2026年2月15日日曜日

老子の言葉 | トルストイ 小西増太郎 |本 | 通販 | Amazon

老子の言葉 ペーパーバック – 2021/7/16 


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「老子の言葉」は、トルストイが自ら気に入った老子の言葉を64選び、亡くなった直後の1911年(トルストイは1910年11月逝去)、小冊子として刊行されたものです。「老子」を読み続けたトルストイの思考の結晶が、この掌編に凝縮されているとも言えます。

この「老子の言葉」が日本で公開されたのは、100年前のことになります。明治前期にロシアへ留学し、トルストイと「老子」を露訳した小西増太郎(1861年〜1939年)が1923年に翻訳し、武者小路実篤が主宰する同人誌に掲載されました。
また、トルストイの序文「老子の教えの本質について」は珠玉の老子論と言われます。早稲田大学の木村毅先生が、同志社大学図書館報2号(1968年)でこの序文を取り上げ、「トルストイの老子論として有名なもので、原本のトルストイ全集のどの版にも省略されており、日本では誰も見たことがない」と記していました。

本編は100年ほど前の翻訳原稿なので少し読みにくい文章ですが、そのまま掲載しました。しかし、少しでも分かりやすいようにと参照欄を設け、参照(1)ではトルストイの選んだ言葉が、「老子道徳経」の何章のどの箇所か、参照(2)ではトルストイ・小西増太郎共露訳「老子道徳経」(中本信幸訳)の当該箇所を付記いたしました。


では、開いて少し読んでみましょう。
例えば、「老子」第一章のこの言葉を取り上げています。

名づけることの出来るものは、
萬物の原始ではない。
名の無いもの、それは萬物の原始である。
この原始を理解するのは、
即ち脱欲の人のみ可能である。

参照(1)老子道徳経 第一章
名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始め、
名有るは万物の母。故に、常に欲無くして以て其の妙を観

参照(2)トルストイ・小西増太郎露訳
これが名だと言えるような名は、ふつうの名ではない。
名を持たないものは、天と地の根源であり、
名を持つものは、万物の母である。
それゆえ、一切の欲求が無いものは、道の大いなる発露を見るが、
なにかの欲求にかられるものは、
道のわずかなる発露を見るだけである。

なお本書は、Kindle版『トルストイの選んだ64の老子の言葉』にかなり修正を加え、単行本にしたものです。
https://www.amazon.co.jp/老子の言葉-トルストイ-小西増太郎/dp/B098W777FW

老子道徳経/老子の哲学 | トルストイ 小西増太郎 |本 | 通販 | Amazon

老子道徳経/老子の哲学 ペーパーバック – 2021/8/6 


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トルストイと日本人留学生小西増太郎により露訳された「老子道徳経」の和訳版です。和訳は、詩人・演劇評論家であり、チェホフの研究者としても著名な神奈川大学名誉教授、中本信幸氏です。
トルストイによって紡ぎ出された老子の言葉は、中本名誉教授の訳文を得て、まるで壮大な詩のように生まれ変わりました。是非、舞台で朗々と聴衆に語りかけるように、そんな気分でお読みください。新しい老子の世界に出会える筈です。
小西の「老子の哲学」は、ロシアで発表されたもので本邦初公開の論文です。トルストイとの「老子」翻訳直後にロシア語で書かれました。

小西増太郎(1861年〜1939年)は、26歳の時、ロシアへ留学。キエフの神学校を卒業後、モスクワ大学へ行きました。
そこでニコライ・グロート教授(1852年〜1899年)のもとで学び、『大学』『中庸』『孝経』のロシア語訳を一気に仕上げます。すると小西の翻訳力を高く評価したグロート教授は、『老子道徳経』のロシア語訳を勧めました。
当時、東洋の思想、特に「老子」に強く関心を持っていたトルストイは、教授からその話を聞くと、「その青年に会いたい」と申し出たのです。
そこでグロート教授に伴われ、モスクワのトルストイ別邸を訪問することになりました。1892年11月のことです。『老子』を通じ、小西増太郎はトルストイに出会った最初の日本人になりました。
それから、4か月間にわたり、トルストイと小西の二人の露訳作業が隔日ごと進められました。

作業の初日、翻訳原稿を持ってトルストイ邸に訪れた小西は、トルストイに尋ねました。
「どのように仕事を始めましょうか」
トルストイは、次のように答えます。
「英・独・仏の訳文を私が見ているから、君は自分の訳をゆっくりと読んでください。そうすると、わたしは一語一語、三訳に照合します。そして一句まとまると、行文を整え,一章を終えると全文を訂正、確定するようにしましょう」
こうして「老子」の露訳作業は始まりました。

作業の経緯、翻訳の内容につきましては、『トルストイが日本人留学生に贈った聖書』及び『トルストイにより老子道徳経は、壮大な詩に生まれ変わった。』(いずれも電子版、吉橋泰男著)をご覧ください。
https://www.amazon.co.jp/老子道徳経-老子の哲学-トルストイ-小西増太郎/dp/B09BGKJQZS

トルストイと老子と一人の日本人|東北大日露交流サークル

トルストイと老子と一人の日本人|東北大日露交流サークル

トルストイと老子と一人の日本人

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こんにちは!
東北大学日露交流サークルです。今回は、トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳作業について紹介したいと思います。

トルストイは、ロシアを代表する大作家です。代表作として、『戦争と平和』、『復活』が挙げられます。

彼は白樺派やガンジーに影響を与えた一方で、『老子』から非常に大きな影響を受けていました。また、彼は小西増太郎という日本人とともに『老子』の露訳作業を行いました。

そこで今回は、日露交流という観点から、トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳作業について紹介します。

1.トルストイと『老子』

トルストイと『老子』の関係を知らなければ、『老子』の露訳作業の意義が感じられないと思うので、まずはそれを紹介します。

トルストイは、その人生の後半期に孔子や老子の影響を受けていました。そのことは、彼が1891年にM・M・レージェルレ(出版業者)に送った手紙からわかります。

M・M・レージェルレへ
・・・私は自分に強い印象をよびおこした書物のリストを、印象の程度を三つの段階に分けて、作成した書物のリストを、印象の程度を三つの段階に分けて、作成し始めたのでした。その三つの段階はー絶大、甚大、大という言葉で示しました。そのリストを私は年齢によって区分しました。・・・
感銘を受けた作品
・・・五十歳から六十三歳まで
ギリシャ語の全福音書 絶大・・・老子、ジュリアン著 絶大
(中村融訳『トルストイ全集18 日記・書簡』,1973)

「老子、ジュリアン著」ですが、これはジュリアンの仏訳『老子』を指しています。
また、彼の日記にも『老子』の影響が伺える部分があります。

一八八四年(五十六歳)

三月十一日
孔子の中庸の教えはー驚嘆すべきものだ。老子と全く同じだ。自然の法則の実践ーそれは叡智であり、力であり、生命でもある。
三月十五日
精神状態がよいのは、孔子や、とくに、老子を読んだためだと思っている。・・・エピクテタス、マーカス・オーレリアス、老子、仏陀、パスカル、福音書。これはだれにとっても必要であろう。
三月十九日
孔子読む。いよいよ深く、いよいよよし。彼と老子を欠いては福音書も完全ではない。一方、孔子は福音書なしでも何ということはない。
(中村融訳『トルストイ全集18 日記・書簡』,1973)

これらのことから、トルストイが『老子』から大きな影響を受けたことがわかります。

彼がその影響を受けた理由は、ひとえに『老子』と自身の思想が似ていて共鳴する所があったためだと考えられます。例えば、『老子』の無為や非暴力の思想は、トルストイの自然を重視し人為を批判する思想や徹底した非暴力主義と似ています。

トルストイと『老子』の思想関係についてより詳しく知りたい人は、キム・レチュン講演、柳田賢二編『老子とトルストイ』(2001,東北アジアアラルト)を参照してください。思想関係だけではなく、日本人に与えたトルストイの影響などにも言及されており、非常に面白いです。

2.小西増太郎

小西増太郎は、『老子』の露訳作業を機にトルストイと交流を持ちました。また、トルストイの葬儀に参加した唯一の日本人でした。ここでは、彼の人生全体を簡単に紹介していきます。

小西増太郎は1861年に岡山県で生まれ、1879年に洗礼を受けました。その後、ニコライ堂で五年程ロシア語などを学び、ロシアへ留学します。ロシアでは、キエフの神学校を卒業後、1892年にモスクワ大学に入学しました。

モスクワ大学では、彼をトルストイに紹介したグロート教授に師事します。
彼は教授の勧めにしたがって、『大学』の露訳をし、その後『中庸』『孝経』の露訳をしました。これらの露訳を評価され、彼は教授に『老子』の露訳を勧められ、遂に『老子』の露訳に取り組み始めました。

ちょうどその時、トルストイはモスクワの別邸に居たので、教授はその別邸を訪れ、小西の『老子』露訳について話しました。トルストイは、その露訳を模範的なものにしたいため、小西を連れてくるようように頼み、遂に露訳の共同作業が始まりました。

露訳作業の終了後、彼は留学を終えて帰国します。その後は、トルストイの作品の翻訳や野崎台湾塩行の支配人としての活動、ロシアへの再渡航などをします。

小西増太郎の研究者である太田健一氏は、彼の生涯について、「ハリストスの信仰、トルストイへの愛は一貫していたものの、信仰(宗教界)で生きるべきか、実業で生きるべきか、はたまた、純粋に文学で生きるべきか教育界で生きるべきか、終始揺れ動いた波瀾の一生であった。」と述べています。
(太田健一『小西増太郎・トルストイ・野崎武吉郎ー交情の軌跡』2007,p11)

また、小西は自著の中で「過去の私の生涯を検討してみると、なんだかトルストイと離れ難い因縁があるらしい。老子を彼と共訳し、長く逢わないと彼は福音書に傍点を施して私を教え、逢えば僅かな時間でも愉快な話ができ・・・」と述べています。
(小西増太郎,太田健一監修『いかに生きるかートルストイを語る』,2010,p13)

「福音書に傍点を施して私を教え」の所についてですが、小西は帰国後に徳富蘇峰経由でトルストイから聖書をもらっていました。その聖書は、トルストイが重要だと思った所に線が引かれていました。彼はそれを以って、そのように述べたのでしょう。

以上をまとめると、彼はキリスト教信者としてロシアに渡りました。その後、教授の仲立ちによってトルストイと出会い、ともに『老子』の露訳を行い、深い交情を結びました。その後、彼は色々と揺れ動いた人生を送りますが、このとき結ばれたトルストイとの因縁は終始途切れることはなく、彼に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。

ちなみに小西はモスクワ大学で心理学を専攻していました。東北大学の心理学部とモスクワ大学の心理学部は交流があります。
私たちは、過去に東北大学の心理学の教授である阿部恒之先生にロシアでの経験や見解についてインタビューをし、それを記事にまとめました。
その記事は以下の通りです。興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。

3.トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳

トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳は、1892年11月から始まりました。先述したようにそのきっかけは、トルストイがグロート教授から小西増太郎を紹介されたことから始まります。

グロート教授は、小西が『老子』の露訳をしていることを紹介し、その後小西とともにトルストイを訪ねます。そこで、露訳作業を一緒に行うこと及びその作業方法が決まりました。

作業は、次のように決まりました。①隔日で小西が『老子』二章分の露訳を携えてトルストイを訪ね、それを読み上げる。②トルストイがそれを英仏独訳の『老子』と比較し、露訳を正し、訳文を確定する。

このような作業を通してトルストイと小西は、交情を結ぶとともに『老子』の露訳を完成させました。その中で、小西は露訳に関わるトルストイの考えに困ったり、作業外の宗教問答でトルストイの思想に影響を与えたりしました。

小西が困った一つの例として、『老子』三十一章を訳そうとした時のトルストイへの対処が挙げられます。

『老子』三十一章には以下の文があります。

「兵は不詳の器にして、君子の器に非ず。已むことを得ずして而うして之を用うれば、恬淡なるを上と為す。」
(武器は不吉な道具であって、貴人の(用いるべき)道具ではないのだ。どうしても用いなければならないときには、貪欲でないのが最もよい。)
小川環樹訳注『老子』(1973)より引用

トルストイは、「兵は不詳~非ず。」の非暴力の思想に感銘を受けます。
しかし、徹底した非暴力主義者である彼は、「已むことを得ずして」以下の妥協的な所に不満を覚えて、様々なことを言い、作業が手につかなくなりました。
困った小西は、そこでその日の作業を切り上げることにしました。

露訳作業中に起きたことなどは、小西増太郎『いかに生きるかートルストイを語る』に詳しく書いてあるので、ここでの紹介は以上とします。興味を持った方は、是非読んでみてください。

コラム 西洋人と中国古典
清末民國初に活躍した梁啓超の1920年の著作(『欧遊心影録』第一編「欧遊中之一般観察及一般感想」下半篇)に、外国人から中国古代思想を褒められたことが述べられています。そのエピソードの後、彼は「近来西洋の多くの学者が東方の文明を輸入し、〔西洋文明を癒す〕薬にしようとしている。わたしがよく考えてみるに、われわれにはたしかにこの資格がある。・・・」と述べています。(岡本隆司,石川禎浩,高嶋航編訳『梁啓超文集』,岩波書店,2020,p.445,446。〔〕部分は訳者による。)
この部分は、西洋文明の処方箋として中国文明を説くことで、自国文化の重要性や人類に対する中国人の責任などを主張し、中国人を鼓舞する所です。
そのため、多少割り引いて考える必要があると思いますが、少なくともこの文章から、一部の西洋人が中国古典(東洋文明)から何かを学ぼうとしていることがわかります。
もちろん、その一方で中国を遅れた国として捉える人もいました。しかし、トルストイの『老子』探求は、確実に前者の文脈として捉えることができると思います。

4.総括

長くなってしまいましたが、以上がトルストイと小西による『老子』露訳作業に関する紹介でした。

年齢や立場、国籍を超えて、ロシア人と日本人が英仏独訳を参考にしながら中国古典の露訳を行うという文化交流の中で、交情を結んだ二人は、まさに異文化交流や国際交流の模範と言えるでしょう。

私は、大学で東洋史を学ぶとともに、ゆったりと三年間ロシア語を学んでいました。つまり、約三年間、主にロシアと中国について大学で学んでいるわけですが、あまり日中ロが良い意味で一度に結びつくことはありませんでした。しかし、この二人の関わり合いを知り、日中ロの良い結びつきを知る事ができて良かったと思います。

それでは、次回の記事でまたお会いしましょう。

(文責:東北大学日露交流サークル 高麗)

中野 昌宏 Masahiro NakanoさんによるXでのポスト

 
 
中野 昌宏 Masahiro Nakano
⁦‪@nakano0316‬⁩
この件、多くの人に関心を持ってもらいたいですね。
私が授業で使っているものを提供します。 pic.x.com/MNXXBEmm3a
 
2026/02/14 15:18
 
 

1945年のクリスマス: 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 | ベアテ・シロタ ゴードン, 平岡 磨紀子, Beate Sirota Gordon |本 | 通販 | Amazon

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5つ星のうち5.0
  • 2025年10月7日に日本でレビュー済み
    フォーマット: 文庫Amazonで購入
    朝ドラ「虎に翼」を見た感想を、SNSで楽しんでいるうちに
    ベアテさんの名前にいきつきました。
    日本人のために考えてくれた日本国憲法の草案がある!
    それもユダヤ人が関わっていたことに衝撃をうけました。
    彼らの提案する憲法は、世界最先端の自由と人権と平和を盛り込む内容でした。
    ベアテさんは、唯一の女性メンバーで、民法の特に女性の人権を強く盛り込んでくれていました。
    ベアテさんは少女時代を日本で過ごし、当時の日本の女性の境遇を理解していたからです。
    少女時代のお話は、まるでトットちゃんを読んでいるような気持ちになります。

    今でも家父長制の名残を感じる現在ですが、彼女の存在がなければ
    今よりももっと女性の人権は軽んじられていたと思います。
    アメリカ人でもない女性が、日本の新憲法に関わったとバレてしまうと
    せっかくの法案が覆されると思った彼女は
    晩年までこのことを内緒にしていたようです。
    感謝の気持ちとともに、その思いを引き継ぎます!という決意が込み上げてきます。
    レポート
  • 藤崎 千代子
    2014年1月15日に日本でレビュー済み
    フォーマット: 単行本Amazonで購入
    ベアテ・シロタ・ゴードンが戦後GHQが作成した憲法に男女平等を書き込んだ女性だということは、一応知っていた。しかし彼女の人となりについては、全く知らなかった。日本人の編集者が書いた伝記とはいえ、色々なことを知ることができた。ユダヤ系ドイツ人、父が有名なピアニスト、彼女の身内の何人かは、アウシュビッツで亡くなっていること、もっとも驚いたのは、彼女が日本女性の地位を書くに当たり、参考にしたのは、ソビエトの憲法とワイマール憲法だったということであった。彼女が書き込んだ日本女性の地位は、世界的にみても、当時最高だったという。市川房枝女史が渡米した時は、彼女が通訳を務めたというが、アメリカの女性のために、日本憲法に書き込まれた日本女性の地位について、数回以上も講演したという。
    彼女の功績が知られたのは、最近のことだが、GHQでこの仕事にかかわった時、秘密にするように言い渡されたのを、忠実にまもったためだということもわかった。
    今、GHQに押し付けられた憲法だから、改正しなければならないと語られることが多いが、その憲法のもとで、60年間築いてきた現在をもっと重視した方がいいと思う。
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