金属主義と信用主義を旧教と新教に喩えたとき(資本論3-35-2)、
マルクスは宗教を脱却するべきものと考えている。
だがフォイエルバッハ批判の延長で貨幣を考えるのは危険だ。
カレツキがやったように資本論第二巻の再生産表式から有効需要の理論を生み出すべきなのだ。
価値形態論に関して言えばそれをゲーデルの不完全性定理と対比して未完成かつ可逆的なものだと捉えるならば有益だろう。
柄谷が言うように金本位制からの離脱は金流出を避けるためだし、
危機の時代に金本位制に戻る可能性はある。
ただし信用貨幣論はそれらを吸収するものとして原理的、歴史的にはある。
岩波文庫7
《重金主義(モネタルジュステム)は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金を嫌う The Scotch hate gold.」。紙券としては、諸商品が貨幣として存在することは、一つの単に社会的な存在(ダーザイン)である。聖列に加わらしめるものは、信仰である。商品の内在的霊魂としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自己自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての、個々の生産担当者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義は、重金主義の基礎から解放されない。》
『資本論』第三巻第五篇第三五章「貴金属と為替相場」
宇野、熊野が引用した部分。
マルクスが引用文の前で述べたインドの金保有量はケインズが研究したものでもある。
左翼によるMMT批判
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/11/love-and-theft-modern-monetary-theory.html
スピノザ、ケインズ、マルクス
https://nam-students.blogspot.com/2019/08/blog-post_66.html
>https://twitter.com/ISHIZUKA_R/status/1271229738862784512?s=20
交換様式Bと交換様式Cの違いは
マネタリーベースとマネーストックの違いに対応する
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内におけるB'C'の結合に過ぎない
柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ
また、マルクスが資本論3:35:2で旧教と新教に分けたのは逆だ
重金主義より信用主義の方が古いのだから
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_17.html
ミハウ・カレツキ (Michal Kalecki):マクロ経済学の知られざる英雄
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/michal-kalecki.html
カレツキとマルクス
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_95.html
マルクスと信用貨幣論:熊野純彦『資本論の思考』2013
熊野純彦『資本論の思考』2013は最後に
現行『資本論』第三巻第五篇第三五章「貴金属と為替相場」の一文を引用しコメントしている。
712
《「重金主義は本質的にカトリック的であって、信用主義は本質的にプロテスタント的である。
The Scotch hate gold." (「 スコットランド人は金を嫌う」]。紙幣としては、諸商品の貨幣定在は
ひとつのたんに社会的な定在をそなえている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊
としての、貨幣価値に対する信仰、生産様式とその預定秩序に対する信仰、じぶん自身を価値
増殖する資本のたんなる人格化としての、個々の生産当事者に対する信仰。しかし、プロテス
タンティズムがカトリシズムの基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から
解放されはしないのだ。」(ebd., S.606)
最後に語られているところは、明白である。「それだからこそ、恐慌時には信用主義から重金主義
への急転回が生起する」からである(S.552)。問題はここで語られている「信仰 Glaube」 かの
ルターの「ただ信仰のみ sola fide」なのだーーのほかならぬ内実にある。
個々の資本にとって競争は、その外部にある超越的条件であった。資本制そのものにとって競争
は、その内部でのみ資本制総体の作動が可能となる一箇の超越論的審級である。信用主義(クレディット・ディステール)ある
いは信用システムは、その超越論的審級それ自身の制約にほかならない。現前せず、そのかぎりで
は未確定な未来を先どりすることは、時間という存在の条件に対する信頼を意味し、なにほどかは
また「預定秩序 prádestinierte Ordnung」に対する信仰を意味する。この信そのものが現在しない
場合には、資本制それ自体が作動しえない。資本制が産出する商品はかならずW-Gの過程を通過
しなければならず、その通過は、しかし〈命がけの跳躍〉として、すでにつねに無数の不確定性に
さらされているからである。そのいみで、信用制度もしくは信用システムを裏うちする信は資本制
にとっていわば本源的な信であり、資本制それ自身と起源をおなじくする信である。
その信は、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」
はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが
読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除すること
でたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読み
なおさないこと」は「つねに過失 toujours une faute」となるはずなのである。》
同じ箇所を宇野弘蔵が引用している。
宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫
74頁
2-1-2
《ではいわば生産過程自身に基づいてその根拠を明らかにせられる。貨幣たる金をも含む、
あらゆる生産物が、労働力の商品化によって、すべて商品として資本によって生産せら
れ、貨幣たる金自身も、その生産に要する労働時間の変化と共に、その価値を変化する
ものとして、 商品の価値を尺度するものであることが明らかになる。事実、資本の生産
週程においては、人間の行動自身が資本の運動としてあらわれるのであって、その物化
が現実的となるのである(4)。かくしてまた労働の生産力の増進も資本の生産力の増進とし
てあらわれ、生産方法の発展もまたこの特殊の形態の下に促進されることになる。
(4)商品経済の物神崇拝的性格は、商品自身よりも、商品に対して直接交換可能性を与えられ
ている貨幣において、具体的にあらわれる。もっともそれは貨幣はもちろんのこと、商品にし
ても、そういう性格に対応して、それを根拠づける機能を現実的にもっているからであって、
単なる物神崇拝をなすわけではない。ところが資本となると、商品や貨幣と異なって特定の使
用価値と価値との関係ではなく、価値自身が種々なる使用価値としてその姿を変えながら価値
増殖することになるのであって、商品経済の物神崇拝的性格は、いわば一段の深化をとげるこ
とになる。マルクスは「重金主義(モネタール・ジステーム)は本質的にカトリック的であり、信用主義(クレディット・ジステーム)は本質的に
プロテスタント的である。」(『資本論』第三巻[イ]六四〇頁、[岩](七)四二五頁)といっている。
また「商品生産者の一般的社会的関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として
取扱い、この物的形態において彼らの私的労働を同等な人間的労働として相互に関係させると
いうことにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽
象的人間の礼拝をもって、特にそのブルジョア的発異たるプロテスタンティズム、理神論等に
おいて、 最も適応した宗教形態となっている。」(『資本論』第一巻[イ]八五頁、(岩)(一)一四二
頁)ともいっている。労働力の商品化によって、 資本の形態の下に社会的に生産過程が展開さ
れるとき、マルクスのいう「商品生産者の一般的社会的関係」も確立されるのである。それと
同時に労働力の商品化によってすでにその物化を前提される資本の生産過程にあっては、その
物化の「外観さえも消滅する」(同上(イ)八八頁、[岩](一)一四九頁)のである。マルクスはいう。
「重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、ただし奇妙な社会的な属
性をもつ自然物の形態で、あらわしているということを、看取しなかった。しかし近代の経済
学者も、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、 資本を取り扱うや否やその物神崇拝が明白にな
るではないか。地代は土地から生ずるのであって、社会から生ずるものではないという重農主
義的幻想が消えてから、どれだけたったことか。」(同上)と。資本主義的生産の「物神崇拝的性
格」は、経済学批判としての科学的解明を要するわけである。》
マルクスも熊野も宇野も金属主義を留保する。
ただし金属主義は呪術に似ている
信用貨幣は宗教か?いや呪術以前の何かだ。モースはそれを古くて新しいものと再規定した。
以下『可能なるアナキズム』山田広昭より
227
《…金本位制の完全な停止にともなって、二〇世紀後半には貨幣の本質が「社会的信用」
にあることは誰の目にも隠せないものとなった。貨幣をめぐる争点は、したがってこの信用の本
質が何であるかへと移る。新たな貨幣理論が主張するように、貸幣が、モノでも、また単なる交
換手段でもなく、流動性を備えた債務(譲渡可能な信用)なのだとすれば、それは結局のところ
誰の債務(信用)なのかということである。信用の支えが主権国家にほかならないなら、あらゆ
るマネーは、主権国家(の中央銀行)が発行するソヴリン・マネーに基礎づけられるしかない。
国家から自律する領域の拡大と新たな交換様式の探求にはこれによってあらかじめ箍がはめられ
ていることになる。しかし、もし信用の本体が主権国家ではなく、私たちの「社会」そのものだ
とすれば、話はちがってくる。》
クナップは貨幣の受領のみを国権に委ねた。社会を主体的に動かす際に信用貨幣論は必須だ。
アドルフ・ワーグナー (経済学者,1835-1917):財政学:(友寄214頁)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_18.html
アドルフ・ワーグナー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC_(%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E8%80%85)
(Adolf Heinrich Gotthilf Wagner、1835年3月25日 - 1917年11月8日)は、ドイツの経済学者並びに財政学者。
経済学においては、ワグナーの法則と呼ばれる国民総生産の増大に伴い国費の支出が増加するという法則を提唱した。
* 一八六三年の『オーストリア国家財政の秩序』で帰納的に認識。以下で体系化。
* 『財政金融論』(全4冊),財政学:Finanzwissenschaft (1871-1872)[社会政策的課税の原理]
国立国会図書館デジタルコレクション - 財政学. 上 1904
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799802
* 『経済学原論』:Grundlegung der politischen Oekonomie., 2 Bände, (1892~1894) [国家活動増大の法則]
ワグナー自身は歴史学派としての立場を強調している。
(ヴェブレンはADOLPH WAGNER'S NEW TREATISE(1892)なる文章を書いている)
マルクスが批判している
ヴァーグナー『経済学教科書』傍注、マルクス全集19参照
NAMs出版プロジェクト: マルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/1859.html
以下、ゲゼルマネーにつながる認識
…
最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣というたえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめるのである。…
NAMs出版プロジェクト: 価値形態論(逃走論 1984,1986)
価値形態論はゲーデル不完全性定理と比較すると論理が不徹底だとわかる。ゲーデル数はGが可逆的であることを示す。兌換停止は金の国外流出を防ぐだけのものでそれ自体は信用貨幣論を強化しない。再生産表式と共にむしろ価値形態論の徹底が信用貨幣論に必要だ。
NAMs出版プロジェクト: 小幡道昭 経済原論 2009 目次
http://nam-students.blogspot.jp/2016/08/2009.html
現行『資本論』第三巻第五篇第三五章「貴金属と為替相場」の一文を引用しコメントしている。
712
《「重金主義は本質的にカトリック的であって、信用主義は本質的にプロテスタント的である。
The Scotch hate gold." (「 スコットランド人は金を嫌う」]。紙幣としては、諸商品の貨幣定在は
ひとつのたんに社会的な定在をそなえている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊
としての、貨幣価値に対する信仰、生産様式とその預定秩序に対する信仰、じぶん自身を価値
増殖する資本のたんなる人格化としての、個々の生産当事者に対する信仰。しかし、プロテス
タンティズムがカトリシズムの基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から
解放されはしないのだ。」(ebd., S.606)
宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫
74頁
2-1-2
《ではいわば生産過程自身に基づいてその根拠を明らかにせられる。貨幣たる金をも含む、
あらゆる生産物が、労働力の商品化によって、すべて商品として資本によって生産せら
れ、貨幣たる金自身も、その生産に要する労働時間の変化と共に、その価値を変化する
ものとして、 商品の価値を尺度するものであることが明らかになる。事実、資本の生産
週程においては、人間の行動自身が資本の運動としてあらわれるのであって、その物化
が現実的となるのである(4)。かくしてまた労働の生産力の増進も資本の生産力の増進とし
てあらわれ、生産方法の発展もまたこの特殊の形態の下に促進されることになる。
(4)商品経済の物神崇拝的性格は、商品自身よりも、商品に対して直接交換可能性を与えられ
ている貨幣において、具体的にあらわれる。もっともそれは貨幣はもちろんのこと、商品にし
ても、そういう性格に対応して、それを根拠づける機能を現実的にもっているからであって、
単なる物神崇拝をなすわけではない。ところが資本となると、商品や貨幣と異なって特定の使
用価値と価値との関係ではなく、価値自身が種々なる使用価値としてその姿を変えながら価値
増殖することになるのであって、商品経済の物神崇拝的性格は、いわば一段の深化をとげるこ
とになる。マルクスは「重金主義(モネタール・ジステーム)は本質的にカトリック的であり、信用主義(クレディット・ジステーム)は本質的に
プロテスタント的である。」(『資本論』第三巻[イ]六四〇頁、[岩](七)四二五頁)といっている。
また「商品生産者の一般的社会的関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として
取扱い、この物的形態において彼らの私的労働を同等な人間的労働として相互に関係させると
いうことにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽
象的人間の礼拝をもって、特にそのブルジョア的発異たるプロテスタンティズム、理神論等に
おいて、 最も適応した宗教形態となっている。」(『資本論』第一巻[イ]八五頁、(岩)(一)一四二
頁)ともいっている。労働力の商品化によって、 資本の形態の下に社会的に生産過程が展開さ
れるとき、マルクスのいう「商品生産者の一般的社会的関係」も確立されるのである。それと
同時に労働力の商品化によってすでにその物化を前提される資本の生産過程にあっては、その
物化の「外観さえも消滅する」(同上(イ)八八頁、[岩](一)一四九頁)のである。マルクスはいう。
「重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、ただし奇妙な社会的な属
性をもつ自然物の形態で、あらわしているということを、看取しなかった。しかし近代の経済
学者も、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、 資本を取り扱うや否やその物神崇拝が明白にな
るではないか。地代は土地から生ずるのであって、社会から生ずるものではないという重農主
義的幻想が消えてから、どれだけたったことか。」(同上)と。資本主義的生産の「物神崇拝的性
格」は、経済学批判としての科学的解明を要するわけである。》
マルクスも熊野も宇野も金属主義を留保する。
ただし金属主義は呪術に似ている
信用貨幣は宗教か?いや呪術以前の何かだ。モースはそれを古くて新しいものと再規定した。
以下『可能なるアナキズム』山田広昭より
227
《…金本位制の完全な停止にともなって、二〇世紀後半には貨幣の本質が「社会的信用」
にあることは誰の目にも隠せないものとなった。貨幣をめぐる争点は、したがってこの信用の本
質が何であるかへと移る。新たな貨幣理論が主張するように、貸幣が、モノでも、また単なる交
換手段でもなく、流動性を備えた債務(譲渡可能な信用)なのだとすれば、それは結局のところ
誰の債務(信用)なのかということである。信用の支えが主権国家にほかならないなら、あらゆ
るマネーは、主権国家(の中央銀行)が発行するソヴリン・マネーに基礎づけられるしかない。
国家から自律する領域の拡大と新たな交換様式の探求にはこれによってあらかじめ箍がはめられ
ていることになる。しかし、もし信用の本体が主権国家ではなく、私たちの「社会」そのものだ
とすれば、話はちがってくる。》
クナップは貨幣の受領のみを国権に委ねた。社会を主体的に動かす際に信用貨幣論は必須だ。
マルクスの中でユダヤ教の優位が無意識にあるのと
信用を恐慌とセットに考えているが故に金属主義の優位が無意識にあるのだろう。
信用は負債とセットにしないと貨幣は理解出来ない。
ここに躓かずに信用貨幣を採用したマルクス主義者はカレツキだけだ。
マルクスはカレツキがやったように資本論第二巻の再生産表式から
「…マルセル・モースは、信用取引の起源に贈与を見出している。《贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。
発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、
一定の期限の後に返される贈与システムのうえに、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近さ
せ、単純化することによって、物々交換が築かれ、他方では、売買現実売買と信用取引と貸借が築かれた。なぜ
ならば、われわれがいま描写している段階を越えたいかなる法(とくに、バビロニア法)も、われわれの周囲に
残存するすべての古代社会が知っている信用を知らなかったということを証明するなにものも存しないからである(18)》。
(18)モース『社会学と人類学』1、二九〇頁。[贈与論]
信用は、取引の当事者の間の共同性の観念に支えられる。債務を負う者はどうしても返済しなければならないの
だ。…
貨幣と信用によって、商品交換は空間と時間を超えておこなわれるようになる。あとで述べるが、商品交換が
空間的に拡張されたとき、商人資本の活動が可能になる。異なる空間の間での中継的交換が剰余価値をもたらす
からである。ここで大事なのは、貨幣および信用がもたらす時間性の問題である。貨幣および信用によって、現存
する他者のみならず、将来の他者との交換が可能になるのだ。少なくとも、そのように思念される。そして、この
ことは、商人資本とは違ったタイプの資本を派生させる。」
(柄谷行人『世界史の構造』)
《…商品物神は交換からたまたま生じたのではなく、交換にとって不可欠なものとしてあった。
なぜなら、見知らぬ者との間での交換は、それを保証する何らかの力を必要とするからだ。
国家・法もないときにそれを与えたのが、物に付着した霊的な力、つまり物神である。
「信用」はそれによってもたらされる。モースはつぎのようにいっている。
「贈与は必然的に信用という観念をともなうのだ。経済にかかわる法は、
物々交換から売買へと進化したわけではない…」([モース]『贈与論』)。
物々交換から信用が発展したのではなく、その逆である。また、売買も信用に
根ざしている。…》柄谷行人「精神としての資本」現代思想増刊2017.06より
| ||||||||||||||||||||||||
いまこそ『資本論』 (朝日新書) 嶋 祟
返信削除2008
https://www.amazon.co.jp/dp/402273230X
返信削除356 考える名無しさん[sage] 2021/01/05(火) 03:15:05.53 ID:0
現在マルクス研究者では
西は斎藤幸平先生 東は佐々木隆治先生 が注目に値するのでしょうか
358 考える名無しさん[sage] 2021/01/05(火) 03:32:43.55 ID:0
翻訳者としては彼らは優秀
ただ、ハインリヒ、フォルグラフらの論考を活かしているとは思わない
プルードンについて書いた的場の方がいい
一週間de資本論 第2回「労働力という商品」 -NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018091318SA000/?capid=sns002
新教旧教に関してはハーヴェイも狂気で引用
返信削除マルクスとケインズ
返信削除イギリス覇権の陽と陰が対国家を分かつ
またカレツキが重要になる
返信削除レイは!新選組★
@otis_lives_here
@shavetail マルクスは資本主義を説明しているが、政府支出の概念が欠如している。
ケインズは政府が積極的に介入して仕事を作り出しますが、視点が資本家寄りで格差への配慮が欠けている。
しかしこの偉大な2人の知をミックスして「止揚」するとMMTになるのではないか?というのが、雑ですが私なりの解釈です★
2021/01/20 20:55
https://twitter.com/otis_lives_here/status/1351860869336948737?s=21
返信削除柄谷はスピリッツは原酒の意味、と冗談を言ったことがある…
《…商品物神は交換からたまたま生じたのではなく、交換にとって不可欠なものとしてあった。
なぜなら、見知らぬ者との間での交換は、それを保証する何らかの力を必要とするからだ。
国家・法もないときにそれを与えたのが、物に付着した霊的な力、つまり物神である。
「信用」はそれによってもたらされる。モースはつぎのようにいっている。
「贈与は必然的に信用という観念をともなうのだ。経済にかかわる法は、
物々交換から売買へと進化したわけではない…」([モース]『贈与論』)。
物々交換から信用が発展したのではなく、その逆である。また、売買も信用に
根ざしている。…》柄谷行人「精神としての資本」現代思想増刊2017.06より
マルクス主義は産業資本を扱うがゆえに
ストックよりもフロー(=力)を重視する
だからストックの分析がおろそかになる
近年ではピケティがそれを補った
信用貨幣論はストックに着目しないと見えてこない
精神を見ることは
商品貨幣論を維持しつつストックを見ることだ
精神はストックを意味するのだ
柄谷は商品貨幣論を内在的に突き抜けて信用貨幣論に至る
《…彼[カレツキ]はおどけて「経済学とはつねにストックの概念とフローの概念を
混同して、その結果誤りを犯すような科学である」といっている》
ランゲ『再生産と蓄積の理論』12頁
(カレツキ自身はストックを無視することで再生産表式を再解釈しえた)
《この二つの曲線を一緒に処理することはできない。一つ[IS曲線]はフロー均衡であり、
もう一つ[LM曲線]はストックだ。これらを同じグラフの中で取り扱うには無理がある。》
1986年12月ヒックス82歳時のインタビューより
フロイト的にドライブはストックでありフローでもある
同じように原始的蓄積は産業資本と矛盾しない
原酒もその場でみんなで飲めばストックではない?
柄谷
返信削除ーをもち自由主義的であった時代に書かれたことがはっきり見えてくる。そのため、彼は『資本論』で、「国家」をカッコにいれて資本主義経済を考察することができたし、また、イギリス一国を通して世界資本主義を考察することができた。そのような条件は一八七〇年代以後、急激に失われたのである。しかし、『資本論』は、それ以後の世界を理解する手がかりを十分に与えている。
柄谷2017
返信削除一八七三年以後の事態からふりかえると、『資本論』が、イギリスがヘゲモニーをもち自由主義的であった時代に書かれたことがはっきり見えてくる。そのため、彼は『資本論』で、「国家」をカッコにいれて資本主義経済を考察することができたし、また、イギリス一国を通して世界資本主義を考察することができた。そのような条件は一八七〇年代以後、急激に失われたのである。しかし、『資本論』は、それ以後の世界を理解する手がかりを十分に与えている。
廣松渉
返信削除資本論の哲学
マルクス本人が『経済学批判』において次のように明言している。人々が『資本論』における物神性論をよしんば軽視してしまう場合があったにしても、『経済学批判』でのこの条りは開巻数ページのところに出てくることだし、誰しも強く印象づけられた筈だ。 交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。……交換価値とは人と人とのあいだの関係である。というのは正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならないが、……こうして交換価値は……物としての使用価値に属する一つの規定性として現われる。……社会的生産関係が対象物の形態をとり、そのために、労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。……もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣は一つの社会的生産関係をしかも一定の性質をもつ自然物という形態であらわすということを、貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば、資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らがようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。云々(同前、一九~二〇頁)。 ── マルクス・エンゲルスが、経済学の対象の何たるかを規定して、ないしはまた、先行経済学者たちの物象化的錯覚を批判的に指摘してこうはっきり言っているのだから、マルクス学徒たるもの、紛れようがなかったということか。先に君が引用してみせてたカウツキー、ヒルファーディング、プレハーノフ、ボグダーノフ、たちの文章はどれもみな、マルクス・エンゲルスの文言を解説的に言い直したものにすぎないとも言える。ルカーチの場合は、『資本論』からの一連の引用文を彼みずから持ち出して論じている。 ── 一九一〇年になると、カウツキー版の『剰余価値学説史』の最後の巻が出版された。そこではS・ベイリーを批判する個所その他で、物神性(先ほど援用した訳では商品の「拝物教的性格」や「商品崇拝主義」!)の問題が明瞭な言葉で語られているから、いよいよ紛れようがなくなった筈だ。
廣松渉
返信削除資本論の哲学
マルクス本人が『経済学批判』において次のように明言している。人々が『資本論』における物神性論をよしんば軽視してしまう場合があったにしても、『経済学批判』でのこの条りは開巻数ページのところに出てくることだし、誰しも強く印象づけられた筈だ。
交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。……交換価値とは人と人とのあいだの関係である。というのは正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならないが、……こうして交換価値は……物としての使用価値に属する一つの規定性として現われる。……社会的生産関係が対象物の形態をとり、そのために、労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。……もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣は一つの社会的生産関係をしかも一定の性質をもつ自然物という形態であらわすということを、貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば、資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らがようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。云々(同前、一九~二〇頁)。
── マルクス・エンゲルスが、経済学の対象の何たるかを規定して、ないしはまた、先行経済学者たちの物象化的錯覚を批判的に指摘してこうはっきり言っているのだから、マルクス学徒たるもの、紛れようがなかったということか。先に君が引用してみせてたカウツキー、ヒルファーディング、プレハーノフ、ボグダーノフ、たちの文章はどれもみな、マルクス・エンゲルスの文言を解説的に言い直したものにすぎないとも言える。ルカーチの場合は、『資本論』からの一連の引用文を彼みずから持ち出して論じている。 ── 一九一〇年になると、カウツキー版の『剰余価値学説史』の最後の巻が出版された。そこではS・ベイリーを批判する個所その他で、物神性(先ほど援用した訳では商品の「拝物教的性格」や「商品崇拝主義」!)の問題が明瞭な言葉で語られているから、いよいよ紛れようがなくなった筈だ。
〇~一九一九)のように、レーニン(一八七〇~一九二四)やスターリン(一八七九~一九五三)とほぼ同時代の理論家たちも、経済学の対象、経済学的対象カテゴリーというものは、社会的関係(ただし、事物の属性や事物の法則の相に物象化して現象する在り方での社会的関係)を扱うものだということを当然の了解事項にしていたわけだね。 ── それは、彼らがマルクス・エンゲルスの学徒だった以上、ごくナチュラルなことだったと思う。エンゲルスは『経済学批判』の有名な書評のなかで次のように書いているだろう。
返信削除経済学は物を取り扱うのではなく、人と人との諸関係を、究極においては階級と階級との諸関係を取り扱うのである。しかしこれらの関係はつねに物に結びつけられており、物として現われる。このような連関は、なるほど個々の場合に、あれこれの経済学者たちにぼんやりと感じられてはいたが、マルクスがはじめてそれが経済学全体にあてはまることを発見し、このことによって最も困難な問題を、いまではブルジョア経済学者にでも理解できるほど簡単明瞭にしたのである(大月書店、邦訳版マル・エン全集、第十三巻、四七八頁)。
マルクス本人が『経済学批判』において次のように明言している。人々が『資本論』における物神性論をよしんば軽視してしまう場合があったにしても、『経済学批判』でのこの条りは開巻数ページのところに出てくることだし、誰しも強く印象づけられた筈だ。 交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。……交換価値とは人と人とのあいだの関係である。というのは正しいとしても、物の外被の下に隠
1858/08〜1959/01執筆 経済学批判
返信削除全集13
まだ、プルードンが仮想敵
スチュアートを批判的媒介にしている
金属貨幣を批判しつつ社会的規定と揺れているのはマルクス自身である
ただ、信用貨幣論への視座はこの時点では存在していた
マルクスは資本論第3部#35で金属主義を旧教、信用主義を新教に
返信削除喩えている。
一見的確だが信用貨幣は実は金属主義より古いからマルクスの比喩は間違いだ。
マルクスの中でユダヤ教の優位が無意識にあるのと
信用を恐慌とセットに考えているが故に金属主義の優位が無意識にあるのだろう。
信用は負債とセットにしないと貨幣は理解出来ない。
ここに躓かずに信用貨幣を採用したマルクス主義者はカレツキだけだ。
マルクスはカレツキがやったように資本論第二巻の再生産表式から
いち早く有効需要の理論を生み出すべきだった。
返信削除@_luminous_woman
@ISHIZUKA_R資本論3:35で金属主義が旧教、信用主義が新
教に喰えられるが、歴史的には後者がより古い。マルクスの
信用は負債ではなく恐慌とセットで、カレツキによる有効需
要を加味した更新が必要だった。マルクスの思考は二重だが
論争時に政治的かつ唯物論的(=信用貨幣論と相性悪い)に一元
化しそれが転移する。
2021/09/06 16:00
https://twitter.com/_luminous_woman/status/1434773475571355652?s=21
返信削除@_luminous_woman
@ISHIZUKA_R資本論3:35で金属主義が旧教、信用主義が新
教に喩えられるが、歴史的には後者がより古い。マルクスの
信用は負債ではなく恐慌とセットで、カレツキによる有効需
要を加味した更新が必要だった。マルクスの思考は二重だが
論争時に政治的かつ唯物論的(=信用貨幣論と相性悪い)に一元
化しそれが転移する。
2021/09/06 16:00
https://twitter.com/_luminous_woman/status/1434773475571355652?s=21
返信削除信用貨幣論では個々のバランシートが基礎になります。労働者が通帳を持てるか持てないかが重要だと思います。マイナス発行出来るLETSまで必須とは言いませんが、JGPもこれが基礎になります。信用貨幣論という概念は歴史的な検証に役立ちますし、MMTerがリフレ派と区別する際の分岐点になると思います。
返信削除補足させていただくと、国定信用貨幣論なる言葉があって、中野正剛さんがレイ経由で採用しています。MMTを説明する上で便利な言葉ですが自分は概念としては国定貨幣(クナップ)と信用貨幣(イネス)は分けておきたいと思います。プルードンの言葉で言えばアンチノミーは維持される…
ケルトン は『財政赤字の神話』で学術的用語を使っておらず、初心者向けの態度としては正しいと思います。ただその為かえって話しが長くなる場合もあります。
返信削除鍋島2017
返信削除62頁
ポスト・ケインズ派の貨幣経済理論において,長きにわたり中心的論点の一つをなしてきたのが内生的貨幣供給理論である。その端緒を開いたのは,カルドア(KJdor[1970,1982])のマネタリズム批判であった。彼の見るところ,信用貨幣経済においては,貨幣供給は需要に対して受動的に調節される。すなわち,名日国民所得が増加するときには貨幣需要が増加するので, これに同調するかたちで銀行貸出と預金が増加する。したがって,マネタリストが主張しているのとは逆に,名目国民所得から貨幣供給へという因果関係が存在するのである。そうであるとすれば,貨幣供給の制御を通じて物価の安定化をはかるというマネタリストの政策は,がんらい実行不可能なものであるということになる。貨幣供給が内生的である場合には,利子率は外生的な変数となる。したがって中央銀行は,政策的な判断にもとづいて短期利子率を決定する一方, その利子率のもとで需要に応じて弾力的に準備の供給を行なうことになる(さらに詳しくは,本書第4章第3節を参照)・。
返信削除鍋島2017
62頁
ポスト・ケインズ派の貨幣経済理論において,長きにわたり中心的論点の一つをなしてきたのが内生的貨幣供給理論である。その端緒を開いたのは,カルドア(KJdor[1970,1982])のマネタリズム批判であった。彼の見るところ,信用貨幣経済においては,貨幣供給は需要に対して受動的に調節される。すなわち,名目国民所得が増加するときには貨幣需要が増加するので, これに同調するかたちで銀行貸出と預金が増加する。したがって,マネタリストが主張しているのとは逆に,名目国民所得から貨幣供給へという因果関係が存在するのである。そうであるとすれば,貨幣供給の制御を通じて物価の安定化をはかるというマネタリストの政策は,がんらい実行不可能なものであるということになる。貨幣供給が内生的である場合には,利子率は外生的な変数となる。したがって中央銀行は,政策的な判断にもとづいて短期利子率を決定する一方, その利子率のもとで需要に応じて弾力的に準備の供給を行なうことになる(さらに詳しくは,本書第4章第3節を参照)・。
返信削除鍋島2017
62頁
ポスト・ケインズ派の貨幣経済理論において,長きにわたり中心的論点の一つをなしてきたのが内生的貨幣供給理論である。その端緒を開いたのは,カルドア(Kaldor[1970,1982])のマネタリズム批判であった。彼の見るところ,信用貨幣経済においては,貨幣供給は需要に対して受動的に調節される。すなわち,名目国民所得が増加するときには貨幣需要が増加するので, これに同調するかたちで銀行貸出と預金が増加する。したがって,マネタリストが主張しているのとは逆に,名目国民所得から貨幣供給へという因果関係が存在するのである。そうであるとすれば,貨幣供給の制御を通じて物価の安定化をはかるというマネタリストの政策は,がんらい実行不可能なものであるということになる。貨幣供給が内生的である場合には,利子率は外生的な変数となる。したがって中央銀行は,政策的な判断にもとづいて短期利子率を決定する一方, その利子率のもとで需要に応じて弾力的に準備の供給を行なうことになる(さらに詳しくは,本書第4章第3節を参照)・。
返信削除定冠詞は英語だと the だけだけど、ドイツ語では男性名詞に付く定冠詞は der (デア)、女性名詞に付く定冠詞は die (ディー)、中性名詞に付く定冠詞は das (ダス)、とそれぞれ違うんだ。 だから、名詞を覚えるときは定冠詞を付けて覚えると、性も一緒に覚えられるんだよ。
http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~tsuda/kou...
ドイツ語講座(初級文法編)第4回
www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~bessho/CAL/.../3-Deklination.htm
3.格変化と冠詞(類)
ドイツ語では冠詞などの格変化語尾がおよそ日本語の格助詞[がのにを]に ... 子どもに. dem Kind. 父を. den Vater. 母を. die Mutter. 子どもを. das Kind ...
格変化語尾表-定冠詞と不定冠詞-定冠詞類と不定冠詞類
www.marxists.org/nihon/marx.../capital/.../index.htm
英語版「資本論」の邦訳に当たって
カール マルクスの「資本論」"Das Kapital"(1867 初版)の英語版は、フランス語版とドイツ語版第三版の間、1887年(初版から20年後)に出版された。マルクスの書き込み ...
未指定:定冠詞
Das Kapitalが資本ではなく資本論と訳されるのは日本語に定冠詞が使われないからで、確かに論がつくと構えてしまいますが。辞は達するのみです。
返信削除日本語には冠詞が存在しないが、日本語の格助詞「は」・「が」と定冠詞・不定冠詞との対応関係に ついてはしばしば論じられてきた。 ... 現代英語の冠詞には、定冠詞(definite article)と不定冠詞(indefinite article)があり、それぞれに異 なった意味機能を持つ。
返信削除https://www.ninjal.ac.jp/event/specialis...
日本語並立助詞「と」・「や」と英語冠詞に関する一考察 ...
jp.quora.com/naze-nihongo-ni-ha-teikanshi-ya-futeikan...
なぜ日本語には定冠詞や不定冠詞がないのでしょうか? - Quora
theなら、「その」とか「この」でだいたい表せますが、名前は冠詞ではなく連体詞です。 私の感覚は、なくても意味が通じるのにわざわざつける必要がないからだと思い ...
www.fruitfulenglish.com/blog/message-139/
日本人が冠詞を間違える2つの理由~日本人の英語の間違い
2014/7/18 -2.英語の中でもっとも利用頻度が高い単語だから冠詞は英単語100万語の中で出現頻度が第1位(the)と第6位(a/an)と高いです。 名詞を使うたびに使い分けが ...
ja.wikipedia.org/wiki/冠詞
冠詞 - Wikipedia
冠詞は、総称表現と密接な関係がある。例えば、日本語で「ライオンは危険な動物である。」と言った場合、特殊な文脈でない限り、「ライオンは総じて危険である」という ...
冠詞の種類-不定冠詞・部分冠詞-総称表現と冠詞-各言語の冠詞
www.eigowithluke.com > HOME > 文法
定冠詞の説明 – the Japanese - 英語 with Luke
2010/8/8 -なぜかというと、「日本語」も「日本人」もどちらも英語では「Japanese」という意味になるからです。 それでは、ネイティブはどうやってこの2つの言葉を ...
www.poc39.com > ホーム > 知らんがな
大発見!日本語にも冠詞があった。「お」 - ヤシロぶ
2014/6/4 -「お」が「付く」という発想への不満. 『日本人の英語』での不定冠詞aに関する記述は、そのまま「お」に当てはまるように思えます。
マルクスの財政学者ワグナーへの批判を読むと、マルクスは商品貨幣論が邪魔をして信用貨幣論を理解しなかったと思われます。あるいは有効需要を理解したくなかった。論という言葉に反応するのはわかりますがDasKapitalを資本論と訳すように定冠詞のない日本語を使う際の知恵と言えます。
返信削除
返信削除マルクスの財政学者ワグナーへの批判を読むと、マルクスは商品貨幣論が邪魔をして信用貨幣論を理解しなかったと思われます。銀行論争時の通貨派と銀行派の双方を忌避したかあるいは立場上有効需要を理解したくなかったか。~論という言葉に違和感を感じるのはわかりますがDasKapitalを資本論と訳すように定冠詞のない日本語を使う際の知恵と言えます。
Mathias
@bucephalus424
"The monetary system is essentially Catholic, the credit system essentially Protestant." - Marx pic.twitter.com/hOtM4LLzoF
2022/08/20 4:37
The monetary system is essentially Catholic, the credit system
essentially Protestant. 'The Scotch hate gold.' As paper, the
monetary existence of commodities has a purely social existence.
It is faith that brings salvation. Faith in money value as the
immanent spirit of commodities, faith in the mode of production
and its predestined disposition, faith in the individual agents of
production as mere personifications of self-valorizing capital. But
the credit system is no more emancipated from the monetary
system as its basis than Protestantism is from the foundations of
Catholicism.
https://twitter.com/bucephalus424/status/1560712531982913536?s=21
返信削除
返信削除Capital III Ch.35
https://books.google.co.jp/books?id=lgLUAAAAMAAJ&pg=PA696#v=onepage&q&f=false
スピノザ、マルクス、ケインズ
http://nam-students.blogspot.com/2019/08/
返信削除Mathias
@bucephalus424
"The monetary system is essentially Catholic, the credit system essentially Protestant." - Marx pic.twitter.com/hOtM4LLzoF
2022/08/20 4:37
The monetary system is essentially Catholic, the credit system
essentially Protestant. 'The Scotch hate gold.' As paper, the
monetary existence of commodities has a purely social existence.
It is faith that brings salvation. Faith in money value as the
immanent spirit of commodities, faith in the mode of production
and its predestined disposition, faith in the individual agents of
production as mere personifications of self-valorizing capital. But
the credit system is no more emancipated from the monetary
system as its basis than Protestantism is from the foundations of
Catholicism.
返信
匿名2022年8月20日 14:47
https://twitter.com/bucephalus424/status/1560712531982913536?s=21
Capital III Ch.35
https://books.google.co.jp/books?id=lgLUAAAAMAAJ&pg=PA696#v=onepage&q&f=false
Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie. ¬Buch ¬III
https://books.google.co.jp/books?id=R4VVAAAAcAAJ&pg=PA132#v=onepage&q&f=false
《Das Monetarsystem ist wesentlich katholisch, das Kreditsystem wesentlich protestantisch.》
Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie. ¬Buch ¬III, ¬Der Gesammtprocess der kapitalistischen Produktion ; Kapitel XXIX bis LII, Band 3,Ausgabe 2
Karl Marx
1894年1月 · Meissner
販売価格
返信削除合本 資本論
合本 資本論
カール・マルクス/マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳
初版・ 函・B6判・定価12000・並美