2024年11月19日火曜日

マイモニデスとスピノザ

 


https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/blog-post_19.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/7480704528573632918


 (4)哲学的理解(第1部68章-88章)

 68章と69章には、哲学者の描く神が記述されている。彼は68章で、哲学者の描く神とは、「知性 (al-'aql) であり、知性的に認識するもの[主体](al-'āqil) であり、さらに知性的に認識されるもの[客体] (al-ma'qūl)であって、それら三つの様相が、多性のない一つの意味を持つ」と述べている。この記述に関して、彼は次のように解説する。神は一であり、一切付加され得るものではなく、また、神の命は神の本質そのものであるために、生ける神によってとは言われても、神の命によってとは言われない。人は可能態として知性的に認識する主体であるが、可能であることと現実にそうであることとは同じではなく、他方、知性と形相の関係において、形相とは現実化した知性であるため、知性と知性的に認識された形相は別個のものではない。なぜなら、現実化した知性とは、知性的に認識されたもので、知性の働きはその本質と同一で、知性の本質とは理解のことだからである。


 次の69章で、彼は、哲学者が神を第一原因と呼ぶ点について論じている。彼らが神を第一原因、もしくは不動の動者と呼ぶのは、すべての事物には原因、すなわち、アリストテレスが言うところの質料、形相、始動因、目的因の四原因が存しているからであるが、神は始動因であり、形相であり、かつ目的でもあると考えられることから、始動因、形相、目的因は同一のものとして捉えられると、彼は指摘している。


マイモニデスにおける神への道程―神の知解と人間の生き方の相関性を巡って― 単行本 – 2024/2/10 


68~69頁


 
サッカレーの娘と格言とマイモニデス





Maimonides's 4 Brilliant Quotes for Intellectual Enlightenment #quotes #... https://youtube.com/shorts/KQtHYDcFCkQ?si=SnwHYol_DrFk2DAs @YouTubeより


スピノザ
神学政治論
第七章

[二十]マイモニデスにはこれとまったく違った見解があった。彼の考えるところでは、たしかに聖書はそれぞれの箇所で違う意味、時には反対の意味すら持ちうるし、わたしたちはそうした箇所の真意について確信を得られないように見える。しかしそれはわたしたちが解釈の仕方を知らないからであり、こちらの解釈次第では、そこには理性にそぐわないことや反することは何一つ含まれなくなるはずだという。つまり、もし文字通りの意味に取れば理性に反すると分かったら、いくら文字通りの意味が明らかであっても、その箇所を違う意味に解釈すべきだとマイモニデスは主張するのである。このことは『迷えるものの導き』第二部二十五章でもはっきりと述べられている。マイモニデスの言い分はこうだ。

  「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。  わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」 

31 『迷えるものの導き』は元々アラビア語で書かれた著作だが、既にマイモニデスの存命中(十三世紀初頭)にイブン・ティボン(Samuel ibn Tibbon:一一六〇~一二三〇)という人物の手で最初のヘブライ語訳が作られている(『迷えるものの導き(モレー・ネヴヒム)』という西欧で知られた呼び名も、このヘブライ語訳に付けられた題名に由来する)。スピノザはこのイブン・ティボンのヘブライ語訳を所持していた。原文ではラテン語訳文とイブン・ティボンのヘブライ語訳文が併記されており、ラテン語訳文中の( )の語句はスピノザが付加した説明である。
 32 マイモニデスの引用からここまでの文章は、議論が凝縮されていて非常に分かりにくい。多少の意訳では対応しきれないため、訳者の解釈に従い、随所で文意を補っておく。 
33 いずれも本章九節の話題の続きである。

 以上がマイモニデスの言葉である(31)。わたしが先ほど述べたことは、以上の言葉から明らかに帰結する。つまり、もしマイモニデスにとって、世界が永遠であることが理性的に見て明らかだったなら、彼は間違いなく聖書を曲げて説明し、結局はこのことを聖書も説いているかのように見せようとしただろう。それだけではない。たとえ聖書が至る所で明白に反対のことを主張していても、彼は直ちに、聖書は[本当は]世界が永遠であることを説こうとしていたのだと確信したことだろう。ということは、マイモニデスはたとえ聖書の真意が[文字通りには]明白な場合でも、それが真理にかなっているかどうか疑わしい限りは、あるいは真理にかなっていることが彼自身[の理性]にとって明白でない限りは、その真意を確信できないことになる。つまり[聖書に説かれている]ものごとが真理にかなっているかどうか不確かな限りは、わたしたちはそれが理性にかなっているか反しているか分からず、したがってまた、文字通りの意味が本当か間違いかも分からないことになる。
  仮にこうした主張が当たっていたら、わたしは否応なく、わたしたちが聖書を解釈するには自然の光とは別の何かが必要だと認めざるをえなかったろう。聖書各巻に見られるほとんどすべてのことは、(既に示したように)自然の光によって知られる原則からは導き出せないからである。その場合、自然の光ではそれらが真理を語っているかどうか見極められないのだから、わたしたちは聖書の真意や考えについても分からないし、分かろうとすれば当然別の光を必要とすることになったろう。さらに、もしこの主張が当たっていたら、ふつうは[自然の光による]証明など解さない、というか証明などに関わっていられない民衆は、聖書の内容については哲学者たちの示す権威や証言を丸呑みすることしかできないはずだ。だとすると彼らは、哲学者たちが聖書解釈を絶対に誤らないと決めてかかることを迫られる。しかしこれは哲学者たちを新しい教権、新しい司祭あるいは新しい法王とするようなものであり、民衆には敬われるよりも笑い飛ばされるのが関の山だろう。
  わたしたちの方法でも、ヘブライ語の知識は必須である。そして[今の]民衆は、やはりヘブライ語の習得などに関わってはいられない。しかしだからといって、今述べたのと同じような反論がわたしたちに向けられることはありえない。というのも、かつて預言者や使徒たちも民衆に向けて教えを説いたりものを書いたりしたわけだが、当時のユダヤ人その他の民衆は預言者や使徒たちの言語が分かっていたし、またこの言語によって預言者たちの考えをつかんでいたからである。もちろん当時の民衆にも、預言者たちがそうしたことを説いた[合理的な]根拠まで分かっていたわけではない。ところがマイモニデスの主張によれば、預言者たちの考えをつかむにはそのような根拠まで知らなければならないというのである。  このように、民衆が解釈者[=哲学者]たちの言いなりで満足するしかないという[先ほどの]結論は、わたしたちの方法からは必ずしも導かれない。わたしがここで念頭に置く民衆とは、預言者や使徒たちの言語を知っていた民衆のことだからだ。これに対し[そのような結論を回避しようとするなら]、マイモニデスは[単にヘブライ語を知っているだけでなく]ものごとの原因を理解でき、またものごとの真意をその原因にさかのぼって特定できるような民衆を[想定しなければならないはずだが、明らかにそのような民衆を]想定していない。 
 また、たとえ今の[=ヘブライ語を知らない]民衆に話を移しても、わたしたちの方法の優位は動かない。わたしたちが既に示したように、救いを得るために必要な教えは、たとえその[合理的な]根拠までは分からなくても、どのような言語でも簡単に理解できることばかりだからだ。それらはそれほどまでに、誰にでも共通する当たり前のことなのである。だから今の民衆も、[ヘブライ語を知らないからといって]解釈者たちの言いなりで我慢しなくてよいことになる。彼らはむしろ、[聖書の説く教えを]自ら理解することによって安心できるのである。そしてその他の点については、学がある人もない人も、置かれた境遇に大差はない(32)のだ。

[二十一]しかしマイモニデスの主張に立ち返って、さらに詳しく検討してみよう。まずこの主張では、預言者たちは何事についても意見が一致していて、しかも全員が哲学者であり神学者であったと想定されている。預言者たちは真理に基づいて結論を引き出したことにされているからだ。しかしこれが誤りであることは既に第二章で示しておいた。  さらにこの主張では、聖書の意味を聖書そのものによって確定することが不可能だと想定されている。真理が聖書によって確定されることはないからだ(そもそも聖書は何一つ証明していないし、何を語るにせよそれを基本原則や第一原因にさかのぼって説くことはないのだから)。したがってマイモニデスの主張によると、聖書の真意を聖書そのものによって確定することも、聖書そのものから得ようとすることもできなくなる。しかしこれも誤りであることは、本章で明らかにした通りである。既に理論と実例のどちらでも示したように、聖書の意味は当の聖書だけによって確定できるし、聖書だけから得ることができる。これは聖書が自然の光によって知られることを語っている箇所でも変わらない。  さらにこの主張では、わたしたちはあらかじめ持っている考えに合わせて聖書の言葉を説明し、ねじ曲げ、いくら文字通りの意味が明らかではっきりしていても否定し、別のどのような意味に読み変えても構わないと想定されている。既にこのこと自体、わたしたちが本章その他で論証してきたことに真っ向から矛盾しているのだが、それをひとまず問わないとしても、このようなお墨付きを与えるのがやり過ぎであり無謀であることは誰の目にも明らかだろう。ここまでやりたい放題を認めておいて、一体どういう成果が得られるだろうか。間違いなく、得られるものは何一つない。聖書の大部分はそもそも論証のしようがないものごとで占められていて、それらを今述べたような仕方で探究することなど不可能だし、またこれらに今述べたような基準に従って説明や解釈を付けることも不可能なのだ。一方わたしたちの方法に従うなら、こうした類のことを数多く解明できるし、[たとえ最終的な解明が難しい場合でも]手堅く論じることができる。このことは既に、理論と実例に即して示しておいた。また、これも既に示したように、その本来的な性質からして分かりやすい事柄ならば、その意味は文章の前後関係からだけでも簡単に読み取れる。  そういうわけで、この[マイモニデスの]方法には何の利点もない。しかもこの方法は、民衆がまじめに聖書を読みさえすれば得られるような確信であれ、また誰もがもう一つの[つまりわたしたちの]方法に従えば得られるような確信であれ、およそ聖書の真意についてのありとあらゆる確信をひとびとから残らず取り上げてしまう。だからこそ、このマイモニデスの主張は有害無益で馬鹿げており、わたしたちはこれを受け入れるわけにはいかないのである。 [二十二]さらにパリサイ人たちの伝統についていえば、既に述べたように、これには筋が通っていない。また[歴代の]ローマ法王たちの権威なるものは、[信用するには]もっとはっきりした証拠が必要である(33)。まさしくこの理由から、わたしは法王の権威を認めない。実際、もし法王たちが彼らの権威を、かつてユダヤ人の大祭司たちがそうしたのと同じくらい確かに、聖書そのものに基づいて示すことができたならば、たとえ彼らの中に異端者や不届き者がいてもわたしは動じなかったろう。かつてヘブライ人の大祭司たちの中にも、異端者や不届き者はいたからである。彼らはいかがわしい手口で大祭司の地位に就いたけれども、それにもかかわらず、法を解釈する至高の権力が彼らの下にあることは聖書の指図から明らかだった。これは『申命記』第十七章十一~十二節や第三十三章十節や『マラキ書』第二章八節を参照してほしい。ところがローマ法王たちはそのような証拠を示してくれないのだから、わたしたちにとって彼らの権威はきわめて疑わしいものでしかない。  ヘブライ人の大祭司の例に惑わされて、普遍的宗教[としてのキリスト教]にも法王が必要だと思い込む人が出ないように、ここで注意しておくべきことがある。そもそもモーセの律法は[ユダヤ人の]国の公の法だった。だからこそ、これを守るためには必然的に、何らかの公の権威が求められたのである。もし誰もが好き勝手に公の法を解釈する自由を持っていたら、どんな国でも存続できず、むしろこれによって直ちに解体されてしまうからだ。その時には公の法は[ひとそれぞれの]私の法となってしまう。  ところが宗教は事情がまったく違う。宗教で重要なのは外的な行いよりもむしろ純朴で誠実な心を持つことなのだから、宗教はどのような公の法にも権威にも支配されない。どんなに法で命じても、どんな公の権威を立てても、ひとびとの心に純朴さや誠実さを注ぎ込むことはできないからだ。暴力や法律で強制されて幸福になれる人間はただの一人もいない。ひとが幸福になるために必要なものは、道徳をわきまえた親切な忠告であり、よい教育であり、そして何よりもまず、自分自身の自由な判断なのである。  こういうわけで、ひとはそれぞれ、ものごと(これには宗教のことも含まれる)を自由に考える至高の権利を持っている。そしてこの権利を放棄できる人がいるなどとは到底考えられない。ということは、宗教について自由に判断する至高の権利や権威も、ひいては宗教を自分に納得のいくように説明し解釈する権利や権威も、やはり各人が持っているのである。法を解釈する至高の権威や、公のものごとについての最終的な判断が政府に委ねられるのは、これらが公の法の一部だからに他ならない。これと同じ理由から、宗教上のことを説明したり判断したりする至高の権威は、ひとそれぞれに委ねられる。それはつまり、これが各人の権利の一部だからである。したがって、ヘブライ人の大祭司に国の法を解釈する権威があったからといって、ローマ法王に[キリスト教という]宗教を解釈する権威があると結論するのは全くの筋違いというものだろう。そのような前提でいくと、むしろ反対に、宗教の解釈権はもっぱらひとそれぞれに委ねられていると結論する方が無理がないからである。  ここからも、わたしたちの方法こそ聖書解釈の最善の方法であることが分かる。もし聖書解釈の至高の権威が各人に委ねられるなら、その解釈の基準は超自然の光でも外部の権威でもなく、誰にでも共通の自然の光によるしかないからだ。またその基準は、最高に頭の切れる哲学者でないと扱いきれないほど難しいものではなく、ひとびとの誰もが当然持っているはずの気質や能力に見合ったものでなければならない。既に示した通り、そうした基準にはわたしたちの方法こそがふさわしい。わたしたちの方法も現在いくつかの困難を抱えているが、それらは既に見たように[過去の]ひとびとの怠慢に由来するものであり、方法そのものの性質に由来するものではないからである。


第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について [一]哲学と神学を切り離して考えられない人たちは、よく言い争っている。聖書が理性に奉仕するべきか、それとも反対に理性が聖書に奉仕するべきか、つまり聖書の主張を理性に従わせるべきか、それとも理性を聖書に従わせるべきか、というのである。そして理性の確かさを認めない懐疑論者たちは後者に味方し、[理性を万能視する]独断論者たちは前者に味方する。しかし既に述べてきたことから明らかなように、どちらの側も完全に誤っている。どちらの考えに従っても、理性か聖書のどちらかを必ず台無しにしてしまうからである。  これまで示してきたように、聖書は哲学的な事柄ではなく、ただ道徳心だけを教えている。聖書に含まれるすべての内容は、民衆の理解力や先入見に合わせられていたのである。だから聖書を理性に従わせようとすれば、その人は間違いなく預言者たちに、彼らが夢にも考えていなかったようなことを大量に背負い込ませて、彼らの言いたかったことを誤って理解することになるだろう。反対に理性や哲学を神学の下働きにしようとすれば、その人は昔の民衆の偏見にすぎないことを神聖な事柄として認めるよう求められ、偏見に心を奪われ目をくらまされてしまうだろう。ということは、どちらにしても正気を失うことになる。後者は理性なしに狂い、前者は理性とともに狂うのである。 [二]パリサイ人たちの中で、聖書を理性に従わせるべきだとはっきり唱えた最初の人物はマイモニデスだった(この人の主張は第七章で取り上げ、たくさんの論拠を挙げて反論しておいた)。マイモニデスという著作家は、たしかにパリサイ人たちの間では大きな権威を持っている。ところが彼らの大部分は、この問題に関してはマイモニデスに従わず、むしろイェフダ・アルパカル(1)とかいう律法学者の主張に従った。こちらはマイモニデスの陥った誤りを避けようとして、それと正反対の誤りに陥った人物である。つまりこの人は、理性こそ聖書に仕えるべきであり、徹底的にその支配下に置かれるべきだと主張したのだ(2)。したがって彼によると、聖書の中のどの箇所も、文字通りに理解すれば理性に反するというだけの理由で比喩的に説明してはならないという。比喩的な説明が許されるのは、ただ聖書そのものに反する箇所、つまり聖書のはっきり説いている信仰箇条に反する箇所に限られるというのである。

マイモニデス2
CHAPTER XXV We do not reject the Eternity of the Universe, because certain passages in Scripture confirm the Creation; for such passages are not more numerous than those in which God is represented as a corporeal being; nor is it impossible or difficult to find for them a suitable interpretation. We might have explained them in the same manner as we did in respect to the Incorporeality of God. We should perhaps have had an easier task in showing that the Scriptural passages referred to are in harmony with the theory of the Eternity of the Universe if we accepted the latter, than we had in explaining the anthropomorphisms in the Bible when we rejected the idea that God is corporeal. For two reasons, however, we have not done so, and have not accepted the Eternity of the Universe. First, the Incorporeality of God has been demonstrated by proof; those passages in the Bible, which in their literal sense contain statements that can be refuted by proof, must and can be interpreted otherwise. But the Eternity of the Universe has not been proved; a mere argument in favour of a certain theory is not sufficient reason for rejecting the literal meaning of a Biblical text, and explaining it figuratively, when the opposite theory can be supported by an equally good argument. Secondly, our belief in the Incorporeality of God is not contrary to any of the fundamental principles of our religion; it is not contrary to the words of any prophet. Only ignorant people believe that it is contrary to the teaching of Scripture; but we have shown that this is not the case; on the contrary, Scripture teaches the Incorporeality of God. If we were to accept the Eternity of the Universe as taught by Aristotle, that everything in the Universe is the result of fixed laws, that Nature does not change, and that there is nothing supernatural, we should necessarily be in opposition to the foundation of our religion, we should disbelieve all miracles and signs, and certainly reject all hopes and fears derived from Scripture, unless the miracles are also explained figuratively. The Allegorists amongst the Mohammedans have done this, and have thereby arrived at absurd conclusions. If, however, we accepted the Eternity of the Universe in accordance with the second of the theories which we have expounded above (ch. xxiii.), and assumed, with Plato, that the heavens are likewise transient, we should not be in opposition to the fundamental principles of our religion; this theory would not imply the rejection of miracles, but, on the contrary, would admit them as possible. The Scriptural text might have been explained accordingly, and many expressions might have been found in the Bible and in other writings that would confirm and support this theory. But there is no necessity for this expedient, so long as the theory has not been proved. As there is no proof sufficient to convince us, this theory need not be taken into consideration, nor the other one; we take the text of the Bible literally, and say that it teaches us a truth which we cannot prove; and the miracles are evidence for the correctness of our view. Accepting the Creation, we find that miracles are possible, that Revelation is possible, and that every difficulty in this question is removed. We might be asked, Why has God inspired a certain person and not another? why has He revealed the Law to one particular nation, and at one particular time? why has He commanded this, and forbidden that? why has He shown through a prophet certain particular miracles? what is the object of these laws? and why has He not made the commandments and the prohibitions part of our nature, if it was His object that we should live in accordance with them? We answer to all these questions: He willed it so; or, His wisdom decided so. Just as He created the world according to His will, at a certain time, in a certain form, and as we do not understand why His will or His wisdom decided upon that peculiar form, and upon that peculiar time, so we do not know why His will or wisdom determined any of the things mentioned in the preceding questions. But if we assume that the Universe has the present form as the result of fixed laws, there is occasion for the above questions; and these could only be answered in an objectionable way, implying denial and rejection of the Biblical texts, the correctness of which no intelligent person doubts. Owing to the absence of all proof, we reject the theory of the Eternity of the Universe; and it is for this very reason that the noblest minds spent and will spend their days in research. For if the Creation had been demonstrated by proof, even if only according to the Platonic hypothesis, all arguments of the philosophers against us would be of no avail. If, on the other hand, Aristotle had a proof for his theory, the whole teaching of Scripture would be rejected, and we should be forced to other opinions. I have thus shown that all depends on this question. Note it. CHAPTER XXVI


  「わたしたちが世界は永遠にわたって存在していたと言おうとしないのは、聖書の中に世界の創造について書かれた章句が登場するからではない。このことは重々承知しておいてもらいたい。実際、世界が創造されたことを説いている箇所は、神が身体を持つ[という明らかに理性に反する]ことを説いている箇所ほど多くはない。またこの資料[=聖書]の中に見出される世界の創造についての章句(30)を[世界の永遠性を結論するのに都合よく]説明しようとするなら、そのための[比喩的解釈という]手段は、遮られも妨げられもせずわたしたちの手中にある。だからわたしたちは、神[の観念]から身体性を取り除いた時に行ったような仕方で、こうした箇所を[ただのたとえ話として]説明することもできたろう。また恐らく、尊き神の身体性を否定するために聖書を[比喩的に]説明した時と比べたら、この場合の方がずっと簡単にそうした説明を行えただろう。わたしたちがそれらの章句を[比喩的に]説明して、世界が永遠であるという見解を支持することも、ずっと無理なく行えただろう。しかし、わたしはそうしなかったし、またそうとは(つまり世界が永遠であるとは)思わなかった。  わたしにそう決めさせた理由は二つある。第一に、神が身体を持たないことは明らかな証明によって確定しているから、もし文字通りに読めばこの証明に反するような箇所があったら、そうした箇所はすべてきちんと説明する必要がある。つまりその場合には、確かにそれらの箇所は説明を(つまり文字通りの意味とは違った説明を)付けなければならない。これに対して、世界が永遠であることは証明によって示されているわけではない。それは一見明らかではあるが、何かもっともな根拠が示されたらその反対にも傾きうるような見解なのである。したがってそのような見解に肩入れする目的で、聖書各巻に圧力をかけてまでこれを[比喩的に]説明する必要はない。第二に、神が身体を持たないと考えても[モーセの]律法の基本原則には反しない(中略)。しかし、もしアリストテレスに見られたような形で世界が[神に創造されたのではなく]永遠であると考えてしまうと、律法をその根本から解体することになる(以下略)。」 

第 25 章 我々は、聖書のある箇所が創造を確証しているからといって、宇宙の永遠性を否定するのではない。なぜなら、そのような箇所は、神が肉体を持った存在として表現されている箇所より多くはなく、また、それらに適切な解釈を見つけることが不可能でも困難でもないからである。我々は、神の無形性に関して行ったのと同じ方法でそれらを説明できたかもしれない。我々が後者を受け入れたならば、言及された聖書の箇所が宇宙の永遠性の理論と調和していることを示すことは、神が肉体を持っているという考えを拒否したときに聖書の擬人化を説明することよりも容易だったであろう。しかし、2 つの理由から、我々はそうせず、宇宙の永遠性を受け入れなかった。第一に、神の無形性は証拠によって実証されている。文字通りの意味では証拠によって反駁できる記述を含む聖書の箇所は、別の方法で解釈しなければならないし、またそうすることができる。しかし、宇宙の永遠性は証明されていません。特定の理論を支持するだけの議論は、聖書のテキストの文字通りの意味を拒否し、比喩的に説明する十分な理由にはなりません。反対の理論が同様に優れた議論によって裏付けられる場合です。第二に、神の無形性に対する私たちの信念は、私たちの宗教のどの基本原則にも反していません。どの預言者の言葉にも反していません。無知な人々だけが、それが聖書の教えに反すると信じていますが、私たちはそうではないことを示しました。それどころか、聖書は神の無形性を教えています。もし、アリストテレスが説いた宇宙の永遠性、つまり宇宙のすべては不変の法則の結果であり、自然は変化せず、超自然的なものは何もないという理論を受け入れるなら、私たちは必然的に私たちの宗教の根幹に反することになるので、

すべての奇跡や兆候を信じず、聖書から得られるすべての希望や恐れを、奇跡が比喩的にも説明されていない限り、拒絶することになる。イスラム教徒の中の寓話主義者たちはこれを行い、それによって不合理な結論に達した。しかし、もし私たちが上で説明した理論の2番目(第23章)に従って宇宙の永遠性を受け入れ、プラトンと共に天も同様に儚いと仮定するなら、私たちは私たちの宗教の根本原理に反することはない。この理論は奇跡を拒絶することを意味するのではなく、逆に奇跡が起こり得ることを認めることになる。聖書のテキストはそれに応じて説明されたかもしれないし、聖書や他の文献の中にこの理論を確認し支持する多くの表現が見つかっているかもしれない。しかし、理論が証明されていない限り、この手段は必要ない。私たちを納得させるのに十分な証拠がないので、この理論を考慮する必要はない。あるいは、他のいずれでもない。我々は聖書の本文を文字通りに受け取り、聖書は証明できない真実を教えているのだと言う。そして奇跡は我々の見解の正しさの証拠だと言う。創造を受け入れると、奇跡は可能であり、啓示は可能であり、この問題のあらゆる困難は取り除かれることが分かる。我々はこう尋ねられるかもしれない。「なぜ神はある人に霊感を与え、別の人には与えなかったのか?なぜ神はある特定の国民に、ある特定の時期に律法を明らかにしたのか?なぜ神はこれを命じ、あれを禁じたのか?なぜ神は預言者を通して特定の奇跡を示したのか?これらの律法の目的は何なのか?そして、我々がそれらに従って生きることが神の目的であるなら、なぜ神は戒めや禁止事項を我々の性質の一部にしなかったのか?」我々はこれらの質問すべてにこう答える。「神がそのように望んだ、あるいは神の知恵がそう決めたのだ。」神がその意志に従って、ある時、ある形で世界を創造したのと同じように、神の意志や知恵がなぜその特別な形、その特別な時を決めたのか私たちにはわからないのと同じように、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決めたのかもわかりません。しかし、宇宙が固定された法則の結果として現在の形になっていると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、反論的な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証明によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、哲学者たちが私たちに対して主張するすべての議論は役に立たないからです。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章そして、神の意志や知恵がなぜその特異な形態と、その特異な時を決定したのかが分からないのと同様に、神の意志や知恵が前述の質問で述べた事柄のいずれかをなぜ決定したのかも分かりません。しかし、宇宙が現在の形態をとっているのは固定された法則の結果としてであると仮定すると、上記の質問が必要になります。そして、これらの質問には、賢明な人なら誰もその正しさを疑わない聖書のテキストを否定し、拒絶するという、不快な方法でしか答えられません。証拠がまったくないため、私たちは宇宙の永遠性の理論を拒絶します。そして、まさにこの理由から、最も高貴な精神を持つ人々は研究に日々を費やしてきましたし、これからもそうするでしょう。なぜなら、創造が証拠によって証明されていたとしても、たとえプラトンの仮説に従ったものであったとしても、私たちに対する哲学者のすべての議論は役に立たなかったでしょう。一方、アリストテレスが彼の理論を証明したなら、聖書の教え全体が否定され、我々は他の意見を取らざるを得なくなるだろう。このようにして、私はすべてがこの問いにかかっていることを示した。この点に注意せよ。第26章

2024年11月17日日曜日

Maimonides, Spinoza and Us: Toward an Intellectually Vibrant Judaism (English Edition) 1st 版, Kindle版 英語版 Rabbi Marc D. Angel, PhD (翻訳) 形式: Kindle版

 


Maimonides, Spinoza and Us: Toward an Intellectually Vibrant Judaism (English Edition) 1st 版, Kindle版 

Prophets and Philosophers Interestingly, both philosophers envisioned the ideal seeker of Truth in similar terms. For Rambam, human perfection is reached by apprehending God in as clear a manner as possible. “The way of life of such an individual, after he has achieved this apprehension, will always have in view loving-kindness, righteousness, and judgment, through assimilation to His actions, may He be exalted….”21 Such a person will be serene and filled with inner joy. For Spinoza, the ideal person will love God (apprehended through reason) and will be in control of his mind and emotions. The wise man “is scarcely at all disturbed in spirit, but, being conscious of himself and of God and of things by a certain eternal necessity, never ceases to be, but always possesses true acquiescence of his spirit.”22 Nevertheless, an unbridgeable gap separates Rambam and Spinoza in their understanding of the “ideal” human being. Rambam sees the prophet as the highest example of humanity, and Moses as the highest example of prophets.23 The prophet is not only endowed with great intellect and power of reason, but is also uniquely pious and devoted to God and Torah. Prophecy is a gift from God, raising the already brilliant philosopher to a higher level of closeness with God. Different prophets reached different degrees of prophecy, with Moses having reached the most intimate knowledge of God that is possible for humans. Rambam pointed out in the introduction to his Guide of the Perplexed that human beings are simply not able to reach a full understanding of the ultimate mysteries. He used the image of lightning to describe how different intellects attain aspects of Truth. Humans are in a dark night; when lightning flashes, they get a sudden glimpse of the reality around them. Moses was on such a lofty spiritual and intellectual level that it was as though the lightning flashed constantly for him and the night became as day. Lesser prophets received lesser numbers and lesser degrees of lightning flashes, so they perceived far less than Moses but far more than others who were not blessed with these great flashes of insight. Some human beings experience the lightning at greater or shorter time intervals. Others only attain illumination indirectly, from reflections of the lightning on shiny objects. And yet others remain in darkness and never see light. For Spinoza, the ideal human being is a philosopher, not a prophet. Indeed, Spinoza’s reading of the Bible led him to the conclusion that the prophets were not necessarily outstanding thinkers, but rather were highly emotional visionaries. Some of them were relatively simple shepherds, with no biblical evidence pointing to their intellectual abilities. Spinoza’s philosophy did not have room for a God who could communicate with humans, including prophets. God was the ideal Truth to which the human intellect needed to direct itself. This intellectual love of God was for its own sake, without the possibility of God talking with or rewarding the philosopher. In his Ethics (part 5, propositions 15 and 16), he teaches that “he who clearly and distinctly understands himself and his emotions loves God, and loves Him better the better he understands himself and his emotions. This love of God above everything else ought to occupy the mind.”24 Both Rambam and Spinoza extolled the virtue of reason, yet for Spinoza, reason was all that humanity had in its quest to understand/love God. The philosopher, who was devoted to rational analysis, was the one most able to fulfill human potential. Spinoza’s idea of God is precisely that: an idea—a philosophical construct. Rambam, though, recognized that God was not merely an “idea” but a “being.” The ultimate truth of revelation is that God can and does communicate with humans. Although Rambam’s understanding of God is quite intellectualized, it has room for a God with whom human beings can and do have a genuine, ongoing relationship.


21.  Guide 3:54, p. 638.

 22.  Spinoza, The Ethics, trans. R. H. M. Elwes (New York: Dover Publications, 1955), p. 270. 

23.  Maimonides, Mishneh Torah, Yesodei haTorah, chaps. 7–8. 

24.  Ethics, p. 255.

 25.  Guide 1:31, p. 65.


 預言者と哲学者 興味深いことに、どちらの哲学者も、真理を求める理想的な人物を同じような言葉で描いています。ランバムにとって、人間の完成は、神をできる限り明確に理解することによって達成されます。「このような理解を達成した後のそのような人物の生き方は、常に慈愛、正義、そして分別を念頭に置き、神の行為に同化することで、神を高められますように…」21 そのような人物は穏やかで、内なる喜びに満たされます。スピノザにとって、理想的な人物は神を愛し(理性によって理解)、自分の心と感情をコントロールします。

賢者は「精神的にほとんど動揺せず、ある永遠の必然性によって自分自身と神と物事を意識し、決して存在しなくなることなく、常に自分の精神の真の従順さを持ちます」22 

とはいえ、ランバムとスピノザの「理想的な」人間の理解には、埋められない溝があります。

ラムバムは、預言者を人類の最高の例、モーセを預言者の最高の例とみなしています。23 

預言者は、優れた知性と理性に恵まれているだけでなく、神とトーラーに独特の信心深さと献身を捧げています。預言は神からの賜物であり、すでに優れた哲学者を神とのより高いレベルの親密さへと引き上げます。預言者によって預言のレベルは異なりますが、モーセは人間が可能な最も親密な神に関する知識に達しました。

ラムバムは『迷える人々への手引き』の序文で、人間は究極の神秘を完全に理解することはできないと指摘しました。

彼は、さまざまな知性が真理の側面に到達する様子を、稲妻のイメージで表現しました。人間は暗い夜にいます。稲妻が光ると、周囲の現実を突然垣間見ることができます。モーセは精神的、知的レベルが非常に高かったため、稲妻が絶えず光り、夜が昼のようになったかのようでした。下位の預言者は、より少ない回数と程度の稲妻の閃光を受けたため、モーセよりはるかに少ないことを知覚しましたが、これらの偉大な洞察の閃光に恵まれなかった他の人々よりはるかに多くのことを知覚しました。人間の中には、稲妻を長い時間間隔または短い時間間隔で経験する人もいます。他の人は、光る物体に稲妻が反射することによって間接的に啓示を得るだけです。そして、暗闇の中にとどまり、光を見ることのない人もいます。スピノザにとって、理想的な人間は、預言者ではなく哲学者です。実際、スピノザは聖書を読んで、預言者は必ずしも傑出した思想家ではなく、非常に感情的な先見者であるという結論に至りました。彼らの中には、比較的単純な羊飼いで、彼らの知的能力を示唆する聖書の証拠がまったくない人もいました。スピノザの哲学には、預言者を含む人間とコミュニケーションできる神の余地はありませんでした。神は、人間の知性が向かう必要のある理想的な真理でした。神に対するこの知的な愛は、それ自体のためにありました。神が哲学者と話したり、報奨を与えたりする可能性がなければ、神は哲学者と対話したりはしない。『エチカ』(第 5 部、命題 15 と 16)で、

彼は「自分自身と自分の感情をはっきりと明確に理解する人は神を愛し、自分自身と自分の感情をよりよく理解すればするほど、神をより深く愛する。何よりも神へのこの愛が心を占めるべきである」と教えている。24 

ランバムもスピノザも理性の美徳を称賛したが、スピノザにとって、理性は神を理解し愛するための人類の探求において人類が持つすべてであった。合理的分析に専念した哲学者こそ、人間の可能性を最も実現できる人物であった。スピノザの神の概念は、まさにそれ、つまり観念、つまり哲学的構築物である。しかしランバムは、神は単なる「観念」ではなく「存在」であることを認識していた。啓示の究極の真実は、神は人間とコミュニケーションできるし、実際にコミュニケーションしているということである。ラムバムの神についての理解は極めて理性的なものではあるが、人間が真に継続的な関係を持つことができる神が存在する余地がある。

2024年11月16日土曜日

A Guide for the Perplexed (English Edition) Kindle版 英語版 Moses Maimonides (著), Paul A Boer Sr (編集), M Friedlaender (翻訳) 形式: Kindle版

 

https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/11/a-guide-for-perplexed-english-edition.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/4988440532196160528


…また68章、69章では哲学者の説を紹介し、それを以て神を"思惟するものと思惟されるものとが同じである思惟"として説明し、形而上学を深く修めた者でなければ理解することができない教説としている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3


lxviiiの意味・使い方 - 英辞郎 - アルク


https://eow.alc.co.jp
>search
>q=lxviii



LXVIII 【名】《ローマ数字》68◇(50+10)+(5+1+1+1)=(L+X)+(V+I+I+I)=LXVIII◇【参考】Roman numeral - アルクがお届けするオンライン英和・和英辞書検索サービス。


A Guide for the Perplexed (English Edition) Kindle版 

CHAPTER LXVIII 

You are acquainted with the well-known principle of the philosophers that God is the intellectus, the ens intelligens, and the ens intelligible. These three things are in God one and the same, and do not in any way constitute a plurality. We have also mentioned it in our larger work, “Mishneh Torah,” and we have explained there that it is a fundamental principle of our religion, namely, that He is absolutely one, that nothing combines with Him; that is to say, there is no Eternal thing besides Him. On that account we say ḥai adonay, “the Lord liveth” (Ruth iii. 13), and not ḥe adonay, “the life of the Lord,” for His life is not a thing distinct from His essence, as we have explained in treating of the inadmissibility of the attributes. There is no doubt that he who has not studied any works on mental philosophy, who has not comprehended the nature of the mind, who has no knowledge of its essence, and considers it in no other way than he would consider the nature of whiteness and of blackness, will find this subject extremely difficult, and to him our principle that the intellectus, the intelligens, and the intelligibile, are in God one and the same thing, will appear as unintelligible as if we said that the whiteness, the whitening substance, and the material which is whitened are one and the same thing. And, indeed, many ignorant people refute at once our principle by using such comparisons,. Even amongst those who imagine that they are wise, many find this subject difficult, and are of opinion that it is impossible for the mind to grasp the truth of this proposition, although it is a demonstrated truth, as has been shown by Metaphysicians. I will tell you now what has been proved. Man, before comprehending a thing, comprehends it in potentia (δυνάμει); when, however, he comprehends a thing, e.g., the form of a certain tree which is pointed out to him, when he abstracts its form from its substance, and reproduces the abstract form, an act performed by the intellect, he comprehends in reality (ἐνεργείᾳ), and the intellect which he has acquired in actuality, is the abstract form of the tree in man’s mind. For in such a case the intellect is not a thing distinct from the thing comprehended. It is therefore clear to you that the thing comprehended is the abstract form of the tree, and at the same time it is the intellect in action; and that the intellect and the abstract form of the tree are not two different things, for the intellect in action is nothing but the thing comprehended, and that agent by which the form of the tree has been turned into an intellectual and abstract object, namely, that which comprehends, is undoubtedly the intellect in action. All intellect is identical with its action; the intellect in action is not a thing different from its action, for the true nature and essence of the intellect is comprehension, and you must not think that the intellect in action is a thing existing by itself, separate from comprehension, and that comprehension is a different thing connected with it; for the very essence of the intellect is comprehension. In assuming an intellect in action you assume the comprehension of the thing comprehended. This is quite clear to all who have made themselves familiar with the figurative language common to this discipline. You therefore accept it as proved that the intellect consists in its action, which is its true nature and essence. Consequently the very thing by which the form of that tree has been made abstract and intelligible, viz., the intellect, is at the same time the intelligens, for the intellect is itself the agens which abstracts the form and comprehends it, and that is the action, on account of which it is called the intelligens; but itself and its action are identical; and that which is called intellect in action consists [in the above-mentioned instance] of nothing else but of the form of the tree. It must now be obvious to you that whenever the intellect is found in action, the intellect and the thing comprehended are one and the same thing; and also that the function of all intellect, namely, the act of comprehending, is its essence. The intellect, that which comprehends and that which is comprehended, are therefore the same, whenever a real comprehension takes place. But, when we speak of the power of comprehension, we necessarily distinguish two things: the power itself, and the thing which can be comprehended; e.g., that hylic intellect of Zaid is the power of comprehension, and this tree is, in like manner, a thing which is capable of being comprehended; these, undoubtedly, are two different things. When, however, the potential is replaced by the actual, and when the form of the tree has really been comprehended, the form comprehended is the intellect, and it is by that same intellect, by the intellect in action, that the tree has been converted into an abstract idea, and has been comprehended. For everything in which a real action takes place exists in reality. On the other hand, the power of comprehension, and the object capable of comprehension are two things; but that which is only potential cannot be imagined otherwise than in connexion with an object possessing that capacity, as, e.g., man, and thus we have three things: the man who possesses the power, and is capable of comprehending; that power itself, namely, the power of comprehension, and the object which presents itself as an object of comprehension, and is capable of being comprehended; to use the foregoing example, the man, the hylic intellect, and the abstract form of the tree, are three different things. They become one and the same thing when the intellect is in action, and you will never find the intellect different from the comprehensible object, unless the power of comprehending and the power of being comprehended be referred to. Now, it has been proved, that God is an intellect which always is in action, and that—as has been stated, and as will be proved hereafter—there is in Him at no time a mere potentiality, that He does not comprehend at one time, and is without comprehension at another time, but He comprehends constantly; consequently, He and the things comprehended are one and the same thing, that is to say, His essence; and the act of comprehending because of which it is said that He comprehends, is the intellect itself, which is likewise His essence, God is therefore always the intellectus, the intelligens, and the intelligibile. We have thus shown that the identity of the intellect, the intelligens and the intelligibile, is not only a fact as regards the Creator, but as regards all intellect, when in action. There is, however, this difference, that from time to time our intellect passes over from mere potentiality to reality, and that the pure intellect, i.e., the active intellect, finds sometimes obstacles, though not in itself, but accidentally in some external cause. It is not our present intention to explain this subject, but we will merely show that God alone, and none besides Him, is an intellect constantly in action, and there is, neither in Himself nor in anything beside Him, any obstacle whereby His comprehension would be hindered. Therefore He always includes the intelligens, the intellectus, and the intelligibile, and His essence is at the same time the intelligens, the intelligibile, and the intellectus, as is necessarily the case with all intellect in action. We have reiterated this idea in the present chapter because it is exceedingly abstruse, and I do not apprehend that the reader will confound intellectual comprehension with the representative faculty—with the reproduction of the material image in our imagination, since this work is designed only for those who have studied philosophy, and who know what has already been said on the soul and its faculties.



困惑した人のためのガイド(英語版)  Kindle版 

第 68 章 

神は知性体、知性あるもの、そして知性にかなうものであるという哲学者のよく知られた原理はご存じでしょう。神においては、これら 3 つは同一であり、決して複数を構成するものではありません。私たちは、より大著である「ミシュネ・トーラー」でもこの原理について触れ、それが私たちの宗教の根本原理であると説明しました。つまり、神は絶対的に 1 つであり、神と結合するものは何もなく、つまり、神のほかに永遠のものはないということです。このため、私たちは ḥai adonay、「主は生きておられる」(ルツ記 3:13) と言い、ḥe adonay、「主の命」とは言いません。なぜなら、属性の不合理性を論じる際に説明したように、主の命は神の本質と異なるものではないからです。精神哲学に関する著作を一切研究したことがなく、精神の本質を理解しておらず、その本質を知らず、白さや黒さの本質を考えるのと同じような方法でしか精神を考察しない人にとって、この主題は極めて難しいものであることは疑いようがありません。そして、そのような人にとって、神においては知性体、知性体、知性体は同一であるという私たちの原理は、白さ、白くなる物質、白くなる物質が同一であると言うのと同じくらい理解不能に映るでしょう。そして、実際、多くの無知な人々は、そのような比較を使って私たちの原理を即座に反駁します。自分は賢いと思っている人々の間でさえ、この主題は難しいと感じ、形而上学者によって示されているように、この命題が実証された真実であるにもかかわらず、精神がこの命題の真実性を把握することは不可能であると考える人が多くいます。今、何が証明されたかをお話ししましょう。人間は、物事を理解する前に、それを潜在的(δυνάμει)に理解します。しかし、例えば、特定の木の形を指摘されたとき、その形を実体から抽出し、その抽象的な形を再現する、つまり知性によって実行される行為によって、人間は現実(ἐνεργείᾳ)に理解し、実際に獲得した知性は、人間の心にある木の抽象的な形です。このような場合、知性は、理解されたものとは別のものではありません。したがって、理解されたものは木の抽象的な形であると同時に、行動する知性であることがあなたには明らかです。そして、知性と木の抽象的な形は二つの異なるものではない。なぜなら、活動する知性は理解されるものに他ならないからであり、木の形を知的で抽象的な対象に変えたその主体、つまり理解するものは、疑いなく活動する知性である。すべての知性はその活動と同一である。活動する知性はその活動と異なるものではない。なぜなら、知性の真の性質と本質は理解であり、活動する知性がそれ自体で存在するものだと考えてはならないからである。知性は理解とは別物であり、理解はそれと結びついた別のものである。なぜなら、知性の本質は理解だからである。知性が行動していると仮定すると、理解されるものの理解を仮定する。このことは、この学問に共通する比喩的言語に精通している人なら誰でも明らかである。したがって、知性はその行動にあり、それが知性の真の性質であり本質であるということを証明されたものとして受け入れる。したがって、その木の形態が抽象的で理解可能なものとなったもの、すなわち知性は、同時にインテリゲンである。なぜなら、知性はそれ自体が形態を抽象化し理解するエージェンであり、それが行動であり、そのためにインテリゲンと呼ばれるからである。しかし、知性自体とその行動は同一である。そして、行動する知性と呼ばれるものは、[上記の例では]木の形状以外の何物でもない。知性が活動しているときはいつでも、知性と理解されるものは同一のものであり、またすべての知性の働き、すなわち理解する行為が知性の本質であることは、今やあなたには明らかであるに違いありません。したがって、真の理解が行われるときはいつでも、理解する知性と理解されるものは同一です。しかし、理解する力について語るとき、私たちは必然的に二つのものを区別します。それは力そのものと、理解され得るもの、です。たとえば、ザイドのヒュリス知性は理解する力であり、この木は同様に、理解され得るものです。これらは間違いなく二つの異なるものです。しかし、潜在性が現実性に置き換えられ、樹木の形が実際に理解されたとき、理解された形は知性であり、その同じ知性、行動する知性によって、樹木は抽象的な観念に変換され、理解されたのです。なぜなら、実際の行動が起こるものはすべて現実に存在するからです。一方、理解する力と理解できる対象は2つのものですが、潜在的なものだけは、その能力を持つ対象、たとえば人間と関係してしか想像できません。したがって、理解する力を持ち、理解できる人間、その力自体、つまり理解する力、そして理解の対象として現れ、理解されることができる対象という3つのものがあります。前述の例を使用すると、人間、ヒュリックな知性、樹木の抽象的な形は、3つの異なるものです。知性が活動しているとき、それらは一つの同じものとなり、理解する力と理解される力に言及しない限り、知性が理解可能な対象と異なることは決して見つからないでしょう。さて、神は常に活動している知性であることが証明されました。そして、すでに述べられ、またこれから証明されるように、神には、ある時には理解せず、またある時には理解しないというような、単なる潜在性は存在せず、神は常に理解している。したがって、神と理解されるものは同一のもの、すなわち神の本質である。そして、神が理解すると言われる理解行為は知性そのものであり、知性もまた神の本質である。したがって、神は常に知性体、知性体、知性体である。このようにして、知性体、知性体、知性体の同一性は、創造主に関してだけではなく、行動するすべての知性に関しても事実であることが示された。しかし、次のような違いがあります。それは、時折、私たちの知性が単なる潜在性から現実性へと移行し、純粋な知性、つまり能動的知性が、それ自体ではなく、偶然に何らかの外的原因によって、時々障害に遭遇することです。この主題を説明することは現在の私たちの意図ではありませんが、神だけが、そして神以外の何者でもなく、常に活動している知性であり、神自身の中にも、神以外の何物にも、神の理解を妨げる障害は存在しないことを単に示します。したがって、神には常に、知性体、知性体、および知性体が含まれており、その本質は、活動しているすべての知性の場合に必然的に当てはまるように、知性体、知性体、および知性体です。この章でこの考えを繰り返し述べたのは、それが極めて難解であるためであり、また、本書は哲学を学んだことがあり、魂とその能力についてすでに述べられていることを知っている人だけを対象にしているため、読者が知的理解を表象能力、つまり私たちの想像における物質的イメージの再現と混同するのではないかと私は懸念している。そして、神以外には、常に活動している知性はなく、神自身にも、神以外の何物にも、神の理解を妨げる障害は存在しない。したがって、神には常に、知性体、知性体、知性体が含まれる。そして、活動しているすべての知性の場合に必然的に当てはまるように、神の本質は、知性体、知性体、知性体である。この考えをこの章で繰り返し述べたのは、それが非常に難解であるためであり、読者が知的な理解を、私たちの想像力における物質的イメージの再現と、表象能力と混同するのではないかと私は心配していない。なぜなら、この作品は、哲学を学んだことがあり、魂とその能力についてすでに述べられていることを知っている人だけを対象にしているからである。そして、神以外には、常に活動している知性はなく、神自身にも、神以外の何物にも、神の理解を妨げる障害は存在しない。したがって、神には常に、知性体、知性体、知性体が含まれる。そして、活動しているすべての知性の場合に必然的に当てはまるように、神の本質は、知性体、知性体、知性体である。この考えをこの章で繰り返し述べたのは、それが非常に難解であるためであり、読者が知的な理解を、私たちの想像力における物質的イメージの再現と、表象能力と混同するのではないかと私は心配していない。なぜなら、この作品は、哲学を学んだことがあり、魂とその能力についてすでに述べられていることを知っている人だけを対象にしているからである。


CHAPTER LXIX 

The philosophers, as you know, call God the First Cause (in Hebrew ‘illah and sibbah): but those who are known by the name of Mutakallemim are very much opposed to the use of that name, and call Him Agens, believing that there is a great difference whether we say that God is the Cause or that He is the Agens. They argue thus: If we say that God is the Cause, the co-existence of the Cause with that which was produced by that Cause would necessarily be implied; this again would involve the belief that the Universe was eternal, and that it was inseparable from God. When, however, we say that God is the Agens, the co-existence of the Agens with its product is not implied; for the agens can exist anterior to its product; we cannot even imagine how an agens can be in action unless it existed before its own production. This is an argument advanced by persons who do not distinguish between the potential and the actual. You, however, should know that in this case there is no difference whether you employ the term “cause” or “agens”; for if you take the term “cause” in the sense of a mere potentiality, it precedes its effect; but if you mean the cause in action, then the effect must necessarily co-exist with the cause in action. The same is the case with the agens; take it as an agens in reality, the work must necessarily co-exist with its agens. For the builder, before he builds the house, is not in reality a builder, but has the faculty for building a house—in the same way as the materials for the house before it is being built are merely in potentiâ—but when the house has been built, he is the builder in reality, and his product must likewise be in actual existence. Nothing is therefore gained by choosing the term “agens” and rejecting the term “cause.” My object here is to show that these two terms are equal, and in the same manner as we call God an Agens, although the work does not yet exist, only because there is no hindrance or obstacle which might prevent Him from doing it whenever He pleases, we may also call Him the Cause, although the effect may not yet be in existence. The reason why the philosophers called God the Cause, and did not call Him the Agens, is not to be sought in their belief that the universe is eternal, but in other motives, which I will briefly describe to you. It has been shown in the science of Physics that everything, except the Primal Cause, owes its origin to the following four causes:—the substance, the form, the agens, the final cause. These are sometimes direct, sometimes indirect causes; but each by itself is called “a cause.” They also believe—and I do not differ from their opinion—that God Himself is the agens, the form, and the end; therefore they call God “the Cause,” in order to express that He unites in Himself these three causes, viz., that He is the agens, the form, and the final cause of the universe. In the present chapter I only wish to show you in what sense it may be said of God that He is the agens, the form, and also the final cause of the universe. You need not trouble yourself now with the question whether the universe has been created by God, or whether, as the philosophers have assumed, it is eternal, co-existing with Him. You will find [in the pages of this treatise] full and instructive information on the subject. Here I wish to show that God is the “cause” of every event that takes place in the world, just as He is the Creator of the whole universe as it now exists. It has already been explained in the science of Physics, that a cause must again be sought for each of the four divisions of causes. When we have found for any existing thing those four causes which are in immediate connexion with it, we find for these again causes, and for these again other causes, and so on until we arrive at the first causes. E.g., a certain production has its agens, this agens again has its agens, and so on and on until at last we arrive at a first agens, which is the true agens throughout all the intervening links. If the letter aleph be moved by bet, bet by gimel, gimel by dalet, and dalet by hé — and as the series does not extend to infinity, ler us stop at hé—there is no doubt that the hé moves the letters aleph, bet, gimel, and dalet, and we say correctly that the aleph is moved by hé. In that sense everything occurring in the universe, although directly produced by certain nearer causes, is ascribed to the Creator, as we shall explain. He is the Agens, and He is therefore the ultimate cause. We shall also find, after careful examination, that every physical and transient form must be preceded by another such form, by which the substance has been fitted to receive the next form; the previous form again has been preceded by another, and we arrive at length at that form which is necessary for the existence of all intermediate forms, which are the causes of the present form. That form to which the forms of all existing things are traced is God. You must not imagine that when we say that God is the first form of all forms existing in the Universe, we refer to that first form which Aristotle, in the Book of Metaphysics, describes as being without beginning and without end, for he treats of a form which is a physical, and not a purely intellectual one. When we call God the ultimate form of the universe, we do not use this term in the sense of form connected with substance, namely, as the form of that substance, as though God were the form of a material being. It is not in this sense that we use it, but in the following: Everything existing and endowed with a form, is whatever it is through its form, and when that form is destroyed its whole existence terminates and is obliterated. The same is the case as regards the relation between God and all distant causes of existing beings; it is through the existence of God that all things exist, and it is He who maintains their existence by that process which is called emanation (in Hebrew shepha’), as will be explained in one of the chapters of the present work. If God did not exist, suppose this were possible, the universe would not exist, and there would be an end to the existence of the distant causes, the final effects, and the intermediate causes. Consequently God maintains the same relation to the world as the form has to a thing endowed with a form; through the form it is what it is, and on it the reality and essence of the thing depends. In this sense we may say that God is the ultimate form, that He is the form of all forms; that is to say, the existence and continuance of all forms in the last instance depend on Him, the forms are maintained by Him, in the same way as all things endowed with forms retain their existence through their forms. On that account God is called, in the sacred language, ḥe ha-‘olamim, “the life of the Universe,” as will be explained (chap. lxxii.). The same argument holds good in reference to all final causes. If you assign to a thing a certain purpose, you can find for that purpose another purpose. We mention, e.g., a (wooden) chair; its substance is wood, the joiner is its agens, the square its form, and its purpose is that one should sit upon it. You may then ask, For what purpose does one sit upon it? The answer will be that he who is sitting upon it desires to be high above the ground. If again you ask, For what purpose does he desire to be high above the ground, you will receive the answer that he wishes to appear high in the eyes of those who see him. For what purpose does he wish to appear higher in the eyes of those who see him? That the people may respect and fear him. What is the good of his being feared? His commands will be respected. For what purpose are his commands to be respected? That people shall refrain from injuring each other. What is the object of this precaution? To maintain order amongst the people. In this way one purpose necessitates the pre-existence of another, except the final purpose, which is the execution of the will of God, according to one of the opinions which have been propounded, as will be explained (III. xiii. and xvii.), and the final answer will be, “It is the will of God.” According to the view of others, which will likewise be explained, the final purpose is the execution of the decree of His wisdom, and the final answer will be, “It has been decreed by His wisdom.” According to either opinion, the series of the successive purposes terminates, as has been shown, in God’s will or wisdom, which, in our opinion, are identical with His essence, and are not any thing separate from Himself or different from His essence. Consequently, God is the final purpose of everything. Again, it is the aim of everything to become, according to its faculties, similar to God in perfection; this is meant by the expression, “His will, which is identical with His essence,” as will be shown below (ibid.). In this sense God is called the End of all ends. I have thus explained to you in what sense God is said to be the Agens, the Form, and the End. This is the reason why the philosophers not only call Him “the Maker” but also the “Cause.” Some of the scholars belonging to the Mutakallemim (Mohammedan theologians), went so far in their folly and in their vainglory as to say that the non-existence of the Creator, if that were possible, would not necessarily imply the non-existence of the things created by Him, i.e., the Universe: for a production need not necessarily cease to exist when the producer, after having produced it, has ceased to exist. They would be right, if God were only the maker of the Universe, and if its permanent existence were not dependent on Him. The storehouse does not cease to exist at the death of the builder; for he does not give permanent existence to the building. God, however, is Himself the form of the Universe, as we have already shown, and it is He who causes its continuance and permanency. It is therefore wrong to say that a thing can remain durable and permanent, after the being that makes it durable and permanent has ceased to exist, sinee that thing can possess no more durability and permanency than it has received from that being. Now you understand the greatness of the error into which they have fallen through their assumption that God is only the Agens, and not the End or the Form.


第 69 章 

ご存知のように、哲学者たちは神を第一原因 (ヘブライ語で 'illah および sibbah) と呼びます。しかし、ムタカレミムの名で知られる人たちは、その名前の使用に強く反対し、神をアゲンと呼びます。神が原因であると言うか、神がアゲンであると言うかには大きな違いがあると考えているからです。彼らは次のように論じます。神が原因であると言う場合、必然的に原因とその原因によって生み出されたものの共存が暗示されます。これはまた、宇宙は永遠であり、神と切り離せないという信念を伴うことになります。しかし、神がアゲンであると言う場合、アゲンとその産物の共存は暗示されません。なぜなら、アゲンはその産物に先立って存在することができるからです。アゲンがそれ自身の生産の前に存在しない限り、どのように活動できるか想像することさえできません。これは、潜在的と現実的を区別しない人々が主張する議論です。しかし、この場合、「原因」という用語を使用するか「行為者」という用語を使用するかに違いはないことを知っておく必要があります。「原因」という用語を単なる潜在性の意味でとる場合、それはその結果に先行します。しかし、行為の原因を意味する場合、結果は必然的に行為の原因と共存する必要があります。同じことが行為者の場合にも当てはまります。行為者を現実の行為者としてとらえると、作品は必然的にその行為者と共存する必要があります。なぜなら、家を建てる前の建築家は、現実には建築家ではありませんが、家を建てる能力を持っています。家を建てる前の家の材料が単に潜在的であるのと同じです。しかし、家が建てられると、彼は現実に建築家であり、彼の作品も同様に実際に存在する必要があります。したがって、「行為者」という用語を選択し、「原因」という用語を拒否しても何も得られません。ここでの私の目的は、これら 2 つの用語が同等であることを示すことです。そして、神が望むときにいつでもそれを行うことを妨げるような障害や妨害物がないという理由だけで、仕事はまだ存在していないにもかかわらず、神をアゲンと呼ぶのと同じように、結果はまだ存在していない可能性があるにもかかわらず、神を原因と呼ぶこともできます。哲学者が神を原因と呼び、アゲンとは呼ばなかった理由は、宇宙は永遠であるという彼らの信念に求めるのではなく、私が簡単に説明する他の動機にあります。物理学では、原初原因を除くすべてのものは、次の 4 つの原因に由来することが示されています。つまり、実体、形、アゲン、最終原因です。これらは直接的な原因である場合もあれば、間接的な原因である場合もありますが、それぞれが「原因」と呼ばれます。彼らはまた、神自身がアゲンであり、形であり、目的であると信じています。私も彼らの意見に異論はありません。したがって、彼らは神を「原因」と呼び、神がこれら3つの原因を自らの中に統合していること、すなわち、神が宇宙の主体であり、形であり、最終原因であることを表現します。この章で私が皆さんに示したいのは、神が宇宙の主であり、形であり、また最終的な原因であると言える意味を、皆さんに示したいということだけです。宇宙は神によって創造されたのか、それとも哲学者たちが想定したように、永遠であり、神と共存しているのかという疑問に、今皆さんは悩む必要はありません。皆さんは、この主題に関する完全で有益な情報を [この論文のページに] 見つけることができるでしょう。ここで私が示したいのは、神が世界で起こるすべての出来事の「原因」であり、神が今存在する宇宙全体の創造主であるのと同様であるということです。物理学の科学では、4 つの原因区分のそれぞれについて、原因を再度探さなければならないことがすでに説明されています。存在するものについて、それに直接関連する 4 つの原因を見つけたら、これらの原因を再度見つけ、さらにこれらの原因を再度見つけ、というようにして、最初の原因にたどり着きます。たとえば、ある生成にはそのアゲンがあり、このアゲンにもまたそのアゲンがあり、このようにして、ついに最初のアゲンにたどり着きます。これが、介在するすべてのリンクを通じた真のアゲンです。文字 aleph が bet によって動かされ、bet が gimel によって動かされ、gimel が dalet によって動かされ、dalet が hé によって動かされる場合 (この数列は無限に伸びないので、hé で止まります)、hé が aleph、bet、gimel、dalet の文字を動かすことは間違いありません。そして、正しくは、aleph が hé によって動かされていると言えます。その意味では、宇宙で発生するすべてのものは、特定のより近い原因によって直接生み出されるとはいえ、後で説明するように、創造主に帰せられます。創造主はアゲンであり、したがって究極の原因です。また、注意深く検討すると、すべての物理的で一時的な形態には、必ず別の形態が先行し、それによって物質が次の形態を受け入れるようになっていることがわかります。前の形態はまた別の形態に先行され、最終的に、現在の形態の原因であるすべての中間形態の存在に必要な形態に到達する。存在するすべてのものの形態が辿る形態は神である。神が宇宙に存在するすべての形態の最初の形態であると言うとき、アリストテレスが形而上学の書で始まりも終わりもないと述べている最初の形態を指していると想像してはならない。なぜなら、彼は純粋に知的な形態ではなく、物理的な形態を扱っているからである。私たちが神を宇宙の究極の形態と呼ぶとき、この用語を、神が物質的存在の形態であるかのように、実体と結びついた形態、つまりその実体の形態という意味で使用していない。私たちはこの意味でそれを使用しているのではなく、次の意味で使用している。存在し、形態を与えられたすべてのものは、その形態を通じてそれが何であるかであり、その形態が破壊されると、その存在全体が終了し、消滅する。神と存在する存在のすべての遠い原因との関係についても同じことが当てはまる。神の存在によってすべてのものが存在するのである。そして、神は、本書の章の一つで説明されるように、放射(ヘブライ語でシェファ)と呼ばれるプロセスによってそれらの存在を維持します。もし神が存在しなかったら、それが可能であったと仮定すると、宇宙は存在せず、遠因、最終結果、中間原因の存在は終わります。したがって、神は、形が形を与えられた物に対して持つのと同じ関係を世界に対して維持します。形を通してそれが何であるか、そして物の現実性と本質はそれに依存します。この意味で、神は究極の形であり、すべての形の形であると言うことができます。つまり、すべての形の存在と存続は最終的に神に依存し、形は神によって維持されます。形を与えられたすべてのものが形を通して存在を維持するのと同じです。そのため、神は、聖なる言葉でヘ・ハ・オラミム、「宇宙の生命」と呼ばれています(第 72 章)。同じ議論は、すべての目的原因に関しても当てはまります。ある物に特定の目的を割り当てれば、その目的のための別の目的を見つけることができます。たとえば、(木製の)椅子について考えてみましょう。椅子の材質は木、大工は主脚、四角形は形、そしてその目的は人が座ることです。すると、あなたは「何のために人はそれに座るのか」と尋ねるかもしれません。答えは、その椅子に座っている人は地面から高く上がりたいと望んでいる、ということになります。さらに「何のために彼は地面から高く上がりたいのか」と尋ねると、「彼は見ている人の目に高く見えたいと望んでいる」という答えが返ってきます。何のために彼は見ている人の目に高く見えたいと望んでいるのでしょうか。それは、人々が彼を尊敬し、恐れるためです。彼が恐れられることで何の得があるのでしょうか。彼の命令は尊重されるでしょう。何のために彼の命令は尊重されるべきなのでしょうか。人々が互いに傷つけ合うのを控えるためです。この用心の目的は何でしょうか。人々の間に秩序を維持するためです。このように、一つの目的は、他の目的の事前存在を必要とする。ただし、最終目的は、神の意志の実行である。これは、これから説明するように、これまで提唱されてきた意見の 1 つによれば (III. xiii. および xvii.)、最終的な答えは「それは神の意志である」となる。同様に説明する他の見解によれば、最終目的は神の知恵の決定の実行であり、最終的な答えは「それは神の知恵によって決定された」となる。どちらの意見でも、一連の連続目的は、すでに示されているように、神の意志または知恵で終わる。これは、私たちの意見では、神の本質と同一であり、神自身から分離したものでも、神の本質と異なるものでもない。したがって、神はすべてのものの最終目的である。また、すべてのものの目的は、その能力に応じて、完璧さにおいて神に似たものになることである。これは、「神の本質と同一である神の意志は、” とあります。これは、以下で示すとおりです (同上)。この意味で、神はすべての終わりの終わりと呼ばれています。私は、神がどのような意味でアゲン、形態、そして終わりであると言われているかをこのように説明しました。これが、哲学者が神を「創造者」と呼ぶだけでなく、「原因」とも呼ぶ理由です。ムタカレミム (イスラム教の神学者) に属する学者の中には、愚かさと虚栄心から、創造主が存在しないことは、それが可能だとしても、必ずしも創造主によって創造されたもの、つまり宇宙が存在しないことを意味するわけではないと言うほどに至りました。なぜなら、生産者がそれを生産した後で存在しなくなったとしても、生産物は必ずしも存在しなくなるわけではないからです。神が宇宙の創造者だけであり、その永続的な存在が神に依存していないのであれば、彼らは正しいでしょう。倉庫は、建築者が死んでも存在しなくなります。なぜなら、建築者は建物に永続的な存在を与えないからです。しかし、私たちがすでに示したように、神は宇宙の形態そのものであり、宇宙の継続と永続性を引き起こすのは神です。したがって、永続性と永続性をもたらす存在が存在しなくなった後も、その物が永続性と永続性を維持できると言うのは間違いです。なぜなら、その物は、その存在から受け取った以上の永続性と永続性を持つことはできないからです。これで、神は単なるエージェンであり、目的や形態ではないという彼らの仮定によって陥った誤りの重大さがおわかりでしょう。


迷える者たちの導き

迷える者たちの導き(Arabic: دلالة الحائرين, dalālat al-ḥā'irīn, Hebrew: מורה נבוכים, Moreh Nevukhim)はマイモニデスによる三つの主著の一つである。この著作は多くの事例について合理的な説明を見出すことによって、ヘブライの聖書学とアリストテレス哲学の調和を探求している。ヘブライ文字で表記された古典アラビア語(ユダヤ・アラビア語)で書かれ、彼の弟子であるセウタのヨセフ・ベン・ユダに送った、三つの部分からなる書簡からなり、マイモニデスのユダヤ法に関する意見とは異なる、哲学的見解の主な情報源となっている。ごく少数の人によってこの著はマイモニデスの作品ではなく、匿名の異端者によって書かれたと信じられている。その中で注目されるのは18世紀の学者レブ・ヤアコブ・エムデンである。

彼の神学的見解や宗教と哲学の関係などの哲学的概念の多くは厳密なユダヤ教神学を超えて関連しているため、非ユダヤ世界において最もマイモニデスに関連づけられている著作であり、幾人かの主要な非ユダヤ人の学者たちにも影響を与えた。その公刊に続いて「中世の残りの時代のほぼ全ての哲学的作品はマイモニデスの見解を引用、注釈または批判した」。ユダヤ教内部においても『導き』は広く普及し、多くのコミュニティが写本を求めたが、同時に一部のコミュニティではその研究を制限したり禁止したりなどの論争を引き起こした。

構成

1190年頃書かれ、1204年に同時代人のサムエル・ベン・ユダ・イブン・ティッボンによってヘブライ語に翻訳された。マイモニデスは『導き』を以下のものとして書いた。

「吾々の聖なる律法の真理を信じるように訓練され、道徳と宗教的義務を誠実に果たし、同時に哲学的研究に熟達した宗教的な人を啓発するため」 「この書には第二の目的がある。預言者達に現れるある曖昧な異象を説明しようとするものであり、それらは異象として厳密に特徴づけられていない。無知で皮相的な読者はそれらを象徴的ではなく文字通りに解釈する。知識ある人であっても文字通りに理解する時は困惑してしまうが、我々がその象徴を説明したり、その語が単なる比喩であることを示唆すれば困惑から完全に解放される。故に私がこの書をして『迷える者たちのための導き』と題した所以である」

また彼は、ユダヤ神秘主義において聖書の主要な二つの神秘的テキストである創世記(ベレーシート)における創造の神学と、エゼキエル書から神の戦車(メルカバー)の神学に関する部分に体系的な注釈をした。これらの分析は第三巻で行われ、この観点から、最初の二巻で提起された諸問題は、前提・背景と、この深奥を考察するために要求される神秘的・哲学的知識における進歩を提供する。

第一巻

神人同形論に反対するマイモニデスの論からこの巻は始まる。聖書において、例えば「神の手」のように、人間を指す用語を神に転用する多くの表現を見出すことができる。マイモニデスは神が肉体的であると見なす異端に強く反対した。それが事実でないという彼の信念を説明するためにヘブライ語の単語の分析のために最初の20章用いた。各章は神を指すために使用される用語についてであり、いずれの場合もマイモニデスはそれらの単語が同名異義語であるというケースを提示した。そのため物質的なものを指す使用法と、神を指す場合の使用法とは意味が完全に異なるとする。これは神が完全に非肉体的であるという証明としてマイモニデスが見出したものを提示するために、聖書の用語の詳細な分析によって行われた。

「マイモニデスは神の非肉体性を教義として設定し、これを否定する人を偶像崇拝者のレベルに置いた。彼は『導き』の最初の部分の多くを聖書における神の擬人化の解釈に割き、それぞれの語の意味を定義し、超越的な形而上学的表現でそれを解釈するように努めた。それらのいくつかは完全な同名異義として彼によって説明されて、二つかそれ以上の絶対的な多義を示している」

これは神は肯定的な言葉では説明されず、むしろ否定的な概念のみで説明されるというマイモニデスの考えに繋がる。

また68章、69章では哲学者の説を紹介し、それを以て神を"思惟するものと思惟されるものとが同じである思惟"として説明し、形而上学を深く修めた者でなければ理解することができない教説としている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3

モーシェ・ベン=マイモーン

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーンヘブライ語רבי משה בן מיימון‎ Mōšéh ben Mayimōn, アラビア語 ابو عمران موسى ابن عبيد اللّه ميمون القرطبي الإسرائيلي‎ ​ Abū 'Imrān Mūsa ibn 'Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日[5])は、スペインユダヤ教徒ラビであり、哲学者医学天文学神学にも精通していた。アリストテレス主義者、新プラトン主義者。

。。。。。

新訳:

The Guide to the Perplexed: A New Translation ハードカバー – 2024/5/28 

~~~~


    スピノザに近いのはパゾリーニだ。ゴダール作品から俳優を借りた『豚小屋』で主人公が見る夢(主人公自身が豚に食べられる夢)は、シナリオ段階ではスピノザの夢と命名されていた。この作品のストーリーの交差こそ平行論的だ。マルクス主義者のパゾリーニは一つの意味を提示するが、身体をなくした主人公の精神はアレゴリカルに身体と分離している。

    「私は、映画は本質的かつ本来的に、詩的なものであるという意見です。その理由として私はこう言ってきました。
    すなわち、映画は夢のようであり、夢に近いものであるからと。また、映画のシークェンスも、さらにそのシーク
    ェンスの事物までも実に詩的であるからだと。撮影された木は詩的ですし、撮影された人間の額も詩的です。なぜ
    なら、それらの物理的存在がそれ自身詩的なものであり、一つの表出であり、神秘にみちており、あいまいさに溢

    れており、多面の価値を意味するものであり、また一本の木すらが言語体系における一つの記号だからです。しか
    し、だれが木によって語るのでしょうか。それは神、または現実それ自身です。だから、一つの記号としての木
    は、われわれを神秘的な語り手とコミュニケートするようにさせるのです。だから、事物を物理的にただ素直に再
    生する映画は、本質的に詩的なのです。このことは、歴史以前の問題というか、ほとんど映画以前の問題に属す
    るものです。
    私たちが歴史的事実としての映画。コミュニケーションの手段としての映画などを持ったとき、はじ
    めて、映画もまたあらゆるコミュニケーションのメディアと同じように、異った種類のものへと発展していくので
    す。ちょうど文学が散文のための言語と韻文のための言語を持っているように、映画も持っています。私が言っ
    ているのはこのことです。ですからこの場合は、映画が詩的な一形式であるがあるがゆえに本来的に詩的であるな
    どということは忘れるべきです。くり返して言いますが、それはあくまでも歴史以前の、無形の、非自然的な問題
    なのです。もっとも陳腐な西部劇や古い商業映画を見るようなときでも、もしそれを月並みでない見方で見るなら
    ば、どんな映画にも、映画の物理的存在自体に本来的に備わっている夢的で詩的なものを発見しないではおかない
    でしょう。しかし、このことはそのまま詩的映画だということにはなりません。詩的映画とは、詩人が一篇の詩
    を書こうとするときに特別な技術を用いるのとちょうど同じように、特別な技術を用いた映画です。あなたが一冊
    の詩の本を開くならば、あなたはたちまちそこに文体や、リズムなど一切を読みとれるでしょう。あなたは手段と
    しての言語を見、また詩句の音節を認めるのです。ところで、映画の中にも、あなたが詩に見るものとまったく同
    じものを見つけることができます。その文体を通して、つまりカメラの動きやモンタージュを通して見るのです。
    ですから、映画を作るということは、詩人になることなのです。」

    『パゾリーニとの対話』p185波多野哲朗訳、晶文社、1972.4より