山県有朋 明治日本を背負った強権政治家が守ろうとしたもの
安倍晋三元首相の国葬で菅義偉前首相が述べた「追悼の辞」。注目を集めたのが、評伝『山県有朋』である。閨閥(けいばつ)を築き上げ、官僚と陸軍を牛耳った山県有朋には、暗いイメージが付きまとう。しかし本書を読むと、対外強硬論にブレーキをかけようとしたリアリストの姿が浮かび上がる。
安倍元首相国葬の「追悼の辞」で注目
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」
2022年9月27日、安倍晋三元首相の国葬で、菅義偉前首相が述べた「追悼の辞」。菅氏が引いたのは、山県有朋(1838~1922)が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ和歌だった。その一首は『 山県有朋 明治日本の象徴 』(岡義武著/岩波文庫)第6章のおしまいに引かれている。
岡義武(1902~90)は東京大学名誉教授で政治史の大家。本書は長州出身の明治の元老、近代日本陸軍の創設者・山県を描いた評伝である。岩波新書で1958年に刊行され、2019年に岩波文庫に収められた。初版が世に出てから60年余りになる。
ロシアに付くか、英国に付くか
それにしても、菅氏が「追悼の辞」で紹介することがなければ、本書も山県有朋も、世の関心を引くことはなかったろう。第一に、山県は不人気な政治家である。同じ年に亡くなった大隈重信(1838~1922)と比べても明らかだ。
官僚と軍を操り、歴代首相をポイ捨てした陰の主役。猜疑心が強く、孤独な強権政治家。そんな暗いイメージが山県には付きまとう。自由民権運動の前に立ちはだかった「ラスボス」でもある。だが本書を改めて読み返すと、異なる山県像に気付かされる。
幕末から明治、大正を生き、自らつくり上げた近代日本と自身を一体化したリアリストの姿である。日本の命運を懸けた日露戦争(1904~05)。開戦前、ロシアの影が長く色濃くなるなかで、明治の指導者たちの立場は真っ二つに割れた。ロシアと結ぶか、英国と結ぶかである。
伊藤博文(1841~1909)は日露協商論を唱え、山県は日英同盟論を主張した。時の首相は山県閥の桂太郎(1848~1913)。1902年に日英同盟が結ばれる。ロシアとの戦火を回避するための妥協ではなく、7つの海を制する英国と同盟し、ロシアに備える決断である。
力の目測を誤らない山県流の現実主義である。それにしても、明治維新の立役者である伊藤は、桂にとって煙たい存在だ。山県は桂と組み、政友会総裁だった伊藤を枢密院議長に押し込めてしまう。天皇の諮問機関である枢密院の議長となれば、政友会総裁を降りざるを得ない。
「庇護(ひご)する桂に対する伊藤の掣肘(せいちゅう)を弱め……政友会の勢力に大きな打撃を与える」ことが山県の狙いだった。政友会の幹部だった原敬(1856~1921)は「言語道断」と激怒するが、日露の関係が風雲急を告げるなか、山県は国家指導の一本化を最優先したのである。
対露開戦と決した御前会議。山県と伊藤のやり取りが、とても印象的である。「万一敗戦に立ちいたった場合にはわが国はいうに忍びない困難に陥るであろう」「われわれ軍人はもはや生きていないはずであり、将来のことは一に貴下の力にまつほかなくなるであろう」
敗戦下では生きるも地獄。「その場合の貴下の苦悩を思えば、それは死にもまさるものであろう」。こう言い、山県は固く伊藤の手を握った。伊藤と山県は対立しつつも、国家存亡の危機の際には1つになる。明治国家を自分たちの作品と思えばこその2人の握手である。
中国進出には慎重だった山県
指導者たちは薄氷を踏む思いで戦い、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲裁でなんとか勝利を収めることができた。しかし、戦勝気分に沸く国民からは、賠償金も取れない講和への不満が爆発する。政府の指導者たちは臆病だったのに対し、自由民権運動は対外強硬論だった。
第1次世界大戦(1914~18)に対する山県の姿勢は、慎重そのものである。戦後、欧州の白色人種が手を携えて、アジアへの帝国主義的な進出を強めかねない。それを防ぐためには、日中の提携が不可欠だ。ただその際にも、米国の疑念を招いてはならない――。
山県にすれば、世界の目が欧州に向いている隙に、中国に強硬姿勢で臨み、権益を拡大しよう、などというのはもっての外。大隈内閣の加藤高明外相による対華21カ条要求を強く非難する。強権政治家の山県が対外強硬論のブレーキ役となる逆説といってよい。
山県がいれば日米戦争は起きなかった?
そんな山県の胸の内を見抜いていた議会政治家がいる。原敬である。米カリフォルニアで排日土地法が成立し、新聞や少壮軍人の間に日米開戦論さえ登場したとき、原は言った。
「日米戦争は、山県公さえ生きて居れば、起らないよ。山県公は外国に対しては腰の弱い人である。……いくら陸軍の若手が躁(さわ)いでも、山県公の存命中は大丈夫だよ」
その原は、1921年11月、首相在任中に東京駅で暗殺される。原の実力を見抜いていた山県は翌22年1月、すっかり衰弱し死の淵にあって、悪夢にうなされる。
「今原の殺されたときの夢をみた。原は実に偉い男だった。あのような人物をむざむざ殺されては、日本はたまったものではない」。そう枕元の軍医に告げた。
しかし、民衆が支持したのは山県ではなく大隈だった。22年2月9日、山県の国葬が日比谷公園で執り行われた。「不参者は相当に多く、場内は寂しかった」。その1カ月前、大隈が没し、同じ日比谷公園で国民葬が行われていた。こちらは「盛大を極めた」。
「大隈伯は国民葬、きのうは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎(あくしゃ=仮小屋)の中はガランドウの寂しさ」。国葬翌日の『東京日日新聞』はそんな見出しを付した。国葬を報じるメディアの姿勢は、1世紀を経ても判で押したようである。
国運を託せる政治家はどこに
問題は「ラスボス」が去った後の日本である。「けれども、このひらかれつつあった新しい時代もわれわれの日本を光明の中へ導くものではなかった。……そのことは、山県の長い生涯を辿(たど)ってその死に及んだ今、われわれは回想を悲しみと感慨とをもってみたす」
本書はそんな余韻を持って終わる。山県の死から100年、東アジアが日露戦争前のようなけんのんな空気に包まれるなか、今日本に国運を過たない政治家はいるのだろうか。
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