【ミサイル撃墜説】事故直後から現場で囁かれていた!?
「北朝鮮のミサイル」羽田で放たれた一言
1985年8月12日、日航123便墜落のその日、羽田空港には乗客家族が詰めかけていました。混乱の中、ある日航幹部が家族に向かって、こんな言葉を吐き捨てたといいます。「うちのジャンボは、北朝鮮のミサイルに撃ち墜とされた。今はそれしかわからない」。
この場面を最初に記録したのは、角田四郎氏の著書「疑惑」(1993年刊)です。角田氏は友人から聞いた話として紹介していますが、この発言者は、実は別の資料でも裏付けが取れます。
二つの本が指す同じ場面
2017年刊行の青山透子氏「墜落の新事実」には、遺族の吉備素子氏の証言として、当時の町田副社長が遺族の前で「北朝鮮のミサイル」という言葉を口にしたという記述があります。角田氏の本では匿名の「日航役員」だった人物が、20年以上あとに別の著者による独立した取材で、名前まで特定されて再び登場しています。
角田氏の本にはさらに、自衛隊員を名乗る差出人からテレビ局や新聞社、日航本社にまで怪文書が届いた話も出てきます。内容は「相模湾にいた護衛艦『たかちほ』から発射された対空ミサイルが日航機に当たった」というものでした。角田氏自身も、現場で拾った金属片を米軍関係者に見せたところ「たぶんミサイル」と言われた経験を明かしています。
テレビで語った航空評論家の指摘
事故の年、TBSテレビで「航空自衛隊の無人標的機が垂直尾翼にぶつかった可能性もある」と発言していたのが、航空評論家の関川栄一郎氏。この発言は角田四郎氏の著書『疑惑』に、「サンデー毎日」1985年9月8日号を出典として記されています。
関川氏は「航空情報」誌の編集に長く携わり、日航広報とも太いパイプを持つ業界屈指のベテラン評論家として知られていました。その関川氏がテレビの全国放送という公の場で標的機衝突説を明言していた事実は、無視できない重みを持ちます。なお『疑惑』の本文中には一カ所だけ「関川一郎」という表記がありますが、それ以外はすべて「関川栄一郎」であり、これは誤植で同一人物を指すとみて間違いありません。
なぜ「ミサイル」という言葉がすぐ出たのか
これらのことから当時を知る世代には、この発想はそれほど突飛ではなかったのかもしれません。日航123便墜落のわずか2年前、1983年には大韓航空機撃墜事件が起きおり、ソ連領空を侵犯した民間機がミサイルで撃墜され、乗員乗客全員が犠牲になり、世界中に大きく報じられました。
国際情勢の記憶がまだ生々しいなかで起きた日航機の墜落に居合わせた人たちが真っ先に「ミサイル」という単語を思い浮かべたとしても、不思議はありません。
Udo K. Haafke - https://www.airliners.net/photo/Korean-Air-Lines/Boeing-747-230B/2377142/L, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84942696による
1986年、整備士たちの間でも
翌1986年刊行の吉岡忍氏「墜落の夏」第六章「巨大システムの遺言」には、また別の角度からの証言が残っています。事故原因をめぐる聴聞会が難航するなか、日航の整備担当者やエンジニアたちの間では、「垂直尾翼が先に何らかの理由で破壊され、それがきっかけとなって隔壁破壊に至ったのではないか」という、事故調査委員会の公式シナリオとは順番が逆の「破壊の物語」が、まことしやかに語られていたといいます。吉岡氏は当時の状況を、原文でこう記しています。
「じつは機の外側から隕石があたったとか、自衛隊か米軍の演習の標的物が衝突した、と事故直後に考えた説も、金属疲労から発生した亀裂もあったにしても、隔壁に修理ミスはあったし、突拍子もないとして排除する根拠はないのだ……。」
隕石説にせよ、自衛隊機や米軍機の演習標的説にせよ、著者自身が「排除する根拠はない」と明言している点は見過ごせません。吉岡氏はこれらの説を積極的に支持する立場で書いているわけではなく、あくまで当時整備関係者のあいだで交わされていた「破壊の物語」の一例として紹介に徹しています。またこの書籍は1987年には第9回講談社ノンフィクション賞を受賞してもいるのです。![]()
事故からまだ1年足らずというごく早い段階で、日航社内の整備担当者やエンジニアたちがこの種の仮説を頭から否定しているわけではなく、ノンフィクション作家である吉岡氏自身もそれを「突拍子もない」の一言で切り捨てなかったことは、押さえておくべき事実です。垂直尾翼や補助動力装置の破片があまりにも少なく回収できなかったために、外部から何かが衝突した可能性を完全には否定できない、という技術者たちの率直な戸惑いが、この一文の背景にあります。
青山氏がゼロから作った説ではない
ここまでの流れを整理すると、ミサイルや標的機が日航機に何らかの影響を与えたのではないか、という疑いは、1985年の事故当日から1986年にかけて、遺族の周辺や日航社内という「現場に近い場所」で既に語られていたことがわかります。青山透子氏が「海上自衛隊ミサイル撃墜説」を世に問うたのは2010年代以降ですが、ゼロから作り上げた物語ではなく、長らく散発的に語られてきた疑念を拾い上げ、一つの仮説として組み立て直した、というのが実態に近いようです。
この経緯を踏まえたうえで次の記事では、真殿知彦氏と青山氏が正面から対立している技術的な論点、「異常外力の着力点」を検証していきます。
参考・出典
青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、2017年)ほか一連の著書![]()