国王エドワード1世はなぜユダヤ人を追放したのか 佐藤唯行
イギリス千年の盛衰に重大な役割を果たしたユダヤ人の足跡を読み解いた『英国ユダヤ人の歴史』(佐藤唯行著)から、試し読みをお届けします。中世英国におけるユダヤ人の人口は、1240年頃には総人口の0.25%、総数5000人に達し、ヨーロッパ全体でも最も豊かなユダヤ人社会を築いていました。しかしその50年後、ユダヤ人追放令が下されます――。
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一二九〇年七月一八日、国王エドワード一世は英国から全てのユダヤ人を追放する命令を下した。一一月一日の万聖節を最終出国期限とし、従わぬ者を極刑に処すよう命じた。この追放令は実効力を持ったはずだ。なぜなら追放令が何度も繰り返されたフランスと異なり、英国では一二九〇年のそれ一回きりだったからだ。これが意味するところは何か。
一二九〇年の追放令以後も、ユダヤ人がまとまって英国に留まり続けたことはあり得ないということだ。出国ユダヤ人が持ち出せたものは携行可能な現金と動産だけだ。富の大半を占めた未回収債権(借金証文)と抵当不動産は全て国王が没収した。道中、何人(なんぴと)もユダヤ人に危害を加えることは禁じられ、五港市(ドーヴァーなど、英東南部にある英仏海峡往来の五つの港町)の知事は出国者の安全確保と迅速な輸送を命じられた。
国王政府は出国ユダヤ人の道中の安全に配慮したが、悪人共の餌食となる不運な者もいた。ノーフォーク州の港、バーナムから出国した一団は沖合で命と持ち物が奪われたことを史料は示している。ケント州ロチェスターの修道院で、一四世紀初めに執筆された年代記の余白に描かれた絵は、作者の想像かもしれないが、一二九〇年の夏に起きた何らかの出来事を反映しているのではないだろうか。棍棒を持ったひとりの男により英国から追い立てられる三人のユダヤ人の姿だ。二人は胸に「律法の 石ストーンタブレツト板」を象(かたど)ったユダヤ人バッジを着けている。画面中央のひとりは我が身を守ろうと片手をあげているのだ。
出国の模様については断片的な情報しか伝わっていないが、一四六一人からなる最大の出国者集団については史料が残っている。彼らはロンドン塔近くに集合し、城代の監督のもと乗船した。ひとり四ペンスの出国手数料を城代に払っているが、貧しい一二六人については半額が免除されていた。
一行はロンドンを出港した後、北仏ブーローニュ伯領の港町ウィサンに到着した。これは英仏海峡往来の典型的ルートであった。他の出国者も目的地はカレーとブーローニュの間の北仏海岸であった。移住先はパリが多かった。一三世紀末、パリのユダヤ人口一〇〇〇人の内、二〇%が英国出身の難民だったという推定もある。
彼らはパリ市内のふたつの地区、ラ・リュ・ヌーヴとラ・トラシュリに集住した。南仏に到着した難民も確認される。「英国ユダヤ人モーゼス」がマノスク在住のユダヤ人女性が所有する証文を騙し取った容疑で起訴される事件が、一三一一年に発生している。遠くはスペイン、サボイ公国へ移住した者さえ知られている。
エドワード一世が追放令を発した理由は、貨幣盗削の悪弊一掃、ユダヤ人側の担税能力低下など諸説ある。筆者が重視するのはエドワード一世にとり最も重要な支持基盤、騎士・郷紳層の不満を解消するためだったという説だ。彼らこそユダヤ人金融の主要債務者であり、最大の被害者だったからだ。
返済不能に陥った彼らから取り上げた抵当不動産をユダヤ人金貸しが大諸侯・修道院に転売し続けたことも、国王にとり黙視できぬ事態だった。大諸侯の力を減殺し、騎士層出身の官僚を手足の如く操り、中央集権的封建王政の確立を目指すエドワードの政策を阻害するものだったからだ。
エドワード一世は各州を代表する騎士たちに対して一二九〇年七月一五日、ウェストミンスターで開催される英パーラメント国議会(英下院の起源)に出席するよう六月に召喚状を送っている。七月一五日と言えばエドワード一世が追放令を発する三日前なので、これはおそらく追放についての意見を騎士たちから国王がすくいあげる機会となったはずだ。そして国王は追放実施の同意をとりつけることができたと推測できるのだ。
ここに中世英国ユダヤ社会はその幕を閉じる。しかし英国を追われたユダヤ人たちは大陸の同胞の中に融け込み、彼らと共に新たな苦難の道を歩み始める。彼らの子孫のある者は幾多の迫害、追放に耐え、再びかの地を踏みしめたことであろう。
*1 Suzanne Bartlet, Licoricia of Winchester; Marriage, Motherhood and Murder in the Medieva, Anglo-Jewish Community (Vallentine Mitchell 2009)
ユダヤ人に「救世主」と称えられたクロムウェル 佐藤唯行
イギリス千年の盛衰に重大な役割を果たしたユダヤ人の足跡を読み解いた『英国ユダヤ人の歴史』(佐藤唯行著)から、試し読みをお届けします。国王エドワード1世により英国を負われたユダヤ人が帰還を果たすのは、追放から366年後のことでした。
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英国ユダヤ史の画期、再入国(リアドミッション)は一六五六年に実現した。エドワード一世によるユダヤ人追放から実に三六六年ぶりのユダヤ人の英国帰還だった。
再入国が中世ではなくなぜ一七世紀に実現したのか。理由の第一は宗教改革以後、プロテスタントとなった英国人の宗教的敵意がカトリックに向けられるようになったことだ。つまりユダヤ人は最早「第一の敵」とみなされなくなったということだ。第二は一七世紀英国で影響力を持つようになったピューリタンたちが、ユダヤ人を特別な称賛の対象にし始めたからだ。これについては後に述べよう。
再入国の立役者は二人いる。アムステルダムのユダヤ教導師、マナセ・ベン・イスラエルと共和制英国の最高権力者クロムウェルだ。
マナセは「国際法の父」グロチウス、哲学者スピノザ、画家レンブラントと親交があったことからも一七世紀オランダの知の世界で重きをなした人物ということが分かる。彼を「ユダヤ人の英国帰還」へと駆り立てた原動力は、アムステルダム・ユダヤ社会の難民問題解決という現実的必要性だけではない。ユダヤ教神秘主義への傾倒ゆえに、『旧約聖書』にしるされた預言の解釈に没頭し到達した宗教的確信も原動力となった。それは聖地パレスチナを再びユダヤ人が取り戻すためには、地球上のあらゆる僻遠の地までユダヤ人が拡散・定住せねばならぬという宗教的確信だった。
現代人にとっては荒唐無稽な珍説だが、一七世紀ユダヤ世界では学知を結集した学問的成果に他ならなかった。この説が広まる中、南米エクアドルで「失われた十部族」の末裔(まつえい)とおぼしき「ユダヤ教の儀式を実践する先住民」と自分は接触したとマナセに語るユダヤ人探険家も現われ、期待は一挙に盛りあがった。
「古代イスラエル人の末裔は、既に新大陸にまで到達しているようだ。だとすれば聖地回復を加速させるためには、欧州に残る最後のユダヤ人空白地帯を放置してはならない」。そう考えたマナセは早速、ユダヤ人をいまだ受け入れていない北欧スウェーデンの女王クリスチナに働きかけ入国許可を求めた。
けれど主要な関心は、アムステルダムにほど近く経済規模ゆえにはるかに魅力的な英国に向けられたのだ。マナセはユダヤ人の英国帰還を求める請願をクロムウェルに提出するため、一六五五年末、渡英の許可を得て赴いたのである。マナセには勝算があった。
なぜなら当時の英国では、政治権力を握ったピューリタンの間で、マナセたちの考えとぴったり波長が合う神学思想が流行していたからだ。ピューリタンたちは『旧約聖書』の預言にもとづく独自の年代算定により、一六五六年頃、救世主の降臨が起きると信じていた。そして「申命記」二八章六四節にしるされた「地の果て」までのユダヤ人拡散を実現することが「降臨」の前提条件と考え、英国こそ最後に残された「地の果て」とみなしていたのだ。
自身も熱心なピューリタンで、この教説を信じるクロムウェルは、再入国実現を期待して一六五五年一二月、旧王宮に軍、司法、商業界の代表と神学者を集め意見を聞く国策会議を召集した。会議の流れはクロムウェルの予想に反し反対意見が強かった。外国貿易の既得権益を握るシティ商人たちが、ユダヤ商人の競争力を必要以上に恐れ反対したからだ。このまま会議を続ければユダヤ人側に不利な条件での再入国が勧告されてしまう。そう判断したクロムウェルは、問題を先送りするため会議を解散する奇策に出た。
事態を突然の解決に導いたのはスペインとの戦争勃発(一六五五年秋)の余波、一六五六年三月、英国政府が下した在英スペイン臣民に対する財産没収命令だ。この時、これまでカトリック教徒のスペイン人を装ってロンドンに潜伏していた隠れユダヤ教徒の一団が、自分たちはポルトガル出身のユダヤ教徒だと名乗りをあげてきた。「スペイン人=敵性外国人」という理由で財産没収の瀬戸際に立たされたからだ。同月彼らはユダヤ人の定住許可を求めクロムウェルに請願書を提出。筆頭署名者は隠れユダヤ教徒と気脈を通じるマナセだった。
注目すべきは、この請願にクロムウェルが何ら返事をしなかったことだ。この請願に対処するためにはまた厄介な国策会議を召集せねばならないし、そこでの反対意見も予想されたからだ。隠れユダヤ教徒側に動揺はなかった。返事がなかったことを、請願に対するクロムウェルによる「非公式の同意」と解釈する洞察力を持ち合わせていたからだ。
次に彼らが採った戦術は巧妙だった。クロムウェルが会議に諮らず自分の権限で判断を下せる、一見瑣末な願いを提出したのだ。ロンドン市、街はずれの共同墓地取得と礼拝用に一室を借り受ける許可を求め、こちらの方は無事受理され許可を得た。これこそ彼らの思うツボだった。なぜなら共同墓地と礼拝所の使用を許すことは定住を許したも同然だからだ。
かくしてこの許可は「事実上の定住・再入国許可」となった。クロムウェルは反対勢力の注目を回避しながら、暗黙裏に「定住・再入国」許可を得ようとするユダヤ人側の戦術に呼応したと言えよう。この時の許可により、ユダヤ人たちは今日に至るまで自由に英国に居住できるようになったわけだ。
以上のように、マナセはユダヤ人再入国の公式許可獲得に成功したわけではなかった。けれど彼が始めたキャンペーン活動の中から「事実上の再入国」が実現した。つまりユダヤ教礼拝を自由に催す許可をとりつけたことは、定住許可と実質的に同じ効果をもたらした。この許可は今日に至るまで取り消されることはなかった。
クロムウェルはマナセの労をねぎらうため、年一〇〇ポンドの終身年金を与えた。クロムウェルがユダヤ人に示した好意的態度があまりに明白だったため、ユダヤ人たちは彼を「救世主」と称えたほどであった。
*1 Harold Pollins, Economic History of the Jews in England (Associated University Presses 1982)
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