- 地蔵和讃の中にある、賽の河原の和讃が全文掲載されている資料はありますか。
- 回答
- 地蔵、賽の河原、恐山、御詠歌などに関する資料を確認しましたところ、以下の資料に賽の河原の和讃が出ていました。
なお「歌謡文芸には空也上人作と伝えられる『西院河原(さいのかわら)地蔵和讃』を初めとして、賽の河原の地蔵尊を讃歎した和讃だけでも十二種を数え…」(『地蔵信仰』桜井徳太郎編 雄山閣出版 1983 387/Sa47)とあるように、以下の資料に出てくる賽の河原の和讃にはそれぞれ若干違いがあります。
(1)『下北・神仏との出会いの里』(加藤敬写真・文 平河出版社 1992 387/Ka86)p143~144に「西院の河原稚児御和讃(さいのかわらおさなごごわさん)」あり ※ご紹介するなかでは一番長い和讃と思われます。
(2)『地蔵菩薩』(望月信成著 学生社 1989 186/Mo12)p132~133に「賽の河原和讃」あり
(3)『霊場恐山と下北の民俗』(森勇男著 北の街社 1995 382/Mo45)p68~70に「西院の河原稚児御和讃」あり ※(1)を一部省略したものと思われます。
(4)『地蔵信仰』(速水侑著 塙書房 1975 385/H47)p153~155に「賽の河原の和讃」あり
地蔵和讃
空也上人(900年頃)『西院河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)』
帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」
という実に哀れな文句で、「地蔵和讚」は始まるわけであるが、可哀想に十にも足らぬ幼子が、賽の河原で苦しみを受けている。昔は父や母にあれほど大切にされたのに、いまは、河原に明け暮れ野宿して、雨の降る日は雨にぬれ、雪の降る夜は凍えて苦しんでいる。「哀れなるかな幼児が立ち回るにも拝むにも、ただ父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、この世の声とは事変わり、悲しさ哀れさ骨も身も、砕けてとおるるばかりなり」
しかし、親は子の苦を知らずに、追善供養ばかりして、
「残せし着物見ては泣き、手遊び見ては思いだし、健全な子供を見るにつけ、なぜにわが子は死んだかと、嘆き悲しむ哀れさよ」
というわけである。
死んだ子供の方がはるかに分別があり、
「子は河原にてこの苦労、一重積んでは父の為、二重積んでは母様と、さもいとけなる手を合わし、礼拝廻向ぞしおらしや、三重積んでは古里の、兄弟我が身と廻向する。」ということになる。しかし夜になると地獄の鬼が来て、二重に子供を責める。
「やい、子供、汝らは何をする、娑婆と思いて甘えるか、娑婆に残りし父母は、追善供養いたせども、ただ明け暮れの嘆きには、酷や悲しや不憫やと、親の嘆きは汝らが、苦げんを受くる種となる」
と、むしろ鬼は子に向かって、その親のめめしさ情けなさを責めるのである。
子の親を責めるとともに、鬼は再び子を責める。
「汝ら罪なく思うかや、(母の乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を言い、また父が抱こうとしたとき、母の胸を離れようとしなかったではないか)」
と鬼は幼児の罪をせめる。いま幼児はこの愛情に対して、こたえなかった罪の報いを受けようとするのである。
「峰の嵐の吹くときは、父が呼びしと起き上がり、水の流れを聞くときは、母が呼ぶかとはせ下り、あたりを見れど母もなし、父を呼べども父も来ず、母を呼べども母とても、知らぬが死出の山路なり、この苦しみをいかにせん、こけつまろびつ憧れて、逢いたや見たや恋しやと、もだへ嘆くぞ哀れなり」
ここで地蔵が登場する。そして子供に、汝ら命短くして冥土の旅に来たけれど、今後はわれを冥土の父母とたのめと言って、幼きものを裳の内にかきいれて、抱きかかえるのである。
この「地蔵和讚」こそ、我が国で作られた和讚のうちの最高の傑作であり、文句もふしもその後の日本の浄瑠璃や小唄などに大きな影響を与えたものであろう。
子供のことが忘れられない親たちに、親の悲しみはエゴイズムに基づき、子供はかえってそんなに親が悲しむ限り成仏できないことを説いて親の悲しみの感情を否定するとともに、同時に親に対して、無罪であるかに見える子の死も、決して無罪ではなく、子は子としての罪があったことを教えて、無罪の子に対する親の不憫な心を静めるという二重の意味を持つのであろう。こうして、二重のあきらめを説きつつ、最後に地蔵菩薩という仏を登場せしめて、現世において子をはぐくむ役を、すべて地獄においては地蔵に委託することにより、この親は子供の不憫の思いから自由になって安心を得るというわけである。
多賀 康晴/立山における地蔵信仰(2)
富山県[立山博物館]
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2017/3/31 -『西院(賽)河原地蔵和讃』の詞章によると、賽の河原に集まった幼児等らは、娑婆の父母兄弟のために. 塔を積んで回向をしている。 小石の塔を造るのは、『 ...
石積み(積み石)の意味とは?崩すとどうなる?

神社や河原に行くと、石積みをみつけることがありますよね。
石積みにはどのような意味があるのでしょうか?
誰かがやった石積みを崩すとどうなるのでしょうか?
今回は石積みについてわかりやすく解説します。
- 石積みの意味と目的とは?
- 石積みの由来
- 賽の河原と石積み
- 実在する「賽の河原」
- 恐山(青森県むつ市)
- 賽の河原(新潟県佐渡市)
- 加賀の潜戸(島根県松江市)
- 石積みを崩すとどうなる?
石積みの意味と目的とは?
読み方は「いしづみ」です。
「積み石(つみいし)」とも言います。
石積みは日本各地で行われている風習です。
主に神社やお寺、河原、山道などで石積みが行われています。

石積みは、石を積み上げながら願掛けや供養などをすることです。
願掛けの内容としては、
- 安全祈願
- 安産祈願
- 健康長寿
- 学業成就
- 家内安全
- 厄除け
- 恋愛成就
- 商売繁盛
などさまざまです。
また、山道では道標(みちしるべ)の役割を果たす場合もあります。
最近はさまざまな形の石を絶妙なバランスで積み上げる「ロックバランシング」と呼ばれる、石積みアートがあります。

石積みの由来
石積みは古くから行われてきた風習ですが、いつ始まったのか、最初から願掛けや供養を目的としていたのかなど、詳しいことは分かっていません。
日本では古来より、山や川、木、岩などの自然物を神として信仰する自然崇拝の考え方がありました。
そういった背景の中で、石を神様として信仰し、石を積み上げて願い事をする風習が生まれたと考えられています。

供養を目的とする石積みは、石を積み上げて供養塔を作ったことが始まりではないかといわれていますが、詳しいことは分かっていません。
誰かが始めた石積みを、他の人が真似するうちに、やがて自然発生的に石積みの風習が広まり、次第に願掛けや供養の意味が込められるようになった、という説もあります。
賽の河原と石積み
「石積み」といえば賽の河原(さいのかわら)を思い浮かべる人も少なくないでしょう。
仏教では、人は亡くなった後に三途の川(さんずのかわ)を渡りますが、賽の河原は三途の川の手前にあるといわれています。
賽の河原とは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが行く場所です。
仏教では、親より先に死ぬのはとても親不孝なことで、大きな罪だと考えます。
そのため、子どもたちは三途の川を渡ることができず、罪滅ぼしや両親の幸せを願って賽の河原で石を積み塔を作るのです。

石を高く積み上げても、地獄の鬼がやってきて壊してしまいます。
石積みをしたら壊され、また最初から石積みをして壊され、また石積みをして・・・と何度も何度も繰り返します。
この様子から、現代では「賽の河原」という言葉が「いくら努力しても報われない」「徒労の繰り返し」を表す慣用表現としても使われています。
鬼はいじわるで石積みを壊しているのではなく、子どもの願いが両親に届いていないから壊しているのだといわれています。
両親が我が子を亡くしたことで苦しみ続けているうちは、怖い鬼が石積みを壊し続けるのですが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われ、成仏することができるといわれています。
三途の川の詳細についてはこちらをご覧ください。
関連:三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?
実在する「賽の河原」
「賽の河原」という名がついた場所が日本各地に実在します。
いずれも亡くなった子どもの供養の場として知られており、小さな石が積まれ、地蔵菩薩像が置かれています。
恐山(青森県むつ市)
日本三大霊場の一つ。今も火山活動が続く荒涼とした景観が広がり、硫黄臭が漂います。
境内に賽の河原があり、無数の石積みと、子どもへの供養として供えられた風車(かざぐるま)がカラカラと回る光景が印象的です。
賽の河原(新潟県佐渡市)
佐渡島北西部の海岸にある海蝕洞窟が賽の河原とされています。
洞窟の中には多数の地蔵が置かれ、石積みが並んでいます。
毎年、水子の霊を供養する「賽の河原祭り」が行われています。
加賀の潜戸(島根県松江市)
島根半島にある海中洞窟で、旧潜戸の奥(奥行き約50m)が賽の河原とされています。
亡くなった子どもが愛用していた玩具や衣服、履物などが供えられ、何世代にもわたって石が積み上げられてきた場所です。
「出雲国風土記(733年)」にも記載される歴史ある場所です。
石積みを崩すとどうなる?
石積みは、安全祈願や幸運などの願掛け、供養や成仏を願うなど、誰かの願いが込められたものです。
ですから、それを崩すことは縁起が悪いされており、意図的に石積みを崩すことで「罰が当たる」とか「運が悪くなる」と考えることもあります。
「祟りがある」といった俗信もありますが、科学的根拠はありません。
また、道標として積まれたものは、崩すことで登山者が間違った道に進む危険性があります。
石積みは崩したりせずそのままにしておきましょうね。

石積みは日本各地で行われている風習です。
登山の安全祈願や、山で亡くなった人を供養するために石積みをすることもあり、同じ場所の石積みでも目的が違う場合があります。
誰がどのような目的で石積みをしたのかはわかりませんが、なにかの願いを込めて石積みをしているのですから、意図的に崩すことは避けましょうね。
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三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?

人が亡くなったあと、あの世へ行くために「三途の川」を渡るといわれています。
「三途」にはどのような意味があるのでしょうか?
またその時、「六文銭」が必要といわれていますが、なぜなのでしょう?
お金がないと三途の川を渡ることができないのでしょうか?
もしも渡れなかったら、人はどこへ行くのでしょう?
今回は、私たちも死後に渡ることになるかもしれない三途の川について解説します。
- 三途の川の三途の意味とは?
- どうして六文銭が必要なの?
- 石積みって何?
三途の川の三途の意味とは?
「三途の川」の読み方は「さんずのかわ」です。
三途の川は、仏教に由来しており、此岸(しがん・現世)と彼岸(ひがん・あの世)の境目にあり、人が死ぬと7日目に渡るといわれています。
関連:【2026年】お彼岸はいつ?お彼岸の意味とお盆との違い
渡る場所が3カ所あることから、三途の川といわれています。

善人は「金銀七宝で作られた橋」を渡るといわれています。
軽い罪人は「山水瀬(さんすいせ)」と呼ばれる浅瀬を渡るといわれています。
重い罪人は「強深瀬(ごうしんせ)」と呼ばれる深瀬を渡るといわれています。
このとき、生前の罪の重さによって、渡る場所が決まります。
強深瀬は、流れが急で、波も高く、上流から岩が流れてきて罪人の体を打ち砕くそうです。
打ち砕かれてもすでに死んでいるので体は修復され、また打ち砕かれ、修復され・・・そして、川の底には大蛇が住んでいるので食われることもあるという、とても恐ろしい場所なのだそうです。
さらに、川を渡れずに途中で流されてしまったら、そのまま地獄へ行くとも考えられており、重い罪人の多くは渡れずに地獄へ行くといわれています。
どうして六文銭が必要なの?

三途の川のほとりには、衣領樹(えりょうじゅ)という大樹があり、そこには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という老夫婦の鬼が住んでいます。
三途の川を渡る前に、奪衣婆に衣類をはぎ取られ、懸衣翁が衣領樹にその衣類をかけると、生前の罪の重さがわかるといわれ、その罪の重さによって三途の川のどこを渡るのかが決められます。

しかし、江戸時代ごろには六文銭を持っていれば衣類をはぎ取られることはなく、罪の重さで渡る川を決められることもなく、善人が渡る橋を渡って行けると考えられるようになりました。
六文銭はお賽銭と考えられ、生前の罪を反省し、仏に帰依し、信心します・・・という証に六文銭を納めることによって、地獄に落とされることなく三途の川を渡れるといわれています。

現在は六文銭は使われていないお金ですが、六文銭を印刷した紙を副葬品として棺にいれる習慣が残っています。
石積みって何?

三途の川には、賽の河原(さいのかわら)という場所があります。
ここは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが集まる場所です。
親よりも先に死ぬことはとても親不孝なことで、それは大きな罪であるといわれています。
そのため、子どもたちは両親の供養のために石を積んで塔を作ります。
それが罪滅ぼしでもあるのです。
しかし、塔が高くできると鬼がやってきて壊してしまい、また最初から作りなおします。
作っては壊され、作っては壊され・・・このことから「無駄な努力のたとえ」として「賽の河原」が使われることもあります。
どんなに石を積んでも鬼によって壊されてしまいますが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われるといわれています。

人は誰でも最後は死にます。
死んだあとのことは誰にもわからないのが現実ですが、仏教徒の多い日本では三途の川や賽の河原のお話を知っている人はたくさんいますね。
日本では、石積みをして死者を供養する習慣が各地にあります。
子どもが親のために石積みをするだけではなく、幼くして亡くなった子どものために親が石積みをしたり、海難事故で亡くなった人たちのために海辺を訪れた人が石積みをしたりします。
もしも石で作られた塔を見かけても、壊したりしないでくださいね。
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三途川
懸衣翁・奪衣婆
三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、亡者が来ると着ている衣服を剥ぎ取り裸にしてしまう。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。
賽の河原
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった[4]。また明確に参詣地であった例もあり、近世町役人による文久3年(1863年)の記録に「サイの河原地蔵へ参詣す」(静岡県富士宮市)と記される例などがある[5]。
この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山(青森県)のほか、新潟県の佐渡北部 (願地区)[6][7]、島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。




























































