戦後81年 証言聞けない時代が目前に 今集める戦傷病者の声
炭鉱の掘削作業中に…
小野茂さん(左)と娘の壽子さん(右)
この夏、取材に応じてくれたのが、都内の特別養護老人ホームで暮らす小野茂さん(左)。
小野さんは太平洋戦争開戦前の1940年、当時の満州、現在の中国東北部を拠点としていた関東軍に入隊。
その後、現地で国策会社の南満州鉄道に移り、炭鉱の掘削に携わっていました。
記者
「戦争のこと、戦後のことについて、お話聞けますか」
小野茂さん
「戦争のこと、もうずいぶん古いわね。うーん…、なんか思い出せないね」
娘の壽子さん
「少なくとも5、6年前だったら、今よりはもうちょっと受け答えができたかな」
戦後、小野さんが国に提出した資料に、事故の状況が克明に記されていました。
「応急の血止めを施されたが、出血多量のため意識不明」
当時、日本軍は、不足していた燃料の増産を最重要課題とし、小野さんが勤務していた南満州鉄道の「撫順炭鉱」では、時間外勤務が常態化。
安全管理が不十分な労働環境の中、別の作業員の不注意で貨物車両にひかれたのです。
同僚の輸血でなんとか一命を取り止めたものの、24歳の若さで両足を失いました。
戦傷病者となった小野さんは、戦後、障害に苦労しながらプレス工として生計を立ててきました。
父から、戦時中のことは多くを聞かされませんでした。
娘の壽子さん
「やっぱり大変だったろうなと。よくここまで育ててくれたという感謝ですね」
証言の難しさ増すなかで…
戦後80年余りが経過し、小野さんのような戦争の悲惨さを直接知る「戦傷病者」の声は集めにくくなっています。
東京 千代田区にある国の史料館「しょうけい館」です。
20年前(2006年)に開館し、障害が残るなどした戦傷病者の証言や資料を集めてきました。
国が手帳を交付した戦傷病者の数は、2024年度に全国で1560人と、ピーク時の15万人余りと比べて100分の1ほどに減少しています。
また、東京都によりますと、都内ではことし(2026年)3月末の時点でわずか17人となっているということです。
7年前から証言の収集を担当していますが、この5年間、1人もインタビュー収録ができていません。
西尾拓海 学芸員
「ご存命でもなかなかお話を聞くことは難しい状況です。それでもやはり、可能性が一つでもあるなら残していかないと、永遠に失われてしまう情報があります」。
証言可能な戦傷病者が・・・
西尾さんはことし7月、戦傷病者の情報を知って埼玉県東松山市を訪れました。
満州で終戦を迎え、その後、シベリアに抑留されました。
マイナス50度にも及んだ極寒の中でも木の伐採作業などに従事し、凍傷のため右足の親指の一部を失いました。
西尾さんは史料館として記録に残すため、インタビューができる体力があるか、記憶が鮮明かを確認していきました。
関根忠良さん
「(シベリアで足を)切断することになったんですけど。歩いていて足をつまづくと、頭の芯まで(痛みが)響くんですね。兵隊とかよりも、シベリア抑留が一番つらかった」
西尾拓海 学芸員
「関根さんにとって、戦争というのはどういうものですか」
関根忠良さん
「もう、兵隊に行けば戦死すればいいんだ、と。戦争に行けば結局死ぬんだ、って。本当に命がけだったですね」
西尾さんは今しか語れない言葉を映像で残したいと感じました。
西尾拓海 学芸員
「自分が望まなかったところに連れて行かれてしまった、そのつらさをかなり感じ取れました。文字だけでは伝わらない情報が映像として残す資料の中にはありますので、証言を残していく意味があると思っています」
取材後記
学芸員の西尾さんが「関根さんにとって戦争とは何か」と尋ねた際、私は、関根さんから教訓のようなことばが返ってくるのかと予期しました。
しかし、関根さんは「戦争とは死ぬこと」と短く語りました。
これも戦地を実際に踏んだ元兵士の今しか聞けない「証言」だと感じました。
戦争の前線を知り、その後も後遺症や差別などに苦しんできた戦傷病者の証言は、戦争の悲惨さを現実のものとして私たちに突きつけてきます。
そうした肉声を直接聞ける可能性が残された最後の時代に私たちはいるのだと改めて感じました。
首都圏局 記者
兼清光太郎
2015年入局 札幌、帯広、前橋の各放送局を経て2025年より現職
