2026年4月13日月曜日

救貧法 Act for the Relief of the Poor 1597,1601


https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/7318617608570241011


 イギリスでは一五世紀以来、都市で浮浪貧民が増加し、盗みをはたらく事件が頻発した。それに対して、王は一方で、厳しい処罰をおこない、処刑・監禁・強制労働を課した。しかし、他方で、彼らを救済する政策をとった。たとえば、一五三一年には、王令によって貧民を病気等のために働けない者と怠橋ゆえに動かない者に分類し、前者には物乞いの許可を与え、後者には親打ちの刑を加えることとした。この王令はその後、成文法化され、後の悪名高い「救貧法」の端緒となった。


 こうして、王は、一方で監禁・感謝や規律訓練により、他方で貧民救済対策によって、中世末期から生じた問題を解決しようとしたわけである。王がこのように事態に介入したことが、イギリスにおける産業資本主義の基礎を創るものであった。それが、「自由」であると共に「規律」をもった「労動力商品」を生みだしたといってもよい。もちろん、王はそれを意識しておこなったのではない。


《彼らはこのことを意識はしないが、そうやっているのだ》(『資本論』)。


力と交換様式2022,247頁


6 国家の監視

「資本主義の精神」の形成において、絶対王政と宗教改革が大きな役割を果たした。注意すべき点は、それらが対立しないとしても、対抗し合うものであったということである。その場合、もっぱら宗教改革に注目したのがヴェーバーであったとすれば、絶対王政に注目したのがミシェル・フーコーである。たとえば、『狂気の歴史』(一九六一年)で、彼はイギリスの絶対王政の政策に言及している。


 イギリスでは、監禁の起源はいっそう古い。一五七五年のある法令(エリザベス一世の治政第十八年における第三号法令)は、「放浪者の処罰と貧民の負担軽減」の双方に関するものであって、その法令により、各州すくなくとも一つの割合で、感化院 house of correctionの建設が定められた。施設の維持は税収入によって確保されるようになっているが、篤志家による寄付が奨励されている。(「狂気の歴史』田村訳、新潮社、一九七五年)


 フーコーが注目したのは、このとき、放浪者を監禁するとともに「感化」(correct)することがはかられた点である。彼はその後、『監獄の誕生』(一九七五年)を書いたが、そこでは、「狂気の歴史」で述べられた監禁についての見方を保持しつつ、それを国家(権力)の間題として扱うようになった。その一つは「監視社会」の問題である。


力と交換様式2022,244~5頁


…王の体に触れると病(凍療)が治るという観念、つまり、「王の奇蹟」の観念が民衆の間に拡がったのだ。王権神授説が支配者層における理屈にすぎなかったのに対して、この出来事は、それまで事実上封建領主と同格でしかなかった王が、別格の存在として、直接的に民衆の心に入りこんだことを示唆している。このとき、王はたんに権力によって民を支配するのではなく、同時にそれの聖なる「力」によって民を“治療”するような存在となったのである。これはまた、絶対王政が厳重に民衆を処罰・監視するとともに、同時に、福祉・救貧をおこなうにいたったことと連関している。


力と交換様式2022, 235~6頁


エリザベス救貧法(旧救貧法)

救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年エリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている[2]。その骨子は以下のようになっていた。

枢密院(Privy Council、中央行政機関)

治安判事(justice of the peace、地方行政を司る。無給の名誉職)
救貧監督官(overseers of the poor、2-4名。無給の名誉職で救貧の実務官)

監督官は救貧税を徴収し、税は以下の費用に割り振られた。

  1. 労働不能貧民の救済費
  2. 強制労働させる懲治院の維持費
  3. 徒弟に出す子どもの養育費

エリザベス救貧法(en)の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。

この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%B2%A7%E6%B3%95


救貧法


イングランドの救貧法(きゅうひんほう、Poor Laws)とは、近世〜現代のイングランドにおいて、貧民増加による社会不安を抑制するための法制をさす。1531年に救貧が始まり、エリザベス救貧法をはじめ幾度も改正が繰り返され、結果的に福祉国家イギリスの出発点となった。イングランド救貧法は近代的社会福祉制度の先駆として模範のひとつとされ、諸外国も福祉制度の導入にあたって参考にした。

救貧法以前

ジオット画『貧民にマントを与える聖フランチェスコ』

救貧法が整備される前、特に宗教改革以前は、救貧は教会の役割であった。修道院ギルドなどで自発的に「貧しき人々」への救済が行われていた。キリスト教の伝統により、貧しいことは神の心にかなうこととされ、そうした人々に手を差し伸べることは善行であった。余裕のある者は、その寛大さを誇示するためにも積極的に自発的救貧を行った。また市民たちは競って貧民に文物を与え、それが市の誇りとされた。まずしい農民には安い地代で農地を提供することも多かった。

宗教改革の波及

宗教改革は、こうした救貧のありかたを一変させた。マルティン・ルター1520年に発表した『ドイツ貴族に与える書』で「怠惰と貪欲は許されざる罪」であり、怠惰の原因として物乞いを排斥し、労働を「神聖な義務である」とした。都市が責任を持って『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱した。カルヴァンは『キリスト教綱要』でパウロの「働きたくない者は食べてはならない(新約聖書テサロニケの信徒への手紙二」3章10節[1])」という句を支持し、無原則な救貧活動を批判した。こうした思想はイングランドにも持ち込まれ、囲い込みなどによって増えつつある貧民への視線は変わりつつあった。

沿革

プロテスタンティズムの流入は、貧しさへの視線を変容させた。貧しいことは怠惰のゆえであり、神に見放されたことを表すという見かたが広がっていった。さらに修道院解散が実施され、収入の多寡にかかわらず高い地代を要求する地主が増えた。貧民は荒野や森林に住みつくか、浮浪者となって暴動をおこすようになった。こうした状況から、救貧行政制度の必要性が意識されるようになった。


初期の救貧法

16世紀になると、浮浪者の増加やギルドの支配力低下がおこり、従来の制度が崩れつつあった。これには、農地の囲い込みが行われたためとの指摘もある。ヘンリー8世の時代(1509年-1547年)には浮浪貧民が生きるために盗みをはたらく例が頻発し、72,000人の貧民が死刑に処された。増え続ける貧民は社会問題として、議会でも真剣に討議された。

時の王ヘンリー8世は、こうした社会の変化に対応する必要を感じた。1531年、王令によって貧民を、病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年、この王令は成文法化され、これが後の救貧法の端緒とされる。それまでの物乞いを禁止し、救貧の単位を教区・都市ごとに設定した。労働不能貧民には衣食の提供を行ういっぽう、健常者には強制労働を課した。

まもなく健常者貧民への苛烈な待遇が問題視されるようになり、政府は救貧制度の充実をはかった。1572年、健常者貧民への笞打ちなどを禁じ、各教区・都市に救貧監督官をおいた。監督官は貧民の数を把握し、所轄地域から救貧税を徴収した。この制度によって、それまで自発的に寄付されていた救貧費用は強制徴発のかたちをとるようになり、都市・教区によっては救貧税を支払った者に選挙権が付与された。さらにブライドウェル(矯正院)をつくって強制労働の場を作ったり、親のいない子どもを徒弟に出すなどの制度も追加された。

ブライドウェル

矯正院はブライドウェル宮殿英語版を転用してロンドンに作られた。これが広まって各地にも同様の施設ができ、ブライドウェルと呼ばれるようになった。羊毛や鉄などを蓄え、貧民を収容して厳格な規律のもと労働にあたらせた。労働の対価として賃金も与えられたが、その労働環境は苛酷で、労働を拒否する者や脱走者があとを絶たなかった。この苛酷さは時を経るにつれてエスカレートしてゆき、刑務所と区別がつかなくなっていった。この処遇もまた社会問題となり、17世紀から18世紀初頭にかけてブライドウェルは廃止されることになった。

健常貧民と労働不能貧民

救貧行政においては、各々の貧民が労働可能な状態かどうかを判断しなければならなかった。しかし分類方法のガイドラインは存在せず、救貧監督官の裁量に委ねられた。したがって地域によって判断基準はまちまちとなり、ある教区では9割以上が不能貧民であったり、また別の教区では2,3人の例外を除き可能貧民とされたりした。こうした恣意的区分は20世紀初頭まで続いた。

エリザベス救貧法(旧救貧法)

救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年エリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている[2]。その骨子は以下のようになっていた。

枢密院(Privy Council、中央行政機関)

治安判事(justice of the peace、地方行政を司る。無給の名誉職)
救貧監督官(overseers of the poor、2-4名。無給の名誉職で救貧の実務官)

監督官は救貧税を徴収し、税は以下の費用に割り振られた。

  1. 労働不能貧民の救済費
  2. 強制労働させる懲治院の維持費
  3. 徒弟に出す子どもの養育費

エリザベス救貧法(en)の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。

この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。

https://www.y-history.net/appendix/wh0904-065_1.html

救貧法

1601年、エリザベス1世の時に制定された貧民救済の法律。社会保障制度の始まりであり、教区ごとの救貧税によって貧民を救済する内容であった。1834年に改正救貧法(新救貧法)が制定され、教区の役割は終わり、行政の仕事とされることとなったが、同時に自助が強調されるようになった。

 イギリスの絶対王政エリザベス1世の時の1601年に制定された法律 Poor Law 。当時イギリスでは、第1次エンクロージャーが進み、土地を無くした農民が都市に流れ込み、その貧困が問題となっていた。それまでイギリスでは国王が命令して教会から徴税した資金をもとに貧民に給付するというキリスト教的慈善心に基づいた慣行があったが、エリザベス1世の政府は、まず1572年にそれを法制化し、ついで1601年に全面的に改定して救貧法として制定した。これはその後のイギリス救貧法の出発点となるもので、すでに今から400年前に始まっていることに注意を要する。

エリザベス救貧法

 1601年のエリザベス救貧法の内容は、教区ごとに救貧税を設けてそれを基金とし、働くことの出来ない老人や身体障害のある人にはお金を支給してその生活を援助し、働く能力のある貧民に対しは亜麻・大麻・羊毛・糸・鉄などの原料を与えて就労させた。また貧民の子弟には技術を教えるために徒弟に出すことを奨励した。その特色として次の点が上げられている。
  • 地方の教区ごとに課税し、それを財源に働くことの出来ない「労働無能力者」を救済する義務がある。
  • 働くことの出来る「労働能力のある貧民」には出来るだけ働くようにし、「ワークハウス」で強制労働もあった。
  • 「労働無能力者」の親族には扶養義務があるとした。
「労働能力のある貧民」に対する「ワークハウス(勤労場または懲役場)」では、「劣等処遇原則」つまり、そこで働く者に対しては独立して働いている者に対する処遇を上回ってはいけない、という原則が適用された。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.3-4>

救貧法の周辺

 エリザベス時代に救貧法が制定された背景には、イギリス宗教改革によって修道院が解体されたことがあった。貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道が断たれたため、1601年の救貧法(それまでも出されていた貧民対策のための法律の集大成として制定された)では、教区(パリッシュ)がその役割を替わって引き受けることとなった。教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であり、権力の統治の末端でもあった。教区教会には司祭が赴任し、住民は教区の寄合に集い、道路や橋のメインテナンスと貧民や婚外子の措置にあたった。全国で1万ほど、平均するとこの頃の教区人口は数百人程度で、住民は互いに顔も名も見知っていた。
 救貧法と同じ1601年に、「チャリティ用益法」が制定され、貧民救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立される公益団体の法的根拠となった。中世以来、チャリティで運用されていた大学などの設立根拠もここで確定した。チャリティ法は現在まで継承されており、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間の慈善)という二本柱からなっているが、その根拠となる法律の源が同年に制定されたこの二つの法律である。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.100-101>

Episode 浮浪人乞食処罰法

 エリザベス1世の時代にはさまざまな社会政策が打ち出されたが、1598年に制定された浮浪人乞食処罰法は、矯正院を設置し、浮浪人、乞食は「上半身を裸にして体が血で染まるまで公衆の面前で鞭打ちした」後に、生まれた教区に送還して労働に従事させるというものだった。<『世界各国史・イギリス史』旧版 山川出版社 p.142>

エリザベス救貧法の背景

 エリザベス救貧法で救済されたのは、資本主義社会での貧困層ということではなく、寡婦や独居老人がその対象であった。その背景には近世イギリス社会の家族のあり方が関係している。  近世イギリスの家族は、(1)早い時期から単婚核家族であること、(2)晩婚であること、(3)だいたい14歳前後から、男女とも短くても7年、短ければ10年以上、よその家庭に奉公に行くライフサイクル・サーヴァントの習慣があったこと、の三点の特徴がある。この奉公は修行期間と考えられ、結婚しない。従って結婚は20代後半、当時の世界で見ればかなり晩婚であった。また親元にはかえらないので、親は子供に養ってもらう事はない。そのため、親のどちらかが死ねば、どちらかが独居老人となる。また当時は病気で若死にすることが多かったから、寡婦や孤児になる率も高かった。エリザベス救貧法が対象としたのはそのような寡婦や孤児、独居老人であった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.26-33>

産業革命期初期のスピーナムランド制

 18世紀になると第2次エンクロージャーが進行し、産業革命がもたらされた結果、農業社会から工業社会に移行し、工場労働者が急増したが、その労働条件は劣悪で、低賃金による貧困層も増大した。そのため、エリザベス救貧法によるワークハウスでは収容しきれなくなった。そのため、1795年にヤング法でスピーナムランド制が作られた。これは低所得者の生活費を補助するもので、パン価格と家族人数によって世帯に必要な最低生活費を算出し、所得がそれに満たない場合にその差を支給する、という制度であった。今日でいう最低賃金制度の萌芽であった。その財源は土地保有税で調達したため、土地への課税によって地主階級を没落させ、最低賃金を国が負担することで労働力を増加させて産業革命を助長する側面があった。このような最低賃金制度に対しては、逆に労働者の勤労意欲を阻害し、安易な生活に流れた労働者が子供を産めば人口増につながり経済を圧迫する恐れがあるとして、人口論で著名なマルサスは批判している。またリカードは貧困者への公的扶助を貧困者以外から取ることは、その人々の可処分所得を減らすことになり、経済成長を妨げるとして批判した。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.5-6> “社会保障か、自助か”という議論はこのころからあったわけだ。

1834年の新救済法

 産業革命が進行し、資本家層が力をつけてくると、マルサスやリカードに代表される救貧法・スピーナムランド制に対する批判は徐々に強まり、1834年に救貧法は改定されることとなった。この新救貧法は、
  • スピーナムランド制は廃止。
  • ワークハウス以外での勤労者の救済を厳しく制限、働くことの出来る人には働くことを強制し、それを拒否した場合は厳罰で臨む。
  • 地方の教区ごとの救貧対策を改め、恒久的な中央救貧行政局を設置。
 このように新救貧法はアダム=スミス以来の経済自由主義の思想によるもので、労働者救済の側面では大きく後退した。労働者保護の立法は、同時に進んでおり、1823,4年には労働者の団結権の容認、1833年には工場法も制定される中で、この新救貧法に対して労働者は強く反対した。しかし、内容においては後退したものであったが、これによって教会や地域を単位とした救済ではなく、国家が統一的な施策で対応するという社会保障制度への第一歩となったという評価もある。<橘木 同上 p.10-12>  → ウェッブ夫妻 国民保険法 イギリスの社会保障制度

参考 1834年救貧法の評価

 現代イギリスの著名な歴史家の一人であるホブズボームが産業革命後のイギリスを分析したその著『産業と帝国』で、次のように言っている。
(引用)社会保障が労働者自身の努力に依存していたかぎり、したがってそれは中産階級の基準で見ると経済的に非能率になりがちであった。それが、わずかばかりの公共の援助を決定する彼の支配者に依存しているかぎりでは、それは物質的救済の手段であるよりはむしろ、堕落と抑圧の機関となった。1834年の救貧法ほど非人間的な法律はほとんどない。それはあらゆる救済を外部の最低賃金よりも「望ましくない」ものとし、貧民をその貧困のゆえに罰し、より以上に貧民をつくろうとする危険な誘惑からかれらを遠ざけるために強制的に夫と妻と子をひきはなして、監獄のような授産場に救済を限定したのである。それが完全に実施されたことはなかった。というのは貧民がつよいところではかれらはその極端さに抵抗したからであり、やがてそれはわずかながら刑罰的ではなくなった。しかしそれは第一次世界大戦の前夜にいたるまでイギリスの貧民救済の土台となっていたのであり、チャーリー・チャップリンの子供の時の経験は、ディッケンズの『オリヴァ・ツイスト』が1830年代のそれにたいする民衆の恐怖を表明したときと、ほとんどそのままであったことを示している。<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.106>
 トーマス=グレシャム Thomas Gresham 1519?~1579 はイギリスのテューダー朝の全盛期、ヘンリ8世からエリザベス1世に仕えた役人で、グレシャムの法則-”悪貨は良貨を駆逐する”-を提唱したことで知られる。

「悪貨は良貨を駆逐する」

 ロンドンの商人の家に生まれケンブリッジ大学で学んだ後、貿易に従事して財をなした。ヘンリー8世の代理人としてオランダで活動した後、その後のチューダー朝諸王の財政顧問となった。外国為替の業務に通じるうち、イギリスの良貨が海外に流出し、国内では悪貨が流通していることに気づき、前代のヘンリ8世の時、財政窮乏のために貨幣の品質を落として濫発したことが原因だと考えた。そこで、1560年はエリザベス女王に提言して新しい通貨を鋳造し、現行の低品質の貨幣を回収し、その名目価格よりも多少低い割合で新しい貨幣と引き換えた。また、金銀の交換比率を一定にして、ロンドンに王立為替取引所を創設し、通貨の取引を安定させた。
 グレシャムの法則とは、品位の異なる2種類の貨幣が同時に流通すると、質の悪い方の貨幣が通常の取り引きに用いられ、質の良い貨幣は貯えに廻されたり、鋳つぶされて海外に流出してしまうことによって、国内で流通するのは悪貨だけになってしまうと言う経済法則を言っている。

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