2026年7月9日木曜日

『果てしなきスカーレット』礼賛──ドラゴンの復讐──|yojiseki

『果てしなきスカーレット』礼賛──ドラゴンの復讐──|yojiseki

『果てしなきスカーレット』礼賛──ドラゴンの復讐──

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‪ 『果てしなきスカーレット』評
以下の記事の改訂版です。
https://note.com/yojiseki/n/na1c9d2051031
https://note.com/yojiseki/n/n67fdbd978c1e

「──ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている──」

(本作冒頭老婆・魔女のセリフより)

「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」

(黒澤明『蝦蟇の油』1984年単行本版303頁より)

「きれいは汚い。汚いはきれい」

(『マクベス』冒頭の魔女達のセリフ)

はじめに

‪本作を最初に見た時は欠点のある野心作という印象だったが3回目を見た時傑作と判断した。劇場で計9回見た。ここまで劇場で見た映画はない。
多分『もののけ姫』以来最も重要な映画だと思う。アニメに限定せず全ての映画なかで。
その興業的な不振の理由は考えるに以下辺りだろう。

・一局推しは他局が推せない(露出過多はテレビ放送待ち組を増やした)。
・宣伝が女性客を軽視した。
・声優ファンがいつものネガキャンをした。
・批評家がハムレット、神曲を読んでないことをバレたらまずいと思った。
・真実を突きつけたので嘘っぱちな生き方(戦争追認)をしている人間が反発した。
・評価したスピリチュアル系の影響力が限定的だった(動画を参照)。

しかしこれらは作品の出来とは関係ない。むしろその表現力の高さが後述する宗教的反発を招いたと思われる。また、YouTuberの発言などを見ていると伏線を張る段階で現代人はオチを期待している。ロラン・バルトが優れた映画の特質であると述べたことのある意味の保留(『映像の修辞学』より)を現代人のほとんどが作品の欠点として捉えている。自分が描いた絵や自分の作った作品を否定されたことは誰しもあるだろう。そうした人がこの映画を見て古傷を思い出してあらゆる理論武装を用意してその古傷を隠そうとしているのかも知れない。その意味でこの映画は自分自身を許せない人間達にとっての「ネズミ取り」である。

追記:
その後擁護派には以下の大きく四派があることがわかった。
・前述の都市伝説派。
・精神分析、臨床心理学派。
・二次創作絵師派。
・影響元分析派。
都市伝説派については前出の動画を参照。
精神分析に関しては後述する神の概念が象徴的に機能しトラウマ克服に寄与するらしい。
絵師に関しては作中のスカーレットの絵を描くシーンにシンパシーを持っているようだ。
自分も属する最後の分析派は、厄介なことに否定派に転化する場合もある。
そもそもハムレットと神曲をマクベスの魔女で接着する構成は大胆不敵である。
シャイアン族、コマンチ族からの影響、正確にはラルフ・ネルソン(『ソルジャー・ブルー』)やコーエン兄弟(『バスターのバラード』)からの影響はネイティブ・アメリカンへの直接的言及でないため文化的掠奪と考える人もいるかも知れない。
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』から受け継いだ「虚無」という概念も個人化されすぎたと考える人もいるだろう。
とは言え細田守は貨幣制度に目を向けたエンデの社会的に側面を受け継いでいるし、シャイアン族虐殺事件を扱うラルフ・ネルソン『ソルジャー・ブルー』などからの影響は本質的な主題の継承、再興と考える。

1.ストーリー上の工夫

一見捻りのないストレートな復讐譚なのだが、そもそも本作の主人公スカーレットはハムレットと違う猪突猛進型で面食らう。原作のハムレットは狂気を装うのだからスカーレットとは真逆で腹に一物あり狂気を装い周りを騙すのだ。それだからこそハムレットは一応の復讐を果たす。原作とは関係ないことがわかって純粋に映画を楽しむためにはある程度原作を知っておいた方が逆説的にいいということになる。

本作のストーリーと参照元との違いのポイント:
①ハムレットは馬鹿のふりをして復讐を遂げるが、スカーレットは逆の性格で猪突猛進。
②神曲ではダンテの相棒は経験豊富だが本作では心許ない(スカーレットは日本人の看護師の聖(ひじり)と死者の国で偶然出会う)。
③オルフェウスの象徴である竪琴を聖は最初は全く弾けない。ギリシア神話では女が消えるが映画では男が…(後述)。

ハムレットを知らなくても楽しめるが(ハムレットは映画を見てから読めば良い)、ハムレットは知っておくと別の楽しみがより増えると思う(例えばハムレットのオフィーリアへのセリフを捩ったスカーレットの聖へのセリフ「…寺へ行け」で爆笑出来るし、ローゼンクランツとギルデンスターンの登場は出オチで面白い)。それだけの戯曲だし上演の歴史がある。

アスタ・ニールセン
女ハムレット
Asta Nielsen • Hamlet (1921/II) • Directed by Svend Gade • Zwischentitel...

Sarah Bernhardt サラ・ベルナール - ハムレット
Le Duel d'Hamlet (1900) La Société Phono Cinéma Théâtre

(細田守はインタビューでサラ・ベルナールのハムレットに言及している。)

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《[細田守]…スカーレットの中には、ハムレットとオフィーリアが混ざり合っているつもりで描こうと思いつきました。そのことをアメリカの知人に話したら、「ハムレット」を女性でやった歴史は、けっこう古いのだと資料を見せてくれて。1899年にアルフォンス・ミュシャが「ハムレット」パリ公演のポスターを描いているんだけど、その公演ではハムレットは男装の人(演じたサラ・ベルナールはそれまではオフィーリアを演じていた)という設定だったそうです。…》

『果てしなきスカーレット オフィシャルガイドブック』より

アメリカの知人とは映画評論家のチャールズ・ソロモン(エンドロールに名前がある)だろう。
本作以外ではイーサン・ホーク主演のハムレット2000が低予算映画だがおすすめ。
https://vt.tiktok.com/ZSHQxu7qV/
(「ネズミ取り」は芝居ではなくて映画上映で表現される!)
テクノロジーに依拠した現代アニメの歴史より演劇の歴史は古いし、数々の芸術家を刺激してきた(かつてのグローブ座ではマイクなしに群衆に対峙してきたし、それはラストのスカーレットも同じだ。テクノロジーの発達した今見習う点は多い)。
ハムレットについては特にタルコフスキー 『映像のポエジア』が参考になる。

《…私は物質的なルーチンワークに敵対しようとしている人間のエネルギーに引きつけられる。ここで私のもっとも新しい構想の糸玉が巻かれるのである。
 このような観点から私にとって興味深いのは、シェイクスピアの『ハムレット』である。『ハムレット』を私は、いずれ、映画にしたいと思っている。このもっとも偉大な劇のなかには、最高度の精神的レベルにありながら、同時に低劣で汚れた現実との相互関係のなかに入っていくことを余儀無くされた人間についての、永遠の問題が考察されている。これは、もし未来の人間が自分の過去のなかで生きることを余儀無くされたとするならばどうなるか、というような問題を抱えている。ハムレットの悲劇も、私の考えによれば、ハムレットが破滅するということのなかにではなく、ハムレットが死を前にして自分の精神的欲求を放棄し、普通の殺人者にならなければならないということのなかにある。このような変節のあとでは、死は彼にとって至福の出口と言えるのである。あのように決闘で死ななかったならば、ハムレットは自殺することで自分の生命を絶たなければならなかっただろう。》

タルコフスキー 『映像のポエジア』単行本版310頁、文庫版336~337頁より

この正確なハムレット評は実は本作ではスカーレットにではなく聖の運命に当てはまる。スカーレットにはオフィーリア的要素が映画では重ねられる。
本作でto be or not to beを男女の二人の主人公に振り分けた(小説版*がわかりやすい)のはハムレット読解として面白い。

(「生きるべき(to be)じゃない……。復讐に取り憑かれていた私が死ぬべき(not to be)なんだ……」)

最後のスカーレットと聖の別れのシーンで、オルフェウスの冥界下りの神話と男女を逆にしたものでもあるし、見つめるという行為も神話と逆だ(そこに至る過程でもスカーレットと聖の関係性は相互に立場が入れ替わる描写がいくつかなされる)。

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一番重要なのは相互に命を救っていることだ(⑤70,⑧129)。
なお中島敦の『名人伝』(及び荘子、列子)を想起させる聖の非戦的セリフ(「中国の故事にある、究極の弓の名人は…形のない弓で見えない矢を放つ」)とそれに対するスカーレットの反応も最後の復讐の機会を前にしたスカーレットの選択((13)241)と対比的に関係してくる。
#43(⑧121~122)
https://youtube.com/shorts/mRXeS6dhDmE
作品全体も非戦的立場を取るが同時に個々の戦士の誇りを描いている点でこの映画にあるのは単なる平和主義ではない。

(ちなみに金子修介監督が本作のキャラクターの目の動きに着目していたが、主人公二人のうちどちらが生きているかを判断するシーンでの黒目の動きが効果的だった。これはCGというかデジタルで試行錯誤した成果だろう。https://x.com/shusukekaneko/status/1995033217213272372?s=61

神曲にしても一番重要なフレーズを死者の国で知り合う聖に読ませる点で、おやっと思う。死後の世界の三層構造は辺獄ということで一元化して描かれる。とは言え途中の悪夢ではダンテに依拠した神曲の構造が背景に描かれる。

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:CG制作の裏側|『果てしなきスカーレット』若手クリエイターインタビュー④ アニメ美術に挑戦した背景表現|DF TALK
https://note.com/dftalk/n/nf5607e2d8a80

Culture Crave 🍿さんによるXでのポスト

Sony Pictures Classics’ new anime 'Scarlet' is now out on digital

• Directed and written by Oscar nominee Mamoru Hosoda

• Certified Fresh on Rotten Tomatoes pic.twitter.com/8fC1Aq7m26

— Culture Crave 🍿 (@CultureCrave) March 17, 2026

#47(⑨149~153)
https://youtube.com/shorts/Afbq8lXAprw

これは恐怖の明確化という点で、不安を意味ありげに提示するだけのジャパニーズホラーには到達できなかったシーンだ。冒頭の老婆の「──ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている──」というセリフも聖が星を見るシーンと並んで的確に表現されている。水面自体はラストの鏡像の扉の描写につながる。

地獄の構造はダンテ自身が明示したものだが以下の絵画なども参考にしたのだろう。

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「地獄図(地獄の見取り図)」(1490年)サンドロ・ボッティチェッリ

ちなみに『神曲』の構造はダンテがイスラム文化から学んだものだという説がある*。


ダンテ『神曲』とイスラム文化:メモ再掲
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_21.html
https://note.com/yojiseki/n/n7efb59990c8a

本作は以下のように古典を自由自在に換骨奪胎している。復讐の敵役はハムレットではなくマクベスからセリフ(「…私の心はサソリでいっぱいだ…」)が取られる(そもそも本作は冒頭のセリフを発するマクベス由来の老婆・魔女がハムレットと神曲を繋いでいる)。

ギリシア神話で有名な冥界を旅するオルフェウスは竪琴の名手だが聖は苦労してリュートを上達する。
復讐を果たすのも主人公スカーレットではなくドラゴンという結末である。

(ドラゴンについて追記しておくと、一般に人智を超えた龍は東洋的なイメージだが、本作のドラゴンは剣や武器で傷ついており西洋的な退治可能な対象でもあるとわかる。東洋の龍と西洋のドラゴンの融合だ。本作は剣でドラゴンを傷つけたであろう人間への復讐をドラゴンが果たすことで終わる。スカーレットではなくドラゴンの復讐というのがこの映画の基本プロットなのだ。ドラゴンによる雷鳴はCGを駆使したものだが一部リミテッドアニメの手法をドラゴンの描写に使っている。スカーレットが負傷した場面で空にいる十字状のドラゴンが反時計回りに断片的に描かれ、時間経過と医療経過の沈静化がシンプルに示唆される。)

このようにストレートなストーリーが実は観客に対する裏切り、挑戦となっているのが本作の物語的特徴である。

視覚的にはコンピューターを使用して手描きアニメとの融合が図られる。
ScreenXではそれが圧倒的な成功を収めていた。

映画『#果てしなきスカーレット

12/13(土)より、
❺種類のラージフォーマットでの上映が開始✨

物語の舞台である ≪死者の国≫ の世界に没入し
スカーレットの復讐の旅を体感してください!

\ "SCREENX" で見る予告編はこちら / pic.twitter.com/Jb41qdGzvW

— スタジオ地図 (@studio_chizu) December 12, 2025

CGの活用は特筆すべきだ。生と死という抽象的概念ばかりではなく、ダンスや格闘や楽器演奏を含む身体表現が(リスペクトされつつ)テクノロジーと融合している。

スタントアクターの証言:

『2001年宇宙の旅』を思わせる視覚効果は厳密には本作のそれはデザイン的に少し異なる。光学的に露光を制御した前者の場合は一本の線状に光線が収束しているが、本作は完全なCGを使用し一点を消失点にしている。

2001: A Space Odyssey "Star Gate" sequence
https://youtu.be/ou6JNQwPWE0

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『果てしなきスカーレット』【劇中歌「祝祭のうた」 スペシャルムービー】11月21日(金)公開 https://youtu.be/vOPY3hEYM4Y

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消失点が印象的なショットは終盤でも出てくる。唾を吐きかけられたスカーレットを癒すかのように雨粒が一滴空から落ちるが、その見た目のショットが同じような消失点を示している。

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雨粒のぶつかる一瞬のエフェクトはCGかも知れないが、自然界を観察した場合には奇跡の表現には必ずしも特殊効果を必要としない(むしろテクノロジーは邪魔かも知れないとさえクライマックスの影絵への遡行を見て思う)。

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2.歴史的題材の面白さ

ここで指摘したいのは後半の歴史を扱ったストーリー描写で、上の物語紹介とは違い、若干の解説がある方が確実に新たな楽しみを得られると思うので記したい。
まず敵役のクローディアスはマクベスからモーセに役割が変更する。トランプの塀を連想させるが基本的には旧約聖書が参照される。クローディアスの城も、バベルの塔を連想させるし小説版ではそう明示される(見果てぬ場所という言葉は約束の地という旧約聖書の世界を容易に連想させるが、それでもなるべく明示的にならないように配慮した絶妙な用語だ)。

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シェークスピアはハムレットでレビラート婚を批判していると読めるし、ベニスの商人と繋げればユダヤに批判的ということになる。映画は辺獄でキリスト以前のユダヤ教のイメージを使うことでこのシェークスピアの政治的歪みを修正している。みんなモーセの頃を思い出して仲良くやろうよ、ということだ(作品を通じてクローディアスは大審問官的でスカーレットはアリョーシャ的だがこの類推はまた別の話になる)。
ヴォルティマンドの要塞も中東のペトラ遺跡を参照していると公式ガイドブックにある。

(ちなみにペトラ遺跡はインディ・ジョーンズシリーズでも使われ、アガサ・クリスティの小説『死との約束』でも舞台で使われていた。『死との約束』のドラマ化、映画化の際は撮影許可の問題か別の場所に舞台が変更されるのが残念だ。旧約聖書の世界を追体験するにはうってつけの場所なのだろうが。https://x.com/studio_chizu/status/2015635836302426490?s=58

群衆は東の太陽の出る方角を目指す。
途中夕陽も描かれるから紛らわしいが基本的にエクソダスは画面上右から左への移動として描かれるので分かりやすい(ScreenX版が圧倒的成功を収めている所以である)。
東を目指すのは日ユ同祖論的イメージだ。
途中廃墟の教会の床に絵がされたモザイクの地図はシナイ山と太陽が一つに描かれる。これはモデルとなるマダバ地図を独自に改変したものだ。

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マダバ地図(ヨルダン)

太陽のモチーフは鳥のモチーフと共に本作で重要だ*。
スカーレット自身が空に昇る際、太陽に重なるように昇ってゆくのも偶然ではない*。

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スカーレットが目覚めた時に見える天蓋の装飾もヘロデ門(現イシュタル門に現存)の太陽を思わせる。

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(トリミング済み)
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現イシュタル門(古代ヘロデ門が残っている)
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十六弁菊花紋

都市伝説的には十六弁菊花紋と比べられるデザインだ。
(上記はシュメール的なものと言える。カフカの短編『掟の門』を想起させる大いなる門などはユダヤ的ではあるが明示はされない。むしろ鳥達をとまらせて神道的イメージを使わずに鳥居を表現している。)


本稿では太陽の象徴的意味を強調したが無論太陽の光は当時の農業生産に関わる重大事だと最新の研究でわかっている。小説版では1600年の火山噴火による気候変動も言及される。

 窓の外に小雪が舞う、静かな冬の日。  
 スカーレットは、寒い宿舎の中で、静かに書き物をしていた。扉の隙間に一通の手紙が差し込まれる。筆を置き、立ち上がって手紙を手に取った。エルシノア城の従者からの報告だった。
『穀物危機で多くの民が飢饉の淵に立たされています。にもかかわらず、クローディアス王は何もしようとしません。その上……』  
 彼女の顔から、血の気が引いていく。
「……!」  
 居ても立ってもいられず、マントを摑むと部屋を飛び出した。  
 この時期、「小氷期」と呼ばれる14世紀から続く地球の寒冷化の最中にあった。  
 加えて1600年、ペルーのワイナプチナ火山が爆発し、大量の二酸化硫黄が大気中に放出された。その影響で、太陽光が遮られ、世界全体の気温が顕著に低下した。  
 翌年から、ヨーロッパ各地で冷害や霜害が頻発することになる。農作物の生育期が短縮され、収穫量が目に見えて減少した。大麦、ライ麦の収穫に失敗し、ワインの生産は壊滅的だった。穀物不足に伴い、食料品の価格が急騰したことが、社会的な不安を増大させ、一部地域では暴動や反乱が発生した。  
 この寒冷化はデンマークも逃れることはできず、農業が深刻な打撃を受けた。それのみならず、周辺の海域や湖沼が一部凍結し、海運にも大きな影響が出ていた。
 人々の生活が危機に瀕している。一刻も早く対策を講じる必要があった。

角川文庫『果てしなきスカーレット』37~38頁

参考:
大噴火が引き起こした地球寒冷化と社会不安 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
Global Impacts of the 1600 Eruption of Peru's Huaynaputina Volcano
Kenneth L. Verosub, Jake Lippman
First published: 03 June 2011
https://doi.org/10.1029/2008EO150001Digital

何より気になるモチーフは王冠である。

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これは私見ではローマ帝国と交流があったと噂される古代新羅の王冠に似ている。
つまりデンマークやイングランドの王冠の歴史的資料をあえて無視していることになる。古代新羅の王冠は樹木を模ったとされるが一部ではメノラーを想起させると言われている(本作では正面からの王冠のルックはメノラーとの類推を避けたデザインになっている。ただし上部が見切れた正面のショットだとやはりメノラーに見えるという高度なテクニックを使っている。アムレットがプロテスタント、クローディアスがカトリック、それを受け継いだスカーレットはプロテスタント的ではあるが、彼らが冠る王冠は一貫してユダヤ教への回帰を秘めているという見方も可能かもしれない。特にプロテスタントはユダヤ教への回帰の側面があると言われる*)。

《…また、わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントのスコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか? 彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけのユダヤ教ではなかろうか?」  
 ピューリタニズムはユダヤ教である。》

(ヴェルナー・ゾンバルト著『ユダヤ人と経済生活』第11章第7節単行本邦訳129頁より)

こうした歴史的モチーフはストーリー描写の背景にアレゴリカルに配置され、歴史に興味ある人間には刺激的である。
(小説版では歴史上の武器が紹介されさらに興味深い。ちなみに映画でもキーワードになる「ゆるし」という日本語は縄文由来の言葉らしい。紐を縛る、緩めると言う時の「ゆるめる」が語源だという。

https://vt.tiktok.com/ZSHApuA1e/

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ゆるしの語源

「神社年鑑」編集長・水間一太朗
TOLAND VLOG チャンネルより
すべての日本人は見てください。明治時代に封印された〝神道の真実〟を開示します。
https://youtu.be/gTvEIX6JEb4
日本人は人類救済の鍵だった!?これから起こる世界の大変革の理由がヤバすぎた…
https://youtu.be/lM2G1YdQ9P4

これらは証明のしようがないが結縄が普及していたのは確かだろう。結縄はインカ帝国のキープが有名。沖縄にも藁算が残る。市場のシーンで少女がスカーレットにスカーフを巻いて結ぶのも約束という意味合いが感じ取れる。信用貨幣の原点に結ぶという行為があり、緩める、許すという行為もその一環に位置付けられる。さらに小説版で明らかになるが細田守は市場で共通通貨、共通言語が生成されると考えているようだ。旧約聖書ではバベルの塔が崩壊して複数言語に分かれるからバベルの塔の完成は共通言語の形成につながるという考え方もあり得る。)

音楽について言えば、世界音楽というジャンルを個々の差異を解消することなく打ち立てている点で画期的だと思う。普遍宗教というものが自らの宗教を普遍的だとする勘違いの危険を孕んでいるように、世界音楽なる言葉は同じ危険を孕むが、この映画はそうした勘違いを自戒するようなストッパーが製作者のインタビュー及び作風の選択から感じられる。
例えば渋谷の音楽はサンバではないと言う。一般化したリズムを使用しているというのだろう。ハワイアンや古楽の使用からは流行から身を引く姿勢、その音楽独自の歴史を重視する姿勢を感じる。
これ以上の分析には細かい作業が必要だが本作の音楽は超越的な世界音楽なるものが存在しないことを自覚するが故に結果的に自らが世界音楽を体現している。

3.倫理的、宗教的課題

ただし本作の魅力はこうした要素を上回る宗教的とも言える倫理的使命感にある。この宗教性は日本の一部の観客を激怒させ、反発させたものだ。

「君が私たちの無事を、神様に願ってくれたおかげさ」

冒頭部分のアムレット王のこんな小さなセリフでさえ宗教的構造は複雑だ。
願いをアニミズム的に作用させるのではなく神というワンクッションをわざわざ介在させる論理は日本の観客には理解し難いだろう。呪術と宗教の違いは以下の図解が参考になる。

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岸本英夫『宗教学』50頁より

昨今のアニメーションブームには文字通り思考回路に呪術的アニマを復活させるという退行的な側面があるということは自戒を込めて追記しておきたい。テクノロジーを駆使すれば駆使するほどブラックボックス化の恐れは大きくなるので退行が進む危険がある。
(ブラックボックス化解決のヒントは先のセリフは父と娘のスキンシップを描くなかで発せられるということにある。テクノロジーを背景にして流行する退行を防ぐのはむしろ単純なスキンシップかも知れない。スカーレットが経験した絵画教育もそうした観点で捉え直すことは有益だろう。本作のキャラクターデザインはCGを導入しながらも3Dではなくあえて2D、つまりスカーレットが劇中で描いた絵の延長上にある。我々の手に届くところにキャラクターデザインを置いている。)
さらに宗教的反発については以下の言葉が正確だ。

“Whatever is truthful haunts you and don't let you sleep at night. Especially anybody who's living a lie gets hurt. You get a lot of ugly reactions from people not familiar with it. …
…Make something religious and people don't have to deal with it, they can say it's irrelevant. …There does come a time, though, when you have to face facts and the truth is true whether you wanna believe it or not, it doesn't need you to make it true... ”

Bob Dylan“Biograph” liner notes (1985)

《真実であるものは何であれ、人の心に付きまとい、 眠れなくなってしまう。 特にうそっぱちな生き方をしている者たちは、真理を聞かされると傷つくんだ。 そこでいろんな険悪な反応が返ってくるんだ。…
…なにか宗教的なものに対しては、 人は面と向かわないで、関係ないよと言わんばかりの顔をする。 ‬…だけど、 事実に直面しなければならない時が来るし、 信じたくても、 信じたくなくても真理は真理であるという時が必ず来る。》

‪(ボブ・ディラン『バイオグラフ』旧版ブックレット38,94頁より)

柄谷行人の用語で言えばこの映画は交換様式Dを目指している。柄谷行人は共同体(交換様式A)の高次元の回復を説くが、この映画ではキャラバンと市場のシーンが主人公二人を高次元に高める。詳細は別稿に譲るが交換様式Aは交換様式BCを経てDに至る(市場のシーンがCに当たる)。それは恋愛感情を含めてだ…ただしスカーレットの獲得する愛は愛する人との永遠の別れと引き換えである。

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『果てしなきスカーレット』交換様式仮説
単純に場面では分類出来ないが逆に登場人物では綺麗に分類出来る。
(スカーレットはAから反時計回りで移行し、最終的に聖のDに気づく。)

(キャラバンは原遊動性Uであり通常はA以前に区分されるが全体として多面性を持つ。長はA、排他的旅人はB、楽器を渡す女性はC。クローディアスは御恩と奉公で戦士達に命令するが大いなる門は官僚的で開かない。これはBである。柄谷行人は本作がスカーレットのモデルにしたエリザベス一世の救貧法について国家=交換様式Bを強化するものとして批判的だ。)

ちなみにDは協同組合を指すという説もあるし、平等な事業組合という考え方もある。

 《細田守監督がオリジナルアニメーション映画を継続して作り続けることができた背景には、製作・プロデュース面においても協力企業や出資者などの理解を促しアライアンスを組むに留まらず、先駆的なLLP(有限責任事業組合)といった仕組みでの権利保有や利活用の新しい取り組みを推進したこと…があります。》

『スタジオ地図15周年『果てしなきスカーレット』で挑む世界』日経エンタテインメント!3頁

細かい技術的なことを言えば聖とスカーレットの別れのシーンの音楽が再び使われて歌詞が付け加わりエンドロールになる。愛する人の喪失は歌の獲得として表現される…。
(フロイトの超自我は柄谷行人によれば交換様式Aに位置付けられるが本作の「許せ」という言葉はまさしく超自我=交換様式Aの高次元の回復であり交換様式Dへの鍵である。だたし「許せ」から「生きたい」に超自我は上書きされる。)
この作品はある一定の精神的危機を乗り越えた際には指標となるであろう芸術作品特有のスキャンダラスな典型的反応を周囲にもたらした。
細田守は一歩一歩前進し宮崎駿を乗り越えた。ナルシスティックは空中浮揚感を排除した、スカーレットが透明な階段を登るシーンを見て自分はそう確信した。

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大部分の観客はそれに気づいていないが、『果てしなきスカーレット』は傑作としてこれからの新たな観客に開かれて残る。

(魔女はマクベスから取られたが、大友克洋のキャラに似ている。これは『もののけ姫』で宮崎駿がシシガミの最後の表情を手塚治虫風にしたのを連想させる。超越的なものを形にする知恵、その方法論それ自体を受け継いでいる点で細田は他のジブリ模倣者と一線を画す。)

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追記(群衆と鳥):

最後に鳥のモチーフについても追記しておきたい。
スイミー的なオチは劇場によって捉え方が変わる。特に鳥の声の分離は劇場差が大きい。
虚無の在り方も我々次第ということだ。ここは一部海外批評家から仏教的と評されたものだ。

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ドラゴンを鳥の集合体としたことは民衆の集合力をアレゴリカルに示したもので途中描かれた群衆の悲劇とも対応する。
最後の群衆の前に立つスカーレットはチャップリンの『独裁者』を想起させる。チャップリンと違うのはスカーレットが対話を試みるという点だ。

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時にはうるさい、時には静かな群衆はスカーレットの問いかけによって対話する個々の人格を付与される。人格が付与されてはじめて群衆は民衆と呼ぶことが出来る。

《…わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う… 》

(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』単行本49頁、文庫上74頁より)

追記:

この映画には黒澤明からの意識的、無意識的影響がある。

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秀虎「許せ」

https://youtu.be/85O6mzkKMoE

1:17:00
秀虎「許せ、許せ」
(この場合は秀虎が秀虎自身を許せと言っている。)


黒澤明からの影響については以下の記事を参照(著者は心理職にあると言う)

【ネタバレ】「果てしなきスカーレット」創造を通して、細田守はアニメ界の黒澤明、かつベートーヴェンになった!! -更に、ダンテ「神曲」とユング心理学的観点からの考察-(2025/12/06第2版)|阿世賀浩一郎

https://note.com/chitose1960/n/n94b422de8997


太陽が雲に隠れるシーン、伝令。これらは『乱』の影響。見上げる空も『乱』に似ている。
聖がいきなり馬に乗る…のは和平の為。これは『隠し砦』のパロディ。顔に傷を負ったヴォルティマンドは藤田進だ。
さらにガートルードの「なぜ…」というセリフ、

「なぜ夫が死んで、なぜお前が地獄に堕ちない……? なぜ……?」

これは『野良犬』『乱』にあったセリフ。確か『戦争と平和』あたりに元ネタがある。ガートルードはマクベス夫人より『乱』の楓の方に近い。
マクベス由来の魔女を3人ではなく1人にしたのも『蜘蛛巣城』と同じ。
決闘シーンは『用心棒』『椿三十郎』的。

2026年7月8日水曜日

我と汝

 




世界史

1:2:2


しかし、子供や神経症者からの類推によることなく、アニミズムの世界に接近することは可能である。アニミズムは、すべての対象について、同時にそれを「アニマ」(精霊)として見る態度である。これは特に理解困難なものではない。現象学的な接近によってそれを理解することができる。そのとなるのは、マルティン・ブーバーの『我と汝』である。彼は、世界に対してとる人間の態度を二つに分けた。第一に、「我─汝」という関係であり、第二に、「我─それ」という関係である。後者の場合、「それ」は物に限定されるものではない。「それ」のかわりに、彼や彼女といいかえてもよい。つまり、人間であろうと物であろうと、同様に、「それ」として対象化されているのである。そのとき、「汝」は消えてしまう。逆にいうと、「我─汝」という態度をとれば、物もまた「汝」となりうるのである。  他方で、「我─汝」的態度における「我」と、「我─それ」的態度における「我」は異質である。後者では、「我」は、対象(客観)に対する主観となる。しかるに、「我─汝」の関係においては、「汝」が対象でないように、「我」も主観ではない。《〈なんじ〉を語るひとは、〈なにかあるもの〉をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて〈なんじ〉を語るひとは、関係の中に生きるのである(7)》。「我─汝」という態度で接するならば、人間も自然も「汝」である。そのとき、アニマ(精霊)があるようにみえる。そのような考え方がアニミズムと呼ばれるのである。


(7) マルティン・ブーバー『我と汝・対話』植田重雄訳、岩波文庫、九頁。



3:4:3


フォイエルバッハのいう「類的本質的存在」は、ヘーゲルの「精神」の唯物論的な言い換えではない。したがってまた、それはヘーゲルにおけるような「個」に対する「全体」を意味するものではない。それは個と個の関係を意味するのだ。「類的」とは、いわば、「我と汝」という関係性を意味するのである。「我と汝」は、経済的な関係性、つまり、互酬的な交換関係を含意する。たとえば、「我と汝」を軸にして考えた思想家マルティン・ブーバーは、フォイエルバッハにもとづいていた。と同時に、彼が協同組合社会主義者であったことは偶然ではない。  マルクスがプルードンだけでなく、フォイエルバッハを通して得た社会主義の理念は、そのようなものである。彼がフォイエルバッハを批判し、プルードンを批判しても、この点では生涯変わっていない。いいかえれば、マルクスが国家主義的であったことは一度もないのだ。『共産党宣言』(一八四八年)でも、彼は、共産主義は「自由なアソシエーション」の実現であると書いている。プルードンとの間に亀裂が生じたのは、一八四六年にプルードンが、共同で行動しようというマルクスの申し出を断わって、つぎのような手紙を書いたころからである。


considered in a new light.”6 Still, it is possible for us to approach the world of animism without resorting to analogies with the infantile or psychopathological. Animism consists of an attitude that sees all objects as being anima. This is not especially difficult to understand; we can understand it by way of a phenomenological approach. The key to this can be found in Martin Buber’s I and Thou. He divides human attitudes toward the world into two types: the “I-Thou” relation and the “I-It” relation. The It in the latter is not limited to things: we could just as well use he or she. Whether a person or a thing, it can be found whenever something is objectified as It. At that moment, Thou disappears. The reverse is also true: if we adopt the attitude of I-Thou, even a material thing can become Thou. On the other hand, the I in the I-Thou attitude is of a different nature from the I in the I-It attitude. In the latter, I is a subject in relation to an object. Accordingly, in the I-Thou relation, Thou is not an object, nor is I a subject: “When Thou is spoken, the speaker has no thing; he has indeed nothing. But he takes his stand in relation.”7 When we take up the I-Thou attitude, both humans and nature are Thou, and they seem to harbor anima. We can call this way of thinking animism. Animism is thus the taking


92. 7. Martin Buber, I and Thou, trans. Ronald Gregor Smith (New York: Scribner, 1958), 4. 8. Buber, I and Thou, 97–98. 9. Mauss describes the relation between magic and science: “This treasury of ideas, amassed by magic, was a capital store


I and Thou, Trans. Smith (English Edition)

英語版 Martin Buber (著), Ronald Gregor Smith (翻訳) 形式: Kindle版


https://www.amazon.co.jp/I-Thou-Trans-Smith-English-ebook/dp/B0051I50EM/ref=sr_1_2?adgrpid=192397266864&dib=eyJ2IjoiMSJ9.uosICi-kG8cXe6u5N-Uin2k4h4H72d4D9df0X3-DLJzqM8RZ9xnzPBm6NHa_ylZgnlYmGb3Oczvc2-CBrKDJMEGXItxT3A8p1jGsLctq1p0CxX4PrWDft80amwslFhbv4RnaxTDYyHInZBNTT7QZuNZPjBGKM_o8logmQmS1F96wQeb04oLj24O_KDCs7Bn7xo2KVyUoPlT7SDAPY5Bpph7pOfTqx398GzuIo6mR-V7N1U_NMZsQnO_jWTIfziFWpWl463bmwiCPYtWaaeQfAHRWgxspP_WOVCDkYKC2HDo.CXh5h9y03o72bhFsmrzBFZELW7eneEGKlQvj-94sbC4&dib_tag=se&hvadid=778806057590&hvdev=c&hvqmt=e&hvtargid=kwd-302099092795&hydadcr=5572_13514863&jp-ad-ap=0&keywords=martin+buber+i+and+thou&mcid=bb0755982a48311297bc4f5e2752a81f&qid=1783485010&sr=8-2


講談社


〈なんじ〉を語るとき、それを語るひとには、ものは存在しない。いや、なにも存在しない。〈なんじ〉を語るひとは、まさに関係の場に立つのみである。

ラカン ジャネ

 


二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫) 


症例エメ


エメの場合、その行為のある特別な点が子供のころから現われている。《彼女はけっして他人とは合わない。彼女はいつも遅れる》。この明らかな臨床的特徴、つまり行為の緩慢さと遅れは、ジャネが精神衰弱症状の次元での重要性を示したものだが、これは発達の途上で現われてくるであろうような同次元の数多い特徴の意義をすべて含んでいる。



家族複合の病理


●転移神経症

症状があらわすもろもろの動向をはっきりさせたあとで、症状を人格内へ導入する分裂の発生をこのように示すことによって、フロイトの解釈は、ジャネの臨床的分析と一線にならぶが、神経症を不安に対する特異な戦いとしてドラマ風に理解する点でこれを超えている。



●強迫神経症  

 強迫症状についていえば、ジャネが自我を組織するもろもろの行為の分離をまさしくそこに認めたのだが──つきまとう不安、強迫衝動、強迫儀礼、強制行為、反芻的ないし小心翼々とした強迫、あるいは強迫的疑惑などでわかるように──この症状はその意味を観念内での感情の置き換え(déplacement de l'affect)から受けとる。この過程の発見はこれまたフロイトに負っている。


フロイト理論と精神分析技法における自我 下 

星5つ中4つ
ラカンによるプルードン評
2007年11月28日に日本でレビュー済み

以下、レビューというより読書メモです。

ラカンはプルードンの恋愛論(おそらく『革命と教会における正義』におけるそれ)に関して「セミナール2」において以下のように述べています。

「プルードンを読まれることを薦めます。この人は揺るぎない精神の持ち主で、教父のような確かな語調で語る人です。彼は人間の条件についてほんの少し身を引いて考察し、一般に考えられているよりずっと手を焼かされると同時に繊細なこの事柄、つまり貞節に接近しようとしました。(中略)プルードンの思考はことごとくロマンティックな幻想に刃向かうものですが、一見したところ神秘主義的とも見えるような文体で結婚における貞節を規定しようとします。そして彼が解答を見いだすのは象徴的契約としてしか認識できない何ものかにおいてなのです。」(「ソジー」『フロイト理論と精神分析技法における自我―1954- 1955 (下) 』岩波書店pp146−7)

相手である異性を通して「すべての男/女」につながろうとする恋人同士の感情の奥に潜む無意識をラカンは、プルードンの相務的契約=相互主義的交換理論をヒントに読み解こうとしています。ラカンもプルードンも原理的な主張と政治的な主張を一つの文章の中で行なおうとしていて文章が難解になる点が似ているのですが、そこから明確な解答を得ようとする方向性も似ています。

二人とも交換=契約によってカオスを脱しようとしているのです。

もちろんラカンは「剰余享楽」(これはセミナール16にある用語)にも注意を払っています。マルクスの用語である剰余価値をラカンは「剰余享楽」と読み替えるなど、思い切った試みをしています。かつて、ラカンはフロイトよりもジャネの方がすぐれていると指摘したことがあるらしいですが(『ラカン』マローニ、新曜社)、マルクスやフロイトに対する見直しもラカンを鍵に行えるかもしれません。

ちなみに、プルードンの交換システムなどは、文学理論とは違う「現実界」のものですが、ラカンの立場からは「象徴界」と「想像界」を含むボロメオの結び目(これはイタリアのボロメオ家の紋章が名称の元になっている)をつなぐ試みとして考えることも出来るでしょう。ラカンとプルードンの違いをあえて指摘するならば、ラカンの方が、契約を保障する象徴的な第三項により多くの構造上の力点を置いている点でしょう。

ところで、『ジャック・ラカン伝』(河出書房新社、p26,69)を読むと、ラカンは若いころスピノザのエチカの構成を表す図面(色付の矢印つき)を部屋に飾っていたそうです。プルードンも『革命と教会における正義』で『エチカ』から引用していましたが(第5部定理20)、これは相互主義の理論的強化に役立つ部分でした。ラカンとプルードンのスピノザ理解(具体的にはラカンの飾った図はどのようなものだったのでしょうか?)も興味深いところです。