2026年8月9日日曜日

救済の星 1921



師のヘルマン・コーヘンはカント寄りだがローゼンツヴァイク自身はヘーゲル寄り(自然と論理が逆)。
デリダの近刊本★にシオニズムではないユダヤ教と書いてあったので読んでみたがこれならゾンバルトを読むべきだ。
シオニズムは救世主出現前に一箇所に集まるので敵に攻撃されやすく正統派ユダヤからは間違いだとされる。
ただそれだけのことだ。深刻な形而上学は必要ない。ゾンバルトの信用経済学理解は必須だが。
ただしそのヘーゲル譲りの哲学体系はそれでも興味深い。国土を必要としない神学・哲学体系ということか。
すべてはラスト③cのキリスト教とユダヤ教との差異に帰着する。


各巻巻頭の記号:
①△
②▽
③✡️

               /\
              /_門\
             星、永遠の真理
            /__\/__\
           /\③形態、あるいは
          /__永遠の超世界__\   
御国を     火、永遠の生\  /光線、永遠の道
祈りで得る可能性/__\/__\/__\/__\
       /\              /\
      /_移動  ローゼンツヴァイク /_敷居
     人間、メタ=   救済の星   /救済、未来
    /__倫理学_\        /__\/__\
   /①要素、あるいは\      /②軌道、あるいは\
  /__永続的な前世界_\    /つねに更新される世界\
 /神、メタ=  世界、メタ=  /創造、根拠  /啓示、誕生
/__自然学_\/__論理学_\/__\/__\/__\/__\
すべてを認識          奇跡を体験
 する可能性          する可能性



第1巻 要素、あるいは永続的な前世界
序論 〈すべて〉を認識する可能性について
第1章 神とその存在、あるいはメタ自然学
第2章 世界とその意味、あるいはメタ論理学
第3章 人間とその〈自己〉、あるいはメタ倫理学

移行

第2巻 軌道、あるいはつねに更新される世界
序論 奇跡を体験する可能性について
第1章 創造、あるいは事物の永続的な根拠
第2章 啓示、あるいはつねに更新される魂の誕生
第3章 救済、あるいは御国の永遠の未来

敷居

第3巻 形態、あるいは永遠の超世界
序論 御国を祈りによって手に入れる可能性について
第1章 火、あるいは永遠の生
第2章 光線、あるいは永遠の道
第3章 星、あるいは永遠の真理



訳者あとがき
事項索引
人名索引

敷居における本人の全体解説を図解:





言葉の眼 ――深淵と火山 (ちくま学芸文庫テ-2-10) 




第一次世界大戦につづく10年の間に、ドイツを中心に、その後の時代に多大な影響をあたえることになる本が続々刊行された。シュペングラー『西欧の没落』、プロッホ『ユートピアの精神』、カール・バルト『ロ−マ書講解』、ルカーチ『歴史と階級意識』、ハイデガー『存在と時間』。力点の違いはあれ、そこに共通しているのは、西欧近代への絶望と徹底した批判精神、そして世界終末観である。ここにもう一冊加えるとすれば、それが、ローゼンツヴァイク『救済の星』(1921)である。
「〈すべて〉についての認識はすべて死から、死の恐怖から始まる」。この文章から始まる本書は「第一巻 要素、あるいは永続的な前世界、第二巻 軌道、あるいはつねに更新される世界、第三巻 形態、あるいは永遠の超世界」から成る700頁に及ぶ大著である。そこに一貫しているのは、古代ギリシャに始まる西欧の伝統的思考にあるモノローグ的思考に代えて、対話の思考を復権することだ。ユダヤ的精神を援用しながら、神・世界・人間の関係を中心に徹底した思考が展開される。
「〈私〉は、〈君〉をみずからの外部にあるなにかとして承認することによってはじめて、つまりモノローグからほんとうの対話(ダイアローグ)へと移行することによってはじめて〈私〉となる。本来的な〈私〉は、〈君〉の発見においてはじめて声として聞きとれるようになるのである」ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と同様、第一次世界大戦下、志願兵として参加したバルカン戦線の塹壕のなかで着想を得て書きつがれた世紀の書を、88年後のいま、ここにおくる。

               /\
              /_門\
             星、永遠の真理
            /__\/__\
           /\③形態、あるいは\
          /__永遠の超世界/__\   
        火、永遠の生\  /光線、永遠の道
      祈り/__\/__\/__\/__\
       /\              /\
      /_移動 ローゼンツヴァイク  /_敷居
     人間、倫理学   救済の星   /救済、未来
    /__\/__\        /__\/__\
   /①要素、あるいは\      /②軌道、あるいは\
  /__永続的な前世界_\    /つねに更新される世界\
 /神、メタ\  /世界、論理学 /創造、根拠  /啓示、誕生
/__自然学_\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
すべてを認識          軌道
する可能性

               /\
              /_門\
             星、永遠の真理
            /__\/__\
           /\形態③あるいは/\
          /__永遠の超世界/__\   
        火、永遠の生\  /光線、永遠の道
   祈り/__\/__\/__\/__\
       /\              /\
      /_移動 ローゼンツヴァイク  /_敷居
     人間、倫理学\  救済の星   /救済、未来
    /__\/__\        /__\/__\
   /\要素①あるいは/\      /軌道②あるいは
  /__永続的な前世界__\    /つねに更新される世界
 神 自然学\  /世界、論理学 /創造、根拠  /啓示、誕生
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
すべてを認識          奇跡を体験する可能性

救済の星

DER STERN DER ERLOSUNG


https://www.msz.co.jp/book/detail/07459/


フランツ・ローゼンツヴァイク

Franz Rosenzweig

1886年12月25日、ドイツ(カッセル)の裕福なユダヤ人家庭に生まれる。フリードリヒ・マイネッケのもとでヘーゲルの政治哲学と歴史理論にかんするすぐれた論文を書き(のちに 『ヘーゲルと国家』1921として出版)、研究者としての未来を嘱望された。しかし、やがて西洋哲学に疑問を抱くようになり、みずからのルーツであるユダヤ教の意義を再発見する。第一次大戦末期の1918年に、兵士として派遣されていたバルカン戦線の塹壕のなかで突然霊感を受け、主著『救済の星』(1921)を執筆。1920年10月には、ユダヤ人の成人教育の機関である「自由ユダヤ学舎」を開校する。1921年には筋萎縮側索硬化症という難病に冒されるが、マルティン・ブーバーと旧約聖書の新しいドイツ語訳に着手する。1929年12月10臥 死去。


目次

第1巻 要素、あるいは永続的な前世界
序論 〈すべて〉を認識する可能性について
第1章 神とその存在、あるいはメタ自然学
第2章 世界とその意味、あるいはメタ論理学
第3章 人間とその〈自己〉、あるいはメタ倫理学

移行

第2巻 軌道、あるいはつねに更新される世界
序論 奇跡を体験する可能性について
第1章 創造、あるいは事物の永続的な根拠
第2章 啓示、あるいはつねに更新される魂の誕生
第3章 救済、あるいは御国の永遠の未来

敷居

第3巻 形態、あるいは永遠の超世界
序論 御国を祈りによって手に入れる可能性について
第1章 火、あるいは永遠の生
第2章 光線、あるいは永遠の道
第3章 星、あるいは永遠の真理



訳者あとがき
事項索引
人名索引


第一巻

要素、あるいは永続的な前世界

序論<すべて>を認識する可能性について

第一章神とその存在、あるいはメタ自然学

第二章 世界とその意味、あるいはメタ論理学

第三章 人間とその自己)、あるいはメタ倫理学

移行


第二巻

軌道、あるいはつねに更新される世界

序論奇跡を体験する可能性について

第一章創造、あるいは事物の永続的な根拠

第二章 啓示、あるいはつねに更新される魂の誕生

第三章 救済、あるいは御国の永遠の未来

敷居


第三巻 

形態、あるいは永遠の超世界

序論御国を祈りによって手に入れる可能性について

第一章火、あるいは永遠の生

第二章 光線、あるいは永遠の道

第三章星、あるいは永遠の真理


訳者あとがき

事項索引

人名索引

2026年8月8日土曜日

■元海自最高幹部が激白!日航機123便墜落事故「自衛隊が撃墜した」関与説の真相【東京オフレコヘッドライン#12】#須田慎一郎 #眞鍋かをり #長... まず、救助が遅れたこと自体が大問題。 さらにファントム目撃証言が複数あるがこれをどう解釈するか? 竹田さんはかなり真実に近づいている。 最近文章の形でリークされたフライトレコーダでは機長の「どんと行こうや」という評判の悪い発言が燃料廃棄の前の掛け声だということになっていてはじめて納得した。 闇は深いがこれを明らかにしないと日本の再生はない。

https://youtu.be/EHqdFBsoOzU?si=EFupEWOT0aCsfXQK まず、救助が遅れたこと自体が大問題。 さらにファントム目撃証言が複数あるがこれをどう解釈するか? 竹田さんはかなり真実に近づいている。 最近文章の形でリークされたフライトレコーダでは機長の「どんと行こうや」という評判の悪い発言が燃料廃棄の前の掛け声だということになっていてはじめて納得した。 闇は深いがこれを明らかにしないと日本の未来はない。

2026年8月7日金曜日

【ミサイル撃墜説】事故直後から現場で囁かれていた!? - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

【ミサイル撃墜説】事故直後から現場で囁かれていた!? - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

【ミサイル撃墜説】事故直後から現場で囁かれていた!?

「北朝鮮のミサイル」羽田で放たれた一言

1985年8月12日、日航123便墜落のその日、羽田空港には乗客家族が詰めかけていました。混乱の中、ある日航幹部が家族に向かって、こんな言葉を吐き捨てたといいます。「うちのジャンボは、北朝鮮のミサイルに撃ち墜とされた。今はそれしかわからない」。

この場面を最初に記録したのは、角田四郎氏の著書「疑惑」(1993年刊)です。角田氏は友人から聞いた話として紹介していますが、この発言者は、実は別の資料でも裏付けが取れます。

二つの本が指す同じ場面

2017年刊行の青山透子氏「墜落の新事実」には、遺族の吉備素子氏の証言として、当時の町田副社長が遺族の前で「北朝鮮のミサイル」という言葉を口にしたという記述があります。角田氏の本では匿名の「日航役員」だった人物が、20年以上あとに別の著者による独立した取材で、名前まで特定されて再び登場しています。

角田氏の本にはさらに、自衛隊員を名乗る差出人からテレビ局や新聞社、日航本社にまで怪文書が届いた話も出てきます。内容は「相模湾にいた護衛艦『たかちほ』から発射された対空ミサイルが日航機に当たった」というものでした。角田氏自身も、現場で拾った金属片を米軍関係者に見せたところ「たぶんミサイル」と言われた経験を明かしています。

テレビで語った航空評論家の指摘

事故の年、TBSテレビで「航空自衛隊の無人標的機が垂直尾翼にぶつかった可能性もある」と発言していたのが、航空評論家の関川栄一郎氏。この発言は角田四郎氏の著書『疑惑』に、「サンデー毎日」1985年9月8日号を出典として記されています。

関川氏は「航空情報」誌の編集に長く携わり、日航広報とも太いパイプを持つ業界屈指のベテラン評論家として知られていました。その関川氏がテレビの全国放送という公の場で標的機衝突説を明言していた事実は、無視できない重みを持ちます。なお『疑惑』の本文中には一カ所だけ「関川一郎」という表記がありますが、それ以外はすべて「関川栄一郎」であり、これは誤植で同一人物を指すとみて間違いありません。

なぜ「ミサイル」という言葉がすぐ出たのか

これらのことから当時を知る世代には、この発想はそれほど突飛ではなかったのかもしれません。日航123便墜落のわずか2年前、1983年には大韓航空機撃墜事件が起きおり、ソ連領空を侵犯した民間機がミサイルで撃墜され、乗員乗客全員が犠牲になり、世界中に大きく報じられました。

国際情勢の記憶がまだ生々しいなかで起きた日航機の墜落に居合わせた人たちが真っ先に「ミサイル」という単語を思い浮かべたとしても、不思議はありません。

Udo K. Haafke - https://www.airliners.net/photo/Korean-Air-Lines/Boeing-747-230B/2377142/L, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84942696による

1986年、整備士たちの間でも

翌1986年刊行の吉岡忍氏「墜落の夏」第六章「巨大システムの遺言」には、また別の角度からの証言が残っています。事故原因をめぐる聴聞会が難航するなか、日航の整備担当者やエンジニアたちの間では、「垂直尾翼が先に何らかの理由で破壊され、それがきっかけとなって隔壁破壊に至ったのではないか」という、事故調査委員会の公式シナリオとは順番が逆の「破壊の物語」が、まことしやかに語られていたといいます。吉岡氏は当時の状況を、原文でこう記しています。

「じつは機の外側から隕石があたったとか、自衛隊か米軍の演習の標的物が衝突した、と事故直後に考えた説も、金属疲労から発生した亀裂もあったにしても、隔壁に修理ミスはあったし、突拍子もないとして排除する根拠はないのだ……。」

隕石説にせよ、自衛隊機や米軍機の演習標的説にせよ、著者自身が「排除する根拠はない」と明言している点は見過ごせません。吉岡氏はこれらの説を積極的に支持する立場で書いているわけではなく、あくまで当時整備関係者のあいだで交わされていた「破壊の物語」の一例として紹介に徹しています。またこの書籍は1987年には第9回講談社ノンフィクション賞を受賞してもいるのです。

事故からまだ1年足らずというごく早い段階で、日航社内の整備担当者やエンジニアたちがこの種の仮説を頭から否定しているわけではなく、ノンフィクション作家である吉岡氏自身もそれを「突拍子もない」の一言で切り捨てなかったことは、押さえておくべき事実です。垂直尾翼や補助動力装置の破片があまりにも少なく回収できなかったために、外部から何かが衝突した可能性を完全には否定できない、という技術者たちの率直な戸惑いが、この一文の背景にあります。

青山氏がゼロから作った説ではない

ここまでの流れを整理すると、ミサイルや標的機が日航機に何らかの影響を与えたのではないか、という疑いは、1985年の事故当日から1986年にかけて、遺族の周辺や日航社内という「現場に近い場所」で既に語られていたことがわかります。青山透子氏が「海上自衛隊ミサイル撃墜説」を世に問うたのは2010年代以降ですが、ゼロから作り上げた物語ではなく、長らく散発的に語られてきた疑念を拾い上げ、一つの仮説として組み立て直した、というのが実態に近いようです。

この経緯を踏まえたうえで次の記事では、真殿知彦氏と青山氏が正面から対立している技術的な論点、「異常外力の着力点」を検証していきます。

参考・出典

青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、2017年)ほか一連の著書

角田四郎『疑惑』(早稲田出版、1993年)

吉岡忍『墜落の夏』(新潮社、1986年)

【実は撃墜できた?】AIM-9というミサイル - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

【実は撃墜できた?】AIM-9というミサイル - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

【実は撃墜できた?】AIM-9というミサイル

真殿氏が検証した4つ、検証していない1つ

真殿知彦氏は著書『日航123便墜落「撃墜説」の真相』の中で、青山透子氏が唱える海上自衛隊ミサイル撃墜説を、開発年表や部隊運用の記録に基づいて検証し、主に次の4点を根拠に退けています。

・SSM-1(国産ミサイル):護衛艦から発射するために必要なIFUの開発が、事故後の昭和61年度にようやく始まったばかりで、事故当時は発射できなかった
・標的機:運用できる唯一の訓練支援艦「あづま」が、事故当日その海域にいなかった
・ファントム機の機銃:有効射程や照準の面で、命中させるのは無理がある
・対地ミサイル:当時のファントム機にそもそも装備されていなかった

ただし、この反論の中に空対空ミサイルへの言及はありません。

今回は、とある自衛隊関係者の方から、JAL123便のようなジャンボ機のエンジンを撃ち落とせるミサイル候補として、AIM-9(サイドワインダー)を教えていただきました。AIM-9とはどのようなミサイルなのか、1985年当時の装備状況や関東地域の防空を担っていた部隊などをまとめます。

AIM-9(サイドワインダー)とは

導入の経緯

サイドワインダーは1956年に米海軍で実戦配備された赤外線誘導式空対空ミサイルで、同年中に米空軍も採用。航空自衛隊は1956年からF-86Fの国産(ライセンス)生産を開始していますが、この時期からAIM-9B系のミサイルが米国側から供与され、F-86F、後継のF-104Jに搭載される形で導入が進みました。なお日本では、AIM-9Bを参考に国産化した69式空対空誘導弾(AAM-1)も並行して開発されています。

McDonnell Douglas F4J Phantom II US Navy "Showtime 100" AIM-9 Sidewinder pair

CC BY-SA 2.0(撮影者 Bill Abbott)

その後、F-4EJファントムの導入とともにAIM-9E/P系が、F-15Jイーグルの配備(1981年度から部隊化開始)とともに第3世代のAIM-9Lが主力となりました。AIM-9Lは1976年から生産が始まり、米国(フィルコ・フォード、レイセオン)、西独などに加えて日本の三菱重工業も国際共同生産に参加し、ライセンス生産を行っています。1980年代の航空自衛隊向けAIM-9Lは、輸入品と国内生産分の両方が供給されていたことになります。

1985年前後の装備状況

※画像は米海軍のF-4J(参考画像、航空自衛隊機ではありません)

1985年当時は、F-104J(旧式)からF-15Jへの機種転換が進行している過渡期であり、百里基地の第204飛行隊は1985年3月2日にF-104J部隊からF-15J部隊として再編成されています。この時期、
F-15J部隊はAIM-9Lを
現役のF-4EJ部隊はAIM-9E/Pを
まだ残っていたF-104J部隊はAIM-9B/E系を
装備するという、複数世代のAIM-9が機種ごとに混在していた
状況です。ただし、具体的な保有弾数など定量的なデータは今回は見つけられませんでした。

関東地区の部隊

関東地域の防空(対領空侵犯措置)を担当していたのは、茨城県の百里基地に司令部を置く第7航空団であり、1985年前後の隷下部隊は以下の通りです。

ポイント

第204飛行隊は、新田原基地でF-104Jを運用していたが1985年3月に百里基地へ移転・改編し、航空自衛隊3番目のF-15J部隊としてAIM-9Lを装備、首都圏防空を担う
第305飛行隊は1979年からF-4EJで対領空侵犯任務に就いており、1985年時点でもF-4EJ(AIM-9E/P装備)のまま運用を続け、1994年にF-15Jへ転換

両飛行隊とも第7航空団(百里基地)隷下です。1985年8月12日の事故当時、百里基地の司令を務めていたのは15代目の岩村昭良氏でした(在職期間1984年3月2日〜1986年4月1日)。

真殿氏はAIM-9をどう考えるのか

真殿知彦氏は著書『日航123便墜落「撃墜説」の真相』の終章で、青山透子氏の撃墜説を「陰謀論と呼ぶにも値せず、デタラメという言葉の方がしっくりくる」と断じています。根拠は、SSM-1・標的機・機銃・対地ミサイルのいずれも1985年当時の装備状況や部隊運用記録と矛盾するという、開発年表に基づく技術的反論です。

ただし書籍全体を確認しても、AIM-9という型番、航空機搭載の空対空ミサイルという選択肢への言及はほぼありません。第5章の「AAM(Air to Air Missile 空対空ミサイル)」という用語解説の一文はありますが、候補としてAIM-9が検討されたようには見えません。真殿氏が実際に検討しているのは護衛艦搭載の艦対空ミサイル(シースパロー・ターター)で、射程の短さを理由に退けていますが、これは戦闘機搭載のAIM-9とは別の兵器です。

シースパロー(RIM-7)発射の様子(画像はイメージ、米海軍艦艇) ※出典:U.S. Navy photo

真殿氏はYouTubeチャンネル「ワタナベケンタロウ」に2回出演し(2026年3月7日、2026年7月19日)、青山氏への反論を語っていますが、ここでも「AIM-9」は出てきません。7月19日の回では「ミサイル説は標的機説より後に出てきたもの」として退けるにとどまり、3月7日の回もフレアの一般的な説明にとどまり、赤外線誘導ミサイルがJAL123便に使われた可能性そのものを検討した発言は確認できませんでした。

ただし、これはあくまで著書と2本の動画での話であり、真殿氏が他の場で空対空ミサイルについて発言している可能性は残っています。

残る疑問

AIM-9は、SSM-1・標的機・機銃のように「そもそも発射できない」という技術的な壁がありません。赤外線誘導ミサイルは元々ジェットエンジンの熱源を追尾するために作られた兵器で、747のエンジンはむしろ戦闘機より熱源が大きく捕捉しやすい標的でもあり、性能の面だけで言えば、否定しにくい候補ではないでしょうか。

ただし、その可能性は「実際に撃墜した」ことの証拠にはなりません。今回分かったのは装備の存在と配備の事実だけで、次の点は依然として不明のままです。

・動機・命令系統:誰が、なぜ発射したのか
・レーダー・管制記録による発射や異常接近を示す痕跡は不明
・事故調査報告書のエンジン残骸分析で爆風・破片痕はどうなのか
・目撃証言に限られる

外部からの爆風・破片による損傷なのか、樹木への接触による損傷なのか、報告書の記述と突き合わせる必要があり、この点はまだ検証できていません。

まとめ

1985年当時、F-15J部隊はAIM-9Lを、F-4EJ部隊はAIM-9E/Pを装備しており、いずれもジャンボ機のエンジンを破壊できる性能を持つミサイルだったと考えられます。関東地域の防空を担っていたのは百里基地の第7航空団で、その司令官は15代目・岩村昭良氏でした。真殿氏の反論がこの候補に触れていない以上、AIM-9という選択肢がどう評価されるべきかは、まだ開いたままの問いです。引き続き調査を続けます。

参考・出典

Wikipedia「サイドワインダー(ミサイル)」
Wikipedia「第7航空団」歴代の第7航空団司令(空将補)一覧
航空自衛隊 第204飛行隊・第305飛行隊沿革に関する各種資料
【存在しないミサイル】青山氏vs真殿氏の争点
【日航機墜落事故195】まさかの検証。インタビューで明らかになる真殿氏の証言(ワタナベケンタロウ、2026年3月7日)
【日航機墜落事故201】驚きの新事実。真殿知彦氏が語る。(ワタナベケンタロウ、2026年7月19日)