小田 周二 (おだ しゅうじ) 1937年、奈良県生まれ。大阪大学工学部応用化学科化学工学修士課程。 プラスチック製造メーカーで研究、技術開発、製造、工務、品質管理等に従事。横浜市金沢区に在住。 @日航機墜落事故との関連 *日航機事故遺族(日航123便撃墜事件 1985.8.12) 犠牲者名 次男小田浩二(15歳)、長女小田陽子(12歳)、中上岑子(37歳)、中上義哉(12歳)、中上佳代子(10歳)の5名 *日本の空の安全を願う会 主宰
。 123便の墜落事故での乗客乗員の殺害は日本国の最高権力者である総理大臣、自衛隊幕僚長らが指示したとの問題提起は著者(遺族・小田)が初めてではない。多くの有識者、目撃者、関係者の告白がなされている。ここに、その関係者の証言、文書を記載して敬意を表する。 *自衛隊百里基地司令官(事故当時):「標的機を民間機123便に当ててしまった。今戦闘機2機を発進させて、損害状況を確認中」=隔壁の破壊の否定⇒A *百里基地から発進した追尾戦闘機の目撃(小林美保子氏、自衛隊偵察隊M.K.氏、上野村小学生、中学生、角田四郎氏)⇒A *隔壁部の破壊の否定証言(生還者・落合由美氏)「機内空気は動かなかった。風切り音もナシ、乗客に酸欠症状ナシ」⇒A
別資料①自衛隊百里基地稲吉司令官の「標的機が日航機に衝突した」との
告白証言は 戦友への電話連絡であった!!
以下、小田周二*著『永遠に許されざる者』(2021)資料11より
《8月12日、 自衛隊の戦闘機による訓練演習があり、 その時に自衛隊標的機が暴走し、
日航123便に激突して、 垂直尾翼と油圧装置を破壊脱落させたのである。
この緊急事態について、 当時百里基地の稲吉司令官がその同期の友人に電話で
「えらいことをした。 標的機を民間機 (日航機)に当ててしまった。 今百里基地
から、 偵察機2機を追尾させている」と話した。
当時F4Eの一部の機体は偵察機に改造されて百里基地に配備されている。 そして
現在でも、百里基地には 偵察機部隊が存在するのである。
それではこの情報で稲吉司令官は誰に電話で話をしたかである。
それは第2次世界大戦での戦友である岩田裕次郎氏で、 直接稲吉司令官から
聞いたと証言しているのである。》
*小田周二 (おだ しゅうじ) 1937年、奈良県生まれ。
・日航機事故遺族(日航123便撃墜事件 1985.8.12) 犠牲者名 次男小田浩二(15歳)、長女小田陽子(12歳)、中上岑子(37歳)、中上義哉(12歳)、中上佳代子(10歳)の5名
・日本の空の安全を願う会主宰
稲吉(浩一、智重 ?)氏と岩田氏とは 青島(チンタオ) 海軍航空隊に昭和18年
10月に入隊した同期生と推察出来る。 彼らは 「吉津会」 という同窓会を結成して
おり、 平成13年5月 第24回 「吉津会」の旅行で下呂温泉に下呂総会を開催して
いる。 その時の事務局長は 岩田裕次郎氏であった。
第24回 「吉津会」 下呂総会のご案内
平成13年3月吉日
我らかく戦えり
昭和16年12月8日開戦
"
20年8月20日終戦
死闘の太平洋戦争に海軍飛行兵として志願
昭和18年10月1日松山航空隊に入隊
飛行予科練習生→飛行練習生を経て実際部会に配属奮験 イヨン同会官か
(当時)
岩田祐次郎が
事務局長
直接電話で問いた
岩田祐次郎
青島(チンタオ) 海軍航空隊
TEL 052-841-
吉津会会員の想い出
幹事
松田佳男
第 2
TEL 0572-22-
集
井戸孝
TEL 0574-53-
時
平成13年5月15日(火)~16日(水)
集合場所
JR名古屋駅新幹線乗降口 13:00 (海軍小旗目標)
※緊急の場合は携帯 090-7692-
イナヨシ司令官
(松田)まで連絡の事
15日(火) 集合次第貸切バスにて出発→ホテル着
16日(水)
から聞いた。
平成13年5月15~16日実施
第24回 「吉津会」 下呂総会
にて配布
海上自衛隊
8:00 貸切バスにてホテル出発→高山 「朝市」など散策→白川郷合掌造り
の集落見学 昼食→JR名古屋駅新幹線口着 16:30 帽振れの予定
下呂温泉 山形屋 TEL 0576-25-2601(代)
百里基地