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山田広昭『可能なるアナキズム』
スピノザの「マルチチュード」とプルードン:再掲
ホイットマンとスピノザ I Contain Multitudes
Marx-Spinoza 作業中
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/05/marx-spinoza.html
プルードンと国際政治
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/05/blog-post_27.html
プルードンと国際政治
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Proudhon Courbet 1863,1865
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/05/1865.html?m=1
プルードンの天才論 1865#18
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/du-principe-de-lart-et-de-sa.html
プルードンの天才論 1865#18
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proudhon/marx1847
幸徳秋水1904とプルードン
NAMs出版プロジェクト: スピノザと小説
http://nam-students.blogspot.com/2018/12/blog-post_96.html
参考:
以下、スピノザ神学・政治論下光文社文庫20:06より
しつこいようだが、国とは人間を理性的存在から野獣や自動人形におとしめるためにあるので
はない。むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼
らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために
争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある。だとすると、《国というものは、実は
自由のためにあるのである。》
《》内をマルクスが抜き書き(鷲田小彌太『スピノザの方へ』161頁参照)
マルクスの『神学・政治論』研究の理論射程
http://chikyuza.net/archives/59516
参照:
内田弘「スピノザの大衆像とマルクス」『専修経済学論集』第34巻第3号、2000年3月
マルクスはつぎの文に注目し抜粋する(MEGA,IV/1,S.240)。
「人間は、安全にかつ立派に生活するために、必然的に一者に(necessario in unum)結合しなけれ
ばならなかった。しかもその結合によって人間たちは、各人が万物にたいして自然から与えられ
た権利を共同して所有する(collectives habeo)ようになった。またその権利がもはや各人の
能力と欲望によってではなく、万人の力と意志によって決定されるようになったのである」…
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
(会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
エチカ4:73
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p73
定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に
従って生活する国家においていっそう自由である。
定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に
従って生活する国家においていっそう自由である。
以下、スピノザ神学・政治論下光文社文庫20:01より
第二十章
自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される
[一]《もし、心に命令することが舌先に命令するのと同じくらい簡単だったら(1)、どんな人でも堅実な支配を行えただろうし、どんな支配体制も暴力的になることはなかっただろう。その場合、誰もが支配者たちの一存に基づいて生きることになるし、彼らの取り決めだけに基づいてものごとの真偽、善悪、正不正を判断することになるからだ。
しかし、》こんなことは決して起こりえない。既に第十七章の冒頭で注意しておいたように、《ひとの心が完全に他人の権利の下に置かれることなど、決してありえないのだ。自由に考えをめぐらせ、ありとあらゆるものごとに判断を下すのは、ひとの自然な権利であって、この自分の自然権あるいは能力を他人に譲り渡すことなど、いくら強制されても誰にもできないからである。》
このことから、ひとびとの心の中にまで踏み込んでくる支配体制は、暴力的支配体制ということになる。何を本当のこととして大切にするべきか。何を偽りとして拒むべきか。さらには、どのような考えによって一人一人の心が神への奉仕へと動かされるべきか。もし元首が臣民たち一人一人にそんなことまで指図しようとするなら、その元首は彼らに不正をはたらき、彼らの権利を横取りしていると見なされることになる。そうしたことは各人それぞれの権利の下に置かれていて、この権利を手放すことなど誰にもできないからである。たとえ本人が手放したがっても手放せないのだ。
20:04:
[四]このように、《ものごとを自分で判断する自由、考えたいことを考える自由は、誰も放棄することができない。ひとは誰でも自分自身の思考活動の主人であり、これは最大の自然の権利によってそうなっているのである。だとすると結論として、いくらひとびとがばらばらで相容れない考えをもっていても、これを統制しようと試みてはいけないことになる。もしひとびとを統制して、至高の権力の持ち主たちの指図にそぐわないことは何一つ話さないようにさせようとするならば、間違いなくとても不幸な結果が生じるだろう。》民衆は言うまでもなく、きわめて人生経験豊かな人たちでさえ、自分の口を閉ざすことはできないものだからだ。…
以下、スピノザ神学・政治論下光文社文庫20:06より
しつこいようだが、国とは人間を理性的存在から野獣や自動人形におとしめるためにあるのではない。むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある。だとすると、《国というものは、実は自由のためにあるのである。》
(鷲田小彌太『スピノザの方へ』161頁参照)
16:5
《ひとびとは気持ちを一つに合わせ、これまで各個人があらゆることに対して自然にもっていた権利を 、集合的[=岩波訳では結合]にもつようにしなければならない。そしてその権利を個人それぞれの力や衝動ではなく、みんな一緒の力や意志に基づいて決めるようにしなければならないのである。》
:173
以外は光文社神学政治論下16:10
マルクス抜き書き部分
鷲田175~6参照
[十]《しかし恐らく、わたしたちのこのやり方では、権力に服する人たちが奴隷にされてしまうと思う人もいるだろう。ひとは一般に、[他人の]指図にしたがって行動するのが奴隷で、自分の心のままに振舞うのが自由人だと思っているからだ。〈しかし実は、これは必ずしも当たっていない。〉自分の欲望に激しく引きずられて、自分にとって有益なことが何一つ見えないし実行できなくなっている人は、本当のところ[自由人どころか]奴隷のきわみであり、一心に理性の導きのみに基づいて生きる人だけが自由なのである。
〈指図に従って行動すれば、つまり服従すれば、たしかにある意味で自由は失われる。しかしだからといって、それで直ちにひとが奴隷になるわけではない。奴隷かどうかは行動の理由で決まるのだ。〉もし行動の最終目的が行動する人自身の利益ではなく、[その行動を]命令する人の利益に置かれていたら、その場合行動する人は奴隷であり、自分自身にとって無益な[ことを行っている]人である。しかし共同体や国家の場合、そこでは命令する人の福祉ではなく、民衆全体の福祉こそが至高の法となっている。したがって、何ごとについても至高の権力に従う人は、自分自身にとって無益な奴隷ではなく、むしろ臣民[=権力に臣従する人]と呼ばれるべきなのである。
だとすると、理性に基づいてさまざまな法を制定している国こそ、自由のきわみにある国といえる。そこでは望むなら誰もが自由でいられる(原注三十三)、つまり一心に理性の導きに基づいて生きられるからだ。〈子供も親の指図にすべて従わなければならないが、だからといって子供は奴隷ではない。親の指図は何よりもまず子供の利益を目的にしているからである。
このように、奴隷と子供と臣民の間には大きな違いがあることが分かるから、以下できちんと定義しておこう。ひとが主人の指図に服するよう縛られていて、しかもその指図がそれを命令した人[=主人]だけの利益を目的としている場合、その人は奴隷である。これに対し、自分自身に有益なことを親の指図で行っているのが子供である。〈〈最後に、みんなに有益なこと、したがって自分自身にも有益なことを、至高の権力の指図で行うのが臣民である。〉〉》
《》内をマルクスが抜き書き
〈〉内は省略
なお、一連の『資本論』草稿は、新MEGA第II部門(日本語では、『マルクス資本論草稿集』全9巻、大月書店、1979-94年)に収録 ...
MEW
MEW
https://ja.wikipedia.org/wiki/Marx-Engels-Werke
MEGA
https://ja.wikipedia.org/wiki/Marx-Engels-Gesamtausgabe
Marx-Engels-Gesamtausgabe(マルクス・エンゲルス・ゲザムタウス ... MEGAは、初めの思考のスケッチから最後の方の理解まで、現代の編集方式の ... 1950年代から1990 年代初頭にかけて、大月書店から『マルクス・エンゲルス全集』が刊行されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Marx-Engels-Gesamtausgabe
スピノザ民主制論とマルクス価値形態論 ― マルクスの『神学・政治論』研究の理論射程 ― | ちきゅう座
http://chikyuza.net/archives/59516参照:
内田弘「スピノザの大衆像とマルクス」『専修経済学論集』第34巻第3号、2000年3月
[一者への結合]『神学・政治論』におけるスピノザの民主制生成の論証は基本的につぎにみるとおりである。すなわち、人間が能力の及ぶかぎり行為することが許されるという「自然権」を各人が行使すると、どうなるか。その結果、憎しみ・怒り・びくびくした生活に陥る。したがって、各人はそのような事態をできるだけ避けようとする。「理性の命令」(下168)にしたがって、人間は行動する。マルクスはつぎの文に注目し抜粋する(MEGA,IV/1,S.240)。
「人間は、安全にかつ立派に生活するために、必然的に一者に(necessario in unum)結合しなければならなかった。しかもその結合によって人間たちは、各人が万物にたいして自然から与えられた権利を共同して所有する(collectives habeo)ようになった。またその権利がもはや各人の能力と欲望によってではなく、万人の力と意志によって決定されるようになったのである」(下168、ボールド体は引用者)。
スピノザは、万人のそれぞれの力=自然権を《一者》に結合したという。このスピノザの言明は、『資本論』交換過程論におけるヨハネ黙示論からの引用「この者どもは心を《一つ》にした。・・…この刻印のある物でなければ、誰も物を買うことができないようになった」(Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin 1962, S.101)を想起させる。マルクスは、このことに関連する、つぎの文を全文抜粋する(ibid.:S.240)。
「各人が有するすべての力を社会に(in societatem)委譲すればよいのである。こうした社会のみが万事に対する最高の統治権を保持し、各人はこれに対して自由意志によって、あるいは重罰への恐れによって従うべく拘束されることになる。このような社会の利害関係を民主制(Democratia)と名づける。それゆえ、民主制とは、行いうる一切の事柄に対して最高の権利を共同して(collegiartur)もつ人間の総合的結合(coetus universes hominum)であると定義される」(下173)。
こうして創られた制度をスピノザは「民主制」と命名する。マルクスはつぎの【 】内の文章も抜粋する(MEGA,IV/1:241)。
「わたしがこの政治形態[民主制]をあらゆる政治形態に優先して論じた理由は、この政治形態が【わたしのみるところ、最も自然であり、また自然が各人に許容する自由に最も近いからである】。実際、この政治形態にあっては、誰もが自己の自然権を他人に委譲したままで、それ以後自分はなんの相談にもあずからないようになるのではなく、むしろ各人は自分自身が全社会の一部であるけれども、その全社会の多数者に(in majorem totius Societatis)自然権を委譲するのである」(下177)。
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(マルチチュードの用例はエチカ5:20備考内4にある)
4. In multitudine causarum, a quibus affectiones, quae ad rerum communes proprietates vel ad Deum referuntur, foventur. Vide prop. 9. et 11. huius.
4o dans la multitude des causes qui entretiennent celles de nos passions qui se rapportent aux propriétés générales des choses ou à Dieu ;
[1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome II Pierre-Joseph Proudhon] Oeuvres de Proudon (iBooks)
プルードンが引用した箇所が続く
スピノザの「マルチチュード」とプルードン
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。
以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』の最後に書かれた言葉である)。
この『エチカ』の一節は、自由連想による観念連合をどう集合論的に束ねるかという問題として位置づけられるが、政治的な組織化の問題と直結するということでもある。
ネグリは政治主義的に捉えたが、プルードンのそれは政治組織を経済組織に還元するものであり、人民銀行案などがその具体例だった。
ネグリや上野修(『精神の眼は論証そのもの』)はスピノザを契約論者ではないと述べている。たしかにスピノザはホッブズやルソーのような社会契約論者とは違う。しかし、柄谷行人が『世界共和国へ』でプルードンは社会契約(片務的でない双務的なそれ)をさらに徹底したと述べたように、スピノザもその契約論を力能に重点を置いて徹底したと考える方が、さらなるスピノザの可能性を開くと思う。
そしてその視点こそがプルードンとスピノザをつなぐ潜在的な可能性をも解き放つと思う。
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☆
津島陽子『マルクスとプルードン』1979,247頁より
《サドラー…『人口法則』(一八三〇年)…「結合しない個人の生産を超過する結合した個人の生産の剰余」(ebd.S. 116.) →p.83》
ch5
p.83
Combined labour produces results which individual exertion could never accomplish.
Thomas Sadler ; The Law of Population : etc. London 1830.
《サドラー…『人口法則』(一八三〇年)…「結合しない個人の生産を超過する結合した個人の生産の剰余」(ebd.S. 116.) →p.83》
ch5
p.83
Combined labour produces results which individual exertion could never accomplish.
Thomas Sadler ; The Law of Population : etc. London 1830.
https://www.amazon.co.jp/law-population-superfecundity-developing-principle-ebook/dp/B07H6J7H8W
津島陽子((マルクスとプルードン』1979年247頁)指摘のプルードンに先行する集合力理論=サドラーの対マルサス反論。
ただし、プルードンには''外観"としての階級意識があった。
それが合成の誤謬を免れさせる要因となった。
ケアリの社会形態を並存させた反マルサスも重要。
津島陽子((マルクスとプルードン』1979年247頁)指摘のプルードンに先行する集合力理論=サドラーの対マルサス反論。
ただし、プルードンには''外観"としての階級意識があった。
それが合成の誤謬を免れさせる要因となった。
ケアリの社会形態を並存させた反マルサスも重要。
《すべてを法律によって定めようとする人は、悪癖を正すよりもむしろ呼び起こして
しまうだろう。禁じるのが不可能なことは、たとえそこから往々にして害悪が生じ
るとしても、やはり認めるしかないのである。たとえば見栄やねたみや貪欲や泥酔
や、その他似たようなことからどれほどの災いが生じることだろうか。にもかかわ
らず、こうしたことは大目に見られている。これらは本当に悪癖だけれども、法律
上の命令で禁じるのが不可能だからである。だとすると判断の自由は、なおのこと
認められなければならない。こちらは間違いなく美徳であり、しかも抑圧すること
ができないからである。 》
上記はマルクスが抜書した部分らしい(鷲田小彌太『スピノザの方へ』163頁参照)