「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」
まちなかで見かけるベンチに、仕切りや手すりのような突起がついていることは「当たり前」の風景になっています。そんな「排除ベンチ」の一つが、先日、ツイッターをきっかけに形を変えました。〝突起〟が動いたのです。当初から〝突起〟に抵抗していたというベンチの制作者。実は、ベンチにある仕掛けをしていました。「みんな排除に慣れてしまっている」。制作者の言葉から、公共空間の過ごし方について考えます。
可愛らしいデザインで〝排除〟
7月8日。東京都中央区の京橋に設置されたベンチに、作業員が集まりました。木製のベンチを1台1台裏返し、ベンチの座面を3つに区切っていた「突起」のボルトを外し、突起を動かしました。
このベンチは、今年4月、ツイッターで注目を集めました。木製で手すりや突起部分は赤く、おしゃれな見た目ですが、話題になった投稿は、このデザインに込められた意図を批判していました。
北欧っぽい可愛らしいデザインの〝排除〟ベンチという、コンセプト的にはバンクシーが嫌がらせで設置する様な代物だよなと思った
濁山ディグ太郎さん(@DiRRKDiGGLER)のツイートこの投稿には、「陰険な作り」「熱中症になった時に横になることもできない」など、突起への不満に共感するコメントが寄せられた一方で、「何をどう排除しようとしているのか分からない」という声も寄せられました。
そして投稿は、思いがけない反応を呼びます。
「ご指摘、ありがとうございます。プロデュースしたのは私どもです。最後の最後まで、いじわる突起に抵抗しました」
返信をしたのは、ベンチを作った本人でした。
何に「抵抗」をしていたのか。この返信をした田中 元子さんを訪ねました。
ご指摘、ありがとうございます。こちらをプロデュースしたのは、わたし共です。最後の最後まで、いじわる突起に抵抗しました。 https://t.co/7Am9uatg6M
— 田中 元子 a.k.a. オイラー (@hanamotoko) April 11, 2021
誰も排除したくない、から生まれたプロジェクト
――ツイッターで批判されたことをどう思いましたか。
すごく皮肉に感じています。もともと、誰も排除しない町に、と立ち上がったのに、結局、立ち上がった先で、突起物をつけざるを得なくなりました。
でも、デザインの専門家だけの問題じゃなくて、我々と同じ問題意識を持った人が、普通にいたことが、うれしかった。
ツイッターでは、別の会社がベンチの設置者として批判され始めていたので、「説明しなければ」と名乗り出ました。
田中元子:建築関係のライターを経て、2016年に「1階づくりはまちづくり」をモットーとした株式会社グランドレベルを設立。2017年から「JAPAN / TOKYO BENCH PROJECT」を始動。ベンチを置くことでまちづくりを行っていくことを目指している。
――このベンチを置いた経緯を教えてください。
2019年に、東京ビエンナーレのプレイベントで、京橋に不特定多数の人がベンチに座っている風景を作るというプロジェクトを展開しました。ベンチがない場所に、ベンチを置くだけで風景が激変することを見せたかった。
――問題のベンチと同じ場所ですね。当時はどんなベンチを置いたんですか?
その時は社会実験を目的としていたので、赤い木製のベンチを置きました。突起もないフラットな座面でした。ベンチを置くと、作品として眺めるだけではなく、すぐに人々が普通に座り始めます。
いつもは人が通り過ぎるだけの通りに、ベンチがあるだけで、そこにとどまって食べる人、おしゃべりする人、いろいろな人が現れました。
「さすがに、必要ですよね」
――明確なメッセージを込めたベンチだったのに、突起がついたのはなぜでしょうか。
設置期間中に、地域の町会関係の皆さんや、ビル事業者の方も見に来てくれて、「ベンチがあった方がいいね」と言ってもらいました。プレイベント後に、ビルのオーナーから「常設のベンチがほしい」と依頼を受けました。
ところが新しいデザインの試作を重ねていく段階で、ビルの関係者から、「さすがに、恒常的な設置であれば、手すりが必要ですよね」という声が出てきました。
――「突起をつけてほしい」と注文がついたんですね。
懸念を示したのは、ビルを警備したり、「不審者がいる」などのクレームに日々対応しているビルの管理側の方でした。ホームレスが寝ることや、スケートボーダーに壊されるかもしれないという「恐れ」を持っていました。
――注文にどう応えたのでしょうか。
最初は我々も、設計デザインを担当したイトーキのみなさんも、「手すりをつけたくない」とねばりました。皆、誰も排除したくない、という思いでした。
でもベンチを置くなら突起がどうしても必要だというので、最初は2.5センチぐらいの薄い手すりをつけました。「これで溜飲を下してくれたらいいな」と。しかし「もっと手すりを出っ張らせることはできないか」と注文がついて、さらに2.5センチ高くして……。「意地悪」を感じさせる要素が強まっていきました。
ただ、イトーキの皆さんが、この突起は移動させることでテーブルにも使えるというデザインを考えてくださった。さらに、いつか「いらない」となったときには、ネジですぐ取ることができるようにしてくれた。
せめてもの思いを仕込んだんです。
設置時に「突起は外せます。試しに一台でも突起を動かしませんか?」と提案もしましたが、結局、「排除する」突起があるままのベンチを置くことになりました。
社会が「突起」を動かした
<突起を動かすことができる仕掛けは、日の目を見ることになりました。ベンチへの批判ツイートが話題になった後、ビル側と田中さんたちは改めて協議しました。ビル側はリスクを考えてつけた突起が、予期せぬ批判を招いていることを受け止め、「試験的に突起を動かす」ことにしました。東京ビエンナーレ(7月10~9月5日)への会期中という期限付きで、12台のベンチの突起の固定ネジをすべて外し、イスの座面上で自由に寄せたり動かせるようにしました>
――動かせるようになりましたが、突起はまだ、なくなったわけではありません。
おっしゃる通りです。でも、誰かの邪魔をする、意地悪の役割は果たさなくなり、牙が抜かれた状態にはなります。テーブルのように弁当や飲み物を置いたり、より能動的に使われるようになるかもしれません。
――制作者に「排除したくない」という意思があっても、管理者の「恐れ」が上回ると意地悪突起ができてしまう。いつか、突起はなくなるのでしょうか。
この問題は根深いと思います。でも、「突起をつけないと安心してベンチを置けない」という抵抗感をベンチオーナーになる方々に完全にほどいてもらうのを待っていたら、我々の目の黒いうちにベンチは増えません。それぐらい、ベンチを管理する側、ベンチのオーナーになる側は、ベンチを置くことで何が起きるか楽しみにする反面、恐れてもいます。
私が「突起のあるベンチは作らない」と意地を張ったところで、「意地悪ベンチ」を作るメーカーに依頼が移るだけです。それならば、せめて気が向いたときに取り外せる突起を仕込みたいと思いました。
そもそもベンチがない問題
――そこまでしても、ベンチを置きたいのはなぜですか。
ベンチに突起があることと、日本、特に東京にほとんどベンチがないという問題は、分けて考えないといけないと思います。
突起物のあるベンチを見て「誰かが排除されてかわいそう」ということは簡単です。
でも、そもそもベンチがないことは、私たちみんなが普段から、都市やまちから排除されているのだということに、ほとんどの人は無自覚です。
「うちの前では座らないで」「コーヒーを買わない人は、ここにいないで」と、疲れてもどこにも座れず、立ったまま弁当を食べている人や、植え込みに座ってしまう人をよく見かけます。
町から排除され慣れてしまっているのは、私たちみんな、だと感じます。
江戸時代の縁台に学ぶ
――ベンチは、昔はもっとあったんでしょうか?
昔過ぎるかもしれませんが、江戸時代だったら家や店の前に縁台を出すということを当たり前にやっていました。人々は「涼みに行こう」、「話しに行こう」と町全体を「共有部」のように感じていました。
でも、高度経済成長で、車のために道路を整備し、道はそういう形で使いづらくなり、さらに、地下鉄サリン事件があって、爆弾やテロリストへの警戒として、ベンチやゴミ箱が、町からなくなっていきました。
特に東京のベンチの少なさは、世界を見ても、特殊です。
どんな社会になってほしいか
――ベンチが増えるとどうなるのでしょう。
2019年に京橋に置いたベンチを、田町駅前のビルの足元に置く実験をしました。普段は人が早歩きでただ通っていくビルとビルの間の通路でしたが、ベンチを置くと、すぐに座る人が現れました。
みなさん、スマホを眺めていたり、次の打ち合わせに行く前に待っていたり、ただふわぁーっと過ごしています。
実験が終わって、このビルの会社も、常設のベンチを置きたいと言ってくれました。実験中、酒を飲む人もいたけど「なんか、良い光景ですよね」と見守ってくれた。ゴミが置かれたこともあったんですが、「ゴミ箱ないですもんね」と言ったら、「そうか」とゴミ箱の設置なども検討してくれました。
その会社が社会とどう付き合いたいか、どんな社会になってほしいかという思いが、如実に表れると感じました。
――お金を払ってまでベンチを置いて、お金を落とさなそうな人でもいられる居場所を作るということですよね
座った人がお金を落とすか、が問題ではなく、長い目で見たとき、ベンチがあることで、人がこの場所に懐いてくれて、その光景をまわりで見ている人が、このエリアを好きになってくれる。
人でにぎわうところは、テナントが離れにくいし、場所の価値が上がる。オーナーにとってもメリットがあることなはずです。
「恐れていることが本当に起きるか」を知る
――フラットなベンチが置かれる社会になるまで、どんなステップを踏めばいいのでしょう。
根本的には、かなり複雑で深い問題です。
京橋や、田町のビルみたいに、ベンチを仮置きして、「恐れていることが本当に起きるか」を知るのは良いと思います。そうすると、恐れていたことよりも、いろいろな人が使ってくれる豊かさの方がはるかに大きいことを感じられるはずです。
田町のベンチの実験を見た近くの花屋さんは、「すごく感動した」と自分の店先にも木製ベンチを置いてくれました。ベンチはその光景を見た人にも影響を及ぼします。
反対に、誰かが排除されたり、「お金払わないと座らせてあげない」という町の風景は、多くの人を寂しい気持ちにさせていないでしょうか。
人が見えている風景は、みんなが触れる場所で、「半公共」だと思います。だから、ベンチがあるとか、誰もが「いてもいい」と感じられる人に優しい場所になったらいいなと思っています。
排除はかわいそう、の先
――今回の突起は町の人のツイッターで動きました。社会の目も、変化を起こせますね。
肯定的に捉えています。そしてもしこれは「排除」だと気づいたら、排除される側の実情にも、興味を持ってもらえると、いいと思います。
――排除される側の問題、というと?
ベンチを傷つけるとか、ゴミを散らかすとか、モラルの差が見えてしまうと、「排除」できないかとつながってしまいますが、誰しも赤ちゃんのときからモラルがないわけじゃない。育った環境の差や社会が、モラルの差を生んでいるだけです。
「あなたが選んだんだ」と自己責任論で語られがちですが、誰しもいつでもその立場になり得る。なのに、自分とモラルの違う人を、人間として扱わないということが公然としているのは怖いことです。
モラルの問題はそれとして向き合わないといけないですが、その問題がクリアされない限り「一緒には居れませんよ」ということを市民の暗黙のルールにしてしまうことは恐ろしい。
「ああなったら排除されてしまう」と思う社会は、人を萎縮させます。どっちに転んでも、それなりに良い人生が送れると思える社会は、人がのびのびと生きられることにもつながると思います。
泣きたい時に使える場所か
――公共の場の在り方としてはミヤシタパークを始め、議論がされていますね。
「公」がつく公園は、お金がかからず、年齢とか身体的な特徴にかかわらず、誰でもサクッと行け場所であるべきです。ベンチも同じで、その辺にあって、誰をもフラットに受け入れてくれるものです。
「にぎわっている」「笑顔で楽しそう」だからと、すぐに議論が止まってしまうけど、本当に「公園」としての目的を果たしているのか、考えてほしいと思います。
いい公園には泣いている人もいるはずです。泣きたいときにアクセスできる公園か。孤独とか失敗に寄り添ってくれる「公共」はどこにあるのか。
――ベンチにぼーっと座っている人の写真は、ほっとして泣いているようにも見えました。
ベンチを置くと、しばらく何もしないで、ただ座っている人がたくさんいます。
ベンチも公園も福祉。福祉というのは特別かわいそうな人をケアする、ことじゃなくて、私たちみんなが社会にどう扱われているかということです。
今見えている景色が、自分がどう転んでも大丈夫な社会だと見えているかな、と考えてみると良いと思います。
※情報を一部更新しました(7月14日)
1/9枚
0 件のコメント:
コメントを投稿