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https://twitter.com/satochon3/status/1646764550170234880?s=46&t=QAfSDzAh-_cN0WvSTaQ0RA
ボブ・ディラン『ソングの哲学』訳者・佐藤良明氏による各曲解説(00-33) - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/news/n52171.html
ボブ・ディラン『ソングの哲学』訳者・佐藤良明氏による各曲解説(34-66) - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/news/n52184.html
デトロイト・シティ──ボビー・ベア BOBBY BARE (1963)
02■Pump It UP
パンプ・イット・アップ──エルヴィス・コステロ ELVIS COSTELLO (1978)
03■Without a Song
ウィズアウト・ア・ソング──ペリー・コモ PERRY COMO (1951)
04■Take Me from This Garden of Evil
この悪の園から連れ出してくれ──ジミー・ウェイジズ JIMMY WAGES (1956)
05■There Stands the Glass
そこにグラスがある──ウエブ・ピアス WEBB PIERCE (1953)
06■Willie the Wandering Gypsy and Me
放浪ジプシーのウィリーと俺──ビリー・ジョー・シェイヴァー BILLY JOE SHAVER (1973)
07■Tutti Frutti
トゥッティ・フルッティ──リトル・リチャード LITTLE RICHARD (1955)
08■Money Honey
マネー・ハニー──エルヴィス・プレスリー ELVIS PRESLEY (1956)
09■My Generation
マイ・ジェネレーション──ザ・フー THE WHO (1965)
10■Jesse James
ジェシー・ジェイムズ──ハリー・マクリントック HARRY McCLINTOCK (1928)
11■Poor Little Fool
プア・リトル・フール──リッキー・ネルソン RICKY NELSON (1958)
12■Pancho and Lefty
パンチョとレフティ──ウィリー・ネルソン&マール・ハガード WILLIE NELSON AND MERLE HAGGARD (1983)
13■The Pretender
ザ・プリテンダー──ジャクソン・ブラウン JACKSON BROWNE (1976)
14■Mac the Knife
マック・ザ・ナイフ──ボビー・ダーリン BOBBY DARIN (1959)
15■Whiffenpoof Song
ウィッフェンプーフ・ソング──ビング・クロスビー BING CROSBY(1947)
16■You Don't Know Me
ユー・ドンド・ノウ・ミー──エディ・アーノルド EDDY ARNOLD (1956)
17■Ball of Confusion
膨れ上がる混乱──テンプテーションズ THE TEMPTATIONS (1970)
18■Poison Love
ポイズン・ラヴ──ジョニーとジャック JOHNNIE AND JACK (1950)
19■Beyond the Sea
ビヨンド・ザ・シー──ボビー・ダーリン BOBBY DARIN (1958)
20■On the Road Again
オン・ザ・ロード・アゲン──ウィリー・ネルソン WILLIE NELSON (1980)
21■If You Don't Know Me By Now
二人の絆──ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ HAROLD MELVIN & THE BLUE NOTES (1972)
22■The Little White Cloud That Cried
泣いた小さなちぎれ雲──ジョニー・レイ JOHNNIE RAY (1951)
23■El Paso
エルパソ──マーティ・ロビンズ MARTY ROBBINS (1959)
24■Nelly Was a Lady
ネリー・ワズ・ア・レディー──アルヴィン・ヤングブラッド・ハート ALVIN YOUNGBLOOD HART (2004)
25■Cheaper to Keep Her
チーパー・トゥ・キープ・ハー──ジョニー・テイラー JOHNNIE TAYLOR (1973)
26■I Got A Woman
アイ・ガット・ア・ウーマン──レイ・チャールズ RAY CHARLES (1954)
27■CIA Man
CIAマン──ザ・ファッグス THE FUGS (1967)
28■On the Street Where You Live
君住む街角──ヴィック・ダモーン VIC DAMONE (1956)
29■Truckin'
トラッキン──グレイトフル・デッド THE GRATEFUL DEAD (1970)
30■Ruby, Are You Mad?
ルビー、怒ったのか?──オズボーン・ブラザーズ OSBORNE BROTHERS (1956)
31■Old Violin
オールド・バイオリン──ジョニー・ペイチェックズ JOHNNY PAYCHECK (1986)
32■Volare(Nel blu, dipinto di blu)
ヴォラーレ──ドメニコ・モドゥーニョ DOMENICO MODUGNO (1958)
33■London Calling
ロンドン・コーリング──ザ・クラッシュ THE CLASH (1979)
34■Your Cheatin' Heart
ユア・チーティン・ハート──ハンク・ウィリアムズwithドリフティング・カウボーイズ HANK WILLIAMS WITH HIS DRIFTING COWBOYS (1953)
35■Blue Bayou
ブルー・バイユー──ロイ・オービソン ROY ORBISON (1963)
36■Midnight Rider
ミッドナイト・ライダー──オールマン・ブラザーズ・バンド THE ALLMAN BROTHERS (1970)
37■Blue Suede Shoes
ブルー・スエード・シューズ──カール・パーキンス CARL PERKINS (1956)
38■My Prayer
マイ・プレイヤー──ザ・プラターズ THE PLATTERS (1956)
39■Dirty Life and Times
ダーティ・ライフ・アンド・タイムズ──ウォーレン・ジヴォン WARREN ZEVON (2003)
40■Doesn't Hurt No More
もう痛まない──ジョン・トルーデル JOHN TRUDELL (2001)
41■Key to the Highway
キー・トゥ・ザ・ハイウェイ──リトル・ウォルター LITTLE WALTER (1958)
42■Everybody Crying Mercy
みんな慈悲を叫び求める──モーズ・アリソン MOSE ALLISON (1968)
43■War
黒い戦争──エドウィン・スター EDWIN STARR (1970)
44■Big River
ビッグ・リバー──ジョニー・キャッシュ&ザ・テネシー・トゥー JOHNNY CASH AND THE TENNESSEE TWO (1957)
45■Feel So Good
フィール・ソー・グッド──ソニー・バージェス SONNY BURGESS (1957/1958)
46■Blue Moon
ブルー・ムーン──ディーン・マーチン DEAN MARTIN (1964)
47■Gypsies, Tramps & Thieves
悲しきジプシー──シェール CHER (1971)
48■Keep My Skillet Good and Greasy
俺のフライパンはいつも料理と油だらけ──アンクル・デイヴ・メイコン UNCLE DAVE MACON (1924)
49■It's All in the Game
恋のゲーム──トミー・エドワーズ TOMMY EDWARDS (1958)
50■A Certain Girl
ある女──アーニー・ケイドー ERNIE K-DOE (1961)
51■I've Always Been Crazy
俺はいつもイカレていた──ウェイロン・ジェニングス WAYLON JENNINGS (1978)
52■Witchy Woman
魔女のささやき──イーグルス EAGLES (1972)
53■Big Boss Man
ビッグ・ボス・マン──ジミー・リード JIMMY REED (1960)
54■Long Tall Sally
のっぽのサリー──リトル・リチャード LITTLE RICHARD (1956)
55■Old and Only in the Way
老いて迷惑なばかり──チャーリー・プール CHARLIE POOLE (1928)
56■Black Magic Woman
ブラック・マジック・ウーマン──サンタナ SANTANA (1970)
57■By the Time I Get to Phoenix
フェニックスに着くころに──ジミー・ウェッブ JIMMY WEBB (1996)
58■Come On-a My House
家へおいでよ──ローズマリー・クルーニー ROSEMARY CLOONEY (1951)
59■Don't Take Your Guns to Town
銃は街に持っていかずに──ジョニー・キャッシュ JOHNNY CASH (1958)
60■Come Rain or Come Shine
降っても晴れても──ジュディ・ガーランド JUDY GARLAND (1956)
61■Don't Let Me Be Misunderstood
悲しき願い──ニーナ・シモン NINA SIMONE (1964)
62■Strangers in the Night
夜のストレンジャー──フランク・シナトラ FRANK SINATRA (1966)
63■Viva Las Vegas
ラスヴェガス万才──エルヴィス・プレスリー ELVIS PRESLEY (1964)
64■Saturday Night at the Movies
サタデイ・ナイト・アット・ザ・ムーヴィーズ──ザ・ドリフターズ THE DRIFTERS (1964)
65■Waste Deep in the Big Muddy
腰まで泥まみれ──ピート・シーガー PETE SEEGER (1967)
66■Where or When
どこなのか、いつなのか──ディオン WHERE OR WHEN DION (1959)
相変わらずディランは聖書を読んでいるようだ。
ch.21
「 人が神に背を向ける理由の一つは、現代の宗教が生活の織り糸になっていないからだ。いまや宗教さえも、そこまで出かけて済ませる用事となった日曜だよ、ほら、教会へ行かなくちゃ。さもなくば、政争の場で両陣営のイカレタ連中が相手を脅すのにいつも持ち出す道具になった。 しかしかつて宗教は、われわれの飲む水の中、吸い込む空気の中にあったのだ。神をたたえる歌は、人々をワクワク、ゾクゾクさせた。実のところ、世俗のうたも、 賛美歌の基盤の上に誕生した。奇跡とは、ふるまいに輝きを与えたもの。ただのスペクタクルではなかった。
聖なる世界との交わりには、戸惑いも付き物だ。その昔、聖書に書かれたヨブに対する神のふるまいの無慈悲さに、人々は心を乱したことだろう。だが、この話には前振りがあった。 ヨブに試練の連続を与えるのは、サタンとの賭けにおいてヨブの敬虔さを信じた神の行いであるという「序」の部分。これが後から付け加えられるに及んで、ヨブ記は、新約・旧約を通して最もエキサイティングでインスピレショナルな物語になったのだ。」(97頁)
参考:
ヨブ記
一章 1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。 2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。 3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。 4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。 5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。 6 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。 7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」 9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。 11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 12 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。 13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、 14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、 15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」 16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」 17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」 18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。 19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」 20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、 21 そして言った。 「私は裸で母の胎から出て来た。 また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
以下、バイオグラフ、ライナーノーツより
92〜4頁
②2
エヴリィ・グレイン・オブ・サンドEVERYGRAINOFSAND [自己解説]
1981年5月、ロサンゼルスで録音。
ディランは言う。「この歌は霊感を受けてできた歌だ。少しも困難なことはなかった。どこからかやってくる言葉を紙に写しているような感じだった。とにかく最後まで写したんだ。クライディーが一緒に歌っている。1回で録音したと思う。クライディーは最高の歌手だ。彼女が息をするのを聞くだけで背筋がぞくぞくする。声の質に特色がある。深くて、ソウルフルで、タフであると同時にとても繊細なんだ。彼女は電話帳を歌っても、聞く者を感動させることができる歌手だ。とにかくこの歌の最初の2行を初めて聞いただけで、彼女が言ったんだ。この歌はクラシックになるってね。100年たったらわかるだろう。この歌は、時代の流れに遅れまいとするようなことは超越しているんだ。時代に遅れまいとしたり、80年代の詩人であるとか、90年代のロックンローラーであるというようなこととは一切関係がない。罠にはまってはいけない.…....あらゆることを学び、必要な時に呼び出せればいい。古いやり方が、今でも一番役に立ち、窮地から脱することを可能にしてくれる。今はすべてのものが歪んでいる時代ですべてのサインは間違った方向を指している。バベルの塔の時代に住んでいるかのようだ。あらゆる言語が混乱している。我々は金星に向けて塔を建てている。一体それはどこにあるんだい。何をそこで見い出すことができるだろう。聖書には「愚か者でも口を閉じている時は、賢く見える」と書かのを忘れている。聖書の言葉なんて言うと、すぐにそっ曲がぽを向いてしまう人がいる。なにか宗教的なもの三時に対しては、人は面と向かわないで、関係ないよと言わんばかりの顔をする。「悔い改めよ。天国は近づけり」というような言葉を聞くと、人は脅えてしまう。そんなことは避けて通りたいんだ。誰かにその言葉を言ってごらん。彼の敵になってしまうだけど、事実に直面しなければならない時が来るし、信じたくても、信じたくなくても、真理は真理であるという時が必ず来る。人間の側で、真理にしたりしなかったりすることはできない。人は誰も自分の真理を心に持っているという偽り多くの害をもたらし、人々を狂わせたんだ。自分の敵を征服するためには、まず最初に自ら悔い改め、ひざまづき、あわれみを乞わねばならないということを聞いたことがあるかい。ウェスト・ポイントではそのことを教えるかな。神は傲慢な態度を嫌うんだ。現在の状況は、とても混乱している。人々は自分が誰であるかわからないように仮面をつけて、仮装して歩き回っている。このことだけは言える誰かに自分の夢や希望を話す時は、その人が兄弟のように愛してくれているということだけは確かめておいた方がいいということだ。さもなくば、その夢や希望は、恐らく実現することはないだろう。生きのびるためには、少々迷信深いことも必要だ。人はアメリカの新しいイメージについて語りたがるが、ぼくにとっては昔ながらのアメリカだマーロン・ブランド、ジエームス・ディーン、マリリン・モンローであって、コンピューター、コカイン、デイヴィッド・レターマンじゃない。そういうものからは逃げ出さなければいけない。ヘディ・ラマー、ドロシー・ダンドリッジ、それがぼくのアメリカのイメージだ。そして一体、誰がアメリカのイメージをよくしただろうか。ある架空のくだらん兵隊が、空想上の外国で10万人の人間を殺すことだってありえる。でもそれは幻想にすぎず、長く続きはしない。人はもし選択することができるならば、今でもレット・バトラーになりたいと思うだろう。90年代は、あるいは21世紀には、人々は80年代はマススーベイションの時代であったと考えるだろう。しかもそれが極限まで押し進められた時代であったと考えるだろう。とにかく、どこを見ても、そのような状態ばかりだ。だからぼくはぼくの価値観を聖書の言葉に基づいて置きたいんだつまり変化することのないものの一部でありたいんだ。実際それはそれほど大変なことではない。人は今でも、愛し憎しみ、結婚し子供を産み、心の中の欲望に隷属し、互いの顔面を張りたおしたり、あなた電気を消してくれない、と言ったりしている。古代ギリシャの時代と全く何も変っていないんだ。何も変わっていない。アブラハムが父親の偶像をこわしたのはいつのことなのか。先週の火曜日だ。神は今でも審判者であり、悪魔が今でも世界を支配している。何も変化したものはない。自分が重要人物だと考えうちに、歴史は過ぎて行ってしまう。まるで時のようなしゃべりだね。世に出ようとしているソング・ライターやシンガ一に言いたいのだが、今流行しているものはすべて無視し、忘れるようにした方がいい。ジョン・キーツのメルヴィルを読んだり、ロバート・ジョンソンやウディ・ガスリーを聞いた方がよっぽどいい。映画についても同じことが言える。沢山の映画を見たが、心に残っているのはどんな映画だろう『シェーン』、『赤い河』、『波止場』、『フリークス』、それにもう二、三本だけだ。先日、映画を見たが、終ったとたん、その映画について何も思い出すことができなかった。見ている時はとても重要なものに思えたんだが」
ch.25
「結婚は聖書による、離婚は法による、と人はいう」(119頁)
[慰謝料に関する愚痴が炸裂???]
『ソングの哲学』ボブ・ディラン 著、佐藤良明 訳
ボブ・ディラン『ソングの哲学』訳者・佐藤良明氏による各曲解説(00-33) - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/news/n52171.html
ボブ・ディラン『ソングの哲学』訳者・佐藤良明氏による各曲解説(34-66) - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/news/n52184.html
ボブ・ディランの『ソングの哲学』に収められた66曲は、現代日本の読者に必ずしもなじみのある曲ばかりではありません。ふつうなら訳注が入るところも、版面の制限や契約の条件等により注釈や解説を載せることができませんでした。英語圏の読者なら、歌を聴くだけで通じることが、言葉の壁で通じないというのではもったいないと、訳者・佐藤良明さんが発憤し、各曲の、かなり本格的な解説を書いてくださいました。クリックすればうたが鳴り出す動画リンクと共に、ここに掲載します。
00■表紙と前付
リトル・リチャードとエディー・コクランに挟まれている謎の女性ロカビリー・シンガーは、アリス・レスリーといって、50年代後半のロックンロール黄金期に「女エルヴィス」の名をほしいままにした。あどけない顔にリーゼント、体を反り返らせギターをかき鳴らす。その爪跡がパネルの上に生々しい。この写真は、ジーン・ヴィンセントを含めた四人がオーストラリアをツアーした1957年に撮影された。このツアーの最中に「突然の啓示」を得たリトル・リチャードは、罪深いショー・ビジネスから引退を宣言する。
扉ページをめくるとリーゼント頭のお兄さんが、同じ時代のレコード売り場に立っている。棚にはリトル・リチャードの左にハリー・ベラフォンテ、右と右下にエルヴィス、真下にジェイムズ・ディーンの追悼アルバムが見える。背景に見える「ムード・ミュージック」「ポピュラー・ダンス」「ピアノとオルガン」という分類が、時代を感じさせる。リトル・リチャードに触発されたディランはすでにピアノを弾き出していた。
その裏にはやはり50年代と思しき、黒人向けのレコード店の風景。壁に貼ってある写真は、ジャズ・ボーカリストのビリー・エクスタインだ。シングル盤を、菓子パンか何かのように、紙袋に入れて売るというのは、日本のような包装文化のないアメリカでは、以後も普通のことだった。
目次に続いて、ベルトコンベヤーの脇に座った女性作業員の写真がある。彼女たちが中袋に入れているLPは、ミッチ・ミラー楽団の『メモリーズ』(1960)。日曜日のお昼のNHKテレビで「ミッチと歌おう」という番組をやっていたのは、これより少し後になる。
目次のページに先立って、マイクの前で泣きを演じるジョニー・レイの表情が見える(Chapter 22参照)。
Billy ECKSTINE & His Orchestra " Rhythm In A Riff " !!!
ALIS LESLEY - Heartbreak Harry / So Afraid / He Will Come back To Me (1957)
ALIS LESLEY - Handsome man / Why Do I Feel This Way /Don't Burn Youre Br...
ALIS LESLEY - So Afraid (1957) Unissued Recording
「女エルヴィス ( The Female Elvis Presley)」と呼ばれていたという表紙真ん中のアリス・レスリー(Alis Lesley)は、2023年84歳で現在存命らしい。
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https://twitter.com/frankmalfitano/status/1526374956325408768?s=61
Alis Lesley
Alis Lesley | |
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Born | Alice Leslie 20 April 1938 (age 84) Chicago |
Occupation | Singer, educator |
Style | rock music, rockabilly |
Musical career | |
Instrument(s) |
|
Years active | 1956–1959 |
Labels | Era Records |
Formerly of | Arizona Stringdusters |
Alis Lesley (born Alice Lesley or Alice Leslie;[1][2] April 20, 1938) is an American former rockabilly singer, once billed as "the female Elvis Presley."[3][4][5][6]
Early life
Lesley was born in Chicago, Illinois, United States. Her family later moved to Phoenix, Arizona, where she attended Phoenix Junior College. She majored in television and radio, and began singing rockabilly while a student. She was discovered by Kathryn Godfrey, a popular Phoenix television personality and the sister of Arthur Godfrey. With Kathryn Godfrey's help, Lesley became a local favorite following her appearances on television station KTVK and in local night clubs.[7]
Career
Lesley achieved brief national celebrity with the 1957 release of her Era single, "He Will Come Back to Me" backed with "Heartbreak Harry" (Era Records 45-1034).[8] Lesley's stage persona as "The Female Elvis Presley" included a guitar slung around her neck, greased-back hair, and combed-down sideburns.[3]
She toured Australia in October 1957 with Little Richard, Eddie Cochran, Gene Vincent, and local rocker Johnny O'Keefe.[9] The tour was cut short when Richard underwent a "religious experience" and he retired from rock and roll for several years.
Legacy
A picture of Lesley between Little Richard and Eddie Cochran appears on the cover of The Philosophy of Modern Song written by Bob Dylan.[10]
References
- "Lesley, Alis". Women in Rock & Roll's First Wave. August 29, 2015. Retrieved October 22, 2022.none
- "Sun Records". Sun Records - 706 Union Avenue Sessions. Retrieved October 22, 2022.none
- ^ a b "Ace Records". Ace Records. Archived from the original on January 16, 2006. Retrieved July 30, 2014.none
- Telegraph, 2017-12:00AMThe Daily (October 11, 2017). "Little Richard saw Sputnik as a sign from God". dailytelegraph. Retrieved January 11, 2021.none
- "El Sótano - 50's RnR y Rockabilly - 13/04/16". RTVE.es (in Spanish). April 13, 2016. Retrieved January 11, 2021.none
- Tochka, Nicholas. "Rock and roll and nuclear weapons: how the Cold War shaped Little Richard". The Conversation. Retrieved January 11,2021.none
- "Alis Lesley – Free listening, videos, concerts, stats and pictures at". Last.fm. Retrieved July 30, 2014.none
- "Rocking Country Style listing"
- "98/77/7 Concert program, "Lee Gordon Presents the Big Show Rock 'n' Roll with Little Richard", paper, printed by Publicity Press Pty Ltd, Sydney, New South Wales, Australia, 1957 - Powerhouse Museum Collection". Powerhousemuseum.com. Retrieved July 30, 2014.none
- Kriticos, Christian (October 21, 2022). "Alis Lesley: the 'female Elvis' who takes centre stage on Bob Dylan's new book cover". The Guardian. Retrieved October 21, 2022.none
External links
- Carrollton, Betty (January 22, 1958). "'Female Elvis Presley' Eyes Career as a Vet". The Alanta Constitution. Vol. 90, no. 184. p. 18. Retrieved October 22, 2022 – via Newspapers.com.none
- Template:YouTube channel: no channel specified. (help)
01■Detroit City
デトロイト・シティ──ボビー・ベア
製造業が経済を牽引し、都市と農村との間に経済格差とイメージ格差をつくっていた時代の望郷ソング。コーラスで“I wanna go home.”を連呼するこの歌は、北島三郎の〈帰ろかな〉(1965)や三橋美智也の〈リンゴ村から〉(1956)に通底する内容だけれど、日本とアメリカの社会背景は全然違う。
まずこちらのうたには,集団就職というような連帯性がない。親元を逃げ出し、「ばかげたプライドを引っさげて」貨物列車にただ乗りして都会に向かえば、放蕩息子の仲間入りだ。綿花畑の広がる国元からの放浪。その寂寞とした距離感がブルースとカントリー・ソングに共通する。
産業都市の都会に東京のネオンの輝きはない。昼間は車工場を、夜は酒場を支える毎日。Make the cars / make the barsというふうに押韻も単純。メロディも単純。低音のギターリフをハートに響かせるソングを、ディランは本書のトップに置いた。
デトロイトのフォード工場の写真は1924年(大正13年)のもの。ミシシッピー河畔の家族愛の図柄と強烈なコントラストをなす。
フラタニティー・レコードの大失態で、ビル・パーソンズの名で出てしまったボビー・ベアの自作自演盤〈オール・アメリカン・ボーイ〉は、1959年初頭にプラターズの〈煙が目にしみる〉に次ぐ全米2位を獲得した。その後歌手としてはしばらくのブランクがあったが、62年にカントリー・シンガーのビリー・グラマーに提供した〈アイ・ウォナ・ゴー・ホーム〉──別称〈デトロイト・シティ〉──を、翌年自ら録音すると、これが全米16位(カントリー6位)に食い込むヒット。後にトム・ジョーンズ(1967)も、ディーン・マーティン(1970)もカバーするスタンダード曲になった。
02■Pump It UP
パンプ・イット・アップ──エルヴィス・コステロ
ポール・サイモンもキャロル・キングもエルトン・ジョンも、先輩格の「グレイツ」が軒並み無視される本書で、若いシンガーソングライターの中からエルヴィス・コステロがディランの賞賛を受けている。パンクロックの騒ぎが収まりかけた1977年のイギリスに、ビターな知性をぶつけるように登場した男。不満をポンプで膨らますかのような〈パンプ・イット・アップ〉は、翌年出た二枚目のスタジオ・アルバム『ディス・イヤーズ・モデル』に入っている。 ディランはこのソングの言語を「ニュースピーク」と呼ぶが、別にジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に結びつけようとしたわけではあるまい。自身の〈サブテレニアン・ホームシック・ブルース〉(1965)を引き合いに出しているところからすると、言葉をちぎって投げつけるしゃべり方、歌い方を指して「新言語」と言っているのだろう。
メガネをかけたその相貌が、バディ・ホリーを思わせるのはみんな気づくところだが、往年の喜劇役者ハロルド・ロイドの名を出されると、確かに似ているので笑ってしまう。
エルヴィス・コステロがバート・バカラックと共作した最初は映画『グレイス・オブ・マイ・ハート』(1996)で流れた〈ゴッド・ギヴ・ミー・ストレングス〉。二人のコラボレーションは、その後アルバム『ペインテッド・フロム・メモリー』(1998)に結実した。カントリー音楽に挑戦したアルバムとしては『オールモスト・ブルー』(1981)を、ソウル/R&Bの音作りを追究したものなら『ゲット・ハッピー』(1980)をチェックされたい。バレエのためにコステロが書いたクラシック音楽のアルバムは、ロンドン交響楽団の演奏による『イル・ソーニョ』(2004)である。
パンクの持ち味と、バカラックの優雅さを平然と結びつけるあたりは、たしかに大物の風格である。おまけにフル・オーケストラを操った。
03■Without a Song
ウィズアウト・ア・ソング──ペリー・コモ
アメリカの新車の多くが派手やかなテールフィンを生やしていたのは、ロックンロールやハンバーガー・チェーン店の誕生と同じ50年代後半のこと。この時代にNBCネットは、1時間番組の「ザ・ペリー・コモ・ショー」を放送し、高視聴率をキープしていた。
エルヴィス・プレスリーが「自分の信念そのもの」と述べたという最初のヴァースは、「うたがなければ」のあと、「一日が終われない」と続き、「事がうまく行かないときに、友がいない」と続く。
ペリー・コモと対比されている「シナトラ軍団」(The Rat Pack)とは、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ピーター・ローフォード、そしてジョーイ・ビショップ。ラスヴェガスの栄華を築いた大物エンターテイナーとして初期の時代のテレビによく出ていた。半世紀後のTV歌唱文化のエスタブリッシュメントというと、素人離れした素人歌手のオーディション番組「アメリカン・アイドル」(2002-)になるだろう。
図版のシートミュージックは、この曲が1929年に初出版されたときのもので、表紙の顔はオペラ歌手のローレンス・ティベットである。「ソングの賛歌」と言ってもいいこのうたを歌う彼の歌声も、現代ではネットで簡単に聞かれる。
04■Take Me from This Garden of Evil
この悪の園から連れ出してくれ──ジミー・ウェイジズ
この本にはメンフィスのサン・レコードからのエントリーが多い。南部農業地帯の中央、ミシシッピー・デルタの北端に、音響技師サム・フィリップスが設立した独立系録音スタジオで、少年ディランを夢中にしたアメリカ音楽の革命シーンが演じられたのである。ここで19歳の美声のトラックドライバー、エルヴィス・プレスリーがR&Bを演じて見せた。それにカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスといったロカビリーの雄が続き、美声のロイ・オービソンも、カントリー界の大御所となるジョニー・キャッシュも、このスタジオを足場として巣立っていった。サン・レコードを足場にした黒人アーティストも、B・B・キング、リトル・ジュニア・パーカーをはじめ数多い。
それら大物をさしおいてディランは、無名に近いアーティストの、お蔵入りしたレコードを取り上げる。理由は罪に汚れた人間たちを歌うこのうたが、歌詞においても、逼迫した演奏においても、ゴスペルになっているから。サン・レコードが、その出発点において、白人黒人の境界だけでなく、世俗の享楽と神にすがる情熱との境界も越える場になっていたことが、この録音からわかる。周知の通りディランは、ファンからブーイングを浴びつつ、キリスト教再興運動に身を投じたかのようなゴスペル風アルバムを出し続けた時期があった。だが、魂の問題として、ゴスペルとロックの間にどれだけの違いがあるというのか。〈火の玉ロック〉でピアノを叩き回るジェリー・リー・ルイスの熱狂は、ギターを抱え南部の町を歌って回ったゴスペル歌手シスター・ロゼッタ・サープと、どれだけ違っていたというのか。
ジミー・ウェイジズについて、英語版ウィキペディアでは立項されていない(2023年4月時点)が、ドイツ語版ウィキペディアには、彼はエルヴィス・プレスリーと同年に、同じミシシッピー州テューペロに生まれたとある。ロック史家コリン・エスコットとのインタビューでそう答えているのだそうだ。同じ学校に行ったとか、母親同士同じ工場で働いていたといった記載もネットには見える。事実はわからない。その靄の中から紡がれた本エッセイで、ディランはジミーとエルヴィスが入れ替わっていたらどうなっていたかと想像する。ジョニー・キャッシュとエルヴィスのバック・ミュージシャンが入れ替わっていた可能性を指摘して、ジャンルの発想に縛られがちな読者の頭をもみほぐす。事実を重視する本とはこれは違うので、エルヴィスがテューペロを出たのは8歳ではなく13歳のときだったと主張しても空しい。
図版は、13世紀フィレンツェの画家コッポ・ディ・マルコヴァルドの『地獄』(サン・ジョヴァンニ洗礼堂)、〈悪魔と心を通わすうた / Sympathy for the Devil〉で始まるローリング・ストーンズ『ベガーズ・バンケット』(1968)のジャケット用写真、および1954年の20世紀フォックス社の映画『悪の花園』のポスター。
05■There Stands the Glass
そこにグラスがある──ウエブ・ピアス
「そこに立っている」のはどんなグラスか。スライドギターが支配する一見のどかなカントリーの歌声からは思いもよらないイメージを、ディランは紡ぎ出す。「……俺の恐怖をすべて隠し、俺の涙を押し流す」一杯のグラスについての歌詞からディランは、PTSDを抱えたヴェトナム帰還兵の悪夢の世界を引き出す。それって、ありかよ。
やや意外かもしれないが、ヴェトナム戦争に直接触れたうたを、ディランは少なくとも録音していない。〈戦争の親玉 / Masters of War〉や〈ゲームの駒 / Only a Pawn in the Game〉などを歌って「プロテスト・フォークの貴公子」などと呼ばれたのは、1963年を中心とした公民権運動の時期で、アメリカはすでにヴェトナムへの軍事的介入を始めてはいたが、それが泥沼化し、国内に反戦気運が巻き起こる頃には、ディランはオートバイ事故をきっかけに隠遁し、再度登場したときにはすっかりスタイルを変えていた。だから、ヴェトナムでの米兵の行状をこれほどエグい形で糾弾する文章には驚かされる。
思い詰めた顔でグラスを手にしようとしている女優の図版は、『グランド・ホテル』(1932)のジョーン・クロフォードだ。
ウェブ・ピアスは1950年代のカントリー界に最も多くのヒット曲を送り込んだ一人。ナッシュヴィルのライマン公会堂から毎週放送されていたカントリー業界のトップ・イベント「グランド・オール・オープリ」から1952年、アル中のハンク・ウィリアムズが干されてその代わりに入った。ディランが小学校4年生くらいから中学を出るあたりまで、町のカントリー局でもっともポピュラーな歌手の一人だったはず。彼について語るべきことはヌーディ・スーツくらいしかないので、むしろヌーディのことを語ったのだろう……と思いきや、最後のラインで、オマージュがきた。彼のうたの「支柱」の話。──ハンク・ウィリアムズの名曲・名演奏を支えるのと同じギター・ストロークがここにも響いている。
〈オーキー・フロム・マスコーギー〉というソングが出てくる。これは、1960年代と70年代の境目に出たカントリー・ヒットで、ヒッピーの価値観を貶め「俺ら」の信じる自由を、マール・ハガード(Chapter 12に登場)が歌う。
「オーキー」とは「オクラホマの田舎っぺ」を意味する大不況時代以来の言葉。マスコーギーはオクラホマ州の町の名である。「マスコーギーじゃ、マリファナなんて吸いません」で始まるシンプル極まる歌詞は、国民に浸透し、アメリカが現在の「赤い州と青い州」に二分されるきっかけの一つになったとさえ言われる。そのカントリー界の衣装を、北部の都会のインテリたちが目を背けるような模様で飾ったヌーディが、グラム・パーソンズにマリファナ模様のスーツを着せたエピソードは笑ってしまう。簡単に検索できるので、この傑作スーツをぜひご覧あれ。
https://oxfordamerican.org/magazine/issue-91-winter-2015/nudie-and-the-cosmic-american
06■Willie the Wandering Gypsy and Me
放浪ジプシーのウィリーと俺──ビリー・ジョー・シェイヴァー
この原題を、Willie, the Wandering Gypsy, and Meと読めば、登場人物は三人になる。Willie the Wondering Gipsyを一人の名前とすれば二人になる。ディランは、みんな結局同じ一人の人間かもしれない、とも言っている。
アメリカは移動の国。「movingは、being freeに最も近いこと」と歌詞にもある。男を町に引き留めようとする女たちを袖にして、放浪を続けるろくでなし。
ここでいう「ジプシー」は現実のロマの人々を指してはいない。ボトルをひっさげ、馬を進める、ある意味神話的な放浪者。日本の大衆文化にも渡世人はよく描かれるが、先住民を征服して間もない大陸を生きる男たちは、義理人情のしがらみなどおよそ無縁の苦みを抱えて、ほこり舞う路上を進む。「アウトローもの」がカントリーの一ジャンルとして定着する所以である。
ディランより二年年長、テキサスから放浪の末にナッシュヴィルにやってきたシェイヴァーは、このジャンルを代表する一人だ。ワルツの拍子で、アメリカ人心の渇きを歌い上げるこのナンバーは、クリス・クリストファーソンも、ウェイロン・ジェニングスもカバーした。ディランとの相性もよさそうだ。2009年発表の『トゥゲザー・スルー・ライフ』に収めた〈変化の兆し / I Feel a Change Comin On〉(ロバート・ハンターとの共作)には、「ビリー・ジョー・シェイヴァーを聞いて/ジェイムス・ジョイスを読んでいる」という一節がある。
そういえばディランのうたには昔からよく「ジプシー」が登場する。ヴィレッジで歌っていた初期の作品に〈ジプシー・ルー〉というのがあるし、1970年の『新しい夜明け』には〈ジプシーに会いに行った〉という曲がある。1976年の『欲望』からのヒット〈コーヒーをもう一杯〉は、放浪を商売とするロマの一家の娘を歌ったうたである。
07■Tutti Frutti
トゥッティ・フルッティ──リトル・リチャード
1955年当時、ジョン・レノンを始めとする感受性の強い世界の中学生は、みなこの曲を聴いてぶっ飛び、学校の廊下やトイレに「ア・ワッ・バッ・パ・ルー・バッパ・ワッ・バン・ブーン」のシャウトを響かせたという伝説がある。伝説とはいえ、事実からも、そう遠くないだろう。それはロックンロールの起源神話の一つとして世界をかけめぐった。ミネソタ州ヒビングの高校でディランがバンドを結成してピアノを弾き出した、その引き金はリトル・リチャードだったわけだ。
ただ、このうたが、そもそもドサ回りの夜の酒場で演じられた露骨な男色ソングだったことは、長らく知られていなかった。Tutti Fruttiに続くオリジナルの歌詞はgood booty(いいオケツ)、それに加えて「グリース塗れば(if it's greasy)よくすべる(it makes it easy)」のようなラインもあったらしい。
ニューオーリンズでの録音に際し、プロデューサのロバート・ブラックウェルが手配した女性作詞家ドロシー・ラボストリーの手によって、「スーって名前のギャルがいる……」という無害な歌詞に生まれ変わったが、このラインもディラン氏にしたがえば、女装クイーンの、巧みな技を賞賛しているとなる。
裏の意味が通じようと通じまいと、黒人音楽を扱うスペシャルティ・レコーズから出たこのうたがティーンエイジャーの間でヒットし、親たちを慌てさせたところで、ロンドン・レコーズが、清潔なイメージを持つパット・ブーンを起用してその「白塗り」バージョンを発売し、こちらも広く流通した。これまた長く語り継がれた逸話である。
パット自身はこれは「意味不明なうた」として録音に乗る気でなかったというから、ディランがここで書いていることは信用できない。冗談と放談の芸が結構多いテクストなので、ここは笑って読むところだろう。
「炎の舌」と訳したspeaking in tonguesとは、聖霊に憑依された信徒が、意図せずに発する言葉や喚きであって、20世紀初頭から米国黒人社会で発展してきたペンテコステ派教会の儀礼は、この憑依の実践を中心とする。これは良家のお坊ちゃん的イメージをもつパット・ブーンからはまったく遠い世界の話だ。エルヴィスならともかく(エルヴィスによるカバー・バージョンもぜひ聞いてほしい)、「パットが歌うか!」と14歳のボブもそれを聞いて仰天したのではないか。
「トゥッティ・フルッティ」(オール果実)という名のフルーツ・アイスクリームは長い伝統を持つ。イギリスで1860年にはあったらしい。
本章ではセザンヌの『静物』(1894)に先だって、頭の上にフルーツを載せたカルメン・ミランダの妖艶な姿が掲げられている。ポルトガル生まれで、ブラジルでサンバ・シンガーとして成功した彼女が、この格好で〈サウスアメリカン・ウェイ〉を歌って北米にもブームを引き起こしたのは、真珠湾攻撃にわずかに先立つ時代のこと。次の写真で、リトル・リチャードが肩に手を回しているのがジェット・ハリス(シャドウズ)。ジーン・ヴィンセントとサム・クックも一緒に並んでいる。
08■Money Honey
マネー・ハニー──エルヴィス・プレスリー
「マニー、ハニー、アッハ」というコーラスが繰り返される。それぞれ直前の問いに対する答えになっている。一番は「何の用です?」と大家に聞いたら「カネだよ、あんた」。二番は「どうして他に男ができた?」と彼女に聞いたら「おカネよ、あんた」。三番は「こんな夜中に何の用」という彼女の問に「カネだよ、ハニー」。オリジナルは、ドリフターズ。1953年にクライド・マクファターがメイン・ボーカルに入って吹き込んだ。それをエルヴィスが、初アルバムでカバーした。
言及されるうた〈ザ・リッチ・マン・アンド・ザ・プア・マン〉の作者ボブ・ミラー(1895-1955)は、自身の出版社を有した多作の作曲家で、1920年代末からヒルビリー・ソングの領域で活躍した。このうたは、「死んでる点ではどちらも同じ」というオチに行き着くまでに、富者と貧者の乗る車、受ける医療、裁判の不公平などをあげつらう。そのトピカルなテーマには、デビュー時のディランへの影響も感じられる。
最後のパラグラフで列挙されるマネー・ソングを再生されたい向きに、原題を表示しておくと──サラ・ヴォーン“Pennies from Heaven”、バディ・ガイ“$100 Bill”、レイ・チャールズ“Greenbacks”、(ストリング・バンドの)ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ“Greenback Dollars”、ベリー・ゴーディ(歌ったのはバレット・ストロング)“Money (That's What I Want)”、(ブルーグラスの)ルーヴィン・ブラザーズ“Cash on the Barrelhead”、(パフ・ダディの別称で知られるヒップホップの)ディディ“It's All About the Benjamins”、(その後カントリー・スターとなった)チャーリー・リッチの“Easy Money”、(ロック畑の)エディ・マネーの“Million Dollar Girl”。
“The best things in life are free”(人生最良のものは無料)の一文は、ビートルズがカバーしたことで今日もよく知られる〈マネー〉からの引用。
09■My Generation
マイ・ジェネレーション──ザ・フー
60年代ロックのシーンに、辛辣なメッセージと破壊的なステージを持ち込んだザ・フーの最初期のヒット曲。1967年のライヴ映像では、キース・ムーンの激しいドラミングと、ギタリストのピートのパフォーマンス込みで、このソングの当時の存在感を味わうことができる。
レコーディングは1965年10月というから、ディランの〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉が流行った夏のすぐ後ということになる。旧世代を罵るような歌を書いてブレイクしたザ・フーのフロントマンで、アート活動の舞台としてロックを選んだピート・タウンゼントは、ディランと比較可能な英国のミュージシャンの一人だろう。ロックの波頭に乗って、古い世代を置き去りにしていった鮮烈な表現者同士──ということで、ピートにかけるボブの言葉にも、共感と揶揄が同居しているように感じられる。いや、どうなのか。いまやケアハウスで哀れな姿をさらす自分たちブーマー世代全体をどう表現したいのか、ディランの言葉は捕まえがたい。
この章の最後に、「あんたが見えない、聞くこともできない」という一文がでてくる。これはピートが書くことになるロック・オペラ『トミー』(ステージ1969、映画版1975)への言及である。テーマ曲〈シー・ミー、フィール・ミー〉は今日もロック世代に記憶に残る。
アメリカでの「ジェネレーション」の捉え方だが、generationは動詞generate(生み出す)と結びついているので、日本語の「世代」よりも、もっと長いスパンで考える。かつては親子の年齢差(約30年)をもって一つのジェネレーションとした。
現代のアメリカのジャーナリズムは、ジェネレーションX(略称「ジェンX」)を「ブーマーズ」に続く世代(1965-80年生まれ)とし、以下「ミレニアルズ」(1981-96年生まれ)「ジェンZ」(俗称「ズーマーズ」1997-2012年生まれ)と、16年単位で区切るようになっている。
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https://twitter.com/tiikituukahana/status/1581089502671818752?s=61
10■Jesse James
ジェシー・ジェイムズ──ハリー・マクリントック
『ビリー・ザ・キッド / 21才の生涯』(Pat Garrett and Billy the Kid, 1973)に出演もし、印象深い〈ビリー〉及び〈天国の扉〉を残しているディランであるからして、アメリカのソングについて語るなら、首に懸賞がかかったアウトローのテーマを素通りするわけにもいかなかったろう。
ジェシー・ジェイムズは、ミズーリ州西部の出身。ティーンエイジャーの時期に南北戦争を経験し、南軍へのシンパシーからテロ活動に参加した。戦後も、ジェイムズ・ギャングという盗賊団の頭領として駅馬車、店舗、列車、銀行に襲撃をかけ、一部市民のロマンス心を満たしたが、懸賞金に目のくらんだ仲間によって殺害された。
46ページの写真は、ジェシー・ジェイムズと兄のフランク、どちらにも5000ドルの賞金が掛けられていたことが読める。 アメリカの伝承歌だが、ハリー・マクリントックが1928年(昭和3年)に録音した盤が選ばれた。鉄道が華やかだった時代に鉄道員として、巡回芸人として、冒険の人生を送ったマクリントックは、IWW(世界産業労働組合)の労働運動にも身を投じてジョー・ヒル(1879-1915)らと共に戦いつつ、民衆団結のためのうたも書き始め、政治的主張をもって、当時のニューメディア、ラジオの世界にも進出する。
このバラッドは、金に目がくらんだ友による裏切りがテーマ。ちなみに、ブラッド・ピットが主演した『ジェシー・ジェイムズの暗殺』(2007)の原題は「臆病者ロバート・フォードによるジェシー・ジェイムズの暗殺」だった。“The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford”というのはロン・ハンセンによる原作小説(1983)のタイトルそのままである。
11■Poor Little Fool
プア・リトル・フール──リッキー・ネルソン
実際のネルソン家が、脚本上のネルソン家を演じるというホームドラマが『オジーとハリエットの冒険』。これが「陽気なネルソン」という題で、NHKで放映されていたのは1960-61年のことだが、アメリカでは遥かに早く、1948年にラジオ放送が始まり、1952年、リッキーが12歳のときにはすでにテレビに切り替わっていた。1学年下のボブ・ジマーマン少年は、ミネソタ州の小さな都市の学校で同級生とバンドを組んだりしている時期に、テレビというメディアで、全米のお茶の間に見守られながら、ロックバンドのスターとしてデビューしていくのが、リッキー・ネルソンだったわけである。
1958年、ロックンロールをものにしたアイドルの姿がこれ。番組では60年代にかけて、リッキーの演奏を流した。アメリカ人の記憶に刻まれた家族だから、若き日の父母の姿も、長兄のデイヴィッドと一緒に成長する姿も、ネットでふんだんに目にすることができる。1957年から64年にかけて、リッキーは30を超える数の曲をトップ40に、その約半分をトップ10に送り込んだ。「ロックンロールの大使」としての働きはエルヴィス以上、というディランの見立ては誇張ではない。
ネルソン家の子供たちの成長を綴るこんな映像も、シニア世代のアメリカ人をジンとさせるのだろう。
音楽プロモーターのリチャード・ネイダーは1969年以来ロックンロール・リバイバル・ショーを催していたが、これにリッキーが参加したのはマディソン・スクエア・ガーデンで行われた71年の回。〈ハロー・メリー・ルー〉などのオールディーズを演奏したあとで、ストーンズの〈ホンキー・トンク・ウーマン〉をやったところブーイングを浴びた。翌年彼がそのことを歌った〈ガーデン・パーティ〉には、その経緯がちゃんと歌われており、「ミスター・ヒューズがディランのシューズに隠れていた」という歌詞で、ジョージ・ハリソンと近しかったディランのことも歌われている。
言及される映画のうち、『欲望という名の電車』と『群衆の中の一つの顔』は共に1957年、エリア・カザン監督作品。前者は、没落南部の淑女に対するマーロン・ブランドの容赦ない演技で知られる。後者は、シンガーとして人気を博す田舎の乱暴者をアンディ・グリフィスが名演する。どちらにせよ「リッキー」とのイメージ差は、あまりに大きい。西部劇『リオ・ブラボー』(1959)では、ディーン・マーティンとの、きれいにまとまったデュエットを聴かせるなど本領を発揮したリッキーだったが、これら二作をリッキーが演じたらという想像は、だいぶ意地悪な気がする。
12■Pancho and Lefty
パンチョとレフティ──ウィリー・ネルソン&マール・ハガード
有名人の子がロックンロールで脚光を浴びるという図式の反対側にいたのがタウンズ・ヴァン・ザントで、南部テキサスの上流家庭に育ちながら、エルヴィスに塡まったためにとんだ仕打ちを受けて育った。ジョン・タウンズ・ヴァン・ザントという貴族的な名前をカットしてシンプルにし、破滅型の放浪の末、何とかナッシュヴィルに行き着いてデビューを果たすという生き様も気に入ったろうし、自分と同じくハンク・ウィリアムズに心酔した挙げ句、ハンクと同じ正月元旦に亡くなったことも、胸に響いたか。タウンズから見れば、ボブは三歳上の、シンガーソングライターのヒーローであり、デビュー前は、ヒューストンの店でよくディランのカバーもやったらしい。
この〈パンチョとレフティ〉の、タウンズによるオリジナル・ヴァージョンは、二枚目のアルバム『ザ・レイト・グレイト・タウンズ・ヴァン・ザント』(1972)に入っている。1983年になってウィリー・ネルソンとマール・ハガードという二人の大物がこれを取り上げ、カントリー・チャートのトップを射止めるヒットにした。ウィリーがパンチョを、マールがレフティを演じるビデオ・バージョンが出回っている。
このエッセーでディランが語っている物語の細部は、その多くが歌詞にない。想像の産物、あるいは「スピンオフ」というべきものである。ただ、ディラン自身、ステージでも〈パンチョとレフティ〉を歌っていて、その意味で、これは彼の「持ち歌」でもある。ソングの奥にある「真実」を語る資格は十分あるだろう。
ディランに比べると線は細いが、通じ合う部分はずいぶんあっただろう。52歳で逝ったヴァン・ザントは、21世紀に再評価が進んだ。『Be Here to Love Me』(2004)という、彼のヒット曲をタイトルにしたドキュメンタリー映画も出回っている。
13■The Pretender
ザ・プリテンダー──ジャクソン・ブラウン
ジャクソン・ブラウンは、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドのメンバーとしてスタートし、恋人時代のニコに提供した楽曲を通して世界の通なポップ・ファンに認知され、さらにはグレン・フライとの共作の〈テイク・イット・イージー〉がイーグルスのデビュー・シングルとしてヒットするなど、シンガー・ソングライターとしてデビューする以前に、順風満帆のキャリアを歩み出していた男。同時代のヒットメーカーは滅多に取り上げられないこの本で、ジャクソン・ブラウンのこのうたを、ディランが「グレイト」と形容するのは何故だろう。 歌詞を見る限り、この男、偉大さから見放されている。職場まで、毎日弁当を作って出かけ、家に戻って寝る生活。毎日それの繰り返し。そこからの脱出を夢見ないわけではない。しかしその夢もぶつ切れで、真の覚醒(awakening)には通じない。魂の高揚から見放され、毎日が急速に、終わりに向かって過ぎ去っていくだけの日々。
「小さな一カケラのアメリカン・ドリームと引き換えに自分を売り渡した」男と、ディランは彼を説明する。アメリカには、アメリカン・ドリームを信じずにはいられない男たちが、ろくな収入もない生活を、自己イメージだけは高く保って暮らしている。ぼろい人生でも、へばりついて生きていれば、ある日突然、幸運の道が開ける。裏庭から石油が噴き上がる。
平凡な一日の繰り返しの先に、ドリームの世界が開けているとは、このうたの主人公の場合、とても思えないのに、その夢がいつかあたかも叶うかのようにプリテンドして生きている。毎朝、光が差すと、起き上がって、また同じ一日を始める。
その光が、スピリチュアルな世界への入り口になることはない。愛を希求しながら、金銭(法定通貨=リーガル・テンダー)を得ることに追われる。夕暮れの町をぶらつけば、広告がかしましく呼びかける。広告は成功の夢を煽るが、通りから始まる夢は通りでついえる。若き日に力強く歩み出したプリテンダーも、日常にほとんど降伏(サレンダー)してしまった。ゴミ屋が車のフェンダーを叩き、子供たちが静かにアイスクリーム・ヴェンダーを待ち望む生活に。
韻の揃え方がユニークだ。プリテンダーを囲む広告が、消費者(スペンダー)の心を拝金に駆り立てる。それに対して真の対向者(コンテンダー)になるかもしれない「愛」はどこへ行ってしまった? 1976年、アメリカの賃金所得者層の暮らしはくすんでいた。ショッピングモールの華やかさはまだ到来していない。夜の町は寂しかった。オイル・ショックの時代、シコシコと生きる気概を、デヴィッド・クロスビーとグラハム・ナッシュの真摯なコーラスが支えている。
夜道の散歩に出たプリテンダーの目にする光景と心のうちをディランの言葉は、歌詞から離れ、自由に舞い上がる。広告が煽る成功の夢に蹂躙された人生について、ディランが語り直すとここまでハードな世界になっていくのか。
ところで、冒頭で言及されるプラターズの〈グレイト・プリテンダー〉(1956)。こちらは、失恋の悲しみなんかないかのようにプリテンドする男の心中を歌う。彼は自分ひとりの世界をさまよう。
その「グレイト」の語を取り去ったジャクソン・ブラウンのこのうた(1976)は、リアルな街をさまよう男を歌う。2曲の間、その20年間に、ポピュラーソングが、華麗にプリテンドすることから、リアルな世界を見つめることにシフトしたとすれば、その「現実化」に誰よりも貢献したのがボブ・ディラン本人だったというのは、多くの人が認めるところだろう。
14■Mac the Knife
マック・ザ・ナイフ──ボビー・ダーリン
ボビー・ダーリンのヴァージョンは1959年に全米チャートを9週間制覇。日本でのシングル盤は「 匕首 ( あいくち ) マッキー」の題で発売された。1964年、尾藤イサオのデビュー曲がこれである。ルイ・アームストロングの盤もエラ・フィッツジェラルドの盤も世界中でよく聞かれたが、マンボ仕立ての美空ひばりバージョンも素敵だ。
クルト・ヴァイル作のオリジナル・ドイツ語版が登場したのはベルトルト・ブレヒト作の『三文オペラ』(ベルリン初演1928)の劇中歌として。この舞台作品は、18世紀英国の歌芝居『乞食オペラ』にアイディアを得て、ワイマール時代(第一次大戦後)のドイツを描いたもの。一方、ガーシュウィン兄弟(アイラとジョージ)が、デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』を歌劇にした『ポーギーとベス』はボストン初演が1935年。南カロライナ州チャールトスンの裏町を生きる貧民層のアフリカ系住民を主人公とする物語を、オール黒人のキャストで描く。〈サマー・タイム〉を含むその楽曲は、アフリカ文化の要素が色濃い当地の沿岸地方で書かれた。
フランク・シナトラの 取り巻き ( ラット・パック ) に対してボビー・ダーリンの「パック」の候補として挙げられている顔ぶれだが、これはどう面白がったらいいのだろう。〈スタンド・バイ・ミー〉で知られるベン・E・キングは、南部の町から移住してハーレムのストリートでドゥーワップを始めた。同じ黒人でもエンターテインメント一家に生まれ子役時代から人気者だったサミー・デイヴィス・Jr.に比べると重々しさは拭えない。ウェイン・ニュートンは、ラスヴェガスの人気歌手としてビジネスマンとして、手広い活動で芸能ジャーナリズムを賑わせた男。実生活で妻を射殺した俳優ロバート・ブレイクはドラマでも翳りのある中年役を演じた。チューズデイ・ウェルドはセクシーで向こう見ずな少女のイメージが売りだった。ボビー・ダーリンと一緒に『三文オペラ』を演じるキャストとして、たしかにふさわしいのかもしれない。
15■Whiffenpoof Song
ウィッフェンプーフ・ソング──ビング・クロスビー
20世紀の100年のトップ40を、独特な方法で集計しランク付けしたジョエル・ウィットバーンの『A Century of Pop Music』によると、1950-99の期間を通して最もランクの高い歌手がエルヴィス・プレスリー、それが1900-49では第1位がビング・クロスビーとなる。電気録音の時代になって、甘く歌いかけるクルーニング唱法が、大衆をうっとりさせた時代の代表歌手である。〈ホワイト・クリマスス〉以外にもビングの美声を堪能させたソングは掃いて捨てるほどあるのに、ここに選ばれたのは、イェール大学の乾杯ソングである。
イェール大学は、ニューヨークの東、コネティカット州のニュー・ヘイヴンという古い大学町にある。創立1701年という古さはハーバードには及ばないが、アイビー・リーグの中でも大きな存在感を持つ。
ディランはこのうたについて、一般民衆とはかけ離れた階級の、秘儀的な雰囲気を語っているが、ビング・クロスビーの盤を取り上げたのは、ビングの先祖がメイフラワー号でアメリカに渡ってきた、WASPの中でも特別な家系の人間だからかもしれない。彼に比べたらディランの家は、ユダヤ系の移民のである。先祖が名乗ったZimmermanという名も、ドイツ語で「部屋(を作る)男」、すなわちCarpenterという意味であって、階級的なハクはつかない。
1909年にイェール大学のグリークラブが歌い始めたこのうたは、英国の文人ラドヤード・キップリングの有名な詩の替え歌で、“To the tables down at Mory's”で始まるが、この「モリーズ」とは、イェール大学の近くにある老舗の「モリーズ・テンプル・バー」を指し、2行目に出てくるLouieは店のオーナーだったルイ・リンダーとのこと。この店は2008年になって160年掲げた看板を一度下ろしたが、その後復活したそうだ。
キップリングによる原詩は“Gentlemen-Rankers”(紳士の兵卒たち)といって、戦場に向かう名門家庭の子弟の心を歌ううた。「我等は道を迷える羊、メー・メー・メー」(We are poor little lambs / Who have lost our way / Baa! Baa! Baa!)の一節は、原詩と替え歌で共通している。
16■You Don't Know Me
ユー・ドンド・ノウ・ミー──エディ・アーノルド
エディー・アーノルドといえば、日本では“I Really Don't Want to Know”が「たそがれのワルツ」の邦題でリリースされたことで知られる。「知りたくないの」の題で菅原洋一がカバーしたあのうただ。こちら“You Don't Know Me”も「愛しているのに」の邦題で出ている。
ルイジアナ州知事(元カントリー歌手のジミー・デイヴィス)から「大佐」の尊称をもらったトム・パーカーは、2022年公開の『エルヴィス』でトム・ハンクスが快演した、あの剛腕のマネージャーである。エルヴィスを買い取って、メジャーデビューさせたのは1955年だが、その2年前まで、足かけ9年、エディー・アーノルドのマネージャーをしていた。大佐と比較されているソロモン・バークは「キング・ソロモン」の尊称で呼ばれ、ソウル音楽の黎明期から半世紀にわたって黒人音楽界に君臨した怪傑である。
80年代を代表するヒットソングの一つ、スティング(ザ・ポリス)による〈見つめていたい〉が、ストーカーの心を歌っているとはよく言われることだが、ここに一緒に登場するとは思わなかった。
実はこのうた、レイ・チャールズの盤(1962)が最大のヒットになったのだが、彼の名前は出てこない。エディ・アーノルド一人、隠れてコソコソ女を愛する意気地なしとして謗りを受ける。
17■Ball of Confusion
膨れ上がる混乱──テンプテーションズ
1964年の〈マイ・ガール〉が、たぶん今も最もよく知られるテンプテーションズ。ベリー・ゴーディがデトロイトに創立したモータウンを、60年代半ば、シュープリームスやフォー・トップスと共に、ビートルズと双璧をなすほどのヒット工房に押し上げた功労者である。だが、60年代末の社会混乱を通して、モータウン自体が、変貌を余儀なくされた。きっかけの一つは、1968年のキング牧師の暗殺。明るく楽しいイメージで白人と黒人の若者が和合するという公民権運動時代の夢を、悪意の凶弾が打ち砕いたのである。「サンシャイン」のうたはもう売れない。「ヒッツヴィルUSA」の異名をとるモータウンも、社会性のある、シリアスなイメージを求められた。
ダイアナ・ロスとシュープリームスの〈ラヴ・チャイルド〉(1968)はスラムで私生児として生まれた自分が、荒んでしまった心をもって、それでもあなたを愛するわ、と歌う。
同じ秋に出た、テンプテーションズの〈クラウド・ナイン〉(ノーマン・ホイットフィールドとバレッタ・ストロング作)は落ち込むしかない人生を歩む者が、恋人と過ごす、雲にも昇るような多幸感を歌う。
その路線をさらに進めた〈ボール・オブ・コンフュージョン〉(1970)に、ここでディランがしびれている。間奏以外、ベースがずっと「ダダッド・ダダッド・ダダッド・ダ」の単純な2音程を繰り返す。ソウル音楽史上最高のベーシストと言われるジェイムズ・ジェイマーソンのベースがだ。ホーンセクションもノリノリ。彼らファンク・ブラザーズをバックにして、テンプテーションズの四人のメンバーが交互にリード・ボーカルをとり、世の混乱を嘆く。間に、低音のメルヴィン・フランクリンが、“And the band plays on.”のワンフレーズを挟む。
今の世界の混乱を歌うソングというと、日本では同じ年に、左卜全が子供たちと「やめてケーレ、ゲバゲバ」と歌って大ヒットした。〈老人と子供のポルカ〉と一緒にしたら叱られるが、このうたにしても、ステージの上に並んだ五人がクルリと回ってクラップするところは、陽気なテンプテーションズのまま。ポップグループが素のままで、これだけ社会性を持った作品を歌えたということだ、1970年には。
いくつか補足を。ジョンとヨーコが彼らのベッドに集まった面々と歌った1969年のソング〈平和を我等に〉は、bagism, shagism, dragism, madism...とあらかじめ決めた音に沿って、半ば自作の言葉を並べる。それを「さすがにうまくやった」とディランは述べつつ、元素周期表のうたとそうは違わないよね、とウィンクしてみせる。貶められているのは、中東戦争についてP・F・スローンが書いたうたを、バリー・マクガイアが歌って、1965年の夏にビルボードのナンバーワンを射止めた〈明日なき世界 / Eve of Destruction〉が一つ。もう一つは、消滅させられたチェロキー族の国家を歌う〈嘆きのインディアン / Indian Reservation〉だ。社会問題をウケ狙いのトピックにする安易さが糾弾されている。
ちなみに、〈Ball of Confusion〉のボーカル・トラックだけを切り離したバージョンはこちら。
https://www.youtube.com/embed/_RXnpIi7kvo リンク切れ
The Temptations - Ball of Confusion (Acapella) - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/xif20l
18■Poison Love
ポイズン・ラヴ──ジョニーとジャック
ジャック・アングリンは、もともと兄弟でバンドを組んでいたが、ジョニー・ライトと出会って1939年、チームを組んだ。二人ともナッシュヴィル近郊の出身である。(このときジョニーは、妻と妹と一緒に演奏していた。その妻こそ、後に女性カントリー・シンガーの草分けとして歴史に名を刻むキティ・ウェルズだ。)南部風のドライヴの効いたジョニーとジャックの演奏は、派手ではなかったが、着実に人気を固めていく。第二次大戦に従軍して帰還後、〈ポイズン・ラヴ〉のヒットまで時間はかかったが、1952年に「グランド・オール・オープリ」にキティ・ウェルズと一緒に初登場すると、以来二人は常連としてステージに立ち、1963年、飛行機事故で死亡したパッツィー・クラインの葬儀に駆けつける途中、ジャックが交通事故死するまで、何枚かのヒット・レコードも放った。カントリー音楽のルーツに根ざした彼らの音楽性は、その安定ゆえに、ニューオーリンズやカリブ諸島由来の要素も自由に取り入れた──という点をディランは高く評価している。(ちなみに〈ポイズン・ラヴ〉のロックンロール・バージョンもリリースされた。)
音源としては、『The Tennessee Mountain Boys』という1958年のアルバムなどがCD化されているし、Spotifyに「This is Johnnie and Jack」という名のプレイリストがある。
ヒット曲〈(Oh Baby Mine)I Get So Lonely〉(1953)を「オープリ」の舞台で歌う二人の映像も出回っている。
本文に、カントリー系のデュオの名が次々と出てくるので、普段聞かない読者のために詳細を添えると── ベイルズ・ブラザーズは、ウェスト・ヴァージニア出身の四兄弟だが、四人で舞台に立つことはあまりなかった。40年代から50年代にかけて、グランド・オール・オープリとルイジアナ・ヘイ・ライドの両方のステージで人気を博した。
スタンリー・ブラザーズは、カーター(ギター)とラルフ(バンジョー)の二人による、ヴァージニア出身のブルーグラス・デュオで、日本でも人気は高い。
エヴァリー・ブラザーズは、さすがに紹介不要か。〈起きろよ、スージー / Wake Up, Susie〉など、いくつかのホップ・クラシックをヒットさせたテネシー州出身のドンとフィルの兄弟は、ロックンロールのリズムに乗った美しいハーモニーを、ビートルズに伝授したとも言われる。
ジョニーとジャックと一緒に、カントリー音楽を革新した功労者として名が挙がっている一人が、プレスリーやジェリー・リー・ルイスと同時期にサンからレコードを出していたウォーレン・スミスと、ビリー・リー・ライリーだ。スミスの〈赤いキャデラックと黒い口髭 / Red Cadillac and Black Moustache〉は、ディラン自身カバーしている(2001)。ライリーの〈空飛ぶ円盤ロックンロール / Flyin' Saucer Rock'n' Roll〉は、リトル・グリーン・メンという、いかにもB級SFっぽい名前のバンドがバックを務めるノベルティ・ソング。
19■Beyond the Sea
ビヨンド・ザ・シー──ボビー・ダーリン
ディランより5歳年長のボビー・ダーリンは、1973年、36年の生涯を閉じた。〈マック・ザ・ナイフ〉の章でも登場したが、本書で2曲取り上げられているアーティストは、他にエルヴィス・プレスリーと、ウィリー・ネルソンと、ジョニー・キャッシュと、リトル・リチャードしかいない。外国産のソングで他に入っているのが、ドイツの劇中歌〈マック・ザ・ナイフ〉と、イタリアからきて全米チャートを制した〈ヴォラーレ〉。そちらのテーマが「無限の飛翔」であるに対し、こちらも「果てしない航海」で、ある意味、この世の限界を突き破る点で共通している。
この世の限界を打ち破り、神々と同等の超越を手にしようとする不敬な試みに挑戦したアメリカ文学の英雄が、ハーマン・メルヴィル作『白鯨』(1851)のエイハブ船長である。86ページの抹香鯨に挑む人間たちの絵は、クレジットによれば、1839年のトマス・ビール著『抹香鯨の自然史』第二版の挿画(ウィリアム・ジェイムス・リントン画)。この絵から『白鯨』を連想する読者は、海の彼方を遠望する最初の版画の男に、小説の語り手イシュメールの姿を重ね合わせるかもしれない。
一方の、磯で抱き合う男女は、リチャード・バートンとエリザベス・テイラー。映画『いそしぎ』(The Sandpipers, 1965)の名シーンだ。
原曲、シャルル・トレネによる〈La mer〉の熟唱はこちら。
20■On the Road Again
オン・ザ・ロード・アゲン──ウィリー・ネルソン
「ケルアックの快作『オン・ザ・ロード』のアップデート版」というディランの紹介にはアイロニーが付きまとう。ジャック・ケルアックが小説の形にしたのは、既成社会の日常を飛び出して、圧倒的な大陸の神秘に包まれるような路上の疾走だった。1957年に出版されると熱い反響が起こり、ビート族というボヘミアンたちが一部の都市に群れるきっかけとなった。ホット・ジャズへの陶酔が描かれるこの小説に、ディラン自身が実際どのくらい影響されたかは定かでないが、ケルアック好みの「サブテレニアン」とか「デゾレーション」とかの語が、ディラン・ソングのタイトルにも出てくるのは確かである。
もちろんディラン自身の〈オン・ザ・ロード・アゲン〉も有名だ。よければ『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を再チェックしてほしい。ナンセンスな出来事が次々起こる、ケルアック顔負けの疾走ブルース。これが出たのが1965年で、そのあたりから大衆化したヒッピー族が登場し、その風俗が消えて、70年代の、自分の周りの居心地よさにこだわる「ミー・ディケード」が始まった。それも終わってレーガンを大統領とする、物質礼賛の時代が訪れた。その1980年に、映画『忍冬の花のように / Honeysuckle Rose』が公開。ヒットのないまま中年を迎えるミュージシャンとその家族を描く主演にウィリー・ネルソンが抜擢され、その主題歌として書かれたこのうたが全米チャートを駆け上がった。
その頃までに、ディランは「ローリング・サンダー・レビュー」の長いロードも終え、ゴスペルのサウンドに乗せてキリスト愛を歌う、スピリチュアルな旅を始めていた。
21■If You Don't Know Me By Now
二人の絆──ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ
ケニー・ギャンブルとレオン・ハフの作になる、数多くのゴールド・ディクスの一つ。心安まる70年代フィラデルフィア・ソウルの代表的グループ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツが歌った中でも聞き覚えのあるメロディなのは、シンプリー・レッドによるリメイク・バージョン(1989)の世界的なヒットのおかげでもある。
邦題は〈二人の絆〉だが、この絆は、大分ほころびがきている。サビで繰り返されるのは、「今でも俺のことを分かっていないなら、永遠に分かってもらえないだろう」。その思い上がりをディランのテクストは責める。自分は理解されて当然、みたいな口を利く男って、いるんだよな、特に偉そうにしている奴らに。ヴァースもいけない。「帰宅がちょっと遅かったからって、おまえ……」みたいに始まる、説き伏せの言説。「波風立てることはないだろ、な? 男にはさ……」みたいな目線のうた。たしかに過去には多かったかもしれない。1972年といえば、まだウーマン・リブの闘争の頃で、一般のポップ・ファンの男女関係は、相互補完の理想がまだまだ強かった。「意識の遅れた」それらを代表して、この耳障りのいい、売れ線のポップソングが、吊し上げられる。「自己崇拝ソング」という言い方が痛烈だ。
だが、このエッセイの本当の読み所は、最後のセクションで突然始まる、宗教心の衰退へのコメントの方にあるように思える。男女間の諍いの場面に限らず、現代人がふくらませるプライドの罪。これはかつてのキリスト教社会に重くのしかかっていた「七つの大罪」の、筆頭に位置づけられたものだ。
神に翻弄されながら、人間がいかにちっぽけな存在であるかを学ばされる聖書「ヨブ記」の物語にボブは触れる。プライドを失わないことが何より大事という教育が徹底しているアメリカで、神の前にひれ伏す気持ちが消えたらどういうことになるか。その現実を私たちは目の当たりしつつあるような気もするが、世俗化がもたらした心の空隙を埋める役を、ラヴソングが果たすことができるのか? それにはソングに対するどんな姿勢が必要か? 最後の文でディランが、そういうことを問うているのだろうか?
ONE OF THE REASONS PEOPLE TURN away from God is because religion is no longer in the fabric of their lives. It is presented as a thing that must be journeyed to as a chore—it’s Sunday, we have to go to church. Or, it is used as a weapon of threat by political nutjobs on either side of every argument. But religion used to be in the water we drank, the air we breathed. Songs of praise were as spine-tingling as, and in truth the basis of, songs of carnality. Miracles illuminated behavior and weren’t just spectacle.
It wasn’t always a seamless interaction. Supposedly, early readers of the Bible were disturbed by the harshness of God’s behavior against Job, but the prologue with God’s wager with Satan about Job’s piety in the face of continued testing, added later, makes it one of the most exciting and inspirational books of the Old or New Testament.
Context is everything. Helping people fit things into their lives is so much more effective than slamming them down their throats. Here’s another way to look at a love song.
人々が神から遠ざかってしまう理由のひとつは、宗教が生活の中に溶け込んでいないことです。宗教は、日曜日だから教会に行かなければならない、というように、面倒なこととして旅に出なければならないものとして提示されています。あるいは、あらゆる議論の両側で、政治的な狂信者たちが脅しの武器として使っているのです。しかし、かつての宗教は、私たちが飲む水や吸う空気の中にありました。賛美の歌は、背筋が凍るような、そして本当は肉欲の歌の基礎となるようなものでした。奇跡は行動を照らし出し、単なる見世物ではありませんでした。
それは、常にシームレスな相互作用だったわけではありません。おそらく、聖書の初期の読者は、ヨブに対する神の行動の厳しさに心を痛めていたと思われるが、試練に直面し続けるヨブの敬虔さについて神がサタンと賭けるプロローグは、後に追加され、旧・新約聖書の中で最も刺激的でインスピレーションを与える本の1つになっている。
文脈がすべてです。人々が自分の人生に物事を適合させるのを助けることは、喉から手が出るほど欲しいものよりもずっと効果的です。ラブソングのもう一つの見方があります。
リアルな状況の詰まった、自己崇拝ソングである。人と人との誤解と軋轢のソング。傾いだ関係にあるパートナー同士が互いをつつき合う。 どうでもいいことに時間とエネルギーを浪費する。構うべきでないことを構い、辛い思いに、受け身のまま、いつまでも引きずられるうたである。
☆☆☆
人が神に背を向ける理由の一つは、現代の宗教が生活の織り糸になっていないからだ。いまや宗教さえも、そこまで出かけて済ませる用事となった日曜だよ、ほら、教会へ行かなくちゃ。さもなくば、政争の場で両陣営のイカレタ連中が相手を脅すのにいつも持ち出す道具になった。 しかしかつて宗教は、われわれの飲む水の中、吸い込む空気の中にあったのだ。神をたたえる歌は、人々をワクワク、ゾクゾクさせた。実のところ、世俗のうたも、 賛美歌の基盤の上に誕生した。奇跡とは、ふるまい
に輝きを与えたもの。ただのスペクタクルではなかった。
聖なる世界との交わりには、戸惑いも付き物だ。その昔、聖書に書かれたヨブに対する神のふるまいの無慈悲さに、人々は心を乱したことだろう。だが、この話には前振りがあった。 ヨブに試練の連続を与えるのは、サタンとの賭けにおいてヨブの敬虔さを信じた神の行いであるという「序」の部分。これが後から付け加えられるに及んで、ヨブ記は、新約・旧約を通して最もエキサイティングでインスピレショナルな物語になったのだ。
文脈がすべてである。人々の暮らしの中に物事がうまく収まるよう手を貸す。その方が、無理やり喉から押し込むよりずっといい。そうした見地からラヴソングを見ていくこともできるだろう。
97
22■The Little White Cloud That Cried
泣いた小さなちぎれ雲──ジョニー・レイ
ジョニー・レイを忘れた人でも〈雨に歩けば〉のメロディには親しみがあるかもしれない。♪“Just walking in the rain...”プレスリーの〈ハウンド・ドッグ〉やプラターズの〈マイ・プレイヤー〉と英米のチャートを競い、日本の街角にもよく流れたメロディである。だが、50年代前半の少女を夢中にした、ジョニーの剝き出しの感情は、到来したロックの時代を生き抜くことはできなかった。
A面〈クライ〉B面〈ザ・リトル・ホワイト・クラウド・ザット・クライド〉のシングルは1951年発売の、ジョニー初のシングル盤。両面がヒットしたが、〈クライ〉の方はビルボード誌の1952年の年間チャートでも3位に入る、老舗のオーケー・レコードにしても画期的なヒットを記録した。“Crying”も“Tears”も日本における「涙の」も、流行歌の定番タイトルだったとはいえ、感情吐露の芸をジョニーほど煮詰めていったアーティストは稀だろう。
そして、ディランがわざわざピックアップして示した「泣き喚いたレコードたち」のリストがすごい。検索して聞き始めると、ロックンロール前夜のレコード文化が今とはまるで違っていたことを思い知らされる。リストの最初の(リトル・)トミー・ブラウンは、ザ・グリフィン・ブラザーズと歌った〈ウィーピン&クライン〉(リストの下から二つめ、1951)でR&B界の「泣き」の潮流に貢献した歌手。ロイド・プライスはプレスリーもレコーディングしている〈ローディ・ミス・クローディ〉(1952)で知られる。ビリー・ワード&ヒズ・ドミノスは、後にザ・ドリフターズを率いるクライド・マクファターを擁して1951年、〈シックスティ・ミニット・マン〉という、エッチな連想を刺激するうたを、全米チャートに送り込んだ。リトル・リチャードとプレスリーが登場する以前の、刺激を求めてくすぶる少年少女の心には、涙の刺激がお手頃な売り物になったということなのだろうか。
その時代に、感情一杯、上げ上げの歌唱で人気を得たジョニーは、続いて登場するプレスリーを始めとする、クールでセクシーでバイオレントな男の表象によってかき消されてしまった。だが彼の時代の、泣きの芸にも忘れがたきものがあると、本書に記録したディランのおかげで、ロスコー・ゴードンが大泣きするブルース(1952)まで、世界のみんなが、こうして楽しめるわけである。
なお103ページの写真は、1948年のニューヨーク、ブロードウェイのレコード店。当時のエマーソン・ラジオの画像など検索してみるのとまた面白い。泣き声のレコードを再生しながら、朝鮮戦争前後のアメリカを、想像の中で歩き回ってみるのも楽しそうだ。
23■El Paso
エルパソ──マーティ・ロビンズ
見たところ日本語版ウィキペディアには立項されていないマーティ・ロビンズが、いかに大物か、英語版を見るとわかる。「四つのディケードにわたって最も有名なカントリー&ウェスタンの一人であり続けた」と書いてある、歌手で俳優、マルチな楽器演奏、カーレース、いろいろこなした。美声の美男子、西部劇のヒーロー。この〈エル・パソ〉は1959年のビルボード、ホット100の1位になった曲で、これが収録されている『ガンファイター・バラッズ&トレイル・ソングズ』がやはりベストということになるのだろう。〈ビッグ・アイアン〉〈今夜の俺は縛り首〉〈ビリー・ザ・キッド〉など、西部劇全盛時代の端正な歌唱が続く。一般には、カントリー界の中軸のイメージがあり、彼との違いを打ち出すために、ウェイロン・ジェニングスやウィリー・ネルソンの、翳りのある、埃っぽい歌手像が生まれたとされる。しかしディランの読み込む〈エル・パソ〉は、そういう表面的な像とは別レベルにある。
英語に置き換えればEl PasoはThe Passである。「通り抜ける道」を原意に「峠」の意味合いで使う。ディランは「異世界への入り口」という意味も読み込んでいる。エル・パソの町の所属はテキサスだが、メキシコの町ホアレスと、ニューメキシコに接している。メキシコ系住民が圧倒的なこの町から100キロほど北には、ホワイトサンズのミサイル基地がある。第二次大戦後、ナチスドイツから運んできたV2ロケットの更なる開発実験を、フォン・ブラウン博士に続行させたところ。と同時にマンハッタン計画も進行し、そのまた北の砂漠には、人類史上初の原爆の爆心地(グラウンドゼロ)となったトリニティ・サイトのあるところ。
このエッセイでは死のイメージが何重にも塗り重なってくる。映画の記憶としては、1938年以来の、ロイ・ロジャーズ主演のカウボーイものが言及されるが、「悪魔のハイウェイ」につながるこの地では、西部の生を彩るすべてがついえる。アラブの色男(シーク)でも、南米のマッチョなカウボーイ(ガウチョ)でも、メキシコの闘牛のマタドールでもいられない。掟を破ったきみは死んでいく。それはもう決まっていること。このうたは運命を歌う。登場するのは人物も場所も出来事もすべて象徴だ。メキシコのカンティーナで、ローサと戯れる若者を撃ち殺し、馬を盗んで追っ手の銃弾を浴びる。そこにローサが表れる。最後のシーンは、ボブ自身が出演した『ビリー・ザ・キッド / 21才の生涯』に流れる〈天国への扉〉を思わせる。
しかしディランは、これは一つの物語ではない、というのだ。古代エジプト、メソポタミア、アステカ、ユダヤのホロコーストとも重なりあうのだと。歴史を抜けて、マジに神の生け贄となるレベルまで想像を深めさせる。とにかく乱射されるディランの言葉を、念じるように味わうしかないテクストである。 最後に、短編小説のように長くて、永遠の三拍子が続くこの曲の構造について、ディランが解説をつけている。余計にはみ出た「プレリュード」の部分が推進の役割を果たしているという。なるほどね。
24■Nelly Was a Lady
ネリー・ワズ・ア・レディー──アルヴィン・ヤングブラッド・ハート
1848年シエラ・ネバダに金鉱が発見されて、以後何年か、「フォーティナイナーズ」と呼ばれる発掘人が、文字通りの一攫千金を目指してカリフォルニアへ向かうゴールドラッシュに沸いた。彼ら金堀人に因んでよく歌われたのが、同じ1848年に楽譜出版された、スティーヴン・フォスター(1826-64)の〈おおスザンナ〉の替え歌である。──「俺ら、パンニング皿を膝に抱えて、カリフォルニアにいくんだ、黄金の屑を拝みにな」という歌詞をもつ。いや、ペリー提督の黒船に先立つ嘉永年間のアメリカを想像しようとして、本題から外れてしまった。
元歌は、黒人が「バンジョーを膝に抱えて、ルイジアナに行くんだ」という歌詞で、黒塗りの役者が演じる「ミンストレス・ショー」を通して社会に広まった。ポピュラーな演し物の公演を通して、ソングライターの書くうたが、人口に膾炙するという現象が、世界に先駆けて、ゴールドラッシュの時代のアメリカで起こったのである。これを、商業的なポピュラー音楽の始まりと見なすことができるだろう。
クリスティ・ミンストレルズという一座の座付きソングライターになったフォスターが、〈おおスザンナ〉や〈草競馬〉のような“黒人風”のダンス曲に織り交ぜた、沈鬱にメロディアスな曲がこれである。この後、書かれた〈故郷の人々〉は、歌い上げる要素の混じった望郷ソングで、このうたが、階級を超えて口ずさまれるようになり、中流家庭へのピアノの普及と相まって、アメリカに欠けていた国民レベルの音楽文化をもたらすに至る──いや、これはアメリカ音楽史の授業内容だ。
ディランが比較するエドガー・アラン・ポー(1809-49)は、フォスターより年長ながら、ほぼ同じ時代を生き、探偵小説、SF小説、怪奇小説といった、現代に通じるジャンルをアメリカに興した。片や庶民のメロディーで想像力豊かな世界を膨らませるフォスター、片や扇情的かつ気風の高い散文を一気に読ませる名手ポー──ヨーロッパ階級社会で発達する歌曲や文学とは異なるアートを19世紀半ばのアメリカで花開かせた特性が、一世紀以上経て活躍を始めたディランにまで、脈々と受け継がれてきたといっていいのだろうか? これを知るには大々的な研究を必要とする。
〈ネリー・ワズ・ア・レディー〉の悼ましさは、be動詞文の単純さと、wasの過去時制にある。わらべ歌のように単純なメロディは、密集和声の四重唱(バーバーショップ・ハーモニー)で膨らませるのにも最適で、長い年月歌い継がれてきた。ディランは本書のなかでも断トツに古いうたを、登場する中でおそらく最若手のアルヴィン・ヤングブラッド・ハートに歌わせる。1963年のカリフォルニアに生まれたハートは、ミシシッピー・デルタ・ブルースの伝統の実践者として出てきた男だ。名盤『ダウン・イン・ジ・アレー』(2002)で、チャーリー・パットン由来の野太いブルースを披露したハートは、ここでは余計な感情も力みもなく、マジな悲しみの歌をソロで歌いこなしている。
NELLY WAS A LADY lyrics words text STEPHEN FOSTER Nellie Was A Lady trending folk song sing along
NELLY WAS A LADY lyrics words text STEPHEN FOSTER Nellie Was A Lady trending folk song sing along
Down on the Mississippi floating,
Long time I travel on de way,
All night de cottonwood a toting,
Sing for my true love all de day.
Nelly was a lady,
Last night she died,
Toll de bell for lovely Nell,
My dark Virginny bride.
Now I'm unhappy, and I'm weeping,
Can't tote de cottonwood no more;
Last night, while Nelly was a sleeping,
Death came a knockin' at de door.
Nelly was a lady,
Last night she died,
Toll de bell for lovely Nell,
My dark Virginny bride.
When I saw my Nelly in de morning,
Smile till she opened up her eyes,
Seemed like de light of day a dawning,
Just 'fore de sun begin to rise.
Close by de margin of de water,
Where de lone weeping willow grows,
Dar lived Virginny's lovely daughter;
Dar she in death may find repose.
Nelly was a lady,
Last night she died,
Toll de bell for lovely Nell,
My dark Virginny bride.
Down in de meadow, 'mong de clover,
Walk with my Nelly by my side;
Now all dem happy days are over,
Farewell, my dark Virginny bride.
Nelly was a lady,
Last night she died,
Toll de bell for lovely Nell,
My dark Virginny bride.
Video & performance Copyright (c) 2016 by Charles E. Szabo
Stephen Collins Foster (July 4, 1826 – January 13, an American songwriter known for "Oh! Susanna", "Camptown Races", "Old Folks at Home", "My Old Kentucky Home", "Jeanie with the Light Brown Hair", "Old Black Joe", and "Beautiful Dreamer".
Charles Szabo is an American singer songwriter and educator who covers old songs to give them new life and performs his originals. 25■Cheaper to Keep Her
チーパー・トゥ・キープ・ハー──ジョニー・テイラー
「ソウル」といってもいろいろだ。本書は、モータウンから、テンプテーションズとエドウィン・スターの2曲のメッセージ・ソング。フィラデルフィア・ソウルからは〈二人の絆〉1曲、よりダウンホームなソウルの本場スタックスからのエントリーが、これである。ジョニー・テイラーは、1950年代半ばにゴスペル・グループにいた頃から(ポップに転向してサム・クックの後釜としてソウル・スターラーズのシンガーを務めたのが彼)、ブラック・ミュージックの広範な展開に貢献した。ストリートの叡知を知る男、とディランが敬意を払うのもうなずける。
keepの次にくる、弱い音節の「h」の音は脱落しがちなので、cheaperとkeep'erはきれいに韻を踏む。滑稽なほどに語呂のよいフレーズがバッチリだったのか、ブルース・ブラザーズが、1998年公開の続編映画(『ブルース・ブラザース2000』)で、いかにも楽しそうにこれを歌っていた。 しかしこのタイトル、1973年の黒人街でならともかく、現代そう大っぴらに口に出来る言葉ではない。「飼う(キープ)って何?」「安上がり、ですって?」反発が一斉に起こりそうだ。だが二度の離婚を経験したディランも引かない。(1977年にサラが離婚訴訟を起こしたときには、「結婚を終わらせようとする行為には制裁が必要だ」という発言をしたという。)ここではもう確信犯的というか、ほとんど意を決して、男の本音を吐露する芸に勤しんでいるかのようだ。
だがこのうたの歌詞自体は、実にクールだ。英語もやさしいし、生きる知恵を授けてくれる。
116ページの口絵は、ブロードウェイの問題作を映画化した『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966)を演じるエリザベス・テイラーとリチャード・バートン。120ページの「1-800-」はフリー・ダイヤル。アメリカのダイヤル電話には数字と一緒にアルファベットがついていて、無料の回線でDIVORCEと回すと、離婚弁護士のオフィスが面倒を見てくれるというしくみ。その前119ページにスペイン語と英語2カ国語で書かれているのは、メキシコの国境の町ティファナにある離婚事務所。かつてアメリカ人相手の中絶医療でも潤ったこの町、離婚ビジネスも盛んだったようである。
26■I Got A Woman
アイ・ガット・ア・ウーマン──レイ・チャールズ
ロックンロールの時代を画する出来事として、かつては〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉のヒットや、RCAからのプレスリーのメジャー・デビューが中心的に語られたが、それらに先立つ50年代前半のさまざまな出来事が重要で、その一つが、黒人のゴスペルの要素のR&Bへの流入である。サム・クックやアリサ・フランクリンに先立って、その動きを牽引したのがレイ・チャールズだったという点に異論はないだろう。アーメット・アーティガンが経営するアトランティック・レコードと契約して3年目、リリースしたこの曲〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉が、R&Bチャートの1位を射止める。歌詞は本文にある通り、ずいぶんと俗な感情を歌っているが、メロディは、サザン・トーンズのゴスペル曲〈イット・マスト・ビー・ジーザス〉とそっくりだと指摘されている。もちろん感情の掻き立て方が違う。いくらスピリットが盛り上がっても、それが肉感的な感情を抑えることのない、新しいポップ音楽の実践が始まったのだ。
“I got a woman, way over town”「町を通り抜けた向こう」と訳したが、マイアミには、Overtownと呼ばれる、歴史的な黒人居住区があるから「黒人街の奥深く」と解釈していいのかもしれない。ラヴィン・スプーンフルの〈サマー・インザ・シティ〉(1966)に「マッチヘッドより熱い舗道」というラインがあって、それも借用されている。マイアミでなくてもいいが、とにかくムッとする真夏の都市の雰囲気を味わいたい。
メジャー・デビュー曲〈ハートブレイク・ホテル〉をナッシュヴィルで吹き込んだとき、プレスリーはこれも吹き込み、シングル盤にしている。ステージでもよく演奏した。そんなこんなで、中学生のディランの記憶に残るうただったのだろう。(一緒に載せている男性向けパルプマガジンの扇情的な表紙も、同時期の刺激的な記憶なのかもしれない。そのあたりの事情は、同学年のジョン・レノンもきっと同じだ。1963年のBBCテレビにビートルズが出演したとき、ジョンが〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉を歌っている。)
レイのレコードをテナーサックスで守り立てるデヴィッド・“ファットヘッド”・ニューマンもファンは多いだろう。125ページの写真は、〈ホワッド・アイ・セイ〉等でレイのバックコーラスをつけているレイレッツ。
27■CIA Man
CIAマン──ザ・ファッグス
ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)という、当時の耳にとても「奇妙な」アルバムを出した頃、もっとすごいのがいるんだとよく紹介されたのが、西海岸のマザーズ・オブ・インヴェンションであり、ニューヨークのザ・ファッグスだった。音楽の才人フランク・ザッパの率いる前者とは対称的に、ザ・ファッグスは、ビート詩人で活動家のトゥリ・カッファーバーグと若手の仲間エド・サンダースを中心に作られたコンセプチュアルなグループで、体制をおちょくるパフォーマンスが見事だった。中でも有名なのは、ペンタゴンへのヴェトナム反戦デモで行った「悪霊払い」で、これについてはノーマン・メイラーがノンフィクション小説『夜の軍隊』で詳述しており、その音源(吟唱)も、〈Exorcising the Evil Spirits from the Pentagon OCT. 21, 1967〉のタイトルで出回っている。
ディランもこういううたを相手にすると上機嫌になるのだろう。ジョニー・リヴァースの〈シークレット・エージェント・マン〉のB面にしたらよかったとか軽口を飛ばしている。(こちらはジャニーズ系のアーティストが今も歌い継いでいる、ギターリフがかっこいい、60年代のエレキ・ポップのナンバーだ) ファッグスは汚くて可笑しくて、アングラな世界に常住する。その魅力が英語の語感に頼るところが大きく、ハードルが高いのは事実だが、〈ジョニー・ピスオフ・ミーツ・レッド・エンジェル〉も〈スラム・ゴッデス〉もその味わいは伝わるだろう。〈コカコーラ・ドゥーシュ〉の歌詞は、このドリンクでの洗浄が緊急避妊に効くという都市伝説を知らなくても、十分にオモシロ嫌らしい。ヴィレッジにディランが出てきた頃はディランもビート的感性をもっていろいろと猥雑なうたを試しており、〈ジョン・バーチの狂信を語るブルース〉とか〈ボブ・ディランのニューヨーク・ラグ〉とか、一歩言葉を踏み外せば、ファッグスの世界に陥りそうな作品も書いていた。
129ページの身分証明書は、アレン・W・ダラスCIA長官(1953-61)のもの。彼の実兄がアイゼンハワー政権の国務長官ジョン・フォスター・ダレスで、どちらの人物もリベラルなアメリカ人からすれば、アメリカ史の汚点と見なされる。
28■On the Street Where You Live
君住む街角──ヴィック・ダモーン
イタリアから若くしてやってきた、ピア・アンジェリがまだ10代で戦争花嫁を演じた『テレサ』(1951)をボブ少年はスクリーンで見ていただろうか。シナトラに惹かれて歌い始め、ペリー・コモに認められて歌手として独り立ちしたヴィック・ダモーンはそのときすでに、エド・サリヴァン・ショーのゲストもこなすほどの人気があった。二人の結婚は1954年11月。その前、初の主演に抜擢された映画『エデンの東』の撮影中に、ジェイムズ・ディーンが(別の映画を撮影中の)ピアに恋したというのは本当らしい。ピアとヴィックの結婚式の教会の外で、オートバイにまたがったJDが目撃されたというのも、ただの都市伝説ではないらしい。『エデンの東』(1955)で一躍スターになった彼は、同年『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』を撮影して、9月、カリフォルニアの平原で衝突事故死する。
ヴィックの「君住む街角」を語り直すディランの筆致はことさら意地悪い。“All at once am I / Several stories high”(突如わたしは、数階の高さへ舞い上がる)という歌詞を、文字通りに解釈してコミックアニメにしてしまう。彼を打ち上げる「クラウドバスター」とは、マッド・サイエンティストの風貌を持つ精神分析家ヴィルヘルム・ライヒの提唱したもので、性エネルギー(オルゴン)を利用して気象をコントロールできるのだそうだ(詳細はネット検索で)。
ディランはこのうたの韻のつけ方までコメントを挟んでいるが、作詞作曲のコンビ、ラーナー&ロウは、全盛期アメリカ・ミュージカルを代表するコンビの一つで、『マイ・フェア・レディ』(舞台1956、映画1964)の楽曲も、彼らの手による。
29■Truckin'
トラッキン──グレイトフル・デッド
60年代を共に歩んだミュージシャンのエントリーが本書にはほとんどない──ザ・バーズもザ・バンドもない──中で、アメリカのロックバンドとしてほとんど唯一、賛美の対象として引っ張り出されるのがグレイトフル・デッドである。(オールマン・ブラザーズやイーグルスやサンタナの曲も登場するけれども、バンド自体についての言及はない)。
グレイトフル・デッドの名で最初にプレイしたのは、ケン・キージーとメリー・プランクスターズによる「アシッド・テスト」と呼ばれる、一般に開かれたLSDパーティの会場で、以来デッドには、ヒッピー文化の火付け役としてのイメージがつきまとったが、60年半ばにサンフランシスコに結集した他のサイケデリック・グループとは、音楽性の質もレベルも違っていたというのがディランの見立てだ。 作曲家でクラリネット奏者アーティ・ショウのバンドは戦前・戦中・戦後を通して、アメリカを踊らせた。(ピンチョンの小説『ヴァインランド』に、ハワイから帰国した海軍兵と左翼系闘士の娘が踊り明かし、生まれた子をショウのヒット曲にちなんで「フレネシ」と名付けるという一節があった。)
言及される、コーエン兄弟の『オー・ブラザー!』の中でも美しい川辺のシーンも、〈Down in (to) the River to Pray〉の曲名で鑑賞できる。この映画でフィーチャーされる〈マン・オブ・コンスタント・ソロー〉は、ディランがデビュー・アルバムで歌っていた。デッドのメンバーとルーツ音楽の関係は古く、深い。それを知るディランは、トリップス・フェスティバル(1966)やモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967)で売り出された、ジェファーソン・エアプレインを始めとするグループと差異化している。 ドラマーのビル・クロイツマンが比べられているエルヴィン・ジョーンズは60年代前半にジョン・コルトレーン・カルテットのドラマーとして知られたジャズ界の大物。ジェリー・ガルシアのリード・ギターを形容するのに、ジャズのチャーリー・クリスチャンと、カントリーのドク・ワトソンを同時にもってくるあたりは、このバンドの学際的ならぬ「楽際的」なありようとディランが愛でているところだ。念のため言い添えれば、ディランとデッドとは一時期一緒にツアーをやり『ディラン&ザ・デッド』(1989)というアルバムも出している。ディランのアルバム『トゥゲザー・スルー・ライフ』(2009)は、1曲を除いてすべて、デッドのソングライター、ロバート・ハンターとの共作である。
この〈トラッキン〉という曲は1970年のアルバム『アメリカン・ビューティ』に入っている。三人の中心メンバーにロバート・ハンターを加えてみんなで作った。彼ら自身の長いロードの経験をみんなして放り込んだようなうたで、題名のtruckin'はKeep on trucking(辛抱強く続けよ)の意味。その後に「ドゥーダー・マンのように」と続くが、これはフォスターの〈草競馬〉からの引用──「オイラは帽子をへこませて、ドゥーダー・ドゥーダー」というあれである。オリジナルは19世紀半ばのミンストレル・ショーで、黒人訛りで歌われた。ディランが読み取っているように、そこには歴史を超えて脈々と流れるアメリカのアメリカ性がある。「シカゴもニューヨークもデトロイトも、どこも同じストリート」という歌詞が、初期ソウルの名曲〈ダンシング・イン・ザ・ストリート〉の「シカゴでも踊る、ニューオーリンズでも踊る」と似て非なるものであるという点は、なるほど重要だ。
アメリカのストリートについてはディランも歌ってきた。リアルで惨めな人間たちの住む〈荒れ果てた通り / Desolation Row〉があり、名門女子大生が落ちぶれてさ迷い込む〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉のストリートがあり。恋に憑かれて歩き続ける〈ラヴ・シック〉のストリートがあった。ここでデッドが歌うのは、かつて、映画館のひさしが輝き、道の両側に多くの個人経営のショップが並んでいたメインストリートである。「ダラスにはソフト・マシーンがある」という歌詞からは、ビート作家ウィリアム・バロウズの小説の危険な香りがある。コーラスとヴァースが交叉する歌詞の三つめのヴァースで、「スイート・ジェイン」とあるのはマリファナのこと。デッドもその中心にいたドラッグ・カルチャーのことがここで歌われている。次には逮捕された経験も歌われている。フィル・レッシュのベースが曲を前に進めているというのは本当だ。賑やかだがクールなうたである。
映画「オー・ブラザー!」予告編
Siren Song - Didn't Leave Nobody but the Baby | O Brother, Where Art Tho...
30■Ruby, Are You Mad?
ルビー、怒ったのか?──オズボーン・ブラザーズ
ある年齢層の人は覚えているだろう、1963年11月のケネディ大統領暗殺の2日後、射殺犯として逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドが警察管内で、メディアのカメラの並ぶ中、ジャック・ルビーによって撃ち殺された。142ページはジャック・ルビーの写真である。
もちろん、このうた、ケネディ暗殺とは何の関係もない。
ボビー(高音ボーカル、マンドリン)とソニー(バンジョー)のオズボーン兄弟が中心となって結成されたオスボーン・ブラザーズ。1953年から半世紀を超えてブルーグラスを歌い続けた。ブルーグラスは、ジャズ感覚が入り込んでルーツ志向を強めたカントリーの音楽で、1940年代にビル・モンローが創始し、バンジョー奏者のアール・スクラッグズがマンドリニストのレスター・フラットと共に快速奏法を確立。ディランがヘビーメタルに喩えるスタイルを突き進んだオズボーン・ブラザーズは、後を受けてピアノプログレッシブ路線を進む。電気楽器を入れ、ピアノ、スチールギター、ドラムを取り入れる。そうやってカントリー・ファンに食い込み、グランド・オール・オープリの常連の地位に長く留まった。1967年のヒット曲〈ロッキー・トップ〉はテネシー州歌の一つに数えられている。
ルビーという名の女性の名は、たしかにあまり聞かない。〈ルビー・マイ・ディア〉はセロニアス・モンクの曲(ピンチョンの小説『V.』に出てくるパオラが、オーネット・コールマンを思わせる登場人物マクリンティック・スフィアの女になってルビーと呼ばれるのは、この曲の影響か)。〈ルビー・チューズデイ〉はご存じローリング・ストーンズのメロディアスなバラード。〈ルビー・ベイビー〉はザ・ドリフターズが歌った60年代初頭のポップ曲だ。
ディランは最高級の賛辞を、この高出力のブルーグラス・バンドに送っている。 ヘビーメタルのレジェンドとして名が挙がる二人。ロニー・ジェイムズ・ディオはレインボー、ブラック・サバスを経て、80年代以後にみずからの名を冠したバンド、ディオを率いたボーカリスト。イングウェイ・マルムスティーンはスウェーデンの超絶ギタリスト。彼らのヘビメタ美学に近いものを、オズボーン・ブラザーズが持っているかどうか、上記のライヴ演奏を聴いて確かめてほしい。
31■Old Violin
オールド・バイオリン──ジョニー・ペイチェックズ
アメリカ音楽を底で支えた楽器といえば、バンジョーとバイオリン(フィドル)である。オズボーン・ブラザーズに続いて〈オールド・バイオリン〉が並べられた。
“ジョニー・ペイチェック”の物語は本文で雄弁に語られている。ジョージ・ジョーンズやウェイロン・ジェニングスに注釈を入れるのは野暮だが、タミー・ワイネットがジョージ・ジョーンズの妻で「夫に挺身する妻」の歌としてフェミニストの間で悪名高い〈スタンド・バイ・ユア・サイド〉を60年代の大ヒットにした歌手だということを、日本で知る人は少ない。そういう自分も、タミーの歌う〈アパートメント#9〉も、ジョニー自身が歌う〈ごめんなさいよ、おれ、人を一人殺すんで / (Pardon Me) I've Got Someone to Kill〉も、聴いたことがなかった。 1977年に彼が歌ってヒットした〈こんな仕事、辞めてやる / Take This Job and Shove It)は、よければ音源を鳴らしてみたい。
この歌と同名の映画が後に作られ、作者のデヴィッド・アラン・コーと共にジョニーも端役で出演した。15年同じ職場で働いてきたが、もうコリゴリだと啖呵を切って溜飲を下げる歌である。
ドク・ポーマスのエピソードも出てくる。本書が捧げられている相手だ。彼の書いた〈ラストダンスは私に〉、ザ・ドリフターズの持ち歌だが、日本では越路吹雪の歌唱で記憶している人が多いだろうか。「貴方の好きな人と踊ってらしていいわ」という訳詞は、この歌を書いたときのドクの気持ちがまるで反映されない。だがそんなものは反映されないほうがよい、とボブはいう。
32■Volare(Nel blu, dipinto di blu)
ヴォラーレ──ドメニコ・モドゥーニョ
ジプシー・キングスの版が1980年代の日本でもよくかかった。宣伝にも使われた。松崎しげるバージョンもあった。ドメニコ・モドゥーニョのは、昭和33年。テレビが普及する前ラジオで聴いた記憶があるが、はて、誰がカバーしていたのだろう。
〈ビー・マイ・ベイビー〉がこの本のどこかに出てきてほしいと願っていたが、ここに出てきた。弘田三枝子バージョンでいうなら「いつまでもおお」の後「ウォー・ウォー・ウォー・ウォー」が、〈ヴォラーレ〉からの借用だというのだ。そうかも。 Volareは「飛べ」。Cantareは「歌え」。正式な題名は、“Nel blu, dipinto di blu”で、直訳すると「青く塗られた青の中へ」となる。先に触れたピンチョンの小説『ヴァインランド』で、ヒッピー男のゾイドが、フレネシの目の青さを、この〈ヴォラーレ〉のフレーズで形容するところがある。ディランが「サイケデリックな幻覚ソングの第一号」という感覚は、それと符合する。すべての限界を突き破って幻想に舞い上がる。
飛翔幻想の中で、眼下に置いてきぼりを食らわせる連中(第三パラグラフ)のことを「物知り顔で裁定し、徒党を組んで争う連中」に当たる原語は“the connoisseurs, the judges and cliques”。ディランはよくよく、自分の専門家を気取る「ディラノロジスト」につきまとわれた。額を寄せ合ってテクストの解釈に勤しむ、大空を飛べない人たちを、こういう文中に放り込んで楽しんでいるのか。 60年代の幻覚ソングの代表として比較されるジェファーソン・エアプレインの〈ホワイト・ラビット〉は、1967年のアルバム『シュールリアリスティック・ピロウ』中のうた。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくる幻覚キノコ等のモチーフを膨らませたうたであることも手伝って、今も認知度は高い。
157ページの『サンダーバード』は、日本でも放映していたイギリスの人形劇(スーパーマリオネーション)の傑作。もっと早い時期に日本製の『宇宙船シリカ』という連続マリオネットがあったが、こちらの認知度は高くないかもしれない。
33■London Calling
ロンドン・コーリング──ザ・クラッシュ
本書にニューヨーク・パンクからの選曲はなくて(ファッグスは別格)、ロンドンからもセックス・ピストルズではなく、クラッシュが選ばれた。攻撃性とは違う、逼迫した、デスパレートな感性が、ディランの美学に合うのだろう。
1976年に結成されたクラッシュは、「衝突」というグループ名とは裏腹に、80年代へと生き延びた。〈ロンドン・コーリング〉は1979年の同名のアルバムに入っており、このアルバムは「ローリングストーン」誌が選んだ同年の最優秀アルバムに──ニール・ヤングの『ラスト・ネヴァー・スリープス』等を抑えて──選ばれた。
〈英国は振り子のようにスイングする〉という1965年のハッピーな曲が引かれているのは、〈ロンドン・コーリング〉の歌詞に「俺たちにもうスイングはない」という一行があるから。ビートルズのことも、ディランが率先して貶めているわけではなく、「偽りのビートル熱はくたばった」という歌詞に便乗してのこと。
同じ川でも大陸の真ん中を、文明と荒野の境を滔々と流れるミシシッピー川は、ロンドンのテムズとは対称的だ。“live by the river”というフレーズから、アメリカ人が想うのは、たとえばマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』である。ミシシッピー川は文明の汚れを押し流し、文明の手の届かない彼方の地へと運んでくれる。この「彼方」への信仰がアメリカには、少なくともカウンターカルチャーの時代までは根付いていた。
Roger Miller - England Swings (1964) 4K
[160頁で電話しているジュリー・ロンドンの写真が使われるのはロンドンに引っ掛けたギャグ?]
Julie London Lonely girl
[ジュリー・ロンドンと言えば以下にも出演していた]
The Girl Can't Help It (1956) - Trailer - Frank Tashlin
後編(34-66)はこちら↓
『ソングの哲学』ボブ・ディラン 著、佐藤良明 訳
ボブ・ディランの『ソングの哲学』に収められた66曲は、現代日本の読者に必ずしもなじみのある曲ばかりではありません。ふつうなら訳注が入るところも、版面の制限や契約の条件等により注釈や解説を載せることができませんでした。英語圏の読者なら、歌を聴くだけで通じることが、言葉の壁で通じないというのではもったいないと、訳者・佐藤良明さんが発憤し、各曲の、かなり本格的な解説を書いてくださいました。クリックすればうたが鳴り出す動画リンクと共に、ここに掲載します。
前編(00-33)はこちら
34■Your Cheatin' Heart
ユア・チーティン・ハート──ハンク・ウィリアムズwithドリフティング・カウボーイズ
欺かれた男が、欺いた女のハートを恨んで歌う。「おまえの欺くハートが、おまえを眠らせるまい」と。そのハートは「おまえの本性を明かすだろう」と。
正確なギター・ストロークと単純な音程で、ディープな心情を、アンチモダンな鼻に掛けた声で歌う。戦後間もなくのラジオの時代、声と、歌詞と、細身の容貌と、謎めいた表情でファンを「落として」いった。ボビー・ソックスを穿いた都会の女の子たちがフランク・シナトラに熱烈に惹かれていったのとほぼ同時期、アラバマから出てきてナッシュヴィルを制したハンクの歌声は、南部、中西部、西部からカナダにかけて、広大な大陸に住む農業や鉱工業の従事者とその家族を魅了した。ミネソタ州の小さな都市の中流家庭に育ったボブ少年のもとには、ポップとカントリーの両方の音楽が届いていただろう。パティ・ペイジの〈ワンワン・ワルツ〉は、原題が“(How Much Is) That Doggie in the Window?”といって、ショー・ウィンドーで売っているあの子犬、いくらかしら(ワン・ワン!)という、イノセントな50年代のヒット曲としても特別にカマトトな歌なのだが、これがリリースされた53年1月には、公演に向かう途中のアパラチア山中の車の中で、ハンク・ウィリアムズが心臓麻痺で死んだとのニュースが流れた。〈ユア・チーティン・ハート〉は、そのニュースの余波のなかで発売され、全米レベルでも話題となった。
すでに1951年〈コールド・コールド・ハート〉がトニー・ベネットによってカバーされていたから、ハンクのうたの訴求力は全米レベルに届いてはいたわけだ。田舎と都会との混交が進む時代、アメリカ人の心は、国民的な「ふるさと」を求める方向に振れていた。そんななかで、素朴でリアルな心をさらけ出すハンク・ウィリアムズのうたが浸透していったのかもしれない。 ただ、その頃のヒット曲で考えると、ハンク自身は「田舎臭」が強すぎた。ピート・シーガーが編曲し、ウィーバーズの面々と、清浄なハーモニーで歌う古謡〈オン・トップ・オブ・オールド・スモーキー〉くらいがちょうどよく、こちらは1951年の全米ヒットになった。これを「おばあさんに教わった」としてハンク・ウィリアムズと彼のグループが歌ったバージョンがあって、ネットにアップされている。どちらが上手いか、どちらが本物か、ディランは読者に問いかける。そこから論理は興味深い飛躍を見せて、〈ワンワン・ワルツ〉を歌わせたって、ハンクは天下一品である、となる。
田舎のフォークを体現する点でピート・シーガーより「本物」のウディ・ガスリーにディランが惹かれて歌い始めるのは大学生になってから。それ以前にボブ少年に入ってきた音楽で、決定的だったのは、リトル・リチャード、プレスリー、それにハンク・ウィリアムズだったというのが定説である。
写真の通りは、マンハッタン6番街、43番と44番ストリートの間。1948年の撮影である。
Patti Page - How Much Is That Doggie In The Window
35■Blue Bayou
ブルー・バイユー──ロイ・オービソン
アメリカ南東部の低地では、平たい土地を川が停滞しながら流れるところが「バイユー」と呼ばれる鬱蒼とした湖沼地帯になる。ポップソングの世界でも、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルが自らは西海岸出身であるにもかかわらず〈ボーン・オン・ザ・バイユー〉を歌って、「 湖沼 ( スワンプ ) ロック」というジャンルの存在を知らしめた。
それに先立つ時代に、バイユーをロマンチックな郷愁の里にしたこの歌は、オーストラリアとアイルランドではナンバー1を記録している。“I'm going back someday...”の高音が響くサビのメロディとハーモニーはどこかしら地中海的だ。ロイは1961年、ロイヤル・フィルハーモニー楽団をバックにした〈ランニング・スケアード」のカンツォーネ風の熱唱で、ビルボードの1位を獲得している。
だがこの曲を、1977年のビッグ・ヒットにしたのはリンダ・ロンシュタットのバージョンだった。彼女はこの曲のスペイン語版〈Lago Azul〉も出しており、現在でも認知度は彼女のバージョンの方が高いかもしれない。
Creedence Clearwater Revival - Born On The Bayou (Official Lyric Video)
Creedence Clearwater Revival - Born On The Bayou
Linda Ronstadt - Blue Bayou (Official Music Video)
36■Midnight Rider
ミッドナイト・ライダー──オールマン・ブラザーズ・バンド
ジョージア州メイコン出身のデュアン(ギター)とグレッグ(ボーカル)のオールマン兄弟を中心に1969年に結成されたオールマン・ブラザーズ・バンドは、カントリーやソウルの要素をブレンドしたサザン・ロックの雄と評される。その音楽性の幅広さゆえか、二枚目のアルバム『アイドルワイルド・サウス』からカットされたこの曲も、レゲエのポール・デイヴィッドソンからカントリーのウィリー・ネルソンまで、広くカバーされた。
だが「真夜中の騎行」と聞けば、アメリカ人はみな独立戦争の英雄ポール・リヴィアを思い浮かべる。イギリス軍を監視してその情報を伝令として運んだ、ボストンの銀細工師である。
Libertyの文字もまぶしい一ドル硬貨は「シルバーダラーが俺にはまだ一枚ある」という歌詞による。このうたを、政治の腐敗を救う正義のライダーの歌として読むディランの解釈は「ミッドナイト・ライダー」を敷衍して、アメリカ史のさまざまな時期に現れた世直し運動と結びつけるものであるようだ。「進歩党」は1912年、タフト政権による所得税導入に反対して結党した。「ホイッグ党」は、アンドリュー・ジャクソン政権に対抗する政治家ヘンリー・クレイを中心に結集した政党。1830年代から50年代にかけて、大統領選に勝利するなど進歩勢力を結集する力を保った。
174ページの絵画は、19世紀の画家ウィリアム・ジョン・ウィルガス作。物語作家ワシントン・アーヴィングの作品「スリーピー・ホロウの伝説」の主人公イカボッド・クレーンを描いたものとされる。
37■Blue Suede Shoes
ブルー・スエード・シューズ──カール・パーキンス
ジム・ジャームッシュ監督『ミステリー・トレイン』(1989)の第一話で、エルヴィスに憧れる工藤夕貴に対し、永瀬正敏が「おれはカール・パーキンス」と主張する。RCAに移籍したエルヴィスが最初に放ったヒット〈ハートブレイク・ホテル〉に対し、サン・スタジオのパーキンスは自作の〈ブルー・スエード・シューズ〉で対抗、全米チャートでもカントリー部門でもR&B部門でも1位2位を争い、ゆくゆくはミリオンセラーを記録する(ちなみにB面は、ビートルズが、リンゴのボーカルでカバーした〈ハニー・ドント〉)。
プレスリーのバージョンは、1956年3月に発売された彼の最初のLPレコード『エルヴィス・プレスリー』の1曲目を飾る。(このアルバムには〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉も〈トゥッティ・フルッティ〉も〈ブルー・ムーン〉も〈マネー・ハニー〉も、本書で論じられる曲が5曲も入っていた!) 〈テネシー〉の歌詞に入っているという原子爆弾のくだりだが、ノックスヴィルに近いオーク・リッジに1942年、マンハッタン計画推進のための施設が造られた。その跡地はいま、学校の生徒向けの見学コースとなっている。比較されるチャック・ベリーの〈プロミスト・ランド〉は州名を並べるコンセプトは一緒でも、内向きの故郷愛はまるでない。外に向けて疾走している。それがなければロックじゃない。
列挙されている靴のうた、英語タイトルはこちら。
Ray Price, “My Shoes Keep Walking Back to You” 1957
Bobby Freeman, “Betty Lou Got a New Pair of Shoes” 1958
Chuck Willis, “Hung Up My Rock 'n' Roll Shoes” 1958
The Drifters, “I've Got Sand in My Shoes” 1964
Sugar Pie DeSanto, “Slip-In Mules (No High-Heel Sneakers)” 1964
Bill Anderson, “Nail My Shoes to the Floor” 1966
Run DMC, “My Adidas” 1986
その他、トム・ウェイツの“Red Shoes by the Drugstore”と、レイ・ボルジャーの“The Old Soft Shoe”も言及されている。
38■My Prayer
マイ・プレイヤー──ザ・プラターズ
グレン・ミラー楽団の1939年のヒット・レコード〈マイ・プレイヤー〉には、ダンス曲らしく「フォックストロット」と刷られている。70秒後にレイ・エバリーの歌唱が入る。ドゥーワップに先んじてメローなハーモニースタイルを確立した黒人ポップ・グループ、インク・スポッツ(メインボーカル:ビル・ケニー)の歌うバージョン(1939)もいい。
1962年生まれのガース・ブルックスは、ポップ・ロック時代のカントリー音楽のマーケットを大幅に広げた立役者(彼のレコード総売上枚数はビートルズに次ぎ、プレスリーを凌ぐ)。〈届かぬ祈り / Unanswered Prayer〉(1994)は「実は届いていた」祈りについてのうた。高校のとき、この子と一緒になれるようにと神に祈った、神様は聞こえていないふりをして祈りを叶えてくれていた、それに気づいて敬虔な思いになるうたである。
インク・スポッツの滑らかなポップ路線を受け継ぐプラターズの全盛期は、ロックンロール黎明期から50年代の終わりまで。この間、トニー・ウィリアムズをリード・ボーカルに、〈オンリー・ユー〉(1955)を皮切りに、〈グレイト・プリテンダー〉〈マイ・プレイヤー〉〈トワイライト・ダイム〉〈煙が目にしみる〉などのビッグ・ヒットが生まれた。黒人ソウル歌手としては、ゴスペルグループのソウル・スターラーズから転身して、世俗のうた〈ユー・センド・ミー〉(1957)をヒットさせたサム・クックが開拓者のように語られるが、先輩格のトニーの歌声を聴け、というのが、ここでのディランの教えである。
182ページの絵は、19世紀のギリシャの画家ゲオルギオス・マルガリティスの『アフロディーテに祈るサッフォー』。古代ギリシャ、レスボス島の詩人サッフォー(サッポー)の作品として、珍しく完全な形で残っている「アフロディーテへのオード」をテーマにした。次に跪いて手を合わせているのがザ・プラターズのトニー・ウィリアムズ、その次、感謝祭の七面鳥らしきものを前に祈っているのは、絵に描いたような1950年代の家族の写真である。
クラシック曲に基づいたポップソングの中で、〈オール・バイ・マイセルフ〉と〈恋にノータッチ / Never Gonna Fall in Love Again〉は、エリック・カルメンのデビュー・アルバム(1975)に入っていた。バッハ原曲の〈アメリカの歌 / American Tune〉は、本書のここで初めて言及されるサイモン&ガーファンクルのレコード(本文の誤記をお詫びします)。フィル・コリンズのカバーがよく知られている〈恋はごきげん / Groovy Kind of Love〉は、groovyという言葉が流行語だった1965年に歌詞が書かれ、ダイアン&アニタの二人組がレコーディングしたのが最初。〈好きにならずにいられない〉は映画『ブルー・ハワイ』(1961)で歌われたプレスリー・ソングで、ディラン自身を含め、多数のカバーがある。
Here are some other pop songs based on classical melodies:
“All by Myself”: based on the second movement of Sergei Rachmaninoff’s Piano Concerto No. 2 in C Minor, op. 18.
Eric Carmen - All by Myself (Audio)
Eric Carmen "All By Myself" ripped off Rachmaninoff Piano Concerto no.2 ...
“American Tune”: based on a melody line from a chorale from J. S. Bach’s St. Matthew Passion, heard in part 1, numbers 21 and 23, and in part 2, number 54. Bach’s version was itself a reworking of Hans Leo Hassler’s “Mein G’müt ist mir verwirret.”
【和訳付き】American Tune/Paul Simon
“Can’t Help Falling in Love”: based on “Plaisir d’amour” (1784), a popular romance by Jean-Paul-Égide Martini.
Plaisir D'amour (Jean-Paul-Égide Martini) Classical | Piano/Violin Cover
ELVIS PRESLEY - CAN'T HELP FALLING IN LOVE
“A Groovy Kind of Love”: based on the Rondo movement of Muzio Clementi’s Sonatina in G Major, op. 36, no. 5.
David Garrett - "A Groovy Kind Of Love" based on Sonatina in G Major Op....
Phil Collins - A Groovy Kind Of Love (Official Music Video)
“Never Gonna Fall in Love Again”: based on the third movement of Sergei Rachmaninoff’s Symphony No. 2 in E Minor, op. 27.
Never gonna fall in love again [日本語訳付き] エリック・カルメン
“Stranger in Paradise”: based on Alexander Borodin’s “Gliding Dance of the Maidens,” from the Polovtsian Dances in the opera Prince Igor.
Tony Bennett - stranger in paradise
Borodin - Polovtsian - Dance No 17 - Dance the Maidens
“Catch a Falling Star”: based on a theme from Johannes Brahms’s Academic Festival Overture.
Brahms - Academic Festival Overture, Op 80 - Järvi
4:20~
https://en.wikipedia.org/wiki/Academic_Festival_Overture
The song "Catch a Falling Star", made famous by Perry Como, was based on the third melody in the final movement, just before the "Gaudeamus igitur". The final melody provides the tune for Greenleaf High School's school song in the 1997 movie In and Out.
☆☆☆
Here are some pop songs with English lyrics based on foreign melodies:“Autumn Leaves”: originally a French song, “Les feuilles mortes” (“The Dead Leaves”), with music by Hungarian-French composer Joseph Kosma and lyrics by poet Jacques Prévert. Yves Montand and Irène Joachim debuted the song in Les portes de la nuit (1946).
“Beyond the Sea”: originally a French song, “La mer” (“The Sea”), by Charles Trenet. Roland Gerbeau made the first recording in 1945; Trenet recorded it in 1946.
“Cherry Pink and Apple Blossom White”: originally a French song, “Cerisiers roses et pommiers blancs,” with music by Louiguy and words by Jacques Larue. The song was first recorded by André Claveau in 1950.
“Feelings”: originally a French song, “Pour toi” (“For You”), with music by Louis “Loulou” Gasté and words by Albert Simonin and Marie-Hélène Bourquin. Dario Moreno debuted the song in the film Le feu aux poudres (1957).
“The Good Life”: originally a French song, “La belle vie,” with music by Sacha Distel; included in the film Les septs péchés capitaux (1962).
“I Wish You Love”: originally a French song, “Que reste-t-il de nos amours?” (“What Remains of Our Love?”), with music by Léo Chauliac and Charles Trenet and words by Charles Trenet. The song was first recorded by Trenet in 1943.
“If You Go Away”: originally a French song, “Ne me quitte pas,” with music and words by Jacques Brel. The song was first recorded by Brel in 1959.
“Let It Be Me”: originally a French song, “Je t’appartiens,” with music by Gilbert Bécaud and words by Pierre Delanoë. The song was first recorded by Bécaud in 1955.
“My Way”: originally a French song, “Comme d’habitude” (“As Usual”), with music by Claude François and Jacques Revaux and words by Claude François and Gilles Thibaut. The song was first recorded by François and released in 1967.
“What Now, My Love?”: originally a French song, “Et maintenant” (“And Now”), with music by Gilbert Bécaud and words by Pierre Delanoë. The song was first recorded by Bécaud in 1961.
“Yesterday, When I Was Young”: originally a French song, “Hier encore” (“Only Yesterday”), with music and words by Charles Aznavour. The song was first recorded by Aznavour in 1964.
“Sukiyaki”: originally a Japanese song, “Ue o muite arukō,” with music by Hachidai Nakamura and words by Rokusuke Ei. The song was first recorded by Kyu Sakamoto in 1961.
Bobby Vee - Sukiyaki
Look at the sky as you walk through life
So the tears won't overflow your heart
As you remember the spring day so bright
On this lonely lonely night
Look at the sky when you walk through life
See how the stars flow away your tears flown
As you remember the summer day so bright
On this lonely lonely night
Happiness may seem just out of sight
Beyond on the clouds try as we might
Look at the sky when you walk through life
So the tears won't overflow your heart
As we cry our way down the street
On this lonely lonely night
As you remember autumn day so bright
On this lonely lonely night
Sadness is something we find out too soon
There in the stars and the shadow of the moon
Look at the sky when you walk through life
So the tears won't overflow your heart
As we cry in our winter day
On this lonely lonely night
On this lonely lonely night
Look at the sky when you
Walk through life
On this lonely night
Sukiyaki (Ue o Muite Arukou) - Kyu Sakamoto (English Translation and Lyr...
“Answer Me”: originally a German song, “Mütterlein,” with music and words by Gerhard Winkler and Fred Rauch. First recorded by Leila Negra and the Vienna Children’s Choir in 1952.
“A Day in the Life of a Fool”: originally a Brazilian song, “Manhã de Carnaval” (“Morning of Carnival”), with music by Luiz Bonfá and words by Antônio Maria. The song was first recorded by Bonfá and others for the film Black Orpheus (1959).
39■Dirty Life and Times
ダーティ・ライフ・アンド・タイムズ──ウォーレン・ジヴォン
21世紀にカットされたレコードから2曲、これと、次のジョン・トゥルーデルの曲が選ばれている。共に50代になってからの、ある意味で人生を生き終えた男のうただ。ジヴォンはポップ界では〈ロンドンのオオカミ男 / Werewolves of London〉(1978)がヒットした。〈プア・プア・ピティフル・ミー〉(1976)は、リンダ・ロンシュタットのカバー版がチャートを上昇した。ジャクソン・ブラウンやグレイトフル・デッドの面々とのつながりも深い。ジヴォンが末期癌を患っていることが発表されると、2002年10月、ツアー中のディランはシアトルのコンサートで彼の曲を歌った。
ジヴォンのような、一徹で人気に媚びない実力派のミュージシャンへの信頼は、論の後半で雄弁で綴られている。ライ・クーダーへの賛辞も、同じ一節に押し込めた格好になった。
ブラインド・レモン・ジェファーソンは、テキサス出身、ミシシッピーやカロライナのブルース弾きに先駆けてレコーディングを果たした男であり、ブラインド・アルフレッド・リードは、カントリー音楽の形成にとって重要だった1927年のブリストルにおける録音セッションに山中から参加したフィドル弾き。人種的には別系統だが、共通のルーツ音楽からそれそれのスタイルを引き出した二人の盲人である。そしてその点では、1925年のシカゴで、五人組ホット・ファイブの一員として、粗野な感情を吐き出すような〈ガット・バケット・ブルース〉を吹き込んだルイ・アームストロングにしても同じである。
人種もジャンルも未分化だった神話的な「原アメリカン民衆音楽」のありようが喚起される点、本章のテクストも他と一緒。ルーツの末裔としてあるディランの、真の仲間としてのウォーレン・ジヴォンがここで語られている。
40■Doesn't Hurt No More
もう痛まない──ジョン・トルーデル
黒人の「ブラック・ライヴズ」の重要性は気にする人でも、アメリカ先住民族の「ネイティブ・ライヴズ」まではなかなか意識が及ばない。注釈者の世代は、日本の子供たちも「アワワワ……」と叫びながら、例の単純なドラミングでインディアンの真似事をやったものだ。この「原住民風」ビートに乗せた悲話を歌ってカントリー・チャートの1位を射止めたのが、ハンク・ウィリアムズの〈カウ・ライジャ / Kaw-liga〉(1953)。同じコンセプトは、6年後の全米ナンバーワンのヒットとなった〈悲しきインディアン / Running Bear〉で、これは森山加代子のカバーが日本に流れた。70年代になってもインディアンは、リンリン・ランランの二人の女の子によってかわいく表象されていた。アメリカのシガーショップの飾りに置かれた木彫りのインディアン像は、もっといかめしいけれど、人形化されている点に変わりはない。
滅びていく者たちに属することがどういうことか、まともに考えたことがないと、本章の出だしでディランが何を言っているのか、わからないだろう。この章のA面は、トルーデルのソウルに共鳴するディランによる、心からの鎮魂歌である。
被征服者が飾り物になっていく過程に先立って、いまだ征服されざる者たちの苦しみと、その苦しみが消し去られていく過程がある。その過程になおも身を置きながら、トルーデルが繰り返す「おれのハートはもう痛まないが、ソウルは痛む」の台詞は、月並みな言葉になるが、悲痛だ。ハートは現世にあって感覚器官に制御される。ソウルは死後も永続する。「ハートが受け止めきれなくなったものを受け止めるのがソウルなのか」という歌詞も悲痛だ。
基本情報をちょっとだけ──。北米先住諸民族と植民者との衝突はもちろん16世紀以来続いてきたわけだけれども、戦いが全面化し、加速したのは、いわゆる「西部開拓」が本格化した南北戦争後のことで、これは日本の文明開化から明治前期に重なる。1876年、先住民の諸族のうち、ラコタ・スー族の一支族に属するシッティング・ブルとクレイジー・ホースが率いる隊が、合流した近隣諸族を統率しつつ、攻め込んだカスター将軍の第七騎兵隊を、モンタナ州南部のリトル・ビッグホーンの戦いで打ち破った出来事は、往年の西部劇ファンにはおなじみだろう。その後、米国軍に圧倒されて南北ダコタ州にまたがるインディアン居留地に追いやられた戦士シッティング・ブルは、1890年、インディアンの警察官に射殺される。そこに至る物語は、今読み返してみたが、悲痛すぎて書く気にならない。 先住民がしぼんでいく過程と、インディアンをやっつけた白人側の物語が展示や興業を通して盛り上がっていく過程とは重なり合っている。1870年代から、「開拓」の物語を「展示」して広めた最大の興業家が、「バッファロー・ビル」の名で知られるウィリアム・フレデリック・コーディで、彼の主催した「ワイルド・ウェスト・ショー」は、アメリカ興業史だけでなく、ポピュラー・カルチャーの性質を考える上でも欠かせない資料となっている。「ワイルド・ウェスト・ショー」のウィキペディア日本語版の記述がたいへん充実しているので、参照されたい。
ジョン・トルーデルの音楽活動は、ジャクソン・ブラウンとの出会いがきっかけになったようだ。ウィリー・ネルソンやディランの後押しもあった。1993年のファームエイドのステージに立ったときのビデオ映像が出回っている。クリス・クリストファーソンが〈ジョニー・ロボ〉(1995)という彼についてのバラッドを書いて歌っている。
41■Key to the Highway
キー・トゥ・ザ・ハイウェイ──リトル・ウォルター
デレク&ザ・ドミノスのバージョンでロックファンにも知られるが、曲自体はビッグ・ビル・ブルーンジーの作とも言われ、それ以前にチャールズ・シーガー(ピアノ弾きのブルースマン)が歌っていた、とも言われる。いずれにせよ、ブルースの元型マテリアルのひとつだったのだろう。
「ハイウェイへの関門」という邦題からはイメージが摑みにくかったが、「ハイウェイへの鍵」を持つ者は、好きなだけ放浪の権利を有するという意味だろう。テーマは束縛からの自由。都市の暮らしからの自由。ママ(恋人)を捨てて、大陸を疾走する自由。
ディランの文章に依れば、このフレーズは“key to the city”をもじったものとなる。こちらの表現は、中世の城壁都市の時代に由来し、それを持つ者は、その扉を自由に開け閉めできる権力を有した。(現代に翻訳すれば、シティへのカギを持つ市民は、有力者らの密室市政を監視できるという話になるのかもしれない。)
その都市とは、このうたに関してはシカゴである。ブルーンジーが深南部の農園からシカゴに流れ着いたのは1920年。シカゴでプレイし、やがて録音してシカゴ・ブルースの礎を築いた。だが彼も結局、シカゴを離れる。 ルイジアナ出身のリトル・ウォルターがシカゴに来たのは1946年。チェス・レコード(「チェッカー」のレーベルを含む)に属し、マディ・ウォーターズのレコードにハーモニカを添えることもした。〈キー・トゥ・ザ・ハイウェイ〉の録音は1958年で、これは同年亡くなったビル・ブルーンジーの追悼の意味があったと言われる。 1958年のシカゴにシアーズタワーはなかったが、ディランが語っているシカゴは神話の世界だから、あってよいのである。 リトル・ウォーターは1968年、37年の短い生涯を閉じた。
シカゴのブルースメンは、チェス・レコードを主な発信源に、60年代イギリスのブルース・リバイバルに決定的な影響を与え、ローリング・ストーンズやヤードバーズやクリームやレッド・ツェッペリンを生み出す母体となったことは誰でも知っている。その数多くのアーティストの中で、〈裏口の男 / Back Door Man〉におけるハウリン・ウルフのように劇画的演出をする者を退け、リトル・ウォルター(と、後に出てくるジミー・リード)にスポットを当てた本書の演出は、いかがだったろう。この本にはロバート・ジョンソンもマディー・ウォーターズも出てこない。
42■Everybody Crying Mercy
みんな慈悲を叫び求める──モーズ・アリソン
ジャズ・ピアニスト(ブルース・ピアニストというべきか)のモーズ・アリソンは1927年生まれ。ビート詩人の世代であって、ディランなどロック第一世代より15年ほど前の時代を生きた。彼の書く皮肉の効いた歌詞の曲は、ザ・フーのピート・タウンゼントも、ジョン・メイオールも、レオン・ラッセルもカバーしているし、トム・ウェイツにもモーズの影響が見える。この「慈悲」のソングをカバーしているアーティストには、エルヴィス・コステロもボニー・レイットも含まれる。
いきなり始まるディランの講義は、モーズのうたの三番のヴァース「人は輪をなして走り回る……」を敷衍したものだ。世の人間があくせくと生きるなか、ひとり外れて、傍観者の所感を述べるうたであるとの指摘である。みんな、なにをグルグル巡っているんだよ、という醒めたスタンス。クールといえばクールだが、皮肉屋と言われても仕方がない。──みんな平和を叫ぶけど、そりゃ戦争に勝っての話だよね、とか、正義を口にする人々も、ビジネス・ファーストで生きてるわけでしょ、とか。
「みんな慈悲(mercy)を叫んでいる」ことのどこが異常なのか、わかりにくいところではある。フランスでは、Thank youと同じ感覚でMerciというわけだし、英語圏の国でも──今より人々が敬虔だった時代──十字を切りたくなるような、動揺することが起きたとき、人はMercyを口にした。そうやって「神のご加護」を求めたのだろう。ディラン自身、起死回生ともいえる1989年のアルバムの題名を『Oh Mercy』としているではないか。
ラテン語でmerces(メルケス)は「報酬」の意味だった。それが神から来るのであれば「慈悲」になり、人から来るのであれば、より実利的なものになる。カネで雇われる傭兵のことを英語で「マーシナリー mercenary」というが、これも語源は一緒だ。 世にmercyを歌うソングは多いといって、引き合いに出された〈ハヴ・マーシー・ベイビー〉は、ビリー・ワード&ヒズ・ドミノスによる1952年のR&B曲。〈マーシー・マーシー・ミー(エコロジー)〉は環境劣化を嘆く1971年のマーヴィン・ゲイのうた。〈シスターズ・オブ・マーシー〉は(それを名乗る後年のゴシック・ロック・バンドと混同なきよう)、レナード・コーエンの曲で、ジュディ・コリンズがレコーディングしている(1967)。
206ページの図版は、コニー・アイランドのドリームランド遊園地で両大戦間に人気を博した、サミュエル・W・グンペルツ主宰の見世物小屋。原住民に捕まって生け贄にされた男の奇跡の生還の話をフィーチャーしている。208ページの写真は、より最近のものと思われるが、19世紀の興行師P・T・バーナムの見世物のイメージが客寄せに使われている。これら往年の見世物小屋のイメージを、モーズの歌に被せた著者の意図は……見る者の想像に任されているのだろう。
43■War
黒い戦争──エドウィン・スター
1970年のモータウンは、1965年のモータウンとは、歌詞の面でもサウンド的にも大きく違っている。65年から66年にかけては、ホランド=ドジャー=ホランドのチームが作る楽曲が、フォー・トップスやシュープリームスをビルボードのトップに送り込み、ビートルズにも多大な影響を与えていた。公民権運動の前進と、ソウル音楽の人気とが、ごく短い間ながら、白人の若者も黒人の若者もハッピーにしていた。
1968年4月、メンフィスでキング牧師を襲った凶弾は、音楽市場の人種統合という幻想をも葬ってしまった。事件はサザン・ソウルの本場スタックスから遠くないモーテルで起きたが、モータウンの所在地デトロイトも、67年の夏に大規模な人種暴動に見舞われている。人種融和の楽天主義には、不誠実な印象がつきまとうようになって、モータウンの曲作りにも変化が現れた。シュープリームスが〈ラヴ・チャイルド〉(1968)で私生児の問題を歌えば、テンプテーションズも〈クラウド・ナイン〉(1969)で、スラムでの生い立ちと幻覚剤の世界を歌う、といった具合になった。この社会派路線は、マーヴィン・ゲイによる傑作〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉(1971)に向けて継続していく。
本章で触れられている『ライヴ・アット・ザ・コパ』(1968)は、変化する直前のテンプテーションズのアルバムだ。リチャード・ロジャーズ作曲の〈ハロー・ヤング・ラヴァーズ〉やジョージ・ガーシュウィン作曲の〈スワニー〉など、ブロードウェイ寄りの選曲が見られる点を、ディランは、保守派の客層を意識したものだと指摘している。激動の時代にあって、新しい方向を向いた、ノーマン・ホイットフィールドとバレット・ストロングの「サイケデリック・ソウル」路線にディランは好感を示す。〈ボール・オブ・コンフュージョン〉に続いて、同じソングライター・チームの〈黒い戦争〉に別の一章を当てた。
こちらの焦点はしかし「戦争」である。軽々なる反戦ソングにディランは手厳しい。P・F・スローン作の〈明日なき世界/ Eve of Destruction〉は一蹴されている。ちなみにこれは、同時期の発売となった〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉を抑えてビルボードのチャートのトップに立ったうたである。
この〈黒い戦争〉の歌詞に関しても、ディランは褒めているわけではない。歌詞にこもる誠意の点では、バークレーの学園紛争と反戦運動に登場したカントリー・ジョー&ザ・フィッシュの〈アイ・フィール・ライク・アイム・フィクシング・トゥ・ダイ・ラグ〉の方に軍配を上げている。──“One, two, three, four”と韻を踏ませる“What are we fighting for?”の方が、当時のアメリカの若者達のストレートな気持ちではなかったか、と。
「戦争、何のためになる?」に対し、「何のためにも絶対ならない」と、エドウィン・スターは答えるのだが、それにディランは保留をつける。──ある人間たちの巨利に通じるからこそ、戦争はやまないのだ、と。この考えは、往年の反戦ソング〈戦争の親玉〉(1963)で言っていたことと同じである。
しかしマネーのことなら、お二人が一番ご存じですよね、と言ってディランは、ドル箱ソングとなった〈マネー〉の作者コンビをいじっている。マネーと戦争、マネーとポピュラー・ソング。関係は錯綜としている。 そんなことより、本章の読み所は、80歳を過ぎたディランが、戦争について何をどう語るかだ。そこは、下手な注釈は添えずにじっくりお読みいただこう。
The fog of War - Lesson 5 HQ (日本語字幕)
44■Big River
ビッグ・リバー──ジョニー・キャッシュ&ザ・テネシー・トゥー
ボブ・ディランが『ナッシュヴィル・スカイライン』(1969)にカントリー界のジョニー・キャッシュを迎え入れて〈北国の少女〉をデュエットしたとき、当時の若いファンは肩透かしを食らわされた思いがしたが、そのときの違和感がいかに的外れなものだったか、改めて知らしめてくれるエッセイである。キャッシュへの変わらぬ敬意が伝わってくる。
ジョニー・キャッシュの生地はアーカンソー州キングズランドだが、三歳のとき一家は同州ダイエスに移った。車を20分も走らせればもうミシシッピー川の岸辺に出るという一面の農地の中の、人口数百人の集落である。1954年にラジオ局で働こうと妻と共にメンフィスに出て、翌年、サン・レコードでの契約を果たした。持ち前の端正な発声は、カントリーの市場向きだったようだ。 ディランが紹介している〈ワン・ピース・アット・ア・タイム〉も〈ゲット・リズム〉も、ロカビリーと言えるかどうか分からないが、プレスリーを生み出した当時のサン・スタジオのサウンドである。よく知られた〈スーという名の少年 / A Boy Named Sue〉を改めて聞き直すと、デビュー時のディランが、こういう曲の構成からも学んでいたことが窺える。 ディランの出発点といえば、誰よりもウディ・ガスリーが有名だが、そのウディが本書のどこで登場するのかと思ったら、ようやくここに出てきた。1941年録音の〈ザ・ビゲスト・シング・ザット・マン・ハズ・エヴァ・ダン〉は、歴史をさすらう流浪者の大法螺をうたにしたもの。エデンのリンゴ園での労働から始めて、最後にヒトラーとニッポンを粉砕する意志を歌う。
〈ビッグ・リバー〉は、ルイジアナから来た女に恋したミネソタの男が、彼女を追って大河を南下していく構成になっている。ここでは「ミシシッピー」も「雲」も登場人物になる。失意の主人公は「雲に空の覆い方を教えた」りする。
216ページに載っている、昔懐かしい都市観光の絵ハガキは、〈ビッグ・リバー〉に登場する町を順番に並べたもの。ミネソタ州セント・ポールからアイオワ州ダヴェンポートへ、ミズーリ州セント・ルイス、テネシー州メンフィス(からナッチェスを経て)、ルイジアナ州バトン・ルージュへ、そしてニューオーリンズからメキシコ湾へ。 北米の中央平原を流れる大河は、これとは逆向きに、南のリズムを北へ運んだわけである。カリブ圏からニューオーリンズに持ち込まれ、ラグタイムともジャズともつかぬまま繁茂していくリズムの音楽は、河をのぼって、セント・ルイスとカンザス・シティ、シカゴを経由し、東西の大都会へ伝播して、メディアを通じて世界に届き、今も私たちを楽しませてくれている。 チェイン・ギャング・サンプを「囚人同士を繋ぐ鎖の鳴る音」と説明したのは野暮だったかもしれない。コーエン兄弟のルーツ・ミュージック映画『オー・ブラザー!』(2000)のサントラの1曲目に〈ポ・ラザルス〉という、囚人たちの労働歌が入っている。映画のシーンにもあった、ツルハシやハンマーを打ち下ろすあのリズムが、サン・スタジオのジョニー・キャッシュのリズムギターの元にあるという解説に心が浮き立つ。
とてつもなく大きく放埒な人物の代名詞「ガルガンチュア」は、フランス・ルネサンス期の作家ラブレーの物語に登場する。フィン・マックールはケルト神話に登場する騎士団長。ニュー・イングランドの実在の木こりのレジェンド「ジガー・ジョーンズ」は、本名アルバート・ルイス・ジョンソン(1871-1935)。伝説の酒飲みとしても知られ、Jigger Jonesという商標名のジンも出ている。
45■Feel So Good
フィール・ソー・グッド──ソニー・バージェス
本書でも最大級のオマージュを捧げられているが、サン・レコードの創設者(兼スカウトマン兼プロデューサー)のサム・フィリップスの果たした貢献は実に大きい。プレスリー、カール・パーキンス、ロイ・オービソン、ジョニー・キャッシュらを羽ばたかせたことに留まらない。
まだスタジオを持たなかった1951年、サムはメンフィスの南、ミシシッピー・デルタの綿花集積の町クラークスデイルに赴いて、アイク・ターナーのグループと〈ロケット88〉を吹き込んだ。ブギ仕立てのこのナンバーは「ロックンロール」の重要な起点の一つとされている。R&Bで育まれた荒々しい活力を、音楽の愉悦を、吸収し伝播することにサムはこだわった。黒人たちによって受け継がれてきた激しく踊る欲望が、モダンな世界に解き放たれるとき、その容れ物となったポップな形式が「ブギウギ」である。
同じくサン・レコードから出たジェリー・リー・ルイスの〈火の玉ロック〉と聞き比べてみよう。50年代のティーンエイジャーが惚れ込んだのは、いろいろと「飾り」のついたこちらのスタイルだった。
ここでディランが推奨するソニー・バージェスの〈フィール・ソー・グッド〉も同じ年、同じスタジオの録音である。
ブギとしての純正さはバージェスの方が高い。骨太の基本進行に、素朴なギターのリフ、発散するボーカル。余計な一切を削ぎ落としたブギに人種は関係ない。黒人も白人もない。
「ザ・ブギーマン」というヒーローについてのディランの饒舌がいい。ブギのエネルギーは宇宙開闢とともにあり。生命の活動が続いて愚鈍なものが溜まっていくなら、それを一挙に払いのけるのが純粋無垢のロックンロールだ、と言わんばかりだ。
ソニー・バージェスは1929年、アーカンソー州生まれ。50年代初頭からバンドを組んでブギを演奏していたという「先覚者」である。サン・レコードからのデビュー・シングル〈Red Headed Woman〉/〈We Wanna Boogie〉の荒々しさも一聴に値する。
以下、語注。
「ゴールドディガーズ」が「金の採掘者」から転じて、リッチマンとの結婚を狙う女性たちの意味になったきっかけは、1919年初演のブロードウェイ・ショー『ゴールドディガーズ』にある。その後、トーキーの時代に入ると『1933年のゴールドディガーズ』などのヒット映画も生まれ、「ゴールドディガーズ」と言えばコーラスガールズが連想されるまでになった。
〈ルンバ・ブギ〉はハンク・スノウが歌っている。「ポプスコッチ(石蹴り)ブギ」や「ヒール&トウ・ブギ」も、ダンスのステップが想像しやすい名前である。
童謡のLittle Miss Muffet(マフェット嬢ちゃん)や画家のゴーギャンと一緒に踊るバッド・シュールバーグは、ディランの讃えるアメリカ映画『波止場』や『群衆の中の一つの顔』の脚本を担当した男。
〈マザーズ・リトル・ヘルパー〉:ストーンズへの言及が、ここで来た。家庭の主婦のぼやきと鎮静剤の使用を歌ったこのうたは〈黒くぬれ!〉に続く、1966年のシングル。〈レディー・ジェーン〉とのカップリングだった。
46■Blue Moon
ブルー・ムーン──ディーン・マーチン
ページを開くと、西部劇『エルダー兄弟』(1966)を演じるディーン・マーティンのスティール写真の隣に、SF作家ロバート・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』(同年)のペーパーバック版表紙が載っている。
〈ブルー・ムーン〉はロジャーズ(曲)とハート(詞)──本書Chapter 66参照──による、1930年代以来のスタンダード・ナンバーで、ディランによれば、その源はドビュッシー〈月の光〉にある。その「高貴」なモチーフを、ビル・モンローがカントリー化して〈ブルームーン・オブ・ケンタッキー〉(1947)という曲を書いて収録した。そのレコードが人々に染み渡り、「ブルーグラス」という音楽ジャンルが起ち上がった。7年後、エルヴィスという無名の若者が、荒々しい高速バージョンをサン・スタジオで録音し、これがロックンロールを起動させる力となったが、エルヴィスは一転して、彼のメローで浮遊する霊のような声で〈ブルー・ムーン〉も吹き込んだ──。 「これで一周、振り出しに戻る」(227ページ)とあるのは、そういうことである。
エルヴィスのヴァージョンもぜひ。
循環コードを繰り返す〈ブルー・ムーン〉は、世界のピアノ初心者にお気に入りの曲だが、戦後のポップヒットとしては、マーセルズのドゥーワップ・バージョンが、60年代初頭の記憶の一部として残った。
本書では随所で、ディランのノベルティ・ソング好きが明かされる。大男のタイニー・ティムが1968年、長髪でブラウン管に登場し、懐メロの〈チューリップ畑をつま先歩き / Tiptoe Through the Tulips〉を歌った映像はぜひご覧いただきたい。この曲を1929年にヒットさせたニック・ルーカスが、窓辺の女性に向かって歌いかけるシーンも、ついでにどうぞ。
何でも「イエス」と答える果物売りが、「ない」にもかかわらず、肯定の返事を繰り返す〈Yes! We Have No Bananas〉も、アメリカ文化史に残る懐かしの一曲。早熟なポール・マッカートニーがジョンとの出会い以前に書いたという〈ホェン・アイム・シックティ・フォー〉も、古い時代のミュージック・ホールを彷彿とされるメロディである。
無数にある〈ブルー・ムーン〉のカバーの中で、ディランの一目が置かれるラテン・バージョンを歌ったボビー・“ブルー”・ブランドのバージョンは、こちらで。
47■Gypsies, Tramps & Thieves
悲しきジプシー──シェール
『ソングの哲学』に女性シンガーの曲がようやく出てきた。この先、何人か出てくるが、ジュディ・ガーランドとローズマリー・クルーニーは、どちらもディランの叔母さん世代。ニーナ・シモンは公民権運動時代の意識の高い黒人女性──というわけで、同世代の人気タレントのうたとしては、シェールのこの曲のみに一章が割かれる。1971年のビルボード1位の曲で、日本でもよく聞かれた。
シェールの登場は、60年代のディラン人気とも関係する。自らチャート・トッパーを生み出すことはなかったディランだったが、彼にあやかったうたが、1965年には軒並みヒットしている。バーズの〈ミスター・タンブリンマン〉もタートルズの〈悲しきベイブ〉も彼のリメイクだし、ソニー・ボノが19歳のシェールと歌って第1位を射止めた〈アイ・ガット・ユー・ベイブ〉を聞くと、特にソニーの唱法が、はっきりとディランを真似ているのが分かる。 シェールはカリフォルニアの南、インペリアル・バレーというメキシコに近い貧しい地帯の出身の、普通というよりは薄幸の女性だが、ショービズではギリシャ風だったりロマ風だったりのエキゾチックな「他者表象」をまとった。ボブ・ストーンというソングライターによるこの曲では、その「他者」が「アメリカの過去」における神話的な芸人一族になっている。タイトルの「ジプシーgypsies」も「浮浪者tramps」も「盗人thieves」も漠然と同じ人たちを指している。
放浪とかドサ回りとかいえば、元々ディランの十八番のテーマで、たとえば『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(1963)のアウトテイクに〈ほこり舞う田舎の祭り / Dusty Old Fairgrounds〉という、全米を駆け回る一座の意気を歌ううたがあった。「ジャグラー、ハスラー、ギャンブラー/ 占い師 ( フォーチュン・テラー ) もおいらの仲間」というラインもあるが、旅の暗い面は描かれない。全米の祭りの敷地を巡る「おいら」の視線は、「民衆」という「正しい存在」に支えられていた。
シェールの歌うこちらの曲は、ボブ・ストーンというソングライターの作品だが、もっと「ワル」に馴染んでいる。60年代から70年代にかけて、放浪神話は成熟したというべきか、汚れ役の主人公を無理なく収めるようになった。その神話をディラン自らが語る本章のA面の声にブレはない。ドサ回りを行う当人の視点で、男女混成の一族郎党の世界を語りのめすかのような文章の凝集度が素晴らしい。
ボブ・ストーンというソングライターが書いた歌詞自体、ドサ回りの芸人についてのステレオタイプ・イメージで出来ている。刺激的な踊りで男に紙幣を放らせる母親、説教師の真似事をし、強壮ドリンクを売る父親。一座の馬車の中で生まれた女の子が、旅の途中で男に捕まり子を孕む……。 先住民が住んでいた何もない森林や草原に、教育のない男たちが踏み入り、あとから女たちもやってきて住み着いた──これが北米大陸のほとんどの地域の成り立ち。だから田舎の文化は、音楽も演芸も、事実として、うたと踊りと見世物で村人を集めクスリと称するものを売る「メディスン・ショー」の一座によってもたらされた。宗教にしても同じである。「この世の終わりは近い、悔い改めよ」と熱烈に説いて回る説教師の言葉が、人の知性を剝がして信仰の層に食い込み組織を広げる。20世紀後半に大活躍したオーラル・ロバーツ(1918-2009)は、そうした移動説教師の末裔としてたいへんな影響力をふるった。
そのことが今日のアメリカ政治のあり方にも大きく影を落としているのだろう。だからといって、リベラルな知性派に安易に与しないのがディランである。カントリーでルーツな音楽を作ってきた人たちに寄り添っていく。リトル・エジプトのエロスの踊りのような反道徳的な芸人をもロマン化するほど、過剰に寄り添っていく。
〈放浪ジプシーのウィリーと俺〉のところでも「ジプシー」のエジプト起源説を披露していた。ユダヤもロマも古代エジプトから出たとするような浪漫主義は、現代ではしばしば反PC(政治的に不正)とされるが、「流浪の民」や「土着の人々」への度を超えた没入がなければディランじゃないわけで、単にリベラルであったなら、『セイヴド』(1980)を始めとするゴスペル傑作群も生まれなかっただろう。詩人は神話を生きる資格があるし、神話を生き進んでもらいたい。ジプシー神話に寄りかかったこのソングと、ディランによる解釈の疾走それ自体を楽しみたい。
48■Keep My Skillet Good and Greasy
俺のフライパンはいつも料理と油だらけ──アンクル・デイヴ・メイコン
前章と同じテーマが続いている。原型的アメリカ人の──今度は何だ? 食のエロスか? 胃袋のロックンロールか?
チャック・ベリーというと、ロックンロール(という都市の音楽)を発明した一人、であるかのように語られたが、彼はもともと、ミズーリ州で白人の聴衆相手にカントリーを演奏する黒人として人気をとっていた。最初にブレイクした〈メイベリーン〉にしても、古謡の──ボブ・ウィルス&ヒズ・テキサス・プレイボーイズの高速の演奏で1939年にヒットした──〈アイダ・レッド〉を下敷きにしたことが知られている。チャック・ベリーのルーツは、単なる「黒人」音楽ではない。それより深い「カントリー」の音楽にある。というわけで、アンクル・デイヴ・メイコンの登場となる。
デイヴ・メイコンは1870年(明治3年)生まれのシンガー=バンジョー・プレイヤー。立派な家の子息であるにもかかわらず、15歳のときにサーカスのコメディアンからバンジョーを習ったという彼は、1925年(55歳)にグランド・オール・オープリの放送が始まると、80歳を超えるまでこのショーに欠かせない存在としてプレイを続けた。ヴォカリオン・レコードがこのうたを発売したのは、1924年のこと。最初期のカントリー・レコードといえる。
この章では、アメリカの土着ソングの性質についての、ディラン先生の講義を聞くことができる。ポイントは、論理にも数の規則性にもしばられないこと。繰り返しによって足場をつくり、ランダムに歌い継ぎながら大きな全体を呼び起こしていくこと。自省も自制も無用。抽象的な観想に耽らないこと。どれも「ソングの哲学」を支える重要なポイントかもしれない。
以下は補足である。
クリス・クリストファーソンは、ディランも出演した『ビリー・ザ・キッド / 21才の生涯』でビリーを演じたが、彼はカントリー・シンガーで、かつ高学歴のインテリである。彼が歌った〈ザ・ピルグリム 第33章〉(1971)は、AでもありBでもある「歩く矛盾」であるような男の生き様を歌う。
いや、世の中にはいろいろな人間がいるわけで、こういううたもあれば、ああいううたもある。“different strokes for different folks”──この表現は、スライ・ストーン(ヒッピー時代の人種混交グループ、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの黒人リーダー)が、ヒット曲〈エヴリデイ・ピープル〉で使った。相手によってパンチを使い分けることを自負する、若きモハメド・アリの台詞からの引用。
「大口たたき」もアメリカの伝統である。自己を讃えることをアートにしたのが、19世紀の国民詩人ウォルト・ホィットマンで、その「ソング・オブ・マイセルフ」は「私は多様なあれこれを含む / I contain multitudes」という行を含む。これをディランが自作曲(2020)のタイトルにしたことは周知の通り。
49■It's All in the Game
恋のゲーム──トミー・エドワーズ
シカゴの銀行家で後の副大統領チャールズ・ドーズがこの曲のメロディを書いて〈Melody in A Major〉と名づけたのは1912年。そのほぼ40年後の1951年に、カール・シグマンが詞をつけて、〈It's All in the Game〉という題になったそのうたは、ダイナ・ショアをはじめ、トミー・エドワーズも吹き込んだけれども、そのときは、たいしたヒットにはならなかった。
大当たりしたのは、1958年のステレオ再録音盤である。これは、あの時代の定型だったR&B仕立てにアレンジされた。〈オンリー・ユー〉や〈黒い花びら〉と同じ、8分音符を1小節に12回叩くビート(3連符×4にも解釈できる)に乗って、正攻法の歌詞のうた。恋の切なさも恋の至福も、みんな一つのゲームの局面という大人のメッセージが、繊細なトミー・エドワーズのボーカルと、ディランも感嘆する完璧なアレンジによって運ばれる。
編曲家ネルソン・リドルの名が喚起される。キャピトル・レコードに在籍して、シナトラもディーン・マーティンも、エラ・フィッツジェラルドもジュディ・ガーランドも、みな彼のアレンジした楽曲を歌った。こうした、商業性と芸術性が一体化したアーティストを、本書は称える。
同様の才覚を、ロックの領域に求めるなら、まず挙がる名前のひとつが、ランディ・ニューマンだ。クーリッジ政権の正副大統領が登場する〈ルイジアナ 1927〉はアルバム『グッド・オールド・ボーイズ』(1974)に入っている。オーケストラをバックに、洪水の惨事についてランディがピアノで弾き語る名曲である。
1927年のミシシッピー川の氾濫のうたなら、ディランもザ・バンドと一緒に〈ダウン・イン・ザ・フラッド〉という曲をやっている(『地下室』)。このテーマには、デルタ・ブルースの祖チャーリー・パットンが1929年に録音した〈ハイ・ウォーター・エヴリホェア〉以来の伝統がある。
〈ユー・アー・マイ・サンシャイン〉は、中年以上の日本人にとっては〈リパブリック讃歌〉の次くらいによく知られたアメリカのうただろう。『オー・ブラザー!』でバンジョーをバックに歌われると、まるで古い民謡のように聞こえるが、それを作曲した男が、後にルイジアナ州知事になったという話は、〈スーダラ節〉の作詞者青島幸男が、後の東京都知事になったことを思い出させる。
50■A Certain Girl
ある女──アーニー・ケイドー
ニューオーリンズR&B界の立役者アラン・トゥーサンが、ナオミ・ネヴィルの名義で書いた。コール&レスポンス形式で、バック・コーラスが「名前は何だ」と聞くと「言えないね」と答える。坂本九(ダニー飯田とパラダイス・キング)に同様の趣向のうたがあった。〈九ちゃんのズンズタタッタ(聞いちゃいけないよ)〉や〈あの娘の名前はなんてんかな〉。それらのソースは、案外こんなところにあったのかもしれない。
シンプルでノリノリ。ファニーでゴキゲン。1961年のアーニー・ケイドーのシングル盤では、B面だったこの曲も全米トップ100入りしている。初期のヤードバーズが取り上げ(1964)、エリック・クラプトンが間奏のリードを弾いている。
ウォーレン・ジヴォンのバージョン(1980)では、ジャクソン・ブラウンがバックを務め、こちらはライヴのビデオも出回っている。
51■I've Always Been Crazy
俺はいつもイカレていた──ウェイロン・ジェニングス
ウェイロン・ジェニングスは1937年生まれ。少年期から活動を始め、同郷のバディ・ホリーに誘われてバンドに加わり、一緒にツアーしていたが、ひょんな偶然から飛行機に同乗せずに墜落死を免れた。レコーディングのキャリアはから40年間に及び、カントリー・チャートに16曲のナンバーワン・ヒットをもたらした。敬愛すべきウェイロンの、一山のうたの中からディランが選んだのが、このうた〈アイヴ・オールウェイズ・ビン・クレイジー〉。
「クレイジーに振る舞うことで、狂気(insane)にならずに済んでいる」というこのラインは、アウトロー・スタイルの音楽ファンにはジンとくるところだろう。ディランの解説からこのうたの心が200パーセント伝わってくる。
本書の表紙を飾ったエディ・コクランが、ここで登場した。言及されるのは〈サマータイム・ブルース〉ほどは知られていない〈ナーヴァス・ブレイクダウン〉。ストーンズの〈19回目の神経衰弱〉の方が知られているだろうが、神経症がらみですでに〈マザーズ・リトル・ヘルパー〉を引用していた。
精神疾患がどんどん細分化されることの指摘は鋭い。「病名を告げて解決法を示す」のが医者の役割だとすれば、その流れは避けられないのだろうが、何でも名づけて実体化すればいいという話ではない。その病名や症候群名が、科学的に実体のある区分なのか、専門家も実は疑問に思っているのではないか。
1845年から52年にかけてのアイルランドの大飢饉は、たくさんの移民を生み出し、その多くはアメリカに渡って都市のスラムを深刻化し、下層社会の芸能を活性化した。スクリーミン・ジェイ・ホーキンスも、いかがわしいヴォードヴィル芸人の末裔である。棺桶から出てくるショーで人気をとった彼は、ゴシック・ロックの先覚者でもあるが、彼のレコード〈おまえに呪いをかけた / I Put a Spell on You〉(1956)は、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルをはじめ、多くのアーティストにカバーされた。ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』(1989)でメンフィスの安ホテルのレセプションに座っていたのが彼だった。
52■Witchy Woman
魔女のささやき──イーグルス
70年代洋楽ファンでなくても、これは聞き覚えがあるだろう。グレン・フライとジャクソン・ブラウンの共作〈テイク・イット・イージー〉に続くイーグルスのシングル第二弾、ドラマーのドン・ヘンリーとギタリストのバーニー・レドンが書いた〈魔女のささやき〉は1972年、全米9位。
「大鴉の髪、ルビーの唇」で始まる歌詞は、本文でディランが過剰なアドリブで描き出す、現代サブカルチャーの魔女のイメージそのものである。
「目の中に月がある」ウィッチー・ウーマンが「空高く舞う」というのがサビの歌詞を聞くと「灰を嚙むような思い」になる人もたしかにいるかもしれない。20世紀のメディアにおける女性表象は、一概に偏ったものであった。イメージの商品化には、必ずその種の偏向がつきまとう。
たとえばハリウッドのサイレント映画にも、その強烈な個性と肉体で男を食い物にする「ヴァンプ」たちがいた。中でも、254ページにスチール写真が載っているセダ・バラはよく知られている。シンシナティ生まれの彼女に対し、映画会社のプロモーターは、エジプト生まれでオカルトにのめり込んでいる、という贋の人物像をあてがった。
才気溢れる南部女性のゼルダ・セイヤーが、作家スコット・フィッツジェラルドと結婚し、『グレート・ギャツビー』の映画でおなじみの、ジャズエイジの華を身をもって体現する。名声と喧噪の日々は、しかし、大恐慌とともに急落し、ゼルダの精神はそれに持ちこたえられず、施設に収容され、20年後に火事で命を落とす。そんな一生を描いたナンシー・ミルフォードの伝記『ゼルダ』は1970年刊行のロングセラー。
サンタナの〈ブラック・マジック・ウーマン〉については別に章立てされている。ニューオーリンズのマダム・ラヴォーについても補注の必要はないだろう。『ブルース・ブラザーズ 2000』には、彼女をモデルにした130歳の呪術師が出てきた。セイレムの魔女裁判は、敬虔なピューリタンが治めていた1690年代のマサチューセッツ植民地の町で起きた史実である(14人の女性と5人の男性が裁かれて絞首刑にされた)。
マリー・ラヴォーを歌ったソングとして、ディランが一票を投じるというボビー・ベアの〈マリー・ラヴォー〉はロックンロール仕立てで、「イ──オッ!」という魔女風の(?)叫び声も入る。
Blues Brothers 2000 - season of the witch / alligators scene
The Blues Brothers - Funky Nassau - YouTube.flv Bahamas experience
https://strongerthanparadise.blog.fc2.com/blog-entry-827.html
『ブルース・ブラザース2000』──魔女クイーン・ムセット役を演じたエリカ・バドゥ。この映画の救いは新たな“女王”として彼女が登場することに尽きる
53■Big Boss Man
ビッグ・ボス・マン──ジミー・リード
ジミー・リードは1925年ミシシッピー・デルタの小さな集落に生まれ、第二次大戦後、地元に戻って結婚したメアリーとインディアナ州ゲーリーに移住し、工場で働きながらブルースを奏でた。マイルドで大衆に染み入るブルースを、シカゴのヴィージェイ・レコードから発信し続けた。 彼の名を、ローリング・ストーンズによるカバーで知った人も、注釈者を含め多いと思う。ストーンズの最初のアルバムにはジミーのオリジナル曲〈Honest I Do〉が入っていた。〈Big Boss Man〉を取り上げたのはプレスリーで、1967年、シングル盤収録時にジミー・リードに依頼してギターを弾いてもらっている(261ページの写真はそのときのものだろう)。ディラン自身は、アルバム『ラフ&ロウディ・ウェイズ』に〈Goodbye Jimmy Reed〉というオマージュ曲を入れている。
翻訳中、ジミー・リードに〈Let It Roll〉という曲があるかのように誤解した不注意をお詫びしたい。“Let it roll”という歌詞が出てくる曲の名は〈Baby What You Want Me to Do〉である。もっともうたの歌詞に“Baby what you want me to do?”というフレーズはなく(“Baby why you wanna let go?”というラインはある)、ウィキペディア英語版はこのうたの別称として〈You Got Me Running〉という題も挙げている。
ジミー・リードに対するディランの愛情があふれる章となったが、同時に最初期のカントリー・スターで「歌うブレーキマン」として親しまれたジミー・ロジャーズへの愛着も感じられる章となった。「カントリー音楽の父」とも呼ばれるロジャーズが歌った多くのうたは、妻の姉であるエルシー・マクウィリアムズが手がけた作品であることが判っている。
54■Long Tall Sally
のっぽのサリー──リトル・リチャード
1956年のビルボードのR&Bチャートを制覇。ポップチャートでは最高6位。14歳のポール・マッカートニーがこれをマスターして、後に出会ったジョン・レノン君を悔しがらせ、対抗してジョンがマスターしたチャック・ベリーの〈ロックンロール・ミュージック〉と共に、初期ビートルズの熱狂を作り出したパワー・ソングである。
高校のステージでこの歌をがなったであろうボブ・ジマーマン君が、当時録音したという〈ヘイ・リトル・リチャード〉の音源が2020年、YouTubeに上がった。2020年の彼の逝去に際し、ディランはリトル・リチャードのことを、「幼かった自分にとっての輝く星、導きの光であり、自分を行動へ駆り立てるスピリットの源だった」とツイートしている。
その巨人ぶりが、ここで神話化されたわけだが、ディランらしく旧約聖書のスタイルである。
〈のっぽのサリー〉の歌詞は、ギャグ漫画風である。アンクル・ジョンがハゲのサリーと一緒にいて、メアリーおばさんに見つかって路地に逃げ込む、云々。それはそうと、日本のグループサウンズを代表するザ・タイガースの、後に岸部一徳を名乗るベーシストが「サリー」の名で呼ばれていたのは、ジュリーに比べひときわ「のっぽ」の背丈が理由だったという。
55■Old and Only in the Way
老いて迷惑なばかり──チャーリー・プール
ディランが高校生の頃から、古代ローマの歴史を愛好していたことは知られてきたが、邦訳が出たリチャード・F・トーマス教授による『ハーバード大学のボブ・ディラン講義』は、彼の詞行に、いかにウェルギリウスやホラティウスの影響が色濃いかを明らかにした。ここでは自身八十路に達したディランが、キケロの言葉に孔子の言葉も加え、老齢をテーマに、1920年代の歌手のうたを語る。
レコード市場が田舎の庶民にまで広がっていった時代、ノースカロライナ出身のバンジョー弾き、チャーリー・プールは、フィドラーとギタリストの仲間と三人でノースカロライナ・ランブラーズを結成し、ニューヨークに出てコロムビアのオーディションに合格。1925年〈いい話をドブに流すなブルース / Don't Let Your Deal Go Down Blues〉がヒットする。
カントリー音楽の黎明期に、端正な演奏で人気を集めたプールだったが、大恐慌の時代に入るとアル中を悪化させ、ハリウッドから呼ばれながらも1931年、40年に満たない生涯を閉じた。 死に向かって切実に呼びかける歌〈Oh Death〉を歌ったドク・ボッグスは、1898年ヴァージニア州生まれのバンジョー・プレイヤー。より素朴なスタイルで、ディラン世代のフォーク・シンガーのバイブルとなったハリー・スミスのアンソロジー『Anthology of American Folk Music』に収録されている。
40年代から50年代初頭にかけて、ビッグバンドの歌手として得意のシャウト唱法でならしたワイノニー・ハリスをディランは無視しなかった。〈I Feel That Old Age Coming On〉は1949年のリリース。ぜひ一聴を。
オーソン・ウェルズのレコード〈I Know What It Is To Be Young (But You Don't Know What It Is To Be Old)〉を含めたことに拍手喝采。昭和の洋風歌謡のようなメロディーに乗せ、老いをテーマに名優・名監督の迫真の語りが流れるところは、あまりにもキマリすぎて笑ってしまう。
ジョン・プラインとジョニ・ミッチェルは、同業のシンガーソングライター(ほぼ同世代で、ほぼ同郷出身)としてディランが敬意を払う二人である。〈ハロー・イン・ゼア〉(1971)も〈サークル・ゲーム〉(1970)も、20代の人間が書いた老齢ソングということで、評価に保留がついているが、初老になったジョン・プラインが〈ハロー・イン・ゼア〉を歌う映像もネットで視聴できる。ジンとくる人生のうたである。
戦争映画の名がいろいろ挙げられているが、若い世代向けに改めて紹介しておくと、スピールバーグ監督の『プライベート・ライアン』(1998)は第二次大戦の戦場から一人の兵卒(マット・デイモン)を見つけ出す指示を受けた、トム・ハンクスを中隊長とする一隊の物語。『シンドラーのリスト』(1993)は、民族殲滅計画(ホロコースト)の裏をかこうとする実業家の物語。ヴェトナム戦争をスペクタクルにしたフランシス・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979)は、コンラッドの小説『闇の奥』(1899)を下敷きにして、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐に焦点を当てた。キューブリック監督『スパルタカス』(1960)で反乱するトラキア人奴隷を演じるのはカーク・ダグラス。第一次大戦の射撃の名手を描いた『ヨーク軍曹』(1941)はゲイリー・クーパーが主演した。
『楢山節考』は、深沢七郎の小説(1957)を木下惠介監督がカラー作品として映画化(1958)。老婆おりんを演じたのは田中絹代。ディランが言及しているのはこちらである。
[266頁]
その25年後、今村昌平監督がリメイクしたバージョンでは、緒形拳が坂本スミ子をおぶって山を上がり、こちらはカンヌでパルムドールを受賞している 。
いろいろなうたと映像になじんだ上で、ディランのこのエッセイをじっくりと読み直してみると、また格別な味わいがある。
地獄の英雄(字幕版) https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09KR15FS3/ref=atv_dp_share_r_tw_f9699f51d4d04
地獄の英雄
地獄の英雄 | |
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Ace in the Hole | |
劇場公開用ポスター(" Ace in the Hole"バージョン) | |
監督 | ビリー・ワイルダー |
脚本 | ビリー・ワイルダー レッサー・サミュエルズ ウォルター・ニューマン |
製作 | ビリー・ワイルダー |
音楽 | ヒューゴ・フリードホーファー |
撮影 | チャールズ・ラング |
編集 | アーサー・シュミット |
配給 | パラマウント映画 東宝洋画部 |
公開 | 1951年7月11日 1952年9月16日 |
上映時間 | 112分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
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『地獄の英雄』(じごくのえいゆう、原題: Ace in the Hole, Big Carnivalとして公開された版もある)は、1951年のアメリカ映画。
ストーリー
物語はチャールズ・テータムという男が、ニューメキシコにある小さな新聞社に自分を売り込むところから始まる。彼は優秀な新聞記者だったものの、己の野心のために手段を選ばない独善的な性格と、勤務中に酒を飲む、上司の妻に手を出すといった悪癖のせいで数々の大手新聞社をクビになり、田舎町の新聞社で働きながらスクープを掴むことで記者としての再起を図るつもりだった。
それから一年が経ち、平和な田舎の日々に苛立ちを感じていたころ、取材途中に立ち寄った地で、レオ・ミノザという男が落盤事故で生き埋めになっていることを知る。チャールズは不幸なニュースが一番注目を集められると判断し、レオの救出をわざと遅らせ、事件をより大きなニュースにしようとする。一方、レオの妻のロレインは夫の安否をそっちのけで事故の見物客相手に商売を始める。悪徳保安官を抱き込み情報を独占することで、チャールズは目論見通りニューヨークの大手新聞社へと復帰することに成功する。その後、レオは救出が遅れたために肺炎にかかり瀕死の状態になっていた。良心の呵責にかられたチャールズは、結婚記念日のために用意しておいた毛皮を妻に渡して欲しいというレオの望みをかなえてやる。夫からのプレゼントを趣味が悪いと嘲り投げ捨てるロレインを見て、チャールズは逆上し、彼女を絞殺しようとする。抵抗するロレインは手に持っていたハサミでチャールズを刺す。チャールズは重症を負うが、医者に行こうとはせず、レオのために牧師を呼びその最後を看取ると、救出作業の中止を命じ、大衆の面前でレオの死を宣言する。最大のスクープを居合わせた多数の記者たちに提供してしまったチャールズに対して、ニューヨークの新聞社は激怒し、即刻クビにする。チャールズは「レオは死んだのではない、殺されたのだ。」と真実を告げようとするが、新聞社の編集は真に受けず、電話を切る。瀕死のチャールズはニューメキシコの新聞社へと向かう。まともに歩くこともできないチャールズは、物語の冒頭と同じように、俺を雇えばたんまり稼がせてやるぞ、と自分を売り込みながら床に倒れ伏し、息絶える。
キャスト
※括弧内は日本語吹替(放送日1975年7月12日 TBS)
- チャック・テイタム:カーク・ダグラス(近石真介)
- ロレーヌ・ミノサ:ジャン・スターリング
- ハービー・クック:ボブ・アーサー
- レオ・ミノサ:リチャード・ベネディクト
- ジェイコブ・Q・ブーツ:ポーター・ホール
スタッフ
- 監督・製作:ビリー・ワイルダー
- 脚色:ビリー・ワイルダー、レッサー・サミュエルス、ウォルター・ニューマン
- 撮影:チャールズ・ラング
- 美術:ハル・ペレイラ、アール・ヘドリック
- 音楽:ヒューゴー・フリードホーファー
- 録音:ハロルド・ルイス、ジョン・コープ
- 編集:アーサー・シュミット
主な受賞歴
アカデミー賞
ヴェネツィア国際映画祭
- 受賞
- 音楽賞
- 国際賞
『地獄の英雄』に言及している映画
主人公が新聞記者になるきっかけとなった映画として、原題の『エース・イン・ザ・ホール』で言及。
外部リンク
- 地獄の英雄 - allcinema
- 地獄の英雄 - KINENOTE
- Ace in the Hole - オールムービー(英語)
- Ace in the Hole - IMDb(英語)
- 地獄の英雄 - American Film Institute Catalog(英語)
- 地獄の英雄 - TCM Movie Database(英語)
- 地獄の英雄 - Rotten Tomatoes(英語)
表示 ビリー・ワイルダー監督作品 | |
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1930年代 |
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1940年代 | |
1950年代 | |
1960年代 |
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1970年代 |
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1980年代 |
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Ace in the Hole (3/8) Movie CLIP - Rattlesnake Hunt (1951) HD
Ace In The Hole - Trailer
Wild in the Streets [Original Theatrical Trailer]
論語
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note0102
01-02
有子曰、其爲人也、孝弟而好犯上者、鮮矣、不好犯上而好作乱者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝弟也者、其爲仁之本與、
有子が曰わく、其の人と為りや、孝弟にして上(かみ)を犯すことを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すことを好まずしてして乱を作(な)すことを好む者は、未だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちて道生ず。孝弟なる者は其れ仁の本たるか。
有子がいわれた、「その人柄が孝行悌順でありながら、目上に逆らうことを好むような者は、ほとんど無い。目上に逆らうことを好まないのに、乱れを起こすこ とを好むような者は、めったに無い。君子は根本のことに努力する、根本が定まって初めて[進むべき]道もはっきりする。孝と悌ということこそ、人徳の根本 であろう」
:266頁
56■Black Magic Woman
ブラック・マジック・ウーマン──サンタナ
「黒魔術の女」というお題で、ディランが羽を伸ばして語る、サービス満点の章だからして、支配する女たちを悪霊に見立てるような前半部を、あまりまじめに読んではいけない。この章は「きみも催眠術師になれる」という魔法のメガネの宣伝を読む気分で、ディランの少々きわどい言い回しに付き合うところだ。
前半部で繰り出される 女嫌い ( ミソジニー ) 的発言とバランスを取るように、後半でディランは、母親世代のさばけた女性、リイ・ブラケットを讃える。20世紀アメリカの純文学の最高峰ウィリアム・フォークナーと、ミステリー小説の最高峰レイモンド・チャンドラーに、名匠ハワード・ホークス監督と、言わずと知れたハンフリー・ボガートを加えた男性陣が、リイに軽くあしらわれるかのようなエピソードは楽しい。 最後の2ページに、ディランの音楽観がストレートに出ている。ちょっと注目してみよう。ここで言っていることは、要するに、〈ブラック・マジック・ウーマン〉の歌詞が単純だからといって軽く見るな、ということである。アートの一形態にたとえばユーモアがあるが、ユーモアを生み出すものはテクストではなく 文脈 ( コンテクスト ) であり、ユーモアの言葉をいくら分析してみても意味はない。同じ論法を、このうたに向け、「黒魔術の女とくっついてしまったよ、目も見えなくなり、悪魔にされてしまいそうだ」と訴えるだけのうたが、なぜ不朽の名曲になったかを、読者に考えさせる。
歴史を辿ればこのうたは、もともとピーター・グリーンが書いたフリートウッド・マックの曲(1968)で、楽曲的にはオーティス・ラッシュの〈オール・ユア・ラヴ〉(1958)に依拠している。それを、独特の陰影を伴ったギターによって進化させ、ロック文化の共通財産にしたのが、カルロス・サンタナである。サンタナのギターには、彼の背負った人生の文脈がからみついている。
ディランの詞も、さんざ解剖的な解釈にさらされてきた。まっとうなディラン論のためにはコンテクストを見なくてはならない。テクストだけ見て、ああだこうだいうのは、スタンダップ・コメディアンのレニー・ブルース(1925-66)を迫害したニューヨーク市警レベルだぞ、とディランは言っている。レニーの存在は、ダスティ・ホフマンが主演した映画『レニー・ブルース』(1974)と共に、『ショット・オブ・ラブ』(1981)に収められたディランのうた〈レニー・ブルース〉によって今日も知られている。
57■By the Time I Get to Phoenix
フェニックスに着くころに──ジミー・ウェッブ
〈恋はフェニックス〉という邦題だと内容が誤解されてしまうので、「フェニックスに着くころに」とさせていただいた。ここでのフェニックスはアリゾナ州の都市。グーグルによると、ロサンゼルス圏からインターステート10号を真っ直ぐ東に6時間20分で着く。二番に出てくるニューメキシコ州アルバカーキまでは、そこからまた6時間40分。三番の始まりは「オクラホマに着くころには」だが、それにはアマリロのあるテキサス州北部を抜けなくてはならず、さらに6時間近く掛かるので、歌詞にあるとおり「彼女は眠っているだろう」。しかし、いいのか、それで。
20世紀のポップ・ソングは男女の愛を、通常男の視点から歌ってきた。ここでディランは、それをひっくり返してみせる。置いていかれる側の女性の視点から、辛抱強く働く女と間抜けで弱虫の男の対比をあぶり出し、まるで違った物語を聴かせる。
このうたも、ひとつのショート・ストーリーである。「サドン・フィクション」というジャンルがあるが、その傑作として読める。映画っぽくもある。大陸を感じる。大陸ゆえの無機質な離別感が心を揺さぶる。
〈フェニックスに着くころに〉は、ジョニー・リヴァースが歌い(1965)、グレン・キャンベルが歌い直して(1967)グラミー賞を獲得した。以後、数々のアーティストがステージで歌う持ち歌となった。フランク・シナトラはこれを「最高の 悲恋歌 ( トーチソング ) 」と呼んだらしい。 ジニー・ウェッブ自身がピアノで弾き語るバージョンは、1996年になって現れた。 彼のような職人気質をもった技巧派の才能が、サイケデリック・ロックの時代に居合わせたのは、たぶん不幸な巡り合わせだったのだろう。もちろんフィフス・ディメンションが歌った〈ビートでジャンプ / Up, Up and Away〉(1967)などは、時代を超えて飛翔した。
58■Come On-a My House
家へおいでよ──ローズマリー・クルーニー
15歳の江利チエミが「あなたにあげましょ、リンゴにスモモにアンズはいかが」と歌う日本語バージョンが、昭和27年のラジオから流れていたのを記憶する人もほとんどいなくなり、ウィリアム・サローヤンの『我が名はアラム』(三浦朱門訳)が、アルメニア系作家による新しいアメリカ文学として書店に並んでいたのを記憶する人も、ほぼ潰えた。しかし後者は柴田元幸訳で生き返り(『僕の名はアラム』)、前者もいろいろな時代の江利チエミが歌う映像を見られるという時代になった。(ちなみにサローヤンは1939年上演の戯曲 『君が人生の時 / The Time of Your Life』でピューリツァー賞を与えられたが、慎ましやかに受賞を拒否している。)
282ページの写真が、ローズマリー・クルーニー。〈カモンナ・マイ・ハウス〉のヒットでスターに躍り出た彼女は〈マンボ・イタリアーノ〉──こちらは雪村いづみのカバーが記憶に残る──を含む、一連のヒットを放った。ビング・クロズビー主演の『ホワイト・クリスマス』(1954)で共演したのが彼女である。
ノベルティ好きのお茶目なディランが、この章でも顔を見せる。というか、テープ早回しの技法を使って、アルヴィン、サイモン、セオドアの三匹のシマリスが歌う〈The Chipmunk Song〉──当時の流行を反映して、「ボクはフラフープがほしい」との歌詞も入るこのうた、1958年のクリスマス・シーンズから翌年にかけて全米1位に居座った。チップマンクスの人気も翳りを見せず、1960年にはCBSで『アルヴィン・ショー」というアニメ番組も始まった。
ヒッチコックの『裏窓 / Rear Window』(1954)でロス・バグダサリアンの姿を探したら、見つかった。281ページの写真は一瞬『サイコ』(1960)を思わせる。
59■Don't Take Your Guns to Town
銃は街に持っていかずに──ジョニー・キャッシュ
ジョニー・キャッシュが再度登場。銃のうたもまた登場。まあ、生身の現実がテーマとなるカントリー音楽で、銃が身近な存在なのは、アメリカであれば当然だ。秀吉の時代に刀狩りされて以来、保身の武器を考えずに暮らしてこられた日本人の感覚を当てはめることはできない。
とはいえ、ビング・クロスビーがアンドリューズ・シスターズと一緒に〈ピストル・パッキン・ママ〉(1943)を歌っていたのどかな時代は遠く去った。ディランは踏み込んでいないが、「ガン・コントロール」をどうすべきかで、国論は二分されており、今日も生まれ続けるガンのうたについて語るなら、立場をはっきりさせないといけないのが現在の状況だ。
マリリン・マンソンの〈キリング・ストレンジャーズ〉(2015)や、ケンドリック・ラマーの〈BLOOD.〉(2017)を聞くと、そのリアリズムは痛切である。本章はちょっとしたノスタルジーの一片なのだろう。かつて無垢なアメリカがあった。286ページの写真で、二丁拳銃を振り回すジョニー・キャッシュの顔、なかなか嬉しそうである。
60■Come Rain or Come Shine
降っても晴れても──ジュディ・ガーランド
作詞家ジョニー・マーサーは1909年生まれ。彼の音楽キャリアを追い始めると、ポピュラー音楽史を総ざらいすることになる。〈ムーン・リバー〉など4曲でアカデミー賞作曲賞を獲った人、でさしあたって十分だろう。〈虹の彼方に〉で知られる作曲家ハロルド・アーレンは1905年生まれ。コール・ポーターやジョージ・ガーシュインより若い分、ジャズの感覚も深く身についていた。1940年代、二人のコンビは〈Blues In The Night〉〈Ac-Cent-Tchu-Ate The Positive〉〈My Shining Hour〉など、ジャジーでブルージーで、しかも洒落たスタンダード・ナンバーを生み出した。
この〈Come Rain or Come Shine〉も、多彩なシンガーにカバーされたと書いてあるが、ジュリー・アンドリュースとジェイムズ・ブラウンがともに全力で歌い上げたうたというのも珍しい。ジュディ・ガーランドのバージョンは、リズムを取るのも音程を取るのも難しい。アニタ・オデイはもう少しスローに歌っているが、こちらも真似られそうもない。ビリー・ホリデイとエラ・フィッツジェラルドの名がここで初めて登場するが、ドクター・ジョンと一緒というところが、この本らしい。
言及される『キング・オブ・コメディ』(1982)は、マーティン・スコセッシ監督作品。この作品の音楽を担当したのが、ロビー・ロバートソン(ザ・バンドのソングライター)というせいもあって、この映画のサントラには、B・B・キングからトーキング・ヘッズ、ヴァン・モリソンに至るロック/ブルース系の音楽が多い。ディランお勧めのシーンは、誘拐犯のマーシャを演じるコメディ女優のサンドラ・バーンハードが無伴奏の〈降っても晴れても〉を歌うところ。
若きティナ・ターナーのダイナミックなシャウトの背後で、フィル・スペクターの「音の壁」が炸裂する〈リバー・ディープ、マウンテン・ハイ〉の1966年のプロモ映像もお勧めである。
61■Don't Let Me Be Misunderstood
悲しき願い──ニーナ・シモン
この曲は、ニーナ・シモンのオリジナル以上にアニマルズのカバー・バージョンの人気が高い。その点は〈朝日のあたる家〉にしても同様で、全米1位(1963)になってブリティッシュ・インヴェイジョンの弾みとなったアニマルズ版の方が、あまり話題にならなかったボブ・ディランのファースト・アルバム(1962)のバージョンより、ずっとよく知られている。
日本の60年代に、このうたは尾藤イサオの歌唱で広まった。邦題が〈悲しき願い〉になり、「ベイビー、俺の負けだ」と、片思いの恋からの撤退を宣言してしまう。「だーれのせいでもありゃしない。みんな俺(おい)らが悪いのか」というサビのシャウトは、一応疑問形ではあるが、自責と諦念が前面に出ている。
それを言うのも、原曲は逆だからだ。“Baby, do you understand me now?”(これで分かってくれたかい?)で始まる。理解されるべき自分の正当性を、あくまでも押し出すうた。それでは日本でウケないと、訳詞家氏は判断したのだろう。歌詞がすっかり翻っている。日本語ではtranslationを「翻訳」と訳す。(translationのオリジナルのラテン語はcarry acrossの意味。「あちらからこちらへ運ぶ」というだけの意味である。)
294ページの写真はベンジャミン・“バクジー”・シーゲル、「ラスヴェガスを発明した男」とも言わるユダヤ系ギャングの大物。1991年の話題作『バグジー』ではウォーレン・ベイティーが彼の役を演じた。「俺はただの善意の人間」だと主に訴える〈Don't Let Me Be Misunderstood〉の文脈に、何の説明もなくこの顔をはめ込む演出は過激である。
アンリ・エティエンヌ(ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス)が生きた16世紀は、まだルネサンス期の続きで、過去の知識を光として届ける上で、印刷業と古典学の一体化が必要とされた。その時代に、現在も底本とされる「プラトン全集」を出版したのは偉大な業績と讃えられている。
初歩文法を学んだ方ならどなたもご存じのことだが、フランス語の動詞の過去形は、英語の現在完了のように[avoir+過去分詞]の形になる。この形は複合過去と呼ばれ、この他に小説では「単純過去」の形も用いられるが日常会話では用いられない。なぜフランス語で単純過去が衰退したのか。「24時間ルール」のために単純過去が使いにくくなったとする説明が、実際有力なようである。
ESP-Diskを検索すると、フリージャズ系の作品が多く出てくる。「名盤、怪盤、奇盤」の宝庫なのだそうだ。オーネット・コールマンやサン・ラに続いて登場した才気溢れるハズレものたち。2022年に亡くなったファラオ・サンダースは「スピリチュアル・ジャズ」を代表するサックス奏者。ウィリアム・バロウズの『Call Me Burroughs』というレコードの内容をチェックしたら『裸のランチ』(1959)の朗読だった。ザ・ファッグスは、Discogsによると、1966年の『The Fugs』と1967年の『Virgin Fugs』がこのレーベルから出ている。
ニーナ・シモンが社会的意識の高い知性派のアーティストだったことは、もう一つのウッドストックと呼ばれる、1969年のハーレム文化フェスティバルのドキュメント『サマー・オブ・ソウル』のステージからも明らかだろう。最後に──マーク・ロスコの抽象絵画、草間彌生の水玉模様と一緒に──言及される、繰り返しを旨とするジョン・レノンの曲は、〈I Want You (She's So Heavy)〉。アルバム『アビイ・ロード』(1969)に入っているブルージーかつ前衛的なロック曲である。
この章では絵画についての言及も多い。アメリカ人画家カシアス・マーセラス・クーリッジの連作『ポーカーをする犬の絵』は、早すぎたポップアートとも言われ、さまざまな評価(主に酷評)に晒された。フランス・ロマン派の傑作にして実物大の大迫力を有する作品『メデュース号の筏』は、1816年に西アフリカ沖で座礁し、急造の筏で漂流した人々の地獄図である。
『ポーカーをする犬』 (Dogs Playing Poker) は、アメリカの画家カシアス・マーセラス・クーリッジによって描かれた16枚の油絵のことで、このシリーズは出版社の ...
62■Strangers in the Night
夜のストレンジャー──フランク・シナトラ
フランク・シナトラの英語は聞きやすい。この歌の歌詞を覚えて歌える方も多いだろう。“Something in your eyes...”(あなたの目の中の何かが)とか“Love was just a glance away”(愛はほんの一瞥の先に)というロマンチックな歌詞に、英語の魅力、洋楽の魅力を感じた私たちは、ここで笑い転げるハメになる。いわゆる「名曲」を乗っ取って誇張するのが本書のディランの作戦だとしても、〈夜のストレンジャー〉を相手にすると、ここまで可笑しくやれるのか。
シナトラのスマッシュ・ヒットというと、この曲の前が、57年から58年にかけての〈オール・ザ・ウェイ〉と〈ウィッチクラフト〉くらいまで遡ることになる。娘のナンシーが〈にくい貴方 / These Boots Are Made for Walkin'〉をナンバーワンにしたのに引っぱられるようにして〈夜のストレンジャー〉が出て、これが一夏の間、日本のラジオからもよく流れた。〈黒くぬれ!〉〈ペイパーバック・ライター〉だけでなく、トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズ〈ハンキー・パンキー〉、トロッグズ〈ワイルド・シング〉、ラヴィン・スプーンフル〈サマー・イン・ザ・シティ〉、ドノヴァン〈サンシャイン・スーパーマン〉など、ワイルドな若者軍団のビート曲に交じっての快挙・快唱だった。 そしてその勢いで、翌年親子共演の〈恋のひとこと / Somethin' Stupid〉(1967)を再度ナンバーワンに押し上げる。世界のカラオケを盛り上げた〈マイ・ウェイ〉のリリースは1969年で、ポール・アンカの書いたこの曲は、後になってじわじわと人気を広げていった。
ハウリン・ウルフが「クソ(dog shit)」呼ばわりしたと伝えられるアルバムには、題名がない。白いジャケットに黒い活字で「これはハウリン・ウルフのニュー・アルバム。彼はこれを嫌っている。当初はエレクトリック・ギターを弾くのも嫌っていた。」とだけ書いてある。1969年の逆行文化(カウンターカルチャー)の客層には、こういうトリッキーな売り方をした方がウケると、チェス・レコードのオーナーは考えたのだろうが、結果は失敗だったらしい。エレキかアコギかでこだわるなんて、そんな騒動は犬も食わない、というのが著者ディランの姿勢であるらしい。
ハンブルク出身のオーケストラ・リーダー、ベルト・ケンプフェルトが、哀愁のトランペット曲〈星空のブルース / Wonderland by Night〉で全米トップに輝いたのは、ちょうど19歳のディランがニューヨークに出てきた1961年1月のこと。その年、ケンプフェルトはトニー・シェリダンのプロデュースをして、バックバンドにリバプールから来ていたザ・ビートルズをオーディションして雇い入れ、『マイ・ボニー』のアルバムを制作。このときレノンの歌う〈エイント・シー・スイート〉と、ハリソンがリードをとるギター曲〈クライ・フォー・ア・シャドウ〉も録音された。ベルト・ケンプフェルトのよく知られた作品として、他にナット・キング・コールの〈L-O-V-E〉がある。
チャールズ・シングルトンがローズ・マリー・マッコイと共作した〈トライン・トゥ・ゲット・トゥ・ユー〉は、1968年のテレビ番組(いわゆる「カムバック・スペシャル」)でエルヴィスが熱唱している。
63■Viva Las Vegas
ラスヴェガス万才──エルヴィス・プレスリー
アン=マーグレットとの共演で、大成功したエルヴィス映画『ラスベガス万才』は1964年公開。アメリカの民衆文化にとって、ギャンブルは重要なテーマだ。自身、最初期からギャンブラーのうたを歌ってきたディランが、世界最大のカジノ街の興奮を伝える本章は読みどころが多い。前半部の盛り上げは、まるで黒人教会の説教師のようだ。
トム・パーカー大佐については、バズ・ラーマン監督『エルヴィス』(2022)で若い人たちにもよく知られる存在になった。P・T・バーナムは19世紀に大陸の国アメリカにおける興業の型を確立した男。そのサーカスと見世物の伝統の中で、エルヴィスを、最高の見世物にした男が「大佐」である、という解釈でいいのだろう。
この「大佐」は、軍隊にいたわけではない。カントリー・シンガー上がりのルイジアナ州知事ジミー・デイヴィスから、選挙に功のあった返礼として、名誉称号をいただいた。子供のときにオランダから入国した彼は身元を詐称しており、一度アメリカを出ると再入国できなくなる身であったらしい。
ドク・ポーマスのエピソードはもの悲しい。本名ジェローム・ソロン・フェルダー。ニューヨークのユダヤ系移民の子である。彼の書いた最初のヒットは、コースターズの〈ヤング・ブラッド〉。以来、R&B色の強いたくさんの曲を、ドリフターズやプレスリーやレイ・チャールズや、若手のアイドル歌手に提供した。ルース・ブラウン、B・B・キング、ドクター・ジョンといった強者たちも彼のうたを歌った。ポピュラー・ソングの全貌を見通すような本書を捧げる相手として彼を選んだことに、ディランの世界観が現れている。
アメリカの偉大な芸人として、W・C・フィールズ(1880-1946)の名がでてきた。ヴォードヴィル、サイレント映画、トーキーを通して仏頂面を売り物に活躍したコメディアン。『正直ものは騙せない / You Can't Cheat an Honest Man』(1939)は晩年の傑作映画。
スロットマシーンと遊ぶ若きポール・マッカートニーの写真は、1964年8月のラスヴェガス公演の前に撮られた。
64■Saturday Night at the Movies
サタデイ・ナイト・アット・ザ・ムーヴィーズ──ザ・ドリフターズ
315ページの写真から入っていこう。路上の正面に立っているのはビート族のヒーロー、ニール・キャサディ本人である。ジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』のヒーロー、ディーン・モリアーティのモデル。映画館で上映しているのは、マーロン・ブランドの『 乱暴者 ( あばれもの ) / The Wild One』(1953)。二つめが、ランドルフ・スコット主演の拳銃劇で、3Dメガネで見るのが話題を呼んだ『叛逆の用心棒 / The Stranger Wore a Gun』(1953)。三つめの『ターザン』は、おそらく1959年制作のリメイクの方だろう。
『クール・ハンド・ルーク』(邦題『暴力脱獄』1967)では、パーキング・メーターを切り落としたという罪で、主人公(ポール・ニューマン)が収監される。懲役労働を強いられるシーンで、下劣な監督役のマーティンが、「コミュニケーションがうまくいっていないようだ」という台詞を脅迫調子でいう。
Cool Hand Luke (1967) - The Captain's speech " What we've got here is fa...
Cool Hand Luke (1967) - That Ol' Luke Smile Scene (8/8) | Movieclips
ギャング俳優として、ジェイムズ・キャグニーに劣らず有名な、エドワード・G・ロビンソンは、とりわけ、ハンフリー・ボガート主演のジョン・ヒューストン監督『キー・ラーゴ』(1948)におけるギャング役が印象深い。
「非米活動委員会」とはマッカーシズムによる赤狩りの中心となった組織。ここの公聴会に呼び出されたピート・シーガーは、証言を拒否して、次章に述べるように音楽活動を制限されたが、エリア・カザン監督は、結果的に仲間を売り、自らのキャリアを守った。これが1952年のことで、『波止場』(1954)はその後にクランクインした。港湾労働者を支配する強者の論理にマーロン・ブランドが対決するシーンに、カザン監督の実人生を重ねずに見るのはむずかしい。
『真昼の決闘 /High Noon』(1952)は、保安官のゲイリー・クーパーが、町の人にそっぽを向かれたまま、やってくるガンマンと対する恐怖と葛藤を描く。それを知っても周りの人は自己保身に走るばかり──赤狩り時代の雰囲気がもろに浮かび上がる設定だ。ショーン・コネリー主演のリメイクの名は『アウトランド』(1981)。途方もない設定変更にもかかわらず、リメイクの傑作とされる。
『十二人の怒れる男』(1957)では、父親殺しの罪に問われた少年の裁判のため、ヘンリー・フォンダをはじめとする大物俳優が陪審員として密室に集まる。シドニー・ルメットは、ポーランド系ユダヤ人の移民の子、子役からスタートして演出に転じ、多くの名作映画を残した。
ステファン・グラッペリは、1908年パリ生まれのジャズ・バイオリニスト。ギタリストのジャンゴ・ラインハルトと組んだ演奏で、ヨーロピアン・ジャズの魅力を知らしめた。
65■Waste Deep in the Big Muddy
腰まで泥まみれ──ピート・シーガー
ピート・シーガーは、ディランより22歳年長。ということで、別の時代を歩んできた。彼の時代、フォークの立場を取ることは、搾取された農民の団結を促すことにほぼ等しかった。そうした左よりの信念は、社会的な地位の高さに由来するともいえる。彼の父、チャールズ・シーガーは、カリフォルニア大学バークレー校やジュリアード音楽院で教えたエリートで、二人目の妻ルースと民族音楽の研究に入り、両親の影響でピートも5弦バンジョーを弾きだしたという経緯がある。1940年、オクラホマの農民歌手ウディ・ガスリーと打ち解け合って、二人でニューヨークに同居。アラン・ローマックスを含むフォークの仲間と、民衆歌の浸透と社会善の実践を目指す。彼のグループ、オールマナック・シンガーズは、戦後、闘争色を弱めてウィーヴァーズとなり、と共に、フォークソングを歌うことの政治的な意味も変化する。黒人フォーク歌手レッドベリーを追悼するように、彼の持ちうたを歌う〈グッドナイト・アイリーン〉は、1950年のビルボード・チャートで連続13週1位をキープしている。
非米活動委員会の公聴会でキッパリ証言を拒否して、公的な活動を禁止されが、大学キャンパスを回って草の根レベルで歌い続けた。ジョーン・バエズにしても、後のキングストン・トリオにしても、巡回してきたピートを見てソングの魅力を知ったのだ。
グリニッジ・ヴィレッジのシーンにディランが飛び込んできたときも、ピートは最初のレコーディングの後押しをしたし、彼をニューポート・フォーク・フェスに引き入れたのもピートである。これをいうのも、この章でボブが捧げるピートへのオマージュが読み落とされてはならないからだ。1965年のニューポート・フォーク・フェスの舞台にロックバンド仕立てでディランが上がったあの出来事は、現代の神話の一幕であるが、その神話で、ピートは追放されるべき、古い神の役回りに収まっている。ロックの時代には好んで語られたその物語も、すでに消費期限は切れた。
私たちの時代におけるボブ・ディランの大きさを見て取るには、それと一部重なり、一部ズレる時代において、ピートが何を成し遂げたのかを理解することが役に立つだろう。問題はお互いがお互いをどう見ていたかではない。二人にとっての「フォーク=人間たち」の定義が実はズレていたと考えるのが適切なのではないか。「ソング」の定義にも違いがあった。そのズレは、文化の進展に由来するもので、個人のテイストによるものではない。
スマザーズ・ブラザーズの二人は、コントもやれば、フォークソングも歌った。二人がホストした日曜夜のCBSのショーには、ザ・フー、クリーム、ドアーズなど、カウンターカルチャー期のロックバンドも招かれた。が、世代間論争の種となる話題を包み隠さない兄弟のやり方は、〈腰まで泥まみれ〉の騒動が一段落してからも、経営陣の不興を招き、番組は1969年4月に突然打ち切りとなった。
最後にシーガーがスマザーズ・ブラザーズの番組に登場したときの映像を。〈腰まで泥まみれ〉は4分ごろから歌い始める。
66■Where or When
どこなのか、いつなのか──ディオン
イタリア系移民の息子ディオン・ディムーチは、ブロンクスに育ち、〈浮気なスー / Runaround Sue〉(1961)を始めとする何曲かのアイドル歌謡をヒットチャートに送り込んだ。〈浮気なスー〉の、「ヘイ、ヘイ、バムディヘディヘディ」のバックコーラスは、プレスリーとビートルズに挟まれた「ポップス黄金期」の集合的な記憶の一部になっている。このうた〈Where or When〉も1960年に全米3位。〈私のねがい / That's My Desire〉とカップリングされ〈いつかどこかで〉の邦題で、大統領がケネディに代わる前後の時代、日本のファンにも届いていた。
「今がいつなのか、ここがどこなのか、もうわからない」、時空を崩す、あなたと私の再会についてのうた。これが『ソングの哲学』の最終講である。最後の章でディランが敬意を捧げるのは、ロジャーズ&ハート──10代から才能を発揮した作曲家のリチャード・ロジャーズと、40代での早逝まで長年彼とコンビを組んだロレンツ・ハート──の黄金コンビである。
『ベイブズ・イン・アームズ』は、ロング・アイランドの小さな町で、ミュージカル公演を起ち上げようとする少年少女たちの物語。台本もロジャーズとハートが書いた。劇場初演は1937年。本文にも書かれているように、オリジナルは、社会正義が求められていた大不況の時代を背景に、シリアスなエピソードも盛り込まれていた。それの映画版を監督したバズビー・バークレーは、踊り子の肢体を花咲く幾何学模様に仕立てた天才的映像美をもって知られる。この動画を見ると、バークレー版の『青春一座 / Babes in Arms』の雰囲気がだいたい分かるだろう。途中で〈Where or When〉も始まる。
『青春一座』は元気な映画だが、その元気が蹴り出してしまったものを、ディランは愛おしんでいる。それは、ソングには哲学があり、人間には思想があるということだ。ロレンスとハートのうたには、洒落も諧謔もある。熟成した人間味がある。
Babes In Arms (1939) Official Trailer - Judy Garland, Mickey Rooney Musi...
カラー化https://www.youtube.com/playlist?list=PL0YufxlV4n1d7VB3yHUrFR6UKa6itMUVR
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Babes in Arms (Colorized)- Where or When
〈レディは気まぐれ / The Lady is a Tramp〉は、トニー・ベネットとレディ・ガガのデュエットで蘇った愉快なソング。trampとは、住所不定の、チャーリー・チャップリンのような、この場合は自由な精神の体現者。
〈ジョニー・ワン・ノート〉は、「一つの音高でしか歌えない」ジョニーを歌う。
〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉はジャズを聴く人に知らない人はいないスタンダート曲で、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドを含む最高の歌唱と、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンスを含む最高の演奏を堪能できる。
あとはもうディランの雄弁さに任せよう。
本書を読み終えた読者は、あるソングがいつ、どこから聞こえるのか、どんなジャンルのうたなのか、まるで判然としない宙空に浮かんだ気持ちになるだろう。フォスターの時代の黒塗り芸に始まり、ジャズを起ち上げ、ロックを起ち上げ、ブロードウェイとハリウッドのミュージカルの華麗な歴史を刻んできたアメリカのポピュラー・ソングたち。それらを一望に収め、2023年にあって「私は一切を包み込む / I contain multitudes」とうそぶいてライヴのステージに立つ男がここにいる。
その魔術師ぶりを本書で堪能していただくべく、ついつい過剰に注釈をつけて興を殺いだとしたら、その点はどうぞご寛恕ねがいたい。
2023年04月 佐藤良明
from Song of Myself
51
The past and present wilt-I have fill' d them, emptied them,
And proceed to fill my next fold of the future.
Listener up there! what have you to confide to me?
Look in my face while I snuff the sidle of evening,
(Talk honestly, no one else hears you, and I stay only a minute longer.)
Do I contradict myself?
Very well then I contradict myself,
(I am large, I contain multitudes.)
I concentrate toward them that are nigh, I wait on the door-slab.
Who has done his day's work? who will soonest be through with his supper?
Who wishes to walk with me?
Will you speak before I am gone? will you prove already too late?
おれ自身の歌(抄)
51
過去と現在などは萎えてしまう おれは過去も現在も満たしては、空っぽにし、
今度は未来にできる隙間を満たしてゆく。
そこで聞いている人! おれにどんな秘密を明かそうというの?
おれをじっと見てくれ、こっちは夜がにじり寄るのを嗅ぎつけているから
(誰も聞いてやしないから、正直に言ってくれ、そうしたらほんの少しここにいてやろう)。
おれは矛盾しているだろうか。
まあそれでもいい、おれは矛盾しているのさ
(おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている)。
おれは身近な人間に神経をそそぐ、おれは扉の敷石のうえで待つ。
今日の仕事を終えたのは誰? 食事をまっ先に済ませるのは誰?
おれと一緒に歩きたいのは誰?
おれが行く前に話してくれるかい? もう遅すぎると決めつけはしないだろうね?
~~~
おれにはアメリカの歌声が聴こえる
おれにはアメリカの歌声が聴こえる、いろいろな賛歌がおれには聴こえる、
機械工たちの歌、誰もが自分の歌を快活で力強く響けとばかり歌っている、
大工は大工の歌を歌う、板や梁の長さを測りながら、
石工は石工の歌を歌う、仕事へ向かうまえも仕事を終わらせたあとも、
船頭は自分の歌を歌い、甲板員は蒸気船の甲板で歌う、
靴屋はベンチに座りながら歌い、帽子屋は立ったまま歌う、
木こりの歌、農夫の歌、朝仕事に向かうときも、昼休みにも、夕暮れにも、
母親の、仕事をする若妻の、針仕事や洗濯をする少女の心地よい歌、
誰もが自分だけの歌を歌っている、
昼は昼の歌を歌う- 夜は屈強で気のいい若者たちが大声で美しい歌を力強く歌う。
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000005i04f.html
きょうのことば - [2018年01月]
「自己なるものをおれは歌う、つまり単なる一個人を、それでいて民主的という言葉も、大衆という言葉もおれは発する。」
ウォルト・ホイットマン(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる-草の葉(抄)』 光文社 12頁)
ウォルト・ホイットマン(1819-1892)は19世紀の激変するアメリカ社会を生き、それを作品に反映した詩人でした。印刷工などの仕事を経て、社会派ジャーナリストとして読者の啓発に努めた彼は、しかし、政党政治の実態に幻滅し挫折を味わいます。その傍ら、ホイットマンは共和国の自由と美徳の理念に基づく文学の形を探求し、1855年に革新的な詩集『草の葉』の出版にこぎつけました。彼は合衆国自体が「最大の詩編」であると述べ、徹底した人間肯定の精神が支える新世界の壮大なヴィジョンを披露しました。ホイットマンはアメリカの民主主義を喜び、その連帯を大衆に対して呼びかけました。
標題の言葉は『草の葉』の冒頭を飾るマニフェストのような一編です。民主主義を唱道したホイットマンにとって、個人と民衆の両方が大事だと歌われています。個性を尊重しつつ、全ての人間の平等を主張するならば、その理想の集約である「自己」は相反する二つの面をもつことになります。「自己」は豊富さと多様さを含んだうえでの個性なのです。ホイットマンの労働者、農民、漁夫といった市井の人々への信頼は生得のものであり、それは南北戦争を体験することでいよいよ血肉化されました。戦争において、彼は名もなき兵士たちの各々に民主主義の典型を見たのです。
ホイットマンのヴィジョンの特長は宇宙にまで届く詩的想像力にありました。彼は、上記の言葉に続いて、詩神は骨相学や脳髄では満足せず、身体全体が大切なのであり、詩人は「元気で、自由自在な活動のため神聖なる法のもと形作られた生について、現代人について」歌う、と記しています。ホイットマンは、当時の科学的知識を貪欲に吸収しながら、自己の複合性と地上の生命全体の発展に関心を寄せました。一人一人を草むらのなかの一枚の葉と見なす彼は身体や性行動を賞揚し、また死を恐怖ではなく、大いなる生命の一部であると考えたのです。
ホイットマンの詩の対象は、後年には物質世界から精神世界へと移行していきます。彼の詩は空前の物質的繁栄と社会的腐敗の共存する金めっき時代のアメリカの頽廃を相殺し、「美しい創造」を果たしてくれる神との神秘的合一を指向しました。軽佻浮薄さや卑劣なずるさを批判し、時代に抵抗しようとする彼の試みは、詩の具体性を失わせ、理想の実現を未来へ先送りしたとも言えるでしょう。ホイットマンの言葉はあくまで「民主的」であることを標榜しつつ、今なおその矛盾を私たちに向けて問いかけています。
~~~~~
以下年代順。
1920年代
48■Keep My Skillet Good and Greasy
俺のフライパンはいつも料理と油だらけ──アンクル・デイヴ・メイコン UNCLE DAVE MACON (1924)
10■Jesse James
ジェシー・ジェイムズ──ハリー・マクリントック HARRY McCLINTOCK (1928)
55■Old and Only in the Way
老いて迷惑なばかり──チャーリー・プール CHARLIE POOLE (1928)
15■Whiffenpoof Song
ウィッフェンプーフ・ソング──ビング・クロスビー BING CROSBY(1947)
18■Poison Love
ポイズン・ラヴ──ジョニーとジャック JOHNNIE AND JACK (1950)
03■Without a Song
ウィズアウト・ア・ソング──ペリー・コモ PERRY COMO (1951)
22■The Little White Cloud That Cried
泣いた小さなちぎれ雲──ジョニー・レイ JOHNNIE RAY (1951)
家へおいでよ──ローズマリー・クルーニー ROSEMARY CLOONEY (1951)
05■There Stands the Glass
そこにグラスがある──ウエブ・ピアス WEBB PIERCE (1953)
ユア・チーティン・ハート──ハンク・ウィリアムズwithドリフティング・カウボーイズ HANK WILLIAMS WITH HIS DRIFTING COWBOYS (1953)
アイ・ガット・ア・ウーマン──レイ・チャールズ RAY CHARLES (1954)
07■Tutti Frutti
トゥッティ・フルッティ──リトル・リチャード LITTLE RICHARD (1955)
ユー・ドンド・ノウ・ミー──エディ・アーノルド EDDY ARNOLD (1956)
28■On the Street Where You Live
君住む街角──ヴィック・ダモーン VIC DAMONE (1956)
30■Ruby, Are You Mad?
ルビー、怒ったのか?──オズボーン・ブラザーズ OSBORNE BROTHERS (1956)
04■Take Me from This Garden of Evil
この悪の園から連れ出してくれ──ジミー・ウェイジズ JIMMY WAGES (1956)
08■Money Honey
マネー・ハニー──エルヴィス・プレスリー ELVIS PRESLEY (1956)
37■Blue Suede Shoes
ブルー・スエード・シューズ──カール・パーキンス CARL PERKINS (1956)
38■My Prayer
マイ・プレイヤー──ザ・プラターズ THE PLATTERS (1956)
降っても晴れても──ジュディ・ガーランド JUDY GARLAND (1956)
54■Long Tall Sally
のっぽのサリー──リトル・リチャード LITTLE RICHARD (1956)
ビッグ・リバー──ジョニー・キャッシュ&ザ・テネシー・トゥー JOHNNY CASH AND THE TENNESSEE TWO (1957)
45■Feel So Good
フィール・ソー・グッド──ソニー・バージェス SONNY BURGESS (1957/1958)
11■Poor Little Fool
プア・リトル・フール──リッキー・ネルソン RICKY NELSON (1958)
19■Beyond the Sea
ビヨンド・ザ・シー──ボビー・ダーリン BOBBY DARIN (1958)
32■Volare(Nel blu, dipinto di blu)
ヴォラーレ──ドメニコ・モドゥーニョ DOMENICO MODUGNO (1958)
41■Key to the Highway
キー・トゥ・ザ・ハイウェイ──リトル・ウォルター LITTLE WALTER (1958)
49■It's All in the Game
恋のゲーム──トミー・エドワーズ TOMMY EDWARDS (1958)
59■Don't Take Your Guns to Town
銃は街に持っていかずに──ジョニー・キャッシュ JOHNNY CASH (1958)
23■El Paso
エルパソ──マーティ・ロビンズ MARTY ROBBINS (1959)
66■Where or When
どこなのか、いつなのか──ディオン WHERE OR WHEN DION (1959)
53■Big Boss Man
ビッグ・ボス・マン──ジミー・リード JIMMY REED (1960)
ある女──アーニー・ケイドー ERNIE K-DOE (1961)
01■Detroit City
デトロイト・シティ──ボビー・ベア BOBBY BARE (1963)
35■Blue Bayou
ブルー・バイユー──ロイ・オービソン ROY ORBISON (1963)
46■Blue Moon
ブルー・ムーン──ディーン・マーチン DEAN MARTIN (1964)
悲しき願い──ニーナ・シモン NINA SIMONE (1964)
63■Viva Las Vegas
ラスヴェガス万才──エルヴィス・プレスリー ELVIS PRESLEY (1964)
09■My Generation
マイ・ジェネレーション──ザ・フー THE WHO (1965)
夜のストレンジャー──フランク・シナトラ FRANK SINATRA (1966)
27■CIA Man
CIAマン──ザ・ファッグス THE FUGS (1967)
65■Waste Deep in the Big Muddy
腰まで泥まみれ──ピート・シーガー PETE SEEGER (1967)
みんな慈悲を叫び求める──モーズ・アリソン MOSE ALLISON (1968)
17■Ball of Confusion
膨れ上がる混乱──テンプテーションズ THE TEMPTATIONS (1970)
29■Truckin'
トラッキン──グレイトフル・デッド THE GRATEFUL DEAD (1970)
36■Midnight Rider
ミッドナイト・ライダー──オールマン・ブラザーズ・バンド THE ALLMAN BROTHERS (1970)
43■War
黒い戦争──エドウィン・スター EDWIN STARR (1970)
56■Black Magic Woman
ブラック・マジック・ウーマン──サンタナ SANTANA (1970)
21■If You Don't Know Me By Now
二人の絆──ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ HAROLD MELVIN & THE BLUE NOTES (1972)
魔女のささやき──イーグルス EAGLES (1972)
06■Willie the Wandering Gypsy and Me
放浪ジプシーのウィリーと俺──ビリー・ジョー・シェイヴァー BILLY JOE SHAVER (1973)
25■Cheaper to Keep Her
チーパー・トゥ・キープ・ハー──ジョニー・テイラー JOHNNIE TAYLOR (1973)
13■The Pretender
ザ・プリテンダー──ジャクソン・ブラウン JACKSON BROWNE (1976)
02■Pump It UP
パンプ・イット・アップ──エルヴィス・コステロ ELVIS COSTELLO (1978)
51■I've Always Been Crazy
俺はいつもイカレていた──ウェイロン・ジェニングス WAYLON JENNINGS (1978)
ロンドン・コーリング──ザ・クラッシュ THE CLASH (1979)
1980年代
12■Pancho and Lefty
パンチョとレフティ──ウィリー・ネルソン&マール・ハガード WILLIE NELSON AND MERLE HAGGARD (1983)
20■On the Road Again
オン・ザ・ロード・アゲン──ウィリー・ネルソン WILLIE NELSON (1980)
31■Old Violin
オールド・バイオリン──ジョニー・ペイチェックズ JOHNNY PAYCHECK (1986)
57■By the Time I Get to Phoenix
フェニックスに着くころに──ジミー・ウェッブ JIMMY WEBB (1996)
2000年代
もう痛まない──ジョン・トルーデル JOHN TRUDELL (2001)
ダーティ・ライフ・アンド・タイムズ──ウォーレン・ジヴォン WARREN ZEVON (2003)
ネリー・ワズ・ア・レディー──アルヴィン・ヤングブラッド・ハート ALVIN YOUNGBLOOD HART (2004)[1848年にフォスターによる原曲が出版]
2020/9/18 -ボブ・ディランは2006年5月から2009年4月にかけて、毎週1時間にわたりSiriusXMのラジオ番組『Theme Time Radio Hour』でDJを務め、音楽演奏や詩の朗読 ...
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