一系列" in speeches

唐風水

ひまわりの前後に、台湾人の友人が唐谷書を翻訳し、「世界史の構造」から読み始めました。

コンテキストリンクLink


唐風水

表と裏をめくったので、後で英語の本を探しに行きました。 私は遅くカラタニと連絡を取りましたが、彼の考えの多くは非常に無秩序であり、現代性と意味で再解釈されています。

コンテキストリンクLink

唐鳳 

在太陽花前後有一些臺灣的朋友翻譯了Karatani(柄谷行人)一系列的書籍,我是從「世界史的結構」開始看。

Link in context Link

唐鳳

前面、後面都翻過一些,所以後來我去找英文的著作來看。我接觸柄谷是很晚了,但是他很多思想是很有安那其融合在現代跟意義的重新詮釋。

Link in context Link

唐鳳

因為很多安那其思想家都是在資訊時代以前的人,現在是要靠像佔領者——無論是華爾街或是Solarpunk——這些現代的安那其,一定程度上都是把資訊科技不只是當作異化的來源,而是當作安那其存在的基礎。

Link in context Link

唐鳳

這個是跟另外一派的,所謂的密碼學安那其,當然不完全一樣,但有匯流的趨勢。

Link in context Link

唐鳳

密碼學安那其就是像中本聰這種,他相信透過比特幣或者是區塊鏈這一種數學的方式,能夠重新做出主權來,當然這些都對我有一定影響。

ひまわりのあたりでは、台湾人の友人が柄谷さんのシリーズを翻訳している人がいて、私は「世界史の構造」から始めました。

唐風

前後の作品をいくつか見てきたので、英語の作品を探して読んでみました。 遅くなりましたが、彼の思想の多くは、彼のフュージョンを現代的に再解釈した意味深なものです。

唐風

多くのアナーキストの思想家が情報化時代よりも前に生まれたため、ウォール街であれソーラーパンクであれ、情報技術を疎外の原因としてだけでなく、アナーキストの存在の基礎として扱うのは、占拠者のような現代のアナーキストたちにかかっている。

唐風

これは、いわゆる暗号アナーキーとは異なり、もちろん全く同じではありませんが、収束に向けた動きがあります。

唐風

暗号学者アナーキーは、ビットコインやブロックチェーンで主権を取り戻す数学的な方法を信じているサトシ・ナカモトのようなもので、もちろん私にも多少の影響はあります。



  • 既然是讓所有各級公務員只要email結尾是「gov.tw」都可以適用,也就是可以全面撒下去了,因此未來針對Sandstorm這套系統會辦的課程,可能也會錄下來

    :: SayIt

    https://sayit.pdis.nat.gov.tw/search/?page=2&q=一系列

    スピーチでの「シリーズ」の言

    2018-01-19 チャンユーシャンからの訪問

    唐風

    ひまわりのあたりで、台湾の友人が唐谷さんのシリーズを翻訳してくれたので、「世界史の構造」から始めました。

    2017-04-10 オープンガバメントPO第2回月例会

    唐風

    メールの末尾が「gov.tw」で終わっていれば、どのレベルの公務員でも適用可能なので、全体に広めることが可能です。 そのため、今後は「サンドストーム」に関する一連の講座を開催し、録画することもあるかもしれません。


    《「中央政府総予算」可視化サイトは、すぐに多くの人に注目された。数百ページにものぼる政府の予算書に比べ、g0vの「中央政府総予算」は目で見て分かりやすいデザインで、親しみやすい比喩なども用いられ、一目瞭然である。…》


オープン・ガバメントを追求する g0v零時政府のシビックハッカ - 台湾光華雑誌 Taiwan Panorama | 国際化、二カ国語編集、文化整合、世界の華人雑誌

台湾の「38歳」デジタル大臣から見た日本の弱点 | 最新の週刊東洋経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

https://toyokeizai.net/articles/amp/327954

2020/02/01

《私は1993年に初めてインターネットに触れました。そこでは、世界の多くのユーザーが、なぜネットでつながりたがるのかを理解しました。ネットでは誰からも、何も強制されることがない。誰が何を言っても構わない。同時に、誰が何を言っているのかがわかる、透明性が極端に高い世界です。私はこのネットの特性を、一種の政治制度だと認識しました。》


https://toyokeizai.net/articles/amp/327954?page=2

《私がまず日本に関心を寄せているのは、地方創生・再生のやり方です。例えば日本の「RESAS」(地域経済分析システム)には、大いに啓発されました。これによって一時的な現象や特定層の意見のみにとらわれず、産業や教育、人口密度といった細かなデータに基づいて地方創生を議論できます。証拠に基づいた政策立案が可能になるわけです。

年齢による比較は公平ではありません。またITを担当する大臣といっても、日本と台湾とで役割は同じではありません。台湾の科学技術部(省)の大臣や研究者の人たちは私の父と同世代で60、70歳代の高齢ですが、皆さん革新的な考え方を持っていますよ。

台湾では部長(大臣)が組織の縦の運営を行い、私のような政務委員(無任所大臣)は横、すなわち省庁間の連携などで動きます。どちらも欠かせない存在で、それぞれに役割があるのです。》


https://toyokeizai.net/articles/amp/327954?page=3

私は、プログラミング教育よりも「素養」(教養)を涵養するような教育を重視すべきだと考えています。台湾ではこれまで「競争力」を重視するかのような教育が行われてきましたが、現在では「素養」を重視するように教育方針が変わりました。自発的で、ともに助け合い、共通の利益を求めるという3つの要素を重視する教育への転換です。日本の教育政策の方向性は正しいと思いますが、台湾ほどのエネルギーは発していないかもしれません。》

___

https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/fr/cp0/e15/q65/48427391_1022760417906647_8589432196790484992_o.jpg?_nc_cat=111&_nc_sid=8024bb&_nc_ohc=W1sYYnPpwLYAX_MEFmV&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&tp=14&oh=16753e0911c8d04ec8341124c351f5b5&oe=5F5CA756



https://iitomo2010.blogspot.com/2020/08/blog-post_15.html

台湾IT大臣オードリー・タンの真価、「マスクマップ」はわずか3日で開発された | テクノロジー | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2020/07/it3_2.php

まず、台湾の行政院(内閣に相当)と立法院(国会)は分かれており、基本的に兼任はしないことが挙げられる。このため行政院内にある各省庁の大臣は皆、その分野におけるスペシャリストが就任している。

「足を引っ張り合っている場合ではない。手持ちで最も勝率が高いカードを掲げ、前へ進め」──これが、筆者のイメージする現在の台湾の民意だ。一見平和なようでも、ややもすると民主主義を失うのではという危機感が、人々の間に常に漂っているからだと思われる。

http://www.youtube.com/watch?v=IZ2N3tF4W_k

感染症対策と民主主義促進にデジタルイノベーションをどう生かすのか、オードリー・タンがインタビューに答えている TED-YouTube


vTaiwan project page

https://info.vtaiwan.tw/#one

Where do we go as a society?

Let's think and work together.

vTaiwan is an online-offline consultation process which brings together government ministries, elected representatives, scholars, experts, business leaders, civil society organizations and citizens. The process helps lawmakers implement decisions with a greater degree of legitimacy. It has various touch points such as a website (vtaiwan.tw), a combination of meetings and hackathons along with the consultation process. vTaiwan is also an open space, it is a combination of time and space run by participants to work on cases brought in.

零時政府 g0v.tw

https://g0v.tw/en-US/


オープン・ガバメントを追求する g0v零時政府のシビックハッカ - 台湾光華雑誌 Taiwan Panorama | 国際化、二カ国語編集、文化整合、世界の華人雑誌

https://www.taiwan-panorama.com/ja/Articles/Details?Guid=71c2e863-595c-4b39-849c-c260c0f3e5a0&CatId=7

《「中央政府総予算」可視化サイトは、すぐに多くの人に注目された。数百ページにものぼる政府の予算書に比べ、g0vの「中央政府総予算」は目で見て分かりやすいデザインで、親しみやすい比喩なども用いられ、一目瞭然である。

例えば、国防支出は3059億元だが、これはタピオカミルクティ101億杯分、または超豪華マンションで知られる「帝宝」120万坪分、またはiPhone5が1181万個も買える金額である。

ひとつの政策広告をきっかけに「中央政府総予算」サイトを立ち上げた。高嘉良は、政策決定と民意が懸け離れていることに気付き、2012年に「g0v零時政府」コミュニティを立ち上げ、「零」から政府の役割を考えることにした。

「g0v」なのか「gov」なのか。「零時政府」のg0vと「政府」のgovを混同する人もいるし、「g0vは政党なのか、政府に反対する組織なのか」と問われることも多い。

g0vは「オープンソースコード」コミュニティの延長で、政府や政党とは異なる。g0vコミュニティは誰もが平等に意見を言えるオープンな場で、絶対的な決定権は誰にもない。こうした理念は、オープンで自由、シェアを重視するネットの世界のそれと共通している。

そのため、コミュニティでの討論やソリューション提出は、すべて参加者が自主的に発起し、公開透明なプロセスを経て進められ、どのようなプランにもオープンな態度をとっている。多くの人の協力があり、それが政策の修正を促すこともあり、国民の共同参画も促してきた。

g0vコミュニティでは皆がよく口にする言葉がある。「なぜ『誰』もやらないのかと問う前に、自分がその『誰』であることを認めよう」というものだ。自ら進んで「誰」になれば、そのほかの「誰」も一緒にやり始めるのである。

g0vコミュニティでは皆がよく口にする言葉がある。「なぜ『誰』もやらないのかと問う前に、自分がその『誰』であることを認めよう」というものだ。自ら進んで「誰」になれば、そのほかの「誰」も一緒にやり始めるのである。

シビックハッカーの活躍は世界3位

2012年に発足したg0vは、2014年の「ひまわり学生運動」で一躍有名になった。当時、g0vの少なからぬメンバーが、抗議の現場からリアルタイムの情報を発信し、各方面の情報を統合するプラットフォームを立ち上げた。2014年、香港で普通選挙を求める抗議行動「雨傘革命」が起きた時も、g0vのオープンソースコードを使ってプラットフォームを立ち上げたのである。

IT人材が豊富な台湾は、早くからソースコードやフリーソフトを公開するコミュニティが多数あった。そしてg0vコミュニティが発足し、ひまわり学生運動に大きく貢献したことから、多くの人がコミュニティに加わった。彼らの目標は政府に情報公開を求めることで、問題点については定期的な会合でプロジェクトとして立ち上げ、マラソン式で多くの人が参加していく。彼らはこの方法を「Hackathon」と呼んでいる。

彼らはプロジェクトを坑(穴)と呼び、興味を持ってそれに取り組むことを「穴を掘って穴に跳びこむ」と形容する。高嘉良は、どんなに優れた政策にも問題点があると考え、解決すべき問題は常にあると言う。台湾では、平均して2ヶ月ごとに重大な社会的テーマが持ち上がり、市民のコミュニケーションが必要となる。かつては従来のメディアでしか議論はなされなかったが、ITの発達した今日、より多くの市民がオープンな対話に参加できるようになり、それが政府の効率をも改善させていく。

誰もが自主的に参加するため、g0vのプロジェクト実施効率は極めて高い。例えば「政治献金デジタル化」プロジェクトでは、シビックハッカーが24時間で3万件の資料識別を完成させた。中には失敗に終わるプロジェクトもあるが、それは気にしていない。「政治参加のハードルは高いですが、コミュニティには誰でも参加でき、限られた参加でも影響力を発揮できます」と言う。

オンラインの「オープンソースコード」の自由と協力の精神を受け継ぎ「とにかくやってみる」ことを是とするg0vが、わずか4年のうちに集めた参加者と各種成果により、台湾は世界第3位のシビックハッカー/シビックテック・コミュニティとなり、その「台湾経験」は世界的にも注目されている。》


https://ja.wikipedia.org/wiki/唐鳳

唐 鳳 (とう ほう、タン・フォン、オードリー・タン、Audrey Tang1981年4月18日 - ) は、中華民国 (台湾) の政治家、プログラマー。改名しており/旧名は唐 宗漢 (とう そうかん、タン・ツォンハン、Autrijus Tang)。

2005年、Perl 6(現:Raku)のHaskellによる実装のPugsを開発したことで知られ[1]、「台湾のコンピューター界における偉大な10人の中の1人」とも言われている[2]

2016年10月に台湾の蔡英文政権において35歳の若さで行政院に入閣し、無任所閣僚の政務委員(デジタル担当)を務めている[3][5]