2024年10月16日水曜日

量子重力理論では「十次元空間における膜」だけが特別な存在、静岡大が確認 | TECH+(テックプラス)

量子重力理論では「十次元空間における膜」だけが特別な存在、静岡大が確認 | TECH+(テックプラス)

量子重力理論では「十次元空間における膜」だけが特別な存在、静岡大が確認

静岡大学は10月11日、粒子、弦、膜などのさまざまな物体の間に働く重力の性質を多様な空間次元で比較したところ、「十次元空間における膜」だけが「スケール不変性」と「非自己双対型電磁双対性」と呼ばれる2つの性質を同時に満たせることを解明し、十次元空間における膜は「量子重力理論」において特別な存在であることがわかったと発表した。

同成果は、静岡大 理学部の森田健准教授によるもの。詳細は、日本物理学会が刊行する理論物理と実験物理を扱う欧文学術誌「Progress of Theoretical and Experimental Physics」に掲載された。

我々の宇宙は、重力(マクロの世界)を扱う「一般相対性理論」と素粒子(ミクロの世界)を扱う「量子力学」を統合した量子重力理論によって記述できると予想されているが、両理論は折り合いが悪いため、現状では量子重力理論の完成には至っていない。

これまでの量子重力理論の構築を目指す多くの試みによって、基本構成要素(最小単位)を点状の粒子とした場合は、理論の実現が困難なことが明らかにされている。そして基本構成要素を1次元の長さを持った弦とする「弦理論」が考案され、九次元空間または25次元空間でのみ、矛盾のない量子重力を実現できることが突き止められた(九次元の弦理論は「超弦理論」、25次元の弦理論は「ボソン型弦理論」と呼ばれる)。特に超弦理論を用いた場合は、重力だけでなく、電子やクオークなどの素粒子も自然に説明できると考えられている。ちなみに我々の宇宙が九次元空間だとした場合、人類が感知できない残りの六次元空間はどこにあるのかというと、その広がりがある程度(現在の技術では感知できないほど)小さければ、矛盾がないこともわかっている。

  • さまざまな次元の空間とさまざまな物体のイメージ

    さまざまな次元の空間(上)とさまざまな物体(下)のイメージ。ヒトは空間的には三次元までしか認識できないため(現実世界は、三次元空間に一次元の時間を組み合わせた四次元時空と考えられている)、高次元空間や高次元物体を図で表現するのは不可能である (出所:静岡大プレスリリースPDF)

ただし、弦以外の形状のものを基本構成要素とする量子重力理論も存在するかもしれないとされており、そうしたこともあり現時点では、超弦理論以外の量子重力理論によって、我々の宇宙が記述される可能性も否定できないとされている。そのような研究背景から森田准教授は今回、粒子や弦だけでなく、膜などのさまざまな物体の性質を、多様な空間で研究することにしたという。

系全体の形を保ったまま、大きさを変えても物理的な性質が変わらないことを「スケール不変性」と呼ぶが、こうした性質は、「くり込み固定点」と呼ばれる物理的に重要な状況などで生じることがわかっている。今回の研究では2つの物体を遠方に離し、両物体間に働く重力がスケール不変性を満たすのかどうかの調査を実施。その結果、"十次元空間における膜"を含めた、特定の次元の特定の物体のみがスケール不変性を満たすことが突き止められたとする。

  • 今回の研究成果のイメージ

    今回の研究成果のイメージ。十次元空間における膜は量子重力において特別な存在であることが明らかにされた (出所:静岡大プレスリリースPDF)

  • スケール不変性

    スケール不変性。系全体の形を保ったまま大きさを変えても、物理的な性質が変わらないことをスケール不変性という。今回の研究では、2つの物体の間に働く重力のスケール不変性が調べられた (出所:静岡大プレスリリースPDF)

電子のような荷電粒子と、N極またはS極だけの磁荷を持つ粒子である「モノポール」(磁気単極子)が共に存在する理論では、「電磁双対性」という性質を持つことが明らかにされており、このような性質は、理論的整合性から矛盾のない量子重力理論では不可欠だと考えられている。

  • 電磁双対性

    電磁双対性。荷電粒子とモノポールが両方存在する系は、電磁双対性と呼ばれる性質を持つ。現時点ではモノポールは素粒子の形では未発見だが、我々の宇宙にも存在しており、電磁双対性が成立すると考えられている (出所:静岡大プレスリリースPDF)

ちなみに、現時点でモノポールは発見されていないが、宇宙誕生直後に大量に生成されたと考えられており、その後、宇宙の膨張と共に拡散してしまったため、現在も広大無辺の宇宙のどこかにはあるはずだが、極めて発見することが難しくなっているという。

また、電磁双対性には、「自己双対型」と「非自己双対型」の2種類があり、電子とモノポールの関係は非自己双対型となる。今回の研究では、スケール不変性を満たす物体のうち、どの物体が「非自己双対型電磁双対性」を満たすのかが調べられており、その結果、そのような物体は"十次元空間における膜"に限られることが突き止められ、これはこのような膜の理論が、量子論的に非常に特別であることを意味すると研究チームでは指摘している。

実は、以前から十次元の膜は超弦理論において、重要な役割を果たすことが知られていたという。それは「十次元の膜の理論が、超弦理論の起源になっている」という「M理論」と呼ばれる予想によるものであり、実際、十次元空間のうち、1つの空間が小さく丸まっていると、その空間に巻き付いた膜は、九次元空間における弦と見なすことができるという。

  • M理論

    M理論。十次元空間の膜の理論において、一次元空間が小さく丸まることで、九次元の超弦理論が得られるというのがM理論の基本的なアイデア。実際に、左図のように丸まった空間に巻き付いた膜は、その空間が十分小さければ右図のように弦と見ることが可能だという (出所:静岡大プレスリリースPDF)

今回の研究により、十次元の膜だけが"スケール不変性"と"非自己双対型電磁双対性"という量子論で重要な性質を満たすことが解明されたこととなるが、これはM理論を含めた超弦理論が、量子重力理論において特別な理論であることを改めて強調するものだと研究チームでは説明しており、これにより、M理論や超弦理論の重要性がさらに増したと考えることができるとする。また、"スケール不変性"と"電磁双対性"という性質は、量子重力を理解する上で重要な鍵となっている可能性もあるともしており、今後は今回のような研究をさらに進展させることで、宇宙の起源のような、我々の宇宙のより深遠な側面の解明につながるかもしれないとしている。

2024年10月14日月曜日

国際問題 外交問題 国際政治|e-論壇「百花斉放」

国際問題 外交問題 国際政治|e-論壇「百花斉放」

2021-12-04 23:05 (連載1)全斗煥元大統領の再評価

荒木 和博 拓殖大学海外事情研究所教授
 11月23日に、韓国の全斗煥元大統領が逝去されました。謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。全斗煥という人は特に今の韓国では不当に悪者にされてしまったという感があります。1961 年に朴正煕が5・16軍事クーデターを起こした際には革命主体勢力には加わってないのですが、その革命軍の本拠地に乗り込んで「一体このクーデターにどういう意義があるのか」ということを質すということをやりました。その後陸軍士官学校の生徒を率いてこの革命を支持するというパレードを行ったりしました。陸軍士官学校での成績はあまり良くなかったですけれどもリーダーシップがあって、人を引き付ける魅力があったんだろうと思います。
 
 朴正煕大統領が1979年10月26日に側近である中央情報部長に暗殺されて亡くなると、ピンチヒーターの崔圭夏が大統領代行になったのですが、12月12日当時保安司令官で陸軍少将だった全斗煥は粛軍クーデターを成功させ鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し崔圭夏に追認させるなどして軍の実権を握りました。崔圭夏はその後大統領になるんですけども、北の勢力も入るなどして色々なデマや不満が噴出しデモが頻発するなど治安も悪化していきました。
 
 社会がむちゃくちゃになりつつあったときに起きたのが1980年5月17日の軍事クーデター、いわゆる光州事件でした。軍部に抵抗する民主化運動を鎮圧するために軍が入って、デモ隊だけでなく、軍人や警察官などにも多数の死傷者が出ました。後にこれが韓国社会では聖域化してしまいました。今の韓国でこの抵抗運動に対して暴動とかそういう見方をすれば厳しい糾弾を受けることになってしまいます。これは、ヨーロッパで、ナチスのやったことをちょっとでも再評価すれば、刑事罰を受けるのと似たような状況になっているということです。
 
 全斗煥は、その虐殺の当事者として非難を受け続け、さらには不正蓄財などいろいろな問題が出て厳しく糾弾されました。しかし後から考えてみると、全斗煥が大統領を務めた時代は1981 年から 88 年までということになりますが、この期間、韓国は経済的にはもうどんどん発展していきました。(つづく)

2024年10月13日日曜日

「現在のLLMに真の推論は困難」──Appleの研究者らが論文発表 - ITmedia NEWS

「現在のLLMに真の推論は困難」──Appleの研究者らが論文発表 - ITmedia NEWS

「現在のLLMに真の推論は困難」──Appleの研究者らが論文発表

 米AppleのAI研究者らは10月7日(現地時間)、「GSM-Symbolic: Understanding the Limitations of Mathematical Reasoning in Large Language Models」(LLMにおける数学的推論の限界を理解する)という論文を発表した。

 この論文は、LLM(大規模言語モデル)が、本当に人間のように論理的に考えて問題を解けるのか、という疑問を検証している。結論としては、LLMは今のところ、表面的なパターンを真似て答えを出しているだけで、真の推論能力は持っていないと主張している。

 研究者らは、これらの問題点を検証するために、「GSM-Symbolic」という新しいテスト方法を開発した。これは、LLMの数学的推論能力を評価するためのベンチマークデータセット「GSM8K」を改良し、問題の表現や数字を柔軟に変えられるようにしたもの。また、「GSM-NoOp」という、無関係な情報を含んだ問題集も作成し、LLMの推論能力を評価した。

 実験の結果、OpenAIのGPT-4oやo1-previewなどのLLMは、他のLLMと比べて高い性能を示したが、それでもGSM-NoOpのような引っ掛け問題には弱く、真の推論能力を獲得するにはまだ課題があるとしている。

 論文では、実験で明らかになった「弱点」を挙げている。

数字や言い回しを変えると混乱する

 例えば、ある問題をLLMが解けたとしても、その問題の数字を変えたり、少し言い回しを変えただけで、正解率が大きく下がった。

 これは、LLMが問題の本質を理解して解いているのではなく、訓練データで見たパターンを単純に当てはめているだけである可能性を示唆している。

問題が複雑になると混乱する

 簡単な問題なら解けても、問題文が長くなって複雑になると、LLMの正解率は下がり、さらに答えのばらつきも大きくなる。

 例として、公衆電話からの通話料金に関する問題をベースに、問題の難易度を4段階に調整した結果の正解率を、米GoogleのGemma 2や米OpenAIのGPT-o1 mini、米MicrosoftのPhi-3.5で調べたところ、いずれのLLMも難易度が上がると正解率が下がった。

 make a call 通話料金の問題(Image Credits:Mirzadeh et al)

 4レベルの問題の内容は、以下の通り。一番上が最も簡単なものだ。

  • 電話ボックスから電話をかけるには、1分あたり0.6ドル掛かります。60分の通話料金はいくらですか?
  • 電話ボックスから電話をかける場合、1分あたり0.6ドル掛かります。10分を超えると、料金は1分あたり0.5ドルに下がります。60分間の通話はいくらですか?
  • ホテルの部屋の電話から電話をかける場合、1分あたり0.6ドル掛かります。10分経過すると、料金は1分あたり0.5ドルに下がります。通話開始から25 分経過すると、料金はさらに下がり、1分あたり0.3ドルになります。60分間の通話はいくらですか?
  • ホテルの電話から電話をかける場合、1分あたり0.6ドル掛かります。10分経過すると、料金は1分あたり0.5ドルに下がります。通話開始から25分経過すると、料金はさらに下がり、1分あたり0.3ドルになります。合計請求額が10ドルを超える場合は、25%割引になります。60分間の通話料金はいくらですか?

無関係な情報に惑わされる

 問題文に、一見関係がありそうだが、実際には回答に全く影響しない情報を追加すると、間違えやすくなる。

 例えば、「キウイを〇個収穫した。ただし、そのうち△個は小さかった」という問題で、LLMは関係のない「小さいキウイの数」を全体のキウイの数から引いてしまうという間違いをした。

 kiwi キウイの数の問題(Image Credits:Mirzadeh et al)

 これは、LLMがトレーニングデータで「割引」という言葉が出てきたら「掛け算」をする、といったパターンを機械的に学習しているために起こると考えられる。

 研究者らは、LLMの限界を克服できるかどうかについては明言していない。現在のLLMが真の数学的推論能力を獲得するには、パターン認識を超えた、より高度な推論能力の開発が必要であると結論付けている。特に、問題の本質を理解し、無関係な情報を適切に処理できる能力の向上が不可欠であると指摘する。

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ヘブライ語読解の基本とツール活用法|足袋田クミ

ヘブライ語読解の基本とツール活用法|足袋田クミ

ヘブライ語読解の基本とツール活用法

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はじめに

この記事はヘブライ語聖書の読解を始めるにあたっての道のりの説明と、それにまつわるツールの活用方法の説明です。初級文法に入門した、あるいは終えたくらいの人を読者に想定しています。本文中に知らない用語が出てきたら初級文法の教科書で調べてください。

外国語の勉強ってどうやったらいいの?という人もそれなりにいると思うのでかなり丁寧に説明していきたいと思います。

本文を用意する

ヘブライ語本文を用意してください。慣れてきたらそこに色々書き込んでいきますが、慣れないうちはノートに書き写しましょう。行間に書き込むために数行空けて書き写していくのがセオリーです。全部書くまでもないな、という段階になったらコピーした本文をノートに貼り付けるのもいいでしょう。

もし、初級文法の練習問題にあたる文章の読解でも、腰を据えて考えるときはこのようにしてみてください。

単語を辞書で引く

とにかく知らない単語は辞書を引きます。最初のうちは全ての単語を辞書で引くことになります。辞書を引かないで済むかなとか思わない方が後々楽になるというのが個人的な感想です。もちろん初級文法の本には簡単な語義が載っていて、しばらくは辞書を引かないで問題を解くことができるでしょう。しかし初級文法の本が辞書の代わりにはなりません。そのうちどうせ引くことになります。面倒だと思う必要はありません。辞書を引くのが楽しい作業だと思えるようになるのがいいと思います。

見出し語形が分からない

辞書に載っている形を、単語の「見出し語形」「辞書形」などと呼ぶことがあります。実際の文章に現れるのは変化した後の形なので、そのまま辞書を引いても見つからないのはよくあることです。さらにヘブライ語の場合、その単語がアレフベート順ではなく、語根の順番に載っている場合もあります。持っている辞書の最初の方の解説を読みましょう。

いくつかの方法があります。

1. 文法書を読んで元の形が分かるまで調べる

王道です。時間はかかりますが勉強になります。時間がある時はこうした方がいいです。

2. 文法解析ツールを使う

機械的に元の単語を知る方法もあります。例えば

これなど出てきた形で元の単語を調べられます。

あるいはアプリケーションを購入します。有名なところではAccordance Bible SoftwareやLogosなどがあります。しかし結構お値段が張ります。

無料で調べられるところで言うと、

https://nakdan.dicta.org.il/

こちらが便利です。例えば"בא"というヘブライ語がなんなのか調べましょう。

画像1

ヘブライ語をそれぞれの端末で入力する仕方は頑張ってググってください。"Apply Nikud"を押すと、

画像2

はい、母音記号がつきました。単語をクリックすると"Nikud Options"が開きます。

画像3

今回は"בָּא"の変化が知りたいのでこれでOKです。"Morphological details"を押します。

画像4

はい、可能性が色々出てきました。

בוא, פעל, זכר, יחיד, הווה
(語根はבוא、パアル態、男性、単数、現在形、と書いてあります)

בוא, פעל, זכר, יחיד, גוף שלישי, עבר
(語根はבוא、パアル態、男性、単数、三人称、過去形、と書いてあります)

ヘブライ語で文法用語言われても分からないですよね? これも辞書で引きましょう!と言ってもいいのですがあまり初学者に辛い思いをさせても仕方ないので、めぼしいところを一覧表にしておきましょう。

שם עצם(名詞)
שם מספר(数詞)
תואר השם(名詞の修飾=形容詞)
תואר הפועל(動詞の修飾=副詞)
מילת יחס(前置詞)
מילת חיבור(接続詞)
מילת שאלה(疑問詞)
כנוי(代名詞)
נסמך(連語形)
זכר(男性)
נקבה(女性)
יחיד(単数)
רבים(複数)
זוגי(双数)
גוף רישון(一人称)
גוף שני(二人称)
גוף שלישי(三人称)
עתיד(未来)
הווה(現在)
בינוני(分詞)
עבר(過去)
ציווי(命令)
מקור(不定詞)
תחילית(接頭語)
בסיס(基礎、この場合は本体になる単語のこと)
סיומת(接尾辞)
כנוי מושא(目的語を示す代名詞)
סופית קניין(所有語尾)

品詞が何か調べる

すでに上にも出てきましたが、その単語が文の中でどういう役割を持っているか(品詞)を考える必要があります。辞書を引けばすぐに副詞だ、と分かる場合もありますが、たいていの場合他の要素と絡め合わせて決定されるものです。

可能性を列挙する

品詞や意味は辞書を引いても文法解析ツールを使っても一意にすぐ決定されるものではありません。文の構成に慣れてきてだんだんわかっていくものです。慣れないうちは絞りきれない可能性についてノートに全て列挙しておきましょう。人に質問したり後で自分で見返す時にもその方が役に立ちます。文の最後の単語を引く頃には決定できることもしばしばあります。今の自分にだけ頼る必要はありません。後の自分や他人、資料によって学習を進めましょう。

文法解析ツールは諸刃の剣

通常、単語をみてその品詞を調べたり辞書形を予想したりするのは自分自身だけでできるようにならなければなりません。もちろん学習途中ですから、正解を教えてもらうことは大事です。しかし、いつかはできるようになりたいわけです。

譬え話をしましょう。あなたは数学の問題を解いています。問題集の答えを写せば、詳しい道筋が載っているので解答を書くことができます。宿題は終わります。しかし、あなたは問題を解けるようになっていません。おそらくテストにその問題が出たらあなたは解くことができないでしょう。

おそらく、文法解析ツールをいつも参照する癖がついていると、いつまでたっても自分で辞書形を想像することができません。やるべきことは、たとえ解析ツールを多用することになっても、使う前に自分で予想を立て、答えを見たらどうしてそうなるのか理由を考えることです。傍目にはこの二つはほとんど変わりませんが、後々に響いてきます。かく言う私もAccordance Bible Softwareを使うようになってから活用表の覚え具合が鈍りました。できれば使わない方がいいのです。そのことを忘れないようにしましょう。

文法事項を調べる

ある文があって、その中の単語の意味が全て分かったとします。それぞれの品詞も限定できています。それでもその文の意味を取れない場合、何か文法事項が抜けています。雰囲気で訳してしまうことができるかもしれません。しかし、基本的にはどうしてそう訳すことができるのか、文法書の項目を探して根拠を持っておきましょう。

和訳する必要はあるか

ひとつひとつの文の和訳を書いていくのは学習の最初には必要なステップだと思います。しかし何百という文を前にして本当に全ての訳文を考える必要があるでしょうか。ヘブライ語の文の意味をとれることと、練習問題の答えとして和訳文を書けること、あるいは日本語として正確な翻訳文が書けることは微妙に必要なスキルが違います。それに長文になればなるほど簡単な文はわざわざ和訳する必要がありません。

もう少し言うと、例えば創世記一書全てを翻訳するということになると、訳語の統一、ある文法事項をどう訳すことにするか、物語の流れに対応した日本語は何かなど明らかに一文の読解の範囲を超えた要素が出てきます。これはこれで面白いですし磨くべきスキルかもしれませんが、自分が今何を目的として和訳をしたいのか考えてみるのがいいと思います。

大雑把に言えば、一文ずつの和訳は初級文法の練習問題の答えとして必要でしょう。慣れてきた後は長文読解で簡単な文の訳を省略してもいいと思います。長文の翻訳には全体を統合するスキルが必要になるでしょう。

おわりに

以上、ヘブライ語の学習を始めたばかりの人に向けて読解のやり方を紹介しました。私の意見を絶対視する必要はありません。ぜひ自分に合ったやり方を見つけてください。

ヘブライ語で聖書を読もうとする全ての人を応援します。

2024年10月12日土曜日

マラブー223


Common: On Revolution in the 21st Century ペーパーバック – 2019/1/24 


。。 

Il n'y a pas eu de Révolution ne serait finalement plus nécessaire. La fina- lité ultime de la politique serait son auto- suppression". » Les choses sont claires. Défendre l'auto-organisation et rejeter proposent les définitions contemporaines l'anarchisme: voilà ce que en même temps de l'autogouvernement. 
Du pluriel (communs) 
au singulier (commun)。。。
 La difficulté est de taille, il faut le recon- naître, qui consiste à articuler entre elles toutes les significations de la justice com- mutative et à réduire l'hétérogénéité qui existe entre un jardin partagé et une vision fédéraliste du monde. Entre une gestion des ressources et une construction politique. Tout cela dans la perspective d'un dépasse- ment de la propriété privée et d'une redé- finition de la démocratie, qui refuse de la réduire à de simple règles d'incitation et de désincitation. Et Proudhon échouerait fina- lement à relever ce défi. (( Proudhon, écrivent les auteurs de Commun, a toujours marqué sa plus grande défiance à l'égard du gouvernement, qui est incom- pétent par essence lorsqu'il s'agit de chan- ger la société, comme on l'a vu selon lui en 1848. Le nouveau droit ne sera pas étatique, il sera la forme juridique de l'association 216 L'autogouvernement en question ouvrière, de la mutualité et de la fédéra- tion. Mais n'est-il nul besoin d'une organi- sation politique quelconque ? L'économie peut-elle absorber le politique en entier ou peut-on inventer une forme organisation- nelle non gouvernementale 54 ? >> Pour répondre à ces questions, Dardot et Laval distinguent entre «< communs >> au pluriel et «< commun >> au singulier - autre nom, au fond, du gouvernement. Il est nécessaire, affirment-ils, de distinguer les choses communes, les biens communs, les communs et le commun. Qu'est-ce que le commun? Les auteurs poursuivent: (( Si "Commune" est le nom de l'autogouverne- ment politique local et "communs" le nom des objets de nature très diverse pris en charge par l'activité collective des individus, "commun" est proprement le nom du prin- cipe qui anime cette activité et qui préside en même temps à la construction de cette forme d'autogouvernement". » Le commun est l'idéal qui permet à la Commune d'échapper à sa réduction autogestionnaire et sauve ainsi la démocratie. Ah, si la Com- mune de Paris avait connu Dardot et Laval! Le commun. Le mot est prononcé : (( principe ». « Le » commun est un prin- cipe. Principe fédérateur et fédéraliste, selon lequel les hommes s'engagent ensemble à agir selon des normes élaborées en com- mun, puisque ((le seul principe politique 217 L'autogouvernement en question ouvrière, de la mutualité et de la fédéra- tion. Mais n'est-il nul besoin d'une organi- sation politique quelconque ? L'économie peut-elle absorber le politique en entier ou peut-on inventer une forme organisation- nelle non gouvernementale 54 ? >> Pour répondre à ces questions, Dardot et Laval distinguent entre «< communs >> au pluriel et «< commun >> au singulier - autre nom, au fond, du gouvernement. Il est nécessaire, affirment-ils, de distinguer les choses communes, les biens communs, les communs et le commun. Qu'est-ce que le commun? Les auteurs poursuivent: (( Si "Commune" est le nom de l'autogouverne- ment politique local et "communs" le nom des objets de nature très diverse pris en charge par l'activité collective des individus, "commun" est proprement le nom du prin- cipe qui anime cette activité et qui préside en même temps à la construction de cette forme d'autogouvernement". » Le commun est l'idéal qui permet à la Commune d'échapper à sa réduction autogestionnaire et sauve ainsi la démocratie. Ah, si la Com- mune de Paris avait connu Dardot et Laval! Le commun. Le mot est prononcé : (( principe ». « Le » commun est un prin- cipe. Principe fédérateur et fédéraliste, selon lequel les hommes s'engagent ensemble à agir selon des normes élaborées en com- mun, puisque (( le seul principe politique 217 。。。。。 Il n'y a pas eu de Révolution respectueux de l'autonomie des gouverne- ments locaux est le principe fédératif ». La philosophie du commun(s) n'est pas anarchiste parce qu'elle doit s'ordonner à un principe - ce principe qui manque au fédéralisme proudhonien et le fait ressem- bler de bien près, pour finir, au nouveau néolibéralisme. D'où l'inévitable rappro- chement entre Proudhon et Ostrom. Un principe, disent encore les auteurs, ((est ce qui vient en premier et fonde tout le reste. [...] C'est un véritable commence- ment, [...] un commencement qui régit et domine tout ce qui suit. Le grec arkhè a le double sens de commencement et de com- mandement: arkhè, c'est la source dont tout le reste dérive. Le commun est un principe politique en ce sens qu'il ordonne, commande et régit tout de l'activité poli- tique" >>. Il faut donc savoir réintroduire du commandement. 
Bonnes intentions 
 Malgré tout, la pensée politique du com- mun, qui se montre peu capable de donner forme concrète à ce « principe »>, finit par errer dans le vague des bonnes intentions. « Le commun, déclare Laval, est donc un principe qui articule démocratie directe ou autogouvernement, destination sociale des 218

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Il n'y a pas eu de Révolution . la société 60» Est-ce donc là l'état de la cri- tique de la propriété privée aujourd'hui ? Qu'est-ce que l'activité démocratique (( bien comprise >> ? Que sont ces (( pratiques uto- piques », qui apparaissent, en réalité, très mélancoliques? Nostalgiques d'une démo- cratie grecque fantasmée. Et sait-on finale- ment en quoi l'autogouvernement n'est purement et simplement un gouvernement comme les autres ? pas En regard de l'anarchisme, tout principe est une enclosure métaphysique et par consé- quent une forme de domination politique. La tâche d'un principe est en effet d'ordonner ce dont il est le principe. Il enclot, délimite son domaine de législation, assignant leur place aux éléments qu'il régit, décidant ainsi de limites et de hiérarchies. Un principe, par sa nature hégémonique, est nécessaire- ment hors du commun. Et quelle meilleure définition donner de lui sinon, précisément, l'autogouvernement? Tout principe est autogouvernement: il décide de soi-même, par soi-même - ce qui veut dire aussi sans les autres. Accoler à l'autogouvernement le mot « démocratie » (même «bien comprise >>) ne change rien à son économie souveraine. 220 L'autogouvernement en question L'antipathie pour le principe d'autorité Les défenseurs de l'autogouvernement et des/du commun(s) restent majoritaire- ment tributaires d'une conception de la politique qui fait de la recherche du meil- leur gouvernement la question première. Une conception qui voit le jour avec Platon, et ne se trouve remise en cause qu'avec le projet anarchiste. Une remise en cause pour laquelle Foucault trouve les mots justes: la question première de la politique n'est pas le gouvernement mais la résistance au gouvernement. ((Oui. Voyez-vous, déclare Foucault, s'il n'y avait pas de résistance, il n'y aurait pas de rapports de pouvoir. Parce que tout serait simplement une ques- tion d'obéissance. Dès l'instant où l'indi- vidu est en situation de ne pas faire ce qu'il veut, il doit utiliser des rapports de pou- voir. La résistance vient donc en premier, et elle reste supérieure à toutes les forces du processus; elle oblige, sous son effet, les rapports de pouvoir à changer. Je consi- dère donc que le terme de "résistance" est le mot le plus important, le mot-clef de cette dynamique¹. » Et comment ne pas remarquer que Proudhon le premier reven- dique constamment la priorité de la résis- tance? D'un bout à l'autre de son œuvre, il maintient cette affirmation: (( mon anti- pathie pour le principe d'autorité n'a pas 221 Il n'y a pas eu de Révolution faibli». Qu'est-ce que la propriété ? n'est en rien un traité politique classique, à la recherche du meilleur régime. L'important est de montrer que la propriété privée est un prolongement des rapports de domina- tion féodaux et de ses logiques d'assujet- tissement. La recherche de l'institution qui convient le mieux à la dissolution de ces rapports découle de cette analyse mais ne lui préexiste pas. que La pensée des communs et de l'autogou- vernement aujourd'hui ne s'attarde jamais sur les structures de subordination peuvent impliquer ces concepts eux-mêmes. En effet, on vient de le voir, leur usage systé- matiquement universalisant réduit au silence le caractère chaque fois singulier des luttes contre la propriété privée, surtout celles qui sont liées à une histoire de tutelle, de coloni- sation et/ou d'esclavage. Ce sont en fait ces analyses qui s'en tiennent, contrairement à ce qu'elles prétendent, au seul niveau éco- nomique, en limitant la pensée du << vol >> à la spoliation néolibérale des ressources et en réservant l'aspect proprement politique de cette situation à une recherche différée, indéfinie, évitante, de la démocratie idéale. 222 L'autogouvernement en question Communauté: tout ou rien? Et si le collectif n'était pas le commun? Et si le commun n'était pas l'idée fondamen- tale de la politique? Qu'est-ce que la pro- priété ? nous conduit secrètement à poser ces questions. 63 Des penseurs comme Blanchot ou Nancy ont répondu en leur temps en nom- mant communauté « inavouable » ou << désœuvrée 64 »> l'aporie du commun. Mais en se tenant eux aussi très loin de l'anar- chisme. Leur question directrice, prise dans une sorte de métaphysique du désastre, est restée jusqu'au bout celle du communisme et de son échec. «L'idée communiste, écrit Nancy, a été depuis qu'elle a surgi - et elle a surgi lorsque le commun a commencé à se sentir et à se savoir brisé, ou bien non avenu l'idée de ce qui ne serait ni Tout, ni Bas, ni collectif, ni social, ni équivalent - ni suffisant, mais qui nous donnerait à tous ensemble la possibilité d'être ensemble puisque nous le sommes. Puisque le com- mun non seulement nous est donné mais est lui-même dans le don de l'existence et que rien, aucun étant, n'est donné sans lui. Mais "lui" n'est rien pour nous : ni totem, ni col- lectif, ni échange, ni communication. » - Il faudrait alors pouvoir parler de rien, parler du rien. Le commun << n'est rien pour nous >>. Proudhon ne serait pas 223 Il n'y a pas eu de Révolution ce néant d'accord. «Rien » n'est pas le bon mot. «Rien » convient à la propriété, qui se fait passer pour quelque chose. Mais ne convient pas au commun. Le com- mun, ce n'est par rien. Non, le commun, c'est personne. Et personne n'est pas rien. Et personne n'est pas commun. Personne n'appartient à personne et c'est loin de n'appartient à personne. On ne peut pas vouloir rien dire ou de n'être rien. Personne mettre personne en commun. ne Ce n'« appartenir à personne »>, qui n'est jamais analysé ni dans les théories du com- mun ni dans les réflexions sur le commu- nisme, ne peut jamais devenir un principe. Sinon, il s'appartiendrait. 

C'est pourquoi mettre en forme personne d'en haut (par principe) est impossible sinon au prix de la domination. Personne ne se forme que mutuellement. Il y a entraide - il n'y a entraide que - parce que personne n'appartient à personne. Personne n'est pas la vacance du pouvoir, mais ce seuil qui la précède. Et dont l'idée est si peu commune. Telle est la raison pour laquelle l'anarchiste est toujours, ce que d'aucuns voient comme une contradiction insoluble, à la fois seul et socialiste. 

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は最終的には必要なくなります。政治の究極の目的は自己抑圧だろう。」 物事は明らかだ。自己組織を擁護し、アナキズムの現代的定義を拒否すること、これが自治のすべてである。 
複数(共通) 
単数(普通)。。。
 この困難は重大であることを認識しなければならないが、その困難は、交換的正義のすべての意味を明確にし、共有の庭と連邦主義の世界観との間に存在する異質性を軽減することから成る。資源管理と政治構築の間。これらすべては、私有財産を超えて民主主義を再定義するという観点からのものであり、民主主義を動機と阻害の単純なルールに還元することを拒否しています。そしてプルードンは最終的にはこの課題に対処できなくなることになる。
 ((プルードンは、1848 年に彼が述べたように、社会を変えるという点では本質的に無能である政府に対して常に最大の不信感を表明してきた。新しい法律は国家のものではない。それは、連合、相互作用、連合の法的形態となるだろうか? 経済が政治を完全に吸収できるのか、それとも非政府組織の形態を発明できるのか 54 >> 
487

これらの質問に答えるために、ダルドーとラヴァルは「コモンズ」を区別している。複数形で、そして単数形で「コモン」とは、基本的には政府にとって、共有のもの、共有物、共有物を区別する必要がある、と著者は続けます。 ((「コミューン」が地方の政治的自治の名前であり、「コモンズ」が個人の集団的な活動によって管理される非常に多様な性質のオブジェクトの名前である場合、「コモン」は正しくは、生命を吹き込む原理の名前です)この活動は同時にこの形態の自治の構築を主宰するものである。」 » コモンとは、コミューンが自己管理による縮小から逃れることを可能にし、それによって民主主義を救う理想である。ああ、パリ・コミューンがダルドーとラヴァルを知っていたら!共通です。この単語は次のように発音されます: (( 原則。「共通」は原則です。男性が共通に開発された基準に従って行動することを約束する統一的かつ連邦主義的な原則です。以来、(( 唯一の原則は政治 217 

連邦の原則である地方自治体の自主性を尊重した革命はこれまでなかった。」コモンの哲学はアナーキストではない。なぜならそれはある原則によって秩序づけられなければならないからである。この原則はプルードン的連邦主義に欠けており、最終的にはそれを新しい新自由主義に酷似させている。したがって、プルードンとオストロムの接近は避けられない。著者らは依然として、原則とは「最初に起こり、他のすべての基礎となるものである。[...] それは真の始まりであり、[...] その後に続くすべてのものを支配し、支配する始まりである。ギリシャ語のアルケーには二重の意味がある」
741-2
と述べている。始まりと命令の意味:アルケは他のすべてが派生する源であり、それがすべてを命令し、命令し、統治するという意味で、私たちは命令を再導入する方法を知らなければなりません。 
善意 
 それにも関わらず、一般的な政治思想は、この「原則」を具体化する能力がほとんどなく、曖昧な善意の中でさまようことになる。 「したがって、共通のものとは、218 年の社会的目的地である直接民主制または自治を明確にする原則である」とラヴァルは宣言する。

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革命はありませんでした。社会 60» それでは、これが今日の私有財産批判の現状なのでしょうか?民主主義活動とは何ですか(正しく理解されていますか?実際には非常に憂鬱に見えるこれらの「ユートピア的慣行」とは何ですか?空想されたギリシャ民主主義が懐かしいです。そして知ってください-最後に、自治はどのような点で純粋に、単に政府ではないのでしょうか?他のものと同様に、あらゆる原則は形而上学的な囲い込みであり、その結果、原則はそれが原則であるものを囲い込み、その範囲を定め、その位置を割り当てるのである。それが支配する要素に対して、このように限界や階層を決定することは必然的に非日常的であり、それを正確に定義すると、すべての原理は自己統治です。それはそれ自体で、それ自体で決定します。これはまた、他者が自治しなければ、「民主主義」という言葉は(「よく理解されている」としても)その主権経済を何も変えないことを意味します。 220 

問われる自治 
権威原理への反感 自治と庶民の擁護者は依然として、第一の問題として最善の政府の探求に焦点を当てる政治の概念に主に依存し続けている。プラトンとともに現れた概念であり、アナーキスト計画でのみ疑問視される。フーコーが適切な言葉を見つけた問い、つまり政治の主要な問題は政府ではなく政府への抵抗である。 ((そうです。ご存知の通り、フーコーは宣言します、もし抵抗がなければ、力関係は存在しないでしょう。なぜなら、すべては単に服従の問題になるからです。個人が自分のやりたいことをできない状況に陥った瞬間から、したがって、彼は力関係を最初に使用しなければならず、その影響下では力関係が変化するすべての力よりも優れたままであるため、私は「抵抗」という用語が最も重要な言葉であり、鍵であると考えています。この力関係の言葉は常に抵抗の優先事項であると述べています。彼の作品を通して、彼は次のような主張を維持しています。最良の封建的関係とその征服の論理を求めて。これらの関係を解消するのに最も適した制度の探索は、この分析から生じますが、事前に存在していたわけではありません。今日のコモンズと自治の思想は決して従属の構造にこだわっていないということは、これらの概念そのものを暗示しているのかもしれない。実際、これまで見てきたように、その体系的な普遍化によって、私有財産に対する闘争、特に保護、植民地化、および/または奴隷制の歴史に関連した闘争の毎回の特異な性格が沈黙させられる。実際、これらの分析は、彼らの主張に反して、「窃盗」の考えを新自由主義的な資源の収奪に限定し、この状況の厳密な政治性を先送り、無期限に留保することによって、経済レベルのみに固執している。理想の民主主義を回避的に探求する。 



問題となる自治 
コミュニティ: 全か無か?集団が共通のものではなかったらどうなるでしょうか?もしコモンが政治の基本的な考え方ではなかったらどうなるでしょうか?財産とは何ですか?密かに私たちにこれらの質問をさせます。 63 ブランショやナンシーのような思想家は、当時、一般的な「言及できない」または「怠惰な」コミュニティのアポリアと呼んで反応しました。しかし、彼らはアナキズムからも遠く離れています。彼らの指針となる問いは、災害に関するある種の形而上学に囚われており、共産主義とその失敗に関する問いとして最後まで残りました。 「共産主義の考えは、それが生じた時からずっとあった。そしてそれは、庶民が自分たちが壊れていると感じ、認識し始めたときに生じた。そうでなければ、ローでも集団でもないものは何でもないという考えが生じた」とナンシーは書いている。 、社会的でも、同等でも、十分でもありませんが、私たちが一緒にいるので、それは私たち全員に一緒にいる可能性を与えます。なぜなら、コモンは私たちに与えられるだけでなく、それ自体が存在という贈り物の中にあり、それなしでは何も、どんな存在も与えられないからです。しかし、「彼」は私たちにとって何ものでもありません。トーテムでも、集合体でも、交換でも、コミュニケーションでもありません。 » - その場合、私たちは何も話さず、何も話さなくてはなりません。よくある「私たちにとっては何でもないこと」。プルードン氏は同意しないだろう。 「何もない」というのは間違った言葉です。何かを装う財産には「何もない」が似合う。しかし庶民には向きません。共通のものは何もありません。いいえ、共通しているのは誰でもない。そして誰も何もないのです。そして、共通していない人は誰もいません。誰も誰のものでもありませんし、誰のものでもないわけではありません。私たちは何も言わないことや、何もないことを望むことはできません。人は人を共通に置きます。この「誰にも属さない」ということは、共通理論でも共産主義の考察でも決して分析されることはなく、決して原理になり得ない。そうでなければ、彼は自分自身のものになってしまうでしょう。

これが、支配を犠牲にしない限り、上から誰かを形作ることが(原則として)不可能である理由です。お互い以外には誰もトレーニングしません。相互扶助が存在します - 相互扶助だけが存在します - 誰も誰にも属していないからです。誰も権力の欠如ではなく、権力に先行するこの閾値なのです。そして、そのアイデアはとても珍しいです。これが、アナキストが常に、単独でありながら社会主義者であり、一部の人が解決不可能な矛盾であると見なしている理由です。 

【日航機墜落事故】海外メディアが事故直後のニュースで真実を報道していた【海外の反応】

以下、小田周二*著『永遠に許されざる者』(2021)より


《8月12日、 自衛隊の戦闘機による訓練演習があり、 その時に自衛隊標的機が暴走し、

日航123便に激突して、 垂直尾翼と油圧装置を破壊脱落させたのである。

この緊急事態について、 当時百里基地の稲吉司令官がその同期の友人に電話で

「えらいことをした。 標的機を民間機 (日航機)に当ててしまった。 今百里基地

から、 偵察機2機を追尾させている」と話した。

当時F4Eの一部の機体は偵察機に改造されて百里基地に配備されている。 そして

現在でも、百里基地には 偵察機部隊が存在するのである。

それではこの情報で稲吉司令官は誰に電話で話をしたかである。

それは第2次世界大戦での戦友である岩田裕次郎氏で、 直接稲吉司令官から

聞いたと証言しているのである。》


*小田周二 (おだ しゅうじ) 1937年、奈良県生まれ。

・日航機事故遺族(日航123便撃墜事件 1985.8.12) 犠牲者名 次男小田浩二(15歳)、長女小田陽子(12歳)、中上岑子(37歳)、中上義哉(12歳)、中上佳代子(10歳)の5名 

・日本の空の安全を願う会主宰

2024年10月11日金曜日

永遠に許されざる者 日航123便ミサイル撃墜事件及び乗客殺戮隠蔽事件の全貌解明報告 電子書籍: 小田 周二: Kindleストア



以下、小田周二著『永遠に許されざる者』より

《8月12日、自衛隊の戦闘機による訓練演習があり、その時に自衛隊標的機が暴走し、
日航123便に激突して、垂直尾翼と油圧装置を破壊脱落させたのである。
この緊急事態について、当時百里基地の稲吉司令官がその同期の友人に電話で
「えらいことをした。標的機を民間機(日航機)に当ててしまった。今百里基地
から、偵察機2機を追尾させている」と話した。
当時F4Eの一部の機体は偵察機に改造されて百里基地に配備されている。そして
現在でも、百里基地には偵察機部隊が存在するのである。
それではこの情報で稲吉司令官は誰に電話で話をしたかである。
それは第2次世界大戦での戦友である岩田裕次郎氏で、直接稲吉司令官から
聞いたと証言しているのである。》