2024年11月29日金曜日

孔门理财学 大学


第三篇
一般经济原理
的财富通过不同的行业积累,比如农业、畜牧业、矿业、手工业、商贸
业。既然有如此大量的生产和积累,所以司马迁相信自由放任政策。
但他没有走向极端。他总结说:
·“富无经业,则货无常主,能者辐凑,不肖者瓦解。千金之家
比一都之君,巨万者乃与王者同乐。岂所谓‘素封’者邪?
非也。”①
在这一章的末尾,司马迁从前面的论断后退一步给出了上述的否定
回答。事实上,一方面他喜欢大生产,认为自由竞争是值得的;另一方
面,他讨厌分配不均,所以讽刺了富人。扩大生产和平均分配是他的最
后目标,因此在他的结论中,他得出了儒家的共同观点。
纵观整个中国历史,我们可以说中国人一直享受着很大的经济自
由。除了为数不多的规范社会性消费的法律,人们实际上为其所欲为。
其基本原因是,中华帝国十分庞大,它的政府形式是君主制的,因此政
府严密干预人民的经济生活是不可能的。尽管存在着一些与经济生活相
关的法律,人们根本无须涉及它们。事实上,中国商业团体主要是靠习
俗,而不是靠法律得到管治的。

三、经济学之分部
关于儒家经济学的分部,没有比《大学》中的下面这段话更概括一
切了:

“生财有大道:生之者众,食之者寡,为之者疾,用之者舒,则
财恒足矣。

”按照这一大原则,只有两大类,即生产和消费。“众”和
“寡”指人的数量,“疾”和“舒”指生产和消费。这是涵盖整个经济
领域的最综合性的原则。
这一大原则将生产与消费并列,但主张生产应重于消费,这是十分
① 《史记·货殖列传第六十九》,意为:致富并不靠固定的行业,而财货也没有一定的主
人,有本领的人能够集聚财货,没有本领的人则会破败家财。有千金的人家可以比得上一个都
会的封君,有巨万家財的富翁便能同国君一样的享乐。这是否所谓的“素材”者?不是的。
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パート 3
一般的な経済原則
富は、農業、畜産業、鉱業、手工芸品、商業などのさまざまな産業を通じて蓄積されます。
業界。生産と蓄積が多かったので、司馬遷は自由放任政策を信奉しました。
しかし、彼は極端には行きませんでした。彼はこう結論づけた。
・「もしあなたが金持ちで事業を持たなければ、あなたの商品には永続的な所有者がいないでしょう。有能な者は集まり、価値のない者は崩壊します。何千もの黄金の家
都の王に比べれば、何千人もの人々が王と同じ喜びを味わうことになる。いわゆる「蘇峰」は悪なのでしょうか?
いいえ。 」①
この章の最後で、司馬遷は前の結論から一歩後退し、上記の否定を示しました。
答え。実際、彼は一方では大規模生産を好み、自由競争には価値があると信じています。他方では、彼は大規模生産を好み、自由競争には価値があると信じています。
一方で偏在を嫌い、金持ちを風刺した。生産の拡大と流通の平準化が彼の最優先事項です
したがって、結論として彼は一般的な儒教の見解を引き出しています。
中国の歴史を通じて、中国人は常に大きな経済的自由を享受してきました。
による。社会的消費を規制するいくつかの法律を除いて、人々は実際にはやりたいことを何でもします。
基本的な理由は、中華帝国が非常に大きく、その政府形態が君主制であったため、政府は
政府が国民の経済生活に厳しく介入することは不可能である。経済生活上の問題はあるものの、
関連する法律については触れる必要はありません。実際、中国のビジネスグループは主に習氏に依存している。
法律ではなく慣習によって規制されます。
3. 経済学科
儒教の経済学の区分に関しては、『大学』の次の一節ほど一般的なものはありません。
Qie Jie: 「富を生み出す素晴らしい方法があります。それを生きる人は多く、それを食べる人は少なく、それを使う人は病気になり、それを使う人は快適になります。
一定の富があれば十分です。 「この一般原則によれば、主要なカテゴリーは生産と消費の 2 つだけです。「公共」と「消費」です。
「野」は人の数、「病」と「蜀」は生産と消費を意味します。これは経済全体をカバーします
この分野で最も包括的な原則。
この一般原則は生産と消費を並列させますが、生産は消費よりも重要であるべきだと主張しています。これは非常に重要です。
①「史記・霍子伝六九」の意味:金持ちになるのは固定産業に依存せず、富には特定の所有者がいない。
人間、スキルのある人は富を集めることができますが、スキルのない人はその富を破壊する可能性があります。お金をたくさん持っている人は誰とも比べられません。
王の称号があれば、数千万の財産を持つ大金持ちは王と同じ楽しみを享受できる。これがいわゆる「物質」の人でしょうか?
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(富を産む者は多く、食べる者は少なく、富のために働く者は病気であり、富を使う者は快適である。 慈悲深い人は、その富を使って肉体を発展させ、慈悲深くない人は、その肉体を使って富を発展させる。 上の善良な仁はないが、下の善良な義はない;善良な義はなく、その務めは終わらない;国庫の富はなく、その富はない。 孟子曰く、「馬子なら鶏やイルカになるべきではなく、氷切りなら牛や羊になるべきではなく、百姓家なら集金大臣になるべきではなく、集金大臣ならむしろ泥棒大臣になるべきである」。 これは、国家は利益を利益とせず、義を義とするということである。 もし国家が長く、富と利用を事業とするならば、それは小人からであろう。 悪人が国のために、最近開墾された畑のために作るなら、たとえ善人がいても、もう何もすることはない。 つまり、国家は利益を利益とするのではなく、義を義とするのである。)

大学
《大学》原为《礼记》中的第四十二篇。宋朝程颢、程颐兄弟把它从《礼记》中抽出,编次章句。朱熹将《大学》、《中庸》、《论语》、《孟子》合编注释,称为《四书》,从此《大学》成为儒家经典。

生财有大道:生之者众,食之者寡;为之者疾,用之者舒;则财恒足矣。仁者以财发身,不仁者以身发财。未有上好仁,而下不好义者也;未有好义,其事不终者也;未有府库财,非其财者也。孟献子曰:“畜马乘,不察于鸡豚;伐冰之家,不畜牛羊;百乘之家,不畜聚敛之臣;与其有聚敛之臣,宁有盗臣。”此谓国不以利为利,以义为利也。

长国家而务财用者,必自小人矣;彼为善之。小人之使为国家,菑害并至,虽有善者,亦无如之何矣。此谓国不以利为利,以义为利也。

 財物を豊かに〔して国の経済を盛んに〕するのには、よるべき立派な規準がある。生産に従事する者が多くて遊んで食べる者は少なく、物を作ることが能率的で消費する方は緩慢というのであれば、国の財物はいつも十分に豊かである。〔この基本を守ってさえいるなら、こまかい経済策は要らない。そこで〕仁徳を備えた君主は財物を利用することによってわが身を高めてゆくが、不仁な君主は〔逆に〕わが身を犠牲にして財物を盛んにする。そもそも上に立つ君主が仁政を好んで施行しているのに、下々の民衆が〔それに無関心で〕道義に向かおうともしないということは、あったためしがない。民衆が道義に向かって〔本業に励んで〕いるのに、国の経済活動が立派に成しとげられないということも、あったためしがない。〔こうなると、〕お上の府庫にいっぱいに集められた財物が、〔いつのまにかかすめ盗られて〕国の財物ではなくなったというようなことも、めったにないものだ。  〔魯の賢人〕孟献子はこう言っている、「乗り物の馬を飼う身分ともなれば、もはや鶏や豚の飼育に気をつかっ〔て小利を争っ〕たりはしない。〔夏の死者の葬儀や祖先の祭りに〕氷室から切り出した氷を使える家がらともなれば、もはや牛や羊を飼ったりはしない。〔それと同じことで、〕領地を持って戦車百台を出す家がらでは、領民からきびしく重税をとりたてる家臣をおいたりはしない。きびしく重税をとりたてる家臣がいるくらいなら、むしろ主家の財物をくすねる家臣がいる方がましだ。〔害の及ぶ範囲はその方が狭いだろう。〕」「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。  国家の統率者として財政に力をいれる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。たとえすぐれた人物がいたところで、もはや手の施しようもなくなるのである。「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。

 (国家の統率者として財政に力をいれる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。たとえすぐれた人物がいたところで、もはや手の施しようもなくなるのである。「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。)

岩波

 財物を豊かに〔して国の経済を盛んに〕するのには、よるべき立派な規準がある。

生産に従事する者が多くて遊んで食べる者は少なく、物を作ることが能率的で消費する方は緩慢というのであれば、国の財物はいつも十分に豊かである。

〔この基本を守ってさえいるなら、こまかい経済策は要らない。そこで〕仁徳を備えた君主は財物を利用することによってわが身を高めてゆくが、不仁な君主は〔逆に〕わが身を犠牲にして財物を盛んにする。そもそも上に立つ君主が仁政を好んで施行しているのに、下々の民衆が〔それに無関心で〕道義に向かおうともしないということは、あったためしがない。民衆が道義に向かって〔本業に励んで〕いるのに、国の経済活動が立派に成しとげられないということも、あったためしがない。〔こうなると、〕お上の府庫にいっぱいに集められた財物が、〔いつのまにかかすめ盗られて〕国の財物ではなくなったというようなことも、めったにないものだ。  〔魯の賢人〕孟献子はこう言っている、「乗り物の馬を飼う身分ともなれば、もはや鶏や豚の飼育に気をつかっ〔て小利を争っ〕たりはしない。〔夏の死者の葬儀や祖先の祭りに〕氷室から切り出した氷を使える家がらともなれば、もはや牛や羊を飼ったりはしない。〔それと同じことで、〕領地を持って戦車百台を出す家がらでは、領民からきびしく重税をとりたてる家臣をおいたりはしない。きびしく重税をとりたてる家臣がいるくらいなら、むしろ主家の財物をくすねる家臣がいる方がましだ。〔害の及ぶ範囲はその方が狭いだろう。〕」「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。  国家の統率者として財政に力をいれる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。たとえすぐれた人物がいたところで、もはや手の施しようもなくなるのである。「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。


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大学

大学』はもともと『礼記』の40番目の書物であった。 宋の時代、程浩と程頤の兄弟が『礼記』から取り出して章句をまとめた。 朱熹は『大学』、『一方』、『論語』、『孟子』を『四書』という一つの注釈書にまとめ、それ以来、『大学』は儒教の古典となった。


富を生み出す素晴らしい方法がある:生まれる者は食べる者が少なく、病気の者は蜀を使う者、そうすれば富は常に十分である。 慈悲深い者はその富を肉体に送り、慈悲深くない者はその富を肉体に送る。 上の善良な仁はないが、下の善良な義はない;善良な義はなく、その務めは終わらない;国庫の富はなく、その富はない。 孟賢子は言った。「騎手であれば、鶏やイルカであってはならず、氷切りであれば、牛や山羊であってはならず、百姓家であれば、取り立て屋であってはならず、取り立て屋であれば、強盗であってはならない」。 これは、国家は利益を利益とせず、義を義とする、ということである。 


もし国家が長く、富と利用を事業とするならば、それは小人からであろう。 悪人が国のために、最近開墾された畑のために作るなら、たとえ善人がいても、もう何もすることはない。 つまり、国家は利益を利益とするのではなく、義を義とするのである。



国家に長として財用を務むる者は、必ず小人に自(由)る。彼為善之、小人をして国家を為めしむるときは、害並び至る。善者ありと雖も、亦たこれを如何ともすること無し。此れを、国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す、と謂うなり。〔旧本第六章第四節七七ページ〕


 国家の統率者として財政に力をいれる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。たとえすぐれた人物がいたところで、もはや手の施しようもなくなるのである。「国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそ本当の利益だ」というのはこのことである。


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孔门理财学

二、经济学与伦理学的和谐

宋儒不敢言利的原因是他们将利和义尖锐对立起来,认为它们必定

是互相排斥的。但真正的儒者将经济学与伦理学谐调了起来,统一了利

和义,认为真正的利是义,违反义的近利从长远看根本就不是利。义与

利的本质是同样的,只是用不同的词表达而已。

孔子生活于封建时代,通常是同君王交谈,所以他不喜欢言利,而

是代之以义。我们知道君王一般关心利,不关心义,关心财富而不关心

美德,那么为什么要孔子言利而不是言义呢?但如果孔子只对他们说义

是好的,而不说义就是利,他们将不会信他,将不会行义。因此,孔子

清楚地指出义是真正的利,追逐利是一种自杀政策。

《大学》中阐述这一原则说:

“是故君子先慎乎德……德者,本也;财者,末也。外本内末,

争民施夺。是故财聚则民散,财散则民聚......货悖而入者,亦悖而

出……仁者以财发身,不仁者以身发财。未有上好仁而下不好义者

也,未有好义其事不终者也,未有府库财非其财者也。”

为了解释一个国家真正的利不是金钱利益,而是义,文章引用

子的话说:“与其有聚敛之臣,宁有盗臣。”实际上,失去财富比失去正

义要好。

《大学》总结道:


“长国家而务财用者,必自小人矣。彼为善之,小人之使为国

家,灾害并至。虽有善者,亦无如之何矣!此谓国不以利为利,以

义为利也。”①


孟子也给出了同样的原则,当他遇到梁惠王时首先拒绝言王所言之

利,只是说仁义二字。然后他指出一般意义上的利不是利,如果一个君

王、高官、士和庶人都试图从别人那里谋利,这个国家将是危险的,他

说:“苟为后义而先利,不夺不餍。”①

然后他转到了仁义这一真正的利,他说:“未有仁而遗其亲者也,

未有义而后其君者也。”②

《大学》和孟子所言是针对君王和政府的,但是义就是利这一原则

对于全人类都是正确的。中国人将这作为经济学的基本原则,并在日常

生活中实践着它。这是为什么中国商人有着最高道德标准的原因。的确

是“诚信为本”!如果义不是利,人的道德将和禽兽一样低。但是今天,

人类的演进已经到达了目前这样的阶段,它证明了义就是利,正义越

多,我们将越繁荣。

既然义就是利,那么为什么孔子不像言义那样常常言利呢?人性已

经是自私的,社会已经是功利的社会,人们天生就知道狭隘的利,不需

要再教他们。如果像孔子那样伟大的教师常常言利,将使人们更加重利

轻义,更多地关注金钱,更少地关注品行。他们将以孔子教导为由原谅

自己,用孔子的话作为借口。因此,孔子不常言利,而是代之以义。亚

当·斯密很好地解释了这一点,他说:

“人类思想中最有益于社会的原则自然不被标识为最荣耀的,

饥饿、干渴和性激情是延续人类种族的伟大力量,然而它们的几乎

所有表露都会引起蔑视。同样的,思想中提示交易、易物和交换的

原则,尽管那是人文文化,商业和劳动分工的基础,仍然不被标识

为可亲敬的……简单的原因是这些原则已经如此强固地植根于人

性,已经不需要那些脆弱的原则(比如慷慨)所需的外加力量。”③

况且,社会利益和社会正义是相谐调的,而个人利益不总是和个人

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①意为:做了国君却还一心想着聚敛财货,这必然是有小人在诱导,而那国君还以为这

些小人是好人,让他们去处理国家大事,结果是天灾人祸一齐降临。这时虽有贤能的人,却也

没有办法挽救了。所以,一个国家不应该以财货为利益,而应该以仁义为利益。

① 《孟子·梁惠王上》,意为:倘若不顾义而看重利,那不夺取全部是不会满足的。

② 《孟子·梁惠王上》,意为:重仁的人从来不会遗弃他的亲族,重义的人从来不会不顾

他的君主。

③ Lectures of Adam Smith, p.232.



 | 儒教の財務管理

2. 経済と倫理の調和

宋の時代の儒学者があえて利を語らなかったのは、彼らが利と義に鋭く反対し、利がなければならないと信じていたからである。

相互に排他的です。しかし、真の儒家は経済と倫理を調和させ、利益を統一します。

ヘイは、本当の利益は正義であり、義に反する目先の利益は長期的にはまったく利益にならないと信じています。正義と

利益の本質は同じで、言葉が違うだけです。

孔子は封建時代に生きており、王と話すのが常だったので、利益について話すことを好みませんでした。

それを正義に置き換えることです。私たちは、王が一般に正義ではなく利益を重視し、富は重視しても正義ではないことを知っています。

美徳、ではなぜ孔子は意味ではなく利益について語るのでしょうか。しかし、もし孔子が彼らにとって意味についてのみ語るのであれば?

彼らは彼を信じず、正義を行わないでしょう。そこで、孔子は、

正義こそが本当の利益であり、利益の追求は自殺行為であることを明確に指摘してください。

この原則は「大学」で次のように述べられています。

「それゆえ、君子はまず徳に気をつけなければならない。徳は基礎であり、富は基礎である。外面の基礎は内面の基礎である。

人々のために戦い、他の人に与えてください。したがって、富が集まれば人は散り、富が散れば人は集まる・・・自分の意志に反して物が入ってくると、また状況に反してしまうのです。

そのうち...慈悲深い者は自分の体で富を築き、不親切な者は自分の体で富を築きます。上が優しくても下が正義じゃない人はいない

また、善い義がなければ、働きは終わらず、彼の財産でない財務省の財産も存在しません。 」

国の本当の利益は金銭的利益ではなく正義であることを説明するために、記事はこう引用した。

孔子は、「集まる大臣がいるよりは、強盗がいるほうが良い」と言いました。実際、誠実を失うよりは、富を失うほうが良いのです。

善良な正義。

大学は次のように結論付けました。

「国を成長させ、その富を大切にしたい人は、謙虚な人から始めなければなりません。彼は善行を行い、悪人は国に良いことを行います。」

故郷、災害が起こります。いい人はいるけど、こんなことはない!ということは、国は利益のための利益を追求しない、ということだ。

義は利益です。 」①

孟子も梁の恵王に会ったとき、最初は燕王の言うことを拒否しました。

利益とは、まさに仁と義を意味する言葉です。それから彼は、一般的な意味での利益は、王であれば利益ではない、と指摘した。

国王も高官も学者も庶民も他人から利益を得ようとすると国が危うくなる。

曰く、「後の義のために先に利益を得たいなら、それを奪わなければ気が済まない。」

それから彼は仁と正義の真の利益に目を向けてこう言いました、「仁を持たずに親族を置き去りにする者は、

義を持たずに王になる者でもある。 」②

『大学』や孟子の言ったことは王や政府に向けられたものだが、義の原則は利益である

これは全人類に当てはまります。中国人はこれを経済学の基本原則として捉え、日常生活の中で実践しています。

生活の中で実践してください。これが、中国のビジネスマンが最も高い倫理基準を持っている理由です。確かに

それは「誠実さベース」です! 正義が利益でなければ、人間の道徳性は動物の道徳性と同じくらい低くなります。しかし今日は、

人類の進化は現在の段階に達しており、正義は利益であり、正義は正義よりも重要であることが証明されています。

多ければ多いほど、私たちはより豊かになります。

義は利益であるのに、なぜ孔子は義について語るだけでなく利益についても語らないのでしょうか? 人間の本性は変わってきています。

それは常に利己的であり、社会はすでに功利主義的な社会であり、人々は本質的に狭い利益を知っており、その必要はありません。

もう一度教えてください。孔子のような偉大な教師が利益についてよく話せば、人々は利益にもっと注目するでしょう。

正義を無視し、人格よりもお金に注意を払います。彼らは孔子の教えに基づいて許します

自身も孔子の言葉を言い訳にしている。したがって、孔子は利益についてあまり語らず、それを義に置き換えました。アジア

スミスは次のようにこのことをうまく説明しました。

「人間の思想の中で最も社会的に有益な原則は、当然ながら最も輝かしいものとしてマークされるわけではありません。

飢え、渇き、性的情熱は人類を存続させる大きな力ですが、それらはほとんど

すべての表示は軽蔑を生みます。同様に、貿易、物々交換、交換を示唆する考え

人間の文化、商業、分業の基礎であるにもかかわらず、原理は未確認のままである

これらの原則が人々にしっかりと根付いているという単純な理由から

セックスにはもはや、寛大さなどの脆弱な原則に必要な外力は必要ありません。 」③

さらに、社会的利益と社会正義は調和しますが、個人的利益は必ずしも個人的利益と一致するとは限りません。

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①意味:王になっても富を蓄えることを考えるなら、それは悪者にそそのかされたに違いなく、王はそれでもそう思っているということ。

これらの悪人たちは善良な人々であり、彼らに国政を任せています。その結果、天災と人災が起こります。現時点でも有能な人材はいますが、

それを保存する方法はありません。したがって、国は富によって利益を受けるのではなく、仁と義によって利益を受ける必要があります。

①「孟子:梁の恵王」の意味:正義を無視して利益を重んじるなら、すべてを手に入れないと気が済まない。

②「孟子:梁の恵王」の意味:仁を重んじる人は決して親戚を捨てず、義を重んじる人は決して無視しない

彼の主よ。

③アダム・スミス講義、232ページ。

| 儒教の財政管理 2. 経済と倫理の調和 宋の時代の儒学者があえて利を語らなかったのは、利と義は相反するものであると考え、鋭く対立していたからである。しかし、本物の儒家は経済と倫理を調和させ、利と義を統一し、本当の利は義であり、義に反する短期的な利は長期的には何の利にもならないと信じている。義と利益は本質は同じですが、表現が異なります。 孔子は封建時代に生き、王と話すことが多かったので、利益について話すことを好まず、それを正義に置き換えました。王は一般に義ではなく利益を重視し、富は重視するが徳ではないことを私たちは知っています。では、なぜ孔子が義ではなく利益について語る必要があるのでしょうか。しかし、もし孔子が彼らに義は良いことであるとだけ教え、義は善であるとは言わなかったとしたら?その利益のために、彼らは神を信じず、義を行おうとしないでしょう。したがって、孔子は、義こそが真の利益であり、利益の追求は自殺行為であると明確に指摘しました。 『偉大な学問』はこの原則を次のように説明しています。「したがって、紳士はまず徳に気をつけるべきです...徳は基礎であり、富は目的です。外的な基礎は内的な目的であり、人々はそれを求めて競争します。したがって、富が集まると人々は分散する 富が分散すると人々は集まる... 物資が入ってくると、また出てくる... 善良な人は富を利用して富を築き、不親切な人はその富を利用して富を築きます。義を愛する者はその行為を決してやめず、宝庫に財産を持たない者はそうするであろう。」記事は、国の本当の利益は金銭的な利益ではなく正義であることを説明するために、「集まる大臣をもつよりも、ならず者をもつ大臣をもつほうが良い」という子氏の言葉を引用した。正義を失うこと。 「大いなる学問」は、「国を成長させ、財政を管理しようとする者は、小人でなければならない。彼らが善いことをすれば、小人が国に善いことをするであろうし、災害が起こるであろう。たとえ、 「善良な人々、彼らは彼らとは似ていません。これが意味します。国家は利益のために利益を使用するのではなく、利益のために正義を使用します。」①孟子も同じ原則を示しました。梁の恵王に会ったとき、彼は最初に何を拒否しましたか。王は利益については話し、ただ仁と義という言葉だけを言いました。そして、一般的な意味での利益は利益ではないと指摘し、国王も高官も学者も庶民も他人に利益を求めようとすれば、国は危険にさらされるだろう、と述べた。 「利益を先に奪うよりも、義のために先に得るべきです。」 ① それから彼は仁と義の本当の利益に目を向け、こう言いました。義なき統治者を引き継ぐ者。」② 『大学』や孟子が言ったことは王や政府に向けられたものですが、義は利益であるという原則は全人類にとって正しいものです。中国人はこれを経済学の基本原則として捉え、日常生活の中で実践しています。これが、中国のビジネスマンが最も高い倫理基準を持っている理由です。それはまさに「誠実に基づく」ものです! 正義が利益でなければ、人間の道徳性は動物の道徳性と同じくらい低くなります。しかし今日、人類の進化は正義が利益であり、正義が多ければ多いほど私たちはより豊かになることを証明する現在の段階に達しました。 義は利益であるのに、なぜ孔子は正義と同じくらい利益について常に語らないのでしょうか? 人間の本質はすでに利己的であり、社会はすでに功利主義的な社会です 人々は本質的に狭い利益を知っており、それを教える必要はありません。孔子のような偉大な教師が利益についてよく話すと、人々は正義よりも利益に注目し、お金に注目し、人格に注意を払わなくなるでしょう。彼らは孔子の教えを理由に言い訳し、孔子の言葉を言い訳に使います。したがって、孔子は利益についてあまり語らず、それを義に置き換えました。アダム・スミスは次のようにこの点をうまく説明しています。飢え、渇き、性的情熱は人類を永続させる大きな力ですが、それらの表現のほとんどすべてが軽蔑を呼び起こします。また、人間の文化、商業、および貿易、物々交換、交換の原則を促す考えも同様です。分業は未だに立派なものとして認識されていない…その単純な理由は、これらの原則がすでに人間の本質にしっかりと根付いており、脆弱な原則(寛大さなど)に必要な外力をもはや必要としないからである。」また、社会的利益と社会的正義は一致するが、個人的利益は必ずしも個人と一致するとは限らない。 062 ① 意味:王になったのに、なお富を蓄えることを考えているのは、悪人によって誘導されたに違いなく、王は依然としている。この悪人を善人だと思って国政を任せると、結果として天災と人災が重なってしまう。現時点では有能な人材はいるが、救いようがない。したがって、国は富によって利益を受けるのではなく、仁と義によって利益を受ける必要があります。 ①「孟子・梁の恵王」の意味:正義を無視して利益を重んじるなら、すべてを手に入れないと気が済まない。 ②「孟子、梁の恵王」とは、仁を重んじる人は決して親族を見捨てず、義を重んじる人は君主を無視しないことを意味します。 ③アダム・スミスの講義、p.232。


| 孔门理财学 二、经济学与伦理学的和谐 宋儒不敢言利的原因是他们将利和义尖锐对立起来,认为它们必定 是互相排斥的。但真正的儒者将经济学与伦理学谐调了起来,统一了利 和义,认为真正的利是义,违反义的近利从长远看根本就不是利。义与 利的本质是同样的,只是用不同的词表达而已。 孔子生活于封建时代,通常是同君王交谈,所以他不喜欢言利,而 是代之以义。我们知道君王一般关心利,不关心义,关心财富而不关心 美德,那么为什么要孔子言利而不是言义呢?但如果孔子只对他们说义 是好的,而不说义就是利,他们将不会信他,将不会行义。因此,孔子 清楚地指出义是真正的利,追逐利是一种自杀政策。 《大学》中阐述这一原则说: “是故君子先慎乎德……德者,本也;财者,末也。外本内末, 争民施夺。是故财聚则民散,财散则民聚......货悖而入者,亦悖而 出……仁者以财发身,不仁者以身发财。未有上好仁而下不好义者 也,未有好义其事不终者也,未有府库财非其财者也。” 为了解释一个国家真正的利不是金钱利益,而是义,文章引用 子的话说:“与其有聚敛之臣,宁有盗臣。”实际上,失去财富比失去正 义要好。 《大学》总结道: “长国家而务财用者,必自小人矣。彼为善之,小人之使为国 家,灾害并至。虽有善者,亦无如之何矣!此谓国不以利为利,以 义为利也。”① 孟子也给出了同样的原则,当他遇到梁惠王时首先拒绝言王所言之 利,只是说仁义二字。然后他指出一般意义上的利不是利,如果一个君 王、高官、士和庶人都试图从别人那里谋利,这个国家将是危险的,他 说:“苟为后义而先利,不夺不餍。”① 然后他转到了仁义这一真正的利,他说:“未有仁而遗其亲者也, 未有义而后其君者也。”② 《大学》和孟子所言是针对君王和政府的,但是义就是利这一原则 对于全人类都是正确的。中国人将这作为经济学的基本原则,并在日常 生活中实践着它。这是为什么中国商人有着最高道德标准的原因。的确 是“诚信为本”!如果义不是利,人的道德将和禽兽一样低。但是今天, 人类的演进已经到达了目前这样的阶段,它证明了义就是利,正义越 多,我们将越繁荣。 既然义就是利,那么为什么孔子不像言义那样常常言利呢?人性已 经是自私的,社会已经是功利的社会,人们天生就知道狭隘的利,不需 要再教他们。如果像孔子那样伟大的教师常常言利,将使人们更加重利 轻义,更多地关注金钱,更少地关注品行。他们将以孔子教导为由原谅 自己,用孔子的话作为借口。因此,孔子不常言利,而是代之以义。亚 当·斯密很好地解释了这一点,他说: “人类思想中最有益于社会的原则自然不被标识为最荣耀的, 饥饿、干渴和性激情是延续人类种族的伟大力量,然而它们的几乎 所有表露都会引起蔑视。同样的,思想中提示交易、易物和交换的 原则,尽管那是人文文化,商业和劳动分工的基础,仍然不被标识 为可亲敬的……简单的原因是这些原则已经如此强固地植根于人 性,已经不需要那些脆弱的原则(比如慷慨)所需的外加力量。”③ 况且,社会利益和社会正义是相谐调的,而个人利益不总是和个人 062 ①意为:做了国君却还一心想着聚敛财货,这必然是有小人在诱导,而那国君还以为这 些小人是好人,让他们去处理国家大事,结果是天灾人祸一齐降临。这时虽有贤能的人,却也 没有办法挽救了。所以,一个国家不应该以财货为利益,而应该以仁义为利益。 ① 《孟子·梁惠王上》,意为:倘若不顾义而看重利,那不夺取全部是不会满足的。 ② 《孟子·梁惠王上》,意为:重仁的人从来不会遗弃他的亲族,重义的人从来不会不顾 他的君主。 ③ Lectures of Adam Smith, p.232.

2024年11月28日木曜日

株式会社ニッコー | 液体ガラスで木材の改質・保護・強化の実現 | 株式会社ニッコー

メッセージ

    自然由来の材質の弱点である耐久性を大幅に改善する「ニッコー・液体ガラス」を世界で初めて開発しました。人類と自然の調和した社会のために、同じ気持ちの仲間たちと一緒に、私は情熱の全てをそそいでいます。


https://www.woodrescue.co.jp/



【松岡修造のみんながん晴れ】木材を数百年もたせる“魔法の液体”(2023年1月28日) https://youtu.be/gw3jUy2Lpyg?si=wcuUbpxx19yc3LRi @YouTubeより

2024年11月21日木曜日

WWFジャパンさんによるXでのポスト


https://x.com/wwfjapan/status/1859434050928378196?s=61

 
 
WWFジャパン
⁦‪@WWFJapan‬⁩
北極圏は地球上の他の地域より約3倍の速さで温暖化が進んでいます。北極圏の温暖化は地球全体に影響を及ぼします。

温室効果ガスの排出を今すぐ減らさなければなりません。

世界の指導者に積極的な気候変動対策を求めましょう。ぜひWWFのメッセージをシェアしてください。#COP29 #ActForOurPlanet pic.x.com/LRGWCzI0zc
 
2024/11/21 12:09
 
 

革命家の告白 プルードン 1851 より

 La solution du problème de la misère consiste donc à élever à une plus haute expression la science du comptable, à monter les écritures de la société, à établir l’actif et le passif de chaque institution, en prenant pour comptes généraux ou divisions du grand-livre social, non plus les termes de la comptabilité ordinaire, Capital, Caisse, Marchandises générales, Traites et remises, etc. ; mais ceux de la philosophie, de la législation et de la politique : Concurrence et Monopole, Propriété et Communauté, Citoyen et État, Homme et Dieu, etc. — Enfin, et pour achever ma comparaison, il faut tenir les écritures à jour, c’est-à-dire déterminer avec exactitude les droits et les devoirs, de manière à pouvoir, à chaque moment, constater l’ordre ou le désordre, et présenter la balance [9]. J’ai consacré deux volumes à expliquer les principes de cette comptabilité que j’appellerai, si l’on veut, transcendante ; j’ai rappelé cent fois, depuis Février, ces idées élémentaires, communes à la tenue des livres et à la métaphysique. Les économistes routiniers m’ont ri au nez ; les idéologues politiques m’ont invité poliment à écrire pour le peuple. Quant à ceux dont j’avais pris si fort à cœur les intérêts, ils m’ont traité encore plus mal. Les communistes ne me pardonnent pas d’avoir fait la critique de la communauté comme si une nation était était un grand polypier, et qu'à côté du droit social il n’y eût pas le droit individuel. Les propriétaires me veulent mal de mort pour avoir dit que la propriété, seule et par elle-même, est vol ; comme si la propriété ne tirait pas toute sa valeur (la rente) de la circulation des produits, et par conséquent ne relevait pas d’un fait supérieur à elle, la force collective, la solidarité du travail Les politiques enfin, quelle que soit leur bannière, répugnent invinciblement à l’an-archie, qu’ils prennent pour le désordre ; comme si la démocratie pouvait se réaliser autrement que par la distribution de l’autorité, et que le véritable sens du mot démocratie ne fût pas destitution du gouvernement. Ces gens-là ressemblent tous à ce maquignon qui, ayant pris un commis pour débrouiller ses comptes, se croyait volé, parce qu’il voyait les parties rangées sur deux colonnes, l’une au débit, l’autre au crédit. « Je fais tous mes achats au comptant, s’écriait-il ! Je ne dois rien à personne, et prétends ne devoir jamais rien ! » — M. Thiers, exposant avec sa merveilleuse lucidité l’origine et le développement de la propriété, sans vouloir entendre parler de sa corruptibilité et de sa décadence, est le pendant de ce maquignon. Cela n’empêche pas que M. Thiers ne soit aujourd’hui le sauveur de la famille et de la propriété. Pour prix de sa science économique, il sera bientôt ministre ; tandis que moi, pauvre vérificateur d’écritures, je suis une peste publique, et l’on me met en prison. Entre la communauté et la propriété, il ne faut pas mettre le doigt !... Le Système des Contradictions économiques ou Grand-Livre des mœurs et institutions, peu importe le nombre des cadres, comptes généraux ou catégories, est le vrai système de la société, non telle qu’elle se développe historiquement et dans l’ordre des générations, mais dans ce qu’elle a de nécessaire et d’éternel. Comme dans une entreprise industrielle, de nouvelles relations donnent lieu chaque jour à de nouveaux comptes, et modifient incessamment l’organisation intérieure du travail, la distribution des ouvriers et employés, l’emploi des machines, etc. ; ainsi, dans la société, de nouvelles lumières, de grandes découvertes, produisent incessamment de nouvelles mœurs et modifient l’économie générale. Mais de même encore que, dans toute société de commerce ou d’industrie, les principes de comptabilité, le système général des écritures est invariable ; que les livres sont la représentation des opérations, l’observatoire d’où le gérant dirige toute la marche des affaires : pareillement, dans la société, la théorie des antinomies est à la fois la représentation et la base de tout mouvement. Les mœurs et les institutions peuvent varier de peuple à




Et il y revient plus tard dans un éclaircissement ajouté

à la 3° étude 2:

A propos de cet ouvrage (les Contradictions économiques),

je renouvelle ici l'observation déjà faite sur Hegel, à l'exemple

duquel j'avais adopté l'idée que l'antinomie devait se résoudre

en un terme supérieur, la synthèse, distinct des deux premiers,

la thèse et l'antithèse, erreur de logique autant que d'expérience

dont je suis aujourd'hui revenu. L'antinomie ne se résout pas;

là est le vice fondamental de toute la philosophie hégélienne. Les

deux termes dont elle se compose, se balancent, soit entre eux,

soit avec d'autres termes antinomiques, ce qui conduit au résul-

tat cherché. Une balance n'est point une synthèse telle que l'en-

tendait Hegel et que je l'avais supposée après lui.

Cette idée de la balance n'était d'ailleurs pas neuve chez

Proudhon. Elle s'était d'abord présentée chez lui sous la

forme de la notion mécanique d'un équilibre ou d'un con-

trepoids. Un peu plus tard, dans les Contradictions éco-

nomiques, il s'agit de faire équation générale de toutes

nos contradictions ». En 1849, dans les Confessions, c'est la

1. De la justice..., éd. Bouglé-Moysset, t. I, p. 211.

2. Id., t. II, p. 155.


Et il y revient plus tard dans un éclaircissement ajouté à la 3° étude 2: 

A propos de cet ouvrage (les Contradictions économiques), je renouvelle ici l'observation déjà faite sur Hegel, à l'exemple duquel j'avais adopté l'idée que l'antinomie devait se résoudre en un terme supérieur, la synthèse, distinct des deux premiers, la thèse et l'antithèse, erreur de logique autant que d'expérience dont je suis aujourd'hui revenu. L'antinomie ne se résout pas; là est le vice fondamental de toute la philosophie hégélienne. Les deux termes dont elle se compose, se balancent, soit entre eux, soit avec d'autres termes antinomiques, ce qui conduit au résultat cherché. Une balance n'est point une synthèse telle que l'entendait Hegel et que je l'avais supposée après lui. 

Cette idée de la balance n'était d'ailleurs pas neuve chez Proudhon. Elle s'était d'abord présentée chez lui sous la forme de la notion mécanique d'un équilibre ou d'un contrepoids. Un peu plus tard, dans les Contradictions économiques, il s'agit de faire équation générale de toutes nos contradictions ». En 1849, dans les Confessions, c'est la 

1. De la justice..., éd. Bouglé-Moysset, t. I, p. 211. 

2. Id., t. II, p. 155.


そしてそれは、第3回研究2に追加された概説の中で、さらに前に戻ってくる: 本書(経済学的矛盾)に関して、私はヘーゲルに関する既往の考察を新たにする、 このシンセテースは、最初の2つのシンセテースとアンチシンセテースとは異なるものであり、論理的な誤りであると同時に、今私が得ている経験上の誤りでもある。反知性主義は、今なお消え去ることはない。ここにあるのは、あらゆるエゲレス哲学の根本的な悪徳である。それが構成する2つの用語は、両者の間で、あるいは他の反知性的な用語との間で、均衡を保っている。均衡とは、ヘーゲルが考えたような、また私がヘーゲルに倣って思いついたような、ある種のシンセシスではない。均衡という考え方は、プルードンにとっては新しいものではなかった。それは以前から、均衡や均衡の概念という形でプルードンによって提示されていた。さらに少し前に、経済学的矛盾の中で、「すべての矛盾を総括的に方程式化する」ことが提唱された。1849年、『告白』の1. De la justice..., ed. Bouglé-Moysset, t. I, p. 211. 2. t. II, p. 155.


Das Passagen-Werk: Die Straßen von Paris: Einer der Grundlagentexte materialistischer Kulturtheorie - Blick in die Jetztzeit des Spätkapitalismus (German Edition) はKindle Cloud Reader



912:

Proudhon über Hegel: »L’antinomie ne se résout pas; là est le vice fondamental de toute la philosophie hégélienne. Les deux termes dont elle se compose, se balancent … Une balance n’est point une synthèse.« »… N’oublions pas«, fügt Cuvillier hinzu, »que Proudhon avait été longtemps comptable.« An anderer Stelle spricht Proudhon von den seine Philosophie bestimmenden Gedanken als »idées élémentaires, communes à la tenue des livres et à la métaphysique«. Armand Cuvillier: Marx et Proudhon (A la lumière du marxisme II Paris 1937 p 180/181) [a 19, 4]



パサージュ論4岩波文庫


430


ヘーゲルについてプルードンは言っている。「二律背反は解消されない。そこにヘーゲル哲学全体の基本的な欠陥がある。それを作り上げる二つの項は、相殺されている。収支(バランス)は総合(ジンテーゼ)はない。」「長い間、プルードンが経理担当者だったことをわれわれは忘れてはならない」と、キュヴィリエ[20世紀仏の哲学者·社会学者]は付け加えている。ほかの箇所でプルードンは、彼の哲学を決定している思想は、「基本的な考え方で、簿記にも形而上学にも共通した考え方」であると述べている。アルマン・キュヴィリエ「マルクスとプルードン」(「マルクス主義に照らして』II、パリ、一九三七年、一八〇一-八一ページ)[a19, 4]


 »idées élémentaires, communes à la tenue des livres et à la métaphysique«


「基本的な考え方で、簿記にも形而上学にも共通した考え方」

革命家の告白#11


プルードンは、彼の哲学を決定している思想は、「基本的な考え方で、簿記にも形而上学にも共通した考え方」であると述べている。


パサージュ論4岩波文庫430頁


 »idées élémentaires, communes à la tenue des livres et à la métaphysique«


革命家の告白#11


「基本的な考え方で、簿記にも形而上学にも共通した考え方」




《プルードンは、彼の哲学を決定している思想は、「基本的な考え方で、簿記にも形而上学にも共通した考え方」であると述べている。》

パサージュ論4岩波文庫430頁


 »idées élémentaires, communes à la tenue des livres et à la métaphysique«

『革命家の告白』#11


https://x.com/yojisekimoto/status/1859397019984638421?s=61


 したがって、貧困問題の解決策は、会計士の科学をより高度に表現し、会社の記録を作成し、各機関の資産と負債を確立し、一般会計または大きな社会帳簿の部門を考慮することから成ります。 、もはや通常の会計、資本金、現金、一般財、手形、送金などの条件ではありません。 ;しかし、哲学、立法、政治の分野では、競争と独占、財産と共同体、国民と国家、人間と神などです。 — 最後に、私の比較を完了するには、文書を最新の状態に保つ必要があります。つまり、いつでも順序や順序を書き留めることができるように、権利と義務を正確に決定する必要があります。無秩序、そしてバランスを提示します [9]。私はこの会計の原則を説明するのに 2 冊を費やしました。この会計の原則を、お好みで言えば超越的と呼んでおきます。私は2月以来、簿記と形而上学に共通するこれらの基本的な考え方を100回思い出した。日常的な経済学者たちは私の面前で笑いました。政治的イデオローグたちは私に、国民のために書くよう丁重に勧めてくれました。私が関心を非常に真剣に受け止めていた人々に関して言えば、彼らは私をさらにひどい扱いをしました。共産主義者たちは、あたかも国家が偉大な博学者であるかのように共同体を批判し、社会権と並んで個人の権利は存在しないなどと私を許しません。所有者たちは、財産そのものが窃盗だと言っている私に死刑を望んでいます。あたかも、財産がその価値(地代)のすべてを製品の流通から得ているわけではなく、その結果、それよりも優れた事実、集団の力、労働の団結に依存していないかのようである。彼らは無政府状態を無秩序とみなしている。あたかも民主主義は権力の分配以外の方法で達成できるかのように、そして民主主義という言葉の本当の意味は政府の解任ではない、とでも言うかのように。これらの人々は皆、この馬商人に似ています。彼は、帳簿を整理するために事務員を雇いましたが、部品が 2 列に並べられ、1 つは借方、もう 1 つは貸方に配置されているのを見て、自分が強盗に遭ったと信じました。 「買い物はすべて現金で行います」と彼は叫びました。私は誰にも何も借りていないので、何も借りていないふりをしています。 » — ティエール氏は、財産の腐敗と退廃について聞きたがることなく、その驚くべき明晰さで財産の起源と発展を暴露しており、この馬商人の対応者である。だからといって、ティエール氏が今日、家族と財産の救世主となることを妨げるものではない。経済知識の報酬として、彼は間もなく大臣になる予定です。一方、聖書の検証が下手な私は公共の害虫であり、刑務所に入れられています。コミュニティと不動産の間には、指を触れるべきではありません。経済的矛盾のシステム、あるいは道徳と制度の台帳は、枠組み、一般会計、カテゴリーの数に関係なく、歴史的かつ世代順に発展するのではなく、必要かつ永遠に続く社会の真のシステムである。 。産業企業と同様に、新しい関係によって毎日新しいアカウントが生成され、仕事の内部組織、従業員と従業員の配置、機械の使用などが常に変更されます。 ;したがって、社会では、新しい光、偉大な発見が常に新しい道徳を生み出し、一般的な経済を修正します。しかし、あらゆる商業社会や工業社会における会計原則と同様に、一般的な記述体系も不変です。本は業務の表現であり、経営者が業務全体を指揮する観測所である。同様に、社会においては、矛盾の理論がすべての運動の表現であり、基礎でもある。道徳や制度は人によって異なります

2024年11月19日火曜日

マイモニデスとスピノザ

 


https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/blog-post_19.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/7480704528573632918


 (4)哲学的理解(第1部68章-88章)

 68章と69章には、哲学者の描く神が記述されている。彼は68章で、哲学者の描く神とは、「知性 (al-'aql) であり、知性的に認識するもの[主体](al-'āqil) であり、さらに知性的に認識されるもの[客体] (al-ma'qūl)であって、それら三つの様相が、多性のない一つの意味を持つ」と述べている。この記述に関して、彼は次のように解説する。神は一であり、一切付加され得るものではなく、また、神の命は神の本質そのものであるために、生ける神によってとは言われても、神の命によってとは言われない。人は可能態として知性的に認識する主体であるが、可能であることと現実にそうであることとは同じではなく、他方、知性と形相の関係において、形相とは現実化した知性であるため、知性と知性的に認識された形相は別個のものではない。なぜなら、現実化した知性とは、知性的に認識されたもので、知性の働きはその本質と同一で、知性の本質とは理解のことだからである。


 次の69章で、彼は、哲学者が神を第一原因と呼ぶ点について論じている。彼らが神を第一原因、もしくは不動の動者と呼ぶのは、すべての事物には原因、すなわち、アリストテレスが言うところの質料、形相、始動因、目的因の四原因が存しているからであるが、神は始動因であり、形相であり、かつ目的でもあると考えられることから、始動因、形相、目的因は同一のものとして捉えられると、彼は指摘している。


マイモニデスにおける神への道程―神の知解と人間の生き方の相関性を巡って― 単行本 – 2024/2/10 


68~69頁


 
サッカレーの娘と格言とマイモニデス





Maimonides's 4 Brilliant Quotes for Intellectual Enlightenment #quotes #... https://youtube.com/shorts/KQtHYDcFCkQ?si=SnwHYol_DrFk2DAs @YouTubeより


スピノザ
神学政治論
第七章

[二十]マイモニデスにはこれとまったく違った見解があった。彼の考えるところでは、たしかに聖書はそれぞれの箇所で違う意味、時には反対の意味すら持ちうるし、わたしたちはそうした箇所の真意について確信を得られないように見える。しかしそれはわたしたちが解釈の仕方を知らないからであり、こちらの解釈次第では、そこには理性にそぐわないことや反することは何一つ含まれなくなるはずだという。つまり、もし文字通りの意味に取れば理性に反すると分かったら、いくら文字通りの意味が明らかであっても、その箇所を違う意味に解釈すべきだとマイモニデスは主張するのである。このことは『迷えるものの導き』第二部二十五章でもはっきりと述べられている。マイモニデスの言い分はこうだ。

  「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。  わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」 

31 『迷えるものの導き』は元々アラビア語で書かれた著作だが、既にマイモニデスの存命中(十三世紀初頭)にイブン・ティボン(Samuel ibn Tibbon:一一六〇~一二三〇)という人物の手で最初のヘブライ語訳が作られている(『迷えるものの導き(モレー・ネヴヒム)』という西欧で知られた呼び名も、このヘブライ語訳に付けられた題名に由来する)。スピノザはこのイブン・ティボンのヘブライ語訳を所持していた。原文ではラテン語訳文とイブン・ティボンのヘブライ語訳文が併記されており、ラテン語訳文中の( )の語句はスピノザが付加した説明である。
 32 マイモニデスの引用からここまでの文章は、議論が凝縮されていて非常に分かりにくい。多少の意訳では対応しきれないため、訳者の解釈に従い、随所で文意を補っておく。 
33 いずれも本章九節の話題の続きである。

 以上がマイモニデスの言葉である(31)。わたしが先ほど述べたことは、以上の言葉から明らかに帰結する。つまり、もしマイモニデスにとって、世界が永遠であることが理性的に見て明らかだったなら、彼は間違いなく聖書を曲げて説明し、結局はこのことを聖書も説いているかのように見せようとしただろう。それだけではない。たとえ聖書が至る所で明白に反対のことを主張していても、彼は直ちに、聖書は[本当は]世界が永遠であることを説こうとしていたのだと確信したことだろう。ということは、マイモニデスはたとえ聖書の真意が[文字通りには]明白な場合でも、それが真理にかなっているかどうか疑わしい限りは、あるいは真理にかなっていることが彼自身[の理性]にとって明白でない限りは、その真意を確信できないことになる。つまり[聖書に説かれている]ものごとが真理にかなっているかどうか不確かな限りは、わたしたちはそれが理性にかなっているか反しているか分からず、したがってまた、文字通りの意味が本当か間違いかも分からないことになる。
  仮にこうした主張が当たっていたら、わたしは否応なく、わたしたちが聖書を解釈するには自然の光とは別の何かが必要だと認めざるをえなかったろう。聖書各巻に見られるほとんどすべてのことは、(既に示したように)自然の光によって知られる原則からは導き出せないからである。その場合、自然の光ではそれらが真理を語っているかどうか見極められないのだから、わたしたちは聖書の真意や考えについても分からないし、分かろうとすれば当然別の光を必要とすることになったろう。さらに、もしこの主張が当たっていたら、ふつうは[自然の光による]証明など解さない、というか証明などに関わっていられない民衆は、聖書の内容については哲学者たちの示す権威や証言を丸呑みすることしかできないはずだ。だとすると彼らは、哲学者たちが聖書解釈を絶対に誤らないと決めてかかることを迫られる。しかしこれは哲学者たちを新しい教権、新しい司祭あるいは新しい法王とするようなものであり、民衆には敬われるよりも笑い飛ばされるのが関の山だろう。
  わたしたちの方法でも、ヘブライ語の知識は必須である。そして[今の]民衆は、やはりヘブライ語の習得などに関わってはいられない。しかしだからといって、今述べたのと同じような反論がわたしたちに向けられることはありえない。というのも、かつて預言者や使徒たちも民衆に向けて教えを説いたりものを書いたりしたわけだが、当時のユダヤ人その他の民衆は預言者や使徒たちの言語が分かっていたし、またこの言語によって預言者たちの考えをつかんでいたからである。もちろん当時の民衆にも、預言者たちがそうしたことを説いた[合理的な]根拠まで分かっていたわけではない。ところがマイモニデスの主張によれば、預言者たちの考えをつかむにはそのような根拠まで知らなければならないというのである。  このように、民衆が解釈者[=哲学者]たちの言いなりで満足するしかないという[先ほどの]結論は、わたしたちの方法からは必ずしも導かれない。わたしがここで念頭に置く民衆とは、預言者や使徒たちの言語を知っていた民衆のことだからだ。これに対し[そのような結論を回避しようとするなら]、マイモニデスは[単にヘブライ語を知っているだけでなく]ものごとの原因を理解でき、またものごとの真意をその原因にさかのぼって特定できるような民衆を[想定しなければならないはずだが、明らかにそのような民衆を]想定していない。 
 また、たとえ今の[=ヘブライ語を知らない]民衆に話を移しても、わたしたちの方法の優位は動かない。わたしたちが既に示したように、救いを得るために必要な教えは、たとえその[合理的な]根拠までは分からなくても、どのような言語でも簡単に理解できることばかりだからだ。それらはそれほどまでに、誰にでも共通する当たり前のことなのである。だから今の民衆も、[ヘブライ語を知らないからといって]解釈者たちの言いなりで我慢しなくてよいことになる。彼らはむしろ、[聖書の説く教えを]自ら理解することによって安心できるのである。そしてその他の点については、学がある人もない人も、置かれた境遇に大差はない(32)のだ。

[二十一]しかしマイモニデスの主張に立ち返って、さらに詳しく検討してみよう。まずこの主張では、預言者たちは何事についても意見が一致していて、しかも全員が哲学者であり神学者であったと想定されている。預言者たちは真理に基づいて結論を引き出したことにされているからだ。しかしこれが誤りであることは既に第二章で示しておいた。  さらにこの主張では、聖書の意味を聖書そのものによって確定することが不可能だと想定されている。真理が聖書によって確定されることはないからだ(そもそも聖書は何一つ証明していないし、何を語るにせよそれを基本原則や第一原因にさかのぼって説くことはないのだから)。したがってマイモニデスの主張によると、聖書の真意を聖書そのものによって確定することも、聖書そのものから得ようとすることもできなくなる。しかしこれも誤りであることは、本章で明らかにした通りである。既に理論と実例のどちらでも示したように、聖書の意味は当の聖書だけによって確定できるし、聖書だけから得ることができる。これは聖書が自然の光によって知られることを語っている箇所でも変わらない。  さらにこの主張では、わたしたちはあらかじめ持っている考えに合わせて聖書の言葉を説明し、ねじ曲げ、いくら文字通りの意味が明らかではっきりしていても否定し、別のどのような意味に読み変えても構わないと想定されている。既にこのこと自体、わたしたちが本章その他で論証してきたことに真っ向から矛盾しているのだが、それをひとまず問わないとしても、このようなお墨付きを与えるのがやり過ぎであり無謀であることは誰の目にも明らかだろう。ここまでやりたい放題を認めておいて、一体どういう成果が得られるだろうか。間違いなく、得られるものは何一つない。聖書の大部分はそもそも論証のしようがないものごとで占められていて、それらを今述べたような仕方で探究することなど不可能だし、またこれらに今述べたような基準に従って説明や解釈を付けることも不可能なのだ。一方わたしたちの方法に従うなら、こうした類のことを数多く解明できるし、[たとえ最終的な解明が難しい場合でも]手堅く論じることができる。このことは既に、理論と実例に即して示しておいた。また、これも既に示したように、その本来的な性質からして分かりやすい事柄ならば、その意味は文章の前後関係からだけでも簡単に読み取れる。  そういうわけで、この[マイモニデスの]方法には何の利点もない。しかもこの方法は、民衆がまじめに聖書を読みさえすれば得られるような確信であれ、また誰もがもう一つの[つまりわたしたちの]方法に従えば得られるような確信であれ、およそ聖書の真意についてのありとあらゆる確信をひとびとから残らず取り上げてしまう。だからこそ、このマイモニデスの主張は有害無益で馬鹿げており、わたしたちはこれを受け入れるわけにはいかないのである。 [二十二]さらにパリサイ人たちの伝統についていえば、既に述べたように、これには筋が通っていない。また[歴代の]ローマ法王たちの権威なるものは、[信用するには]もっとはっきりした証拠が必要である(33)。まさしくこの理由から、わたしは法王の権威を認めない。実際、もし法王たちが彼らの権威を、かつてユダヤ人の大祭司たちがそうしたのと同じくらい確かに、聖書そのものに基づいて示すことができたならば、たとえ彼らの中に異端者や不届き者がいてもわたしは動じなかったろう。かつてヘブライ人の大祭司たちの中にも、異端者や不届き者はいたからである。彼らはいかがわしい手口で大祭司の地位に就いたけれども、それにもかかわらず、法を解釈する至高の権力が彼らの下にあることは聖書の指図から明らかだった。これは『申命記』第十七章十一~十二節や第三十三章十節や『マラキ書』第二章八節を参照してほしい。ところがローマ法王たちはそのような証拠を示してくれないのだから、わたしたちにとって彼らの権威はきわめて疑わしいものでしかない。  ヘブライ人の大祭司の例に惑わされて、普遍的宗教[としてのキリスト教]にも法王が必要だと思い込む人が出ないように、ここで注意しておくべきことがある。そもそもモーセの律法は[ユダヤ人の]国の公の法だった。だからこそ、これを守るためには必然的に、何らかの公の権威が求められたのである。もし誰もが好き勝手に公の法を解釈する自由を持っていたら、どんな国でも存続できず、むしろこれによって直ちに解体されてしまうからだ。その時には公の法は[ひとそれぞれの]私の法となってしまう。  ところが宗教は事情がまったく違う。宗教で重要なのは外的な行いよりもむしろ純朴で誠実な心を持つことなのだから、宗教はどのような公の法にも権威にも支配されない。どんなに法で命じても、どんな公の権威を立てても、ひとびとの心に純朴さや誠実さを注ぎ込むことはできないからだ。暴力や法律で強制されて幸福になれる人間はただの一人もいない。ひとが幸福になるために必要なものは、道徳をわきまえた親切な忠告であり、よい教育であり、そして何よりもまず、自分自身の自由な判断なのである。  こういうわけで、ひとはそれぞれ、ものごと(これには宗教のことも含まれる)を自由に考える至高の権利を持っている。そしてこの権利を放棄できる人がいるなどとは到底考えられない。ということは、宗教について自由に判断する至高の権利や権威も、ひいては宗教を自分に納得のいくように説明し解釈する権利や権威も、やはり各人が持っているのである。法を解釈する至高の権威や、公のものごとについての最終的な判断が政府に委ねられるのは、これらが公の法の一部だからに他ならない。これと同じ理由から、宗教上のことを説明したり判断したりする至高の権威は、ひとそれぞれに委ねられる。それはつまり、これが各人の権利の一部だからである。したがって、ヘブライ人の大祭司に国の法を解釈する権威があったからといって、ローマ法王に[キリスト教という]宗教を解釈する権威があると結論するのは全くの筋違いというものだろう。そのような前提でいくと、むしろ反対に、宗教の解釈権はもっぱらひとそれぞれに委ねられていると結論する方が無理がないからである。  ここからも、わたしたちの方法こそ聖書解釈の最善の方法であることが分かる。もし聖書解釈の至高の権威が各人に委ねられるなら、その解釈の基準は超自然の光でも外部の権威でもなく、誰にでも共通の自然の光によるしかないからだ。またその基準は、最高に頭の切れる哲学者でないと扱いきれないほど難しいものではなく、ひとびとの誰もが当然持っているはずの気質や能力に見合ったものでなければならない。既に示した通り、そうした基準にはわたしたちの方法こそがふさわしい。わたしたちの方法も現在いくつかの困難を抱えているが、それらは既に見たように[過去の]ひとびとの怠慢に由来するものであり、方法そのものの性質に由来するものではないからである。


第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について [一]哲学と神学を切り離して考えられない人たちは、よく言い争っている。聖書が理性に奉仕するべきか、それとも反対に理性が聖書に奉仕するべきか、つまり聖書の主張を理性に従わせるべきか、それとも理性を聖書に従わせるべきか、というのである。そして理性の確かさを認めない懐疑論者たちは後者に味方し、[理性を万能視する]独断論者たちは前者に味方する。しかし既に述べてきたことから明らかなように、どちらの側も完全に誤っている。どちらの考えに従っても、理性か聖書のどちらかを必ず台無しにしてしまうからである。  これまで示してきたように、聖書は哲学的な事柄ではなく、ただ道徳心だけを教えている。聖書に含まれるすべての内容は、民衆の理解力や先入見に合わせられていたのである。だから聖書を理性に従わせようとすれば、その人は間違いなく預言者たちに、彼らが夢にも考えていなかったようなことを大量に背負い込ませて、彼らの言いたかったことを誤って理解することになるだろう。反対に理性や哲学を神学の下働きにしようとすれば、その人は昔の民衆の偏見にすぎないことを神聖な事柄として認めるよう求められ、偏見に心を奪われ目をくらまされてしまうだろう。ということは、どちらにしても正気を失うことになる。後者は理性なしに狂い、前者は理性とともに狂うのである。 [二]パリサイ人たちの中で、聖書を理性に従わせるべきだとはっきり唱えた最初の人物はマイモニデスだった(この人の主張は第七章で取り上げ、たくさんの論拠を挙げて反論しておいた)。マイモニデスという著作家は、たしかにパリサイ人たちの間では大きな権威を持っている。ところが彼らの大部分は、この問題に関してはマイモニデスに従わず、むしろイェフダ・アルパカル(1)とかいう律法学者の主張に従った。こちらはマイモニデスの陥った誤りを避けようとして、それと正反対の誤りに陥った人物である。つまりこの人は、理性こそ聖書に仕えるべきであり、徹底的にその支配下に置かれるべきだと主張したのだ(2)。したがって彼によると、聖書の中のどの箇所も、文字通りに理解すれば理性に反するというだけの理由で比喩的に説明してはならないという。比喩的な説明が許されるのは、ただ聖書そのものに反する箇所、つまり聖書のはっきり説いている信仰箇条に反する箇所に限られるというのである。

マイモニデス2
CHAPTER XXV We do not reject the Eternity of the Universe, because certain passages in Scripture confirm the Creation; for such passages are not more numerous than those in which God is represented as a corporeal being; nor is it impossible or difficult to find for them a suitable interpretation. We might have explained them in the same manner as we did in respect to the Incorporeality of God. We should perhaps have had an easier task in showing that the Scriptural passages referred to are in harmony with the theory of the Eternity of the Universe if we accepted the latter, than we had in explaining the anthropomorphisms in the Bible when we rejected the idea that God is corporeal. For two reasons, however, we have not done so, and have not accepted the Eternity of the Universe. First, the Incorporeality of God has been demonstrated by proof; those passages in the Bible, which in their literal sense contain statements that can be refuted by proof, must and can be interpreted otherwise. But the Eternity of the Universe has not been proved; a mere argument in favour of a certain theory is not sufficient reason for rejecting the literal meaning of a Biblical text, and explaining it figuratively, when the opposite theory can be supported by an equally good argument. Secondly, our belief in the Incorporeality of God is not contrary to any of the fundamental principles of our religion; it is not contrary to the words of any prophet. Only ignorant people believe that it is contrary to the teaching of Scripture; but we have shown that this is not the case; on the contrary, Scripture teaches the Incorporeality of God. If we were to accept the Eternity of the Universe as taught by Aristotle, that everything in the Universe is the result of fixed laws, that Nature does not change, and that there is nothing supernatural, we should necessarily be in opposition to the foundation of our religion, we should disbelieve all miracles and signs, and certainly reject all hopes and fears derived from Scripture, unless the miracles are also explained figuratively. The Allegorists amongst the Mohammedans have done this, and have thereby arrived at absurd conclusions. If, however, we accepted the Eternity of the Universe in accordance with the second of the theories which we have expounded above (ch. xxiii.), and assumed, with Plato, that the heavens are likewise transient, we should not be in opposition to the fundamental principles of our religion; this theory would not imply the rejection of miracles, but, on the contrary, would admit them as possible. The Scriptural text might have been explained accordingly, and many expressions might have been found in the Bible and in other writings that would confirm and support this theory. But there is no necessity for this expedient, so long as the theory has not been proved. As there is no proof sufficient to convince us, this theory need not be taken into consideration, nor the other one; we take the text of the Bible literally, and say that it teaches us a truth which we cannot prove; and the miracles are evidence for the correctness of our view. Accepting the Creation, we find that miracles are possible, that Revelation is possible, and that every difficulty in this question is removed. We might be asked, Why has God inspired a certain person and not another? why has He revealed the Law to one particular nation, and at one particular time? why has He commanded this, and forbidden that? why has He shown through a prophet certain particular miracles? what is the object of these laws? and why has He not made the commandments and the prohibitions part of our nature, if it was His object that we should live in accordance with them? We answer to all these questions: He willed it so; or, His wisdom decided so. Just as He created the world according to His will, at a certain time, in a certain form, and as we do not understand why His will or His wisdom decided upon that peculiar form, and upon that peculiar time, so we do not know why His will or wisdom determined any of the things mentioned in the preceding questions. But if we assume that the Universe has the present form as the result of fixed laws, there is occasion for the above questions; and these could only be answered in an objectionable way, implying denial and rejection of the Biblical texts, the correctness of which no intelligent person doubts. Owing to the absence of all proof, we reject the theory of the Eternity of the Universe; and it is for this very reason that the noblest minds spent and will spend their days in research. For if the Creation had been demonstrated by proof, even if only according to the Platonic hypothesis, all arguments of the philosophers against us would be of no avail. If, on the other hand, Aristotle had a proof for his theory, the whole teaching of Scripture would be rejected, and we should be forced to other opinions. I have thus shown that all depends on this question. Note it. CHAPTER XXVI


  「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。  わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」 

第 25 章 我々は、聖書のある箇所が創造を確証しているからといって、宇宙の永遠性を否定するのではない。なぜなら、そのような箇所は、神が肉体を持った存在として表現されている箇所より多くはなく、また、それらに適切な解釈を見つけることが不可能でも困難でもないからである。我々は、神の無形性に関して行ったのと同じ方法でそれらを説明できたかもしれない。我々が後者を受け入れたならば、言及された聖書の箇所が宇宙の永遠性の理論と調和していることを示すことは、神が肉体を持っているという考えを拒否したときに聖書の擬人化を説明することよりも容易だったであろう。しかし、2 つの理由から、我々はそうせず、宇宙の永遠性を受け入れなかった。第一に、神の無形性は証拠によって実証されている。文字通りの意味では証拠によって反駁できる記述を含む聖書の箇所は、別の方法で解釈しなければならないし、またそうすることができる。しかし、宇宙の永遠性は証明されていません。特定の理論を支持するだけの議論は、聖書のテキストの文字通りの意味を拒否し、比喩的に説明する十分な理由にはなりません。反対の理論が同様に優れた議論によって裏付けられる場合です。第二に、神の無形性に対する私たちの信念は、私たちの宗教のどの基本原則にも反していません。どの預言者の言葉にも反していません。無知な人々だけが、それが聖書の教えに反すると信じていますが、私たちはそうではないことを示しました。それどころか、聖書は神の無形性を教えています。もし、アリストテレスが説いた宇宙の永遠性、つまり宇宙のすべては不変の法則の結果であり、自然は変化せず、超自然的なものは何もないという理論を受け入れるなら、私たちは必然的に私たちの宗教の根幹に反することになるので、

すべての奇跡や兆候を信じず、聖書から得られるすべての希望や恐れを、奇跡が比喩的にも説明されていない限り、拒絶することになる。イスラム教徒の中の寓話主義者たちはこれを行い、それによって不合理な結論に達した。しかし、もし私たちが上で説明した理論の2番目(第23章)に従って宇宙の永遠性を受け入れ、プラトンと共に天も同様に儚いと仮定するなら、私たちは私たちの宗教の根本原理に反することはない。この理論は奇跡を拒絶することを意味するのではなく、逆に奇跡が起こり得ることを認めることになる。聖書のテキストはそれに応じて説明されたかもしれないし、聖書や他の文献の中にこの理論を確認し支持する多くの表現が見つかっているかもしれない。しかし、理論が証明されていない限り、この手段は必要ない。私たちを納得させるのに十分な証拠がないので、この理論を考慮する必要はない。あるいは、他のいずれでもない。我々は聖書の本文を文字通りに受け取り、聖書は証明できない真実を教えているのだと言う。そして奇跡は我々の見解の正しさの証拠だと言う。創造を受け入れると、奇跡は可能であり、啓示は可能であり、この問題のあらゆる困難は取り除かれることが分かる。我々はこう尋ねられるかもしれない。「なぜ神はある人に霊感を与え、別の人には与えなかったのか?なぜ神はある特定の国民に、ある特定の時期に律法を明らかにしたのか?なぜ神はこれを命じ、あれを禁じたのか?なぜ神は預言者を通して特定の奇跡を示したのか?これらの律法の目的は何なのか?そして、我々がそれらに従って生きることが神の目的であるなら、なぜ神は戒めや禁止事項を我々の性質の一部にしなかったのか?」我々はこれらの質問すべてにこう答える。「神がそのように望んだ、あるいは神の知恵がそう決めたのだ。」神がその意志に従って、ある時、ある形で世界を創造したのと同じように、神の意志や知恵がなぜその特別な形、その特別な時を決めたのか私たちにはわからないのと同じように、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決めたのかもわかりません。しかし、宇宙が固定された法則の結果として現在の形になっていると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、反論的な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証明によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、哲学者たちが私たちに対して主張するすべての議論は役に立たないからです。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章