2020年6月21日日曜日

ケインズ書評1912註釈

 ケインズ書評1912註釈





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陳Chenが1911年に書いた『孔門理財学』原本英語版を1912年にケインズが書評で取り上げていた(書評はケインズ全集11巻所収、未邦訳)。

ウォレス国際版常平倉の元ネタをケインズは1912年すでに書評していた。

ケインズの引用は前半が多い。常平倉の出てくるのは後半。後半の政治論は紹介している。


The Economics Principles of Confucius and His School (Volume One) Paperback – March 12, 2003
by Chen Huan-Chang (Author) [Chen Huanzhang 陳煥章]
https://www.amazon.com/Economics-Principles-Confucius-His-School/dp/1410203999
p.561
Liu An ( -1331) constantly normal granary
p.561,572


孔门理财学 电子书下载 - PDF电子书下载网 2017年 120年 記念版
http://www.howtoabc.com/book4/10689-0.html#downdizhi
(中国語では2006,2009年版もある。ダウンロード出来ない2006年版の方が詳しい脚注が得られるかも知れない)

清末留美博士陈焕章《孔门理财法》对美国农业的启示 2019(2009) 紹介動画

清末留美博士陈焕章《孔门理财法》对美国农业的启示 2019


常平倉 System of the Constantly Normal Granary (Ever-Normal Granary)の解説付き動画
2009年中国語版出版記念動画。この版は共産党主導かも知れない

改訂版:
陈焕章和他的《孔门理财学》--文史--中国作家网
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2023/02/blog-post_98.html

龐公Mang Kung 後漢 220年頃 無尽創設


イネスとケインズの貨幣論 古川顕 2018

イネスは20世紀初頭, 「貨幣とは何か」 というわずか一編の論文において貨幣よりも信用を重視し, しかも 「信用は貨幣に先立つ」 と主張する。

ケインズの 「古代通貨論」 は, ケインズ全集全28巻の最後の巻 (第28巻)に掲載されたもので, 彼の数多くの著作の中ではほとんど注目されず, 読まれることのなかった一編ではあるまいか。 しかしこれは, 貨幣の起源や貨幣の歴史について数多くの示唆を与えてくれる貴重な小編であることは確かであるように思われる。 ケインズは次のように述べている。 「記録された歴史のほとんど全期間を通じて, 貨幣価値の低下は, 簡単な議論に値する。 それは, 貨幣が造られる金属の大量の増加, ないしは貨幣単位の金属の含有量の減少による失敗という2つの方法によってもたらされた。 前者を貨幣価値の下落 (Depreciation), 後者を貨幣価値の切り下げ (Debasement)と呼ぶのが便利である。 もし歴史の推移と本質が前者を生じさせないならば, 人間は一般に後者を頼みとするものである」 (Keynes [(19201926) 1982] p.226)。

[古代貨幣研究でケインズが重視するのは古代ギリシアのソロン。古代メソポタミアの信用貨幣が前提となる。
日本で言えば結縄がどこまで計量的だったか。]

#28:401~3
クリストファー・ドウソン著『神々の時代〔Age of Gods〕』(マレイ社)、 一九二六年
 古代文明は、前第三千年紀にその十全な発展に到達した。その時代に、物質的文化の一般的レベルは、多くの視点において、古代世界のそれに続く如何なる時代よりも高いところにあった、とドウソン氏は主張する――「文明の生活がその上に立脚するあらゆる偉大な達成が既に到達されており、近代の西ヨーロッパにおける偉大な科学的、産業的な動きの勃興に至るまで、その物質的装備への如何なる重要な付加も存在しなかった」。要するに「インドのアーリア族、バビロニアのセム族、それにエーゲ海のギリシア人は、彼らの祖先から広汎に受け継がれた文明の創造に対しては、長きにわたり、分不相応の名声を受けて来たわけである」と。

ケインズはドウソンの影響もありここで古代ギリシア崇拝に傾いているようだ。
ユダヤの重要性はゾンバルトを読まないとわからないだろう。

古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想
雨宮健

古代中国

771 春秋時代始まる

管仲(730 頃-645)

孔子(551-479)

453 戦国時代始まる

墨子(470 頃-390 頃)

莊子(369 頃-286 頃)

孟子(372 頃-289 頃)

荀子(298 頃-235 頃)

韓非子(?-230 頃)

221 秦の天下統一

202 前漢王朝始主

司馬遷(145-86?)

8 AD 前漢王朝滅亡


古代ギリシャ

594 Constitution of Solon

508 Democracy of Cleisthenes

460

Thucydides (460-395)

| Age of Pericles Aristophanes (445-386)

Xenophon (430-354)

431

| Peloponnesian War Plato(427-348)

Aristotle (384-322)

404

Demosthenes (384-322)

322 End of Athenian Democracy






道元
正法眼蔵随聞記 - 心の指針となった永平寺の禅師
https://eiheizen.jimdofree.com/正法眼蔵随聞記/

【3-11】
 一日僧來て學道の用心を問ふ次でに示して云く、學道の人は先須く貧なるべし。財おほければ必ず其の志を失ふ。在家學道のもの猶を財寶にまとはり、居處をむさぼり眷屬に交はれば、設ひ其の志しありと云へども、障道の因縁多し。古來俗人の參學する多けれども、其の中によしと云ふも猶を僧には及ばず。僧は三衣一鉢の外は財寶をもたず、居處を思はず、衣食を貪らざる間だ、一向に學道すれば分分に皆得益あるなり。其のゆへは貧なるが道に親きなり。龐公(ハウコウ)は俗人なれども僧におとらず、禪席に名をとヾめたるは、かの人參禪のはじめ、家の財寶を持ち出して海に沈めんとす。人是れを諌めて云く、人にも與へ佛事にも用ひらるべしと。時に他に對して云く、我己に冤(アタ)なりと思ひて是れを捨つ。冤としりて何ぞ人に與ふべき。寶らは身心を愁へしむるあたなりと云ひて、つゐに海に入れ了りぬ。然ふして後ち、活命の爲には笊をつくりて賣て過けるなり。俗なれどもかくの如く財寶を捨てヽこそ、善人とも云れけれ。いかに況や僧は一向にすつべきなり。

追記:
1912年ケインズが書評した陳Chen1911に関しては以下の日本語論考があった。以下後半389頁~

儒教の経済学原理(The Economic Principles of Confucius and His School)
経済学における一つのパラダイムとしての東洋経済学 小野進
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/58518.pdf
立命館経済学,58(5/6),1030-1097 (2010-03)
全68頁

目次、
付録年表を再掲し、
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/09/2010.html
陳の大同(The Great Similarity)思想に言及している。
ケインズに言及しているがケインズによる書評1912には言及していない。

以下は一般化した論考
儒教経済学 小野進 2016
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/64601.pdf

etc.

小野進研究業績
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E5%B0%8F%E9%87%8E+%E9%80%B2&page_id=13&block_id=21

近代経済学原理 (日本語) 単行本 – 1992/8/1


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ケインズの陳煥章『孔門理財学』書評(1912年)は、人口、利子、税制他、ケインズの興味の対象がわかって面白い。英語版が原書出版が1911年。

後にウォレスやケインズ自身によって国際的論点となる常平倉 System of the Constantly Normal Granary (Ever-Normal Granary)#30,e:541,c:349 について1912年の時点ではケインズはまだ言及していない。

 ケインズと論語
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/blog-post_19.html
ベンジャミン・グレアム1943,1937(Benjamin Graham, 1894 - 1976)
https://nam-students.blogspot.com/2019/06/1937
ウォレス、グレアムはChenの本書で常平倉のアイデアを得た。
タリー Tally (唐~宋代の飛銭もタリー=割符、手形の一種か?)
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/tally.html 
無尽?

https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/06/220.html

簡体字変換
https://dokochina.com/sim2traconv.php

参照
礼記王制
#19,e:358,e:221
https://ncode.syosetu.com/n1937en/271/

 礼記・王制編、『國無九年之蓄曰不足、無六年之蓄曰急、無三年之蓄曰國非其國也』。

『国に9年分の蓄えが無いと不足という。6年分の蓄えが無いと危険である。3年分の蓄えが無ければ国と言ってももはや国の体ではない』 
なお、陳は康有為の弟子で大同思想を受け継いでいる。#4,e:47,c:27★★
Then we may hope to have the stage of Great Similarity for the whole world.
那时我们可以希冀整个世界的大同!
ただし法家や道家の歴史的貢献の印象は後退している。
The Economics Principles of Confucius and His School
by Chen Huan-Chang (Author) [Chen Huanzhang 陳煥章]
https://www.forgottenbooks.com/en/download/TheEconomicPrinciplesofConfuciusandHisSchool_10035497.pdf
全771頁(一部有料)

中国語版はamazon中国サイトにkindleがあるが日本国籍だと買えない
https://www.amazon.cn/dp/B0197SPS16


“生产要素”5 (17,18,19)、“分配”7(24,25)、“公共财政”9(32〜35) 上は編名。ケインズ書評で言及された章は、6,8,10,15,18,23,26
なかでも 18人口、23商業(貨幣)が重要。
(#19,c221,e358の礼記も重要。)

ちなみに陳煥章(CHEN, HUAN-CHANG,1881~1933)は康有為の弟子で大同思想を受け継いでいる。

ジョン・メイナード・ケインズ
陳煥章『孔門理財学』書評
エコノミックジャーナル1912年12月

J.M.KEYNES
From The Economic Journal, December 1912
CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.
 Columbia Uniersity Studies. (New York,
Longmans), 1911.https://doi.org/10.2307/2222270

 孔子はかつてこう言った。「[衛の人口は]多いね」。冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、「富ませよう」と言った。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、孔子は「教育しよう」と言った。 [論語13:9]

 彼の賃金の理論は次のように表現されている。
「日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。」[中庸]
彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。
資本は母であり、利子はその子であるからだ*。

 *中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。

 関税に関して彼は極端な自由貿易主義者だった。 これが孔子の経済原理の特徴だ。 それは陳煥章博士の最も興味深い本の本質というよりもテキスト内容を提供する。
その内容は、中国の経済史への貢献の一部と、最も広い経済的意味で考えられるすべてのトピックに関する多くの世代の詩と格言の一部で構成されている。
その章は「生産要素」、「分配」、「公共財」などと題されているが、著者はこの人為的な枠組みに、魅力的で有益な多くのものを組み込んでいる。

 男女の隔離が中国における当初の教義ではなかったことを証明するために、著者は『詩経』から次のような(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)詩を引用をしている。

《溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。》
[『詩経』鄭風篇から「溱洧」]

 「経済組織」の章では、結婚から3ヶ月に満たない妻に裁縫をさせる役人に向けられた、『詩経』からの別の詩を読むことができる......。

葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。
[『詩経』魏風より]

 孔子は老人の処遇について、50歳で子供がいない女性には、政府から衣食を与え、詩の収集のための委員に任命することを定めている。これは、孔子が女性を政府の役職につける資格があると考えていたことを示していると煥章博士は述べている。 「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は常に珍味を提供し、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、別の場所に行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にすることが求められている」...。 
[「養老」『礼記王制』よりChenによる要約]

 紀元前2600年から紀元前350年まで、何らかの形で存在していたとされる土地所有制度「井田制」についての説明は非常に充実しており、興味深いもので、村落共同体の土地所有権を研究するすべての学生の注意を引く価値がある。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)、以前も現在も銅貨が制度の基本である。 紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。紀元83年に亡くなった鄭衆は、里布について《印章を押し、文字を書いた幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された》[『周礼注疏』]と述べている。
 西暦9世紀、紙幣と為替手形の中間にある何かの起源は、引用に値する。

《そのため、商人は都に来ると、都の各州を代表する事務所にお金を預けて、そこから債券を受け取った。こうして、どこに行っても、その債券で簡単にお金を引き出せるようになった。
これを「飛銭」と呼んだ。しかし、このようなやり方は、中央政府によって禁止された。官庁がお金を流通させないようにして、物価を下げると考えられたからである。しかし、その結果は前よりも不便になった。そこで、西暦812年、政府は都に事務所を設け、貨幣を飛ばす業務、つまり政府が預金者に債券を発行し、預金者がその債券を貨幣と交換する業務を行うようになった。つまり、政府が預金者に債券を発行し、預金者が各州の大都市で債券と貨幣を交換したのである。西暦970年、飛銭制度を運用するための真の政府銀行が設立され、「便銭務」と呼ばれた。》[#23,e:433,c:263]

 中国の「貨幣協会」「協同組合銀行」の制度は、紀元220年頃の仙人、龐公によって考案されたと伝えられている。
 グレシャムの法則と数量説は、中国の学者によって長い間理解されてきた。紀元前175年、賈誼(かぎ)はこう言っている。
《政府は貨幣の価値を制御するために銅を蓄積している。銅の価値が低ければ、何らかの政策で量を減らし、高ければ、何らかの政策で貨幣を分配する。従って、物価は平準化されなければならない。》[『漢書・食貨志下』所収]

 西暦1378年、葉子奇は次のように言っている。
《茶や塩の証明書のようなもので、証明書を出せばすぐに茶や塩を手に入れることができる......。証文が来れば、現金が出て行き、証文が出れば、現金が入る。現金を母とし、証書を子とする。母子は互いに補い合い、すべての商品の価格を支配する。価格が低いときには紙を発行し、価格が高いときにはそれを引き出すべきである。》
[葉子奇『草木子』]

 西暦1223年、袁燮(えんしょう)は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した[『歴代名臣奏議』巻273]。
今、鉄の貨幣を加えれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は紙幣が多すぎたため、物価が高かった。今、鉄の貨幣を市場に加えれば、物価はさらに安くなるのではないか?と言っている。

 例えば、孔子の優生学の原理、労働力の流動化の規定、著者の立派な中国租税史など、引用したいものがたくさんある。
人口統計は古くから存在し、孔子は人口表を持つ者に馬車の横木を前にして頭を下げたという[論語#10郷黨第十]。
 しかし、このことを考慮し、土地保有制度から推定される条件を考慮すると、中国の現在の巨大な人口が極めて近代的な成長であり、人口密度の高さがイギリスと同様に中国でも最近のことであることはかなり明白であると思われる。キリスト教時代の最初の17世紀(あるいは儒教時代の5世紀から22世紀まで)の間、人口は5000万人近辺で変動していたようである。最近の比較的正確な統計によると、1749年の人口は1億7700万人、1783年は2億8400万人、1842年は4億1300万人であった。また、1850年から1856年にかけての太平の乱では、1000万から2000万人の人命が失われたと言われている(煥章博士は、この原因による損失を1500万としているが、これは誤植か修辞による誇張であろう)。1868年から1885年にかけて、公式の人口推定値は378,000,000から405,000,000まで変動している。1910年(『中国年鑑』によれば)には、2つの独立した推計がある(チベットと満州を除く)-税関の推計では4億2100万人、内務省の世帯数に基づく国勢調査の報告では3億1600万人である。しかし、1700年以前には、中国本土の人口が4,500万人を超えることはなかったということは、事実であろう。したがって、おそらく人が考えがちなように、中国の人口が生計手段を圧迫するのは何世紀も前のことだと考えるのは正しくない。
[ケインズが参照したのは多分以下、
Presented to ... - Sir Alexander Hosie - 1904]

 その立場は比較的新しく、西欧諸国のように、この膨大な人口増加を正当化するような経済的、自然的条件の明らかな変化はないのである。中国の黄金時代、哲学者や詩人の時代、政治や生活の芸術における発見の時代は、人口があふれかえり、過密状態にあった時代ではない。道徳主義者は、人口の減少期を国家の衰退期と見なすのが好きであるが、中国でも他の国と同様、宗教の力が強力に子孫を多く残す側に働いてきたのである。しかし、黄金時代[21,e:397,c:243]を享受する者がこれほどまでに多いとすると、黄金時代が回復するとは考えにくい。
 しかし、煥章は、中国の弱さの主因を他のところに求めている。それは、公務員試験(科挙)に「八股文」が課されたことにある[#36結語c:432]。八股文は実用的でなく、その習得には長い修練が必要だった。1370年に制定され、1902年に廃止された。

                      J.M.ケインズ


南宋期浙東海港都市の停滞と森林環境

岡元司


J.M.KEYNES
From The Economic Journal, December 1912
CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.
 Columbia Uniersity Studies. (New York,
Longmans), 1911.
https://doi.org/10.2307/2222270

https://baike.baidu.com/item/%E9%99%88%E7%84%95%E7%AB%A0/9998390
梅纳德·凯恩斯《孔门理财学》[陈焕章]书评

另,本文原载于《经济学杂志》(Economics Journal),1912年12月号。翻译来源于互联网。

ジョン・メイナード・ケインズ
煥章『孔門理財学』書評
別、エコノミックジャーナル1912年12月日本語 脚注
Confucius once observed: 'How numerous are the people!' Jan said, ‘Since they are thus numerous, what more shall be done for them?''Enrich them,' was the reply. 'And when they have been enriched,what more shall be done?'Confucius said, Instruct them.'有一次,孔子感叹道:“庶矣哉!”冉有曰:“既庶矣,又何加焉?”曰:“富之。”曰:“既富矣,又何加焉?”曰:“教之。孔子#8,e:95,c:60 教育
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note1309

13-09 先生が衛の国へ行かれたとき、冉有が御者であった。先生が「[衛の人口は]多いね。」と言われたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょ う。」と言うと、「富ませよう。」と言われた。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう」と言うと、「教育しよう。」と言われた。
His theory of wages was expressed when he
said:By daily examinations and monthly trials,and by making their rations in accordance with their labours-this is the way to encourage all the classes of artisans.
”在另一场合,孔子说“日省月试,既廪称事,所以劝百工也”,这实际上阐明了他的工资理论。
中庸#18,e:316,c:195 工

さらに中庸(9or20or21章訳不定)から

日ごと月ごとにその工作を点検し 、仕事ぶりに応じた扶持米を与えるようにすると 、それがもろもろの工人たちをはげますことになる 。(岩波文庫)

日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。(角川文庫)

He did not allow land to be subject to private ownership.He did not think it wrong to
take interest;for capital is the mother,and interest is her child.*

*The Chinese word(hsi) for interest means “child” That interest is justifiable has never been doubted in China.

In the matter of tarifts he was an extreme free-trader. This is the character of the economic principles of Confucius. They supply the pretext rather than the substance of Dr Chen
Huan-Chang's most interesting volumes.The substance is composed in part of contributons to the economic history of China,and in part of the poems and aphorisms of many generations on all topics that can be considered in the widest sense economic.His chapters are headed'Factors of Production', Distribution",'Public Finance,and so forth;but into this artificial scheme he has fitted a great deal that is charming and instructive.
还有,孔子不允许土地成为私人所有的对象。孔子认为取息没有错;因为资本是母亲,息是她的孩子。[1]


注[1] 在中文中“息”代表利息,意为“子”。在中国,利息的正当性从没有受到过质疑。

在关税事务方面,孔子是一位极端的贸易自由论者。
这就是《孔门理财学》这本书的特色。不过,上述这些并不是陈焕章这一非常有趣之作的基本内容,而更多地是作为一些由头。其基本内容一部分属于中国经济史;一部分是世代相传的诗篇和格言,其所涉话题只与最广义理解的“经济”有关。其章节标题虽为“生产要素”、“分配”、“公共财政”等等,
“生产要素”5 (17,18,19)、“分配”7(24,25)、“公共财政”9(32〜35) 上は編名。ケインズ書評で言及された章は、6,8,10,15,18,23,26
なかでも 18人口、23商業(貨幣)が重要。
後に国際的論点となる常平倉を扱った30からの引用はない。
(#19,c221,e358の礼記は重要。江戸期日本の建部も引用)

以下リスト
孔子#8,e:95,c:60 教育 中庸#18,e:316,c:195 工 詩経#6,e:66,c:42 愛 詩経#10,e:154,c:96 woven 養老#15,e:267,c:164 井田tsing tien#26,e:497,c:305 2700〜350,e:,529,c:323 tang唐#23,e:432,c:263 812年、飛銭#23,e:433,c:263 鋳貨#23,e:442?,c:267~270 グレシャムの法則 人口#18,e:332?,c:205 統計
To prove that the separation of the two sexes was not the original plan in China,he is able to quote this(which Confucius gave as a bad example of a lewd custom)from the Canon of Poetry:ー

The Tsin and the Wei
Now present their broad sheets of water.
Ladies and gentlemen
Are carrying flowers of valerian.
A lady says,'Shall we go to see?'
A gentleman replies,'I have already been.'
But let us go again to see,
Beyond the Wei
The ground is large and fit for pleasure.'
So the gentlemen and ladies
Make sport together,

Presenting one another with small peonies.
但装入这一牵强框架的是大量讨人喜欢的教诲性内容。为了证明在中国男女之防不是一开始就有的,他竟引用了《诗经》中的这样一节(孔子是将之作为淫猥风俗的坏例子的):

溱与洧,
方涣涣兮。
士与女,
方秉蕑兮。
女曰“观乎?”
士曰“既且。”
“且往观乎!”
洧之外,
洵訏且乐。
维士与女,
伊其相谑,
赠之以勺药。
詩経#6,e:66,c:42 愛

http://blog.hix05.com/blog/2008/08/post-723.html
國風 周南
溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。

(上を孔子は悪い例に挙げている??) さらに詩経から
http://xinxingren.gen.nz/classics/%E8%A9%A9%E7%B6%93.html#zhounan
Lessons from the States
The Odes of Zhou and the South




In the chapter on “Economic Organisation” we read another poem from the Canon,directed against an official who makes his wife sew within the period of three months from marriage:-


Shoos thinly woven of the dollohos fibre
May bo usod to walk on tho hoarfrost.
The delionto fiugora of a brido
May be usod in making olothos.
Putting the walstband to his lowor garmont and the collar to his uppor,
The beautiful woman fixes thom.
The beautiful woman movod gracofully,
And politoly stood nside to tho loft;
From her girdle hung her ivory comb-pin.
But it is the narrowmindodness of her husband,
Which makos the subjeot for satire.

在“经济组织”一章中,我们读到《诗经》中的另一首诗,针对的是一名要他新婚不到三个月的妻子做女红的官员:

纠纠葛屦,
可以履霜。
掺掺女手,
可以缝裳。
要之襋之,
好人服之。
好人提提,
宛然左辟。
佩其象揥,
维是褊心。
是以为刺。
詩経#10,e:154,c:96 woven https://mteisi.exblog.jp/29190387/
魏風
葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。

In the matter of the treatment of the old,Confucius laid it down that if women have no children at the age of fifty,they are to be given clothing and food by the government,and are to be appointed commissioners for the collection of poetry.This shows, according to Dr.Huan-Chang,that Confucius thought women qualified to hold government office."Nourishing the old"was aspecial principle of Confucius."According to the Royal Regulations,for those of fifty the grain is fine and different from that used by the younger people.For those of sixty,flesh is kept in store waiting for their order at any time.For those of seventy there is a second service of savoury meat.For those of eighty there is a constant supply of delicacies.For those of ninety,food and drink are never out of their chamber;whenever they wander to another place,it is required that savoury meat and drink should accompany them.”
在对待老人方面,孔子规定:妇女五十岁无子,由政府供给衣食,并作为采诗的使者。按照陈焕章博士的说法,这说明孔子认为妇女可以胜任公职。“养老”是孔子的一条特别的原则。“按照《礼记·王制》,五旬老人食用的是细粮,不同于给年轻人的;六旬老人常备肉食,以便随时取用;七旬老人一天有两次可口的肉食;八旬老人美食佳肴不断;九旬老人饮食不离寝室,无论他们闲逛到哪里,都要有可口的肉食、汤水相随。”
養老#15,e:267,c:164

礼記王制
Chenによる要約
 When Dr.Huan-Chang is dealing with later philosopbers and with economic history we find a method more like that of modern economists.His account of the tsing tien system of land tenure, which is supposed to have existed in some form or other from about 2600 B.O.to 350 B.c.,is very full and interesting,and is worth the attention of all students of land tenure in village communities.The section on money,a matter in which China is now the least developed of all nations,shows that there are many practices,in the use of which she certainly preceded them. It is said that money has been used in China since 2900 B.C., and the trimetallic system of the present day has persisted(with a diminishing use of gold)from the remotest times,the copper coin being formerly,as now,the basis of the system. In the use of paper money they long anticipated other peoples.
Cheng Chung,who died in 83 A.D.,says of the li pu that"it was a piece of cloth stamped with seals and written with words, two inches wide and two feet long.It was used as money for the exchange of things.

"The origin of something between notes and bills of exchange in the ninth century A.D.is worth quoting:
当陈焕章博士叙述后来的哲学家和经济史时,我们发现他的方法更像现代经济学家的。他对井田制的记述十分详细而有趣,这种土地所有制被认为以某种形式存在于公元前约2600年至公元前350年间。这一记述值得所有研究村社土地所有制的学生关注。关于货币的那部分记录了中国确实先于其它国家早就采用的许多做法(在这方面,现在的中国是所有国家中最欠发达的)。据说中国从公元前2900年起就已经使用货币了,现在仍以铜钱为基础的三金属体制早自最遥远的古代起就一直延用至今(不过金币越来越少用了)。在应用纸币方面他们远远先于其他民族。卒于公元83年的郑众这样说到“里布”:“布,参(叁)印书,广二寸,长二尺,以为币贸易物。”

中国于九世纪时开创了一种介于纸币和汇票之间的票据,当时的情景值得引述:
#25,e489,c298にヘンリージョージ(孟子の理論と似ているらしい)の名もあるがケインズは言及していない#26,e533,c325ではヘンリージョージの土地改革案は過激だとされる。

井田法
http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius05-03b.html
孟子 勝文公章句上
井田tsing tien#26,e:497,c:305
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-026_1.html
中国の周王朝での理想的土地均分制。
周王朝において、1里平方の土地を井の字型に9等分し、廻りの8区画を1家族ずつに与え、中央を公田として9家族の労役による耕作し、国家の収入とするもの。『孟子』に周代の土地制度として述べられているが、実施されたものかどうかは不明。理想的な土地区分制度としてあげられているにすぎないと考えられている。

2600~350年,e:,529,c:323

周礼、里布li pu#23,e:432,c:263 Cheng Chung郑众这样
周礼注疏/卷十三 - 维基文库,自由的图书馆
https://zh.wikisource.org/zh-hans/周禮註疏/卷十三
凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。

鄭眾/衆這樣
鄭衆 (大司農) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鄭衆_(大司農)
鄭 衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の政治家・学者。は仲師。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。
大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない。有名な宦官鄭衆とも関係はない。
"During the middle part of the Tang dynasty there was a scarcity of money;hence,money was not allowed to be taken out of certain localities.Therefore,when merchants came to the capital they deposited their money in the offices which represented the different provinces at the capital,and received bonds from them.In this way,wherever they went they drew money with their bonds very easily.This was called'flying money.'Such a practice,however,was prohibited by the central government, because it was thought that the offices would keep the money out of circulation,and the prices of commodities would be lowered.
But the result was still worse than before.Therefore,in 812 A.D., the government opened its own offices at the capital for carrying on the business of flying money-that is,the government issued bonds to depositors,and they exchanged bonds for money at the great cities of different provinces.A true government bank was established in 970 A.D.for the operation of the flying-money system.It was called The Bank of Convenient Money." 

“唐朝中期,钱很少,因此,有些地方钱不让带出当地。唐宪宗时(孔子纪元1357~1371年),商人到京城,他们将钱存在诸道驻京的机构(进奏院——译者注),换成证券放在身边。这样,无论到哪儿,他们都很容易凭证券提款。这被称为‘飞钱’。然而这一做法为中央政府所禁,因为政府认为这些机构将使钱币退出流通,令商品价格降低。但禁用飞钱的结果更糟。因此,在孔子纪元1363年(812 A.D.),中央政府自己开办了作飞钱生意的衙门,即由政府向存款人发放证券,存款人可以在不同省份的大城市将证券换成现金。。。真正的政府银行建立于宋初(1521 A.K.或970 A.D.),那是为了飞钱经营体系的运作,它被称为 ‘便钱务’。


飛銭(806~820頃から)


唐代

811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

北宋

唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。

tang唐#23,e:432,c:263

812年、飛銭#23,e:433,c:263

https://ja.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)

紙幣・為替・証券
銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。
Tradition says that the system of"money associations,or co-operative banks of China,was invented by a hermit named Mang Kung,who lived about 220 A.D.

 Gresham's Law and the Quantity Theory have been long understood by Chinese scholars.In 175 B.C.Chia Yi said:"The government accumulates copper for the control of the value of money.When the value is low,it lessens the quantity by some policy;and when it is high,it distributes the money by some policy.Hence,the price of commodities must be equalised."
”相传“标会”制度,即中国的合作银行,是由生活于公元220年左右的一个名叫庞公的隐士发明的。

中国学者早就懂得格雷欣法则和数量理论。公元前175年,贾谊说:“上挟铜积以御轻重,钱轻则以术敛之,钱重则以术散之,货物必平。”
Mang Kung#23,e:434,c:264
庞公、
龐公
标会、
標會

龐公 後漢 220年頃 無尽創設


道元
正法眼蔵随聞記 - 心の指針となった永平寺の禅師
https://eiheizen.jimdofree.com/正法眼蔵随聞記/

鋳貨#23,e:442?,c:267~270 グレシャムの法則


賈 誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)は、前漢の政治思想家・文章家。洛陽の人。後漢賈逵はその後裔にあたる。
In 1378 A.D.Yeh Tzu-ch'i laid it down that"if we want to establish paper money,it is necessary to reserve cash as a fund.It should be like the certificate of tea or salt;when the certificate is presented the tea'or salt can be obtained immediately....
When the certificate comes,the cash goes out;and when the certificate goes out,the cash comes in.Take the cash as the mother,and take the certificate as the son.The mother and son supplement each other,and control the price of all commodities.When the price is low,paper should be issued;and when the price is high it should be withdrawn."
公元1378年,叶子奇制订了如下规则:“必也欲立钞法。须使钱货为之本。如盐之有引。茶之有引。引至则茶盐立得……引至钱出。引出钱入。以钱为母。以引为子。子母相权。以制天下百货。出之于货轻之时。收之于货重之日。”
葉子奇,字世杰,一名琦,號靜齋。生活在初,蒼括龍泉(今浙江省龍泉縣)人。
生卒年不詳,約與刘基宋濂同時。自少聰穎,師從王毅,好理學,專明“理一分殊”,以静为主。洪武八年(1375年),曾任巴陵縣(今湖南省岳陽縣)主簿,洪武十一年二月十五日春天,有群吏在城隍庙窃饮猪脑酒事,子奇恰好經過,被县学生员舉發,遭波及入獄,在獄中“遇有所得,即书之,日积月累,忽然满卷”,出獄后以著述自娛[1]。著有《草木子》、《静斋诗集》、《静斋文集》、《本草节要》、《地理节要》、《诗宗选玉》等。

叶子奇(约公元1327年—1390年前后在世),元末明初大学者。


In 1223 A.D. Yian Hsieh explained that an insufficiency of copper money could not be remedied by issuing inferior iron money in addition-
"if we now add the iron money to it,should not the copper money but become still less?Formerly,because the paper money was too much,the price of commodities was dear.If we now add the iron money to the market,would the price not become still
dearer?”

There is a great deal in Dr.Huan-Chang's learned and delightful book from which one would like to quote-Confucius's principles of Eugenics,for example,the provisions for the mobility of labour,or the author's admirable history of Chinese taxation.

公元1223年,袁燮认为,铜钱的不足不能用额外发行较次的铁币这一办法来补救,他这样解释说:“而又益之以铁钱,不愈少乎。往时楮币多,故物价贵,今又益以铁钱,不愈贵乎?”

在陈焕章博士这本博学而令人愉悦的书中,有大量的内容人们将会引述,比如孔子的优生原则,关于劳工流动的规定,或是写得极好的中国税制史。
#6:23:270

袁燮(1144年-1224年),字和叔,庆元府鄞县(今浙江宁波)人。宋朝政治人物、教育家哲学家

《历代名臣奏议》卷 273《便民疏》

歴代名臣奏議》巻273便民疏

 《歴代名臣奏議》巻273便民疏

https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=977307


《卷二百七十三》

1 欽定四庫全書

2 厯代名臣奏議卷二百七十三明 楊士竒等 撰

3 理財

8 燮知江州時上便民䟽曰臣聞楮幣之用至今而窮立法而稱提之所以濟其窮也然今日之所謂稱提者果能有濟乎始以法令従事兊不以省陌者必罰無赦未幾従民之便又未幾而有三分七分之說展轉屢變而卒歸于銅錢楮幣之相半是復其舊也是猶未始稱提也經乆可行之䇿顧不在兹乎今議者急於豐財欲用鐵錢與銅錢並當不足之時倏易有餘寧不可喜而其實有不然者往時楮幣多故銅錢少

而又益以鐵錢不愈少乎往時楮幣多故物價貴今又益以鐵錢不愈貴乎

銅鐵之價固不相若鑄以為錢孰貴孰賤兼用之於市而實得銅錢之直得無徒費鐵錢乎兩淮虚耗甚矣運鐵錢於江南貿易而歸固将裕之也然江南之楮幣易淮甸之鐵錢厥價三倍姦巧之民争先取之此盈而彼虚矣鐵錢日以朘削銅錢禁不得徃淮人將安所用哉名曰裕之其實蹙之臣不知其可也且夫鐵錢之易就非若銅錢之難成盜鑄如雲而起楮之輕也滋甚譬之人方病寒又以涼劑投之祗益其疾而已內不足以權楮外不足以裕淮将何便於此哉

“而又益之以铁钱,不愈少乎。往时楮币多,故物价贵,今又益以铁钱,不愈贵乎?”


8謝が江州を知ったとき、それは人々にとって便利でした.彼は、役人がチューコインの使用について聞いて、立法することができなかったと言いました.いわゆる言及が貧しい人々を助けることである理由は、今日の~という言及は本当に助かります。法規から始まります。処罰される者は長く恩赦されず、国民の都合はあまり良くなく、3分の1と7の説があります~という点が何度も変更され、銅貨に死が戻ってきたというわけで、今日議論している人々は金持ちになりたがり、鉄貨や銅貨を使いたいと思っているのです。余剰がある. 幸せにならない方がいい, しかし、実際には, 昔はコインが多かったので, 銅コインは少なくなりました, 鉄コインは少なくありません. 昔はコインが多かった. したがって,物価が高い今は鉄貨の方がいい 銅と鉄の価格は同じではない 市場では貨幣の方が高価で安い方が使われ銅貨が使われていると考えられている実際には価値がない. 鉄のお金は浪費されている. 鉄のお金は揚子江の南に運ばれて貿易のために金持ちに返された. しかし、揚子江の南のチューコインは鉄のコインの3倍の価値があります. Huaidian. Huaihuaiの人々はそれをAnに使用し、名前はYuzhiです. 実際、閣僚はそれが何であるかを知りません. 鉄のお金は銅貨ほど簡単ではありません. 冷却剤で投げる病気を治すだけですが、内側は力を発揮するのに十分ではなく、外側は雨懐に十分ではありません。


孔门理财学

270

他的论述综合了数量理论和格雷欣法则。关于前者,他指出:国家

的财富取决于商品的增长,而不是货币的增长。当商品丰富时,价格就

便宜,货币的价值会高。如果商品不足,它们使货币的价值降低。因

此,他说物不可得而见,因为他将货币的数量与商品的数量相比。关于

后者,他指出:在同一市场上流通时,纸币驱逐硬币。如果用了纸币,

硬币就会被排斥于流通之外。因此,他说钱亦将不可得而见。这类似格

雷欣法则。因此,我们可以说是叶适发现了格雷欣法则,因为他看到了

纸币驱逐硬币的事实。

袁燮将格雷欣法则论述得更明白。孔子纪元 1774 年(1223 A. D.),

他说:

“今议者急于丰财,欲用铁钱与铜钱并。当不足之时,倏易有

余,宁不可喜?而其实有不然者。往时楮币多,故铜钱少,而又益

之以铁钱,不愈少乎。往时楮币多,故物价贵,今又益以铁钱,不

愈贵乎?……臣窃观当今州郡,大抵兼行楮币, 所在填委, 而钱常

不足。间有纯用铜钱不杂他币者,而钱每有余。以是知楮惟能害

铜,非能济铜之所不及也。”①

按照袁燮之说,复位币制的坏处是十分明显的。如果铁钱与铜钱一

并使用,它只会使铜钱更少,因为铁比铜贱,恶币总是驱逐良币。当纸

币与铜币同时使用时,情况也是这样,铜币会被驱逐出去。如果只用铜

币,铜币就会保持充足。因此,币制应选择单一标准。在所有情况下都

是这样,不仅在铜币与铁币之间,在银和金之间也是这样。事实上,这

就是格雷欣法则。

六、商业规则

按照儒家的观点,政府应采用积极措施规范人们的商业活动。《礼

记·王制》上说:

《历代名臣奏议》卷 273《便民疏》。



We must be content with one more topic only-the question of population in China.Statistics of population exist from the very earliest times.To anyone bearing the tables of population Confucius bowed forward to the crossbar of his carriage."But they are very inaccurate,mainly because there have been at various times a'door-tax'and a'mouth-tax,'which have made it to the interest of the people to conceal their numbers.Allowance for this,however,being made and account being taken of the conditions presumied by the systems of land tenure,it seems fairly clear that the present huge population of China is of quite modern growth,and that great density of population is as recent a thing in China as it is in England. During the first seventeen centuries of the Christian era(or from the fifth to the twenty-second of the Confucian)the population appears to have fluctuated in the neighbourhood of 50,000,000;it is not likely that it ever reached 100,000,000 before the beginning of the eighteenth century A.D. It is since that time that the numbers have increased by leaps and bounds. According to the comparatively accurate consuses of recent times,the population was 177,000,000 in 1749, 284,000,000 in 1783,and 413,000,000 in 1842. 还值得一提的最后一点是中国的人口问题。人口统计在极早的年代就存在了,见之于“(孔子)式负版者”;不过是十分不准确的,主要是因为有些时候存在着“户税”和“口税”,使得人们为了利益而隐瞒他们的人数。不过,即使考虑到这一点误差,即使还考虑到从土地所有制度推定的情况,似乎很显然,目前中国庞大的人口是近代的增长造成的,人口的高稠密度是近期的事,与英国的情况一样。公元后的最初十七个世纪(或者从孔子纪元五世纪至二十二世纪)人口似乎在50,000,000上下波动,在十八世纪初以前从未有可能达到100,000,000。从那以后人口才开始跳跃式增长。按照最近相对比较准确的人口普查,1749年的人口是177,000,000;1783年284,000,000;1842年413,000,000。 (孔子)式负版者#18,c:184
ULATION SINCE man is t he first factor of production, we should l ation. f irst discuss man in the collective sense—that is, the popu The Analects tells us, “ To anyone bearing the tables of population, Confucius bowed forward to the cross bar Of his carriage.” 1 This shows that Confucius attached much importance to the tables of population. Chu Hsi com ments…
論語#10郷黨第十
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note1021
喪服の人には[車の前の横木に手をあてる]式(しょく)の敬礼を行い、
http://blog.mage8.com/rongo-10-21
式負版者、
負版(ふはん)の者に式す。
死者の戸籍を持った役人に対しても敬礼をされた
(朱熹の註釈があるらしい。論語集注)
inaccurate#18,e:335or#34,e:655
人口#18,e:332?,c:205 統計

私たちは、もう一つだけのトピック、つまり、次の問題に満足しなければなりません。 中国の人口統計には、以下のようなものがあります。 ★


During the T'ai-p'ing rebellion(1850-1856)the loss of life is said to have been from 10,000,000 to 20,000,000(Dr.Huan-Chang places the loss from this cause at 150,000,000,but this must be due to a misprint or a rhetorical exaggeration);and there has been more lo8s,perhaps,in quite recent times than formerly from floods and
famine.Between 1868 and 1885 the official estimates of population varied from 378,000,000 to 405,000,000.For 1910(according
to The China Year Book)two independent estimates are available(Tibet and Manchuria being excluded)-the Custom's Estimate of 421,000,000 and the Minchengpu(Ministry of the Interior)Census Return,based on the number of households,of 316,000,000. The doubt attaching to these figures is shown by the fact that the population of Szechuan is put,on the basis of the Minchengpu Census,at 23,000,000,by the Customs at 79,000,000,and by Sir A.Hosie,who estimated it in 1904,at 45,000,000.It is probably true,however,that,whereas before the year 1700.the population of China proper did not exceed 100,000,000,it has been for the last century,and is now,somewhere between 300,000,000 and 400,000,000.It is not correct,therefore,to think,as perhaps one is apt to, that the pressure of population in China on the means of subsistence is many centuries old.
据说太平天国起义期间(1850~1856)人口减损在10,000,000至20,000,000之间(陈焕章博士将因此导致的人口减损确定为150,000,000,那一定是因为印刷错误或修辞式夸张)。较近期的洪灾和饥荒造成的人口减损也许比以前的更严重。据官方估计,在1868至1885年间人口在378,000,000和405,000,000之间。1910年(据《中国年鉴》)有过两次分开的估算(西藏和满洲除外):《海关估算》(Custom's Estimate)是421,000,000,民政部基于户数的人口普查(Minchengpu Census Return),结果是316,000,000。四川的人口数字让人们对上述数字起疑:民政部调查结果为23,000,000,海关的数字却为79,000,000,而A.Hoise爵士在1904年的估算是45,000,000。无论如何,实际的情况可能是这样:1700年以前中国本土人口不超过100,000,000,而只是从上个世纪到现在,大约在300,000,000到400,000,000之间。因此,认为中国人口对生存手段造成压力已经有许多世纪之久这种看法是不正确的,虽然人们可能倾向于这样想。
ケインズが参照したのは以下、
Report of Consul-general Hosie on the Province of Ssc̆hʻuan: Presented to ... - Sir Alexander Hosie - 
1904
  The position is comparatively new,and there has been no obvious change,as there has been in the Western World,in economic or natural conditions of such a kind as to justify this enormous increase of population. The Golden Age of China, the age of her philosophers and poets and of discoveries in the arts of government and of lifewas not an age of teeming and overcrowded population. Moralists are fond of regarding periods of declining population as periodof national decay.In China, as elsewhere,the forces of religion have been powerfully on the side of numerous offspring.  But it is difficult to believe that the Golden Age can be recovered while those to enjoy it are so many. 这种情况相对来说是新的。中国并没有发生过如西方世界那样性质的经济或自然条件的明显变化,足以解释中国人口的巨大增长。中国的黄金时代,即她的哲人和诗人的时代、政治艺术和生活艺术大发现的时代,并不是一个人丁兴旺、人口过剩的时代。道德家喜欢将人口减少的时期视为国家衰败的时期。在中国,如同其他地方一样,宗教势力总是强有力地赞同子孙无限多就是好;但难以相信,如果有幸享受者如此之多,黄金时代真能重新再来。 黄金時代#21,e:397,c:243
 Dr.Huan-Chang,however,seeks for the chief cause of the weakness of China elsewhere. He sees it in the requirement of the "modern essay" in civil-service examinations(Class I). The modern essay was of no practical use,and its mastery required long practice. Instituted in 1370, in 1902 it was abolished.


J.M.KEYNES



然而陈焕章博士从其他方面寻找中国衰弱的主要原因,他在科举考试对八股文的要求中找到了—— 八股文不实用,而精通掌握它却需要长时期的训练;八股文开创于1370年,于1902年废除。

另,本文原载于《经济学杂志》(Economics Journal),1912年月12月号。翻译来源于互联网。
梅纳德·凯恩斯



八股文(はっこぶん、拼音: bāgǔwén、英語: Eight-legged essay)とは、中国の明や清の時代に科挙の答案として用いられた、特殊な文体のことである。八股文は四書文、八比文、時文、時芸、制芸、制義とも呼ばれることがある。四書五経の中から出題された章句の意味について、対句法を用いて独特な8段構成で論説した。 清清朝期の八股文は、明の時代のものが踏襲された。中国に於ける八股文の使用は、1902年(光緒28年)に清朝政府が科挙の試験での八股文の使用を禁止するに至るまで継続された。尚、2年後の1904年(光緒30年)に最後の科挙試験が行われ、翌1905年(光緒31年)には科挙制度そのものが廃止されることとなった。…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87
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ジョン・メイナード・ケインズ
APPENDIX II 付録二
List of Authorities in English and Chinese  引用書目略表
1. Analects (Lun Yu) 論語
2. Annotation and Explanation of the Thirteen Canons (Shih San Ching Chu Shu). 十三經注疏
3. Biography of Noteworthy Women (Lieh Nu Chuan).列女傳
4. Book of the Lord of Shang (Shang Chiin Shu), 商君書
5. Book on the Great Similarity (Ta Tung Shu), [Kang Youwei 康有为]. 大同書 
6. Canon of Changes (Yi King), 易經
7. Canon of Filial Piety (Hsiao King, contained in the Sacred Books of the East, vol. iii), 孝經
8. Canon of History (Shoo King),  書經
9. Canon of Mountains and Seas (Shan Hai Ching), 山海經
10 Canon of Poetry (She King), 詩經
11. Canon of Rites (Li Ching), 禮經
12. Canonical Interpretation of the Ts'ing Dynasty (Huang Ts'ing Ching Chieh), 皇清經解
13. Cases of the Institutes of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Hui Tien Shih Li), 大清會典事例
14. Chuang Tzu, 莊子
15. Continuation of the Canonical Interpretation of the Ts'ing Dynasty (Huang Ts'ing Ching Chieh Hsu P'ien), a series of two hundred and nine separate books or volumes. 皇清經解續編
16. Continuation of the General Political History (Hsu Tzu Chili T'ling Chien), 續資治通鑑
17. Continuation of the General Research on Literature and Authorities (Hsu Wen Hsien T'ung K'ao),  續文獻通考
18. Correction of the Youth (Cheng Meng), 正蒙
19. Debate on the Government Monopoly of Salt and Iron (Yen T'ieh Lun), 鹽鐵論
20. Elder Tai's Record of Rites (Ta Tai Li Ki), 大戴禮記
21. General Discussion in the White Tiger Palace (Pai Hu T'ung), 白虎通
22. General History of Institutes (T'ung Tien), 通典
23. General Political History (Tzu Chih T'ung Chien), 資治通鑑
24. General Research on Literature and Authorities (Wen Hsien T'ung K'ao), 文獻通考
25. General Research on Literature and Authorities of the Present Dynasty (Huang Ch'ao Wen Hsien T'ung K'ao), .皇朝文獻通考
26. Great Commentary of the Canon of History (Shang Shu Ta Chuan), 尚書大傳
27. Han's External Commentary of the Canon of Poetry (Han Shih Wai Chuan), 韓詩外傳
28. Han Fei Tzu, 韓非子
29. Hsiin Tzu, 荀子
30. Hsu Shen's Dictionary (Shuo Wen), 說文
31. Imperial Edition of the Seven Canons (Yu Tsuan Ch'i Ching). 御纂七經
32. Institutes of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Hui Tien), 大清會典
33. Ku-liang's Commentary (Ku-liang Chuan), 穀梁傳
34. Kuan Tzu, 管子
35. Kung-yang's Commentary (Kung-yang Chuan), 公羊傅
36. Lao Tzu (or Tao Te King), 老子道德經
37. Law Code of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Lu Li), 大清律例
38. Lieh Tzu, 列子
39. Many Dewdrops of the Spring and Autumn (Ch'un Ch'iu Fan Lu), 春秋繁露
40. Meng Tzu, 孟子[Mencius]
41. Mo Tzu,  墨子
42. Narratives of Nations (Kuo Yu), 國語
43. New Narrations (Hsin Hsu), 新序
44. Official System of Chou (Chou Kuan, miscalled Chou Li), 周官
45. Oldest Chinese Dictionary (Erh Ya), 爾雅
46. Park of Narratives (Shuo Yuan), 說苑
47. Plans of the Warring States (Chan Kuo Tse), 戰國策
48. Record of Industry {K'ao Kung Chi). 考工記
49. Research on the False Bible of the School of Hsin (Hsin Hsiao Wei Ching K'ao), 新學為經考
50. Research on the Reformation of Confucius ( K'ung Tcii Kai Chih K'ao),  孔子改制考
51. Seven Adjuncts (Ch'i Wei), 七緯
52. Spring and Autumn (Ch'un Ch'iu, Chinese Classics, vol. v),  春秋
53. Tso's Commentary (Tso Chuan, Chinese Classics, vol. v), 左傅
54. Twenty- four Histories ( Er Shih Szu Shih), a series of twenty- four different histories, e. g.. Historical Record, History of Han. The individual names are omitted in this list. 二十四史
55. Younger Tai's Record of Rites (Li Ki, contained in the Sacred Books of the East. vols, xxvii-xxviii).  小戴禮記
補遺
the Record (Book) of Rites (Li Ki).禮記(礼記)

the Royal Regulations. [礼記]王制

Great Learning. 大学

Doctrine of the Mean. 中庸


★ 
人口表を持っている人には、非常に早い時期に 孔子は馬車のクロスバーに向かって前屈みになった。 があったため、非常に不正確です。 幾度となくドア税と口税をかけて それは、その数を隠すために人々の利益のためのものです。 しかし、そのためには、そのようなことをする必要があります。 土地所有権の制度が想定している条件とは 然るべきことは、現在の中国の膨大な人口は、かなりのものであるということです。 近代的な成長を遂げ、人口密度の高さは最近のことのようです。 中国ではイギリスと同じようなものです。 きりしゅんとうき 儒教の二番目に人口が変動しているように見える 5,000,000,000 近辺にある。 18年の初めには10万人に達しています。 世紀 A.D.Itはその時以来、数が増加していることです。 比較的正確な 近世のコンサスでは、1749年の人口は1億7,700万人でした。 1783年には284,000,000,000、1842年には413,000,000,000となっています。 太極の乱(1850-1856)では、人命が失われたと言われています。 10,000,000,000 から 20,000,000,000(Dr.Huan-Chang は この原因による損失は1億5,000万であるが、これは 誤植や修辞的な誇張)があり、それ以上のことがありました。 lo8sは、おそらく、以前よりもかなり最近の洪水や 1868年と1885年の間に、公式には人口の推計が行われている。 1910年には3億7,800万から4億500万となっています。 中国年鑑に)2つの独立した推定値が利用可能です。 チベットと満州を除く)-税関の推定値 421,000,000,000、民城府(内務省)国勢調査 世帯数316,000,000,000世帯をベースにした還元率です。 この数字に疑問を呈しているのは 四川の人口を明成府を基準にする。 国勢調査では23,000,000,000、税関では79,000,000、そして 1904年にA.Hosie卿が45,000,000,000と見積もっています。 しかし、1700年以前には 中国の人口は1億人を超えていませんでした。 前世紀の間に、そして今では30万から30万の間のどこかにある。 それゆえに、おそらくそうだと考えるのは正しくありません。 588 エオノミックジャーナル DEO. 中国の人口の圧迫は、そのような状況に陥りがちです。 生きるための手段は何世紀も前のものです。  ポジションは 比較的新しく、明らかな変化はありませんでした。 西欧世界では、経済的にも自然的にも 膨大な量の 中国の黄金時代、哲学者の時代 詩人や詩人、そして政府や生活の芸術における発見のために。 は、混雑と過密の時代ではありませんでした。 人口減少時代を好む 中国では、他の場所と同様に、宗教の力が国家の衰退の原因となっています。 は、数多くの子孫の側に力強くついてきました。  しかし 黄金時代が復活するとは思えない 楽しむ人が多い。




黄金時代#21,397e,243c

dy.‘ From the end of the Chou dynasty to the beginning of the Han dynasty, economic life was dynamic. Hence, the merchants. condition of the farmers was much worse than that of the NVhat Chao Tso described referred to the beginning Of Han, but it was true at the end of Chou. Such a condition began about the time of Confucius and it pre vailed about the time of Mencius. But since the policy of Chao Tso 2 was carried out by Han Wen Ti, the condition of the farmers was greatly improved, and during his reign and that of his son (373-411 A. K. or14 1 B. C.) there was a golden age. In fact, this period was one of national prosperity based upon agriculture, and it was the result of encouraging agriculture. 

1 History of Han, ch. xxiv. 1 See supra, p. 36


dy。 ‘Chou王朝の終わりからHan王朝の初めまで、経済生活はダイナミックでした。 したがって、商人。 農家の状態はハンの始まりについて言及したNVhat Chao Tsoの状態よりもはるかに悪かったが、Chouの終わりにはそれは本当だった。 そのような状態は孔子の頃に始まり、それはメンシウスの時期に広まった。 しかし、チャオツォ2の政策はハンウェンティによって実行されたため、農民の状態は大幅に改善され、彼の統治と息子の統治(373-411 A. K.または14 1 B. C.)の間、黄金時代がありました。 実際、この時期は農業に基づく国家繁栄の一つであり、農業を奨励した結果でした。 1漢の歴史、ch。 xxiv。 1上記、p。 36


井田制

井田制(せいでんせい、ピン音jǐngtián zhìdù)とは、中国の古代王朝であるで施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。
まず、1四方、900の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。
なお、畝(ほ)というのは中国で用いられた土地面積の単位で、10歩平方の土地、すなわち100方歩を意味する。1は6であるから、1畝は600尺四方とも言うことができる。尺の長さは時代によって変わるため畝の表す広さも一定ではないが、周代の頃の1畝をメートル法に換算すると、およそ1.82aであると考えられている。よって井田制における一区画は100畝(182a)の面積を有することになる。
儒教を旨とし、周(特に周公旦)の政治を理想とする政治家や儒家によってしばしば参考にされている。 また、日本の奈良時代に行われた条里制もこれを参考にしたものといわれている。

孟子を読む

滕文公章句上

使篳戰問井地、孟子曰、子之君將行仁政、選澤而使子、子必勉之、夫仁政必自經界始、經界不正、井地不釣、穀祿不平、是故暴君汙吏必漫其經界、經界不正、分田制祿、可坐而定也、夫滕壤地褊小、將爲君子焉、將爲野人焉、無君子莫治野人、無野人莫養君子、(夫世祿、滕固行之矣、)請野九一而助、國中什一使自賦、卿以下必有圭田、圭田五十畝、死徙無出郷、郷田同井、出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦、方里而井、井九百畝、其中爲公田、八家皆私百畝、同養公田、公事篳、然後敢治私事、所以別野人也、此其大略也、若夫潤澤之、則在君與子矣。
*()カッコの部分は、本来本章前半の一文。定説に従い、ここに置くことにする。

文公はこうして家臣の篳戰(ひっせん)に命じて井田法のやり方を孟子に問わせた。孟子は言った、
「あなたの君公が今まさに仁政を行なおうとして、選んであなたを私のもとに使わされた。重々努力して学びなさい。
まず仁政とは境界を定めるところから始まります。境界が不正確であれば、井型に区切った土地の面積が不均等になり、結果収穫・家禄が不均等になります。だから暴君汚吏どもは、必ず土地の区画設定をでたらめにやるのです。境界を正確にしてしまえば、田を分けて家禄を制定することは居ながらにでもできるようになります。さて滕国はその領地が狭小ではあるが、君子(ここでは本来の意味で、貴族階級)もいれば庶民もおります。君子がいなければ庶民を治める者がいないし、庶民がいなければ君子を養う者がいません。そもそも禄の世襲は、滕国では昔から行なわれていました。(だから後は境界を正確にして禄の公正をはかればよいのです。)こうすればいいでしょう。郊外では井田法を敷いて「助」の税法により九分の一税とする。一方都の近辺では各人に土地を割り振って「徹」の税法により十分の一税を自ら収めさせる。また卿(大臣)以下の重臣には必ず圭田(けいでん。井田法により支給される田とは別に重臣に特別に与える田)を与える。圭田は家臣一人当り五十畝(0.91ヘクタール)とする。また嫡男以外の子弟にも一人当り二十五畝(0.45ヘクタール)を支給する。ここまで配慮することによって、家長が死んでも土地を取替えても郷(きょう。周代の集落単位)を出ることはありません。郷では「井」の字の区画の田を八世帯共同で耕し、互いの田を出入りして相助け合い、病気が出てもまた助け合う。こうすることによって百姓は親睦します。一里四方を井型に区切った区画が「井」です。一井は九百畝であり、その真ん中が公田です。八世帯はそれぞれ私田百畝を持ち、共同で公田百畝を耕します。まず公田の耕作を優先させ、その後に私田の従事を許します。庶民に公私の別をわからせるためです。以上が制度の概略です。これを具体的に運用する詳細は、あなたと君公の仕事です。」


People.2 vols.8.London,1877.
Hosie(A.),Three Years in Western China.London,1890.

Three Years In Western China, by Alexander Hosie--The Project Gutenberg eBook


Mr Hosie's Journey to Tibet, 1904A Report by Mr A. Hosie, His Majesty's Consul at Chengtu, on a Journey from Chengtu to the Eastern Frontier of Tibet
https://books.google.com/books/about/Mr_Hosie_s_Journey_to_Tibet_1904.html?hl=ja&id=TVhqNwAACAAJ


ケインズが参照したのは以下、
Report of Consul-general Hosie on the Province of Ssc̆hʻuan: Presented to ... - Sir Alexander Hosie - 
1904









 ーー
葉子奇可以指:
葉子奇 (明朝),字世杰,一名琦,号静斋。龙泉人。


世杰,一名琦,号静斋。浙江龙泉人,尝师王毅,明“理一分殊”之论旨,悟圣贤之学以静为主,故号“静斋”。
自幼专业于学,凡天文、历 史、博物哲学、医学、音律,无不涉猎,且多有造诣。其哲学观主张唯物,所著《草木子》有“北人不梦象,南人不梦驼”之说,阐明精神
物质的关系。


BOOK VI.BRANCHES OF PRODUCTION
XX.Branches of Production in General.....367
XXI.Agriculture.......380
XXII.Industry..............398
XXIII.Commerce......411

BOOK VII.DISTRIBUTION
XXIV.General Principles of Distribution:Rent,Interest and Profits.......460 
XXV.Wages...480

BOOK VIII.SOCIALISTIC POLICIES
CHAPTER
XXVI.The Tsing Tien System.....497
XXVII.Monopoly...534
XXVIII.Exclusion of the Ruling Class from the Economic Field 543
XXIX.Government Control of Demand and Supply..........552
XXX.Government Control of Grain.....568
XXXI.Government Loans and Public Relief....586

PART IV
PUBLIC FINANCE

BOOK IX.PUBLIC FINANCE
XXXII.Public Expenditures...605
XXXIII.Taxation in General.....62I
XXXIV.Direct Taxes...638
XXXV.Indirect Taxes...683

PART III
PRODUCTION 部丙生产

BOOK V.FACTORS OF PRODUCTION
第五篇 生产要素/187 
XVII.Three Factors of Production···293 生产之三要素/187
XVIII.Labor-Population....297 人口/189
XIX.Nature and Capital.....340 天然物及资本/217

BOOK VI.BRANCHES OF PRODUCTION
第六篇 生产事业/233
XX.Branches of Production in General.....367 泛论生产事业/233
XXI.Agriculture.......380 论财/241
XXII.Industry..............398 论工/251
XXIII.Commerce......411 论商/259

BOOK VII.DISTRIBUTION
第七篇 分配/291
XXIV.General Principles of Distribution:Rent,Interest and Profits.......460 分配通义并论租论息及利/291
XXV.Wages...480 论庸/303

BOOK VIII.SOCIALISTIC POLICIES
第八篇 社会政策/315
CHAPTER
XXVI.The Tsing Tien System.....497 井田/315
XXVII.Monopoly...534 专利/338
XXVIII.Exclusion of the Ruling Class from the Economic Field 543 食禄者不得争利,344
XXIX.Government Control of Demand and Supply..........552 调剂供村350
XXX.Government Control of Grain.....568 谷政/360
XXXI.Government Loans and Public Relief....586 借贷及赈恤/371

PART IV
PUBLIC FINANCE 部丁财政

BOOK IX.PUBLIC FINANCE 
第九篇 财政/385
XXXII.Public Expenditures...605 国用/385
XXXIII.Taxation in General.....62I 赋税通义/394
XXXIV.Direct Taxes...638 直税/405
XXXV.Indirect Taxes...683 间税/435

★★
#4
    我们可以简单地将孔教源流归为六派:(1)大同派,强调自由,从
子舆(曾子--译者注)传到子思、孟子。(2)小康派,强调治理,从
仲弓传到荀子;李斯将之应用于秦代(331A.K.或221B.C.)的治理, 
并传至当代。(3)神学派,源于全部儒经,特尊《尚书·洪范》、《易
经》和《春秋》,董仲舒和刘向是其杰出代表,但这一学派在汉以后就
销声匿迹了。(4)伦理派,孔教主要流派,宋明时高度发达。(5)历史
派,基于《书经》和《春秋》,司马迁等大史家是其代表。(6)训诂考
据派,由孔子发端,在本朝得到普遍但狭隘的应用。
    就我们能够看到的而论,我们还没有用到孔子学说中最高妙的思想
原理。其中原因很多,但政府对宗教的影响是最重要的一个。除了少数
例外,广大学者的思想为政府的方针所控制,这极大地阻碍了孔教的自
然发展。一旦中国建立了立宪政府,保证思想的完全自由,孔教肯定会
重获生机。那时我们可以希冀整个世界的大同!

私たちは、儒教の起源を6つの学校に単純に分類することができます:(1)大同学校、自由を強調し、
Zi Yu(Zeng Zi-Translator's Note)はZi SiとMenciusに広がりました。 (2)Xiaokang School、ガバナンスを強調、から
忠功はそれをシュンツィに渡し、李Siはそれを秦王朝の統治(331A.K.または221B.C.)に適用しました、
そして現代に広がった。 (3)すべての儒教の経典から派生した神学学校、特に「Shang Shu Hong Fan」、「Yi
「Jing」と「Spring and Autumn」、Dong ZhongshuとLiu Xiangは彼らの優れた代表ですが、この学校は
消えた。 (4)儒教の主要な学校である倫理は、宋朝と明朝に高度に発達した。 (5)歴史
「Book of Classics」と「Spring and Autumn」に基づいた学校で、Sima Qianと他の大きな歴史家がその代表です。 (6)試験
事実によると、それは孔子によって始められ、この王朝に広く、しかし狭く適用されました。
    私たちが見る限り、孔子の教義で最も素晴らしいアイデアをまだ使用していません
原理。理由はたくさんありますが、宗教に対する政府の影響が最も重要です。少数を除いて
例外的に、大多数の学者の心は政府のガイドラインによって管理されており、儒教の自立を大きく妨げています
開発を実行した。中国が思想の完全な自由を保証する立憲政府を樹立すると、儒教は間違いなく
活性化。その時、私たちは全世界の大きな調和を期待することができます!

#36,730e,438c
he doctrine of Wang Shou-jen -was sufficient to trans form old Japan into modern Japan. Why should the Whole school of Confucius not be able to modernize China? h g 
 The future of China is bright. With an uninterrupted i story extending over five thousand years, with an intelli ent, diligent, prudent, and vigorous people of four hundred million, with an exte resources, nsive but connected territory of four and a quarter million square miles,1 with abundant natural under one centralized government, one uniform l anguage, one highly-developed religion, one national idea, China will, without doubt, become a strong nation, peril. but the world need not be afraid of the so-called yellow China will indeed adopt both militarism and indus trialism. But China will not injure anyone not Chinese as the western nations take advantage of other people. After China shall be strong, the Great Similarity of Confucius state will appear. ' and the worldwill come, war, Then the broth erhood of nations will be established, and there will be no but perpetual peace.  

 ‘ English miles


争以前曾经强大了那么久?为什么日本变成了现代国家?日本政治革新
的发动者不是基督徒,而是儒生;甚至仅仅是孔教的一个分支-王
(守仁)学-就足以使旧日本转型为现代日本。为什么整个儒家倒不
能使中国现代化?
中国的未来是光明的。有五千年绵延不绝的历史,有四万万聪明、
勤劳、智慧和富有活力的人民,有四百二十五万平方英里连绵不绝的广
阔国土,有丰富的自然资源;在一个集权政府、一种统一语言,一个发
达的宗教和一个全民理念之下,中国将无疑地成为一个强国。不过世界
不需害怕所谓的“黄祸”。中国确实会采纳军国主义和工业主义,但中
国不会伤害其他任何人,不会像西方国家那样欺侮其他民族。中国强大
之后,孔子的大同世界将会到来,世界国家(the world-state)将会出
现。然后,各个民族之间的兄弟情谊也将建立,将不再会有战争,而是
永久的和平。


以前の闘争はこれほど強力でしたか?なぜ日本は現代の国になったのですか?日本の政治革新
のイニシエーターはクリスチャンではなく、儒教であり、儒教-王の分派でさえある
(昇天)学ぶことで、古い日本を現代の日本に変えることができます。なぜ孔子全体ではないのですか
中国を近代化できますか?
中国の未来は明るいです。 5,000年の無限の歴史があり、4,000万人の賢い人がいます。
勤勉で、賢く、エネルギッシュな人々は、425万平方マイルあります
天然資源が豊富な広大な国、中央政府では統一言語、発展
宗教と国家の概念の下で、中国は間違いなく強力な国になるでしょう。しかし、世界
いわゆる「黄色い災害」を恐れる必要はない。中国は軍国主義と産業主義を実際に採用するでしょうが、中国は
国は他の人を傷つけたり、西洋諸国のような他の人々をいじめたりすることはありません。中国は強い
その後、孔子の大同世界が訪れ、世界国家が出てくる
さて。その後、さまざまな民族グループ間の兄弟愛も確立され、戦争はありませんが、
恒久的な平和。

結語で世界国家と永久的平和が詠われる。


#24
290c

0901


子罕言利與命與仁、 

子、罕(まれ)に利を言う、命と与(とも)にし仁と与にす。 

先生はめったに利益について語られなかった。もし語られたなら、運命に関連し、仁徳に関連してであった。 

0412


子曰、放於利而行、多怨、 

子の曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨み多し。 

先生がいわれた、「利益ばかりにもたれて行動をしていると、怨まれることが多い」 


#26
e531

c324

to the system of equalization of land 

均田制度


均田制 - Wikipedia



均田制(きんでんせい)は、中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に田や荒地を給付し、得た収穫の一部を国家に納め、定年により土地を返却する。


概要

制度の具体的内容やその実態に付いては諸議論があるが、概要および歴史の項目では一般的に理解されていると思われる均田制を説明する。

均田制という制度は、戸籍に登録された民のうちの、労働に耐えうる人間に、一代限りの口分田(露田、麻田)と、加えて一定の広さまで世襲が認められる永業田(桑田、世業田)を給付し、その給付に対して定額の租(穀物)、調(繊維)、役(労役)(租庸調)の納税を求めるものである。

北魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏と北斉、西魏と北周、隋、唐に受け継がれる。しかし人口増大による未授給の欠田戸の増加や武周期の浮戸や逃戸の増加に伴う田籍の遺漏進行、玄宗期の荘園増大などにより次第に実施は困難となる。安史の乱以降は藩鎮が経営する営田の増加もあって有名無実となり、780年の両税法の施行によって実質上は廃止された。

均田制は土地と民の把握および恒常的な税収という国家支配に於いて重要な制度であり、府兵制と並んで律令制の根幹たる存在であった。周辺諸国は唐律令を採り入れると共に均田制もまた取り入れ、日本に於いては班田収授法として実施された。


歴史

単位に付いては単位表を参照。


均田への系譜

周代には井田制が行われていたとされる。井田制は9家を一組と成し、一家ごとに100畝の私田を給付、9家に100畝の公田を共同で耕作させる。私田から得られる収穫は民の収入に、公田から得られる収穫を国に対する税とする制度である。


#26

533e,325c
Chenはヘンリージョージの土地改革案を過激だと考えている。

However, the Chinese people have been a moderate peo and they never go to extremes. When the scholars the landlord, thought about the tsing tien system, although they hated they never thought that his land should be taken away by confiscation as in the theory of Henry George. Throughout the whole history of China, Wang Mang was the only one who nationalized the land by a policy over, of confiscation. However, even he did not touch those who owned no more than one tsing. If a family had only one hundred acres, it was saved from confiscation. More after three years, he abolished the law of land confis cation. AS \Vang Mang was condemned by the Coutu cians, no one thought thas his confiscation policy was right. Therefore, the land of China will probably remain in the hands of private owners forever, unless there shall be a new for m of socialism.


しかし、中国人は穏健派であり、決して極端なことはしない。地主である学者たちが清天制度について考えたとき、彼らは清天制度を嫌っていたが、ヘンリー・ジョージの理論のように自分の土地が没収されるべきだとは決して考えなかった。中国の歴史の中で、王満だけが没収という政策で土地を国有化していた。しかし、彼でさえ一坪しか所有していない者には手を出さなかった。一家が百エーカーしか持っていなければ、没収されることはなかった。3年後、彼は土地没収の法律を廃止した。Vang MangがCoutu ciansによって非難されたように、誰も彼の没収政策が正しいとは思わなかった。したがって、中国の土地は、新しい社会主義のための新たな時代が来ない限り、永遠に私有地の所有者の手に残るであろう。

飛銭(806~820頃から)


唐代

811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

北宋

唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。


飛銭
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説




中国の初期の送金手形制度。唐の元和年間(806~820)ごろ、地方から長安に行って商売した商人が、郷里に送金するとき、各節度使の長安出張所というべき進奏院(しんそういん)に行って手形を組み、その券を半分に割って一半を所持して郷里に至り、別送された半券と照合して現金を受け取った。ほかに軍や戸部、塩鉄、度支(たくし)使も発行した。銅銭を運ぶ不便を去り、貨幣を節約した。唐末には地方で信用が守られず制度が乱れた。宋(そう)代では便換(べんかん)、便銭(べんせん)などとよんだ。[斯波義信]


『加藤繁著『交子の起源に就いて』(『支那経済史考証 下』所収・1953・東洋文庫)』

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タリー tally


Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/02 16:55 タリーが貨幣として使われていた、というのはイネスの「貨幣とはなにか」から来ているようだ。 For many centuries, how many we do not know, the principal instrument of commerce was neither the coin nor the private token, but the tally, https://twitter.com/ishizuka_r/status/1267726422308618241?s=21 Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/02 17:37 実際にどのように割るのか、と不思議だったのだが、明解な説明があった。「中世イギリスの偽造防止技術」 core77.com/posts/67600/A-… https://twitter.com/ishizuka_r/status/1267736981355638784?s=21 Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/07 9:45 このサイトのエピソード。タクシーで忘れ物をとりに郊外の自宅に着いた。料金の全額を払うとそのまま帰ってしまい、取り残されるかもしれない。しかし半額しか払わないことにしたら、下ろしてくれないだろう。そこで10ドル札を半分にちぎり、半分を運転手に渡す。 https://twitter.com/ishizuka_r/status/1269430284203683842?s=21 A Medieval British Anti-Counterfeiting System: Split Tally Sticks - Core77 https://www.core77.com/posts/67600/A-Medieval-British-Anti-Counterfeiting-System-Split-Tally-Sticks A Medieval British Anti-Counterfeiting System: Split Tally Sticks WHEN WOODGRAIN WAS USED AS AN AUTHENTICATION FACTOR I remember tearing money in half, back when things were all cash, when you needed a guarantee that someone would wait for you. I'm not sure if this was a New York City thing or if they did it in your town too. For example, let's say I took a cab to a remote location in the city to retrieve something. Arriving at the destination, I want the cabbie to wait for me while I run inside, because I want him to take me back to my origin point. I can't pay the cabbie in full, or he might take off and leave me hanging; and he won't let me out of the car without paying, for fear I'll stiff him. In that instance I'd rip a ten-dollar bill in half, give him one half and pocket the other while I momentarily disappeared. The individual ripped halves were no good to either of us, but reunited and Scotch-taped back together, it was good currency, so the cabbie would wait. This was a common-enough practice that every so often you'd encounter fives, tens and twenties that had been Scotch-taped back together. Whomever first came up with the ripped-bill idea probably got the idea from British split tally sticks. Tally sticks have existed since the Stone Age as primitive recording devices;…


唐の後半に始まる、遠隔地取引用の為替。
 の後半の経済の発展の中から生まれた、遠隔地取引に使われた手形。唐では開元通宝などの貨幣が鋳造されたが、貨幣の流通はさほど多くはなく、ものの価値を絹で表すなど現物経済の面が強かった。飛銭も中国で最初の手形であるが、紙幣としては流通していない。本格的な紙幣として流通するのは、次の代の交子会子の発行からである。 



飞钱是什么?揭秘唐代货币汇兑制度 -趣历史
http://m.qulishi.com/article/201902/318801.html

飞钱是什么?揭秘唐代货币汇兑制度

  飞钱,亦称“便换”、“便钱”。唐宋的汇兑券。唐宪宗元和元年( 806 )曾禁飞钱,可见飞钱产生在此之前。当时钱币缺乏,各地禁钱出境,在京师的商人将钱交给各道驻京的进奏院、各军、各使或富商,取得凭证,回本道合券取钱,称为“一飞钱”。元和七年曾规定商人在户部、度支、盐铁三司飞 钱, 每千钱加付百钱, 商人不至, 又改为免费对换。宋太祖开宝三年(970)设便钱务, 专门办理便换。南宋初年便换业务还盛行。后来使用纸币, 便换业务衰落。
  “飞钱”实质上只是一种汇兑业务,它本身不介入流通,不行使货币的职能,因此也不是真正意义上的纸币。
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  简介
  飞钱是中国历史上早期的汇兑业务形式。唐代的飞钱实际上是一种票证,类似于今天的银行汇票。《新唐书、食货志》这样表述:“……商贾至京师、委钱诸道进奏院及诸军、诸使、富家,经轻装趋四方、 合券乃取之, 号飞钱。”在商业异常发达的唐代,各地商人运货到京城出售,售货得的大量钱币要带去既不安全又不方便,因此商人们就将钱币交给各地驻京的进奏院(相似于驻京办事处)和有关机构,或交给各地设的分支机构的富商,由这些单位发给半联赁证,另半联赁证寄回各地的相应单位。商人回本地区后,经验证相符,便可取款。这些赁证叫“飞钱”,确实很形象。 主要特征为:一地出钱并取得有关证明,在异地凭证明取得钱款,类似今天的汇票。飞钱的产生,与当时商业贸易发达有关。唐代内地与边远地区、外国通商日盛,许多商人奔波于崇山峻岭戈壁沙砾之间,铜钱面值小又重,运输很不便利,时遭被人抢劫风险。一些封疆大吏搜刮的财宝也要运送京城或运送回家。飞钱应运而生。《宋史·食货志》对飞钱与交子、会子等的承继发展关系,已经作出结论说:“会子、交子之法,盖有取于唐之飞钱。”
“唐朝中期,錢很少,因此,有些地方錢不讓帶齣儅/噹/當地。唐憲宗時(孔子紀元1357~1371[806〜820]年),商人到京城,他們將錢存在諸道駐京的機搆/構(進奏院——譯者註),換成証/證券放在身邊。這樣,無論到哪兒/児,他們都很容易憑証/證券提款。這被稱為‘飛錢’。然而這一做法為中央政府所禁,因為政府認為這些機搆/構將使錢幣退齣流通,令商品價格降低。但禁用飛錢的結果更糟。因此,在孔子紀元1363年(812 A.D.),




実は興味をそそる、お目当てのモノがあって、展示会に行ったのです。それは最古の紙幣と言われる明の紙幣です(1375~1425年)。日本では足利幕府の頃になるでしょうか?
20150617_63a
約600年前のこの紙幣が世界で最も古いというのですから、紙幣の歴史は意外に浅いのです。
A4ほどの大きさです。これこそ人類が初めての信用を形にした紙幣なんです。これは飛銭ひせんと呼ばれていたそうで、金・銀・銅で造られた古銭と違い、そのモノ自体には価値がありません。
大明寶鈔だいみんほうしょうとして明が信用を与え、偽造を防止して、通貨として流通させたそうです。そして重要なのは紙幣が金・銀・銅の硬貨に兌換だかんできることを保証していました。
ところが、明の政府自体が、この紙幣の大量発行の誘惑に勝てなかったのです。故にこの紙幣は発行15年後に紙幣の価値は急落し、無価値となってそうです。飛銭ひせんならぬ卑賎ひせんとなってしまいました。










 『孔門理財学』英語版(vol.2)
2020年6月10日に日本でレビュー済み
Chen Huan-Chang 陳煥章 1881~1933

陳Chenが1911年に書いた『孔門理財学』英語版は1912年にケインズが書評で取り上げた(全集11巻未邦訳)。
それだけならよくある話だがChenの本で紹介された常平倉は、ウォレス、グレアム(MMTerミッチェルがしばしば言及引用している有名な投資家)、ケインズ自身らによって国際版常平倉案として再提示されるに至った。
ケインズだけでなく、ウォレス、グレアムも本書に言及している(ケインズ書評は本書の常平倉には触れていない)。
同じアイデアは創世記などにもあるが陳は歴史的かつ体系づけられた哲学に裏付けられたアイデアを提示したのが画期的だっだ。
『孔子理財学』は近年再評価され何度も中国語版(出版は英語版が先だった)が出ている。2018年を直前に控えた2014年に出た120年記念版が最も新しい。1898年の康有為が試みた改革を記念したものだが、陳は康有為の弟子として参加したらしい。
康有為について言えば、その大同思想は近年柄谷行人に高く評価され話題になった。
ちなみに陳は1930年に香港に孔教学院という学校を作り今もそれは存続している。
これは中国共産党が世界各地に作っている孔子学院とは主旨が全く違い、陳の留学体験を活かしたものなので混同すべきではない。
本書の日本語版が待たれる。

394 金持ち名無しさん、貧乏名無しさん (ワッチョイ fac9-vJgw)[sage] 2020/07/30(木) 18:37:04.14  ID:v55Xi16L0 
東方見聞録 Kindle版  マルコ・ポーロ (著), 青木富太郎 (翻訳) 形式: Kindle版 

雲南では通貨に子安貝
四川省西昌では、通貨は黄金の延べ棒と少額通貨は食塩
貴州から大ハーンの領土で紙幣の通用する地域

紙幣、大ハーンはすべての支払いを紙幣ですまし、国内、勢力範囲内に通用させ、受け取るのをこばめば死刑。
毎年巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
インドなどの国から貴金属をもってきた商人は大ハーン以外に売ることを禁じられている。商人は紙切れで大喜び、
これほどの良い値段でかってくるないし、直ぐに支払ってくれて、国内ではどこでも通用するし、軽くて携帯に便利だ。
また、1年に数回、貴金属を持っているものは、造幣局に持参すれば、良い値段で買い上げる。
紙幣が汚れると、3%の手数料で新品と交換。

交鈔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94#:~:text=%E4%BA%A4%E9%88%94%EF%BC%88%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89%E3%81%A8,%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%89%B9%E5%BE%B4%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A4%E3%80%82
中国の貨幣制度史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B2


42 件のコメント:

  1. 均田制 - Wikipedia
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E7%94%B0%E5%88%B6
    均田制

    均田制(きんでんせい)は、中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に田や荒地を給付し、得た収穫の一部を国家に納め、定年により土地を返却する。
    概要

    制度の具体的内容やその実態に付いては諸議論があるが、概要および歴史の項目では一般的に理解されていると思われる均田制を説明する。
    均田制という制度は、戸籍に登録された民のうちの、労働に耐えうる人間に、一代限りの口分田(露田、麻田)と、加えて一定の広さまで世襲が認められる永業田(桑田、世業田)を給付し、その給付に対して定額の租(穀物)、調(繊維)、役(労役)(租庸調)の納税を求めるものである。
    北魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏と北斉、西魏と北周、隋、唐に受け継がれる。しかし人口増大による未授給の欠田戸の増加や武周期の浮戸や逃戸の増加に伴う田籍の遺漏進行、玄宗期の荘園増大などにより次第に実施は困難となる。安史の乱以降は藩鎮が経営する営田の増加もあって有名無実となり、780年の両税法の施行によって実質上は廃止された。
    均田制は土地と民の把握および恒常的な税収という国家支配に於いて重要な制度であり、府兵制と並んで律令制の根幹たる存在であった。周辺諸国は唐律令を採り入れると共に均田制もまた取り入れ、日本に於いては班田収授法として実施された。
    歴史

    単位に付いては単位表を参照。
    均田への系譜

    周代には井田制が行われていたとされる。井田制は9家を一組と成し、一家ごとに100畝の私田を給付、9家に100畝の公田を共同で耕作させる。私田から得られる収穫は民の収入に、公田から得られる収穫を国に対する税とする制度である。

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  2. e531
    c324
    to the system of equalization of land
    均田制度
    #26


    325ヘンリージョージと孟子

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  3. #25,e489,c298にヘンリージョージ(孟子の賃金理論と似ているらしい)の名もあるがケインズは言及していない

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  4. However, the Chinese people have been a moderate peo and they never go to extremes. When the scholars the landlord, thought about the tsing tien system, although they hated they never thought that his land should be taken away by confiscation as in the theory of Henry George. Throughout the whole history of China, Wang Mang was the only one who nationalized the land by a policy over, of confiscation. However, even he did not touch those who owned no more than one tsing. If a family had only one hundred acres, it was saved from confiscation. More after three years, he abolished the law of land confis cation. AS \Vang Mang was condemned by the Coutu cians, no one thought thas his confiscation policy was right. Therefore, the land of China will probably remain in the hands of private owners forever, unless there shall be a new for m of socialism

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  5. 533e

    #26

    しかし、中国人は穏健派であり、決して極端なことはしない。地主である学者たちが清天制度について考えたとき、彼らは清天制度を嫌っていたが、ヘンリー・ジョージの理論のように自分の土地が没収されるべきだとは決して考えなかった。中国の歴史の中で、王満だけが没収という政策で土地を国有化していた。しかし、彼でさえ一坪しか所有していない者には手を出さなかった。一家が百エーカーしか持っていなければ、没収されることはなかった。3年後、彼は土地没収の法律を廃止した。Vang MangがCoutu ciansによって非難されたように、誰も彼の没収政策が正しいとは思わなかった。したがって、中国の土地は、新しい社会主義のための新たな時代が来ない限り、永遠に私有地の所有者の手に残るであろう。


    Chenはヘンリージョージの土地改革案を過激だと考えている

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  6. https://baike.baidu.com/item/%E4%BE%BF%E9%92%B1%E5%8A%A1#2
    便錢務
    便钱务,汉语词语,读音biàn qián wù,意思是宋在京都设置的钱币汇兑管理机构。
    中文名 便钱务 拼 音 biàn qián wù 释 义 宋在京都设置的钱币汇兑管理机构 出 处 《宋史·食货志下二》
    目录
    1 解释
    2 出处
    解释编辑
    宋在京都设置的钱币汇兑管理机构。 [1]
    出处编辑
    《宋史·食货志下二》::“开宝三年,置便钱务,令商人入钱诣务陈牒,即辇致左藏库,给以券,仍敕诸州凡商人齎券至,当日付给,违者科罚。”
    参考资料

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  7. 便換(べんかん)とは - コトバンク
    https://kotobank.jp/word/%E4%BE%BF%E6%8F%9B-1412874

    便換(読み)べんかん

    世界大百科事典内の便換の言及

    【為替】より

    …当時の大都市で櫃坊(きぼう)や金銀鋪(銀行の一種)が起こり,大規模商業が勃興したが,鋳銭量が限られ,地方での通貨流通も円滑でなかったので,飛銭に代表される為替制度が生まれた。飛銭は便換(べんかん)ともいわれ,商業が大発展した宋代,970年(開宝3)に官設の便銭務が設けられ,年間300万貫の為替を発行して,中央や北辺の軍需や財庫を満たす商人の活動を助けた。民間の信用授受もこれに並行して拡大し,唐の櫃坊,唐宋の便換,五代・宋の賖(しや)(長期金融)の制度の発達の結果,四川成都の豪商が交子鋪(こうしほ)(約束手形発行業)の組合をつくり,のち1023年(天聖1),これを政府が接収して交子務が成都におかれ,交子(のち銭引)は紙幣の機能に転じ,北宋末で7000万貫が流通した。…

    【交子】より

    …交子は銭財を交付したことを示す証票という意味の呼称である。中国で手形の利用が盛んになるのは唐代からで,唐の長安には寄附鋪,櫃坊(きぼう)などと呼ばれ,他人の銅銭や金銀絹帛などの貨幣的物貨を預って預り手形を発行する業者がいて,その手形が市中の取引に用いられ,また長安と地方大都市とのあいだの送金為替手形の取組み(便換,便銭,飛銭)も盛んであった。宋代になると寄附鋪は州・県などの都市にも普及し,したがって手形も普及した。…

    【飛銭】より

    …中国,唐の憲宗時代に生まれ唐代後半期に行われた為替手形。便換ともいう。当時は貨幣経済が発達し長距離の交易が盛んになったが,遠隔地への銅銭の携帯が不便であったこと,両税法の施行で銭納化した租税の税収を地方から中央へ輸送することが不便かつ困難であったこと,銅銭不足の深刻化で各地の藩鎮(節度使)が領内の銅銭の境外への流出を禁止したことなどが,この制度の成立を促した。…

    ※「便換」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

    出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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  8. Title 王安石新法の貨幣的側面 - 主として宋史より - (穂積文雄 教授記念 ...(Adobe PDF)
    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/133100/1/eca0971_092.pdf
    repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/.../1/eca0971_092.pdf
    -キャッシュ
    開宝 3年 (970年)便銭務を置き,商人壱して銭を入れ務にいたり牒を陳せし. め,即ち輩して左蔵庫に致 L 給するに券を以ってすσ ...
    宋代紗塩制度研究 j (1) - Core(Adobe PDF)
    core.ac.uk/download/pdf/34000326.pdf
    (1)宋初解塩東西南三区之通商制度 (2)険西州軍入中之優j間別例及紐. 葬穎塩方法. 四東南塩之通商与 ... 人先入中糧草,乃詣京師算譜慢便銭,慢茶紗及雑貨(原註・・「慢便銭謂道路. 貨易非便慮,↑曇茶紗謂下三 ...
    宋 (王朝) - Wikipedia
    ja.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)
    -キャッシュ
    唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の ...
    飛銭 - Wikipedia
    ja.wikipedia.org/wiki/飛銭
    -キャッシュ
    飛銭(ひせん)は、便銭(びんせん)・便換(びんかん)とも呼ばれ、唐宋期の送金手形制度を指す。 漢代には飛銭が存在した可能性 ...
    未指定:務

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  9. 飛銭 - Wikipedia
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%8A%AD

    飛銭

    漢代には飛銭が存在した可能性もあるものの、その後の戦乱によってこうした制度を維持する政治的・経済的な前提条件が崩壊して、唐の後期まで復活しなかったと考えられているため、唐以後の制度として捉えるのが通説である。

    唐の後期に入ると、商品経済・貨幣経済が発達して、茶・塩・絹などの遠距離取引が盛んになった。一方、政治的には銭納を基礎とした両税法が行われるようになった。この結果、当時の法定貨幣であった銅銭の移動が盛んになるはずであったが、藩鎮の割拠によって自己の管轄外への銅銭の流出を阻止する禁銭政策が採られた。又、銅銭は多額となれば重く、元々大量の輸送には不向きな貨幣であった。

    その解決策として考案されたのが飛銭であった。当時の飛銭は長安や洛陽の大都市を発信元、地方都市あるいは特産品産地を受理先とするのが一般的であった。これは飛銭の仕組と深く関係している。まず、大都市から地方都市に見銭を送付したい商人Aが、大都市の発信元Bにて金銭を納付して引換に牌・文牒・拠と呼ばれる見銭納付の事実を示す証明書を受理し、地方に赴いた際に大都市側で指定された相手Cに牌を提示すると、Cは牌に書かれた金額をAに手渡すのである。CがAに支払った見銭は本来はCがBへ送金する予定の見銭(公的機関であればCがBに納入する租税が代表的なもの、商人の世界であればCからBへの売掛金)であり、AがBに対して予め送金される予定の見銭の一部を納入することで、AはBに替わってCより納入額と同額の見銭を受ける権利を得たのである。AがCより見銭を受け取ることで、CがBに送る予定であった見銭がAのBへの納付とCのAへの同額の支払にそれぞれ振り替えられて双方の勘定の間で相殺が行われ、CがBへの送金を行ったのと同じ効果が生じたのである。

    商人間ではB=大都市の豪商、C=地方の商人(支店あるいは取引先)、政府機関ではB=「三司」(度支・塩鉄・戸部)と呼ばれる中央財政機関、C=地方財政機関という構造となった。

    Cが牌に記された金額を支払うのは、Bが発行した正規の牌を持参した人物であった。つまり、AがCと同じ地方に住むDとの取引の代金を、BがC宛てに発行した牌を用いて払い、牌を受け取ったDがCの元に持参して見銭の支払を受けるという方法も存在したのである。

    なお、場合によっては刻銭と呼ばれる発行手数料を取る場合があり、徴収者が公的機関であれば頭底潤官銭とも呼んだ。

    当初は民間の富商と地方の商人との間によって開始されたが、その利便性と手数料収入に目を付けた三司以下の政府機関や藩鎮、神策禁軍などもこれを模倣した。三司はこの制度を使って地方にある租税や専売収入をいち早く中央に集め、更に手数料収入を目的として、憲宗期以後、三司以外のものが飛銭を扱うことを禁止する「私下便換禁止令」を度々発したが、元々飛銭は民間需要の中から発生したことに加えて、節度使や神策禁軍も命令を無視したために、効力は乏しかった。

    宋代になると、証明書は交子・会子・交鈔・交引などと呼ばれ、前述の通り最終的に持参者が指定の送付先において換金をして貰えば良いために、まだ換金を終えていない証明書それ自体が見銭(現金)の代わりとして取引の支払に用いられるようになった。これが中国における紙幣のルーツである。宋から元にかけて紙幣のことを指した交子・会子・交鈔・銭引(見銭交引)などの呼称が、全て飛銭で用いられていた証明書の名称に由来しているのは、紙幣が飛銭から発達した制度であった事実に由来しているのである。

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  10. https://ja.m.wikipedia.org/wiki/飛銭

    飛銭(ひせん)は、便銭(びんせん)・便換(びんかん)とも呼ばれ、唐宋期の送金手形制度を指す。

    漢代には飛銭が存在した可能性もあるものの、その後の戦乱によってこうした制度を維持する政治的・経済的な前提条件が崩壊して、唐の後期まで復活しなかったと考えられているため、唐以後の制度として捉えるのが通説である。

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  11. https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)

    紙幣・為替・証券 編集
    銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。

    四川や陝西・河東では鉄銭が使われたが、鉄銭は銅銭と比べても重く不評であった。そこで成都の商人が集って鉄銭を預かり交子を発行していた。交子は使い勝手が良く、四川や陝西では広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は、商人の経営が傾くと商人に代わって交子を発行した。交子は世界最初の紙幣とされる。交子は始め四川や陝西でのみ流通していたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと替わった。交子には界と呼ばれる期限があり、その間に使用ないし兌換しなければ紙切れとなった。

    専売の引換券である交引もまた一種の有価証券として扱われ、取引された。詳しくは#専売を参照のこと。

    南宋に入ると銅銭本位制を破棄し、紙幣の発行高も大きく増える。南宋では紙幣として臨安周辺で流通する行在会子・四川の銭引・湖広の湖広会子・淮南の淮南交子の四種類があった。南宋初には400万貫だった総発行額は財政赤字の穴埋めの為に増加し、乾道4年(1168年)には2000万貫となった。

    1159年に出された規定では、1万貫以上の銅銭を保有する者は2年以内に会子や商品へ換える事が義務付けられ、銅銭は経過後に例外無く没収された。1168年までは、前述の界の期限内に銅銭又は銀又は新紙幣と交換出来たが、以降は新紙幣との交換のみになり不換紙幣へと変わった。

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  12. 飛銭(ひせん)とは - コトバンク
    kotobank.jp/word/飛銭-119896
    -キャッシュ
    ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 飛銭の用語解説 - 中国,唐・宋代の送金手形制度。 ... 唐の元和年間(806~820)ごろ、地方から長安に行って商売した商人が、郷里に送金するとき、各節度使の長安出張所 ...
    未指定:813970
    モンゴル帝国のフビライ・ハンの時代にインフレーションが発生したのは ...
    chiba-jp.work/?eid=528
    -キャッシュ
    唐の後期 「飛銭」と呼ばれる銅との兌換紙幣が流通する ... 970年 宋が貨幣を発行する「 便銭部」を創設する.

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  13. 中国の為替手形の起源と歴史(1)唐代・五代:為替が紙幣化した後、為替 ...
    zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html
    -キャッシュ
    唐代に飛銭が登場し、宋代に交子が貨幣化し、元代の中統元宝交鈔に至って金属貨幣を駆逐して全面的流通に ... 811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5 月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、 ...

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  14. 中国の為替手形の起源と歴史(1)唐代・五代:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
    http://zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html


    1.北宋初期

      唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。開封の京師発行手形は京師手形とも呼ばれ、額面は5-10貫で、京師の交引鋪 は手形割引を行ったので、即時換金ができた。また、民間でも、「私下便換」、「私下便銭」と呼ばれ流通していたが、997年に政府によって禁止された。北 宋時代の各地域の手形・及び手形の紙幣化は下記に記載するが、地域は不明ながら、北宋末、崇寧から大観年間(1102-10)に少鈔という定額紙幣を発行 したとされる(蔡京が行った)。

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  15. 中国の為替手形の起源と歴史(1)唐代・五代:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
    http://zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html

    2)政府化と定額化へ

      年代についてまでは調べがつきませんでしたが、寄附鋪は流通上の便宜を図る為に定額制手形を出すようになったとのこと。これは、紙幣化への重大な一歩であ るとともに、額面以上の莫大な送金を行う場合、結局嵩張ることになり、移送に不便を障すのではないか?との疑問が出てきます。ここから、為替が紙幣化した 後での高額決済において為替はどうなったのか?という疑問が出てくるわけです。

     811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

     藩鎮は中央(長安)に進奏院という京師(長安)出先機関)を持ち、ここが手形を発行した。理由は、自己の管轄外への銅銭の流出を阻止する為であったとされる。
     更に、政府の禁軍、特に神策軍(安史の乱後の編成) の司令部は部下を藩鎮へ抜擢、監軍の官吏が、藩鎮治下の地方にて荘園、邸店などを経営しており、その収入を中央へ送金する場合に、銅銭を送りたくなく、便銭を発行したとのことです。  


      便銭は、徳宗年間(780-805年)盛んになったが、811年の制限令で一時衰退した。しかし、文宗の太和年間(827-35年)再び盛んとなり、年額 行額100万貫*1を記録した。最終的に黄巣の乱での長安占領で便銭使用停止になったが、五代に復活することとなったそうです。

    *1 行額または行用額。発行額の意味だと思われる。1貫=1000銭(公定レート)

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  16. 飛銭(806~820頃から)
    http://zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html
    811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。

    唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。

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  17. 飛銭(806~820頃から)
    http://zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html
    811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

    北宋
    唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。

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  18. 飛銭(806~820頃から)
    http://zae06141.client.jp/bill_of_exchange_history_china1.html
    唐代
    811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

    北宋
    唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。

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  19. 飛銭

    日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
    https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%8A%AD-119896

    中国の初期の送金手形制度。唐の元和年間(806~820)ごろ、地方から長安に行って商売した商人が、郷里に送金するとき、各節度使の長安出張所というべき進奏院(しんそういん)に行って手形を組み、その券を半分に割って一半を所持して郷里に至り、別送された半券と照合して現金を受け取った。ほかに軍や戸部、塩鉄、度支(たくし)使も発行した。銅銭を運ぶ不便を去り、貨幣を節約した。唐末には地方で信用が守られず制度が乱れた。宋(そう)代では便換(べんかん)、便銭(べんせん)などとよんだ。[斯波義信]
    『加藤繁著『交子の起源に就いて』(『支那経済史考証 下』所収・1953・東洋文庫)』
    出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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  20. 飛銭はタリー?
    https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/tally.html

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  21. https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/tally.html

    タリー tally

    Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/02 16:55 タリーが貨幣として使われていた、というのはイネスの「貨幣とはなにか」から来ているようだ。 For many centuries, how many we do not know, the principal instrument of commerce was neither the coin nor the private token, but the tally, https://twitter.com/ishizuka_r/status/1267726422308618241?s=21 Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/02 17:37 実際にどのように割るのか、と不思議だったのだが、明解な説明があった。「中世イギリスの偽造防止技術」 core77.com/posts/67600/A-… https://twitter.com/ishizuka_r/status/1267736981355638784?s=21 Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R) 2020/06/07 9:45 このサイトのエピソード。タクシーで忘れ物をとりに郊外の自宅に着いた。料金の全額を払うとそのまま帰ってしまい、取り残されるかもしれない。しかし半額しか払わないことにしたら、下ろしてくれないだろう。そこで10ドル札を半分にちぎり、半分を運転手に渡す。 https://twitter.com/ishizuka_r/status/1269430284203683842?s=21 A Medieval British Anti-Counterfeiting System: Split Tally Sticks - Core77 https://www.core77.com/posts/67600/A-Medieval-British-Anti-Counterfeiting-System-Split-Tally-Sticks A Medieval British Anti-Counterfeiting System: Split Tally Sticks WHEN WOODGRAIN WAS USED AS AN AUTHENTICATION FACTOR I remember tearing money in half, back when things were all cash, when you needed a guarantee that someone would wait for you. I'm not sure if this was a New York City thing or if they did it in your town too. For example, let's say I took a cab to a remote location in the city to retrieve something. Arriving at the destination, I want the cabbie to wait for me while I run inside, because I want him to take me back to my origin point. I can't pay the cabbie in full, or he might take off and leave me hanging; and he won't let me out of the car without paying, for fear I'll stiff him. In that instance I'd rip a ten-dollar bill in half, give him one half and pocket the other while I momentarily disappeared. The individual ripped halves were no good to either of us, but reunited and Scotch-taped back together, it was good currency, so the cabbie would wait. This was a common-enough practice that every so often you'd encounter fives, tens and twenties that had been Scotch-taped back together. Whomever first came up with the ripped-bill idea probably got the idea from British split tally sticks. Tally sticks have existed since the Stone Age as primitive recording devices;

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  22. HAPTER XIX NATURE AND CAPITAL URE L NAT 1. The Five Elements SINCE land is only one part of nature, we should first consider all the elements of nature. For this reason we may take up the five elements as presenting an exhaustive classification of natural forces. Although the five elements with their e are the basis of Chinese philosophy, we are concerned here conomic aspects only. ond, The Great Model ” puts the five elements in the first of the nine categories. The first element is water; the sec f ire ; the third, wood ; the fourth, metal ; the fifth, earth. B. The five elements in the Chinese language are called “ the f ive movements,” because they move and revolve through out heaven and earth without ceasing. In 6 A. K. (546 Tzii-han, prime minister of Sung, says : Heaven ments, has produced the five elements which supply men’s require and the people use them all. Not one of them can be dispensed with.” 1 The Chinese regard all the five ele ments as the natural forces upon which human life depends. After having given the names of the five elements, the Great Model ” describes their nature. of wood, The nature of water is to soak and descend ; of fire, to blaze and ascend ° to be crooked and to be straight; of metal, to obey and to change ; while the v1rtue of earth is seen in seed 1 Classics, vol. v, pt. i, p. 534

    340

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  23. 第十九章 自然と資本ウエルナット 1. 五つの要素 土地は自然の一部分にすぎないので、我々はまず、自然のすべての要素を考慮すべきである。この理由から、我々は自然の力の網羅的な分類を提示するものとして、五つの要素を取り上げるかもしれない。五行は中国哲学の基礎となるものであるが、ここではコノミックな側面のみを取り上げている。最初の要素は水である; 第二鉄; 第三、木; 第四、金属; 第五、地球。B. 中国語の5つの要素は、彼らが停止することなく天と地を介して移動し、回転するので、"五つの動き "と呼ばれています。6 A. 宋の宰相子漢(546)は、「天は人の必要とするものを供給する五つの元素を生み出し、人々はそれらをすべて使用している。宋の宰相は、「天は人の必要とするものを供給する五つの要素を生み出し、人はそれをすべて使用する。1 中国人は、五行をすべて人間の生命を左右する自然の力と考えている。5つの要素の名前を与えた後、偉大なモデル "は、その性質を説明します。 木の、水の性質は、浸して下降することです;火の、燃えると上昇する°曲がっているとまっすぐであること、金属の、従うと変更するには、地球のv1rtueは、種子1クラシックス、vol.v、pt. i、p. 534で見られている間

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  24. APPENDIX II 付録二
    List of Authorities in English and Chinese 引用書目略表
    1. Analects (Lun Yu) 論語
    2. Annotation and Explanation of the Thirteen Canons (Shih San Ching Chu Shu). 十三經注疏
    3. Biography of Noteworthy Women (Lieh Nu Chuan).列女傳
    4. Book of the Lord of Shang (Shang Chiin Shu), 商君書
    5. Book on the Great Similarity (Ta Tung Shu), [Kang Youwei 康有为]. 大同書
    6. Canon of Changes (Yi King), 易經
    7. Canon of Filial Piety (Hsiao King, contained in the Sacred Books of the East, vol. iii), 孝經
    8. Canon of History (Shoo King), 書經
    9. Canon of Mountains and Seas (Shan Hai Ching), 山海經
    10 Canon of Poetry (She King), 詩經
    11. Canon of Rites (Li Ching), 禮經
    12. Canonical Interpretation of the Ts'ing Dynasty (Huang Ts'ing Ching Chieh), 皇清經解
    13. Cases of the Institutes of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Hui Tien Shih Li), 大清會典事例
    14. Chuang Tzu, 莊子
    15. Continuation of the Canonical Interpretation of the Ts'ing Dynasty (Huang Ts'ing Ching Chieh Hsu P'ien), a series of two hundred and nine separate books or volumes. 皇清經解續編
    16. Continuation of the General Political History (Hsu Tzu Chili T'ling Chien), 續資治通鑑
    17. Continuation of the General Research on Literature and Authorities (Hsu Wen Hsien T'ung K'ao), 續文獻通考
    18. Correction of the Youth (Cheng Meng), 正蒙
    19. Debate on the Government Monopoly of Salt and Iron (Yen T'ieh Lun), 鹽鐵論
    20. Elder Tai's Record of Rites (Ta Tai Li Ki), 大戴禮記
    21. General Discussion in the White Tiger Palace (Pai Hu T'ung), 白虎通
    22. General History of Institutes (T'ung Tien), 通典
    23. General Political History (Tzu Chih T'ung Chien), 資治通鑑
    24. General Research on Literature and Authorities (Wen Hsien T'ung K'ao), 文獻通考
    25. General Research on Literature and Authorities of the Present Dynasty (Huang Ch'ao Wen Hsien T'ung K'ao), .皇朝文獻通考
    26. Great Commentary of the Canon of History (Shang Shu Ta Chuan), 尚書大傳
    27. Han's External Commentary of the Canon of Poetry (Han Shih Wai Chuan), 韓詩外傳
    28. Han Fei Tzu, 韓非子
    29. Hsiin Tzu, 荀子
    30. HsiX S hen's Dictionary (Shuo Wen), 說文
    31. Imperial Edition of the Seven Canons (Yu Tsuan Ch'i Ching). 御纂七經
    32. Institutes of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Hui Tien), 大清會典
    33. Ku-liang's Commentary (Ku-liang Chuan), 穀梁傳
    34. Kuan Tzu, 管子
    35. Kung-yang's Commentary (Kung-yang Chuan), 公羊傅
    36. Lao Tzu (or Tao Te King), 老子道德經
    37. Law Code of the Ts'ing Dynasty (Ta Ts'ing Lu Li), 大清律例
    38. Lieh TzU, 列子
    39. Many Dewdrops of the Spring and Autumn (Ch'un Ch'iu Fan Lu), 春秋繁露
    40. Meng Tzu, 孟子
    41. Mo Tzu, 墨子
    42. Narratives of Nations (Kuo Yu), 國語
    43. New Narrations (Hsin Hsu), 新序
    44. Official System of Chou (Chou Kuan, miscalled Chou Li), 周官
    45. Oldest Chinese Dictionary (Erh Ya), 爾雅
    46. Park of Narratives (Shuo Yuan), 說苑
    47. Plans of the Warring States (Chan Kuo Tse), 戰國策
    48. Record of Industry {K'ao Kung Chi). 考工記
    49. Research on the False Bible of the School of Hsin (Hsin Hsiao Wei Ching K'ao), 新學為經考
    50. Research on the Reformation of Confucius ( K'ung Tcii Kai Chih K'ao), 孔子改制考
    51. Seven Adjuncts (Ch'i Wei), 七緯
    52. Spring and Autumn (Ch'un Ch'iu, Chinese Classics, vol. v), 春秋
    53. Tso's Commentary (Tso Chuan, Chinese Classics, vol. v), 左傅
    54. Twenty- four Histories ( Er Shih Szu Shih), a series of twenty- four different histories, e. g.. Historical Record, History of Han. The individual names are omitted in this list. 二十四史
    55. Younger Tai's Record of Rites (Li Ki, contained in the Sacred Books of the East. vols, xxvii-xxviii). 小戴禮記

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  25. 礼記王制
    the Record of Rites (Li Ki), 禮記
    the Royal Regulations

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  26. Doctrine of the Mean
    中庸

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  27. the Record (Book) of Rites (Li Ki),
    禮記
    the Royal Regulations
    礼記王制

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  28. the Record (Book) of Rites (Li Ki),
    禮記
    the Royal Regulations
    礼記王制
    Great Learning
    大学

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  29. the Record (Book) of Rites (Li Ki).禮記
    the Royal Regulations. [礼記]王制
    Great Learning. 大学
    Doctrine of the Mean. 中庸

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  30.  400              立命館経済学(第58巻・第5・6号)不可避的に起こる。この儀礼と正義において,萬,湯,文,武, Cheng Wangと周公は,よき政府の最良の例である。これら六人の優れた人物から,あらゆる人は儀礼を大切にすることを学び,正義の発揮,誠実さの実現,誤りの提示,仁の実例,儀礼の議論を保障し,人民に不易の徳を示す。権力と立場を持つ如何なる統治者もこのコースに従はなければ,彼を公衆の敵としてみなす大衆によって追っ払われるべきである。これが,陳が「小康」(the Small Tranquility)と呼ぶ段階である。 孔子は,婦人の地位は根本的に男性と平等であり,婦人も政治的権利を持ち,女性は政府で権力を保持する資格がある,と考えている(pp. 69-72)。だから,女性の教育は高度であるべきである。そうでなければ,政治権力を取ることはできない。この原理は『春秋』で言及された最も価値ある事柄の一つである。「大同」の段階では,婦人は固有の権利を持ち,夫と妻の関係から男性と女性の関係に変わり,結婚制度は,愛の法律的同意に変わる。 康有為のユートピアは,家がなくなれば,私有がなくなり,産業も公に帰せしめ,国家が除かれ,大同にいたるという構想である(坂出1976, p.41)。そして,彼の見解では,大同にいたる最も困難なものは国の壁をなくすことである。特に,家族をなくすという点については大多数の人々は不愉決に思い反発するであろう。康有為の大同思想は,エングルスの『家族,私有財産と国家の起源』における,家族秩序は全く財産秩序によって支配されるから,エングルスの私有がなくなれば家族なくなるという点と対照的である。 この「大同」の原理は,孔子の教えの最も重要な言明である。「大同」即ち「絶対平和」(Extreme Peace)の段階が孔子の最終の狙いである。それは,儒教の黄金時代(theである(p. 19)。 (b)『儒教の経済学原理』の構成goldenage) この本の編成と内容の理解を容易ならしめるため目次,中国史年表,中国古典リスト(英語と中国語)を示しておこう。                  目 次                  第一巻前書 Professor of Chinese,Friedrich Hirth (ColumbiaUniversity)序文 Professor of PoliticalEconomy,序文 Chen Huan-Chang(陳錦泉)Henry R.Seager (ColumbiaUniversity)          第一部          序 論第一編 孔子(Confucius)とその学派 第1章 孔子の生涯 第2章 孔子の根本概念 第3章 孔子とその弟子達の著作 第4章 儒教の歴史上の運動           (1066)

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  31. 儒教の経済学原理(The Economic Principles of Confucius and His School) (小野)401     第二編 経済学と他の科学との関係      第5章 一般的な経済学と他の科学      第6章 経済学と社会学      第7章 経済学と政治学      第8章 経済学と倫理学第三篇 経済学の一般原理第9章 進歩の主要な原因としての経済発展第10章 経済組織第11章 経済政策と経済学の諸部門          第二部          消 費第四篇 消 費 第12章 消費の一般原理 第13章 富裕者と貧困者にとっての幸福 第14章 快楽(pleasure)を得る異なる方法 第15章 支出の一般的基準 第16章 特定の支出第三部生 産第五編 生産要素 第17章 生産の三要素 第18章 労働一人口 第19章 自然と資本第六編 生産部門 第20章 生産部門 第21章 農 業 第22章 工 業 第23章 商 業第七編 分 配第二巻第三部生 産 第24章 分配の一般原理:地代,利子 利潤 第25章 賃 金第八編 社会政策           (1067)

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  32. 402立命館経済学(第58巻・第5・6号)第26章第27章第28章第29章第30章
    第31章井田制独 占経済領域から支配階級の排除政府による需要と供給の管理政府による穀物の管理政府債務と公共救済
    第四部財 政

    第九編 財 政 
    第32章 公共支出 
    第33章 租税一般 
    第34章 直接税 
    第35章 間接税
    第36章 結 論

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  33. 402立命館経済学(第58巻・第5・6号)第26章第27章第28章第29章第30章第31章井田制独 占経済領域から支配階級の排除政府による需要と供給の管理政府による穀物の管理政府債務と公共救済第四部財 政第九編 財 政 第32章 公共支出 第33章 租税一般 第34章 直接税 第35章 間接税第36章 結 論

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  34. (b)「儒教の経済学原理」 の構成
    この本の編成と内容の理解を容易ならしめるため目次,中国史年表,中国古典リスト(英語と
    中国語)を示しておこう。
    目次
    第一巻
    ĐÚ Professor of Chinese,Friedrich Hirth (Columbia University)
    # Professor of Political Economy, Henry R. Seager (Columbia University)
    # Chen Huan-Chang (A )
    第一部
    序論
    第一編 孔子(Confucius)とその学派
    第1章 孔子の生涯
    第2章 孔子の根本概念
    第3章 孔子とその弟子達の著作
    第4章 儒教の歴史上の運動
    (1066)
    f O (The Economic Principles of Confucius and His School) ()
    401
    第二編 経済学と他の科学との関係
    第5章一般的な経済学と他の科学
    第6章 経済学と社会学
    第7章経済学と政治学
    第8章 経済学と倫理学
    第三篇 経済学の一般原理
    第9章 進歩の主要な原因としての経済発展
    第10章 経済組織
    第11章 経済政策と経済学の諸部門
    第二部
    消費
    第四篇 消費
    第12章 消費の一般原理
    第13章 富裕者と貧困者にとっての幸福
    第14章 快楽(pleasure)を得る異なる方法
    第15章 支出の一般的基準
    第16章 特定の支出
    第三部
    生産
    第五編 生産要素
    第17章 生産の三要素
    第18章 労働一人口
    第19章 自然と資本
    第二卷
    第三部
    生産
    第六編 生產部門
    第20章 生産部門
    第21章 農 業
    第22章 工業
    第23章 商 業
    第七編 分配
    第24章 分配の一一般原理:地代,利子 利潤
    第25章 賃金
    第八編 社会政策
    (1067)
    402
    立命館経済学(第58巻,第5.6号)
    第26章井田制
    第27章 独占
    第28章 経済領域から支配階級の排除
    第29章 政府による需要と供給の管理
    第30章 政府による穀物の管理
    第31章 政府債務と公共救済
    第四部
    財 政
    第九編 財 政
    第32章 公共支出
    第33章 租税一般
    第34章 直接稅
    第35章 間接稅
    第五部
    結論
    第36章 結論

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  35. 400
    立命館経済学(第58巻 第5.6号)
    不可避的に起こる。 この儀礼と正義において, 再, 湯,文, 武, Cheng Wang と周公は, よき
    政府の最良の例である。 これら六人の優れた人物から, あらゆる人は儀礼を大切にすることを学
    び,正義の発揮,誠実さの実現, 誤りの提示, 仁の実例, 儀礼の議論を保障し, 人民に不易の徳
    を示す。権力と立場を持つ如何なる統治者もこのコースに従はなければ, 彼を公衆の敵としてみ
    なす大衆によって追っ払われるべきである。 これが, 陣が「小康」(the Small Tranquility) と呼
    ぶ段階である。
    孔子は,婦人の地位は根本的に男性と平等であり, 婦人も政治的権利を持ち, 女性は政府で権
    力を保持する資格がある, と考えている (pp.69-72)。 だから, 女性の教育は高度であるべきであ
    る。そうでなければ, 政治権力を取ることはできない。この原理は 「春秋」で言及された最も価
    値ある事柄の一つである。 「大同」 の段階では, 婦人は固有の権利を持ち, 夫と妻の関係から男
    性と女性の関係に変わり, 結婚制度は, 愛の法律的同意に変わる。
    康有為のユートビアは, 家がなくなれば, 私有がなくなり, 産業も公に帰せしめ, 国家が除か
    れ,大同にいたるという構想である(坂出1976, p.41)。そして, 彼の見解では, 大同にいたる最
    も困難なものは国の壁をなくすことである。特に, 家族をなくすという点については大多数の
    人々は不愉快に思い反発するであろう。康有為の大同思想は,エンゲルスの 『家族, 私有財産と
    国家の起源」における, 家族秩序は全く財産秩序によって支配されるから,エンゲルスの私有が
    なくなれば家族なくなるという点と対照的である。
    この「大同」の原理は, 孔子の教えの最も重要な言明である。「大同」 即ち「絶対平和」
    (Extreme Peace)の段階が孔子の最終の狙いである。それは, 儒教の黄金時代(the golden age)
    である(p.19)。
    (b)「儒教の経済学原理」 の構成
    この本の編成と内容の理解を容易ならしめるため目次,中国史年表,中国古典リスト(英語と
    中国語)を示しておこう。
    目次
    第一巻
    ĐÚ Professor of Chinese,Friedrich Hirth (Columbia University)
    # Professor of Political Economy, Henry R. Seager (Columbia University)
    # Chen Huan-Chang (A )
    第一部
    序論
    第一編 孔子(Confucius)とその学派
    第1章 孔子の生涯
    第2章 孔子の根本概念
    第3章 孔子とその弟子達の著作
    第4章 儒教の歴史上の運動
    (1066)
    f O (The Economic Principles of Confucius and His School) ()
    401
    第二編 経済学と他の科学との関係
    第5章一般的な経済学と他の科学
    第6章 経済学と社会学
    第7章経済学と政治学
    第8章 経済学と倫理学
    第三篇 経済学の一般原理
    第9章 進歩の主要な原因としての経済発展
    第10章 経済組織
    第11章 経済政策と経済学の諸部門
    第二部
    消費
    第四篇 消費
    第12章 消費の一般原理
    第13章 富裕者と貧困者にとっての幸福
    第14章 快楽(pleasure)を得る異なる方法
    第15章 支出の一般的基準
    第16章 特定の支出
    第三部
    生産
    第五編 生産要素
    第17章 生産の三要素
    第18章 労働一人口
    第19章 自然と資本
    第二卷
    第三部
    生産
    第六編 生產部門
    第20章 生産部門
    第21章 農 業
    第22章 工業
    第23章 商 業
    第七編 分配
    第24章 分配の一一般原理:地代,利子 利潤
    第25章 賃金
    第八編 社会政策
    (1067)
    402
    立命館経済学(第58巻,第5.6号)
    第26章井田制
    第27章 独占
    第28章 経済領域から支配階級の排除
    第29章 政府による需要と供給の管理
    第30章 政府による穀物の管理
    第31章 政府債務と公共救済
    第四部
    財 政
    第九編 財 政
    第32章 公共支出
    第33章 租税一般
    第34章 直接稅
    第35章 間接稅
    第五部
    結論
    第36章 結論

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  36. The Economic Principles of Confucius and His School

    (b)「儒教の経済学原理」 の構成
    この本の編成と内容の理解を容易ならしめるため目次,中国史年表,中国古典リスト(英語と
    中国語)を示しておこう。
    目次
    第一巻
    ĐÚ Professor of Chinese,Friedrich Hirth (Columbia University)
    # Professor of Political Economy, Henry R. Seager (Columbia University)
    # Chen Huan-Chang (A )

    第一部
    序論
    第一編 孔子(Confucius)とその学派
    第1章 孔子の生涯
    第2章 孔子の根本概念
    第3章 孔子とその弟子達の著作
    第4章 儒教の歴史上の運動
    第二編 経済学と他の科学との関係
    第5章一般的な経済学と他の科学
    第6章 経済学と社会学
    第7章経済学と政治学
    第8章 経済学と倫理学
    第三篇 経済学の一般原理
    第9章 進歩の主要な原因としての経済発展
    第10章 経済組織
    第11章 経済政策と経済学の諸部門

    第二部
    消費
    第四篇 消費
    第12章 消費の一般原理
    第13章 富裕者と貧困者にとっての幸福
    第14章 快楽(pleasure)を得る異なる方法
    第15章 支出の一般的基準
    第16章 特定の支出

    第三部
    生産
    第五編 生産要素
    第17章 生産の三要素
    第18章 労働一人口
    第19章 自然と資本

    第二卷

    第三部
    生産
    第六編 生產部門
    第20章 生産部門
    第21章 農 業
    第22章 工業
    第23章 商 業
    第七編 分配
    第24章 分配の一一般原理:地代,利子 利潤
    第25章 賃金
    第八編 社会政策
    第26章井田制
    第27章 独占
    第28章 経済領域から支配階級の排除
    第29章 政府による需要と供給の管理
    第30章 政府による穀物の管理
    第31章 政府債務と公共救済

    第四部
    財 政
    第九編 財 政
    第32章 公共支出
    第33章 租税一般
    第34章 直接稅
    第35章 間接稅

    第五部
    結論
    第36章 結論

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  37. The Economic Principles of Confucius and His School

    (b)「儒教の経済学原理」 の構成
    この本の編成と内容の理解を容易ならしめるため目次,中国史年表,中国古典リスト(英語と
    中国語)を示しておこう。
    目次
    第一巻
    ĐÚ Professor of Chinese,Friedrich Hirth (Columbia University)
    # Professor of Political Economy, Henry R. Seager (Columbia University)
    # Chen Huan-Chang (A )

    第一部
    序論
    第一編 孔子(Confucius)とその学派
    第1章 孔子の生涯
    第2章 孔子の根本概念
    第3章 孔子とその弟子達の著作
    第4章 儒教の歴史上の運動
    第二編 経済学と他の科学との関係
    第5章一般的な経済学と他の科学
    第6章 経済学と社会学
    第7章経済学と政治学
    第8章 経済学と倫理学
    第三篇 経済学の一般原理
    第9章 進歩の主要な原因としての経済発展
    第10章 経済組織
    第11章 経済政策と経済学の諸部門

    第二部
    消費
    第四篇 消費
    第12章 消費の一般原理
    第13章 富裕者と貧困者にとっての幸福
    第14章 快楽(pleasure)を得る異なる方法
    第15章 支出の一般的基準
    第16章 特定の支出

    第三部
    生産
    第五編 生産要素
    第17章 生産の三要素
    第18章 労働一人口
    第19章 自然と資本

    第二卷

    第三部
    生産
    第六編 生產部門
    第20章 生産部門
    第21章 農 業
    第22章 工業
    第23章 商 業
    第七編 分配
    第24章 分配の一般原理:地代,利子 利潤
    第25章 賃金
    第八編 社会政策
    第26章井田制
    第27章 独占
    第28章 経済領域から支配階級の排除
    第29章 政府による需要と供給の管理
    第30章 政府による穀物の管理
    第31章 政府債務と公共救済

    第四部
    財 政
    第九編 財 政
    第32章 公共支出
    第33章 租税一般
    第34章 直接稅
    第35章 間接稅

    第五部
    結論
    第36章 結論

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  38. https://ncode.syosetu.com/n1937en/271/
     礼記・王制編、
    『國無九年之蓄曰不足、無六年之蓄曰急、無三年之蓄曰國非其國也』。
    (『国に9年分の蓄えが無いと不足という。6年分の蓄えが無いと危険
    である。3年分の蓄えが無ければ国と言ってももはや国の体ではない』)

    上のような考えは聖書にもある。

    http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
    41:25ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれから
    しようとすることをパロに示されたのです。 41:26七頭の良い雌牛は七年
    です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。 41:27あとに続いて、
    上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入ら
    ない七つの穂は七年のききんです。

    41:33それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国
    を治めさせなさい。 41:34パロはこうして国中に監督を置き、その七年
    の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、 41:35続いて
    来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、
    パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。 41:36こうすれば食糧は、
    エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえと
    なり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。

    むしろゲーム理論的にユダヤ人の知恵は優れていたと言われる。

    http://bin.t.u-tokyo.ac.jp/game08/cg16.html
    破産問題
    ユダヤ教の教典タルムードにおける興味深い議論 

    タルムードの言い伝えは、債券額の小さい方から優遇して救済するという
    人間の顔の見えるシステムだと、鈴木光男『新ゲーム理論』では解説される。

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  39. 遼東半島🇹🇼
    ⁦‪@Liaodong_KMT‬⁩


    陳其偉とは何者か。父は儒学者の陳煥章(写真①)、兄の陳其光(写真②)も空軍パイロットで、太原にて飛行第16連隊の三輪寛中佐を撃墜(日本側の記録では高射砲による自爆)したとして知られる。 pic.twitter.com/ZjYhnv5tki

    2020/07/24 0:28


    https://twitter.com/liaodong_kmt/status/1286322394764701698?s=61&t=luaVwdkRNhiQpQcTpdzmTQ




    ウィキペたん
    ⁦‪@wikipetan_bot‬⁩


    「陳煥章」 http://bit.ly/eGHeaf 陳 煥章(ちん かんしょう)は清末民初の思想家、社会活動家です。

    2011/03/13 22:25


    https://twitter.com/wikipetan_bot/status/46924798751809536?s=61&t=luaVwdkRNhiQpQcTpdzmTQ

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