「INRI は、ラテン語 の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語であり、 日本語では 「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」 と訳される。 これは「キリストの磔刑」において 十字架の上に掲げられた 罪状書き(イエスが自らを神の子であり ユダヤ人の王であると称し、 神を冒涜したとの罪状)である。
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#4
◉ヒンドゥー教の大祭と祇園祭との類似
インドではヒンドゥー教の寺院の夏の大祭で、大きな山車を繰り出す風習があります。ラタ・ヤートラという祇園精舎一帯のお祭りです。そうしたインドの風習が、ユダヤ人によって日本までもち込まれて日本のお祭りとなったと考えられます。
インド・マハトマ・カンディー大学などで教鞭を執り、インドに長期滞在した前田行貴氏が『蓮と桜─日本文化の源流・インド』(蓮河社)で、日本に生きるインドの神々について書いています。それによるとインドの祭りと祇園祭とでは類似点が多く、夏の大祭であること、山車の形状、民衆が山車を引いて巡行すること、さらには御旅所に一週間とどまるなど、瓜二つであると述べています。日本の祇園祭の原型を、インドの祭りに見られるわけです。これは昔からある、イスラエルに向かう巡礼者の祭りを模したものだといえるでしょう。
イスラエルからインド、インドから日本という秦氏の足跡を考えると、祇園祭は必ずしもインドの真似ではなく、イスラエルのユダヤ人のイスラエル巡礼が反映しているといえます。 しかし秦氏は日本化し、ユダヤ人という意識が消え、祇園祭や神社が残った。一方インドの場合、基本的にイスラエルのままの様式で今日に至るわけです。
いずれにせよ、アジアにおける祭りの形式化、華麗な演出はユダヤ人がお金を出していたため、豊かさを基本に豪華な祭りになったと考えられるのです。
◉ノアの方舟と祇園祭との関係
また、祇園祭は『旧約聖書』の「創世記」に出てくるノアの方舟と関わりがあるという説もあります。
日本は四方を海に囲まれていることもあり、船は重要です。日本では移動や巡行も常に船で行われていましたが、それがノアの方舟と結び付くわけです。 「記紀」では、葦船、天鳥船、天磐船など、船が非常に重要視されていますが、その理由は、鹿島から鹿児島への天孫降臨が船団で行われたからだと私は考えています(詳しくは勉誠出版の拙著『高天原は関東にあった』を参照ください)。つまり、神は天から降りてきたのではなく、人だったということを示しています。これは関東・東北の高天原にいた東の勢力・天津神から西の勢力・国津神へと権力が移ったということです。
そしてスサノオは高天原から追放され出雲という外界に移りますが、その移動も船で行われた可能性があります。さらに鹿島から鹿児島へ、あるいは伊勢などに行くにも船で東海を伝って、名古屋伊勢に渡っているわけです。
ではノアの方舟はどうでしょう?「創世記」によると、神との契約を守って暮らしていたノアの一族だけが方舟に乗ることによって大洪水から救われます。さらにイスラエル人は「三種の神器」の入っている「契約の箱(アーク)」のことを「舟」と呼んでいます。したがって方舟に乗るということは、三種の神器を運ぶことでもあるわけです。
このような洪水伝説は、イスラエルに特有なもので、日本にはありません。ですから、「船」という特徴だけが模倣され、日本の山車となっていると考えられます。神聖な祇園祭の箱状につくられた山車も、船を想定しています。
インドやイスラエルの人たちの文化や思想をダブらせながらも、日本ではその意味がすっかり消えてしまい、形式だけが「祭り」として残ったわけです。インド経由で入ってきたイスラエルの祭りの形式である、ということを認識することで、はじめてその類似性が理解できるのです。しかし現実には、そうした背景を意識しないまま祭り(=八坂神社・祇園社に向かっての巡礼)を行っているわけです。
以下、久保飛鳥対談本#6:
平安京に隠された十字架
久保 飛鳥さんは本のなかで、平安京が十字架の形につくられていると書かれていましたよね。あの発見はすごいなあって思ったんです。 ★
飛鳥 ああ、T十字ですね。
これ、ちょっと説明しますとね、平安京というのは正方形に近い区画と、明らかに長方形の区画とに分かれているんです。
それで、正方形の区画だけを意図的に外してみると、内裏を含めた長方形の区画に巨大なT字形が浮かびあがるんですね。
久保 しかも頭の部分の上、船岡山の位置には元「稲荷」、つまり伏見稲荷大社の「元宮」がありますね。稲荷命婦元宮というのですが、それがまさにイエスが磔になったときの「INRI」(INaRI)の罪状板の位置と同じだという……。
飛鳥 本当、できすぎですよね(笑)。
久保 そもそも稲荷社の総社である京都の「伏見稲荷大社」も、やはり秦氏によって創建されたものです。この稲荷命婦元宮はそれよりもさらに古く、伏見稲荷大社の元になった宮だという。
それに秦氏は平安遷都にあたって、持てる財力と技術のすべてを使って、平安京を造営したわけです。実際、船岡山は平安京の大内裏、天皇の住まいのすぐ北側に位置していますが、ここは秦河勝の宅地があった場所でもあるわけですよね。
そこにイエスの磔の姿が隠されていたとなると……。
たしかに、一般にはまだあまり知られていないことですが、イエス・キリストが架かった十字架は、「十字」というより「T字形」をしていたといわれていますね。
それを正確に伝えているだけでも驚きなのに、その頭上にあたる船岡山には、罪状板の稲荷社まで正確に配置されている……。とても偶然とは思えません。
★
参考:
義照稲荷神社・稲荷命婦元宮 [京都府]
京都市北区にある義照稲荷神社(よしてるいなりじんじゃ)です。
船岡山の中腹に位置する建勲神社(たけいさおじんじゃ)の末社とされています。
神社概要
由緒
社伝によれば飛鳥時代末期(709年)に秦氏によって穀物織物の神として祀られたことに始まるとされます。
また、義照稲荷神社の横に祀られる稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)は、伏見稲荷大社の命婦社の親神であるとされ、「船岡山の霊狐」が祀られているされています。
上記のことから、伏見稲荷大社の創建前に既に秦氏により信仰されてきた稲荷神社であると言え、一説には、此処が伏見稲荷の前身となった「元・伏見稲荷」であるとも云われています。
秦氏、伏見稲荷についてはこちらを参照:【秦氏とは?】、【伏見稲荷大社】
祭神
義照稲荷神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・宇迦之御魂神(ウカノミタマ):伏見稲荷の主祭神である稲荷大神
・国床立大神(クニノトコタチ):神世七代で最初に現れた神であり、真名井神社では豊受大神と同神とされる
・猿田彦大神(サルタヒコ):伏見稲荷の祭神・佐田彦大神と同神と云われるが、この神名で祀られるのは珍しい
周辺の社
稲荷命婦元宮
建勲神社の末社・稲荷命婦元宮(みょうぶいなりもとみや)です。
伏見稲荷の命婦社の親神「船岡山の霊狐」を祀っており、この眷属の神通力により、稲荷大神の霊験をさらに向上させる助けになるとされています。なお、ここの祭神については、伏見稲荷の『由緒記集成』にも同大社の命婦社は船岡山の霊狐が祀られていると記されているそうです。
また、船岡山と伏見の稲荷山とは古くより神霊の交渉が多かったとされており、「この社は秦氏の守護神であり、正に伏見稲荷の元宮である」と紹介されています。
船岡稲荷大神
義照稲荷神社の裏手に祀られる船岡稲荷大神(ふなおかいなりおおかみ)です。
従来より船岡山西南に鎮座していたとされ、崇敬者の申し出により、昭和期に遷座したとされています。
荒木大明神
義照稲荷神社の裏手に祀られる荒木大明神(あらきだいみょうじん)です。
磐座形式で祀られており、正一位と刻まれていることから神階が高いと思われますが、詳細は不明です。
神名から伏見稲荷の荒木神社との関連性が伺えます。
境内の見どころ
両部鳥居
義照稲荷神社の前には両部鳥居(りょうぶとりい)が設けられています。
この鳥居は厳島神社の鳥居の形として有名であり、密教との関連性が指摘されています。石碑群
義照稲荷神社の裏手には神名が刻まれた石碑が多数祀られています。
伏見稲荷のある稲荷山に祀られているものと光景が非常に類似していますね。
祭神についてはまとめていませんが、一応境内の写真をここに掲載しておきます。
船岡山の層状チャート
船岡山の岩盤はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その走向・傾斜方向は愛宕山塊のチャートと一致するそうです。
また、丹波層群と呼ばれる地層群に属しており、古生代の石炭紀(約3億6千万年~3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年~1億5千万年前)にかけて、アジア大陸東側の海底で形成された後に隆起した地層群であるとされています。
義照稲荷神社付近では、その岩肌がむき出しになっているため、間近でこの奇妙光景を見ることができます。
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
祇園祭とはシオン祭だ!
久保 しかも平安京をつくって、すぐに始まったのが祇園祭でしょう?
祇園祭というのは、つまりシオン祭ですよね。
いうまでもありませんが、シオンというのはエルサレムにある丘の名前で、ダビデ王の城や墓があったところです。もちろん、シオニズム運動の象徴でもあるわけで、その祭りが京都でいまもなお行われているという……。
それにね、この祭りは7月17日に盛大に行われますけど、それはアララト山にノアの箱舟が漂着した日と同じ日なんですよね。
飛鳥 そもそも祭りで登場するあの鉾、山車からして、キリスト教のメルカバー(神の戦車)なんですよ。
方向転換するときもあれ、車輪の下で竹板を上手に突くんですね。方向転換する仕組みがないんです。ですからこれ、メルカバーと構造がまったく一緒なんですね。それでも彼ら、うまいこと回すんです。
久保 祇園祭は平安時代、疫病退散を目的に始まったとされています。
昔、ソロモン王が疫病が起こらないように祈願するための祭りを7月にやりましたが、それとまったく一緒ですよね。やはりそういう『聖書』の記述を知っている人たちが始めたとしか思えない。何度もいいますが、実際に『聖書』が出てくれば……。
メルカバー(Merkabah)とは『神の戦車』、『天の車』、あるいは『聖なる神の玉座』ともいわれる。
エゼキエルの『エゼキエル書』1:4-26、10:9-14にメルカバーの4つの翼がある戦車の男性、ライオン、雄牛、およびワシの4つの顔について言及されている。
カバラの用語[編集]
カバラ行者などが瞑想状態になり、神の戦車に乗り込み、神と直接接しようとする所謂、秘密修行・神秘修行のようなものとの関連性があるといえばわかりやすいであろう。護符を用いたり、呪文を唱えたりするなかで、悪魔から魂の辱めなどを受けるのを防ぐ役割を持つ天使と共に、神の玉座を囲むベールを突き抜けて最終目的地に達しよう試みるその行は、霊性や魂の純粋状態を要求され、非常に危険な行ともされる。
関連項目[編集]
口語訳旧約聖書(1955年版)
エゼキエル書
第1章
1:1第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。 1:2これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって、その月の五日に、 1:3主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。
1:4わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。 1:5またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。 1:6おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。 1:7その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。 1:8その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、 1:9翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。 1:10顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。 1:11彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。 1:12彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行き、霊の行くところへ彼らも行き、その行く時は回らない。 1:13この生きもののうちには燃える炭の火のようなものがあり、たいまつのように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、いなずまが出ていた。 1:14生きものは、いなずまのひらめきのように速く行き来していた。
1:15わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きものおのおのに、一つずつの輪である。 1:16もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。 1:17その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。 1:18四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。1:19生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。 1:20霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。 1:21彼らが行く時は、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。
1:22生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。、 1:23大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。 1:24その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。 1:25また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。
1:26彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。 1:27そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。 1:28そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。
主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。
第10章
10:1時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。 10:2彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。
そして彼はわたしの目の前ではいった。 10:3この人がはいった時、ケルビムは宮の南側に立っていた。また雲はその内庭を満たしていた。 10:4主の栄光はケルビムの上から宮の敷居の上にあがり、宮は雲で満ち、庭は主の栄光の輝きで満たされた。 10:5時にケルビムの翼の音が大能の神が語られる声のように外庭にまで聞えた。
10:6彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」。と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。 10:7ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った。 10:8ケルビムはその翼の下に人の手のような形のものを持っているように見えた。
10:9わたしが見ていると、見よ、ケルビムのかたわらに四つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブのかたわらにあった。輪のさまは、光る貴かんらん石のようであった。 10:10そのさまは四つとも同じ形で、あたかも輪の中に輪があるようであった。 10:11その行く時は四方のどこへでも行く。その行く時は回らない。ただ先頭の輪の向くところに従い、その行く時は回ることをしない。 10:12その輪縁、その輻、および輪には、まわりに目が満ちていた。―その輪は四つともこれを持っていた。 10:13その輪はわたしの聞いている所で、「回る輪」と呼ばれた。 10:14そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。
10:15その時ケルビムはのぼった。これがケバル川でわたしが見た生きものである。 10:16ケルビムの行く時、輪もそのかたわらに行き、ケルビムが翼をあげて地から飛びあがる時は、輪もそのかたわらを離れない。10:17その立ちどまる時は、輪も立ちどまり、そののぼる時は、輪も共にのぼる。生きものの霊がその中にあるからである。
10:18時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。 10:19するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった。
10:20これがすなわちわたしがケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見たかの生きものである。わたしはそれがケルビムであることを知っていた。 10:21これにはおのおの四つの顔があり、おのおの四つの翼があり、また人の手のようなものがその翼の下にあった。 10:22その顔の形は、ケバル川のほとりでわたしが見たそのままの顔である。おのおのその前の方にまっすぐに行った。
イスラエルの王であったソロモンの祈りの言葉を引用します。
「この地に飢饉が起こり、疫病がはやり、立ち枯れや赤さび病、群がるばったや、食い荒らすばったが発生し、敵がこの国の町を包囲し、あらゆる災い、あらゆる病気が生じたとしても、あなたの民イスラエルが、皆それぞれ心に痛みを抱え、この神殿に向かって両手を広げて祈るなら、どのような祈りも、どのような願いも、あなたは住まいである天でそれを聞いて赦し、答えてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にも、その人の歩んできた道に応じて報いてください。まことにあなただけが、すべての人の心をご存じです。そうすれば、彼らはあなたが先祖にお与えになった土地で生き長らえる間、いつもあなたを畏れ敬うでしょう。」(旧約聖書:列王記上8:37-40)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1kings.html
旧約聖書における疫病 山吉智久 2021
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/95/2/95_145/_pdf
旧約聖書において、疫病は単なる自然現象としてではなく、専ら神ないし神的なものと結び付けられて、人間にはたらきかける神の恐るべき力の表れとして捉えられ、しばしば神の御使い(マルアフ)によってもたらされるものとされた(サム下二四章、王下一九章など参照)。その意味で、古代イスラエルの人々にとっては、疫病の存在しない世界というのは考えられなかった。それらはむしろ、神ヤハウェによって秩序付けられた世界の中で、神との関係に何らかの破綻が生じた結果であり、神からの恩恵を失ったことのしるしとして理解された。それ故に、疫病をもたらした神に犠牲がささげられ、災いからの解放が神に祈願されたのだった(民一七11―13、サム上六3―14、サム下二四18―25など参照)。
疫病と思われる病名を表す語が用いられている文脈の多くが、『 申命記』二八章15―68節並びに『レビ記』二六章14―39節の呪いの威嚇、あるいはエルサレム神殿建立後にソロモン王が行ったとされる祝福と演説の中に置かれたイスラエルによる嘆願の聞き届けへの祈願(王上八31―51)など、律法との関連において、イスラエルの民がこれに忠実ではなかった場合に被るとされる災いの列挙に集中しているのは偶然ではない。これによって疫病は、神が人間を処罰する際に用いられる道具の一つとされ、ある災いを被るということは、社会的、宗教的な罪の結果としても見なmされるようになった。しかしながら、生殺与奪の権が神ヤハウェに集約されると共に(申三二39、王下五7など参照)、因果応報によってあらゆる事象を説明しようとする発想が、新たな不合理な現実を生み出すことに、旧約聖書は無自覚ではなかった。行為の主体をイスラエルの民という形で集団化したとしても、あるいは先祖の行為の結果が後の世代にまで及ぶとしたとしても、罪を犯したとされる人物が直接的にその報いを被らないという現実を踏まえて(サム下二四章など参照)、とりわけ『ヨブ記』において問われているのは、罪なき者が病気に苦しむという、まさに応報思想が持つ根本的な問題であった。
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【日本とイスラエル】稲荷神社はイエス・キリスト神社だった(4)
「稲荷神社はイエス・キリスト神社だった」久保有政氏のYouTube解説から何回かに分けてご紹介いたします。 今日はその(4)です。
平安京の「イナリ」
ここで、「イナリ」は「ユダヤ人の王ナザレのイエス」であることを示す、もう一つの証拠をみてみよう。・・・それは京都の「船岡山」にある稲荷神社(義照稲荷神社)である。小さな神社だが、じつは伏見稲荷大社より古い稲荷神社「元稲荷」とも呼ばれている。
十字架の形
船岡山は平安京がつくられたとき、その中心線の目印とされた小高い山だった。船岡山を頂点に、平安京は整然と各ブロックが配置された。ブロックには長方形のところと正方形のところがあった。そして長方形のブロックからなる地区は、きれいなT字形の十字架の形に作られていた。
罪状書の位置
その十字架のちょうど罪状書の位置に船岡山があり、稲荷神社があった。つまり十字架の罪状書の位置に、まさにイナリ(INaRI)=「ユダヤ人の王ナザレのイエス」があったのである。・・・稲荷神社とはイエス・キリスト神社だったのである。
平安京
秦氏は平安京をつくる際、そこにイエス・キリストの恵みとご利益が豊かに注がれるようにとの祈りをこめていた。イエス・キリストが十字架にかかった都「エルサレム」とは、日本語で「平安京」の意味である。
祇園祭
さらに今日も京都で行われている祇園祭は、平安京建設と共に始まったものだが、「疫病が起こりませんように」との祈りで始まっている。同様に、かつてソロモン王は神殿を造った際、「疫病が起こりませんように」との祈りを捧げて、エルサレムで祭を行った。
シオン祭
祭りはユダヤ暦第7月に行われた。京都の祇園祭も7月に行われている。祇園祭とは、シオン(エルサレムの愛称)祭だったのである。とくに有名な祇園祭の山鉾巡礼は、毎年7月17日だが、これは聖書では、ノアの箱舟がアララテ山に漂着した日と同じである。(久保有政氏の解説からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 11章27~32節
テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。サライはうまずめで、子がなかった。
テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。
テラの系図
テラはセムの子孫でした。テラにはやがてイスラエル民族がそこから出てくることになるアブラム、そしてナホル、ハランという子供があったと記されています。ハランは早くに亡くなったとあります。アブラムはサライをめとり、ナホルはミルカをめとりました。アブラムとサライには子供が生れませんでした。テラの一族はカルデヤのウルを出て、カナンの地に向かいました。カナンの地は、やがてイスラエル民族に与えられる約束の地でもありました。しかし、一行はカナンには到着せず、その途中のハランに住むようになったと記されています。このハランはタガーマと呼ばれる地方にあり、古事記の「高天原(タカマガハラ)」の語源は、この「タガーマのハラン」ではないかと言われています。古事記の天孫族は、イスラエル民族の始祖、テラ一族が住んだ「タガーマハラン(高天原)」から来たということを古事記は言っているのかもしれません。
いかがでしたか
参考になりましたら「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
INRI =INaRI
伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃┃大内裏┃┃ ┃
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
┃右 ┃ ┃ 左┃
┃京 ┃ ┃ 京┃
┃ 西市 東市 ┃
┃ ┃西 東┃ ┃
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羅城
門
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃大内裏┃┃ ┃
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
┃右 ┃ ┃ 左┃
┃京 ┃ ┃ 京┃
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃京 ┃ ┃ 京┃
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┃ ┃ 東寺┃ ┃
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飛鳥昭雄氏は、平安京の区画からキリスト磔刑の十字架(T十字)が浮かびあがってくるのを発見した。
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃大内裏┃┃ ┃
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
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┃ 西市 東市 ┃
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┣┫朱雀院┃ ┃神泉苑┣┫
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┣┫西市┣┫ ┣┫東市┣┫
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ 西市 東市 ┃
┃ ┃西 東┃ ┃
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羅城
門
船岡山
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┣┫朱雀院┃ ┃神泉苑┣┫
┣右┳┳┳┫ ┣┳┳┳左┫
┣京┻┻╋┫ ┣╋┻┻京┫
┣┫西市┣┫ ┣┫東市┣┫
┣╋┫西寺┃ ┃東寺┣╋┫
┗┻┻━━┻━┻━━┻┻┛
京都と昔の平安京
ーー
~~
京都に隠された、キリストの十字架。
キリストの十字架は、そもそも、T字で、
その上に
名前を書いた罪状版が
掲げられて
十字に見えるのかな?
だった気がする
京都の碁盤目の街は、
実は、正方形と長方形らしくて
正方形を抜くと、、、
こういう事らしい。
「INRI は、ラテン語
の「IESUS NAZARENUS
REX IUDAEORUM」の頭字語であり、
日本語では
「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」
と訳される。
これは「キリストの磔刑」において
十字架の上に掲げられた
罪状書き(イエスが自らを神の子であり
ユダヤ人の王であると称し、
神を冒涜したとの罪状)であり、
磔刑図と呼ばれる
磔刑を描いた絵画や、
十字架の上の
イエス・キリストを彫った
磔刑像(crucifix)という彫刻においては、
イエスの頭の上に
「INRI」という頭文字が記された
札・銘板(titulus)が描かれるのが
普通である。
また絵画や彫刻によっては、
INRI の文字が
直接十字架に彫られていたり、
イエスの頭上に
INRI の文字が現れているような
場合もある。
古代の磔刑では、
処刑場に引かれてゆく罪人の首
には罪状を書いた銘板がぶら下げられ、
その銘板は磔刑時に
十字架上にかけられていた。
wikiより。」
ちょうど、
INRIに当たる位置に、
稲荷(INaRI)がある。
稲荷神社の祭神は、
ウカノミタマと言うらしい。
竹内文書という
口伝の中では、
本当かどうだか
わかんないけど
キリストは、死んでおらず
三男?が 貼り付けになったと。
スサノオの三男が
ウカノミタマだとしたら、
ウカノミタマが
罪状板の位置に
祭られてるのは、
妙な一致が
ありそうな。。。
久保
日本とユダヤ
ヤマトは彼らにとって非常に愛着のある名だった。ヤマトはのちに日本を表す別称ともなった。
ヨセフ・アイデルバーグによれば、ヤマトはヘブル語の「ヤー・ウマト」(Yah umoto)、すなわち「ヤハウェの民」の意味である。ヤーはヤハウェの短縮形、ウマトは彼の民の意味だ。ユダヤ人にいっても通じる。
ちなみにヤマトの地=奈良は川が多く、川の流域に発達した都だった。ヘブル語で「ナラ」は川の意味である。また天皇の住居のあった「アスカ」(飛鳥)は、ヘブル語の「ハ・スカ」から来たとすれば、ご住居(その住居)の意味だ。
さらに、よく「ヤマトは国のマホロバ」という。国語辞典によれば「マホロバ」は日本の古い言葉「マホラ」から来ていて、すぐれてよいところを意味するとある。ところがヘブル語で「マフラ」といったら、やはりすぐれてよいとか、名誉あるの意味である。
イスラエル人キリスト教徒だった秦氏
秦氏がヘブル語を話したのは、彼らがもともとイスラエル人であり、東方キリスト教に改宗したイスラエル人だったからである。
大陸では、失われたイスラエル10支族の人々も、東方キリスト教に改宗することが少なくなかった。東方キリスト教は、ユダヤ色を排した西洋的キリスト教とは違い、ユダヤ色を色濃く残したキリスト教だったからである。
聖徳太子と古代東方基督教(久保有政メッセージ)
https://youtu.be/E3294K-Hz6M まほら
ヘブル語
素晴らしい
ナラ
川
飛鳥
はすか
御住居
唯一の神=大元霊神 日本古来の唯一神教の神「大元霊神」は、じつはもともと、古代イスラエル人の信じた唯一の神ヤハウェのことだった。 大元霊神の別名として、トヨ・ウケ(豊受大神)や、ウカ・ノミタマ(宇之御魂)があると述べた。日本の古語で「ウケ」「ウカ」は食物の意味だと。じつは古代イスラエル人の話した言語=ヘブル(ヘブライ)語においても、「ウケ」は食物の意味である。 また大元霊神と、アメノミナカヌシは同一である。アメノミナカヌシの「ヌシ」(主)も、ヘブル語の「ナシ」(主)から来ている。「アメ」(天)は、ヘブル語の「シアマィ」(天)から来たものかもしれない。 つまりそれらはもともとヘブル語から来た名である。 神道家・平田篤胤の弟子、渡辺重石丸(1837~1915年)は、アメノミナカヌシは『聖書』のいう神ヤハウェと同一だと唱えた。 彼の師であった平田篤胤も、天地万物に「大元高祖神」(大元霊神のこと)が存在し、その名を「天御中主神」と称すと述べた。また、その神ははじめなく終わりもなく、天上にあって天地万物を生じる徳を持ち、万有を主宰していると説いている。 この神の性格は、『聖書』のいう主なる神ヤハウェに非常に近い。
【寄生虫卵を確認】藤原京に中国や朝鮮半島などの外国人居住の可能性 水洗トイレ遺構を調査 橿原考古学研究所 [1/31] [右大臣・大ちゃん之弼★]
わが国初の都城・藤原京(694~710年)の時代に、京内に外国人が住んでいた可能性があることが、発掘調査で見つかった水洗トイレの調査・研究からわかった。
研究成果は橿原考古学研究所(奈良県橿原市)1階で3月18日まで開催中のアトリウム展「藤原京のお手洗い」で、写真パネルや出土資料を使い紹介している。
水洗トイレの遺構は、平成30年、県営住宅の建て替えに伴う調査で、京の中心から北東約2キロの桜井市西之宮で出土した。京内の水洗トイレ遺構としては8例目。
住宅の敷地内の地面に細長い穴(長さ7メートル以上、幅約1メートル、深さ約40センチ)を掘り、水が流れていた京の大路の側溝と2本の溝で接続。1本で敷地内に流水を引き入れ、汚水はもう1本で同じ側溝に流すように整備していたとみられる。
橿考研はこのトイレ跡で、大便に混じって体内から排出され、土の中に残る寄生虫卵を調査。その結果、ブタやウシの肉を加熱不十分な状態で食べて感染する有鉤(ゆうこう)・無(む)鉤(こう)条虫卵を、京跡で初めて確認した。
外国の使節が滞在した鴻臚館(こうろかん)跡(福岡市)や秋田城跡(秋田市)などではこのタイプの寄生虫卵が見つかっている。橿考研は水洗トイレがあった住宅にも、ブタなどを食べる習慣を持った中国や朝鮮半島などからの外国人がいた可能性があるとみている。
観覧無料。時間は平日午前8時半~午後5時15分。問い合わせは橿考研(記事元にて)
産経WEST 2022/1/31 21:02
https://www.sankei.com/article/20220131-QOZSLTPU2NKWRGUDVHA3BOIURI/ 45<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2022/02/01(火) 21:34:45.23ID:w4cHvAps
というか、当時は、
外国人ではなく異民族な
藤原一族自体が、中央アジアの
狩猟遊牧民の匈奴系だろ
なに言ってんだ?
46<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2022/02/01(火) 21:35:10.51ID:DVes70un
奈良時代の役人にはペルシャ人がいて
東大寺の大仏に目入れをしたのはインド人
中世よりも古代の方が外国人の出入りが盛んだったってのは面白い
聖徳太子と古代東方基督教(久保有政メッセージ)
久保有政 バイブル・ミステリー・コード サンプル「天皇家とヤマト民族『古代日本に天皇制と神道をもたらした渡来人』」円盤屋
彦
ベコー長子
「神仏習合」の歴史(2)~聖徳太子の功績~: ブログ版:春日井教育サークル
斉藤武夫氏のウェブに次のような解説がある。
斉藤氏も、上の堺屋太一氏の本に学んだことを明記している。
http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html
==================
(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。
これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。
今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた
十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。
これを敬神の詔という。推古十五年は西暦六〇七年のことだ。
推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。この詔の起草者が聖徳太子であることはいうまでもない。
それを受けて、太子と蘇我馬子という仏教推進派の二大巨頭が、わざわざ朝廷の全役人を集めて、日本の神々を祀る行事を盛大に行ったのである。
⦿世界唯一の「習合思想」を発案 太子は熱心な仏教信者であった。前述したように、蘇我・物部の戦いでは四天王の像を彫って勝利を祈願し、国家祭壇として四天王寺を草創されたほどである。また、朝鮮半島から渡ってきた高麗の慧慈という大僧正について仏教を学び、『法華経』をはじめいろいろな経典についての解説もされた。その上、仏像も造れば、仏教建築にも詳しかったというのだから、当時としては日本における仏教学の最高権威であったと思われる。 実際にも仏教の布教に努められ、自ら個人の寺として法隆寺を建てられた。ところがその一方で、推古天皇の十五年には「敬神の詔」という詔を出しておられるのである。 太子の歴史的な業績としてよく知られているのは、第一に仏教の研究と普及である。これには寺院の建築から仏像仏具の製造まで、様々な技術開発を伴った。 第二には「十七条憲法」や「冠位十二階の制」など国家制度を定め、日本を豪族支配の国から官僚制度の整った組織行政の国にするきっかけをお作りになったことだ。太子が定められた「十七条憲法」の第一条は、「和をもって貴しとなし、忤うこと無きを宗となす。人皆党有」という有名な言葉である。 今日の日本は官僚主導国だが、聖徳太子の時代は、まさにこの官僚制度のはじまりに当たっていた。それまでの日本は官僚制度も国家制度もはっきりしていなかった。そんな中で「冠位十二階の制」その他を定められたのは、官僚制度を確立しようという努力の現れである。 したがって、聖徳太子は「和をもって貴しとなし」といいながら、その次に「人皆党有」、つまり、それぞれに組織を作って仲良く話し合いながらやろうじゃないか、といっているのだ。 聖徳太子の歴史的な業績の第三は、遣隋使の派遣に代表される外交である。有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という言葉にはじまる国書を持って、はじめて日本の公式外交使節が中国に派遣された。ここに日本は、中国とも朝鮮半島とも別個の独立国であり、対等であるという立場を明確にしたわけだ。 また同時に、新羅討伐軍の派遣も計画されたともいわれている。太子の弟の来目皇子を総司令官とした軍を派遣し、百済を援護する計画を立てたというが、実際には皇子が病没したため実現しなかった。いや、もともとそんな計画は「話だけ」だったのかも知れない。それでも「話」が出たこと自体、日本国という発想が根底にあった、というべきだろう。 そして第四には、斑鳩の里を開発して飛鳥の都に代わる文化首都を造られたことが挙げられる。斑鳩に宮を遷されたのは、飛鳥の地を支配していた旧来の豪族、なかんずく蘇我氏の勢力を避けたといえる。太子はここから大坂の難波の浜に出る道を開き、蘇我氏と縁の深い朝鮮半島を経由しないで、隋に直結する交易を行いたかったのであろう。 もっともこれは、蘇我氏の怒りを呼び、政治的経済的には必ずしも成功しなかった。そのことがかえって太子を学問文化の分野に埋没させ、すばらしい文化遺産を残させた、といえる。 聖徳太子には、以上のような様々の大きな業績があった。けれども、太子が現在の日本に残している影響として、私が最も強調したいのは、仏教を布教し、自らも熱心な信者であり研究者でありながら、同時に「敬神の詔」を出されたところである。このことは『古事記』や『日本書紀』に記述されているが、やや唐突に出てくる。したがって、後に『日本書紀』を書く時挿入されたのではないかと疑う人もいるほどだ。太子の熱心な仏教信仰から見ると、奇妙な感じがするからである。 だが実は、ここにこそ非常に重要なものが含まれているのだ。つまり、一方で仏教を普及し研究しながら、他方では日本古来の神を否定しなかった。「敬神の詔」だけではなくして、伊勢神宮の斎宮は聖徳太子の姉にあたるが、これを呼び戻すこともしなかった。垂仁天皇の頃から御代ごとに未婚の皇女が伊勢神宮の祠官最高位として斎宮になる慣例は、南北朝の後醍醐天皇の時代までつづいた。明治以降は皇族をもって神官祭主にあたられ、今日でもその原則が踏襲されている。 つまり、聖徳太子は仏教を信仰し普及させたが、神道を弾圧した気配はまったくない。むしろ神道にも理解を示し、援助を与えた。ここに日本人の宗教観を決定する要素があった。 太子は個人としては仏教徒だったが、政治家としては天皇家の一員であり、神道神話の保護者でなければならなかった。この矛盾を理論的倫理的に解決するものとして、「神・仏・儒の習合思想」なるものを考え出したのである。 聖徳太子も「時代の子」である。太子が生きた時代的背景は、先に述べたように、仏教が伝来し、帰化人が高い文化を仏教と一緒に持ち込んできた。これと日本古来の惟神の道(神神道)とを、どう調和させていくか。日本人のすべてがこの深刻な問題に直面していた。聖徳太子はそれを、自らは仏教信者として振舞いながら、神道をも擁護し肯定することで乗り越えたのである。 これは決して容易なことではなかった。先進文明を伴った宗教が流入した時、在来の宗教や社会制度とどう調和させるかは、どこの国でも生じた問題である。例えば、ギリシャやローマも、キリスト教が入ってきた時に、オリンポスの神々の信仰、ジュピターの信仰をどうするかという問題に直面した。あるいはドイツ地方のゲルマン人も、地中海地方からキリスト教が入ってきた時、ゲルマン古来の信仰をどうするかという問題に出会った。インドにイスラム教が入ってきた時も同様であった。 ところが、いずこにおいても習合思想は、ついぞ出なかった。そのため二者択一を迫る宗教戦争が繰り返された。いわば宗教的な純粋性を追求したため、宗教対立から戦争と憎悪が生まれるのである。 世界でほとんど唯一の例外が日本である。日本でも、蘇我・物部の宗教対立は戦争になった。だが、そのあとには、宗教対立による戦争はない。 織田信長は比叡山を焼き、一向一揆を討伐した。だがそれは、寺院の持つ武力と土地、つまり世俗的権力を崩すための戦いであった。信長が、天台宗や一向宗を宗教として弾圧した形跡はない。 信長の周囲には、天台宗徒も一向宗徒も大勢いた。世俗の軍人や官僚、あるいは僧侶として信長に忠実である限り、敢えて棄教改宗を迫ることはなかった。 豊臣秀吉や徳川幕府のキリシタン禁制も、この宗教が外国の勢力と結びついて日本の政権を危うくすることを恐れた結果である。 日本で宗教対立を主因とする戦争がなくなったのは、聖徳太子という天才が現れ、理論構成の巧みさと訴求力の強さによって習合思想をはじめたからだ。 聖徳太子が、仏教とそれが運んできた先進文明の採用と、神道神話に支えられた天皇家の立場とを両立させようとして発案した習合の思想は、当時の悩める日本人に大きな救いを与えたに違いない。 このため、たちまちのうちに肯定されて普及し、思想的にも理論的にも徐々に洗練されたものになり、やがて奈良時代には確立された思想体系となったのである。
【丹波篠山】弓月神社はイ〇リ神?それともイ〇スを祀る神社?
多胡羊太夫関連地を巡ってきました
松浦静山という江戸時代後期の肥前国平戸藩主が書いた随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』続編6の七十三巻〔17〕に下記の文章が出ています。(7月12日東洋文庫版で確認しました)
〈JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石櫃を堀出だす。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、耶蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何(イカ)なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずるとことならん。尚識者の考を俟(まつ)〉
このJNRIは聖書解説者・久保有政さんなどによるとINRIではないかとされ、INRIはキリストの磔刑像で頭上に掲げられている文字なんですね。そこから久保さんは「羊」は景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)ではないか、と主張しています。
なのでJNRIと書いたものが現存するならおもしろいですよね。そう思って多胡碑記念館に展示されているものをよく観察してみました。
石辺に「十」と書かれたものは十字架に見えなくもなかったけれど、JNRIっぽいものが刻まれた石は残念ながらなかったですね。
記念館の学芸員の方に聞いたけれど、現存しないとのこと。また『甲子夜話』は各地の不思議な話も掲載されているので、そこに書かれているだけでは証拠にはならない。ブツが出てこないと……とのことでした。松浦静山自身が多胡碑を見に来たという記録もないようです。
多胡碑
JR高崎駅から南へ約8km、多胡碑は、覆屋で厳重に守られて「吉井いしぶみの里公園」の一角にひっそりと建っている。あるいは多胡碑記念館と言った方が通りはいいかもしれない。
多胡碑十字架の事
驚くべきことに、この羊太夫の墓からは十字架が出たという記録がある。
それを証言するのは、肥前国平戸藩の第九代藩主・松浦静山(1760~1841)である。
静山が隠居後に書き始めたという随筆集『甲子夜話』にその一件が取り上げられている。
『甲子夜話』 巻之六十三
多胡碑十字架の事
〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある羊〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。
唐に景教と云有り。これは『金石粋編』に出。又打碑をも舶来す〔或人こゝに唐代のことを引たるは、多胡碑に和銅四年の号あるを以なり。此年唐睿宗の景雲二年〕。太秦寺の事、景教伝法碑にも出、『旧唐書』にも見ゆ〔『仏祖統記』云。末尼火祆者ハ、初メ波斯(※ペルシア)国ニ蘇魯支(※ゾロアスター)ト云有リ。火祆ノ教ヲ行フ。弟子来テ中国ヲ化ス。唐ノ貞観五年、其徒穆護(※マゴス)何禄(※ホスロー?)、闕ニ詣テ祆教ヲ進ム。京師ニ勑シテ大秦寺ヲ建。天宝四年両京諸郡ニ勑ス。波斯寺有ル者ハ並ニ名ヲ大秦ト改メヨ。会昌三年、勑シテ、天下ノ末尼寺並ニ廃ス。京城ノ女末尼七十二人皆死ス。回紇ニ在者ハ之ヲ諸道ニ流ス。五年勑ス。大秦穆護火祆等ノ二千人並ニ勒シテ俗ニ還ヘス〕。
『旧唐書』武宗ノ紀ニ云。会昌五年云云。又奏ス。僧尼祠部ニ隷ス合ズ。請フ鴻矑寺ニ隷ン。其大秦穆護等ノ祠ハ、釈教既已釐賀革シ、邪法独存ス可カラズ。其人並勒シテ俗ニ還ス。又云僧尼ヲ隷シテ主客ニ属シ、明シ外国之教ヲ顕、勒シテ大秦穆護祆ノ三千余人ヲ勒シテ、還俗セシメ、中華之風ニ雑ラザラシムと。
景教伝法碑にあるは、太宗の代、大秦国を征しとき景教を伝ふ。郭子儀大に信心すと〔『旧唐書』『新唐書』とも子儀の伝此事無。蓋伝法碑の説予未この碑文を見ず〕。
然れば遣唐使も専ら此後の頃なれば、或はこの教を伝来りしなるべし。『西洋紀聞』にも、斎食には魚鳥を用ひて、獣肉を禁ずなど云へば、今宍の禁は若くは景教に起る歟と。又云。景教の号は、唐の時天主教を名づけて称せり。(中略)
或人又云ふ。凡天主教の徒は牛を尚ぶ。天竺にも波羅門種はこれも牛を尊敬すと。夫れにつき窃に思ふに、京師に太秦広隆寺と云あり。この寺推古の朝十二年の所建、聖徳太子の創立とぞ。この時隋の末、唐の初の事なれば、若くはかの大秦の教も吾邦に伝へたりしか。此寺今に牛祭と云ことありて、異体の仮面を蒙れる者、牛に乗りて進退すること有るよし。『都名所図会』に見ゆ〔太秦と称するゆゑ、又広隆と云ふこと其書の注に見ゆ。皆信ぜられず。○『山城志』云。広隆寺ハ厩戸皇子秦河勝ニ命建所。推古三十二年七月、新羅、任那ノ二国使来聘、仏像貢、之置ク。又云。其ノ摩咤羅神祠毎秋九月十二日祭祀修、之ヲ牛祭云〕。
多胡碑のこと『蓋簪録』〔東涯著〕に云所は、土人呼テ羊大夫ノ社ト為ス。何ノ故知不。或ハ以穂積親王之墓ト為ス。前世県ヲ置ク之碑ナルヲ知ラズ。」これ其碑文に拠て云ならんが、成給羊の三字漢文にあらずして読がたし。人茲以羊大夫と云なる。又その碑図を出せるを見るに、跗石蓋石ありて、いかにも墓の如し。然れば置県の碑に非ずして、墓標と為んも然らんか。又『東江書話』には、『蓋簪録』のことを諭て、別に彼地土俗の云伝へし羊大夫の事蹟を載す。その略は、この人、後、不廷のことありて、官軍の為めに討れ、自ら剄と見ゆ。されば斯人有りしも計りがたし。何分にも十字架の、かの碑下に出たりしと云うは訝かしきこと也。(以下略)
(注)
1. 文中の改行及び丸括弧注(※)は全て引用者(バハラム)による。
2. 文字表示の都合上、漢文は引用者が書き下し文に改めた。
また、この多胡碑の下からは「JNRI」というローマ字が書かれた銅板も見つかったという。JNRIとは、ラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語INRI(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum)のことであろう。
『甲子夜話』 続篇巻之七十三
多胡碑の傍より掘出す蛮文并考
〔十七〕 JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇(※イエス・キリスト)刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿ニ年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずることならん。尚識者の考を俟。
久保有政日本とユダヤ:
イナリ神社はイエス・キリスト神社 聖徳太子に仕えた秦氏はまた、のちに全国に稲荷神社を創建した人々である。稲荷神社も、秦氏のキリスト教的神道の信仰をよく表している。 先に見たように聖徳太子は、四天王に対してではなく「玉造稲荷神社」に詣でて、その神社の神に対して祈った。秦氏が創建した稲荷神社は、全国で民衆から力強い支持を受け、強いご利益があるとされて、やがて全国に広がった。 今日、日本で最も多い神社は稲荷神社である。デパートの屋上にも稲荷神社がある。稲荷神社は、白キツネのイメージが強いかもしれない。だがこの白キツネは、のちの時代に弘法大師・空海が持ちこんだものである。それ以前はなかった。 そもそも「イナリ」の名称は何なのか。イナリには「稲荷」の字が当てられている。だが「稲荷」は本来イナリとは読めない。当て字である。 イナリは古くは万葉仮名で「伊奈利」と書いた。私たち現代の日本人は、外来語をカタカナで表記する。同様に昔の日本人は、外来語に万葉仮名を当てはめた。「伊奈利」は、外来語に当てはめられた万葉仮名である。 じつは7世紀に生きた秦氏の人で、羊太夫という人が今の群馬県にいた。711年建立の「多胡碑」(群馬県高崎市)に記されている人である。江戸時代の大名で学者の松浦静山は、 「羊太夫の碑のかたわらから石槨を掘り出したが、その中から古銅券が出た。その表題の字が『JNRI』となっている」(東洋文庫『甲子夜話続編6』巻73から現代語訳) と記している。秦氏の人・羊太夫は、「JNRI」の文字を大切にしていた。 JNRIは、INRIとも記され、ラテン語の、「Jesvs(Iesvs)Nazarenvs, Rex Ivdaeorvm」の頭文字である。それは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味する略語である。『聖書』によればイエス磔刑の際、この言葉がヘブル語、ギリシア語、またラテン語の3か国語で、イエスの頭上に掲げられた。 それでキリスト教美術においては、十字架のキリストを描く際に、その頭上に「JNRI」または「INRI」の文字がよく描かれる。読者も見たことがあるに違いない。羊太夫をはじめ秦氏は、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」への信仰を持っていた。 INRIは「インリ」と読む。 「インリ」(INRI)と、「イナリ」(INaRI)。 読者は、どこか似ているなと思われたに違いない。 古代史研究家の古澤三千夫、晋三郎兄弟によれば、「インリ」(INRI)から「イナリ」(INaRI)という言葉が起こった。「イナリ」は、もとは古代キリスト教徒たちが使っていた言葉「インリ」のことだった。 というのは「インリ」の「ン」(N)の部分は、もとは「ナザレ」(Nazarenvs)の頭文字である。秦氏は「ン」という発音よりも、母音も含めた「ナ」のほうを好み、神社の名前としては「イナリ」を使った。 もともと、古代の日本に「ン」の文字はなかった。「ン」の表記が使われるようになったのは、室町時代以降といわれる。いろは歌の中にも「ン」の文字はないし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも「ん」を表す文字(万葉仮名)はない。小倉百人一首にもない。 したがって当時、秦氏が「インリ」を「イナリ」と表記したのは、ごく自然なことであった。 このように、イナリ神社は元来「ユダヤ人の王ナザレのイエス神社」だった。つまり、イエス・キリスト神社である。 そのため、イナリ神社の鳥居は赤に塗られた。赤は血の色である。昔、古代イスラエル民族は奴隷状態から解放されてエジプトを脱出する前夜、「小羊の血」を家の入り口に塗った。すると裁きが彼らの家を過ぎ越し、災いが降りかからなかった。 『新約聖書』で、十字架上のイエス・キリストは「私たちのための過越の小羊」と呼ばれている。キリストの犠牲の血潮を信じ、それを心の入り口に塗る者は裁きが過ぎ越し、救われるというのがキリスト教信仰である。 あのイナリ神社に見られる赤い鳥居は、秦氏一族が抱いていたそうしたキリスト教的神道の信仰を表していたのである。
【日本とイスラエル】秦氏のルーツ(10)
日本と古代イスラエル人との関連について、久保有政氏のYouTube動画解説「秦氏のルーツ:古代イスラエル、東方基督教との関係」からご紹介いたします。
羊太夫の十字架(前回の続き)
だが江戸時代後期の大名であり、学者でもあった松浦静山(1760~1841年)が、その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話』のその部分を現代語に訳すと、
「上州(現在の群馬県)多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオランダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんなものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と不思議がった」(平凡社東洋文庫『甲子夜話4』巻63から現代訳)
このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であり、十字架は禁制の品だったからである。
松浦静山
松浦静山はこう記す。「先年、上野国の多胡羊太夫の碑のかたわらから石槨を掘り出したが、その中から古銅券が出た。その表題の字が「JNRI」となっている。この蛮文(外国の文)についてある人がそののちの蛮書『コルネーキ』を調べた。すると、イエス処刑の図の十字架の上部に、その四字が書かれているのがわかった。しかし、その意味について蛮学に通じた人に尋ねてみたのだが、よくわからなかった」(東洋文庫『甲子夜話続編6』巻73から現代語訳)。
JNRI=INRI
それは聖書に記された「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語である。古代東方キリスト教徒の間では、十字架のイエスを表す言葉として、JNRIまたはINRIという文字がよく使われていた。(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 27章24~29節
イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。イサクは言った、「わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみずから、あなたを祝福しよう」。
ヤコブがそれを彼の所に持ってきたので、彼は食べた。またぶどう酒を持ってきたので、彼は飲んだ。そして父イサクは彼に言った、「子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい」。
彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、
「ああ、わが子のかおりは、
主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜るように。
もろもろの民はあなたに仕え、
もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」。
祝福
あなたは長子エサウかと問われ、ヤコブは「そうです」と答えています。さらに嘘を重ねたことになります。どうなのでしょうか。嘘は神の前に正しいことではないと私は考えていますが、ただ正直であれば良いということではないでしょう。嘘も方便という日本の文化がありますが、それもまた聖書の価値観から来ているのでしょうか。いずれにしても、こうしてイサクはヤコブを祝福しました。すべての人々はヤコブに仕えるようになる。ヤコブを通して、すべての人類は神の祝福を受ける。そのような祝福の祈りです。神の祝福は長子エサウではなく、弟ヤコブを通して全人類に注がれます。それは初めから神の計画でした。このヤコブがやがてイスラエルと呼ばれるようになります。その祝福は、太古の昔に、イスラエル系渡来人によって、日本にももたらされたのです。
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多胡碑は明らかにTau crossだ。
794~1869
INRI=INaRI
伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃ ┃大内裏┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 内裏┃ ┃ ┃
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┣━╋━┫朱雀院 神仙苑┣━╋━┫
┣━╋━┫ 朱 ┣━╋━┫
┣━右━┫ 雀 ┣━左━┫
┣━京━┫ 大 ┣━京━┫
┣━╋━┫西市 路 東市┣━╋━┫
┣━╋━┫ 西寺 東寺 ┣━╋━┫
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:久保有政、飛鳥昭雄対談本#6より
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