2025年12月5日金曜日

脊髄損傷の常識覆す 手術不要で歩行機能を取り戻す新技術の効果 [すらいむ★]

脊髄損傷の常識覆す 手術不要で歩行機能を取り戻す新技術の効果 [すらいむ★]

脊髄損傷の常識覆す 手術不要で歩行機能を取り戻す新技術の効果 [すらいむ★]

脊髄損傷の常識覆す 手術不要で歩行機能を取り戻す新技術の効果

 事故などで脊髄が傷つき歩けなくなった人に、コンピューターを介して腰に電気信号を送ることで、再び歩けるようにする新技術が開発された。
 これまでも体内に電極を埋め込んで人工的に神経回路を構築する方法はあったが、本技術は体への負担が少なく安全で、より多くの人が利用できる画期的なシステムだ。

 東京都医学総合研究所、脳機能再建プロジェクトの西村幸男プロジェクトリーダーらによる研究グループは、神経回路が寸断されて動かせなくなった体の部位に、機能を失った神経回路を迂回して信号を送る「人工神経接続システム」を開発した。

(以下略、続きはソースでご確認ください)

forbesjapan 2025.12.03 07:15
https://forbesjapan.com/articles/detail/85824
脊髄損傷の常識覆す 手術不要で歩行機能を取り戻す新技術の効果

 事故などで脊髄が傷つき歩けなくなった人に、コンピューターを介して腰に電気信号を送ることで、再び歩けるようにする新技術が開発された。
 これまでも体内に電極を埋め込んで人工的に神経回路を構築する方法はあったが、本技術は体への負担が少なく安全で、より多くの人が利用できる画期的なシステムだ。

 東京都医学総合研究所、脳機能再建プロジェクトの西村幸男プロジェクトリーダーらによる研究グループは、神経回路が寸断されて動かせなくなった体の部位に、機能を失った神経回路を迂回して信号を送る「人工神経接続システム」を開発した。

(以下略、続きはソースでご確認ください)

forbesjapan 2025.12.03 07:15
https://forbesjapan.com/articles/detail/85824

映画『ペリリュー -楽園のゲルニカ-』がアニメゆえに描き出せた戦場のリアル : 読売新聞

映画『ペリリュー -楽園のゲルニカ-』がアニメゆえに描き出せた戦場のリアル : 読売新聞

 これまでペリリュー島の戦いといえば、極限状況の中で約2か月にわたって持久戦を指揮し、最後は「サクラ、サクラ、サクラ」の電報を打って自決した第14師団歩兵第2連隊長、中川 州男くにお (1898~1944)に焦点があたってきた。この連載でも以前、「南洋のサムライ」と呼ばれた中川の戦いを紹介している( こちら )。

中川州男

 しかし、映画には架空の名前の兵士が数多く登場するにもかかわらず、中川は登場しない。原作の漫画で中川は、島を米軍に制圧されてピストルで自決する「大佐」のモデルになっているが、この大佐には中川という名どころか、仮の名前もついていない。映画や漫画が戦いを命じる側ではなく、命じられる側の目線から描かれているからで、目線が変わると戦争の見え方も変わることがよくわかる。

 中川は米軍上陸の前に島の地元民を疎開させ、兵隊たちにバンザイ突撃による玉砕を禁じている。無駄死にや巻き添え死を防ごうとした、と積極的に評価する見方もある。だが、命じられる側の目線で見ると、玉砕禁止の命令は「苦しくても死なずに最後まで戦え」という命令になる。地元民の疎開は敵に情報を流すスパイを排除するため、他の戦場でも行われていた。中川が極限状況下で2か月以上米軍を苦しめた優秀な指揮官であることは間違いないが、いくら優秀でも、戦争の残酷さを変えることはできないのだ。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20251201-GYT8T00046/

映画『ペリリュー -楽園のゲルニカ-』がアニメゆえに描き出せた戦場のリアル

編集委員 丸山淳一

 戦後80年の節目の年もあと1か月となり、あの日が近づいてきた。12月8日は84年前に日本海軍がハワイ・真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まった「開戦の日」。自然豊かな地上の楽園だった太平洋の島々は せいさん な戦場となり、多くの人が命を落とした。

 その中でも最大の激戦とされるのが、昭和19年(1944年)9月15日から74日間にわたって続いたパラオ・ペリリュー島の戦いだ。12月5日、その戦いを描いたアニメ映画『ペリリュー -楽園のゲルニカ-』(配給:東映)が全国公開される。監督は久慈悟郎さん。原作となった同名漫画の作者、武田一義さんが西村ジュンジさんと共同で脚本も執筆した。

 武田さんが原作となった漫画を描き始めたのは、戦後70年の節目となった平成27年(2015年)、慰霊のために天皇・皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)がペリリュー島をご訪問になったのがきっかけだった。戦後80年の11月27日には天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、武田さんらとともに完成した映画のチャリティー上映会で映画を鑑賞されている。

映画では主人公の田丸(左)と相棒の吉敷の戦場での友情も描かれる(C)武田一義・白泉社/2025「ペリリュー -楽園のゲルニカ-」製作委員会
映画では主人公の田丸(左)と相棒の吉敷の戦場での友情も描かれる(C)武田一義・白泉社/2025「ペリリュー -楽園のゲルニカ-」製作委員会

餓死・事故死を「勇猛果敢に戦死」と美化する役割

 物語の主人公は、ペリリュー島防衛のために島に送り込まれた一等兵の田丸均(声:板垣李光人さん)。臆病で優しい性格の田丸は敵を迎え撃つ戦力にはならないが、漫画家志望で絵がうまいという才能を買われ、遺族のために仲間の最期の雄姿を記す「功績係」という任務に就く。

 米軍の総攻撃が始まると、日本軍はあらかじめ掘り進めておいた地下 ごう を駆使して必死に抗戦するが、次第に圧倒的な兵力差に押されて劣勢となっていく。身を潜める地下壕が見つかって火炎放射器で焼き殺される恐怖に加えて、飢え、渇き、伝染病に倒れる兵士が続出する極限状況の中、田丸は飢えや事故で死んだ仲間について「勇猛果敢に戦死した」という美談を仕立て続ける。

 うその功績を書き、良心の 呵責かしゃく にさいなまれる田丸の心の支えになったのは、銃撃の名手で勇猛果敢な上等兵の吉敷佳助(声:中村倫也さん)だった。戦火の友情で結ばれた2人は、助け合いながら地獄を生き抜こうとするが……。

 映画は徹底して兵士の視点からペリリュー島の戦いを描いている。兵隊の中には少しでも多くの食料を手に入れて生き延びようという人もいれば、華々しく戦って死ぬことしか考えていない人もいる。主人公を功績係にしたのは、名もなき兵隊たちが極限状況で戦争とどう向きあったのかを主人公の目線を通じて描くためだろう。

 デフォルメされたかわいらしい登場人物が、死人が転がる戦場で凄惨な戦いに明け暮れることに最初のうちは違和感もあるが、スクリーンから目を背けずに最後まで見ることができた。一方で、かわいらしい登場人物が突然血を流して動かなくなるのを見ると、実写以上に戦争の理不尽さを強く感じた。それは、大切にしていたぬいぐるみの首を突然もがれた時に感じる身を切るような感情に似ている。なぜ、この島でこんな凄惨な戦いが起きたのか。

第1次世界大戦後、日本の委任統治領に

 ペリリュー島があるパラオは、第1次世界大戦後に日本の委任統治領となり、日本の南洋庁が置かれていた。ペリリュー島には日本軍の大規模な飛行場があり、フィリピン奪還をめざす米軍は、この飛行場を奪取してフィリピン爆撃の拠点にしようとした。

 昭和19年(1944年)9月、米軍は約4万人の大兵力でアンガウル島とペリリュー島への上陸作戦を開始した。これを予期していた日本軍は中国大陸にいた第14師団を南洋に回し、ペリリュー島に約1万人の守備隊を配置。グアムやサイパンで水際での撃滅に失敗した反省から、事前に島内にトンネル(地下壕)を張りめぐらして持久戦に持ち込む戦法をとった。

 米軍は地下壕を利用してゲリラ戦を仕掛ける日本軍に予想外の損害を受け、戦闘は74日間に及んだ。米軍は10月20日にはフィリピン・レイテ島上陸を果たしており、戦いの途中からペリリュー島を奪取する意味はなくなっていたのだが、血みどろの戦いは終わらなかった。日本軍はほぼ全員が戦死し、最後まで生き残ったのは終戦を知らずに昭和22年(1947年)まで潜伏を続けた34人だけだったとされる。

優秀な指揮官でも変わらない残酷

 これまでペリリュー島の戦いといえば、極限状況の中で約2か月にわたって持久戦を指揮し、最後は「サクラ、サクラ、サクラ」の電報を打って自決した第14師団歩兵第2連隊長、中川 州男くにお (1898~1944)に焦点があたってきた。この連載でも以前、「南洋のサムライ」と呼ばれた中川の戦いを紹介している( こちら )。

 しかし、映画には架空の名前の兵士が数多く登場するにもかかわらず、中川は登場しない。原作の漫画で中川は、島を米軍に制圧されてピストルで自決する「大佐」のモデルになっているが、この大佐には中川という名どころか、仮の名前もついていない。映画や漫画が戦いを命じる側ではなく、命じられる側の目線から描かれているからで、目線が変わると戦争の見え方も変わることがよくわかる。

 中川は米軍上陸の前に島の地元民を疎開させ、兵隊たちにバンザイ突撃による玉砕を禁じている。無駄死にや巻き添え死を防ごうとした、と積極的に評価する見方もある。だが、命じられる側の目線で見ると、玉砕禁止の命令は「苦しくても死なずに最後まで戦え」という命令になる。地元民の疎開は敵に情報を流すスパイを排除するため、他の戦場でも行われていた。中川が極限状況下で2か月以上米軍を苦しめた優秀な指揮官であることは間違いないが、いくら優秀でも、戦争の残酷さを変えることはできないのだ。

再び大国の覇権争いの場に?

 中川の采配のおかげで島の住民が戦闘に巻き込まれずにすみ、これが今でもパラオが親日国である一因ともいわれている。2025年10月末には成田―パラオ間の直行便が再開された。来年の正月休みには自然豊かな楽園の島々を訪ね、ダイビングを楽しむ日本人が増えるだろう。せっかく行ったなら、その楽園でかつて血で血を洗う戦いがあり、映画にも出てきた名もなき兵隊の遺骨が多数、いまだに祖国に帰れないまま眠っていることにも思いを巡らせてほしい。

 パラオは中国が領有権を主張する南沙諸島に近く、海洋進出を続ける中国に対抗する米国の戦略拠点として注目されている。昨年には米海兵隊が、旧日本軍が飛行場を作ったペリリュー島で、大型軍用輸送機の離発着ができる滑走路を整備した。過去の悲劇の爪痕が消えないうちに、再び楽園が大国の覇権争いに巻き込まれることがないか。映画を見て過去を知ることで、今の国際情勢に対する目線も変わるかもしれない。

原作・脚本の武田一義さんに聞く

 原作の同名漫画を描き、映画の脚本も手がけた漫画家の武田一義さんに、ペリリュー島への思いや作品に込めた思いを聞いた。

漫画を描くまで戦争は遠い存在だった

 戦後70年の年に天皇・皇后両陛下(現在の上皇・上皇后さま)が慰霊のためペリリュー島を訪れるまで、僕はペリリューの名前すら知りませんでした。節目の年に戦争の読み切り漫画を書きませんかと出版社から声をかけられて、戦史研究家の平塚 柾緒まさお さんのお話を聞いたのがこの作品につながりました。平塚さんはペリリュー島からの生還者を取材し、島での遺骨収集にも同行して、兵隊さんたちの島での体験をよく知っていました。

 平塚さんの話を聞くまでは、僕にとって「戦争」は遠い存在でした。でも、話を聞いて、戦争をしたのは今の私たちと同じ、ごく普通の若者たちだったことを改めて思い知り、その物語を描きたいと思ったんです。きちんと描くには1回の読み切りでは足りない。出版社に連載をお願いし、戦史研究者の本をたくさん読んで気になったことを調べ、物語の中に織り込んでいきました。連載が軌道に乗ってからは現地にも行き、生還者にじかにお会いして、情報源を文献から取材にシフトしていきました。

 ご存命だった生還者の方に「あの体験を漫画みたいな形で表現されたくない」と取材を断られたこともありました。でも、戦後70年以上を経ても生還者にはそういう気持ちが残っている、ということがわかったのはよかった。その気持ちは十分に理解できます。僕は常に「戦争を体験していない自分が戦争の漫画を描いていいのだろうか」という葛藤を抱きながら描いています。

史実を描くためのフィクション

 ペリリュー島で功績係の役割を果たした兵士がいたという証言は残っておらず、主人公の田丸は架空の人物です。しかし、その行動は他の戦場で功績係の経験をした人の証言に基づいています。戦争が終わったのかどうかを巡る意見の衝突から、投降を企てた仲間を射殺したエピソードは、実際にペリリューであったという証言があります。

 生還者は身内の仲間割れについては話したがりません。生還者に密着していた平塚さんは知っていましたが、「取材に協力してくれている方々のために私は書かない。でも、フィクションの形なら描けるのではないか」と言ってくれました。

 「一度戦争を始めると、終わらせるのは難しい」のは、政治的な理由だけではありません。仲間割れが起きるのは、終わったことをうかつに信じてはいけない心理があるからです。それをぜひ物語に入れたかった。映画でもここはしっかり描いています。

 史実を漫画というフィクションで描くのは、フィクションという形なら真実が描けるからです。個々のシーンをより面白くするためという面があることは否定しませんが、フィクションでしか描けない真実はあると思います。

 登場人物のキャラクターをかわいくデフォルメするのは、見る人が入り込みやすくするためです。つらいエピソードが続くので、人物までリアルに描くと目を背けたくなってしまい、物語から離脱してしまう。こんなことが現実にあったんですよ、ということを知ってもらうため、逆に島の自然や兵器、戦場などの風景はリアルに描いています。映画化にあたっては、改めてスタッフがペリリュー島に行って自然や風景をたくさん撮影して絵作りをしています。映画で見てほしいところのひとつです。

中川州男 | 歴史人物学習館

中川州男 | 歴史人物学習館

中川州男

中川州男(なかがわくにお)1898(明治31)~ 1944(昭和19)
陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。熊本県出身。ペリリューの戦いにおいて守備隊を指揮し、長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ軍を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ軍に多大な損害を与えた。全島を徹底して要塞化・地下陣地化して米軍を苦しめた。中川の取った組織的な戦法・戦術は、後に硫黄島の戦いや沖縄戦において参考とされ、アメリカ軍に対し効果的な損害を与えることに成功することになる。

①中川州男の足跡をたどろう

パラオ・ペリリュー島の戦い 中川州男陸軍大佐 護国の鬼となり太平洋の防波堤として自らの命をかけて戦った英霊たち  日本に栄光あれ

大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発すると米軍はパラオ・ペリリュー島への上陸を計画します。これに対抗するため、日本軍は迎撃態勢の構築を急ぎます。この困難な任務の指揮を執ったのが中川州男大佐です。

No.876 ペリリュー島のサクラ 国際派日本人養成講座(動画+読み物)

中川州男が指揮するペリリュー島での日本兵の戦いぶりを、敵である米太平洋艦隊司令長官・ニミッツ提督は詩に詠んでいます。「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったかを伝えられよ」

中川州男とペリリュー島の戦い~バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘  WEB歴史街道

南洋パラオのペリリュー島を守る1万人の日本軍に対して米軍は4万2千人。その戦力差は明らかでしたが日本軍は島じゅうに地下壕を張り巡らし徹底抗戦を試みます。米軍を悩ませる驚異的な戦闘を指揮したのが中川州男大佐でした。

②中川州男の言葉に触れよう

日本史偉人伝 中川州男  勇志国際高等学校

父親の言葉「人は負けると分かっていても戦わねばならぬ時がある」―これはペリリュー島で戦った中川州男にとって生涯忘れることのできない教訓だったに違いありません。

【実話】日本に植民地支配されたのに、パラオが世界一日本を好きな理由‥日本兵が原住民を罵倒した真意が泣ける ダヴィンチアカデミー 

パラオは世界一の親日国として有名です。そこには当時の日本兵によるとても深い理由があるのです。日本人と一緒に米軍と戦いたいというパラオの青年に対して中川大佐と日本兵は「お前たちなんかと一緒に戦えるか」と冷たい言葉を投げつけます。その真意とは?

③中川州男の生き方から学ぼう

日本軍1万 vs アメリカ軍5万??ペリリューの戦いを指揮した中川州男に学ぶ将のあり方  致知出版社

絶対的に不利な条件にも関わらず、戦略や戦術を練り上げて準備をする。そして、敵が予想しなかった驚くべき互角の戦いを展開した中川州男。そこには、リーダーとしての本来あるべき姿を見ることができるのではないでしょうか。

さらに学ぼう

【親日国パラオ】君が代を歌うパラオのおばあさん、激戦の地ペリリュー島  ふくたろう 戦跡Videographer

親日国パラオには君が代を歌うおばあさんがいらっしゃいます。ペリリュー島での中川州男の戦いとどのような関係があるのでしょうか。

パラオ旅行は日本語でダイジョーブ!?日本語由来のパラオ語  Embassy of Japan in Palau/在パラオ日本国大使館

日本とパラオは長い歴史の絆で結ばれています。パラオの言語や文化にも様々な日本の影響があります。パラオ語には約1,000語の日本語由来の言葉が存在し、今でもパラオ語として使用されています。きっとあなたもパラオ人と話してみたくなりますよ。

<帰国大使は語る>太平洋に浮かぶ美しい親日的な島国・パラオ  霞関会

ペリリュー島があるパラオ共和国はたいへんな親日国です。どうしてこんなにも日本に親しみを持ってくれているのか?元駐パラオ日本国大使・柄澤彰さんのお話を読んでみましょう。

パラオ共和国  東京都立図書館

国名の由来や国旗が日本の日の丸に似ている理由などが解説されています。

「神社丸物語」【日・パラオ交流200周年記念動画】The Tale of the Jinja Maru, the Drifting Ship  Embassy of Japan in Palau/在パラオ日本国大使館

日本とパラオの最初の交流は200年前に「神社丸」がパラオへ漂着した時であると伝えられています。この遙か海を越えた日本とパラオの友情の出会いを紹介しています。

熊本,明治,大正,昭和戦前,軍人,AH

【感動】植民地支配されたのに...パラオが世界一の親日国である理由。日本兵が原住民を罵倒した真意が泣ける。

中川州男 - Wikipedia

中川州男 - Wikipedia

中川州男

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2019年4月
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています ご存知の方は加筆をお願いします。2019年4月

中川 州男(なかがわ くにお、1898年明治31年)1月23日[1][2] - 1944年昭和19年)11月24日[1][3])は、日本の陸軍軍人陸士30期。最終階級は陸軍中将

太平洋戦争大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる[4]

経歴

熊本県出身[1][3]。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる[1]玉名中学校を経て[1](同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。)1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業し見習士官、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊附となる[1][2][3]台湾歩兵第2連隊附、歩兵第48連隊大隊副官第12師団司令部附(福岡県八女工業学校(現・福岡県立八女工業高等学校配属将校)、歩兵第48連隊中隊長、歩兵第79連隊大隊長等を歴任する[1]。歩兵第79連隊赴任の直後、盧溝橋事件の勃発により日中両軍は全面衝突し、歩兵第79連隊にも動員命令が下され、中川は初の実戦を経験する。天津から山西省の保定会戦等での野戦指揮官としての功績を認められ、連隊長の推薦により陸軍大学校専科に入校。

1939年(昭和14年)3月に陸大専科を卒業し、同月に陸軍歩兵中佐に進級[1]1941年(昭和16年)4月、戦功により功四級金鵄勲章を受章。

独立混成第5旅団参謀を経て、第62独立歩兵団参謀となり、1943年(昭和18年)3月、陸軍大佐に進級[1]。同年6月、歩兵第2連隊長に補される[1][2][3]。連隊所属の第14師団が、満洲から南方へ転用されることとなり、パラオ諸島へ向かった。歩兵第2連隊はペリリュー島歩兵第15連隊の1個大隊と共に配備され、中川が守備隊長となった。赴任前、中川は夫人に任地と任務を尋ねられた際、「永劫演習さ」(帰還を望めない戦場)とだけ答えた。

1944年(昭和19年)9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸、日米は熾烈な戦闘を継続(ペリリューの戦い)。昭和天皇から中川部隊へ嘉賞11度、上級部隊司令部から感状3度が与えられた。しかし次第に物量に勝る米軍の前に劣勢を強いられ、11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川が自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた。こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たした。中川は戦死後に2階級特進し、陸軍中将に任ぜられた[1][2][3]

中川は一度は宇垣軍縮の煽りを受けて配属将校となり、キャリアを絶たれたかに見えたが、その後の日中戦争の開戦により実戦で野戦指揮官としての能力を認められ、40歳を過ぎて陸大専科に進む等、エリートとは一線を画す叩き上げ軍人であった。それだけに合理的精神の持ち主で、全島を徹底して要塞化、地下陣地化して兵の保全に努め、兵の過早の玉砕を戒めて出来るだけ多くの米兵の出血を強いるという戦術を取り、米上陸軍を苦しめた。中川の取った組織的な戦法・戦術は、後に硫黄島の戦い沖縄の戦いにおいて参考とされ、米軍に対し効果的な損害を与えることに成功することとなる。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典 第2版』111頁。
  2. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』508頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』425頁。
  4. 葛城 2018, 位置No. 921-1024, 第二章 パラオ「玉砕の島」ペリリュー - アメリカ軍との死闘

参考文献

関連文献

[編集]
  • 升本喜年『「愛の手紙」~ペリリュー島玉砕~中川州男の生涯』熊本日日新聞社、2010年。
本書は2016年公開のドキュメンタリー映画『追憶[1]の原作となっている。

関連項目

[編集]