2026年7月19日日曜日

賽の河原


地蔵和讃の中にある、賽の河原の和讃が全文掲載されている資料はありますか。
回答
地蔵、賽の河原、恐山、御詠歌などに関する資料を確認しましたところ、以下の資料に賽の河原の和讃が出ていました。
なお「歌謡文芸には空也上人作と伝えられる『西院河原(さいのかわら)地蔵和讃』を初めとして、賽の河原の地蔵尊を讃歎した和讃だけでも十二種を数え…」(『地蔵信仰』桜井徳太郎編 雄山閣出版 1983 387/Sa47)とあるように、以下の資料に出てくる賽の河原の和讃にはそれぞれ若干違いがあります。
(1)『下北・神仏との出会いの里』(加藤敬写真・文 平河出版社 1992 387/Ka86)p143~144に「西院の河原稚児御和讃(さいのかわらおさなごごわさん)」あり ※ご紹介するなかでは一番長い和讃と思われます。
(2)『地蔵菩薩』(望月信成著 学生社 1989 186/Mo12)p132~133に「賽の河原和讃」あり
(3)『霊場恐山と下北の民俗』(森勇男著 北の街社 1995 382/Mo45)p68~70に「西院の河原稚児御和讃」あり ※(1)を一部省略したものと思われます。
(4)『地蔵信仰』(速水侑著 塙書房 1975 385/H47)p153~155に「賽の河原の和讃」あり

地蔵和讃

空也上人(900年頃)『西院河原地蔵和讃さいのかわらじぞうわさん)

帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」
という実に哀れな文句で、「地蔵和讚」は始まるわけであるが、可哀想に十にも足らぬ幼子が、賽の河原で苦しみを受けている。昔は父や母にあれほど大切にされたのに、いまは、河原に明け暮れ野宿して、雨の降る日は雨にぬれ、雪の降る夜は凍えて苦しんでいる。「哀れなるかな幼児が立ち回るにも拝むにも、ただ父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、この世の声とは事変わり、悲しさ哀れさ骨も身も、砕けてとおるるばかりなり」
しかし、親は子の苦を知らずに、追善供養ばかりして、
「残せし着物見ては泣き、手遊び見ては思いだし、健全な子供を見るにつけ、なぜにわが子は死んだかと、嘆き悲しむ哀れさよ」
というわけである。
死んだ子供の方がはるかに分別があり、
「子は河原にてこの苦労、一重積んでは父の為、二重積んでは母様と、さもいとけなる手を合わし、礼拝廻向ぞしおらしや、三重積んでは古里の、兄弟我が身と廻向する。」ということになる。しかし夜になると地獄の鬼が来て、二重に子供を責める。
「やい、子供、汝らは何をする、娑婆と思いて甘えるか、娑婆に残りし父母は、追善供養いたせども、ただ明け暮れの嘆きには、酷や悲しや不憫やと、親の嘆きは汝らが、苦げんを受くる種となる」
と、むしろ鬼は子に向かって、その親のめめしさ情けなさを責めるのである。
子の親を責めるとともに、鬼は再び子を責める。
「汝ら罪なく思うかや、(母の乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を言い、また父が抱こうとしたとき、母の胸を離れようとしなかったではないか)」
と鬼は幼児の罪をせめる。いま幼児はこの愛情に対して、こたえなかった罪の報いを受けようとするのである。
「峰の嵐の吹くときは、父が呼びしと起き上がり、水の流れを聞くときは、母が呼ぶかとはせ下り、あたりを見れど母もなし、父を呼べども父も来ず、母を呼べども母とても、知らぬが死出の山路なり、この苦しみをいかにせん、こけつまろびつ憧れて、逢いたや見たや恋しやと、もだへ嘆くぞ哀れなり」
ここで地蔵が登場する。そして子供に、汝ら命短くして冥土の旅に来たけれど、今後はわれを冥土の父母とたのめと言って、幼きものを裳の内にかきいれて、抱きかかえるのである。  

この「地蔵和讚」こそ、我が国で作られた和讚のうちの最高の傑作であり、文句もふしもその後の日本の浄瑠璃や小唄などに大きな影響を与えたものであろう。
子供のことが忘れられない親たちに、親の悲しみはエゴイズムに基づき、子供はかえってそんなに親が悲しむ限り成仏できないことを説いて親の悲しみの感情を否定するとともに、同時に親に対して、無罪であるかに見える子の死も、決して無罪ではなく、子は子としての罪があったことを教えて、無罪の子に対する親の不憫な心を静めるという二重の意味を持つのであろう。こうして、二重のあきらめを説きつつ、最後に地蔵菩薩という仏を登場せしめて、現世において子をはぐくむ役を、すべて地獄においては地蔵に委託することにより、この親は子供の不憫の思いから自由になって安心を得るというわけである。



多賀 康晴/立山における地蔵信仰(2)

富山県[立山博物館]
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2017/3/31 -『西院(賽)河原地蔵和讃』の詞章によると、賽の河原に集まった幼児等らは、娑婆の父母兄弟のために. 塔を積んで回向をしている。 小石の塔を造るのは、『 ...












石積み(積み石)の意味とは?崩すとどうなる?
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石積み(積み石)の意味とは?崩すとどうなる?

神社や河原に行くと、石積みをみつけることがありますよね。

石積みにはどのような意味があるのでしょうか?

誰かがやった石積みを崩すとどうなるのでしょうか?

今回は石積みについてわかりやすく解説します。

目次
  1. 石積みの意味と目的とは?
  2. 石積みの由来
  3. 賽の河原と石積み
  4. 実在する「賽の河原」
    1. 恐山(青森県むつ市)
    2. 賽の河原(新潟県佐渡市)
    3. 加賀の潜戸(島根県松江市)
  5. 石積みを崩すとどうなる?

石積みの意味と目的とは?

読み方は「いしづみ」です。

「積み石(つみいし)」とも言います。

石積みは日本各地で行われている風習です。

主に神社やお寺、河原、山道などで石積みが行われています。

石積みは、石を積み上げながら願掛けや供養などをすることです。

願掛けの内容としては、

  • 安全祈願
  • 安産祈願
  • 健康長寿
  • 学業成就
  • 家内安全
  • 厄除け
  • 恋愛成就
  • 商売繁盛

などさまざまです。

また、山道では道標(みちしるべ)の役割を果たす場合もあります。

最近はさまざまな形の石を絶妙なバランスで積み上げる「ロックバランシング」と呼ばれる、石積みアートがあります。

ロックバランシング

石積みの由来

石積みは古くから行われてきた風習ですが、いつ始まったのか、最初から願掛けや供養を目的としていたのかなど、詳しいことは分かっていません。

日本では古来より、山や川、木、岩などの自然物を神として信仰する自然崇拝の考え方がありました。

そういった背景の中で、石を神様として信仰し、石を積み上げて願い事をする風習が生まれたと考えられています。

石を信仰

供養を目的とする石積みは、石を積み上げて供養塔を作ったことが始まりではないかといわれていますが、詳しいことは分かっていません。

誰かが始めた石積みを、他の人が真似するうちに、やがて自然発生的に石積みの風習が広まり、次第に願掛けや供養の意味が込められるようになった、という説もあります。

賽の河原と石積み

「石積み」といえば賽の河原(さいのかわら)を思い浮かべる人も少なくないでしょう。

仏教では、人は亡くなった後に三途の川(さんずのかわ)を渡りますが、賽の河原は三途の川の手前にあるといわれています。

賽の河原とは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが行く場所です。

仏教では、親より先に死ぬのはとても親不孝なことで、大きな罪だと考えます。

そのため、子どもたちは三途の川を渡ることができず、罪滅ぼしや両親の幸せを願って賽の河原で石を積み塔を作るのです。

賽の河原の鬼と子ども

石を高く積み上げても、地獄の鬼がやってきて壊してしまいます。

石積みをしたら壊され、また最初から石積みをして壊され、また石積みをして・・・と何度も何度も繰り返します。

この様子から、現代では「賽の河原」という言葉が「いくら努力しても報われない」「徒労の繰り返し」を表す慣用表現としても使われています。

鬼はいじわるで石積みを壊しているのではなく、子どもの願いが両親に届いていないから壊しているのだといわれています。

両親が我が子を亡くしたことで苦しみ続けているうちは、怖い鬼が石積みを壊し続けるのですが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われ、成仏することができるといわれています。

三途の川の詳細についてはこちらをご覧ください。

関連:三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?

実在する「賽の河原」

「賽の河原」という名がついた場所が日本各地に実在します。

いずれも亡くなった子どもの供養の場として知られており、小さな石が積まれ、地蔵菩薩像が置かれています。

恐山(青森県むつ市)

日本三大霊場の一つ。今も火山活動が続く荒涼とした景観が広がり、硫黄臭が漂います。

境内に賽の河原があり、無数の石積みと、子どもへの供養として供えられた風車(かざぐるま)がカラカラと回る光景が印象的です。

賽の河原(新潟県佐渡市)

佐渡島北西部の海岸にある海蝕洞窟が賽の河原とされています。

洞窟の中には多数の地蔵が置かれ、石積みが並んでいます。

毎年、水子の霊を供養する「賽の河原祭り」が行われています。

加賀の潜戸(島根県松江市)

島根半島にある海中洞窟で、旧潜戸の奥(奥行き約50m)が賽の河原とされています。

亡くなった子どもが愛用していた玩具や衣服、履物などが供えられ、何世代にもわたって石が積み上げられてきた場所です。

「出雲国風土記(733年)」にも記載される歴史ある場所です。

石積みを崩すとどうなる?

石積みは、安全祈願や幸運などの願掛け、供養や成仏を願うなど、誰かの願いが込められたものです。

ですから、それを崩すことは縁起が悪いされており、意図的に石積みを崩すことで「罰が当たる」とか「運が悪くなる」と考えることもあります。

「祟りがある」といった俗信もありますが、科学的根拠はありません。

また、道標として積まれたものは、崩すことで登山者が間違った道に進む危険性があります。

石積みは崩したりせずそのままにしておきましょうね。

石積みは日本各地で行われている風習です。

登山の安全祈願や、山で亡くなった人を供養するために石積みをすることもあり、同じ場所の石積みでも目的が違う場合があります。

誰がどのような目的で石積みをしたのかはわかりませんが、なにかの願いを込めて石積みをしているのですから、意図的に崩すことは避けましょうね。

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三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?
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三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?

三途の川の三途の意味

人が亡くなったあと、あの世へ行くために「三途の川」を渡るといわれています。

「三途」にはどのような意味があるのでしょうか?

またその時、「六文銭」が必要といわれていますが、なぜなのでしょう?

お金がないと三途の川を渡ることができないのでしょうか?

もしも渡れなかったら、人はどこへ行くのでしょう?

今回は、私たちも死後に渡ることになるかもしれない三途の川について解説します。

目次
  1. 三途の川の三途の意味とは?
  2. どうして六文銭が必要なの?
  3. 石積みって何?

三途の川の三途の意味とは?

「三途の川」の読み方は「さんずのかわ」です。

三途の川は、仏教に由来しており、此岸(しがん・現世)と彼岸(ひがん・あの世)の境目にあり、人が死ぬと7日目に渡るといわれています。

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渡る場所が3カ所あることから、三途の川といわれています。

 三途の川

善人は「金銀七宝で作られた橋」を渡るといわれています。

軽い罪人は「山水瀬(さんすいせ)」と呼ばれる浅瀬を渡るといわれています。

重い罪人は「強深瀬(ごうしんせ)」と呼ばれる深瀬を渡るといわれています。

このとき、生前の罪の重さによって、渡る場所が決まります。

強深瀬は、流れが急で、波も高く、上流から岩が流れてきて罪人の体を打ち砕くそうです。

打ち砕かれてもすでに死んでいるので体は修復され、また打ち砕かれ、修復され・・・そして、川の底には大蛇が住んでいるので食われることもあるという、とても恐ろしい場所なのだそうです。

さらに、川を渡れずに途中で流されてしまったら、そのまま地獄へ行くとも考えられており、重い罪人の多くは渡れずに地獄へ行くといわれています。

どうして六文銭が必要なの?

六文銭

三途の川のほとりには、衣領樹(えりょうじゅ)という大樹があり、そこには奪衣婆(だつえば)懸衣翁(けんえおう)という老夫婦の鬼が住んでいます。

三途の川を渡る前に、奪衣婆に衣類をはぎ取られ、懸衣翁が衣領樹にその衣類をかけると、生前の罪の重さがわかるといわれ、その罪の重さによって三途の川のどこを渡るのかが決められます。

奪衣婆に衣類をはぎ取られる

しかし、江戸時代ごろには六文銭を持っていれば衣類をはぎ取られることはなく、罪の重さで渡る川を決められることもなく、善人が渡る橋を渡って行けると考えられるようになりました。

六文銭はお賽銭と考えられ、生前の罪を反省し、仏に帰依し、信心します・・・という証に六文銭を納めることによって、地獄に落とされることなく三途の川を渡れるといわれています。

印刷した六文銭

現在は六文銭は使われていないお金ですが、六文銭を印刷した紙を副葬品として棺にいれる習慣が残っています。

石積みって何?

石積み

三途の川には、賽の河原(さいのかわら)という場所があります。

ここは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが集まる場所です。

親よりも先に死ぬことはとても親不孝なことで、それは大きな罪であるといわれています。

そのため、子どもたちは両親の供養のために石を積んで塔を作ります。

それが罪滅ぼしでもあるのです。

しかし、塔が高くできると鬼がやってきて壊してしまい、また最初から作りなおします。

作っては壊され、作っては壊され・・・このことから「無駄な努力のたとえ」として「賽の河原」が使われることもあります。

どんなに石を積んでも鬼によって壊されてしまいますが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われるといわれています。

石積みの塔を壊す鬼

人は誰でも最後は死にます。

死んだあとのことは誰にもわからないのが現実ですが、仏教徒の多い日本では三途の川や賽の河原のお話を知っている人はたくさんいますね。

日本では、石積みをして死者を供養する習慣が各地にあります。

子どもが親のために石積みをするだけではなく、幼くして亡くなった子どものために親が石積みをしたり、海難事故で亡くなった人たちのために海辺を訪れた人が石積みをしたりします。

もしも石で作られた塔を見かけても、壊したりしないでくださいね。

関連:お地蔵さんってどんな意味があるの?なぜ赤いよだれかけをしているの?

関連:六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の意味とは?

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三途川

懸衣翁・奪衣婆

三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁奪衣婆という老夫婦の係員がおり、亡者が来ると着ている衣服を剥ぎ取り裸にしてしまう。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。

賽の河原

三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みのを完成させると、供養になる。しかし完成する前にが来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。

賽の河原は、京都鴨川桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。

中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった[4]。また明確に参詣地であった例もあり、近世町役人による文久3年(1863年)の記録に「サイの河原地蔵へ参詣す」(静岡県富士宮市)と記される例などがある[5]

この伝承から、が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山青森県)のほか、新潟県佐渡北部 (地区)[6][7]島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。


2026年7月18日土曜日

【日航123便御巣鷹山墜落事故】真実の最前線: 小平尚典が38年前に見たものhttps://youtu.be/ku2BuhhqSc8?si=D6Ww5FF5am_AzbWq

生存者に男の子がいた?は本当なのか - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

生存者に男の子がいた?は本当なのか - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

生存者に男の子がいた?は本当なのか

1985年8月12日に起きた日航機墜落事故の現場で、13日の墜落現場の様子を写真家の小平尚典さんが写真集や動画にのこしています。その中の一枚、自衛隊員が幼い男の子を抱きかかえて運ぶ写真について、SNSで「生存者の男の子ではないか」という声があり、その事実関係を確認します。

SNSで広まった説明

この投稿では「自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、自衛隊員によって死体置場に運ばれていく様子」とあります。写真だけを見ると、男の子が自分の意思で顔を隠しているようにも見え、「もう一人生存者がいたのでは?」「生存者に男の子もいたよね?」と受け止める人も出てきました。

手記にある「今にも動き出しそうな少年」

小平尚典さんは著書『4/524』の中で、救出劇のあとに行われた遺体収容作業について、次のように記しています。
今にも動き出しそうな少年、幼い少女、サラリーマンであろう半袖の開襟シャツ姿の男性、座ったままのブルーの座席とシートベルトが痛々しい」
この一文があるのは、生存者救出の場面ではなく、遺体収容を描いた段落です。

この写真の男の子は、この「今にも動き出しそうな少年」そのものと見られます。体に欠損もなく衣服も乱れておらず、目立った外傷も少ないため、パッと見ただけでは生きているように映る、それが生存者と誤解される一因になったようです。つまりこの男の子は、写真を撮影した時点ですでに息を引き取っていたということです。

この↓動画には小平さんご本人が登場し、この男の子の写真についても解説しています。動画の11分59秒~※動画をクリックするとちょうど11分59秒~始まります。

当時『アサヒグラフ』を読んでいた人の書き込み

この写真をめぐっては、以前から同様の指摘が寄せられています。2010年、当時の報道を知る人物がインターネット上の掲示板には次のようなコメントもありました。
「これ間違いなく死体ですよ。当時『アサヒグラフ』臨時増刊号で、生々しい事故現場写真と死体写真いっぱい見ましたが、こうやって運ばれる子供の死体写真もありました。すでに息切れてると思います」
掲示板はこちら

さらに「自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が」という説明について、「それはちょっと余りに深読みしすぎです」とも指摘しています。事故直後に発行された『アサヒグラフ』臨時増刊号を実際に見た人物の書き込みだけに、重みがあります。

生存者は4人、全員が女性

日航機墜落事故の生存者は4人です。吉崎博子さん、美紀子さん母娘、客室乗務員の落合由美さん、そして川上慶子さん。4人とも女性で、男の子の生存者は記録されていません。最後に救出された川上慶子さんは当時12歳。救助隊員が一瞬「少年」と見間違えたという記述も手記に残っています。この事実からも、男の子の生存者がいたという説明は成り立ちません。

1-9歳の男の子は合計21人

当時の乗客名簿を確認すると、1〜9歳の男の子だけで21人が搭乗していたことがわかります。年齢別に見ると次の通りです。

1歳:2人(宗典、祥)
2歳:2人(忠祐、顕光)
3歳:3人(啓介、大樹、智晶)
4歳:2人(論、学)
5歳:2人(陽之介、昌洋)
6歳:3人(直也、健人、勇太)
7歳:2人(潤、佐幸)
8歳:3人(竜太郎、佳幹、秀倫)
9歳:2人(充芳、美谷島健)

1〜9歳という、楽しい未来がたくさんあったはずのこの男の子たち21人も、全員が犠牲になっています。本当に痛ましいことです。

歳月が変えてしまう記憶

こうした記憶のずれは珍しくありません。SNS上には「生存者は5人だった」「救出された男の子には耳に特徴があった」といった投稿も見られますが、これも悪意ある情報操作ではなく、41年という歳月が記憶を変えてしまった一例でしょう。当時の映像や新聞を強烈に覚えているからこそ、細部の記憶が本人の中で像を結び直してしまう。それが積み重なり、事実と異なる「記憶」がSNS上で共有されていきます。

まとめ

写真に写っていたのは、墜落事故で亡くなった子どものご遺体でした。痛ましい写真ですが、正確な経緯を知ることこそ、犠牲になった方々への敬意につながるはずです。

参考・出典

小平尚典 写真集『4/524 日航123便御巣鷹山墜落事故写真集』

阿修羅掲示板 投稿コメント(2010年)
小平尚典氏 YouTube動画

2026年7月15日水曜日

誓約

 


  【阿波で読解く】神域 眉山の秘密・誓約の謎編(徳島県)  神社ねこ


https://rekishi-love-history.blogspot.com/2024/02/blog-post_76.html


全日本人の常識が覆る〝阿波・起源説〟がヤバすぎる!?古事記の内容は全て「徳島」だった可能性があります。 https://youtu.be/twdMicJpoK4?si=Nl2FwQw2nNnx3ysK @YouTubeより

般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022

般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022

般若心経の「一切」 2022年3月7日


ある日、お客様からお問い合わせがありました。

名筆五体般若心経」の中に、中ほどを過ぎたあたりの「遠離一切顚倒夢想」(一切の顚倒せる夢想を遠離し)が「遠離顚倒夢想」(顚倒せる夢想を遠離し)になっているものがあるのはなぜですか?

で、思い出しました。

かつて比田井南谷が空海の字を集めて般若心経を作っていたとき、「遠離一切顚倒夢想」の「一切」を入れるべきかどうか迷っていたことを。

通常、読経や写経に用いられる般若心経には、この「一切」が入っています。

しかし、書の名品として伝えられる般若心経の中に、「一切」が入っていないものもあります。

どういうことなのでしょう。

調べてみました。

般若心経を最初に翻訳したのは鳩摩羅什(くまらじゅう)で、402年頃とされています。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は629年にインドに旅立ち、たいへんな困難を乗り越えて645年に帰国しました。

おびただしい数のサンスクリット語経典を持ち帰りましたが、その漢訳事業を称えて建てられたのが「集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)」碑(672年)です。

唐の太宗が敬愛していた王羲之の筆跡を集めて作られています。

行書を学ぶためになくてはならない古典です。

末尾に般若心経が刻されていますが、「一切」は入っていません。

日本ではどうでしょう。

日本で書かれた般若心経の中で、もっとも古く、そして有名なのは「隅寺心経(すみでらしんぎょう)」であると言われています。

空海筆と伝えられていますが、実際には奈良時代に書かれたと推定されています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」が入っています。

なぜ?

書作品としての般若心経は、楷書だけでなく行書、草書、篆書、破体書など、さまざまの書体で書かれ、見ごたえのあるものも珍しくありません。

そこで今回は、この「一切」の有無にも注意しながら、いろいろな般若心経の名品を見ていくことにしましょう。

欧陽詢般若心経

まずは中国唐時代の人、欧陽詢が書いたと伝えられている「楷書・般若心経」です。

「化度寺碑(けどじひ)」を思わせる端正で美しい楷書です。

実は玄奘が般若心経を翻訳したとき、欧陽詢はすでに他界していたので、筆者は欧陽詢ではありませんが、いろいろな法帖に刻された有名な作品です。

(上に掲げたのは単帖から採ったもの)

全文260字がバランスよくおさめられています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」はありません。

劉石庵般若心経

劉墉(りゅうよう・1719〜1804)は清代中期の人。

彼は常に濃墨を使って渾厚な書を書き、「綿の中に鉄を含むようだ(楊守敬)」と評されました。

比田井天来も近代中国ではもっとも高く評価しています。

行書と草書が混ざった、濃厚な趣をもつ般若心経です。

やはり「一切」は書かれていません。

続いて篆書です。

鄧石如(とうせきじょ・1743〜1805)は清代に秦漢およびそれ以前の文字を徹底的に研究し、三国以降すっかり衰えてしまった篆隷をよみがえらせました。

彼はことさらに奇をてらうことなく、篆隷に限らずオーソドックスな書を書きました。

この「般若心経」は61歳、亡くなる前々年の書で、伸びやかな線による堂々とした篆書です。

ここにも「一切」はありません。

呉昌碩(ごしょうせき・1844〜1927)は石鼓文(せっこぶん)の研究によって、新しい篆書のスタイルを作り上げました。

篆刻に優れ、傑作を数多く残しています。

伏見冲敬先生の解説を引用します。

末に呉昌碩の識語(しご)があり、かつて鄧完白(とうかんぱく・完白は鄧石如の号)の篆書心経八幀を見て服膺(ふくよう)之(これ)を久しうしたと書いてあり、かれが鄧完白の作品を頭において書いたにちがいない。

(中略)

鄧氏のは立派な小篆なので、呉昌碩は同じことはやりたくないので、自分の得意な石鼓文の風をとりいれて書いた。

「自ら視て尚ほ悪態なし」といっているが、まことにこれは呉氏の生涯でも傑作の一つである。

文句なしに篆書の基礎手本として精習すべきものである。

ここにも「一切」は書かれていません。

以上、中国の作品には「一切」は書かれていませんでしたが、日本の書はどうでしょうか。

一つの作品が数種類の書体で書かれていることを「破体(はたい)」とか「雑体(ざったい)」と呼びますが、上は楷書、行書、草書、隷書、さらに梵字や章草が混ざった「破体般若心経」です。

京都の広隆寺に伝わるもので、最後に「空海」の落款があります。

多くの書体を書きこなし、それぞれの味わいを活かしつつみごとに調和させています。

川谷尚亭の臨書が残されています。

原本通り「一切」が入っています。

江戸時代の貫名菘翁(ぬきなすうおう・1778〜1863)の大字楷書「般若心経」です。

菅公(菅原道真)九百五十年祭のために謹書した八曲屏風で、太宰府天満宮に奉献されました。

日下部鳴鶴が跋語で「書法は雅錬高古、変化自在。規矩を自然に運らし、雄奇を静穆に寓す」と述べています。

「一切」が入っています。

こちらは、同じく菘翁の「集王聖教序」の臨書です。

原本通り「一切」は入っていません。

良寛(りょうかん・1758〜1831)が書いた般若心経にも「一切」があります。

池大雅(いけのたいが・1723〜1776)が書いた般若心経には、なぜか「遠離顚倒一切」になっています。

「一切」を入れる場所を間違えたようです。

最後に、成田山新勝寺境内にある中林梧竹(なかばやしごちく・1827〜1913)の石碑拓本をご紹介しましょう。

集王聖教序を臨書したものだと言われていますが、「一切」が入っています。

もしかしたら、実際に手本を見ることなく、記憶によって臨書した「背臨」かもしれません。

だとしたら、すごいことです!

以上、中国と日本の般若心経を比べてみました。

中国では「一切」がなく、日本では「一切」が入っています。

このへんの事情を研究した書籍はほとんどないようです。

1993年に弓立社から発行された「般若心経の道」で、著者の飯島太千雄先生はこのことを嘆きつつ、独自の説を展開しました。

般若心経は日本に伝わると、文中に「一切」が加えられ、冒頭に「摩訶般若波羅蜜多心経」などの経題、そして末尾に効能文(般若心経を唱えることによって得られる効能を書いたもの)がつけられるようになった、というもので、71種の般若心経について、「一切」の有無や経題、効能文の内容などの比較が掲載されています。

誰でも知っている般若心経ですが、実は知られていないことも多いのだと実感しました。

最後に、天来書院刊行の写経用紙をご紹介します。

比田井天来編「集王羲之書般若心経」は、集王聖教序をもとにして、さらに習いやすいよう、双鉤塡墨として残る王羲之の筆跡などを加えて編集したものです。

比田井南谷編「集空海書般若心経」は、空海真筆とされる書から文字を選んで編集されています。

両者とも、伝統的な写経の書式にのっとり、さらに「一切」も入れて編集されていますから、書の専門家にふさわしい写経ができると評判です。

写経体の名品「隅寺心経写経用紙」です。

習いやすいように文字部分を強調しました。

効能文は入っていません。

わずか260字(あるいは262字)の中に、大般若経の教えが凝縮されていると言われる名編「般若心経」。

歴代名人の書を研究して、独自の般若心経を書いてみませんか。

名筆五体般若心経 A4判113ページ 3080円(税込)

 貫名菘翁楷書般若心経・集王羲之書般若心経・集空海書般若心経・呉昌碩篆書般若心経・集泰山金剛経般若心経

 天来書院で買う アマゾンで買う

集王羲之書般若心経 写経用紙(比田井天来編) A4判 1320円

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集空海書般若心経 写経用紙(比田井南谷編) A4判 1320円

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隅寺心経 写経用紙 A4判 1320円

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書道

2026年7月9日木曜日

般若心経 宝塔心経

 


般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022


https://www.shodo.co.jp/blog/yume2022/135/


中国と日本の般若心経を比べてみました。

中国では[遠離の後の]「一切」がなく、日本では「一切」が入っています。

 

このへんの事情を研究した書籍はほとんどないようです。★



摩訶般若波羅密多心経
観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五
蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減
是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界
無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故
菩提薩垂依般若波羅蜜多故心無
圭礙無圭礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
能除一切苦真実不虚
故説般若波羅蜜 
多呪即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経



観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五
蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減
是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界
無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故
菩提薩垂依般若波羅蜜多故心無
圭礙無圭礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
能除一切苦真実不虚
故説般若波羅蜜 
多呪即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧
菩提薩婆訶

観自在
菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊
皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道
智亦無得以無所得故菩提薩垂依般若波羅蜜多故心無圭礙無圭礙故無有恐怖遠離[一切]顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜 多呪即説呪
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧
提薩婆訶

無を中心にするために(遠離の後の)一切という二文字をカットした、のかと思ったら中国は最初の一切はない。


觀自在菩薩,行深般若波羅蜜多時,照見五蘊,度一切苦厄。舍利子不異空,空不異色;色即是空,空即是色。受、想、行、識,亦復如是。舍利子,是諸法空相,不生不滅,不垢不淨,不增不減,是故空中無色,無受、想、行、識;無眼、耳、鼻、舌、身、意;無色、聲、香、味、觸、法;無眼界,乃至無意識界;無無明,亦無無明盡;乃至無老死,亦無老死盡。無,無智亦無得。以無所得故,菩提薩埵,依般若波羅蜜多故,心無罣礙。無罣礙故,無有恐怖,遠離顛倒夢想,究竟涅槃。三世諸佛,依般若波羅蜜多故,得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多,是大神咒,是大明咒,是無上咒,是無等等咒,能除一切苦,真實不虛。故說般若波羅蜜多咒,即說咒曰:“揭諦、揭諦,波羅揭諦,波羅僧揭諦,菩提薩婆訶。”
— 玄奘法師译, 般若波羅蜜多





https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/2902447191923116440




             仏

    蜜        説        般

    多                 若

    心                 波

    経        無        羅

            智 道

          苦 亦 滅 得

        死         以

          盡 集 無 無

          死 故 無 所

        提 菩 老 得 尽 死

      薩             老

        垂 無▽ 無 蜜▽ 羅 無

        依 尽 明 波 多 至

      無 明 般 若 盡 乃 故 心

    無                 無

      界 受▽ 色 行 無 是▽ 呪 圭

      識 是 想 是 識 上 無 礙

    空 即 意 是 呪 亦 是 無 等 等

  空                     呪

    是 無 諸 明 子 大 復 多 圭 能

    即 至 法 大 神 利 如 蜜 礙 除

  界 乃 色 空 呪△ 是 是△ 舎 羅 一 故 無

眼 無 色 声▽ 香 相 不 若 波 顛▽ 倒 切 恐 有

  法 異 味 色 知 般 生 不 夢 離 苦 怖

    触 不 無 故 身 竟 減 想 真 遠

      空 提 意 涅 舌 究 不 実

      空 菩 槃     鼻 垢 不

      異 三 三     耳 不 虚

      不 藐 世     眼 浄 故

      色 三 諸     無 不 説

  舎 利 子 羅 仏 婆訶観 識 増 般 若 波

  厄 時▽ 多 多 依 自 薩 行 不 波▽ 諦 羅

  苦 密 照 耨 在 般 相 提 減 羯 羅 蜜

  切 羅 見 菩 阿 受 若 是 菩 諦 羯 多

  波 一 薩 五 無 得 故 波 羯 諦 呪 諦

  若 行 度 蘊 色 空 故 羅 曰 即 羯 波

  深△ 般 皆△ 空 中△ 無 蜜△ 多 説△ 呪 羅△ 僧


             仏

    蜜        説        般

    多                 若

    心                 波

    経        無        羅

            智 道

          苦 亦 滅 得

        死         以

          盡 集 無 無

          死 故 無 所

        提 菩 老 得 尽 死

      薩             老

        垂 無 無 蜜 羅 無

        依 尽 明 波 多 至

      無 明 般 若 盡 乃 故 心

    無                 無

      界 受 色 行 無 是 呪 圭

      識 是 想 是 識 上 無 礙

    空 即 意 是 呪 亦 是 無 等 等

  空                     呪

    是 無 諸 明 子 大 復 多 圭 能

    即 至 法 大 神 利 如 蜜 礙 除

  界 乃 色 空 呪 是 是 舎 羅 一 故 無

眼 無 色 声 香 相 不 若 波 顛 倒 切 恐 有

  法 異 味 色 知 般 生 不 夢 離 苦 怖

    触 不 無 故 身 竟 減 想 真 遠

      空 提 意 涅 舌 究 不 実

      空 菩 槃     鼻 垢 不

      異 三 三     耳 不 虚

      不 藐 世     眼 浄 故

      色 三 諸     無 不 説

  舎 利 子 羅 仏 婆訶観 識 増 般 若 波

  厄 時 多 多 依 自 薩 行 不 波 諦 羅

  苦 密 照 耨 在 般 相 提 減 羯 羅 蜜

  切 羅 見 菩 阿 受 若 是 菩 諦 羯 多

  波 一 薩 五 無 得 故 波 羯 諦 呪 諦

  若 行 度 蘊 色 空 故 羅 曰 即 羯 波

  深 般 皆 空 中 無 蜜 多 説 呪 羅 僧 

0:09
参考:宝塔心経(中央下部にある「観自在~」からの一筆書き?で仏塔を形作る唐代の般若心経。いきなりの斜め読みで面食らう。
  不
  空
  空
  異
  不
  色
舎利子   観
厄時多  自
苦密照 在
切羅見菩
波一薩五
若行度蘊
深般皆空

上部の「無」が丁度中間地点。全体的順路が左右対称)



       仏
       説
 蜜           般
 多           若
 心     無     波
 経    智道     羅
     苦亦滅得 
   死 盡集無無 以
     死故無所
    提菩老得尽死
  薩 垂無無蜜羅無 老
    依尽明波多至
   無明般若盡乃故心
 無 界受色行無是呪圭 無
   識是想是識上無礙
  空即意是呪亦是無等等
空 是無諸明子大復多圭能 呪
  即至法大神利如蜜礙除
 界乃色空呪是是舎羅一故無
眼無色声香相不若波顛倒切恐有
 法異味色知般生不夢離苦怖
  触不無故身竟減想真遠
   空提意涅舌究不実
   空菩槃  鼻垢不
   異三三  耳不虚
   不藐世  眼浄故
   色三諸 訶無不説
 舎利子羅仏婆観識増般若波
 厄時多多依自薩行不波諦羅
 苦密照耨在般相提減羯羅蜜
 切羅見菩阿受若是菩諦羯多
 波一薩五無得故波羯諦呪諦
 若行度蘊色空故羅曰即羯波
 深般皆空中無蜜多説呪羅僧 


追記:

    不

    空

    空

    異

    不

    色        ↙︎

舎 利 子       観

厄 時▽多     自

苦 密 照   在

切 羅 見 菩

波 一 薩 五

若 行 度 蘊

深△般 皆△空


赤線を引くとわかるが上のように▽ができる部分があり、多分仏の顔に見立てている。△は足。


 ▽

△ △

🧘


ほぼ八人の仏が曼荼羅状にいることになる。

行程も一筆書きというより最大8個の選択肢から正確なものを選ぶというものだ。


       仏
       説
 蜜           般
 多           若
 心           波
 経     無     羅
      智道
     苦亦滅得
    死    以
     盡集無無
     死故無所
    提菩老得尽死
   薩      老
    垂無無蜜羅無
    依尽明波多至
   無明般若盡乃故心
  無        無
   界受色行無是呪圭
   識是想是識上無礙
  空即意是呪亦是無等等
 空          呪
  是無諸明子大復多圭能
  即至法大神利如蜜礙除
 界乃色空呪是是舎羅一故無
眼無色声香相不若波顛倒切恐有
 法異味色知般生不夢離苦怖
  触不無故身竟減想真遠
   空提意涅舌究不実
   空菩槃  鼻垢不
   異三三  耳不虚
   不藐世  眼浄故
   色三諸  無不説
 舎利子羅仏婆観識増般若波
 厄時多多依自薩行不波諦羅
 苦密照耨在般相提減羯羅蜜
 切羅見菩阿受若是菩諦羯多
 波一薩五無得故波羯諦呪諦
 若行度蘊色空故羅曰即羯波
 深般皆空中無蜜多説呪羅僧

羯諦羯諦波羅

亦無老死尽無苦集滅道無

摩訶般若波羅密多心経

異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無

智亦無得以無
所得故 

心無圭礙無圭礙故

無有恐怖遠離一切
涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿 多羅
三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜 
多呪即説呪曰 
般若心経



  不
  空
  空
  異
  不
  色
舎利子   観
厄時多  自
苦密照 在
切羅見菩
波一薩五
若行度蘊
深般皆空

      仏
      説
蜜           般
多           若
心           波
経     無     羅
     智 道
    苦亦 滅得
   死     以
    盡集 無無
    死故 無所

法異味色知
 触不無故
  空提意
  空菩
  異三三
  不藐世
  色三諸
舎利子羅仏婆訶観識増般若波
厄時多多依自 薩行不波諦羅
苦密照耨在   提減羯羅蜜
切羅見菩     菩諦羯多
波一薩五      諦呪諦
若行度蘊       羯波
深般皆空中無 蜜多説呪羅僧


https://x.com/fukuko2025/status/2074897145745019302?s=61

【空海✕般若心経】 マントラの究極形「般若心経」の霊力の秘密とは?|空海『般若心経秘鍵


0:09
参考:宝塔心経(中央下部にある「観自在~」からの一筆書き?で仏塔を形作る唐代の般若心経。いきなりの斜め読みで面食らう。上部の「無」が丁度中間地点。全体的順路が左右対称)

       仏
       説
 蜜           般
 多           若
 心     無     波
 経    智道     羅
     苦亦滅得 
   死 盡集無無 以
     死故無所
    提菩老得尽死
  薩 垂無無蜜羅無 老
    依尽明波多至
   無明般若盡乃故心
 無 界受色行無是呪圭 無
   識是想是識上無礙
  空即意是呪亦是無等等
空 是無諸明子大復多圭能 呪
  即至法大神利如蜜礙除
 界乃色空呪是是舎羅一故無
眼無色声香相不若波顛倒切恐有
 法異味色知般生不夢離苦怖
  触不無故身竟減想真遠
   空提意涅舌究不実
   空菩槃  鼻垢不
   異三三  耳不虚
   不藐世  眼浄故
   色三諸 訶無不説
 舎利子羅仏婆観識増般若波
 厄時多多依自薩行不波諦羅
 苦密照耨在般相提減羯羅蜜
 切羅見菩阿受若是菩諦羯多
 波一薩五無得故波羯諦呪諦
 若行度蘊色空故羅曰即羯波
 深般皆空中無蜜多説呪羅僧

https://g2.ltfc.net/view/SUFA/67eb9e187031b06d919212c6

敦煌遺書・宝塔心経
(一筆書き?で仏塔を形作る唐代の般若心経。全体的に左右対称)

       仏

       説

 蜜           般

 多           若

 心     無     波

 経    智道     羅

     苦亦滅得 

   死 盡集無無 以

     死故無所

    提菩老得尽死

  薩 垂無無蜜羅無 老

    依尽明波多至

   無明般若盡乃故心

 無 界受色行無是呪圭 無

   識是想是識上無礙

  空即意是呪亦是無等等

空 是無諸明子大復多圭能 呪

  即至法大神利如蜜礙除

 界乃色空呪是是舎羅一故無

眼無色声香相不若波顛倒切恐有

 法異味色知般生不夢離苦怖

  触不無故身竟減想真遠

   空提意涅舌究不実

   空菩槃  鼻垢不

   異三三  耳不虚

   不藐世  眼浄故

   色三諸 無不説

 舎利子羅仏婆観識増般若波

 厄時多多依自薩行不波諦羅

 苦密照耨在般相提減羯羅蜜

 切羅見菩阿受若是菩諦羯多

 波一薩五無得故波羯諦呪諦

 若行度蘊色空故羅曰即羯波

 深般皆空中無蜜多説呪羅僧


佛说般若波罗蜜多心经手稿(集合)
唐佚名唐人 不详
纸本 手稿 水墨 

该作品为敦煌遗书中的一件唐代小楷书法手稿,内容为《般若波罗蜜多心经》。此手稿体现了唐代书法的精湛技艺与佛教经典的结合,具有重要的历史价值和艺术价值。通过影刻技术保存并流传至今,成为研究唐代书法和佛教文化的重要资料。(珍小宝撰文)


『般若波羅蜜多心経』写本(合集)

唐・作者不詳

紙本・写本・水墨 


本作品は、敦煌遺書の一つである唐代の小楷書法の手稿であり、内容は『般若波羅蜜多心経』である。この手稿は、唐代の書法の卓越した技法と仏教経典の融合を体現しており、重要な歴史的価値と芸術的価値を有している。影刻技術によって保存され、今日まで伝承されており、唐代の書法および仏教文化を研究する上で重要な資料となっている。(文:珍小宝)




https://g2.ltfc.net/view/SUFA/67eb9e187031b06d919212c6



この文書は、仏教の経典である「般若心経」の文字を用いて宝塔(塔)の形を描いた「宝塔心経」と呼ばれるものです。

中央には仏像(観音菩薩坐像など)が描かれており、文字で構成された塔の中に仏様が鎮座するデザインになっています。

このような形式の写経は、唐の時代や敦煌の遺書などに見られる歴史的な信仰の形です。 [1234]

敦煌莫高窟の一室より、1900年に発見されて以降、中国学研究に多大な影響を与えた古代文書群(敦煌遺書)について、網羅的に詳しく説明を加えた概説書。敦煌学を知るため ...


https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497212047&bookType=jp


http://www.yac8.com/news/12739.html


敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种

时间:2016/1/23 7:10:07   作者:书法欣赏   来源:www.yac8.com   阅读:137667   评论:1
内容摘要:敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种《宝塔心经》图文并茂,形式新颖别致,极具趣味性和观赏性,实属敦煌遗书中的“宝中之宝”。英国人斯坦因收集的敦煌《宝塔心经》水墨纸本,规格:47×22厘米,大英图书馆藏,编号:S.4289《宝塔心经》,就是把佛经中的《心经》以塔的形状书写出来。这种塔状...

敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种

《宝塔心经》图文并茂,形式新颖别致,极具趣味性和观赏性,实属敦煌遗书中的“宝中之宝”。


英国人斯坦因收集的敦煌《宝塔心经》水墨纸本,规格:47×22厘米,大英图书馆藏,编号:S.4289
《宝塔心经》,就是把佛经中的《心经》以塔的形状书写出来。这种塔状的心经分为塔座﹑塔身和塔顶三部分,而塔身又分为五层,塔顶为经文题名,塔门绘有观世音菩萨立像,解读宝塔心经的方法是从观音菩萨左足下角的“观”字开始,沿虚线依次读之,最后心经结尾“婆诃”是收在观世音菩萨的右足下角。



http://www.yac8.com/news/12739_2.html


敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种(2)

时间:2016/1/23 7:10:07   作者:书法欣赏   来源:www.yac8.com   阅读:137668   评论:1
内容摘要:敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种《宝塔心经》图文并茂,形式新颖别致,极具趣味性和观赏性,实属敦煌遗书中的“宝中之宝”。英国人斯坦因收集的敦煌《宝塔心经》水墨纸本,规格:47×22厘米,大英图书馆藏,编号:S.4289《宝塔心经》,就是把佛经中的《心经》以塔的形状书写出来。这种塔状...

保罗-伯希和收集的敦煌《宝塔心经》,规格:74.9×29.9-30.1厘米,塔门绘有观世音菩萨坐像,现藏法国国家图书馆,编号:P.2168




http://www.yac8.com/news/12739_3.html


敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种(3)

时间:2016/1/23 7:10:07   作者:书法欣赏   来源:www.yac8.com   阅读:137669   评论:1
内容摘要:敦煌书法墨迹精品《宝塔心经》三种《宝塔心经》图文并茂,形式新颖别致,极具趣味性和观赏性,实属敦煌遗书中的“宝中之宝”。英国人斯坦因收集的敦煌《宝塔心经》水墨纸本,规格:47×22厘米,大英图书馆藏,编号:S.4289《宝塔心经》,就是把佛经中的《心经》以塔的形状书写出来。这种塔状...

保罗-伯希和收集的敦煌《宝塔心经》规格:99.1×29.4-30.2厘米,塔门绘有观世音菩萨像,法国国家图书馆藏,编号:P.2731。



【空海✕般若心経】 マントラの究極形「般若心経」の霊力の秘密とは?|空海『般若心経秘鍵 https://youtu.be/Lcdgao0c62k?si=3uo3b6HB8bWoZ27s @YouTubeより
































般若心経の歴史的研究 


般若心経の総合的研究 


福井 文雅(ふくい ふみまさ[1]1934年6月6日[2] - 2017年5月4日)は、日本仏教学者および中国学者僧侶天台宗勧学大僧正[3]。栃木県日光市日光山輪王寺内にある唯心院住職早稲田大学名誉教授。

経歴

出生から修学期

1934年、東京府で仏教学者・福井康順の子として生まれた。早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学第一文学部東洋哲学専修を卒業。同大学大学院に進学。フランスに留学し、ポール・ドミエヴィル1894年-1979年)に師事した。

東洋学研究者として

帰国後、早稲田大学教授を務めた。1984年、学位論文『般若心経の歴史的研究』を早稲田大学に提出して文学博士号を取得[4]。学界では、日本学術会議(17期・18期)会員。1996年から2004年まで、早稲田大学仏教青年会第8代会長。

受賞・栄典

研究内容・業績

専門は東洋学で、般若心経文献学的研究や道教の形成に関する歴史的研究を行った。『アジア文化の思想と儀礼 福井文雅博士古稀記念論集』(2005年)に詳しい業績の紹介がある。

家族・親族

著作

著書
  • 般若心経の歴史的研究』春秋社1987
  • 『欧米の東洋学と比較論』隆文館1991
  • 『中国思想研究と現代』隆文館 1991
  • 漢字文化圏の思想と宗教 :儒教仏教道教』五曜書房 1998
  • 『般若心経の総合的研究 :歴史・社会・資料』春秋社 2000
  • 『道教の歴史と構造 増補修訂』五曜書房 2000
  • 『漢字文化圏の座標』五曜書房 2002
  • 『般若心経ドリル』一ツ橋書店 2005
  • 『アジア思想概論』五曜書房 2006
  • 『ヨーロッパの東方学と般若心経研究の歴史』五曜書房 2008 

共編著

訳書

論文

記念論集

  • 『アジア文化の思想と儀礼:福井文雅博士古稀記念論集』福井文雅博士古稀・退職記念論集刊行会編 春秋社 2005

脚注

  1.  音読み・僧侶名で「ぶんが」とも。
  2.  『現代日本人名録』
  3.  『ヨーロッパの東方学と般若心経研究の歴史』
  4.  CiNii(学位論文)
  5.  平成26年春の叙勲 瑞宝中綬章受章者”. 内閣府. p. 17 (2014年4月29日).2015年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月17日閲覧。
  6.  陳觀勝


般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022
https://www.shodo.co.jp/blog/yume2022/135/

般若心経の「一切」 2022年3月7日


ある日、お客様からお問い合わせがありました。

名筆五体般若心経」の中に、中ほどを過ぎたあたりの「遠離一切顚倒夢想」(一切の顚倒せる夢想を遠離し)が「遠離顚倒夢想」(顚倒せる夢想を遠離し)になっているものがあるのはなぜですか?

で、思い出しました。

かつて比田井南谷が空海の字を集めて般若心経を作っていたとき、「遠離一切顚倒夢想」の「一切」を入れるべきかどうか迷っていたことを。

通常、読経や写経に用いられる般若心経には、この「一切」が入っています。

しかし、書の名品として伝えられる般若心経の中に、「一切」が入っていないものもあります。

どういうことなのでしょう。

調べてみました。

般若心経を最初に翻訳したのは鳩摩羅什(くまらじゅう)で、402年頃とされています。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は629年にインドに旅立ち、たいへんな困難を乗り越えて645年に帰国しました。

おびただしい数のサンスクリット語経典を持ち帰りましたが、その漢訳事業を称えて建てられたのが「集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)」碑(672年)です。

唐の太宗が敬愛していた王羲之の筆跡を集めて作られています。

行書を学ぶためになくてはならない古典です。

末尾に般若心経が刻されていますが、「一切」は入っていません。

日本ではどうでしょう。

日本で書かれた般若心経の中で、もっとも古く、そして有名なのは「隅寺心経(すみでらしんぎょう)」であると言われています。

空海筆と伝えられていますが、実際には奈良時代に書かれたと推定されています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」が入っています。

なぜ?

書作品としての般若心経は、楷書だけでなく行書、草書、篆書、破体書など、さまざまの書体で書かれ、見ごたえのあるものも珍しくありません。

そこで今回は、この「一切」の有無にも注意しながら、いろいろな般若心経の名品を見ていくことにしましょう。

欧陽詢般若心経

まずは中国唐時代の人、欧陽詢が書いたと伝えられている「楷書・般若心経」です。

「化度寺碑(けどじひ)」を思わせる端正で美しい楷書です。

実は玄奘が般若心経を翻訳したとき、欧陽詢はすでに他界していたので、筆者は欧陽詢ではありませんが、いろいろな法帖に刻された有名な作品です。

(上に掲げたのは単帖から採ったもの)

全文260字がバランスよくおさめられています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」はありません。

劉石庵般若心経

劉墉(りゅうよう・1719〜1804)は清代中期の人。

彼は常に濃墨を使って渾厚な書を書き、「綿の中に鉄を含むようだ(楊守敬)」と評されました。

比田井天来も近代中国ではもっとも高く評価しています。

行書と草書が混ざった、濃厚な趣をもつ般若心経です。

やはり「一切」は書かれていません。

続いて篆書です。

鄧石如(とうせきじょ・1743〜1805)は清代に秦漢およびそれ以前の文字を徹底的に研究し、三国以降すっかり衰えてしまった篆隷をよみがえらせました。

彼はことさらに奇をてらうことなく、篆隷に限らずオーソドックスな書を書きました。

この「般若心経」は61歳、亡くなる前々年の書で、伸びやかな線による堂々とした篆書です。

ここにも「一切」はありません。

呉昌碩(ごしょうせき・1844〜1927)は石鼓文(せっこぶん)の研究によって、新しい篆書のスタイルを作り上げました。

篆刻に優れ、傑作を数多く残しています。

伏見冲敬先生の解説を引用します。

末に呉昌碩の識語(しご)があり、かつて鄧完白(とうかんぱく・完白は鄧石如の号)の篆書心経八幀を見て服膺(ふくよう)之(これ)を久しうしたと書いてあり、かれが鄧完白の作品を頭において書いたにちがいない。

(中略)

鄧氏のは立派な小篆なので、呉昌碩は同じことはやりたくないので、自分の得意な石鼓文の風をとりいれて書いた。

「自ら視て尚ほ悪態なし」といっているが、まことにこれは呉氏の生涯でも傑作の一つである。

文句なしに篆書の基礎手本として精習すべきものである。

ここにも「一切」は書かれていません。

以上、中国の作品には「一切」は書かれていませんでしたが、日本の書はどうでしょうか。

一つの作品が数種類の書体で書かれていることを「破体(はたい)」とか「雑体(ざったい)」と呼びますが、上は楷書、行書、草書、隷書、さらに梵字や章草が混ざった「破体般若心経」です。

京都の広隆寺に伝わるもので、最後に「空海」の落款があります。

多くの書体を書きこなし、それぞれの味わいを活かしつつみごとに調和させています。

川谷尚亭の臨書が残されています。

原本通り「一切」が入っています。

江戸時代の貫名菘翁(ぬきなすうおう・1778〜1863)の大字楷書「般若心経」です。

菅公(菅原道真)九百五十年祭のために謹書した八曲屏風で、太宰府天満宮に奉献されました。

日下部鳴鶴が跋語で「書法は雅錬高古、変化自在。規矩を自然に運らし、雄奇を静穆に寓す」と述べています。

「一切」が入っています。

こちらは、同じく菘翁の「集王聖教序」の臨書です。

原本通り「一切」は入っていません。

良寛(りょうかん・1758〜1831)が書いた般若心経にも「一切」があります。

池大雅(いけのたいが・1723〜1776)が書いた般若心経には、なぜか「遠離顚倒一切」になっています。

「一切」を入れる場所を間違えたようです。

最後に、成田山新勝寺境内にある中林梧竹(なかばやしごちく・1827〜1913)の石碑拓本をご紹介しましょう。

集王聖教序を臨書したものだと言われていますが、「一切」が入っています。

もしかしたら、実際に手本を見ることなく、記憶によって臨書した「背臨」かもしれません。

だとしたら、すごいことです!

以上、中国と日本の般若心経を比べてみました。

中国では「一切」がなく、日本では「一切」が入っています。

このへんの事情を研究した書籍はほとんどないようです。

1993年に弓立社から発行された「般若心経の道」で、著者の飯島太千雄先生はこのことを嘆きつつ、独自の説を展開しました。

般若心経は日本に伝わると、文中に「一切」が加えられ、冒頭に「摩訶般若波羅蜜多心経」などの経題、そして末尾に効能文(般若心経を唱えることによって得られる効能を書いたもの)がつけられるようになった、というもので、71種の般若心経について、「一切」の有無や経題、効能文の内容などの比較が掲載されています。

誰でも知っている般若心経ですが、実は知られていないことも多いのだと実感しました。

最後に、天来書院刊行の写経用紙をご紹介します。

比田井天来編「集王羲之書般若心経」は、集王聖教序をもとにして、さらに習いやすいよう、双鉤塡墨として残る王羲之の筆跡などを加えて編集したものです。

比田井南谷編「集空海書般若心経」は、空海真筆とされる書から文字を選んで編集されています。

両者とも、伝統的な写経の書式にのっとり、さらに「一切」も入れて編集されていますから、書の専門家にふさわしい写経ができると評判です。

写経体の名品「隅寺心経写経用紙」です。

習いやすいように文字部分を強調しました。

効能文は入っていません。

わずか260字(あるいは262字)の中に、大般若経の教えが凝縮されていると言われる名編「般若心経」。

歴代名人の書を研究して、独自の般若心経を書いてみませんか。

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